運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
ひと夏の奮闘記(下) 1
ひと夏の奮闘記(下) 2
ひと夏の奮闘記(下) 3
ひと夏の奮闘記(下) 4
ひと夏の奮闘記(下) 5
ひと夏の奮闘記(下) 6
ひと夏の奮闘記(下) 7
ひと夏の奮闘記(下) 8
ひと夏の奮闘記(下) 9
ひと夏の奮闘記(下) 10
ひと夏の奮闘記(下) 11
ひと夏の奮闘記(下) 12
ひと夏の奮闘記(下) 13
ひと夏の奮闘記(下) 14
ひと夏の奮闘記(下) 15
ひと夏の奮闘記(下) 16
ひと夏の奮闘記(下) 17
ひと夏の奮闘記(下) 18
ひと夏の奮闘記(下) 19
ひと夏の奮闘記(下) 20
ひと夏の奮闘記(下) 21
ひと夏の奮闘記(下) 22
ひと夏の奮闘記(下) 23
home > ひと夏の奮闘記(下) > ひと夏の奮闘記(下) 13
ひと夏の奮闘記(下) 13

外は暁闇であった。空は幾分白みかけていた。あたかも、仲秋の天空のように澄み渡り、限りない空の深遠を想わせた。やがて、清らかな陽光に包まれた朝を迎えることが出来るだろう。
 人間の心の中も、仲秋の天空を想わせる訪れが、運気の巡りとして繰り返されている。その繰り返しの周期をどう捉え、どう乗りこなすかで、自ら運を呼び寄せたり、逃がしたりしているのである。
 人の運は、自らの中
(うち)に内蔵されている。


●暁闇

 「ねえ、先生。観て観て、いいお月さま……」
 奈々子が車窓の上に或る月を見て、うっとりするような言い方をした。
 「うん、いい月だな」と、私は形容に賛同した。
 「まるで、地上に届く月光は、月の雫
(しずく)みたい……。ねえ、真知子さんも、そう想うでしょ」
 「あッ。本当だ。幻想的で、お月さまが観賞用の浮遊物みたい……」
 彼女の形容は、まさに的を得ていた。
 「真知子は、なかなかの詩人だなあ」
 「えッ!わたしが詩人ですって?……」
 「おまえは詩的表現をする。それは奈々子も同じだが……」
 「月って、盈
(み)れば虧(か)くのでしょ。これって、日月(じつげつ)の所為(せい)というのですよね」
 「ほッ……。奈々子は妙な言葉を知っているんだなあ」と、感心しつつ、彼女にも詩的感覚が備わっていることを表した。
 「でも一面、哀しいところがある。盈
れば、また欠けていくのですよねェ」
 「欠けるものは月だけでない。他の果実だって同じだぞ。桃も蜜柑も林檎も、人知れず朽ちていく。朽ちた物は地上に落ち、土の肥やしとなる。果実とはそういうもので、自然界の中で循環しているのだ。みな月と似たようなサイクルを繰り返している。
 月は、盈ちたり欠けたりし、また陽も同じように昇れば傾き、やがて遠くの大地の中に沈んでいく。それらの光を受けて、人間は朝に喜び、夕べに哀しむことを繰り返しているんだ。その繰り返しの中で、人は何十年後かには一生を終えていく……」
 「先生って、まるて哲人みたい」と、奈々子が吐露した。
 「ほッ……、そうでもないさ。おれの自然観に過ぎない」
 「そうでしょうか、そう言う形容は詩的感覚だけでなく、哲人的要素がないと、音声で雍容
(ようよう)とした朗徹(ろうてつ)は無理だと想いますが……。聴く者に、神秘的な美しさを与え、澄んで清らかなものを感じさせます。夜汽車の旅も棄(す)てたものではありませんねェ」と、真知子。
 「おまえこそ、詩人と哲人を併せ持っている。そして、表現力も巧みだ」

 「先生は奇特な人なのですねェ……」
 しんみりと奈々子が吐露した。
 「どこが、だ?」
 「こういう月の雫を味わえるような旅を、わたしたちに提供しているのですもの」
 「今日は、たまたまそうなった。行掛けの駄賃と思えばいい」
 「それにしても、先生は奇特な人です」
 「だいたい、わたしたちの修学旅行費、いったいどこから出たのでしょうか?……」と、奈々子は不審を追求して来た。貌には、どうしても知りたいという意識が顕われていた。
 「まァ、それはだな。出るところから出た。あまり気にするな」と、宥
(なだ)めたが、はたしてどうか。
 「気になります。出るところって、どこですか?」と、今度は真知子。
 彼女は、更に追求を深めた。
 「だから、気にするな」
 「気にします。だいいちこの旅行、どこか訳の分からないものがあります。なんというか、わたしたちのような高校生には分不相応と言うか……、そういう豪華過ぎることが、わたしには不遜
(ふそん)に憶(おも)えてくるのです。そして、このままだと何か多大な借りをつくっているようで……」と、真知子が朗誦(ろうしょう)するようにいった。
 「わたしも、そう憶います。出所を聴かせて下さい」と、奈々子が追い打ちを掛けた。
 二人の少女が遠慮気味に切り出した疑問は、信においての訴えであろう。人の言葉に真
(まこと)があれば、それは信が義を奉戴(ほうたい)しているということである。信が義を包み込み、これに行動原理が伴えば、そこに利が生ずる。したがって、信は二つの信などあろう筈がなく、言葉にしても二言がない。そして、相手の信を仰ごうとすれば、まず自分の方から赤誠(せきせい)をみせ、信に偽りがないことを即決で示さねばならない。
 これに、時間が掛かってはならないのである。信は即決で、心の裡の赤誠を見せなければならない。赤誠の顕われは、「今」と解してもいいのである。
 おそらく二人の少女は赤誠の芽生えであろうか。それは信ずるものを発見したときに起こる「この人は」という信奉である。この信奉こそ、信頼の別名であった。信用だけではなく、信頼され、下駄を預けられて、その信は真物
(ほんもの)になる。
 私は、彼女たちから信頼されているのだろうか。
 そして、真知子も奈々子も、借りを作ることに対しての中々の負けず嫌いであるようだ。負けず嫌いは自尊心の顕われである。こうした自尊心が、やがて毅然
(きぜん)とした人格を形成していく。

 「そのうち、分かる」
 「わたし、知っていますよ」と真知子。
 「なにを知っている?」
 「初音さんと涼子ちゃんから聴きましたから……」と、情報通であることを真知子が窺わせた。
 彼女は自分に関わる情報に対して敏感であった。それだけに、自分の借りがあると落ち着かないのである。
 「なにを聴いた?」
 「先生は、この旅行に対して多大なお金を裏から回したこと。そのお金の出所は、どこですか?」
 「ああ、それか。それはだなあ……。園子先生からの援助があった。つまり、園子先生は高宮興行のご令嬢なのだ。金持ちの道楽女が、なにかの気紛れで、この旅の企てに援助して下さったということだろうよ」
 「それもそうでしょうけど、もっと別のところからですよ」
 「別のところってなんだ?……。敢えて言えば、おれの姉が大半を持ってくれた。ただ、それだけだ。本当に奇特なのは、おれじゃなくって、姉の方だ」
 「では、これからの船旅の裏には?……」と、奈々子も知りたがっていた。
 はたして彼女も落ち着かないのだろうか。
 「まあ、なんというか……、新海教授のような奇特な人が居たからだ。それに奇特な船会社の人も……」
 この、のらりくらりの逃げ口上で躱
(かわ)せるのだろうか。
 「それだけ?」と、今度は小首を傾げるように真知子が訊いた。
 「それだけだ」
 私は多くを語らないつもりでいた。
 「なにか辻褄
(つじつま)が合わない」と、まだ何かを喋らせようとする真知子。
 「どう、合わない?」
 「もしかすると、不足分は先生が?……」
 「そういうこともあったかなァ」と、惚
(とぼ)けてみた。
 「先生のサイドビジネスと言うか、本業といいか、そういうところから捻り出したのでは?」
 「なんのことだ?」と、惚けてみた。
 小娘に気遣
(き‐づか)いをさせるのは何かと心苦しい。何事もさらりと流れて、過去の善いもとも悪いことも忘却すれば、すべて貸し借り無しである。
 私は老荘者流の「忘」が好きである。何事も、過去にあったことは悉
(ことごと)く忘れる。この「忘」の徳を教える老荘者が好きである。衆生(しゅじょう)の救いを説く教えが好きである。

 彼女たちは、私の自前主義を心苦しく憶っている。
 「もし、そうならば恩義があります。わたし、忘恩の徒にはなりたくないのです」
 「忘恩であろうと、恩を受けたことを感謝することすら、過去のあったことは、みな忘れればいい」
 「そんなこと出来ませんよ。借りをつくることになりますからね……」
 「それまでの律儀すら、すべて忘れろ」
 はたして通じるか。
 老荘者はいう。「是非を忘れ、恩讐
(おんしゅう)を忘れ、生・老・病・死すれ忘れる」と。
 どうにもならないことは、忘れるの限る。問題は、いかに忘れるかである。この忘れ方に、忘術がある。
 「真知子よ。寵辱
(ちょうじょく)すべて忘却し、功名悉(ことごと)く、すでに抛(なげう)つ。こういう考えを持っている人間も、世の中には少なからずいるんだよ。人生の貸借対照表の貸し借りの欄には、ペンで黒く塗り潰したベージもあっていいのだよ」
 「どうして、自前で?……。そして、そこまで危険を冒すのです?」と真知子。
 「おまえたちが、ほっておけなきうてな」
 「それだけ?」
 「ああ、それだけだ。それ以外に何か必要か」
 「いいえ。でも、わたし、何だか心苦しくて……」
 「気にするな。人の好意は有難く受ければいい。そして、あとは忘れる」

 「わたし、知っているんです。初音さんと涼子ちゃんから聴いたといっているでしょ。教えて下さい。そうしないと、借りを返すにも、返せないじゃありませんか」
 「単なる刀屋だ。ときに、気紛れで教師から化ける。つまり、しがない日本刀売買の刀屋商売……」
 「それを、ぜひ聴かせて下さい。先生は徳という抽き出しを沢山持っているそうですね。時機に応じて、その抽き出しを開けて手当てする棚を持っていると聴きますが……」
 「わたしも、ぜひ聴かせて下さい」と、奈々子まで詰め寄ってきた。
 「それはだなあ、刀屋というのはディスカウントとは違う。薄利多売でない。大衆の大勢を相手にしても、この商売は成り立たない。民意で動く商売ではないんだ。また、多数決で同意を得られるものでない」
 「それで?」と、先を急ぐ真知子の間
(あい)の手。話の次を訊く迫り方である。
 「それでか……。その先を言えば、つまりだなあ、特殊な商売ということだ」
 「それが美術品の世界ですか。先生がときどきき仰る陋規の世界ですか」
 「まァ、そこには世の中の裏と表が存在し、裏街道だけでも通用しないし、表街道だけでも通用しない、一筋縄ではいかない相場師の世界だ」
 「では、投機と同じですか?」
 「似てるが、少し市違う。株式をはじめとする穀物相場の株やその他の有価証券は、下手をすると、唯の紙切れとなる。ところが、美術品の世界では、総ての物に値段がある。紙屑
(かみくず)同然というものがない。必ず安くなっても、ゼロという値段がない」
 「その先を聴かせて下さい」
 「顧客はしたがって、経済的不自由をしてない教養人と言うか、風流を返す人と言うか、ずばり言えば好き者だな。つまり、経済的にも精神的にも、その他大勢に含まれない、ごく一部の人だ。したがって、薄利多売の商人に群がる人でない。あくまでも毅然として孤高を保ち、精神的にも孤独に耐えて悠々としている人だ。そういう人が心の拠
(よ)り所として、日本刀が需(もと)められる。おれはその需要に応えるだけである。その需める尺度は精神的余裕と、ゆとりを持つ心徳のある人となろうか。心の幸せも、その側面にある」
 「というと、先生は単に金儲けで刀屋を遣っているのではなく、刀剣と言う心の宝を届ける幸せ配達人も兼ねているのですね」と、念を押すように真知子が訊いた。
 「幸せ配達人か……。おもしろい形容だ」
 「そうでしょうか。わたしには、そのように聴こえました。だって、心の拠り所でしょ?」
 「そもそも、日本刀は生活必需品でないから、それを需めても何の意味もない。茶碗や箸と違うし、鍋や釜とも違う。あくまで心の拠
(よ)り所で、精神を重んじる鑑賞の世界のものだ。これが、一部の上層階級の通行手形となっている。この世界に棲む人にしか分からん。
 刀剣も、庶民から上流階級の間に広がる教養の世界のものだが、その中でも、世界的と言われる一部の階級が存在していて、この階層では心徳を重んじる。その重みが、そのままこの階級にだけしか通用しない通行手となっている」
 「まるでフリーメーソンみたい」
 「フリーメーソンか、よく知っているなァ。通行手形というのは、それぞれに共通の扶
(たす)け合う親善組織があり、これをサヤンという。サヤンが徳で構成されているか否かは知らないが、ここには共通項としての通路があり、一方が困れば、他方がこれを扶けるんだ。したがって、外からは見えないし、内側も、外には見せない。これを理解する階級のみが、互いの補いあい、不足分は肩代わりをする」
 「へッ……、おもしろいですね。ところで、サヤンの接点はどうしてするのです」
 「合図だ」
 「合図って、あの小説の『合図を示せ、合図を……』というエドガー・アラン・ポーの『アモンティラードの樽』の一場面を髣髴とさせますねェ。そしてフォルトゥナーは腕を掴まれる。何だか訳の分からない奇妙な同じ動作を繰り返すと言う、あの奇妙な場面ですよ。『わからないのか』と、訊いたことに『ぜんぜん』と答える。
 そこで『じゃ、君は入会していないんだな?』と訊き返し、『フリーメーソンのことだ』と問う。まさに、あれですねェ」
 「ほッ……。真知子は随分と詳しいな。刀剣蒐集家の上層の一部にも、下層からは窺い知ることが出来ない心徳の有志というのが存在するんだ」
 「心徳の有志ですか……。まるで奥の院みたい」
 「では先生は、似たような奥の院の抽出しをたくさん持っていて、困ったときに、時々開けるということでしょうか」
 「中
(あた)らずと雖(いえど)も遠からずだ」
 「わたし、先生の奇異なる考え方や行動が、他の人とは、何処か違うと憶っていましたが、結局そういうことだったのですね」
 「お大尽癖も、その延長ですか」
 このお大尽癖は、かの美濃の斎藤道三が、城山で油商人をやっていて長井新九郎と名乗っていたときのことを連想すればいい。
 「いや、違う。それは趣味の領域……。いや、お座敷道楽の戯事
(ざれごと)、かな……」
 「というと、変ですねェ。困窮している人が、どうしてそういうところに出入りするのでしょうか?」
 さて、これをどう答えるか。いい質問だというべきか。

 「いいものは、それ相当の値段がある。したがって、いい物は高く売らないと、作者にも申し訳ないし、商品にも申し訳ない。こういう物は二束三文では売れないんだ。おれの商売の信条は、いい物、珍しい物をそれ相当の値段で高く売る。鐚
(びた)一文も負けない。これが商品に対しての礼儀だ。この礼儀を知る客だけに売る。
 一見さんや冷やかしは、おれに言わせれば客ではない。外野の野次馬だ。こういう手合いを相手にして、徳を積み重ねる商いではないし、値切って買い叩くのも、おれの価値感
とは一致しない。公正でないからだ」
 「どうして公正ではないのですか。買いたいと言うなら、売ればいいじゃないですか」
 話に興味は尽きない奈々子であった。
 「もしかすると、刀屋さんって、売るのが商売でなく、買うのが専門の商いでは?……」と、真知子が何かを探り当てたように訊いた。
 こうして二人との話は、夜を徹してどんどん弾んでいった。寝るのを忘れるくらいであった。

 また、公正という言葉が出たついでに、公正取引委員会の話をしてみた。
 「日本には、公正取引委員会というのがあるだろ。これは独占禁止法の目的を達するための行政機関で、違反事件を調査・審決する準司法的機能および規則制定権をも有する委員会だ。委員長および四人の委員から成り、内閣総理大臣の所轄に属し、内閣府の外局で、俗に公取委という。この組織だって、本来は適正価格にも審査する必要があるが、ここでは古美術の世界まで手が回らず、弱い者を守ることを信条に謳
(うた)っているが、実は守っていない。結果的に弱い者いじめの観がある。価格というのはそれほど難しく、自由に変化する相場は、常にその価格に尖端(せんたん)というものがあり、たえず変化している。これを読むのは難しいからだ。
 しかし、価格の尖端は知る者だけが知る。これを知る者は、今を知り、今を動く物の価値が分かるからだ」
 「おもしろい話ですね。先生って、本当に、話に種切れというのがありませんねェ。聴いているだけで、非常に興味深い……」
 「つまり、先生の言うサヤンというのは、心の徳の抽出しですか」
 「まあ、そういうことだ」
 「有徳の士が扶
(たす)けてくれたということですね」
 「そういうことだ」
 「お陰で、リッチ感も味わえる。誰もが、同じように公正で公平な益の分配ということですね」と、真知子の貌に明るみが差した。
 「そういうことだ」
 「ひとつ質問いいですか」
 「なんだ?」
 「先生は、人生は晩年にありと以前、おっしゃいましたよね?」
 「ああ、言った」
 「それは、若いうちは何度でも失敗したり、道を外しても、若気に至りであり、晩年に軌道修正されればいいと言うことですね?」
 「そうだ。人生は晩年の死を迎える瞬間に、その人の価値が決定される。世の多くは、若い頃に身を慎み、晩年になって崩れる人が多い。病気もその一つだろう。世に、難病奇病は多いが、晩年に軌道修正できなかったことが要因している。しかし濃縮な時間を体験する老後は、この時に改めようとしても、もう戻らない。遅過ぎると言うか、改心が難しい。身に染み付いた愚はなかなか取り除けないものだ。善だけにこだわって、ウソをついたことが一度もないと言う自称正直者は、その正直の自負で、善から啖
(く)われることになる。そこに魔が忍びよる。多くの病気は、霊障(れいしょう)絡みだ。人間の思い上がりが、こういう霊障を招いた。なぜなら霊障は根元が切れないからだ。この世は善悪綯(な)い交ぜであり、清濁併(あわ)せ呑む世界だからな」
 この世の中の構造は二元論の矛盾の中にある。善悪は綯い交ぜで、清濁は奇妙に併せ呑んでいる。

 「よく分かります。悪を駆逐すれば、あとはすべて善になる……。これも二元論の思い上がりですね」
 「ああ、そうだ。現代では晩年の生き方に、立派な人が少なくなった。晩年を学ぶ時期と考えて生きている老人など殆どいない。晩年を娯楽の歳と思い込んで、耄
(ほう)けたまま潰える人が何と多いことか」
 「そうなると、どうなるのです?」
 「死に方を悪くする。俗に云う不成仏というやつだ」
 「それは、成仏できないという死に方ですか」
 「煩悩を断じて悟りを開くことを、成仏と言うが、その逆だ。学ぶときに学ぼうとしない。かの佐藤一斎がいうではないか。『老いて学べば死しても朽ちず』と……」
 「では、老いて学ばなければ、死して朽ちるのが、不成仏ですか。それは迷ったまま、煩悩に患わされて死んでいくという悲しい死に方ですね」
 「人間のより善き死は、よく生きなければ得られない。そうしなければ、死にも恵まれないのである。人生の最後に恵まれないものがあるとしたら、現代人には多い、悪い死に方だということになる」
 「どうして、そうなったのです?」
 「老後を娯楽や行楽に摺り替え方らだ。また、酷いのになると、美食にまで摺り替えている。せめて死ぬ前にはリッチな旅行がしてみたいとか、死ぬ前にせめて、あの場所になどの名所旧跡巡りだ。
 そういうのは本来、老いてから遣るのでなく、若い時分に遣るべきことであり、美食でも、老人の舌ではその味が分かるわけはない。
 しかし愚者が殖えた。他人
(ひと)が美味いというから、自分もそう思うだけであり、当今の哀れは、行列のできる店に、ジジババの年寄り連中が列をつくっていることだ。最も慎まねばならない時期を、こうした愚行に費やし、老後の濃縮な時間を無駄に浪費させている」
 「なんか、身につまされますねェ……」
 「だから、いまリッチな旅をするのだ。俚諺
(りげん)にも言うだろ、『かわいい子には旅をさせよ』とな。子供は甘やかして育てるより、親許から離して、世の中の辛苦を早めに経験させた方がよいという意味だ」
 「だから、わたしたちは、いま旅をしているのですね。先生のお考え、よく分かりました。思い切り、リッチな旅を楽しみます」
 「しかし忘れるな。往きはよいよい帰りは怕いだからな」
 「なんだか、厭
(いや)な言葉……」
 「作用に対しての反作用だ。代償はあとで払わねばならぬ。物事はそうなっているのだよ」
 こういう話を窓の外が、白けるまで続けていた。眠らないのである。寝るのを忘れているのである。それにこの車輛には殆ど人がいなかった。彼女たちが聞く話は、一般常識とは違う、なにが陰謀めいていて、娑婆とは異なり、興味津々であっからだ。喰い付くように「それで、それで」を繰り返した。

 「ねえ、先生。わたしたちは確実に、死に向かって生きているのですよね」
 「ああ、そうだよ。確実に死に向かっている」
 「では、死とはなんでしょう?」
 「それはだなあ、煩悩という迷いから解き放たれて、心に自由を得て、涅槃
(ねはん)に至ることを言う。仏道ではそう教えている」
 「煩悩というと、身も心も患わせて、悩ませる一切の妄執とか妄念のことですよね」
 「その心の垢
(あか)に対峙(たいじ)しているのが、悟りと言う涅槃ですか」
 「そいうだ、仏道ではそう教えている。種々の迷い誘惑から解放され、絶対的な静寂な世界に至ることを涅槃と言う。そして、無余涅槃の意味からすれば、仏陀または聖者の死をこう呼ぶ。だが、この教えは凡夫
(ぼんぷ)にはなかなか理解し辛い。凡夫は凡夫ゆえに迷い、さまざまなものに誘惑される生き物だからだ。
 人間、迷えばなにも出来なくなる」
 「どうして迷うのでしょう?」と、真知子が切り返すような質問をした。
 「甘いからだ。この世を甘く検
(み)ると、人間が迷う」
 「そうかもしれない……」と、奈々子の相槌。
 「それは、生き方が曖昧なのでしょうね。どっちつかずの中途半端。この甘さが迷いの種を発芽させる。
 そして中途半端な領域には曖昧なグレーゾーンがある。多くの人は、そこに心地よさを感じる……。そういうことでしょうか」と、真顔でいう真知子。
 「甘いということは、その人の行動が、そもそもなっていないからだ。それが中途半端をつくる。それは、口先だけで行動が伴わないという現象を、反作用としてつくりだすからだ」
 「では、先生は考えてから走る人ですか、それとも走ってから考える人ですか」
 真知子は自分の考えるところにしたかって質問をして来た。
 「それは、走ってから考えるさ。おれは、考えて趨
(はし)るような真似はしない」
 「どうしてです?」と、深く追求した。
 「行動するのに、いちいち思考する莫迦
(ばか)は居るか。例えばだ。今まさに爆弾が、こちらに飛んできて、直撃しようとしている。このときにだ。右に逃げようかとか、左に逃げようかと考えるバカが居るか。まず走ってこの場から逃げ、直撃弾を避けることだろう。それ以外になにがある?」と、逆に鋭く切り返してみた。
 「そう言われれば、そうですが……。でも、逃げるにしても思考は必要だと思いますが……」
 「違うな」
 私はハッキリ否定した。
 「どうしてです?」
 「それでは、考えた時点で死んでいる」
 「言われてみれば、そうかも」と、真知子は一瞬呼吸を忘れたような表情を、私に向けた。
 「世の多くの常識人は、よく考えて行動せよという。そして、考えて動かないと、これを見切り発車とか、時期尚早の愚などと決め付ける。だが、背景には消極策しか存在しないのだ」
 「どういうことです?!」と、真顔で訊き返した。
 「物事というのは、結果的に検
(み)ると、見切り発車であっても、時期尚早と思えたことでも、先に動いた方が、結果はいい場合が多い」
 「詳しく教えて下さい」
 なおも真顔が迫った。
 「敏なること疾風
(はやて)の如し。不動なること山脈の如し。この言葉は武人の心の刹那を顕したものだ。
 人の心はいつも揺れ動いている。その定まるところを知らない。しかし揺れ動いていながら、敏あることが疎
(おろそ)かで、動きは鈍間(のろま)である。
 人は考えてから奔
(はし)るか。疾(はし)ってから考えるか……。結果的に検(み)て、軍配の上がる方は後者だろう。前者は、既に敗れている」
 「でも、わたし、まだピンときません」と、今度は奈々子。
 彼女も啖
(く)いついてきた。あたかもヘラブナ釣りをしていて、鮒が餌を包んだ針を、丸ごと呑み込んだようにである。そして釣師は、これから鮒を手繰(たぐ)り寄せるための鮒との駆引きと格闘に入る。そのときの感触を髣髴とさせたのである。
 一方で、彼女は分からないことへの謎解きが、真剣な眼差しを窺わせた。目は紊
(みだ)れておらず、真摯な眼差しだった。

 「禅の本に『無門関』というのがある。南宋の無門慧開
(むもん‐えかい)が著した書だ。
 この書によれば、「南泉斬猫
(なんせん‐ざんみょう)」というのがある。つまり猫を救うにのに、どうすればいいかという考案である。これに出て来る教えには、人間の行動自体に意味があるということではなく、人間の咄嗟(とっさ)に行なった行為が、いかに尊いかを教えている。
 『無門関』には、こういう話が縦横に述べられているのだ。
 ある日、東堂と西堂の僧侶たちが、一匹の猫について言い争いになった。すると、そこに南泉和尚が顕われて猫を摘まみ上げた。
 『お前たち、今ここで、禅の一語でいえば、この猫を助けよ。もしさもなくば、この猫を斬り捨てよ。
 さあ、禅の一語で言ってみろ!』と、迫った。
 しかし誰も答える者がいなかった。そこで、和尚は猫を斬り捨てた。
 この日の夕方、趙州
(ちょうしゅう)が外出先から戻ってきた。彼は南泉和尚の弟子である。和尚が猫の一件を話すと、彼は咄嗟(とっさ)に履いていた沓(くつ)を脱いで頭に載せた。そして彼は直ぐさま、和尚の許(もと)から去ろうとした。
 そこで和尚は言う。
 『趙州や。もし、お前があのとき、あの場に居たら、猫は殺されずにすんだのになあ……。そして、わしも無益な殺生をせずに済んだのになあ……』と、悔やんだのである。
 これは禅の機用について教えている。考えたり、一々頭で判断するのでなく、分別を越えた咄嗟の動きをすることを重んじているのである。これこそが、自由で、自然な行動であり、そもそも人の心は自由である筈の存在である。ところが、東堂と西堂の僧侶たちは、くだらないことで論争し、争うだけ争って、気の利いた一語さえ言えなかったのである。一語でいえということに迫られれば、言葉を失って、何一つ言えなかったのである。これは、多忙に追われる現代人に、最も当て嵌まる言葉ではあるまいか。
 現代の世では、他人の悪口や譏
(そし)り、陰口や誹謗中傷(ひぼう‐ちゅうしょう)などが飛び交い、他人の噂話に余念がない。そのくせ、何か重要な発言をしなければならない場に立たされれば、何一つ、気の利いた発言が出来ないのである。これは現代人が、心の自由を失った状態であることを著している。
 趙州はこの殺された猫の話を聴くと、履いた沓を頭に載せたまま、この寺から去ってしまった。
 彼にしてみれば『こんな寺に居たら、危なくて適
(かな)わん。こういうところから、逃げるに限る』ということだったのだろう。これこそ咄嗟の行動だろう。悟った人間の賢明な行動である。
 併せて、南泉和尚が迫った考案は、その行動自体に意味があるのではなく、人間が咄嗟に行なった行為が、いかに大事か、教えたのだ。ここに、いちいち頭で考えるという行為は、何一つ含まれていないだろう。ただ咄嗟があるのみだ」
 私は懇々
(こんこん)と聴かせた。

 「咄嗟に動くことの尊さ……。いま多くの人が忘れていることですねェ」と、真知子がしんみりと言った。
 「別の質問、してもいいですか」と、奈々子は次の謎解きを迫った来た。
 「なんだ?」
 「E組は、本校の鼻つまみクラスであったのに、突然、みんながみんな粒揃いになったでしょ。そして、全員の成績が急に上がった。どういう奇蹟が起こったのでしょう?」
 「粒揃い?……。中庸
(ちゅうよう)のことか」と、訊いてみた。
 「そうです。E組は、前は乱れに乱れ、身体的にもデブも痩
(や)せも色とりどりで、厚化粧の穢い駄目女どもの掃き溜めでした。ところが先生が担任になった途端、急変した。みんな肌が綺麗になって、すべすべになった。あの急変に、如何なるマジックを遣ったのでしょう?」と、奈々子は謎解きに迫る眼差しを向けた。
 「わたしも、それが知りたい」と、息もつかせぬ、矢継ぎ早の真知子の疑問。
 「それはだなあ、肉体の贅肉が取れたからだ。脳も肉体の一部だからだ。肉体が正常な中庸に戻れば、脳内の贅肉まで除去され、すっきりと、元の中庸に還っていく。これは生物学上の循環の定理だ。可逆性と言う。人間の貌は、また第二の脳だ。脳味噌の無駄な贅肉が取れれば、貌もすっきりし、本来の人間らしさが戻って来る。中庸という可逆現象だ。
 以前は脳に贅肉という悪想念の汚物を纏っていたから、汚らしく煩わしかった。それが取れて貌が変わり、肉体の体型まで変わった。血が変わった。浄血されたといっていいだろう。これがマジックの種明しだ」
 さて、これだけで信じてくれるだろうか。
 このふたり小娘の学力は、県立上位校か有名私立の中から上の部類だろう。質問する話題が、芸能界や娯楽界の火遊びに関する内容のように低俗でない。真顔で、いま何をするべきかをぶつけてくるのである。

 「それがマジックの種明しですか。でも、そのマジックには、秘訣と言うものがあるでしょ。その秘訣、おしえて下さい」と真知子が、強い口調で言った。
 「秘訣か、秘訣ねェ……。それは敢えて言えば志だろうか」
 「こころざし?……」と、奈々子が小首を傾げた。
 「そうだ。人間はなあ、志の高さで目指すところを持っている。志さえあれば、どんな屈辱
(くつじょく)にも耐えられる。そして、志は人間の格に、高低をつくる。志が高ければ、人としての格も上がるし、低ければその分だけ格が落ちる。秘訣は、強いて言えば、志の有無だ。あるかないかだ」
 「よく分かりました」
 奈々子の貌が、急に明るくなった。
 「いいか、よく憶
(おぼ)えておけ。志の有無は、人を変えてしまう。
 本校、三学年トップの三羽鴉がいるだろう。佐藤みどり、吉川真帆、そして西村初音だ。
 真帆は受験後遺症を抱えていた。高校受験での後遺症だ。そして、博多でも三流四流と言われる松本精華に入学した。勿論、彼女は成績優秀者としてA組に編成された。爾来
(じらい)その後遺症は引き摺ったままだった。根深い受験コンプレックスを持っていたのだ。こいつと敵対関係にあったのが、西村初音だった。
 初音は苛めが怕
(こわ)くて、ワーストワンを装っていた。上位に躍(おど)り出ようものなら、烈しい苛めに遭(あ)うからな。それでも、愚人の真似をして暫(しばら)く通した。彼女の叔母の話では、つい最近まで躰中が、苛めで受けた疵(きず)や痣(あざ)でいっぱいだったという。
 そして真帆は、さいしょ初音を見下し、また初音は、クラス全体、いや他のクラスからの苛めを怖れて、泣き寝入り同然の愚者を演じていた。しかし、彼女たちは、ある日、突然、変わった。なぜか分かるか?」
 「それは……、志をもったからでしょうか」
 「そうだ。人間は志を持てば変わる。その最も顕著な例が、福田百合子だ。
 百合子の家は神も見離した極貧の家だった。下にも、大勢の妹や弟がいる。僅か八畳一間に大家族で棲み、親は漁師だが、仕事が芳しくない。経済的にも悪循環だった。ところが、百合子は不断から志をもっていて、彼女は彼女なりに、それを胸の裡
(うち)に温めていたのだ。そして、おれは彼女から、志を訊き出した」
 「どういう志です?」
 「ペスタロッチのような教育者になりたいというのだ。彼女は高校を卒業すると、就職することが決定付けられていた。家が貧しくて、ギリギリの生活で、親は自分の喰うものも喰わず、娘を学校に通わせていたからな。
 それに家は敬虔なクリスチャンだった。あたかも清教徒を髣髴とさせるような。それが一つの心の支えになっていたのだろうな。自暴自棄に陥らないのは、このためだったかもしれない。
 しかし、怖れ家庭訪問を機に、本心を吐露した。父親はカンカンに怒った。この怒りを、彼女は志を打ち明けることによって鎮めたんだ。親は大学受験を赦した。その赦しが、親の仕事に励みを付け、今では少しばかり経済状態が良くなったそうだ。つまり、志は自分ばかりでなく、他人のも影響を与えて変化させるのだ」
 私は、彼女たちの胸に沁
(し)み入るようにしんみりと話した。

 「いい話ですねェ」と、奈々子が吐露した。
 「でも、実話だから、なお凄い……」と、真知子。
 「今度は、おれが、おまえたちの志を聴こう。真知子の志は何だ」
 「わたしですか、わたしは九大法学部に進んで、将来は弁護士になりたいです。でも成績が、今一で……」
 「いいか、その今一を克服するためには志を持つのだよ」
 「わたし、変わりますか」と、訊き返した真知子の貌には真剣さがあった。
 「志次第で、人間は如何様にも変化する。その志を温めて、目標まで突っ走るのだ」
 「はい!」
 心に希望を得た元気のいい返事だった。
 「では、奈々子は?」と、振ってみた。
 「わたしは、早稲田に進んで、考古学やりたいんです。世界中の遺跡を巡って、文化遺産を発掘できるような考古学者に。小さい頃から、考古学の本ばかり、読んでいましたから……」
 「うん。なかなかいい。その志、遂げられるように、自分の志に忠実に生きることだ」
 この二人の目標は然程
(さほど)遠くないだろう。今後の努力いかんでは、達せないこともない。しかし、この二人には気を付けなければならないこともある。教えすぎれば伸びないのである。
 このレベルをいく二人は、将来を考えてやる上で、まず教えすぎると伸びないということを把握しておかねばならない。ミソもクソも一緒にして、一斉教育を遣ってはならないのである。何故なら、もう大人としての領域に足を踏み入れ、個性が出来上がりつつあるからだ。更に難点は、機転が速いために理解力があり、この速過ぎるということに危険を感じてやらなければならない。
 このような場合、教える側は一つの問いに対して幾通りもの複数回答を用意しておく必要がある。そして、複数回答の最善の答えは、時と場合によって答えが異なるということを教えてやらねばならない。
 人に酷使されて仕える者は、答えは一つで構わないであろうが、自らの未来像を描き、人の上に立とうとする者は、解答は一つでは危うい。
 こう考えると、この修学旅行途中の私の所用で、一旦その場を抜ける私に対して、新海教授は全権として手当てした。そして何故、この二人を付けてくれたか考えてみた。二人を考えると、確かに学力の程度はいい。理解力も早いし、状況判断も、また躱
(かわ)すだけの運動神経も悪くない。
 だが、かつては啀
(いが)み合う犬猿の仲だった。一時期、真知子は、奈々子のことを呪い、不条理だろ喚いていた。しかし今は、休戦して一先ず据え置かれているのかもしれない。
 人は向う目標が一致すると、共同戦線を張るようだ。

 はたして私の場合はどうか。
 私の目指すところは、気が遠くなるほど遠い。五里霧中の先の先にある。
 「では、先生の志は、何ですか」
 すかさず、奈々子が切り返してきた。
 「おれか、おれはなあ。さて、なんだろう?……」
 「猾
(ずる)いですよ、人の志ばかり訊いて、ご自分のことを濁しては……」
 「おれはなあ、途方もない大欲を抱えている」
 「途方もない大欲って、なんですか」
 この点について、奈々子は疑問の余地があるというふうに訊き返した。
 「大金持ちになりたい。それも大富豪にだ。もし、それが叶わねば、最後は極貧に甘んじて、顔回か、原憲のようになりたい」
 「……………」二人の貌がいきなり点になった。
 「もしかすると、背中に子供を背負って子守りしながら、一方で秋刀魚
(さんま)を焼く、その手に人間かもしれない」
 「どういう意味です?」
 「根っからの貧乏性ということだ」
 「こりゃ、ためだ」と、奈々子。
 「では、その貧乏性の人が、どうして派手にお大尽遊びをするのですか!」と、真知子の聲が烈しいトーンに変わった。
 「どうだ。驚いたか!」
 私は、あたかも美僧・慧春尼に自分の一物を見せて、「どうだ、驚いたか。拙僧の一物、デカさ三尺!」と豪語したあの愚僧のようにである。

 「驚きません。呆れるばかりです。バカバカしいと言うか……」
 「それは、感動したという裏返しだな?」
 「違いますよ!」と、断乎否定。
 「あまりにも極端で、呆れているのです!……。いい感じの上げ調子だと思ったら、今度は、いきなり下げたりして。極端過ぎます」と、厳しい批判の奈々子。
 「そうです!こう、乱高下が烈しくては、いったん膨らみかけた志も、これでは凋
(しぼ)んでしまいます。発言に、もっと責任をもって下さい。意味不明で、もう蹤(つ)いていけません。どこか、正常機能に不具合があって、毀(こわ)れているのではありませんか!」と、真知子の脳天トンカチを思わせる烈しい逆襲。

 それは、あたかもヘラブナが餌に喰い付いて、浮子
(うき)がいきなり沈む、あの感覚である。これをヘラ師の間では「脳天トンカチ」と言う。それは、微々たるものだが、絶対に見落とせない浮子の動きである。
 この動きを観るために、釣師は真冬の寒い時でも、何時間でも同じポイントで頑張って、ポテト状の餌を撃ち込み、じっと浮子の動きの眼をこらすのである。
 ヘラブナは他の鮒のように歯がない。獰猛でなく、おとなしい性格だ。喰い付く場合、餌は針ごと呑み込むだけである。したがって、その瞬間の動きは、実に小さい。その微なる僅かな動きを、ヘラ師は脳天トンカチというのである。この観察眼は多くの人が忘れてしまった恐るべき観察眼なのである。
 そして、ヘラブナ釣りのポイントは、鮒を暴れさせないように、騒がせないように釣る。鮒自身、自分がいつ釣られたかということに、自覚症状を感じさせないようにして玉網へと静かに手繰り寄せるのである。
 鮒に気付かれたら、一匹止まりで、一旦喰い付いても、騒がれて底バレを起こす。せっかく集まっていた他の鮒まで散じさせ、以降、もうそこのポイントには集まって来ないからである。他の鮒まで散じさせて、釣れなくなることを「底バレ」という。
 鮒と雖
(いえど)も、自らに迫り来る死の恐怖に対しては、かほどに力強い執念で暴れ回り、抗うのである。鮒が抗えば抗うほど、鮒には力で抑えようとする人間の暴挙を感じるものなのである。このとき、鮒は何が起こったか察知し、わが身に起こっている事態を悟り、ゆえに最後の力を振り絞って、人間の暴挙に抗う。諦めていないからである。一番いいのは、何が起こったかも分からぬようにして、水面に貌を浮かせれば、そこで諦め、覚悟するのである。中途半端にしてはいけないのである。

 「極端がいけないか……。しかし、おれはどっちつかずの中途半端は、おれにとって、大変な悲劇だ。
 おれは、中の上と自称する可もなく不可もなくには、落ち着くことが出来ないんだ。だいいち中途半端では極めることは出来ないし、その人生も中途半端になって、例えば正月が来ても、小林一茶がいうように、『中ぐらいなりの正月』しか迎えることが出来ない。この俳句の裏には、一茶の、世俗に対する批判が籠
(こ)められているのだ」
 「あの一茶の句の『めでたさも中ぐらいなりおらが春』ですか」
 「そうだ。中ぐらいというのはなあ、かの『菜根譚』の作者・洪自誠がいう『ほどほど』と言うのとは違うんだぞ。況
(ま)して、足るを知るでもない。中途半端に甘んじている庶民を、年の初めにかこつけて、裏では皮肉が籠められているんだ」
 「ほんとですか?。わたしには、こじつけに聴こえますが……」と、真知子が吐露した。
 「そう、それは独断と偏見の最たるもの」と、奈々子も指弾するように言った。
 「そうだろうか。そこで、今度は山頭火の『水仙いちりんのお正月です』の一句が出て来る。これ、貧しさの中で、単純で清楚
(せいそ)な気品が輝いていると映らないか」
 「そういわれれば、そうかもしれない。水仙は日本的な草花ですものねェ」と、真知子。
 「そこに、しとやかさと麗
(うるわ)しさあり、更に控えめで、ひっそりとして清楚さを感じさせる……」と奈々子まで相槌。
 「いい形容だ」
 私は、彼女の形容を褒
(ほ)めた。

水仙はヒガンバナ科の多年草である。古くはシルクロードを通って東アジアに渡来した草花である。日本の暖地海岸にも自生化し、地下に卵状球形の鱗茎をもつ。冬から早春に懸けて、花茎の先端に数花を開き、正月の鑑賞用の花として珍重される。

 「では、先生はどういう大富豪になりたいんですか」と、真知子が切り返した。
 「そうだな、白圭
(はっけい)か呂不韋(りょ‐ふい)のような賈人(こじん)。物を流通させて売買をする商人のことだ。単に小売業で売るだけでないぞ。買うことで儲けを弾き出す賈舶(こはく)を操る商人だ」
 私はここまで吐露して、直ぐに新海教授のことを思った。
 貨客船・竜神丸は、実は秘密結社『鉄の会』のメンバーが運行させる賈舶ではないのか……。このとき、ふとそのことを想ったのである。
 「賈舶を操る商人ですか。つまり、物が動けば、当然、お金も動くということですよね」と奈々子。
 「そうだ。商い、つまり売買は、仕入れて売るだけでは儲からない。これをやると、どうしてもアメリカ流の薄利多売になってしまう」
 「では商いは、買が中心で、売りはその往き掛けの駄賃ですか。その駄賃を利用して、第二段階として買いに廻り、そこで利益を出す……。そういうことでしょうか」と、売買の構造を読んだ真知子。
 「よく気付いたな。まさにその通り。つまり、金持ちは資産を買う能力があり、この才がなければ、永遠に夫妻を買い続けて金銭の奴隷にならなければならない」
 「なるほど、いいことをいいますね。では、この大富豪と顔回や原憲と、どう結びつくのですか」と、奈々子が次ぎなる疑問をぶつけてきた。
 「階級の最上位階と最下位階は、種属が似ているからだ。似ても似つかないのは自称『中の上』と自負する中産階級と言われる中間層で、この階級は上層にも、下層にも全く似ていない。おれは、この階級を嫉妬の階級と憶っているのだ」
 「どうしてです?」と、迫る真知子。
 「金持ちの真似をしているだろ。しかし真似しただけで、金持ちにはなれないのだ。そして、自分より下に居る中の中、中の下、更には下層以下を端
(はな)から見下して、この中には混じりたくないと、いつでも嫉妬とともに喘(あえ)いでいるのだ。しかし、如何せん、徳がない。嫉妬が徳を相殺するからだ。徳が伴わねば金持ちにはなれない。富貴は天にあり、天は徳をもつ人物に大金を授ける。
 『論語』の顔淵には、富貴天にありと論破し、富を得られるかどうかは、運命によるものであり、人の力ではどうにもできないとある。顔淵とは顔回のことで、魯の賢人。そして、孔門十哲の首位の陋巷
(ろうこう)で貧乏暮しをしながらも天命を楽しみ、徳行をもって聞こえた人物だ。原憲も極貧の暮らしを楽しんだ人物だ」
 「そのように説明されれば、最上位階と最下位階は、何となく共通項がありますねェ」
 奈々子は何かに思い当たったように相槌を打った。しかし、口許にはもの憂
(う)い感じが残っていた。
 「では、先生は富豪になれずに極貧に甘んじるとすると、日本では誰を目指しますか」と、真知子。
 「そうだな、種田山頭火」
 「富豪の家から顛落
(てんらく)して、種田家は没落し、のちに出家して全国を漂泊し、肉薄したリアリズムの自由律の句を詠(よ)んだ俳人ですか。それも、極貧と言われた……」
 奈々子の口振りには、些かのにがさが籠っていた。彼女は一瞬、複雑な感情を憶えたに違いない。
 「ああ、そうだ」
 この返答を二人は、どう捉えたのだろうか。昏迷が深まったのだろうか。
 私は胸中に生じた差錯
(ささく)を整理するつもりで、口を結んだ。暫くの沈黙が必要だったからである。
 何ぴとも、人間の本質は純粋なものだ。その資質は宝石に喩えるならば、璞
(はく)であろう。だが、その璞は彫琢(ちょうたく)を施さねば宝石にはならない。その本質のままでは光らない。人間に光を与えるのは苦難であり、苦難が人間に磨きを懸ける。ここで人間が、磨かれれば烱(ひか)りを放つようになる。闇でも輝く。

 没落する家がある一方で、低迷した家から一念発起して、のちに再興を図る家もある。
 現実に尻込みし、苦難に遭わないように逃避ばかりの路を選べば、光る原石でも曇ったままで潰える。
 要するに大事業を為して成功した人間は、


 これから、追いつ逐われつの追撃戦が展開される。それは我慢比べであり、持久戦となろう。
 「奇妙ですねェ」と真知子の吐露である。
 彼女は小首を傾げながら、私に言った。
 「そういわれればな……」
 なるほど奇妙だった。
 列車はレールの振動音を響かせながら定刻通りに進んでいるが、車内はあまりにも静か過ぎた。この静かさはむしろ不気味なほどだった。考えられることは、追跡者が何処かに去ってしまい、なにか異変の中に置き去りにされたという感じを受けたのである。いったいあれほど執拗な追跡はどこの消えてしまったのか。
 送り狼でも、その気配を感じている時は、然程
(さほど)(こわ)くはないが、これが忽然として感じなくなってしまえば、これから先に何かの企みがあるとしか思えなくなる。あるのかないのか、こう思うと、余計に不安が募るのであった。
 願わくば、こちらの張りが萎
(な)えないうちに、もう一度、姿をちらつかせてくれよと闇の中に訴えた。外は暁闇(ぎょうあん)に差し掛かっているが、まだ闇も白昼に晒(さら)されていない。

 君子危うきに近付かず……。危難を感得すれば、避けた方がいい。好んで近付くことはないのである。
 「先生は何を警戒しているのです?」
 「闇を看
(み)ている」
 「闇?……ですか」と、真知子が合点のいかぬ貌をした。
 「そうだ。それは同時に、おれの運を観
(み)ていることでもある」
 「では、先生は運がいいのですか」
 「運は至って悪い」
 「その証拠に、おまえらのような小娘の相手をさせられ、薄給で扱き使われる貧乏教師を遣らされている」
 「まあ!いいますね」
 「では、運が悪いと?……」
 「そうだ。運は至って悪い。しかし、運は強い方だなァ」
 「運が強いですか?……」
 「いいか、悪運というのは持って生まれた運のことだ。この悪運は、並みの人間が運命の陰陽に振り回される上がったり、下がったりの乱高下がない。常に変化の少ない同じ状態を維持している。強い運はそのまま永久保存的なものだ。したがって悪運も運のうちだ。死ぬまで維持され続ける運だ」
 「先生は、悪運の強い人ですか。根が悪党なのでしょうね」
 「そういうところかな」
 「そう聴くと、痺れますねェ。真帆さんが痺れるといっていたこと、実はここに回帰されるのですね」
 「痺れんでもいいが、悪運に縋って生きるには、悪運の強さを信じるか信じないかだろうな」
 「わたし、信じます」
 「わたしも……」
 「では、おれの悪運の強さを信じて、また走ってくれ」
 「闇から何か出ましたか?」
 「もう直、出る。気を付けろ、油断はするなよ。人間、油を断たれれば、それで終わりだからな」
 「なにか策はありますか」
 「策などあるものか。出たとこ勝負だ」
 「?…………」
 「強
(し)いて言えば、抗(あらが)わず、直ちに逃げる」
 これ以上の予断はあるまい。しごく明快な答えである。

人生を旅するとは、遊楽の中を旅することではない。一種の戦いの旅である。つまり、日々が戦場であり、毎日が死と隣り合わせの中を往く。人間は生まれて此の方、常に死と隣り合わせにいる。それは男女や年齢の差はあるまい。そして、死と隣り合わせに居るからこそ、生きている意義が余計に分かるのである。

 寝込み襲うという不意打ちがある。これを遣られると、人間は簡単には対処できない。寝込みとは、まるで冬眠中の蛇を襲うようなもので、寝惚
(ね‐ぼ)けた蛇は動きがのろい。
 暁闇で白みかけた時刻、容赦のない刺客が襲おうとしていた。勿論、狙いは私であり、葬ることが目的だろう。私はその危険を察知した。
 「先生の逃げ足の速さは、風にも優りますね」
 「そりゃそうさ。逃げ足が遅いと撃たれる。兵法は、実を避けて虚を撃つことにあると教える。
 これは無謀と言えばいえるかもしれないが、今度は敵の予想もしない不意を狙って逃走することこそ、未来を誤らぬ判断だ。あとは、それを信じるか否かである。己の未来を信じれば、今は逃げることだ」
 「信の一字ですね」
 「それを信じずに未来に何がある。信がなければ、自らは無に帰する。そもそも今の有は、元は無から出たものである」
 「では、どうすれば?……」
 「まずは一戦して、敗れる!」
 「?…………」
 「意味が深くて難しい。勝てなくてもいいのですか」
 「今の勝ちは、明日の敗北だ。相対界の掟
(おきて)である。強いか、弱いか、これは屠殺人(とさつ‐にん)の武技であり、これを逸脱してこそ、もっと上の、人間としての、尊い何かが得られる。殺人剣ではなく、屠殺をやめた活人剣だ。人を活かす剣……。おれは活人の世界に生きたい。
 ……では、納得したところで、逃げるぞ」
 「はい!」
 二人の覚悟の返事だった。これからまだまだ苦難が続く。苦難が繰り返すのは、また生きている証拠であった。人間階に生きるということは、楽しいことより苦しいことの方が圧倒的に多いからだ。誰も彼も、喜怒哀楽の中に生きながらも、苦難という苦海の世界を経験しながら人間道を全うしているのである。
 この二人は、最近それを徐々に理解しつつあった。
 しかし私は、一方で「難儀を拾ったな」という心の支度が必要とされた。


<<戻る トップへ戻る 次へ>>


  運気     八門人相     房中術     癒しの杜     菜根譚     小説     会報Back No.     合気     蜘蛛之巣伝     死の超剋     霊的食養     心法