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ひと夏の奮闘記(下) 11

沈香も焚かず屁もひらず……。
 この言葉を、最も懸念したのは河井継之助であった。それは最も警戒すべき、可もなく不可もなく、小心な善人だった。
 だが、はたしてこの種の善人は有事の際、如何なる行動を採るのであろうか。逃げるのか、抗うのか……。平和ボケした微温湯に躰を浸けた個人主義では、いったどういう抗い方をするのであるか、マスコミと芸能界に汚染されてしまった当今の世には、解決策があるのか否か、甚だ疑問である。


●船酔い

 気付けば、頭上には夏空が広がっていた。とうぜん雲の形は、春とは違う。霞(かす)んでいない。何処までも青く霽(は)れ渡っている。その夏空が海にも繁栄され、西海の大海原は雄大さを見せていた。
 共進丸後部甲板には、船酔いもせず元気のいい生徒は数名ずつ固まって、それぞれに話をしていた。
 そうした中、ふと、後ろを振り向くと意外な人物が立っていた。
 共進丸の後部甲板である。高速内火艇『キリシマ』が発進した直後のことである。
 成瀬先生と小型の麗子像である。それに母親の睦子もだった。

 「どうして此処に?……」と言おうとしたら、麗子像が、「わたし、成瀬くんと平戸桟橋付近で、お買い物するのよォ」といった。
 「おい、母親。この船は機械の塊なんだぞ。こういう小さいのが、うろちょろすると危ないだろう」
 「馴れているから大丈夫よ」と、平気でいった。
 「成瀬先生まで、どうして?……」
 「わしも、平戸市外で買うものがあってな、ちょっと平戸桟橋まで乗船させてもらった。渡りに舟だ。ちと大きな舟だが……。ついでに、九十九島のスケッチでもしておこうと思ってな」
 私は彼らを紹介した。
 「そうでしたか……。おい、こちらが、おれが小学校のとき、絵の家庭教師をして下さった画家の成瀬隆三画伯だ。いま先生は後期印象派の画家として、画壇にも登場する日本でも有名なお方だ。そして、子供の頃、大変お世話になったおれの絵の先生だ。挨拶しろ。全員、横一列ッ!」と、紹介とともに、発破を掛けた。
 生徒は機敏に一列になり、これを揃えて「こんにちわ、お世話になります」と元気な聲で挨拶をした。

 「やあ、こんにちわ……。うム!これは……」と、何かを言いかけて言葉を切った。
 「どうしました?」
 私は不可解に思って訊いてみた。
 「彼女たちが、きみが指導している高校の生徒さんたちか?……」
 「はあ、そうですが。なにか?」
 「なるほど、なるほど……」
 「何がなるほどです?」
 「生きたまま品種改良されておる。みんないい面構
(つら‐がま)えをしておる。良気に溢れれいる。
 わしのイメージにぴったりの絵のモデルだ。昔の少女のようだ。ひとりずつ、絵に納めたいものじゃなァ。
 きみたち、ひとつ、スケッチさせてもらえまいか」
 成瀬先生がこう切り出すと最初、思案して困った様子をしていたが、「では喜んで……」と、それぞれが元気な聲で諒解したのである。
 「昔の少女のようだ」とは、いつの時代を指すのだろうか。少なくとも、現代から数えて十年やそこら前ではるまい。日本人が金と多忙に追われていない時代を指すのだろう。
 そして、「昔の少女」と言われて、私は思い出すものがあった。あの麗子像である。ふと、横にいた幼女を憶った。こいつこそ、品種改良されていない昔の少女ではないのか。まさに原石と言えた。
 しかし、今日は着物を着ていないし、暗がりで視たときの怕
(こわ)いような迫力には欠けていた。それに真夏の白昼に晒(さら)されていたのでは、ごく普通の幼女のように映った。

 「いいか、よく見ろ。この子が、あの有名な岸田劉生画伯の描いた生きた麗子像だ。美術の教科書に出て来るだろ。そっくりと思わんか」と、暗示に懸けた。言葉の誘導である。
 「そういわれれば、確かに……」と、誰かが乗った。やがて、この一言が連鎖するだろう。
 この驚きは「そっくり」という形容の驚きが籠
(こ)められていたが、真相はどうであろうか。
 市松人形のような、おカッパは確かに似ているといえる。
 おそらく、髪の毛だけが強調されれば、それ自体は髣髴することろがあるだろう。したがって、似ているといえば似ているし、似ていないといえば似ていないことになる。「似ている」という言葉の暗示は想像から発し、似ている領域まで連鎖し、目の錯覚まで誘発してしまうのである。
 「生きた麗子像だ」と、更に強調した。
 「ほんとうですか?」
 「ウソに決まっているでしょ。岩崎くんのウソですよォだァ〜」と、麗子像の反論。
 「その後ろが、麗子像の母親の小平睦子さん。いや、藤田睦子さん。いまは船舶の一級通信士。おれの小学校のときの同級生だ。これまで漁船の通信士を遣っていた」
 「一級通信士ですか!……」と、凄いという驚きである。
 それは、一級通信士の資格が凄いということばかりではなく、女が漁船に乗って、逆巻く並みの上で、海の荒くれ男と混じって……という驚嘆を示したのであろう。
 藤田保と結婚した睦子も、藤田の短い一生と伴にし、いまはその中の精神を受け継いで、彼女独特の独創性のなかを生き抜いているのである。それがまた、人生に創意と工夫を産み出すのだろう。憶えば、藤田保は海で死んだのではなく、睦子と伴に海の中で生きていた。


 ─────私は少年期・青年期・壮年期、そして、いま老年期に差し掛かったが、これらの時代を一貫して変えなかったことがある。それは、世の中の風潮に迎合することなく、人真似も流行も追わず、社会不適合は不適合のまま独自の個性を貫いて来たことである。それを世人は、奇人とか変人と揶揄
(やゆ)した。
 近代社会は高度に分業化されたシステムが開発されている。一つひとつが、小さな型に嵌まったドングリの背比べのような人規格品的な間ばかりを作り出した。こういう人の中に、独自の個性を確立している人は極めて少ないようである。また、独創的な生き方をしている人となると、殆
(ほと)ど皆無のようである。
 大半の人は複雑な社会機構の中に身を置き、周囲との調和を保ちながら、歯車の一部として分業された階級社会を生きている。
 私は、人間は「いつかは死ぬ」と教えた。
 しかし死は終着点であって、生きているときに招くものでないとも教えた。生きるうえで、解決するべき問題は山積みされているのである。まず順序としては目の前に迫っていることを片付ける。後回しにしない。これを等閑
(なおざり)にしては前途が塞がれてしまう。

 遣
(や)れば出来るの出はない。遣らなければ出来ないのである。それは「今」であった。先送りは赦されないのである。そう教えると、生徒たちの眼光には力が顕われた。これでいいと思う。そして、それぞれは努力する他力に誇りを持ち始めたのである。
 生徒をこのように思考の変化を齎したのも、一時的に親許
(おやもと)から離したことが、結果的には良かったと考えている。昔は、良家の子弟は親許から子供を離し、「里子に出す」というのが、確立された自己を育てるための良い条件とされた。
 私自身、学生時代から家庭教師を遣り、大学卒業後、高校教諭として一時期宮仕えをし、その後、塾や予備校を遣ったが、生徒の真の力を削いで、駄目にしていくのは、殆どが、わが子に溺愛する母親であったり、甘やかせる過保護な母親であったりした。子供の将来を半分以上が、こうした母親の口出しによって、潰されるという現場を見てきた。
 良家の子女は物心がついた頃から、わが子を里子
(さとご)に出し、親は子供の教育に対して口出しはせず、また寄宿舎のある学校では、生徒を親から隔離して切り離し、学校側の綱領と建学の綱領を発揮させ、生徒が未来、学問によって身と立たせようとする下地をつくる。その意識を若い時期に育てるのである。
 今回、私もそれが十二分に伸ばすことが出来た。いま、児童や生徒の学力が低下し、子供が子供らしくなく大人びてしまったのは、家から学校に通っている児童や生徒に多くみられる。一時的にも、親許から離すことが、生徒の自立を促すのである。

 私はある家庭を訪問して、祖父母の何れかが、孫に一万円札を出して、「これを小遣いにお遣い」といっている現場を見たことがあるが、これを見て愕然
(がくぜん)としたことがある。一万円札を小遣いに貰(もら)った孫は、これに感謝することもなく、「ちぇ、たったの一万円か」と愚痴っていたし、祖父母は祖父母で、「一万円も」という金額に満足していた。
 しかし、これには恐ろしい側面がある。これが老後の楽しみかと思うと、「日本も、本当に何処か狂ってしまったな」と思ったことがあった。
 これでは、日本は「死に体」ではないのか。年寄りが子供に介入せず、隔離されてしまったからである。
 もう今では、年寄りは、昔と違い尊敬される老人像は、何処にも見受けられなくなった。今は、間違ったことをした子供を叱ったり、世間の間違いを糾弾
(きゅうだん)する老人がいなくなってしまった。
 これも、豊かさと引き換えに、喪った魂の顕われであろう。そして、連綿と続いた日本精神が崩壊した。


 ─────洋上での成瀬先生との会話である。
 「先生は新海教授を、ご存知なのですか」
 「新海さんといえば、もと陸軍少佐どのか。かの陸軍船舶大隊司令として勇名を馳せたと言う……。その噂だけは小平君から聴いている」
 「いまは県立女子大の名誉教授です。先年まで、大学で教鞭を執
(と)っておられました」
 「ほッ……。新海幸吉といえば、書家としても、日本では有名な人だ。わしも何度か、書道の個展で作品を見せて頂いたことがある。わしの画にも、新海さんの影響が多分にある。まったく凄い人だ」
 「何処が凄いのです?」
 「そりゃあ、書家でありながら、また軍事の戦略家であり、その戦略家は特に古代中国の春秋史に詳しい。おそらく、あの人の戦略構想は中国春秋時代の古典の戦史から紡
(つむ)ぎ出されるものであるまいか」
 成瀬先生は直接には、新海教授をご存じないようだったが、書家として、また中国史の熟者として尊敬しているようだった。そこまで知りながら、面識はないのだろうか。

 人は、おのずと落ち着くべきところに落ち着くようだ。いま成瀬先生は穏やかな観念を持っている。
 私の知る成瀬先生は、世の中に対して、拳を突き出すような主張も、欲望も、革命すら企てたことがない。ただ、支那事変で片足を喪い、傷痍軍人として生きて来られたが、それに対して国家を怨んだこともない。
 素直に、わが身に降り懸った災難を、災難として捉え、この不運をいまは克服されているようだった。それだけに、人の在
(あ)り方としては、自然体で生きて来られたのである。成瀬先生は、おそらく人と物に対して画家の鋭い眼で物事を観てきたのではあるまいか。
 私の知るところ、成瀬先生は欲の寡
(すく)ない人のように思えた。野心も野望もないのである。
 生き方が、至って自然体であった。欲の寡ない眼で世の中を見渡せば、人物の評定には自ずと辛さが生じるもので、人の見方だけは狂ってないようだった。

 私は高速艇が発進されたあと、暫く成瀬先生と共進丸の船尾甲板に佇
(たたず)んでいたが、生徒たちも、まだ此処から去らず、なにやら互いに話をしていた。
 「おいッ。おまえたち。船室では船酔いで、バケツや洗面器を抱えて苦しんでいるのが大勢いると言う。看護兵として、いま直ぐ扶
(たす)けにいけ」と、ひとまずこう言って、生徒たちを奔らせた。
 「なかなかいい生徒さんたちだ。どうしても、彼女らをスケッチに残したい」
 「希望とあれば、そうしてください。私が推
(お)したい特別な生徒が一人います。こいつの人相、つまり人物評定をして頂けませんでしょうか」
 そういって、私は吉川真帆を呼び止めた。
 「おい、真帆。こっちに来い。いまから、おまえの人相を観てくれる。それも、未来を見通す眼でだ」
 こういって私は成瀬先生の前に彼女を立たせた。真帆は、一瞬躊躇
(ちゅうちょ)したように怯んだが、覚悟を決めたらしく、毅然として前に出た。それも一歩前にである。彼女の信条である。
 「ほッ……」と、驚きの聲を発した。
 「どうかしましたか。まさか、天下の凶相とでも……」と、真帆のことをからかい半分にいった。
 「いや、違う。これは……」と、成瀬先生は何かを発見したようにいった。その発見は、驚きといってもいいほどだった。
 「やはり、悪相ですか。天下を騒がすような……」
 「バカをいいたまえ。これはだなあ……」と、何か言葉を繋ごうとしているようだが、いま直ぐ適当な言葉が見つからないらしい。
 「つまり、一言でいえないような、例えば世を謀
(たば)る、その種の兇悪の相とか?……」
 「違う!これはだなあ、馭
(ぎょう)すのが難しい相だ。例えば、一夜に千里を疾る名馬にみる相だ。それだけに馴らすのが難しい。端的にいえば、この子は、教えすぎると伸びない」
 「うん、なるほど……。だから、こいつは、今一歩で、転けたんだな。要するに、小学校から中学に懸けての教師どもが、馬鹿だったということですか。言われれば確かに……」
 「思い当たるか?」
 「私が考えますに、本当の教育者は、理解が速過ぎる生徒に、何らかの示唆を与え、危険を感じてやらねばなりません。そういう場合、教師側は一つの問い、ひとつひとつに答えを用意しておくのでなく、一つの問いに複数の答えを用意しておかねばなりません。ところが、親方日の丸の教師どもは、教育指導要領のまま、無能な教育を施した。これは、もっとも最悪な選択肢だった。おそらく、そういうことで、この吉川真帆と言う生徒の人格が出来上がってしまった。それは、素直に伸びた吉川真帆ではなく歪んだ、ねじれた吉川真帆だった。そうだろう、真帆」と、訊いてみた。
 「それに違いありません。だけど、わたしは岩崎先生のお陰で、歪みと捻れが幾分とれたように思います。これからも、ご指導よろしくお願いいたします。くれぐれも途中で見離すようなことはなさらないように」
 「なんだと、こいつ……」
 「あッ!思い出した。何が最善の解答であるか、それは時機の場所が変われば、答えも違うということを教えた孫子の兵法だ。更に王の学に当て嵌めれば『帝王学』だ。つまりだ。人に仕える会社員のような連中は、一つの問いの対して、一つの答えを用意しておればいいが、これが会社役員となれば、答えは一つでは足らない。複数の答えを用意しておかねばならん。したがって、他人
(ひと)の上に立つ者は、答えは教科書通りの一つでは駄目なんだ。指令を受ける者は一つの問題に対して取り組めばいいが、指令する方は一つでは危うい。そうだろ、健太郎くん」と、同意を需(もと)めた。
 「うん、なるほど。これまで、彼女は私の強請ってきたことは、これだった。いま気付きました。彼女は、これまで、私の独断と偏見に満ちた『帝王学』を学ぼうとした形跡があります。そうだろ、真帆」
 「それに相違ありません」
 「おい、畏
(かしこ)まって茶化すな。しかし、彼女から学んだことも多い。特異な性格をしています」
 「健太郎くん。このような相を持つ生徒はなァ、育てようとすれば、並みの教師では勤まらん。異才をもつ異端者でなければならない」
 「わたしも、そう思います。なにしろ、岩崎先生は河豚
(ふぐ)の毒のようなところがあるのである。痺れさせずにはおかないのす。だがら、訳も分からず惹(ひ)かれるのでしょうか」
 「おもしろい表現だな」
 「河豚の毒に喩
(たと)えられて同意するほど、悪党道は完成していません。ほんの駆け出しです」
 「そのようにいって憚
(はばか)ることを知らない岩崎先生は、やはり人を痺れさせる毒に惹(ひ)かれるというのは確かでしょうか。
 わたし、最近憶
(おも)うんです。悪いことを出来ない人よりも、悪いことが出来て、敢(あ)えて悪いことしない。こういう側面を岩崎先生に観るのです。世間ではよくいうでしょ、あいつは悪いやつだと。
 でも、悪人というのは、よく考えると、どこが悪人なのかよく分かりません。それなのに、ある人を悪人といってみたり、よく分からないくせに、ある人を善人といったりします。この根拠は、いったい何処にあるのでしょうね。
 だから、見方を変えれば、悪を知らない善は本当の善でない。本当の善とは、悪の限りを知り尽くし、それでいて悪事を働かない。こういう人が本当の善人ではないでしょうか。わたしは、悪を知った善こそ、真物
(ほんもの)だと思います。
 世の中には、可もなく不可もなく、無力で、悪を知らない真面目で正直でと自称する善人が多過ぎます。善か悪かは自称するものではないと思います。自分に対して自覚症状を持たない人は、自分で自分のことを真面目で正直で、生まれてこの方、嘘をついたことがないと平気でいいます。こういう人こそ、実は恐ろしい人だと思います」
 「その点、健太郎くんは、運に恵まれていると言うべきか。だが、その運は悪運だがな」
 「でも悪運も、運は運のうちです。教えを乞う者としては運の強い人に教えを乞わなければなりません。幾ら物知りでも、運が弱い人から教えを乞えば、片言隻句
(へんげん‐せっく)のひとつも学べません」
 彼女のいった片言隻句とは、ちょっとした短い言葉の格言や箴言を指す。

 「ほッ……。この生徒さんは難しい言葉を知っているんだなァ。まさに彼女は逸材だ。人相からいっても、この相は大成をなす大器晩成型だ。人間はなにも原理原則だけで生きている分けでないからな。
 生きていくには、その場、その時の変幻自在の適応力を必要とする。彼女にはその才が多分にあるようだ。
 つまり、それが河豚の毒に惹かれる美食家でもあるということのようだ。痺れる方の痺れる方だが、痺れさせる方もしたたかだ。そこまた、毒を孕
(はら)む河豚の悪運の強さかもしれない。一筋縄でいかないところが、傍から見ていて愉快になる。なぜなら、健太郎くんには人を致(いた)して、人に致されずという、そういうしたたかさばある。そこに痺れても不思議ではあるまい」
 成瀬先生は妙な形容をした。つまり、人の思い通りにさせておいて、実は人の思い通りにさせないと言う駆引きである。成瀬先生はいったことは、中
(あた)らずと雖(いえど)も遠からずで、私に交渉人の才があるとでもいいたいのだろう。現に交渉人として、小平祐吉氏を招聘(しょうへい)してきたからである。参謀の席に坐らせたからである。換言すれば、これも孫子の兵法である。
 「先生は孫子の兵法を、ご存知なのですね」と、成瀬先生に訊いた。
 しかし、成瀬先生はこのことに答えず、別の方向に格言を呈した。斯
(か)くあれ示されたのである。
 「いいか、健太郎くん。比類のない人格を育てる場合、自らも鍛錬しておかねばならん」
 「それは重々……」
 「わたしも、重々……」と、真帆が相槌を打った。
 「ほッ……、きみも賛同者か」
 「違います。わたしは『帝王学』の弟子なんです」
 「おもしろいことをいう生徒さんだ。こういう生徒さんが居ると、教師生活も棄てたものではあるまい」
 「いえ、早く棄てたいのです」
 「なに?……」
 「かねがね棄てたいとは思っているんですが、なかなか棄てさせてくれないのです。なにしろ私は社会不適合ですし、だいいち教師には向いていません。この心痛、ご察し下さい」
 「冗談だろう?」
 「いいえ、まんざら冗談でもありませんよ。辞める辞めると言いながら、結局、辞めないんですもの」
 「きみは辞めて欲しいのか?」
 「いいえ。辞めたら困ります」
 「と、いうことです。この心痛、ご察し下さい」
 「おいおい。おかしなやつだなあ」
 「そうでしょ、おかしいのです。どこもかしこも毀
(こわ)れているんです。その証拠に、岩崎先生は何事も言い訳をしないんです。弁解すらしません。いわれたらいわれたままです。ご尤(もっ)もですと肯定してしまう人なんです。そういう毒を、河豚は持っているんです。わたしの痺れる気持ちも、ご察し下さい」

 真帆がこのように言ったのは、かつて私は説いた日本陽明学派の祖・中江藤樹が、武士を三段階に分けて、上・中・下の、それぞれに人物評定したことに由来する。
 藤樹の説く、まず下の武士は、例えば遅刻したとしよう。遅刻について問い質
(ただ)されたとき、下の武士は熱弁を揮って言い訳の限りを尽くす。その弁解は、昨日は遅くまで仕事をしていて、仕事が大変で、帰宅したのも遅く、就寝したのは朝方だった。それで、寝坊したなどの、自分を正当化する言い訳である。これを下の武士とした。
 では、中の武士はどういう武士か。
 例えば不可抗力で、自分では如何ともし難い理由である。これを現代流に言うなら、電車が遅れた、バスが遅れたなどである。公共の交通機関が遅れれば、ふだんは間に合う出勤時間も、遅れたことにより、遅刻するのである。これを論
(あげつら)って、不可抗力を正当化し、自分には責任がないとしてしまう。当然といえば当然だが、自分には責任がないとするのが、この中の武士の考え方である。
 一方、上の武士はどうか。
 喩え交通機関が遅れようと、地震や洪水などの天災が起ころうと、事件や事故に遭遇しようと、総て自分にありとしてしまうのである。そして、これらに理由にして、一言も弁解しない。その弁解しないことを、問い質した方は知りたいのである。だが、総ては自分にありとして、自他ともに呑む。一切言い訳をしない。

 「きみは、本当に人を啖
(く)ったやつだなァ。いやはや畏れ入った。やはり大器晩成だ。しかし、こういう少女の十年後、二十年後はどうなっているんだろう。空恐ろしい怪物になっているんじゃないかな」
 「ひとを化け物のように言わないで下さい」
 「したがって、甘さは禁物だぞ」
 「それも重々。これからは自他ともに益するために、びしびし厳しく自他ともに鍛錬します。その第一段階として、奴隷のように扱
(こ)き使うのもいいかもしれない……」
 「岩崎先生。わたしは女です。ガラス細工のような繊細なものは、毀
(こわ)れ易いから、丁寧(ていねい)にお扱い下さい」
 「まァ、考えておこう……」と、私は返事した。
 話はとんでもない方向に趨
(はし)ってしまった。
 そこに、麗子像がトコトコ遣って来た。
 「成瀬くん。向こうで、お絵かきしようよ」と、せがみにきたのである。
 今日の麗子像は麗子像らしからぬ恰好だった。先日は着物だったら、今日は洋服を来たいた。それが麗子像から遠避け、ただの藤田麗子に戻っていた。
 「うん、よしよし。では諸君、失敬」
 成瀬先生は麗子とともに、この場から離れた。
 「さて、いまからゲロ見舞いにでもいって来るか。昼メシ前に、ご苦労なことだ……」
 「先生、いい経験しましたね」
 「なにが?……」と、しぶい表情で訊き返した。
 「だって、そうではありません。陸路には兇悪は潜んでいることも分かると当時に、海路にもそれ相当の落し穴があって、それは早めに顕われたこと。陸路を進むことは、それ自体に兇悪を拾って進むことになりますが、海路では、それを拾うことはないにしても、これまで拾った物は、いま吐き出さないと先へ進めません」
 「なに!何が言いたい?」
 「これは簡単な謎掛けですよ。いいですか、先生。いまバケツや洗面器を抱えて斃
(たお)れている連中は、かつてタバコの常習者だったんです」
 「どういうことだ?」と、私はトーンをあげて訊き返した。
 「だから、体内に溜ったタバコの脂
(やに)とニコチンを、いま吐き出しているのです。まァ、清浄化されていると言うことでしょうか。喫煙者と、そうでない人の船酔いの差は、かつての喫煙者との違いにあり、これは一概にはいえませんが、船に始めて乗る人に顕われる現象ですって。勿論、船酔いは脳の感覚でも、酔う人と酔わない人の差もありますけどね。だから、バケツを抱えている人は、かつてはベビースモーカーだったんです」
 つまり一時に、誰からも煙たがられた喫煙三羽鴉である。この三人は、私が赴任して間もない頃の強持
(こわ‐も)てのスケ番である。
 原田梅子、木村靖子、梶原三智子の三名は銜
(くわ)え煙草で校内をうろつき、喫煙三羽鴉と言われた元ベビースモーカーだった。一日の喫煙本数は四、五十本を吸う常習者だった。ニコチン中毒である。この三名は船酔いの重傷状態だった。それに準ずるのが、高石祥子と香原恵子であった。この総勢五人の喫煙常習者を、校内では喫煙五人女と言われていた。
 彼女らは、言わば松本精華女学院では、教師の誰もが煙たがる札付きのワルだった。親も手を焼くほどだったという。今はすっかり改まったが、彼女たちの躰の中には、当時の置き土産の残留物が蓄積していたのである。それが、いま吐き出されようとしていた。
 「うん。心当たりがある。そうかもしれないなあ。おれが赴任したとき、3年E組の教室は、教育の現場とは程遠い、不良少女の社交の場だった。タバコの煙りで壁の反対側が見えないくらいだった。
 なるほど、船酔い大半は、船に弱いだけでなく、一部はタバコにも原因があったか。よし、これで全部吐き出して、洗い流されれば、まことによき経験だ。なんと幸先がいいことか」と予言めいたことを吐露した。

 ゲロの陣中見舞い……。
 言葉通りの悪臭の坩堝
(ゆるぼ)だった。小さな船室は吐き出したと思えるタバコの毒素のような匂い充満していた。そこでは、百合子が看護兵として、まめなめしく介護をしていた。クラスメートの背中を摩ったり、種々の注文に応えて、洗面器やバケツの取り替えに忙しかった。その動きは健気(けなげ)と言えた。
 此処に居る全員がタバコの常習者ではなく、ただの船酔いだったかもしれないが、大半は、かつて教室内で煙草を吹かしていた少女たちだった。
 船室に一緒に入った真帆は、「うッッ……」と、思わず鼻と口を抑えた。
 私も胸がむかつくほどの悪臭を放っていた。だが、幾ら吐き続けても、体内にある物以外は吐き出せない。やがて吐く物がなくなる。そうなれば、あとは恢復
(かいふく)する以外ないのである。
 これで、彼女たちは身も心もクリーンになる。心身ともに新生する……。そう思ったのである。
 「かつての愚は、改めろ。未来に向けて蘇
(よびがえ)れ。わかったな」と、私は念を押すようにいった。
 「……………」
 しかし、返事がない。沈黙した。
 「おい!わかったとか!」と、思わず博多弁の怒声。
 「わかりましたよ、そんなに怒鳴らないで下さい。あのときのことは後悔しています。頭に響きますので、どうか、お静かに……」と、みどり。
 はたして、みどりは単なる船酔いか、あるいは彼女もタバコの常習者だったのか……。真意はわからない。
 どんな善人でも、人に言えない秘密は、一つや二つはあるものだ。もう穿鑿
(せんさく)するまい。人間が改心すればそれでいいのである。
 「では、昼メシでも喰いに行くぞ。さあ、メシだメシだ。しゃんとしろ!」
 「お昼ご飯、要
(い)りません。それどころではありません。そっとしておいて下さい」と、有村亜希江。
 彼女は、同じ方角から通学をする清水紗代子と仲好しだったが、紗代子がケロッとしているのに対し、亜希江はダウンしていた。これも陸
(おか)と水上の差が顕われているのだろうか。


 ─────昼食時になった。船は急に速度をおとした。共進丸の船首の甲板にテントが張られた。日除けのテントである。その下には長テーブルが二列並べられていた。この上に食事を運ぶらしい。船首に居て海をゆっくり眺
(なが)めながらの食事ということであろう。贅沢な嗜好(しこう)であった。共進丸の甲板員らしい若者がきびきびとした動きで準備を整えていた。
 いまは夏である。これにビールなどの酒がつけば、更に言うことがない。
 しかし無理であろう。
 九十九島巡りの遊覧も、私のとっては勤務中であるからだ。だいいち昼間からというのは不謹慎である。
 残念……と、独りごちた。

 「おい、速く坐れ。船室でひっくり返っている連中も、そろそろ船酔いは治っただろう。呼んで来い」
 「無理でしょうね」
 「どうしてだ?」
 「そんなに早く治りませんよ、蹲
(うずくま)るほどの重傷ですから……」
 「それなら、結局、此処にいる連中だけか。なんという根性無しだ」
 「躰の具合と、根性は関係ありません」と、紗代子が反論した。
 「このいい景色を前にして、これだけとは寂しいのう」
 席に着いた生徒は、涼子、真帆、紗代子、初音、由美、真知子、奈々子の七名だった。海にタフなのは今のところ、これだけだった。そして、あとから遣って来た文香さんだった。
 文香さんの報告によると、原田梅子、木村靖子、梶原三智子の三名は、特に酷いということだった。
 そして文香さんは、直ぐにこの場から消えた。重傷の三名に付添ったのだろう。
 彼女たちは、今日中に恢復するだろうか。私の懸念である。どう考えても、引率する教員数が不足していることを思った。それは男子教員ではなく、彼女たちの身体までもを含めての女子教員だった。文香さん一人で走り回るのは大変に違いない。なにかいい手はないか。
 誰かいないか?……。

 あッ、居た。弥生ちゃんだ。彼女だったら現役の高校教師である。なんとか彼女を口説けないか。そういうことを思案しつつ昼食のテーブルに着いた。
 その時である。
 「これはこれは、新海先生」
 「おッ!……成瀬君じゃないか」
 もしかすると、この二人はおそらく面識があるのだろう。新海教授の個展に行ったことがあると言うから、その時かもしれない。懐旧を思い出したような二人だった。話が弾んでいるようだった。

 この晴天の遠くまで霽れ渡った今日の良き日、遠望する遠くの島影の風景は悪くない。船は速力を落として航行していたが、その進み具合も揺れが殆どなく、凪の海を滑るように走っていた。
 遠くに映る西海国立公園の海と平戸の山の両方が自然を充分に満喫できるのであった。
 私はこういう景色を遠望しながら憶
(おも)うことがあった。
 人の世とは、何か?……。
 この大自然に比べれば、小さな世界だと憶う。この小さな世界で、人はあくせく働き、多忙に追われ、自らを見失って生きている。そして現代に漂う金・物・色の煩悩の世界……。何ぴとも、此処から逃れることは容易ではない。人間界を「苦海」とは、よく言ったものだ。

 「どうだね?」
 私が気付かないうちに新海教授が傍に遣って来た。
 「はあ……」
 教授は、船酔いで苦しんでいる生徒のことを気遣ったのだろう。
 「もうじき、念のために天道丸から船医が来てくれる。この船には衛生担当者は乗船しているが、船医が乗船しておらん。いま呼びに行かせた」
 「ヤワで、お手数をかけします。何からなにまで……」
 私は恐縮気味に返答した。
 「始めての者には、この船の最高時速には耐えられまい。よく辛抱している……」
 教授は誰に対して辛抱していると言ったのだろうか。
 「あの三名のことですか」
 「大丈夫だとは思うが、念のために船医を呼んだ。それ、そろそろお出ましか」
 教授がこういうと、折り返して来た駆逐内火艇のキリシマが猛スピードで、こちらに向ってきた。白波をけたたましく掻き分けていた。私は食事もそこそもに、船尾甲板へと駆け走ろうと思った。キリシマがこの船にどういう方法で乗り上げるかをである。すると、生徒たちも「わたしも見てみたい」と言い出したのである。結局、「わたしも、わたしも……」となった。興味の対象は、誰も同じようである。

 後部甲板である。
 甲板のエレベーターが沈んだ。船尾は開放され、口が開いていた。船は停船することなく、航行している。そして、高速艇を迎えるように開放口へと誘導しているのである。
 
《ほッ……、こういう仕掛けになっていたのか》と思った。よく考えられたものである。共進丸は高速艇母船のような造りになっていたのである。
 高速艇キリシマは船尾からエレベーターに載り、引き揚げられて、上部に揚げられたところで、機関車の転車台のような装置の上で方向転換が行なわれ、やがて艇頭を後ろに向けた。180度回転したのである。
 興味深いものを観た……。私の感想である。この感想は、おそらく傍にいた生徒たちも同じであったろう。
 やがて、白衣を着た船医らしい人と艇長が降りてきた。医務室の案内されるらしい。あとは任せればいいことである。
 一口で船酔いというが、いきなりローリングとピッチングの揺れに襲われれば、如何ともし難いのである。
 これは勇気とか、度胸という性質のものではないらしい。要するに、これを克服するには体験する以外ないのである。
 それから30分ほど経って、船医からの病状報告があった。症状は恢復に向いつつあるということだった。
 病気でも、怪我でも、恢復する直前には、烈しい身体反応を起こす。一時的に酷くなる状態である。こういうのをベテランの医師は、よく心得ている。「瞑眩
(めんけん)反応」である。若い肉体ほど早く顕われ、早く恢復すると言う。不思議な現象である。
 瞑眩とは、目がくらむことを言い、これは“目眩
(めまい)”の症状である。これは怪我や病気が好転する時に現れる反応である。
 かつて往時の医学者は、瞑眩反応のことをよく知っていた。それは患者を全身で捉え、今日の現代医学
(西洋医学)のように分化した考えで、数値で捉えてなかったからである。データ主義の現代医学は患者を診ず、検査結果で出た数値との睨合い治療だ。医師は、患者を診ずに数値ばかりを検討し、その検査結果に合わせて、今後の治療法を検討する。
 だが身体反応として、慢性病や大怪我などをして、それが好転するときには、必ず「瞑眩反応」が現れるものである。
 また、この反応は例えば、内臓疾患ならば胃痛や嘔吐
(おうと)などが起こり、手足・腕や肩の怪我などでは捻挫や打撲の痕(あと)、また骨折の痕が腫(は)れ上がって痛んだり、発熱をしたり、皮膚病の場合などは湿疹(しっしん)が出たり、激しい痒(かゆ)みが出たりする。しかし、素人考えでは、これが酷くなる状態と思い込んでしまうのである。
 烈しい船酔いも恢復方向にあった。



●ひと夏の旅の奮闘記

 共進丸は夕刻、九十九島巡りを無事に平戸港に辿り着いた。やっと陸
(おか)に上がれたという貌をした生徒が大半だった。
 「なんだか、まだ揺れている」とか、「ふらついて、歩き難い」などを口走る生徒といる反面、「今日は本当におもしろかったね」と、涼子のように楽しんだことを吐露する生徒もいた。これも偏
(ひとえ)に体質の違いであろうか。
 此処で、成瀬先生と麗子像とはお別れになる。
 「健太郎くん。ここでお別れだ。よい船旅を……」
 「ありがとうございます」
 すると横にいた麗子が、小さな親指を立てて“good luck”とぬかしやがった。こういうジョークと言うか、この種の会話が、いま幼稚園で流行
(はや)っているのだろうか。
 睦子はわが子に細々注意を与え、「成瀬先生のいうことを、よく聞くのですよ」と諭していた。本人はこっくりと頷き、「わかった」と相槌を打った。
 そして麗子は、これから今日の宿泊先の樋口屋旅館に向うとき、「バイ、バイ」と手を振っていた。これに答えるように、何人か生徒が、麗子に向って「バイ、バイ」と、小さく手を振った。
 睦子は再び共進丸に乗り込んだ。一級通信士として、父親の小平祐吉氏と行動を伴にするのである。ちょうど睦子と入れ替わりに新海教授が降りてきた。
 共進丸は桟橋に架けてあった乗降タラップを船内に引っ込め、桟橋から離れて、方向を湾外に変えた。
 この船は遠望して見ると、かなり重厚な船であった。周りに停泊している船が小さかったので、そのように映ったが、基準排水量が480屯ともなれば、もう小型駆逐艦並みの船体といえた。
 共進丸は、夕暮れ時に谺
(こだま)する汽笛を鳴らし、沖に停泊していた天道丸とともに、一路、合流地点の豊後水道の方向へと進路を取った。

 さて、私である。なぜか気が重い……。今夜の宿の樋口屋に足を向けるのが、なぜか気が重い。それは後ろめたさかもしれない。貌を合わせたくない者がいるからだ。
 一方で、得体の知れない胸騒ぎを覚えた。それが何であるか、釈然としないが、何かが心の裡
(うち)で騒いでいた。その胸騒ぎを抑えつつ、いまはそういう時でないと自分に言い聞かせた。しかし、その胸騒ぎに、なぜか迷うものがあった。
 なにか気になる……。この胸騒ぎが去らないのである。
 やはり気になる。では、出所はどこか。
 まさか……。
 悪い方に考えれば、次から次と湧き出て来る。兇
(わる)い予感である。
 まさか……。もう一度、心の裡で繰り返した。
 虫の知らせか……。何かが報せているのか。
 思えば、家には半月以上、帰っていない。母ひとり、子ひとりの家である。まさか、母に何かがあったのではあるまいか。それが、やたら気になるのである。このとき、家には電話がなかった。電話の取り次ぎは、隣の家の老夫婦が遣ってくれていたのである。何か隣から、連絡があったのではあるまいか。
 では、何処に連絡したのだろう。
 私は「何処に?」を脳裡で追求してみた。確か、修学旅行を企画し、一旦家を開けて出るとき、隣の老夫婦に姉の電話番号を教えておいたことを思い出した。姉に確かめるしかない。何か連絡が入っているかもしれない。
 しかし、その連絡を姉は何処にしたのだろう。考えられることは祖母の家か、もしかすると、伯母の家かもしれない。姉は、修学旅行第一日目が平戸であることを知っていた。文香さんが添乗員として蹤
(つ)いて来ているからだ。おそらく、そうに違いない。何れにしても、当ってみるしかない。
 先ずは、此処から一番近い伯母の家である。平戸桟橋からも、さして遠くない。新町は徒歩で10分くらいのところである。伯母の家に直行することにした。
 着いて玄関の戸を叩いた。電気は点
(つ)いているが、人の気配がない。何処かに出掛けたのだろうか。鍵まで掛っていた。
 仕方ない。だったら祖母の家だ。此処も割合に近い。急ぎ足で向った。

 祖母のいる離れに回って、入口で「ばあちゃん、居るか」と聲を掛けた。
 「健太郎かい」
 祖母は居るようだった。それに意外にも伯母までいた。弥生ちゃんもである。
 「ばあちゃん。おれに連絡か、何はなかったか」
 「あったよ、政子から」
 「姉さんから。どういう連絡だ?」
 「朝子さんが怪我をしたんだって。でも、命に別状はないってことだよ」
 「わたしも、一時は、どういうことかと、気を揉
(も)んだけどね」と民子伯母。
 「健太郎、よかったな」と、今度は弥生ちゃん。
 こうした会話から、察するに絶望の暗さが消えた。私も、これで表情に活気を取り戻したのである。
 「だけど、健太郎のところに電話がないの、不便だね。どうして、電話、引かないの?」
 「貧乏だから……」
 当時、電電公社の電話を引くには、電話債権を買えば50万円ほど懸かった。債権を売却して15万円ほどいった。当時、私の学校から貰う給料が3万8千円弱程度だから、この15万円というのは、決して安いものではなかった。
 一方、刀剣類は市場で、今より高値で売買されていたから、当今より随分と高かった。そういう高値で日本刀が飛び交う市場相場に介入し、私は百万、二百万の刀剣を売買していた。もうここまでくると、完全に博奕
(ばくち)であった。こういう相場という博奕も、おそらく私個人の意思がそうさせるのではなく、先祖の意思かもしれない。

 「そうじゃないでしょ。あんたがみんな片っ端から浪費して、お金が貯まらないのだよ。あんたは本当に道楽が多い。刀道楽にお座敷道楽。特に悪いのは、そのお大尽癖。その癖、いい加減に治しなさいよ」と、祖母の説教だった。
 「治るものなら、疾
(とっ)っくに治しているよ。おれのこの病気は、爺さん譲り。相場と言う博奕も、爺さん譲り。散財するのも爺さん譲り。岩崎家の先祖代々の血統であり、それが血筋として遺伝したまで……。おれの所為(せい)ではない」
 「まったく、ご先祖の所為
(せい)ばかりにして……」と、祖母は愚痴るようにいった。
 つらつら憶い返してみる。
 血胤
(けついん)に潜む無意識の宿命とは、自分の意思ではコントロールできないものかもしれない。
 これは、おそらく残酷なものであろう。これまで家を誤らせた者の何十倍もの努力をして抗っても、それだけでかつての盛時には辿り着けまい。この彼此
(ひし)の差異は、いったいどこから起こるものであろうか。
 これを他人
(ひと)に問い、己(おのれ)自身に問うても答えは出るまい。そうなると、結局、天に問うしかないのである。
 私は虚しさに晒
(さら)されたあと、静かにこれまで聴いた岩崎家の歴史に振り返った。一時期、祖父が米相場に失敗して滅亡寸前のときがあった。おおかた百年前のことである。それが奇しくも没落せずに、戦後は見事に建て直ったのである。これも、思えば私には奇蹟に思えた。

人がこの世で見事に生きることは難しい。この世に生まれ堕ち、産声を挙げた時機から、世の中と抗うことが始まるが、生きる格闘が自らの内奥に潜み、自分さえ気付かない抗いが始まるのである。

 道楽を追求されて、息苦しくなった私は話題を変えた。
 「怪我の重さが、どの程度か知らないけど、今から見舞いにいってみるよ」
 「今からだって?健太郎、もう遅いよ。明日にしたらどうだい。仮に往くとして、どうして往くんだい?」と説得する祖母。
 確かのそうかもしれない。しかし、明日では遅いのだ。日向から出る船に間に合わない。
 「方法は幾らでもある。タクシーで佐世保まで行き、そこから門司港行きの夜行に乗る。そうすると、明日の朝には八幡に着く。あるいは、松浦線で、ひとまず博多まで行く。博多まで行けば、鹿児島本線は幾らでも動いている。そんなに心配することはない」
 「だけど、健太郎、松浦線の急行『九十九島』は、もう出た後だろう。あとは、鈍行だぞ。下手をすれば、早岐
(はいき)か、何処かで、終点ということもあり得る」と、弥生ちゃん。
 「往けば、何とかなる」
 「だったら、蹤
(つ)いていってあげよいか、健太郎。八幡の朝子伯母さんのところも、久ぶりだからな。お見舞いがてらに、ひとつ北九州見物でもしてくるか」と、能天気なことを言う弥生ちゃん。
 「弥生ちゃん、学校は?」
 「今は夏休み……。それに、うちの剣道部は、玉竜旗の長崎県予選の一回戦で負けて、そのあと気合いが入らない。まったく情けないやつらだぜ。こういうときは焦らず、時機を稼ぐ……。ツイてないときの常道だ」
 弥生ちゃんは些か言葉が荒い。気性も荒い。男勝りである。この男勝りが彼女の剣道の腕を上げさせた。

 「弥生ちゃんは、相変わらずだなァ」
 「どういう意味だ?」
 「だから、壻
(むこ)さんに逃げられるんだ」
 「バカ言え。こちらの方から、根性無しは叩き出したんだ」
 此処に居る女三人で、こういう会話が出てくるのだからして、母は命には別状なさそうだが、容体の方は多少気になる。ひとまず家に還ってくる以外あるまい。
 「ここまで分かれば、一安心のようだ。おれ、今から家に還ってみるよ」
 「おまえ、還るって、いま修学旅行の最中だろう。どうするんだ?」
 「いや、大丈夫だ。明日の夕刻、日向から船に乗る。川崎まで向うんだ。なんなら、弥生ちゃんも、生徒の監督で十日ほどの旅を楽しんでみないか。おれから、全権の新海先生に頼んでみる。どうだ、弥生ちゃんも、修学旅行の添乗員として、監督役で同行しないか。おれはなァ、少し頭を痛めていることがある」
 「どういうことだ?」
 「修学旅行の定番だよ」
 「つまり……、自由行動というやつか?」
 「そう。東京での自由行動。これが、実に煩わしく、心配の種だ。なにしろ女子高だ。そのうえ、この年頃は渋谷か、六本木か、もしかすると歌舞伎町に行きたがる。これが、どういう結果を招くか分かるだろう。こういうところでは悪い虫がつき易いんだ。今なら、一人分の旅行費、こちら持ち。飲んで喰っての三食食事付き。そして、大海原を満喫しならがらのリッチな船旅……。昼間はデッキでの昼寝まで付いているぞ。今なら随分と好条件で、お買い得ではあるまいかァ」と、語尾を吊り上げて囁
(ささや)くように、誘惑気味に誘ってみた。
 「ひとを迷わすことをいう……」
 「どうだ、弥生ちゃん。十日間ばかり添乗員として、生徒の引率、恃
(たの)めないかなあ?」
 「それで、日当は?」
 「ない」
 「ないだと!おまえ、バカも休み休み言えよ。何処の世界に報酬なしで、そういうややこしいこと、引き受けるバカがどこに居る?」
 「しかし、ひとり居るんだ」
 「だれだ?」
 「文香さん」
 「文香って、政子の友達の少し前まで、県立S高の教員していた彼女か?……。政子と同じ家の、あの置屋の娘か?……」
 「はっきりいって、ひとりでは足らないんだ。引率者が、もうひとりは欲しい。なにしろ本校は、女子高だからな。おれは男だから、女の領域に入れないことがある。小娘どもは乳も出て、毛も生えて、月に一度の日の丸まである。そうだろ?」
 「おまえなァ、その下品で、卑猥に満ちた猥褻
(わいせつ)表現、何とかせい!」と一喝した。
 「何とかしたいから、こうして恃んでいる」
 「まあ、そういえばそうだが……」
 「あす午後6時に日向港から出港する。あす午後6時だ。弥生ちゃんに恃めないのなら、婆ちゃんか、伯母さんでもいいよ。婆ちゃん、娘時代に還って、女学校の先生でも遣ってみないか?」と、今度は祖母に話を持ち掛けた。
 「わたしがかい?……。それもいいねェ」と、驚喜した聲を発した。
 祖母をこのように誘導して、弥生ちゃんを取り込む策を弄
(ろう)した。さて、乗って来るか……。
 このままでは本当に祖母が代用教員を遣るかもしれない。
 「弥生ちゃん。婆ちゃんが、やる気になっているぞ」と鎌を掛けた。
 彼女は乗って来るか。

 「いや、それなら、わしがいく。年齢も若い方がいい。わしは現役だ。生徒の扱いも馴れている」
 遂に策の懸かった。
 「では、恃もう」
 遠慮なく申し入れた。
 「仕方ない、引き受けるか。健太郎。とうとう、うまく引っ掛けたな」
 「なにが?……」
 「だいたいだなァ。断れないようにして、お婆さままで引き合いに出して、巧い策を仕掛けただろう?」
 「その策は、決して上策とは言えないが、まあまあの中策というところだろうか。しかし、弥生ちゃん。タダでリッチな船旅が出来るんだぞ」
 「それを餌に、釣ったな」
 「釣ったんじゃなて、交渉に応じたと言ってもらいたい」
 「巧いこといいやがる」
 確かに上策とも言えないが、はたして中策か……。否、回天の策であろう。
 「これで、交渉成立。では弥生ちゃん、いくぞ」
 「ちょっと俟て。いいか、女は支度をせねばならん」
 「そんなもの、要
(い)るか。パンツ二、三枚に、ジロチョウの二つ三つ。それだけあれば充分だろう」
 「バカいえ、そういう訳にはいくか。どうして、おまえの頭は、そこまで低俗なんだな。なんにも分かっちゃいない。全くの野蛮人だぜ。こりゃァ、女のわしが蹤
いていかんとためだな。女に対する理解度ゼロ。そのうえ女性認識のIQもゼロ。もっと勉強せい!」
 弥生ちゃんは半分呆れ、半分叱咤した。
 「そうかよ。だったら、もっと勉強させてくれ」
 「まったく、おまえというやつは……」と、呆
(あき)れ気味に相槌を打った。
 しかし、そういいながらも、弥生ちゃんを添乗員の中に引き摺り込んだ。これで、文香さんに合わせて、女性教師が二人のなった。頼み事は、最初から無理だと諦めずに、一応は恃んでみるものだ。歯車が合えば、話に乗ってくることもある。要は話術である。
 そして、憶
(おも)った。もしかすると弥生ちゃんは確かに県内でも有数な女流剣士と謳(うた)われ、剣道には長じていたかもしれないが、弁論の術、則(すなわ)ち弁証法には不得手だったのではあるまいか。相手を徐々に嵌め込んでいく戦略的遣り取り、則ち説得する術、悪く言えば「丸め込み」に弱いのかもしれない。

 これでどうやら、弥生ちゃんの弱点が分かったような気がした。私は徐々に説客の術の何たるかが分かり始めてきた思いだった。
 要するに弥生ちゃんは男勝りで、すぐに激情するところは、つまり感情家なのである。これが分かると、コントロールし易い。そして、彼女を仲間に取り込む理由は、このコントロールし易い男勝りの性格を放置すれば、宝の持ち腐れとなる。大いに利用しなければならない。人材の活用術である。
 無理に取り込む背景には、一時的にも、私が集団から抜ける。私の抜けたあとは、引率側は新海教授と文香さんの二人であり、これだけでは果たして監督の目が全員に及ぶかという懸念があった。
 更に、母の容体である。
 母は命に別状ないと言うが、この状況はいったい誰が判断したのか。専門の医師なのか、それとも誰かの又聞きで、そう報告しているだけなのか。これ事態が不明だった。やはり、この場は私が直に出向いて、その真相を確かめねばならない。他人の報告を鵜呑みにできないのである。
 そのため、行って確認するしかなかった。

広く世間を知り、多くを学び、多くを識(し)る者は、その益を己に閉じ込めておかないで、その益するところを他人(ひと)に分け与える。これが自他ともに益する帝王の学である。
 それを学ぶためには見聞を博
(ひろ)くしなければならない。
 自他ともに益するとは、まず正しい虚無を悟らねばならぬ。
 そのためには驕慢
(きょうまん)を棄(す)て、謙虚を備えて、はじめて虚無の位置に立てるのである。
 『帝王学』の教えるところは、虚無の位置に立ち、虚無を建て、靖
(せい)をもって宗(そう)となし、秋(とき)をもって宝(ほう)となし、政(せい)をもって儀(ぎ)となす」とある。
 これが、則
(すなわ)ち「益」なのである。

 私がなぜ3年E組の修学旅行を企てたのか。この思い付きの背景にはなにがあるのか……。
 考えてみれば、松本精華女学院高校の、特に3年E組は、博多中の不良少女を集めたような、どうしようもないクラスだった。
 しかしこの学校は、いやしくもミッションスクールである。その本来の建学の精神が喪われていた。
 私は校内でも鼻つまみといわれる不良少女の担任を、赴任早々やらされた。大変な貧乏籤だった。
 だが、これを嘆いてばかりもいられない。そこで、生徒をじっくり観察することにした。このクラスは毎日が南瓜畑のハロウィンのお化け大会だった。どいつもこいつも、土台の原形が分からないくらい化粧を塗りたくっていた。しかし放置できない。改善策が必要だった。
 孔子の言である。
 「過ちて改めざる、これを過ちという」
 これは人だけではない。学校も同じだ。過ちを犯すことがある。あるいは過ちに付け込まれることもある。
 松本精華女学院とはそういう高校だった。
 松本真希校長以下、『学校法人・松本精華学園』に附設する精華教会の松本巌牧師すら、それを知りながら改善や改正を図ろうとはしなかった。そこで、倉橋教頭や小暮教務主任の保身グループに付け込まれた。
 これを見過ごしたままの愚行が、もとは素直で純情なE組の生徒を、斯
(か)くもこのように変形させてしまった。彼女たちに「博多中の不良少女を集めたような」と、揶揄(やゆ)するような汚名を被せてしまったのである。
 しかし私は、変形し畸形
(きけい)した生徒たちを説いて、ようやく旅に出るまでに漕ぎ着けたのである。
 修学旅行となると、必ず何処の学校でも、往
(い)く生徒と往かない生徒に別れ、往く方が圧倒的多数で、往かない方が少数である。その少数は往かないのでなく、家庭の事情で往けないのである。親に経済的自由がないので、往きたくても往けないのである。そこで私は奮闘した。今回限りで奮闘した。
 私のひと夏の旅の奮闘記は、ここに始まるのである。



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