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ひと夏の奮闘記(下) 4

人間は地の上を歩く生き物として、姿勢の大事だある。姿勢が崩れていては歩くにも、走るにも、あるいは泳ぐにも支障を来す。
 そして姿勢の大事は、いかにして腰骨の上に脊柱を垂直に立てるかにある。これは、仏像の坐像を見れば顕著である。
 仏像坐像は前から見れば腰骨の上に脊柱が垂直に立っている。また横から見て、脊柱がゆるやかなS字カーブを描いて真っ直ぐに伸びている。その姿勢に猫背はない。首は前に落ち込み、脊柱上部が亀背
(きはい)になっていない。
 腰骨の上に脊柱を確
(しっか)り垂直に立てる。これが亀背にならずに済み、また亀背を矯正するコツである。性格的にも、こだわる人は亀背が多いようだ。
 静中に動あり。動中に静あり……。人間は常に静動を交互に繰り返している。この中に畳一畳で寝る姿勢と、畳半畳で起
(た)つ姿勢がある。


●ふるさとの訛なつかし

 わが先祖のは、忌まわしい過去がある。呪われた過去の事である。伝説のように伝わっていた。
 以前、姉と話したときのことである。
 「姉さん。遠い先祖のことだが、岩崎家の忌
(い)まわしい話、知っているか」
 私は妙なことを切り出していた。
 「あの千里ヶ浜までのこと?」
 「そうだ」
 「以前、お婆さまから聴いたことがある」
 「そうか。婆ちゃんから聴いて知っていたか」
 わが岩崎家には忌まわしい伝説がある。男がみな絶えるという話である。
 「お父さんが言っていたことがあったわ。武門は、それなりに責任が大きいと……」
 そういった姉の胸の裡
(うち)には、幽(かす)かに愁色がちらついていた。
 わが先祖は、武門としての輿望
(よぼう)を掲げていたのか。
 「どういうことだい?」
 「武士の家は、士農工商の頂点にあるでしょ。だから禄高に関係なく、自分の行ないは糺さないといけないということをいつも言っていた。この頂点にあるということは、死んであの世にいった後でも、批判の的に晒されるということ」
 「親爺
(おやじ)は、そんなことを言っていたのか」
 「そしてね、批判に晒
(さら)されるのは、その時代に生きた人でなく、もっと後の時代の子孫が、槍玉に上げられるんですって」
 姉の話すことが、何となく理解できた。しかし聴くと、どこかつらい。重苦しい感情に襲われる。その度に不安の翳りが顕われるのである。
 良家とか、家柄などといって、その家とは、他家があってのことである。他家によって成り立っている。他家がなければ、良家も家柄もない。
 岩崎家の古い家系図によると、文化年間
(1800年代初頭)に、岩崎嘉右衛門之丞貞幸(かえもんのじょう‐さだゆき)なる人物が居たことになっていた。
 岩崎家の先祖は、財団法人・松浦史料館の江戸中期から後期に懸けての
記録によると、平戸藩中野村代官(馬廻役と同格であるという)であったと謂(い)われる。この頃、この先祖は大層な金持ちだったという。
 登城できない御目見
(おめみえ)の上士ではなかったか、米相場を遣っていたために、蔵に小判が唸(うな)っていたという。半士半商の武士だったという。この頃から石高株を買って、下士から上士の伸(の)し上がっていったという。つまり家柄と身分を買ったのである。
 だがそれだけに、他人
(ひと)に怨まれたのかもしれない。

 江戸期の士農工商は一般に身分と思われているが、正しくは身分ではなく職業である。
 武士を上位から並ぶ四民の身分と定義されているが、それは近代の歴史学者による江戸時代を封建時代であるとする身分観念のうえに並べただけのことであって、本来は江戸期の封建時代も、後の歴史学者の歴史区分の定義に過ぎない。則ち、武士は身分でなく職業なのである。武士が厭なら百姓にもなれたし、百姓がいたなら職人になったり商人になったりできた。また商人から別の職業に鞍替えすることも出来た。したがって、四民間は自由に好きな職業に就けた時代でもあった。要は、徳が有るか無いかの話である。

中野村代官であった岩崎家の石高を現す『縁米帳』には、僅か三石から十五石の下級武士だった。(財団法人・松浦史料博物館提供)

 古い系図をもっている家は、それなりに先祖の遺徳が利いているからである。家と家柄を保持するには遺徳の有無は必要なのである。旧家で長く続く家ほど、先祖の遺徳が問われた。
 こうしたことを踏まえれば、今の自分が批判の的に晒
(さら)されたり、詰(なじ)られたり、謂(いわ)れのない中傷誹謗の的に晒され、指弾されたりするのは怨みを買われているということが考えられる。先祖の汚名が今に浮上している場合もある。
 私も、そのように指摘されれば、
《もしかすると》という気持ちが起こらないわけでもない。これまでの人生を顧みて、どう考えても不当な攻撃があったり、烈しい批判に晒されるのは、いまこれを自らが受けて、果たしていかなければならないことだとも考えたりする。
 遠いむかし、先祖はどこかで、誰かに怨みを買うようなことをしなかったか?……、それを一応疑ってみる必要がある。それが、武勇の類
(たぐい)であっても、葬られた者の怨みは残っていよう。殺されたことへの怨みは深いのである。

 「じゃァ、親爺はそれを骨身に滲
(し)みて感じていたということだな」
 「そうかもしれないわね。わたしが大学の頃、新海先生の中国史の講義で、徳の話を聴いたことがあるの。
 秦に滅ぼされるまえ、趙
(ちょう)と韓(かん)という国があったのは、あんただって知っているでしょ。この二つの国は、中国の戦国期、戦国七雄に数えられた二国で、秦が顕われる前は、一時強盛を誇った大国だった。
 しかし、秦の始皇帝が顕われたことで、その家声は終熄
(しゅうそく)するの」
 「それで?……」
 私がこう訊くと、姉は少し微笑を放って、「歴史の中で、自らがどういう立場にあるか、よく考えなければならないということよ」と、諭すように言った。
 「自分の立場ねェ……」
 「つまりね、日本史で言うと、これ、考えてみて……。近現代史だけでも沢山あるでしょ」
 「なるほど、そういうことか」
 「そういうことなの。なにも中世以前を探さなくても、人間のすることですからね。沢山あるでしょ」
 戦争では命令一過で、簡単に人を殺してしまうのである。この殺人に怨みが派生しない分けがない。
 手柄も、この裏返しにある。功績は遺恨と表裏をなしているのである。

 誰が言ったかは憶
(おぼ)えていないが、はっきりとした口調で、異次元の話を聴いたことを憶えている。その聲(こえ)は囁くようでもあり、論破したようにも思う。
 それはいつだったか……。
 確かにその聲はいった。
 生地は死地の中に在
(あ)り、死地は生地の中に在ると……。そのように、はっきりとした口調で言った。それがいつだったか憶い出せないのであった。
 それにしても、この静寂はどういうことか。この静けさは死の世界を髣髴とさせるでないか。何もかもが死に絶えたと思わせる静寂。息を潜めている静寂でなく、死に絶えてしまった静寂……。
 なぜそういう記憶が脳裡
(のうり)に残っているのだろう。なんという寂しい空間だろう。はたして人間がひとりで生まれて、ひとりで還っていく空間の中に居るのだろうか。私はそういう静寂に引き戻されて、寂しさのなかで眼を醒ました。
 ふと時計を見ると、午前二時……。昔でいえば草木も眠る丑三
つ時(うし‐みつどき)である。遅くまで話し込んでしまっていた。
 この夜、私と姉は覆蔵
(ふくぞう)なく語り合ったと言えよう。


 ─────三年E組とA組の一人は、いま平戸口に着いた。
 新海教授のチャーターした貸切バスは暮れ泥む夏の夕刻、日本最西端の平戸口に到着した。そして、此処から先は田平渡しとなる。フェーリーの乗って平戸島に渡るのである。その渡し場まで至る田平渡しの乗船場まではバスに乗って向うのである。この間、おおよそ10分程度であろうか。歩いても大した距離ではない。
 私は平戸に帰ってくるたびにバスの乗って往くのだが、天気のいいときなどは、この距離を散策しながら歩いたものである。
 嬉野からの貸切バスは、此処までとなる。これまで同行してくれた『西肥ツーリスト』の水田さんが、回送バスとして、此処で折り返し、嬉野に戻るのである。この人とは、此処で別れることになる。
 オンボロバスだが、よく三十三名の生徒と私たちを無事に届けてくれたことに感謝した。人間の道具としての乗り物でも、感謝して労れば、このように立派に使命を果たしてくれるものである。道具は大事にして遣うものだと古くから言われる格言である。
 「お世話になりました」と、バスに頭を下げたい気分だった。

 長崎県平戸市……。かつては北松浦郡といわれた地域である。そして、私の生まれたところが、平戸市新町十番地である。
 平戸口から田平渡し。更に平戸桟橋への乗合バスと渡し船……。コースとしては短い時間だが、いつ来ても郷愁を感じるのだった。子供の頃に遊んだ私の足跡が至る所にあるからだ。
 どれもこれも懐かしい。懐旧の念が湧く場所だった。
 此処は、また松浦
(まつら)平戸藩の五万六千石の城下町である。佐世保市、北松浦郡、松浦市、壱岐郡などを統括(そうかつ)する約一千平方キロの領土を持ち、実質的には六万三千石を有していた。
 松浦家の中でも、特に江戸後期の平戸藩第九代藩主松浦静山
(せいざん)は名君として知られる君主だった。
 『甲子夜話
(かっしやわ)』などの随筆家としても知られ、財政改革ならびに藩校維新館(のちの猶興館)設置など治績を挙げている。更に、心形刀流の剣術の達人としても知られる。

山頭火の句に「おもひでがそれからそれへ酒のこぼれて」というのがある。
 酩酊に浸れば、遠い昔の想い出を紡ぎ出すようである。

 田平渡しの乗船場から、その先の平戸を遠望した。此処からフェリーに乗るのである。既に船は着いていて乗船を開始していた。車などが続々と乗船を開始していた。
 「乗船前に、話がある。いまから参謀会議をする。頭脳を集めろ」
 私はホームルーム議長のみどりに命じた。
 此処に真帆と初音、それに真知子が直ちに集合した。
 「集合しました」と、みどり。
 彼女たちの動きは、きびきびしていて見ていても気持ちいい。基本動作の賜物
(たまもの)だった。
 「これから正念場だ。後戻り出来ん。それは、この旅を決行したときから覚悟のうえであったと思うが、一足不去だ」
 四人の頭脳は大きな聲
(こえ)で、「はい!」と返事した。その返事に覚悟のほどが窺えた。
 「それに暫
(しばら)く、将が更(か)わる」
 指導権が、私から新海教授に移ったのである。
 「将が更われば、どうなりますか」と、みどりが具体的なことを訊いてきた。
 「策も変わる」
 「?…………」
 はたして、この疑問符はなんだろう。得心できないのか、幸先に不安があるのか。
 「しかし、ポン海は海の路を熟知し、怜悧
(れいり)で大胆さがある。そのうえ敏慧(びんけい)でもある。
 かつての軍歴から推測すると、組織というものは一度活気を帯びると、指揮官の才に、これまでまったく無関係であった外の異能も惹
(ひ)き付けるものだ。人が急成長する実態は、指導者の才による。その才を信頼して、自らも信を全うしてもらいたい」
 では、この説明はどうだろう。
 「……………」
 だが沈黙した。得心できていないようだ。あと、もう一押しいるだろう。彼女らと意見の一致が見られないようでは、今後とも支障を来す。
 私の使命は、此処に居る三十三名の生徒を引率して、最後は無事に親許に還さねばならないのである。そのためには形振り構わず赤心
(せきしん)を推(お)して、人の腹中に覚悟を決める肚(はら)が必要なのである。

 「風は季節によって変わるばかりでなく、時代によっても変わるし、その時代の経験者によっても変わる。
 したがって、それだけ長生きをして多くの経験を積み上げた人は、記憶の智慧として豊富な経験や教訓があり、だいいち積み重ねた年齢は、おれごとき青二才の経験や体験とは次元が異なる。それは歴史の中に研鑽を積み上げた記憶と言ってもいい。記憶の蔵を持っているのだ。大脳皮質に留めた知識の比ではない。
 また近い将来、その記憶の蔵の智慧が必要になり、青二才には及ばない苦渋の現実が必ず到来する。そういう生死を賭
(か)けた戦場を、ポン海は何度も素足で踏破している。おれはには遠く及ばない密かな矜持(きょうじ)がある。海路を往くには、海路を知る者でなければならない。水先案内人とはそういう人でなければならない。
 おれの企図した『常山の蛇勢』の頭と胴と尾は、一切が恃
(たの)み合うもので、それぞれは一つでも不備があれば欠陥となってしまう。互いに、能(よ)く機能して欲しいと願う。更に、相互間の有無が相通じて、始めて済(たす)けあうことが出来る。そのためには、どうしても案内人の力を借りなければならない」
 このように説明すると、四人は黙ったまま神妙に聴いてくれた。
 「なにしろ悪運が勁
(つよ)い」
 「その点は、先生と似てますね」と、冷やかすように吐露した真帆。
 私は苦笑を抑えて、更に続けた。
 「悪運の勁いあの爺さまは、九死に一生を得たのは一度や二度ではあるまい。悪運の勁い者同士、同じ志をもって、これから先の苦労を伴にする、と想えばいい。どうだろう、理解できただろうか」と、これでどうだと言わんばかりに解説した。些
(いささ)か、弁舌に熱を帯びていた。
 説明ではなく、解説まで加えたのだ。はたして、どうか。返答を俟った。

 「はい!」と、四人が気焔
(きえん)を挙げた。それは仰せの通りにするという了解でもあった。
 はたして、うまくいったようだ。軽率さを忌
(い)んで、なにも慌(あわ)てることはないのだ。
 これを私は、彼女たちが「理解した」と採った。水面下で、見えない敵と戦っている以上、一種の戦場往来であろう。実際に戦場を行き来しないにせよ、戦っていると、女でも戦術眼の善し悪しが見えるようになり、また女自身もその眼が育っていく。彼女たちは、そういう次元に達したのであろう。
 「では、解散」
 後進者は、水先案内人の指導と助言に従い、これから先の自分の歩地を確実にするには、教えに随
(したが)うだけでなく、自分なりの工夫がいるのである。
 斯
(か)くして、案内人への信は保たれた。

 人間の築いた歴史は無尽蔵
(むじんぞう)の智慧の宝庫だ。それを識(し)るがゆえに、ときに、それに囚(とら)われ、苦悩し、迷い、もがく。だが、何れにしろ苦労は覚悟の上で、いま生きている人間は、そこから先ず、足を一歩進めなければならないのである。踏み出せるか否かは、学問を積んだ堆積量による。また、学ぶには謙虚さが要り、徳の堆積も必要になってくる。単に知識をひけらかして、自惚れては、自分の器に、歴史から学んだ智慧を注ぎ込むことは出来ない。
 私は新海教授から、戦場の歩き方を真摯に学びたいと願ったのである。


 ─────いい風が吹いていた。その風は春秋の想いを運んでいた。それはまた、私を含む生徒たちの未来に向けての青雲でもあった。
 「いよいよ還
(かえ)ってきたか……。故郷はやはりいい」と、思い切り汐風を吸い込んだ。
 私は度々平戸に帰って来ているくせに、何故かこの日は感無量の独り言を呟
(つぶや)いた。望郷の念の錯覚だろうか。なぜか私の魂は、生まれ故郷を懐かしみ、やたらと恋しがるのだった。それは『身土不二』の憶(おも)いがそうさせるのであろうか。

 「先生。何年振りなのですか」
 私の独り言を聴いた真帆が、興味津々に訊き返した。
 「聴いていたのか……」
 「で、何年振りなのです?」
 「今年の四月に帰ったばかりだ」
 「なんだ。四ヵ月ぶりじゃないの……」
 彼女はいささか銷沈
(しょうちん)したのか、口調に忙しさがなかった。
 一口に四ヵ月と言う。しかし、私はこの四ヵ月で大いに変わったのである。そして、私の変化は、また生徒たちも変えた。
 かつて、南瓜畑の白粉
(おしろい)を塗った南瓜どもは、突然変異をしたかのように、見事に魔法に掛かってしまったのである。みな淑女然となった。不良少女然とした阿婆擦(あばずれ)の面影は微塵(みじん)もない。人の変化だろうか。
 その、人の変化の中に生徒たちの変わりようをみる。斯くもこのように変化したのは、何が原因か。
 おそらく私が変化したからであろう。
 三年E組の担任としての私の役目は、まず私自身が変化することを求められた。
 では、それを需
(もと)めたものは何か。それは私自身の生き方においてであろう。換言すれば、天が私に変化を要求したのである。
 はたして為
(な)し得た。今ではそう言う自負がある。

 私は最初、自分の持って生まれた宿命と言う星は、自らではどうにもならないものだと諦めていた。運命には遵
(したが)う以外ないと嘆くだけの人生を選択しようとしていた。だが、やがて宿命と運命とは違うということが解ってきた。運命は固定されていなかった。自らの意志で、ダイナミックに変化するものだと解ってきた。
 顕著なのは『易』であろう。
 『易』は解釈の仕方で幾らでも変容する。運命は、どうにもならぬものでなく、自分の意志で変えられると言うことが解ってきたのである。そこに、運命を転換できるという解釈法に行き当たったそである。それが『陰隲録
(いんしつろく)』であった。それが徐々に明確になっていく段階に、気を持ち直したのである。

 「人の変化は歳月の長さにあるのではない」
 「どういうことです?」
 さらに真帆の傍
(そば)にいた涼子が訊き返した。
 このふたりは気が合うのか、いつも二人でいるときが多かった。最近の発見である。興味の対象も、好奇心も同じ土俵の上にあるのかもしれない。
 「人が変化するとは、あたかも、これまで都会の安酒ばかりを飲んでいた者が、あるとき故郷の良質な美酒を呑んで、美味いと感じるこの再発見だ。その発見こそ、変化なのだ。見逃していたものへの発見だ。
 故郷とは、そういうものということだと思う」
 「難しい形容ですね」
 「もっと難しく言えば、醇酒
(かたざけ)とでもいおうか。良い酒は、酩酊(めいてい)も心地よい。自ずから酔ってしまう」
 「わたし、酒呑みじゃないからピンときませんが……」
 「見ろ、あの夕陽……。そして、あの夕焼空を……。綺麗と想わないか」
 「あの茜雲
(あかね‐ぐも)ですね」と、今度は真帆。
 「そうだ。哭
(な)きたくなるような郷愁だ。併せて、思郷(しきょう)の念が湧いてくる。そこで、一杯やりたくなる。ほろ酔い気分が味わいたくなる」と、私の感傷を吐露した。
 「夕陽とほろ酔いとは、どう関係があるのです?」
 「かの山頭火の句に、『一杯やりたい夕焼空』というのがある。こういう景色を見ていると、そういう心境に駆られる。何とも風流じゃないか」
 「そういうものですか」
 「そこで、一杯でも二杯でも構わん」
 「まったく意味不明……」
 「甲斐無きことをば嘆くより、浸りてうまき酒に泣け……というではないか」
 「ますます意味不明……」と、涼子は舌をもつれさせながら、実は、はしゃいでいた。私に絡むのが愉しいのだろうか。どうやら私は、そういう存在になっているらしい。なにしろ道化師だった。
 しかし、私にとっては、やはり「一杯やりたい夕焼空」だったのである。そこに、また旅愁を感じるのであった。老いたのだろうか……。否、人生の味が解ってきたと言うべきか。

 「おれは脇役だ。これからの主役はポン海。脇役の台詞は少ない方がいいんだ」
 「なにを気取っているのですか」と、涼子。
 小娘からこういわれて、私は苦笑する以外なかった。世代が違うと、此処までズレるのか。あるいは男と女の感覚の違いか。
 「では、気取りついでに酒でも買って来よう……」と、小娘の貌を見た。それは買って来てくれという眼での合図だった。はたして受けてくれるか。
 「気取りついでに、そういう眼で見ないでください」
 だが真帆は、叱声を浴びせるふうでもなかった。
 「別に恃
(たの)んでいない」
 「でも眼が訴えているでしょ。わかりました、買って来ますよ」と、しぶしぶ。
 「わかればいいんだ」
 私は財布から二千円ほどを、ふたりに渡した。はたして素直に応じてくれたのだろうか。
 「先生。まさか、わたしたちを越後獅子の親方の発想で動かしているのではないでしょうね」と、更に厳しい真帆の追及があった。
 「中
(あたら)らずと雖も遠からず……だ」と、このように躱(かわ)したが、躱しきれそうにない。
 私は彼女と話していて、毎回感心することだが、機知もあり弁智も持っている。分析力と予見力も確かだ。
 しかし、ときどき小悪魔のような悪戯をする。
 「もう……」と、可愛く拗
(す)ねた。
 「もう……の
ついでに、ポン海と添乗員さんの分もだ」
 「はい、はい」
 「どうせ遣るなら、喜んで遣れ。いいか、乗り遅れないようにダッシュだぞ。もし乗り損なったら、次の船で来い。平戸桟橋で俟っているからな」
 「他人事
(ひと‐ごと)のように言わないでください」
 真帆の言い方は、行く者の身にもなれという切り返しだった。
 「そう言われてもなァ……。おれの場合は軽傷だが、それがなかなか治らんのだ」
 「治らないのは、重傷だからです」と、そう言いつつも奔
(はし)ってくれた。
 こう言付けて、私は二人に恃んだのである。
 こういう二人に、「お利口さん」といったら怒るだろうか。
 彼女たち二人から発散される言葉の中に、しかし卑しさがない。私に対する罵倒すら、微塵もない。
 この二人もそうだが、此処に居る大半の生徒は、このままの女生徒で終わる人間ではあるまい。

 私は自身の直感を大事にする……。それは何故か。
 直感というものは、理屈や知識を超えたところに存在する。一種の超意識である。
 この超越した意識は、ときとして人生の指標として、例えば道を選択する場合、左に往くか右に往くかの決断に迫られた時に役に立つことがある。
 一方で道を誤るということは、ひとつの決断を迫られたときに、自身の直感を疑うことである。
 この「疑い」の中に、いらぬ邪推や邪心が入り込んで惑わすのである。迷えば道を誤る。則
(すなわ)ち、迷わねば素直に天の聲が聞けるのである。この聲を神風とでも言おうか。
 神風は常に吹いている。何ぴとの耳にも囁いている。しかし聴く耳がなければ、この聲は聴こえない。
 そもそも本来、神の囁きは聴けるものである。聴こえたと信じたならば、努力の方向を聲のする方に傾ければいい。それに遵
(したが)えばいい。ただそれだけなのだ。
 要は素直であるか、疑うかの二者選択の中に在
(あ)るだけなのである。
 聴こえたと信じるならば、それは直ぐに確信に変わるだろう。卑しさがないと言うのは、そのためである。
 生徒たちは、一見、私の理不尽と思える要求にも耳を傾け、聞いてくれる。これは、「信」の一字の上で繋がっているからである。ために、身を惜しまない。この二人の生徒には卑しさがない。勿論他の生徒たちも同じである。私を信じて此処まで蹤
(つ)いてきたのである。その意味で、私も変わったが、彼女たちも変わった。

 人は変わるだけでなく、時代も替わり、その変化は人までも変える。
 人の変わりようを時代単位で検
(み)れば、半世紀単位でみれば顕著になる。過去五十年を検(み)れば、その後の人間の意識がどこまで変化するか、それが顕著になる。そして、その変化は合理的に、効率よく変化する一方で、その作用に加わり、反作用が働く。反作用は、作用に対して穢(きたな)く変化するものである。
 時代の垢
(あか)で、人が汚れることである。

 さて、現代はどうだろう。
 言葉が汚れ、考え方や汚れ、思考力は薄れれば、人真似をして穢く変化していく。風流が喪われ、過去から続いた伝統は文化は、時間短縮と言う効率の中に取り込まれていく。日本語の日常会話の変化などは、その中で大きくみられ、いまでは国籍不明の言葉が入り乱れている。言霊
(ことだま)の狂いである。
 美しい大和言葉以来の言霊が乱れた……。

 流行も、時代とともに穢くなる。魂が、先祖絡みの垢
(あか)に塗(まみ)れるからだ。
 時代が下れば、人間の意識は穢く変化し、心より物へと移行する。その移行が人種を穢くし、混血が繰り返されて血が混じり、人を粗暴にし、言霊を狂わせてしていく。
 意識に変化は、人間の初々しさを奪い、本来意識下にあった恥じらいは、時代の多忙とともに、貧富の差を大きく隔て、ますます意志下の中で階級化し、家畜化し、鬼畜化する。
 その変化が、国民にどのような現象を齎すか、これを予測できる人は少ない。さらに日常と非日常の境目が曖昧になり、「ふつう」という意識に閉じ込められ、ひとたびその意識下に、意識が置かれれば、集団催眠術に掛かったようになったり、集団心理に暴走したり、その一方で永遠に人権が奪われたり、人間牧場に住民として奴隷化されていくだろう。ひとたび人間を管理し、監視し監督する檻
(おり)が確立されると、その強大な権力下に置かれ、内部警察機構により厳重に法規制され、人民による改革は絶望的な状況になって、人民の多くは階級化され、効率主義から機構化されていく世の中が出現するであろう。
 斯
(か)くして人民は檻の中の家畜となり、家畜であることすら、その自覚は喪われるだろう。変化の先に辿り着く結末かもしれない。しかし、変化する運命の転換はいったいどこにあるのか分からない。

強がりと真当(ほんとう)の強さとは違う。
 真当の強さを知る人は、愛するものがあり、守るものがある。そして、それに命を賭け、あるいは命を張ることが出来る。これは強がりでは出来ない芸当である。

 戦争体験と戦場体験……。両者は明らかに違う。
 前者の場合の戦争体験は傍観者として体験したのであって、現実には生地獄ら新聞や放送などのメディアを通じて視聴による体験をしたのであって、後者が実際には戦争の現場に居て、戦場を体験したからである。これを自分の肉体を遣って認識したのであって、そこには生地獄の凄まじさを目の当たりにして五官で体験したのである。屍体から出てくる腐敗臭、吹き飛ばされた人間の肉の細切れになった五体、変色してしまった死色などを五官を通じて認識したのである。
 しかし、不思議なことだが、平和主義とか、戦争反対などを唱える集団の中には、戦場体験者より、戦勝体験者の方が圧倒的に多いのである。
 戦争体験と戦場体験の「体験の認識」は同じ時代を生きながら、それぞれは全く異なっているのである。


 ─────ダッシュで、売店まで酒を買に行った二人が無事戻ってきた。何とか間に合ったのである。
 「いいタイミングだ」
 「大変だったんですよ」と、口を尖
(とが)らして涼子が言った。
 「いい経験をしたな」
 「先生の、他人
(ひと)を奴隷のように酷使するその人格、いったい何処から来ているのでしょうね」と、今度は真帆。
 「呆れたか」
 「いいえ。これくらいでは音をあげません」
 「いい心掛けだ」
 「先生のいかがわしい帝王学に、入れ揚げているんですもの。だけど、いかがわしいだけに、不思議な異才を感じます。それを神懸かりというか、狂っているというか、まるで河豚の毒です。でも、毒に触れてみたいと想うのは、単なる好奇心だけではありませんよ。そういう毒は、人を惹
(ひ)き付ける力をもっているのです。
 つまり、鼻持ちならない尊大さがないだけに、余計に魅せられます」
 「困ったものだ」
 私は、そういいながらも、このふたりに手を焼いているのではない。ますます気心が知れてくるのである。
 「通常の常識家でないところが、わたし好きです」
 「わたしも」
 「先生は通俗的な垢
(あか)にまみれる俗氛(ぞくふん)を嫌う質(たち)なのですね」
 「俗氛か。真帆はなかなか難しいことを言う」
 彼女は、自身に時代を動かしてみたいような、男勝りの野心があるようだった。言葉の端々にそれが顕われていた。才智を知る者は、才智を保有するものでなければならない。そう思っているのだろう。
 はたして、纏
(まつわ)りついて私に才智があるのか。あるいは異端を感じているのか。

 「先生。いいお天気ですねェ」と、突然涼子が切り出した。
 「晴れているから、今日の夕焼けが綺麗だ」
 「雨が降らなくてよかったですね」
 「おまえのお陰だ」
 「感謝してますか」
 「いつも、おまえには感謝を捧げている」
 私は気象大学校を目指している涼子に、いつも「ドシャ降りふらす気象台」と揶揄
(やゆ)する川柳を垂れ流していたが、こういう一杯やりたい夕焼け空には感謝を捧げなければならなかった。こういう夕焼けが見れたのは彼女の神通力ではあるまいが、けなげに、黙々と勉学に励む彼女の姿はいいものだった。この娘も、確実に成長しているのであった。大人と子供の相中に在って、大人に成長する足跡が確認で来たのである。それはまた、彼女たちとの訣別の時期に近付いていることだった。
 あと三ヵ月ほどで、分かれるときが遣って来る……。既に決めたことであった。
 そのためにも、『全国高等学校学力コンクール』で上位百番以内、否、いまは五十番以内を押し込みたい野望をもっていた。その野望のために、こうして艱難
(かんなん)の旅に出たのである。

 しかし、一口で「艱難の旅」という。それは換言すれば、私自身が命を張る旅であった。一筋縄ではいかない旅である。不可能に対しての挑戦であるからだ。その挑戦に、此処に居る生徒たちは心に中で同意しているのである。私と行動を伴にし、その中でいろいろな人との出遭いがあった。邂逅と言っていいものだった。
 最初、まったく手が付け難いという三年E組は、斯
(か)くも変異して、ある日、突然変化した。南瓜畑の南瓜どもが、まるで魔法でも懸かったように淑徳(しゅくとく)を得たのである。そに変化の中で、人間本来がもつ心術的な美質を検(み)たのである。
 今では、私のきつい要求も冗談を受け流すように聞き入れてくれるのである。これをユーモアを解すというべきか。そういう聴く耳を持ったのである。
 参集した彼女たちと語り合ううちに、私は自分の外の世界を感じた。そういう世界がどう言うものにあるにせよ、これまで心術的な触れ合いがなかった私は、生徒と言う対話者を得て、自らにとっては棲み易いと思ったのである。これまで独りで孤独感を募らせていたが、今はそれがない。
 しかし、それでも足らないものがある。苦難の旅でも、旅は旅である。旅をするには路銀
(ろぎん)がいる。要は金である。

 金を得るには、金持ちであることが必須条件である。つくづく金持ちにならなければならないと思う。
 自分一人の小さな幸せを求め、個人主義に奔
(はし)るのであれば、企業の歯車として自分に与えられた職務に全うし、真面目に勤め上げ、サラリーマンとして月々生活の困らないだけの給料を貰ってその枠内で、こぢんまりとして生きれば、それはそれで自分の人生を全うでき、自分主義の枠内で幸せな一生を送ることができよう。
 しかし、世の中に還元する志と理想を掲げる者にとっては、これを目指す以上、それには多くに資金を必要とする。例えば、人民への還元を目指して、荒れ狂う黄河の治水工事を為
(な)し得た白圭(はくけい)は、自分の財を投じてこれを為(な)した。
 金持ちにならねば、人を扶
(たす)けることすら出来ないのである。
 私が企てた苦難の旅も、これを実践するには、それなりの金銭を必要としたのである。これに際して、援助金もあったが、それでは当然不足した。
 そこで、私は自らの持ち物である『陸奥守宗重』と『相州住正次』の二刀
(ふたふり)を売って、菊紋に一を切った『河内守祐定』を買い、更にこれを転売して、150万円を捻り出したのである。生徒たちの路銀に当てるためであった。

 行き着く先は『帝王学』である。
 指導者の学問というこの学は、原理原則を指導してくれる師を得て、人間とは如何なるものかを学び、更に直言してくれる側近あるいは参謀を得て、名聞利達
(みょうもん‐りたつ)に陥ることがなく、また道徳的腐敗に墜落することもなく、自他を益するための学である。指導者とは、どうあるべきかを説く学問である。
 私は奇
(く)しくもその真諦に少なからず接することが出来た。この奮闘記は、これに由来するのである。そして、奉仕は奉仕したことへの見返りを求めない。
 誰かの役に立つ。それも報酬なにでである。それこそ、私にとっては誇るべき幸福であった。


 ─────船が警笛とともに後進し、徐々に桟橋を離れた。スクリューが逆回転しているのである。当然エンジン音が高くなる。
 私はこのエンジン音が高くなり、逆進して、静かに離れていく瞬間が好きなのである。子供のときから、そういう瞬間に異常な昂奮を憶えるのだった。船の始動前のこの雰囲気が好きなのである。哀愁とともにエンジン音までが記憶の中に刻まれていた。
 私は新海教授と文香さんの三人で、船のタラップを上がって二階へと移った。フェリーの左舷側のベンチに陣取った。夕陽の見える方向である。
 そして、生徒たちの群れを見ると、「伍」の細胞単位で、然も「班」単位に散らばっていた。自然と『常山の蛇勢』になっていた。これを無意識の行動規範と言うのだろうか。
 好奇心旺盛な彼女たちは、一階の客室の席におとなしく坐っているような玉
(たま)ではなかった。見聞きしてない至るものに興味を示すのである。当然そうなれば、タラップを昇って二階に上がってくる。二階の開放的な外の風景を見ながら、汐風を一杯に吸い込んで、それぞれが思い思いのことを語り合っていた。

 静かに暮れ泥む汐風は頬
(ほほ)に気持ちよかった。夕方から吹き始めた風に、はたして祥風(しょうふう)を感じていいものか……。私の心に引っ掛かる疑念であった。
 「いい夕焼け……」
 文香さんが空の向こうを見ながら、ポツリと吐露した。
 「平戸は始めてですか」
 「いいえ、何度かあるわ。政子と一緒に大学時代に」と、彼女は遠い日を思い出すように答えた。
 「では、祖母を知っていますか」
 「存じていますわ」
 姉が、かつて文香さんを紹介したのだろう。
 「観光案内では、寺院と教会のある街と宣伝されていますが、ザビエルが鹿児島に来日したついでに、平戸に立ち寄ったまで。宣伝屋の喧伝に過ぎません。むかしに比べれば、素朴さが喪われました」
 私が素朴さといったのは、かつて平戸桟橋には生月から、鰯
(いわし)の擂(す)り身の蒲鉾を売る行商のおばさんが群がって居たからである。しかし、今はとんと見なくなった。そして、地元の独特の平戸訛りもなくなってしまった。
 啄木の短歌の「故郷の訛り懐かし停車場の 人ごみの中に そを聞きに行く」という、その訛りも今は喪失していた。都会や別の地方から平戸に流れ込んできたからである。親子三代の平戸という血筋は稀であった。人が入れ替わってしまったのである。

 「でも、いいわねェ。こういう風景……」
 「教授はいかがです?……」
 「わしは文献研究にしょっちゅう来ておる。なにしろ、此処には葉山左内の子孫が棲んでおるからのう」
 かの吉田松陰も、葉山左内邸を訪れたとある。左内は当時、蔵書家として知られた人物だった。
 「そうでしたか……」
 しかし、私は小学校低学年までをこの島で育ったため、行動範囲は狭く、この人物に関しては名前を知っているだけで深くは知らなかった。
 教授は平戸で募兵すると言う。かつての部下だった人に招集をかけるのだろう。
 これから先の旅は海路を往く。教授の脳裡には旅の画策があるのだろう。この旅は、一種の軍旅を想起しているのかもしれなかったが、私には詳しく告げてくれなかった。その思惑はすべて教授の想いに秘められているのだろう。未
(いま)だに、どういうコースを辿って、何処に向うか、一切明かしてくれなかった。
 この「明かさない」ということは、私のとっても都合がよかった。他人任せで、気を揉
(も)んだり、先を案ずることがないからである。
 また、難儀に遭遇しても、私のような人生経験の少ない青二才が対処するより、経験者の智慧に縋
(すが)る方が悧口(りこう)というものである。

 「信があれば、願いは叶うものじゃ」
 「?…………」
 確かにそうは思うが……と同感なのだが、真意は不明だった。
 「岩崎くん」
 「はあ」
 「物事は、裏面ばかりを見抜こうとして、そこにばかり目を向けるのは卑
(いや)しくもある。むしろ、正面から堂々の注視することの方が男らしいと思わんかね」
 この言葉を聴いて、これまでの私の卑しさを指摘されたような気がした。
 「たしかに……」
 「裏を見抜こうとして、それにばかり注視したとしても、物事の本質を見たということにはならん。物事の本質は自分との関わり合いの中で見えるもの……」
 「はあ……」
 「ピンとこないようじゃのう」
 「例えばだ。対岸の火事を見たとしよう。それは見ているだけで、火事の本質ではあるまい。対岸にいて火の粉の飛んで来ないところにいてだ、これで果たして、対岸の火事を理解したと言えるかね」と理詰めで、鋭く斬り込んできた。
 「なるほど」
 「眼に映るものは、実際の状況とは異なるものだ。想像の中の火の粉を見ているに過ぎん。火の粉を浴びない対岸の火事は、想像の枠
(わく)を出ない。それは傍観者であるからだ」
 「眼に映るものは、喩
(たと)え物事の肯綮(こうけい)は外していないとしても、自分で感じる本質ではないということですね。安全圏にいて自己主張だけを強くして、言わば、無責任とでもいいましょうか。
 例えばですね、便所の落書きのような……」
 「そうだ。それはまた、冷めた眼じゃ」
 「その眼で、然
(しか)も、何もしないということでしょうか」
 「だが、いまは動かぬとき」
 静止することを教授は促した。
 これから進もうとする途
(みち)は凶に鎖(とざ)されているのか、それとも吉が待ち受けているのか。
 かの江戸時代から伝えられるわらべ歌の『通りゃんせ』には「往
(い)きはよいよい復(かえ)りは怕い(行きはよいよい帰りはこわい こわいながらも とおりゃんせ とうりゃんせ)」とある。この童謡は恐ろしいものに遭遇することを予告しているが、告げるのは凶(わる)い未来ばかりではあるまい。行きはよいのだが、帰りは困難であることを暗示している。

 「しかし待ってばかりで、先送りを多くすると、あとで処理に困ります」
 私の発言は、ただ童謡を信じて、その中に籠っていてはいいのだろうかという反論であった。
 「では動かぬときを、養うときと解してはどうじゃな。この間、みなの技を磨けばいい」
 いまを「静」と検
(み)ている。
 この静の中にはいといろな意味が含まれている。耐えて、蓄えるときと解してもいい。つまり、何もしないのではなく、着々と蓄えるときなのである。一見静に思える静止時期は、実は内面では活溌な生命活動をしているのである。世の暴風雨を避けて、雨宿りすることではなかった。
 こう指摘した教授は、私に忍耐が足りないと言わんばかりだった。一言で云えばそうなる。
 痛烈な皮肉だが、言われてみれば、そうかもしれない。
 「心掛けます」
 「ぎこちないのは、調和がないからじゃ。これか欠けておれば、乱れる。必ず不安に胸が染め上げられる。
 今は、みだりに動かぬことじゃ。養う時機と診て差し支えあるまい」
 「では、教授はどう読みます?」
 「まだ、敵の敷いた意中の隔心
(かくしん)が残留している。いまは、むしろそこから出ない方がいい。出れば企図が見えなくなる。留(とど)まって観察するときだ」
 「その結果、何が生じますか」
 「ここに留まるだけで、戦わず退去させることができるかもしれん」
 「そういう戦い方もあるのですか」
 私は、そう指摘されて、はッとした。
 策略を廻らせ、戦わずに退却さえ出来れば、それに越したことはない。
 はたして、そういうことが可能なのか。
 人間が行動するとき、可能か、否かを問うてはならないのである。こういう場合は「出来る!」と確信する以外ないのである。ここは一気呵成
(いっき‐かせい)しかないのだ。自らで「出来る」と確信することが、岩をも鑿(うが)つ気魄(きはく)を齎すのである。信ずるとは、そういう強さの裏付けがいるのである。

 「だが忘れてはならないことは状況判断だ。状況は時々刻々と変化する。常に、これでよいのかと、自問自答を繰り返すべきである」
 「戦わずに退去させる……。私には理解し難いことです。しかし戦わずに済めば、それに越したことはありません」
 「それが適
(かな)えば暴虎馮河(ぼうこ‐ひょうが)さえ行なうことが出来る」
 「うム?」
《妙なことを言ったぞ》
 「わしは、頽落
(たいらく)の兆(きざ)しを読むには、智慧を結集させ、忍耐強く静動を窺う。動静すら読む。あとは善を聴く耳があるかないか。そして良否に左右され過ぎれば、全体の安定を欠くことになる。崩れる構図じゃ」と、毅然と言い放った。
 そこで、私は参謀を構成する頭脳を招集した。
 戦場においては、行動が総てであるが、そこには緩急が顕われる。その中に実戦では人の生死があるといっても過言ではない。しかし、動くことの総てが、最善策と言うわけではない。山と化して、静止することも兵法の一つである。
 「毒をもって、毒を制すと言います」
 「だが、毒は所詮
(しょせん)毒に過ぎん。毒が薬になるには中和できる毒であって、毒は始めて毒を制すことが出来る」
 教授の言は、実に深い。遥かに私の思想を凌駕
(りょうが)していた。とうてい及ばない。
 「ご尤もです」
 「きみは、元
(げん)が中華に攻め入ったとき、漢民族は約九千万人が殺されたのを知っているかね」
 突然、奇怪なことを切り出した。
 これが事実とすれば、二千五百年前の孔子以来の漢民族は、どうなったのか。虐殺されて、この民族は全滅したのか。
 また革命である。例えば後漢が亡んだとき、二千万人の民が三百万人に激減した。王朝が入れ替わる度に、民の人口は百万人単位で激減した。

 新海教授の論説によると、孔子が説いた「君子の教育法」には、まず第一に、時雨
(じう)のこれを化するが如きで、ちょうど頃合いを看(み)て、雨が降るように教化をすること。
 第二に徳を積み、それを重ねて行くことを教えること。
 第三に財を徳として積み、その者の才能を伸ばしてやること。
 第四に問いに答えてやり、質問者の疑念を払ってやること。
 第五に私淑
(ししゅく)して師の教えを受講できなくとも、それを修めるようにしてやることの五つであり、これを「五教」といった。これが、可能だった時代は、後漢までだったという。
 ところが、革命思想を掲げて『孟子』が登場する。
 『孟子』の登場により、父の義、母の義、兄の友、弟の恭、子の孝は「五常」と置き換えられ、父子の親、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信と変化する。後漢時代までは、子の孝は名士としての必須条件であったが、革命思想が入り込んで以来、五常と変化した。だが、漢民族の学問であり、元、つまり蒙古の侵入により、この時代、万里の長城を越えて、北から侵入して来た蒙古民族に、約九千万人ほどの漢以来の民族が滅ぼされたという。血筋は壊滅状態になったというのである。
 こう考えると、現在の大陸に棲む民族は、殆ど死に絶えたと言うことになる。現在の中華が、それ以外の民族で運営されていることになるのだ。

 三人が中国史に興じている頃、船は平戸港に近付きつつあった。
 右舷前方に黒子島
(くろこ‐しま)が見えてきたからである。田平渡しの平戸口から平戸港寄りに、黒子島という小島がある。この島には太古からの原始林があり、これは天然記念物として知られ、島の入口には社(やしろ)が構えられている。
 フェリーが入港合図の汽笛を鳴らした。この響きは旅の情緒があった。
 「ついに着いたか」
 教授が吐露した。
 「はあ、もう時期です」
 「では生徒に、下船準備を願おう」と、指揮官の命令である。
 生徒たちは口々に「なになに、あの島は?……」とか「あそこの鳥居にある島は、どういう島なのかしら」あるいは「人は棲んでいるのかしら」などと話していた。
 「お〜いッ。降りるぞ。みんな、下船準備だ。用意しろ。では、これから先は、風紀取締役の専属担任である文香先生にお願いいたしましょう。生徒を、びしばし取り締まってもらいます」
 「わたしに遣らせるの」
 「そうです。好きなように、思いのまま取り締まってください」
 「わかったわ」と言いつつ、次の指示を与えていた。満更
(まんざら)いやでもないらしい。
 「ホームルーム議長は、全員を一階の出口に集合させなさい」と、文香さんは言付けていた。彼女は修学旅行の引率教師になりきっていた。
 「教授。今日の宿は何処ですか?……。まだ教えて頂いておりませんが……」と、私は怕々と訊き出した。
 私の怕々には理由があったからである。
 「そうじゃったなあ、何しろ秘密を厳にしておるからなァ。桟橋前の樋口屋旅館だ」
 「ガビーン〜」と、恐怖を口にした。
 まさかと思ったことが、本当になってしまった。選
(よ)りに選ってである。
 「なんだね、そのガビーン〜は?……。あの旅館は、わしがいつも使っている旅館だ。なにしろ主人は軍隊仲間であったからのう。気心の知れた仲だ。わしの部下じゃった」
 選りに選ってというのは、必然か偶然か。世の中に偶然がないとしたら、これは必然なのだろうか。あるいは運命の悪戯か……。それにしても、と思う。
 私の一番苦手なものが、あそこには棲
(す)んでいるからである。後ろめたさがあった。負い目もある。それについて、語らねばなるまい。


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