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現代の帝王学入門 1
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現代の帝王学入門 1

現代の帝王学入門



「魚の楽しみを知る」と『荘子』にある。荘子と、宋の宰相・恵子(けいし)の問答である。
 荘子は「私は魚の楽しみが分る」というと、恵子は「魚でもないのに、どうして解るのか」と反論。
 すると荘子は「君は私が魚の楽しみを解っている事を知っての議論だ」と反撃し、もっと自然に学ぶ事だと諭した。



 現代に活かす往時の帝王学。
 人は人生を送る上で、困ることは一度や二度ではあるまい。困窮することは、人生につきものである。
 そのとき人間はどうするかで、その人間の真価が現れる。
 この世は作用と反作用の世界。作用に対して必ず反作用と言う現象が起こり、作用分、反作用で代償を払わねばならない。
 自分を活かすには、単に真面目とか、正直を売物にしても、無力な善人では人の評価は集まらないし、人望を得ることも出来ない。何しろ、評価や考課の対象はそれだけではないからだ。
 この世は表裏の拮抗で成り立っている。
 表の世界を「清規」といい、裏の世界を「陋規」というルールが働いている。
 帝王学を現世に活かすのであれば、当然、陋規を把握していなければならない。したがって、問題は陋規を知っているか、否かだ。
 言及すれば、この世の構造は清規と陋規の二者で吊り合っているのである。


●国民寡民

 国を治める為政者が国民生活を安定させないで、処罰ばかり厳しくするのは人民を無視した遣り方である。
 逆に考えれば、当今のように犯罪者が殖える現象は、人民の心を安定させるだけの生活基盤を、その国の経済力が保障できず、民主主義が正常に機能していないという事だ。
 個人でも組織でも国家でも、奢るものは亡ぶ。現代人は科学万能主義の上に胡坐をかいてどこか奢っていまいか。侈傲の者は亡ぶ。肝に銘じたい。
 亡ぶ原因に無限を浪費しているからだ。
 奢りには思い上がりと拡散膨張がある。
 一方、慎みを知れば倹する方向へと働く。
 『老子』の国民寡民は、これに回帰する。帝王学には『老子』の思想が多分に取り入れられている。何も朱子の『近思録』や、唐の太宗が群臣と政治上の得失を問答を集録した書『貞観政要』のみでない。
 侈傲の者は亡ぶ。
 これは「守成」に誤りがあったからだ。事業体は創業者以降になると働きが鈍くなる。その原因は二代・三代が守成を知らなかったからだ。



●晩成は易く、晩晴は難し

 世の中には易きことと難しきことがある。
 「晩成は易く、晩晴は難し」
 この言葉を真に理解したら、現代人の老後は大きく様変わりするだろう。後継者の大事である。
 晩成は作す事により至り得るもの。晩晴は為る事により開け来る境地に到達するもの。
 覇道か王道かで、晩成と晩成の違いが出る。

 金・物・色の境地か、自他の魂の満足の境地か。帝王の道は、後者の王道である。
 『呻吟語』によれば「忍と激には禍福の分かれ目がある」という。
 忍は辛抱すること。
 激は激昂し暴走すること。
 則ち、忍と激には禍と福の分岐点がある。己の人格を高めようと思えば、何事もみな肚に納める器が大事だ。

 一旦、肚に納めたら滅多に吐き出さない。これが人格を形成する胆識となる。
 胆識を練れば滅多にグラつかない。不動の姿勢が取れる。
 あたかも、姿勢にして動かざる者は未だに有らざるなり」の至誠である。この至誠の持主を義人と言う。 単なる善人でない。可もなく不可もなく無力で何もしない善人でない。至誠の義人だ。
 人間と他の動物との決定的な違いは「尊敬する気持ち」と「恥を知る心」を人間だけが持っているという事である。
 裏を返せば、この二つのうち一つでも欠けたら、人間失格であり、ただの動物という事になる。
 日本では昔から恥を知る心、則ち「廉恥」が厳しく言われてきた。弱者を労る惻隠があった。



●商いの風流

 商いを「商売」と誤解している人は多い。
 誰もが「売って儲かる」と考えている。
 しかし、売って儲かる商売をやれば、最後は薄利多売の値引き合戦を遣らねばならなくなる。値引き合戦に狂奔した航空会社が倒産に追い込まれたのは、つい最近の事であった。誰の記憶にもあるだろう。
 本当の商いは売って儲かるのではなく、「買って儲けが出る」のである。ここに『大学』の「徳は本也、財は末也」が働いている。
 徳無くして商売を行えば、結局、顧客離れが起こり、一時的に蓄えた財は瞬く間に霧散する。
 買って儲かる。

 古来からの商いの基本であり、「商い」と「商売」は似たようなものだが、実は商いが「義」であり、商売は「仁」である。義は不動だが、仁は流動的である。
 流動するものは常に変化して、時代と流れに合わせねばならず、やがて適応力を喪い、無慙に倒産する事がある。合理的で効率的かつ経済的なことばかりを主体にすれば、分刻み、秒刻みの時間ばかりに追いまわされて多忙を極め、肝心な余裕という風流が喪われるからだ。当今の多忙時代は風流と言う余裕を喪ったための社会現象である。
 商いにも風流が存在するのだ。

人には言いたい事が山ほどある。
愚痴や小言から始まり、不平不満、人の悪口、上司批判、政治批判、そして苦情。
この中で一番多くの「利」を含むのは、苦情である。
特に顧客からの苦情は、未来を支える万斤の重みを持つ『大福帳』である。苦情の一つ一つに改善の余地が残されているからだ。


●この世での邂逅

 老若男女を問わず自分の茶菓子等は持参して、「風流と風雅」と言う教養を身につける会である。特に少年少女は、いま風流を学んでおくと人格形成に大いに役立ち一目を置かれる。
 人の世は「邂逅」の世界。人との出遭いがその人の運命を決定する。この出遭いを単なる道ででの擦れ違いに終わらせるか、その後の縁に結びつけるか、この二者択一の運命において、自身の運命を大きく左右するものとなる。

 世の中には、初めて遭ったのに随分といい印象を受ける人がいる。あとでその人の素性を訊いたところ大していい家に生まれた訳でないのに、また血筋もいい訳ではないのに、この人とは後々までに付き合って生きたい人物に思える事がある。それほど爽やかさを感じさせる人がいる。
 では、そういう人はどういう素性を持っているのか。これを分析してみた。
 まず一点。幼少時代から親が風雅を嗜んでいたので、それが自然と身につき、親の背中に学んだ。
 次に二点目。幼少期から少年期、少年期から青年期に至る過程で、芸道などを学び、その自己修養が出来た。
 更に三点目。幼児期から食物の正しい自然の旬の味を教わり、正常な味覚が育った。この三点が挙げられよう。そして成人に至るまでの過程で何を学び、何を習得したかである。つまり、自己啓発の原点である。 この原点が確りしていれば、成人になっても人から侮られることはない。また既に成人に達していても、手遅れと言うことはない。何事も、良いと思ったら倣い慣れることである。手遅れと言うことはなく、学び始めた時点で人格が徐々に向上していく。

 寂寥の世界から「静なること」を学ぶのも愉しい。例えば茶の湯だ。
 「茶の湯の世界は人生のおける寂寞たる曠野の沃地である」と、岡倉天心は言う。
 曠野を旅する人生にあって、茶室はひっそりとした味わいを与えてくれる憩いの場で、心を癒してくれる空間である。こういう場に浸るのも愉しい。作法を知らなくても愉しむことに大きな価値がある。魂が安らぐからだ。そこに癒しの世界がある。
 和敬清寂こそ、茶の湯の宇宙律。
 和で心を和し、敬は心の表敬。清寂は自然との調和と拮抗をいう。



●惻隠とは何か

 古式に則った文武の儀が消えつつある。かつて日本人の根幹を成した魂の拠り所は風前の灯。
当今注目されるのは芸能界と地続きになったスポーツ的なものばかりで、武は礼に始まる礼に終わるというのは幻想に過ぎなくなった。礼儀正しいと自負しても、それはその団体にしか通用しない恣意的な習慣である。

 尚道館は三十年前、個人が財を擲って自前で建てた道場である。その当時、フランスに行っていた弟子が、久しぶりに里帰りをして驚くことを言った。
 「日本の子供達は日本の武術を遣っていると思ってましたが、芸能界に地続きのスポーツばかりしている事に唖然としました。今の日本人はどうなってしまったのでしょうかね」と、呆れたふうだった。
 そして、かつての日本武道は芸能界の一部に変貌したことを嘆いていた。この種類の武道が芸能界と地続きになってしまったからである。
 そのため、口では「武士道云々……」をいうが、それを口にする人に限って、武士道の何たるかを全く理解していない。

 『孟子』の唱えた「惻隠」すら知らない。
 惻隠とは弱者を労ることで、肩で風を切って蛮勇を示すことではあるまい。
 虐げられた者、弱い者、老いた年寄りや小さな子供に慈悲の心を示し、自らの行動として、そういう人に手を差し伸べることを自らが示す。これが武士道であり、蛮勇と心得違いするものでない。惻隠の心だ。
 礼儀とは、そこに存在するのである。
 いま果たして武道をしていると自負する人に、そこまでの謙虚な礼儀を知っている人が如何ほどいようか。

 由来、武道は「礼に始まり、礼に終わる」といわれてきた。
 その一方で、世人は武道における「礼儀正しさに」の何某かの期待を掛けているようである。あるいは武道人そのものが、礼し対して何某かの自信を持っているようである。だが、幻想である。
 当今の武道人の大半を見て観ると、まさに嫉妬の世界。嫉妬が爆発して他武道や他流を詰り合い、自由の武勇だけを誇らしげに語っている。これでどうして、礼儀正しいといえようか。
 広汎に武道界を見渡したとき、一部の少数の本格派と例外的な礼儀作法を重んずる一部の団体を除き、世人が日本武道に期待する期待値は皆無で、それは全くの幻想に過ぎない。何故なら、世の識者といわれる文人から殺伐をしたところを一等も二等も蔑まれて見られているからだ。

 文武は両道でなく、ただ「文」の後に「武」が続くという序列でしか考えていないのである。つまり「文・武」なのだ。「文=武」は両道ではなく、あるいは同格でもないのである。一等も二等も下に置かれている序列の「文・武」だ。
 また礼儀正しいと自負していても、その礼儀は、その団体にしか通用しない恣意的な単なる習慣であり、礼儀とは無関係な「挨拶」程度に過ぎないのである。単に武道人の行動を表す「礼儀正しい」という言葉だけが習慣として遣われているのである。いわば後輩が先輩に対してする挨拶と「言う掛け声」に過ぎない。
これでは日本武道は廃れるも当然で、武道とスポーツ格闘技が同じレベルのステージで競い合っているように映るだけである。少なくとも識者はそう観ている。
 ここにきて、日本人は芸能界との地続きを抜きにして、根本に戻り「求道とは如何なるものか」を再考しているときに来ていると思うのである。

 精進の価値観が芸能人と同様に、世の芸人として世間に賞賛されることではあるまい。
人が見ていない、観客もいないところで、黙々と地味に、静かに精進を積み重ねてこそ、真の武道人だと思うが、これに気付いている人が如何ほどいるであろうか。
 当今の「一億総芸能人」の旋風の中、目立ちやがり屋とか、有名人とかから離れて、往時の日本人が培った真の「武の道」を真摯に求道したいものである。


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