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合気手裏剣術 2

武家屋敷の間取りの造りは、「間(けん)」という長さの単位により、投擲武器の機距離計算に大きく関係していた。ふつう一間は六尺で、おおよそ1.818メートルである。これは畳の縦幅をいう。
 また手裏剣などの投擲武器に限らず、刀、小刀、槍、薙刀などの攻防戦において間合を計るのに利用された。
 投擲はまた人との戦略武器になりえた。
 戦略の妙締
(みょうてい)は用兵の巧妙さに併(あわ)せ、飛び道具の用い方で妙を極めた。勝ち難きを勝ち、成らざるを成す。総て妙締である。

西郷派の武器術の研究は日本刀のみならず、投擲武器にまで及び、特に手裏剣に至っては、連打による5〜10間の長打を打つ特異な手裏剣をこれまでの研究の中から開発した。この新型手裏剣は、ただ投擲武器として遣うのではなく、刃の部分は、小刀のように斬る事も出来る。
【註】上:21cmの尖先六角長距離打・手裏剣。
 この手裏剣は尖先断面が六角になっているところに注目。刺さった場合の食い込み力が優れている。
 また、先端はナイフのように斬る事ができる。
 下:21cmの八角長距離打・手裏剣。長距離を打つ手裏剣として、古くから秘伝として伝えられた手裏剣を復元。何れの手裏剣も刃物としての刃渡り4.5cm未満のもので銃刀法違反には該当しない。

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●手裏剣こそ「小能く大を制す」最大の特長を持つ

 手裏剣術の特徴として、《武芸十八般》の一つに数えられていることから、僅かな力で、強敵を倒す事が出来る。したがって、「小能(よ)く大を倒す」ことが手裏剣の最大の特徴である。
 これは無手で戦う格闘技や、徒手空拳に比ではない。また、相撲やレスリング、更には柔道の比ではない。同時に健康法としての役割も大きい。外筋ではなく、内筋鍛錬を目的としているからである。投擲武器は外筋による腕力よりも、裡側から繰り出す内なる力を必要とする。
 その特徴は、まず
「力まない」ということである。
 力まず、肉体力を酷使するのではなく、自然の摂理に従い、伸び伸びと行えることである。これこそが
「自然の順応する思想」であり、またその根本には、競技としての勝ち負けを論ずる「強弱論」が存在しないからである。

 今日に伝わる日本の伝統武術は、もはや人間殺傷の次元を超越し、日本の精神文化や健康法としての役割が大きくなっている。高性能銃や原水爆が開発されている今日、手裏剣を人間殺傷の武器と考える武術家や武道家は、存在することはないであろう。むしろ、健康法として、健康プラス護身術でこれを考える人が多いであろう。
 この事は、長年柔道や空手を愛好し、師範の域までに達した人が、歳を取ったのを境にして、これらの肉体派武道からきっぱりと足を洗い、晩年の健康法と、悠々自適
(ゆうゆう‐じてき)の人生を求めて、手裏剣術に転向する人が多いことから見ても、手裏剣は非力であっても一打必殺の気魄(きはく)があれば、まだ戦闘武術理論として、その勝機が存在する事が窺(うかが)える。
  則
(すなわ)ち、年齢に関係なく誰でも修練出来、またハード・トレーニングをして健康を害したり、上肢や下肢に障害を引き起こすこともなく、無双の境地を導き出すものとして、その精神性の高いものとして捉える事が出来るのである。それは、まさに弓道の如しである。

 日本の手裏剣術は、西洋のナイフ投げとは多少異なっている。それはナイフが、西洋式小刀であり、物を割き切り刻むという目的で造られ、「切る」という目的に終始しているのにも関わらず、これを敵に投げるという術が「ナイフ投げ」である。
 しかし手裏剣は、「切る」という目的よりは、「打つ」というイメージのもので、「投げる」とは異なるのである。更に、標的に「一打必殺」と云う気迫を込めて打ち込み、こうした事を目的にしているので、その形も大いに異なる。投げることには共通性を見るも、「一打必殺」と云う、「打つ」次元は大いに異なるものである。また、「打つ」と「投げる」では言語的な解釈も異なる。
 また、手裏剣に似たものに「小柄
(こづか)」があるが、これは一種の小刀(こがたな)であり、手裏剣と、その用途は異なっている。
 小柄は、もともと刀の鞘
(さや)の鯉口(こいぐち)の部分に指し添える小刀(こがたな)の柄の事であり、鞘に収まっている時は、柄の部分しか見えない。
 しかしこれを引き抜くと、その柄の穂先きに小刀が仕組まれている。しかし この小刀は手裏剣のように投げる為のものではない。

 小柄は、御家中
(ごかちゅう)と称される武士が、城に登城した際の待合室で待たされる時に、その暇潰しとして楊子(ようじ)などを削ったものとされ、また鞘の表の部分にあたる小柄口と、反対側にある笄(こうがい)は笄口に仕込まれ、これは一種の耳掻きであった。時間潰しの為の小道具として、小柄があり、笄があったのである。こうして考えると、小柄は「手裏剣」の代用品となる事はあったであろうが、「小柄」イコール「手裏剣」ではないのだ。

西郷派が開発した『竹筒手裏剣』
 格闘の最後に来る為の、生き残りを賭けたその土壇場は、刃物がものを言う。
 勿論、組打柔術はとことん研究し鍛練しなければならないが、生死を賭けた最後の土壇場では、刃物がものを言うようだ。

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 今日の多くの日本人は、武術の世界とは無縁に暮らしている。
 こうした、無縁の人たちは、映画・テレビ・小説などから、大衆的に江戸時代の生活を垣間見て、正しい武術観を認識していない。時代劇の映画製作者や、武術に無知な時代小説家の意図のままに、誘導のままに、間違った、偏った武術観を構築し、そうした感覚でその時代を感得していることが少なくないようだ。
 誤った時代的錯誤と、その認識度合いは甚だしく、例えば投擲武器
(とうてきぶき)である「手裏剣」に対し、これを「小柄」として認識している無知である。

 映画製作者の無知、テレビ時代劇の演出者の無知、時代小説作家の武術に対する認識の無知によって、小柄と手裏剣を混同し、「小柄」イコール「手裏剣」と認識していることである。
 小柄は非常に軽いもので、刀の鞘の内側に指すものであり、これは明らかに手裏剣とは異なる。こうした軽い物を、敵に向かって投げた場合、至近距離ならばともかく、2m、3mと離れた距離から投げつけて、果たして敵に届くものであるか、あるいは投擲武器として敵を倒せるものであるか、甚だ疑問であり、おそらくその用をなさないであろう。

 したがって「小柄」イコール「手裏剣」ではないのだ。
 小柄とは、今日で言う「ペーパー・ナイフ」のようなもので、江戸時代の楊枝
(ようじ)削りであり、あるいは封筒の封を切る小型のナイフのようなものだ。
 また小柄自体、長距離に投擲する為の「投げ銛」の用途を満たしていないので、小柄は、まさしく手裏剣とは異なった、江戸時代の武士の生活日用品であったという事がわかる。

 しかし用途の使い道に同じくするものに「貫級刀
(かんきゅう‐とう)」があり、貫級刀は代用手裏剣になると同時に、戦記を伝える書物には、かつては敵将の馘(くび)を打ち取った時、貫級刀の剣尾の孔(あな)に紐(ひも)を通し、貫級刀の尖先(きっさき)を、打ち取った敵将の片方の耳の孔から、真横に突き入れて、他方の耳に抜き、耳孔に紐を通して、この馘を腰に設(しつら)えたとある。貫級刀は十六世紀の戦国期の名残りをと止めたものなのである。

 更に、「手裏剣」について説明を加えておかなければならない事は、小柄を手裏剣と誤解しているほかに、手裏剣を忍者が使う「十字手裏剣」と誤解していることだ。
 テレビ時代劇の、マンガや時代劇製作者の武術に対する認識不足が、こうした視聴者への誤解を招き、更には日本武術や武芸を信奉する外国人に誤解を招いているということだ。
 十字手裏剣、八方手裏剣、車手裏剣などの「忍者もの」は、時代劇作家の勝手な想像によって生まれたものである。そして、このらの手裏剣の使途と、架空の存在を、あたかも時代的に実際に存在したかのような、錯覚を作り出し、これらが日本武芸ファンの外国人に間違った認識で持て囃
(はや)されていることだ。ここにマスコミの横暴がある。

 手裏剣の原形はあくまでも「棒手裏剣」
(他にも「針手裏剣」というものがある。基本的には「棒手裏剣」はずっしりと重い)であり、本来はそれ以外の手裏剣は存在しない。
 また、それ以外の手裏剣の形態があったとしても、それは《武芸十八般》でいう、「手裏剣術」の手裏剣ではない。
  しかし、残念なことは、手裏剣術で言う「本当の手裏剣」が、時代劇映画やテレビに時代劇で、一度も登場したことがないということである。総て手裏剣は、映画やテレビに製作者によって勝手に創作され、勝手に演じられたという事実である。

 昨今は「韓流ブーム」によって、韓国時代劇ですら、現代韓国人の劇作家が作った韓国時代劇が、さも実際に存在し、その流脈が今日にも流れているかのような錯覚を与えて、無知な日本人を魅了しているが、こうしたことは事実無根であり、まず人間は空中を飛び交ったり、あるいは「剣を刀のように使う」という技術は、もともと韓国にはなかったことだ。
 剣は、本来ならば「剣法」
【註】日本では、剣法は「剣術」の意味ではない。剣術は、日本に中世以降斬るための刀法と同じものである。それは「反り」のある日本刀を用いるからだ)といい、刀ならば「刀法」という。
 多くに日本人は、こうしたものに誤魔化され、それが間違った歴史観・武術観にもかかわらず、安易に、無知に信じていることだ。
 また、間違った歴史認識や、武術的認識で韓国時代劇映画を、日本で放映しているNHKの外国映画の放映責任者あるいは担当者の罪も決して軽いものではない。
  今日、日本で放映されている韓国時代劇の多くは、正しい歴史観を誤解させ、あるいは武術的認識を歪曲している。

 例えば韓国では、豊臣秀吉が朝鮮征伐
【註】日本での呼称は「文禄・慶長の役」、朝鮮では「人辰倭乱」という。朝鮮半島は十六世紀のこの時代、激しい戦乱もなく比較的平和だった)をした頃を、時代認識と武術認識の薄い製作者によって創作した時代劇を、歴史的事実の如く放映し、両国民の大衆の歴史観や武術観を狂わせ、更には捏造(ねつぞう)するという歴史歪曲と、武術認識度を偽っていることにもかかわらず、「創作」という事実を隠して、これを放映し、歴史を捏造することに手を貸していることだ。

 「創作時代劇」は、あくまで「創作」として、その範囲でとどめ、これに歴史的根拠があるが如くに放映するのは、ジャーナリズムとして如何なものか。
 あるいは日本大衆を、創作時代劇を通じて、四百年も以上の前の歴史に遡
(さかのぼ)りさせ、自虐的(じぎゃくてき)に誘導する意図が隠されているのか。
  そして、歴史と武術的認識に疎い多くの日本国民は、自己主張の機会が与えられず、これを歴史的事実と認識し、懺悔
(ざんげ)と自虐の双方に苛(さいな)まされる。
 世界の近代史はおおよそ、こうしたマスメディアの横暴によって捏造されるものなのかもしれない。

 さて、手裏剣術における手裏剣は、あくまで手裏剣であり、最初から間合いの遠い敵に向かって「打つ」ことを目的として研究された、《武芸十八般》に含まれる日本武芸の一つであったのである。そして、その真髄は必ず打ち抜く、「一打必殺」であった。
 したがって「一打必殺」が存在するからこそ、手裏剣は《武芸十八般》に数えられるだけの価値があったものだと推測され、その殺傷能力は絶対であったと推測される。



●西郷派大東流の手裏剣術

 わが流の手裏剣術では、一間半までを「直打法」で打ち、それ以上の距離を「回転打法」または「半回転打法」で打つ。
 手裏剣を打つ場合の、最初に教わることは、一間半の距離を徹底的に修得し、この距離から次第に伸ばして行くのである。しかし、一間半の距離では、畳的に当っても中々刺さらず、これを克服する為にある程度の時間を必要とする。その為に、「一間半」の直打法を徹底的に研究し、万打自得に徹するのである。
 この万打自得ができた後、次に距離の伸ばし、「二間半」並びに、更に伸ばして「四間半」以上の遠間の距離を打つ。しかし距離が長くなればならるだけ、困難を極めることになり、この間に手の裡や、打ち方の癖を直し、「強弱の度合い」を調節する打ち方が教えられる。このレベルが中級である。

 実戦では、変化すると言う「戦場の理
(ことわり)」があるので、その変化に対応しなければならないが、このレベルは上級者のレベルであり、極めて困難であり、然(しか)も自由自在に動くものを打つと言うのは難しいことである。動くものを打つ、この打法をわが流では「動の間合」と呼び、この間合を秘伝として来た。しかし、今日の日本武術界のあって、「動の間合」を会得してた達人クラスは、数えるくらいにしか居ず、此処まで達するのは容易なことではない。

打法数 打法十四の型 打法レベル わが流における
現在の習得者
上段打ち(静の間合) 初級域 若干数
中段打ち(静の間合)
八相打ち(静の間合)
四方打ち(静の間合) 中級域 若干数
横打ち(静の間合)
逆打ち(静の間合)
坐打ち(静の間合)
寝打ち(静の間合) 上級域 皆無
対剣の隠打ち(動の間合)
10 夜隠打ち(動の間合)
11 対刀・対槍の組み打ち(動の間合)
12 左右両手での八相打ち(動の間合) 達人域 皆無
13 横打ち十文字(動の間合)
14 乱斜打ち(動の間合)

 ちなみにテレビなどに出て、自分なりの武術研究家として、論陣を張っている人のレベルは「動の間合」を会得した人ではなく、動かない畳などに向けている「静の間合」で打つ中級レベルの人で、達人などとは、決して口が裂けれも言えるものでない。
 さて、わが流では「静の間合」および「動の間合」を含めてその打法は、14の打法の型があり、これを会得して、各々の間合を打ち込んで行く。



●武運

 人間の生涯における貧苦、逆境、困窮、あるいは不時の難に当っても、そこには同じ道理が働いている。道理の中には、己が己自身を信じるという行為がある。必ず克服し、必ず勝つと信念を抱くことである。それを固く信じる。したがって暴策を用いて自滅を急ぐのとは、その信念が異なるのである。この信念こそ、つまり武運の根元であった。
 一方、世に験
(げん)を担ぐという行為がある。以前のよい結果の通り同じことをして、前途を吉兆を推し量ることだ。いい日はいいとして験を担ぎ、また悪い日は悪いと験を担ぐ。いい場合は運命に借りを作るが、悪いと貸しを作ることになる。このように思念することも、また瞑想の世界では効果が大きい。これは理性的に判断して意味はなくとも、心理学的に検(み)れば心に安定に繋がっているのであり、こういうのを非科学的として排除すべきでない。
 更に思えば、例えば宗教におけるさまざまな儀式は、極端な言い方をすれば、験を担ぐ行為になっており、これにより集大成して荘重な行いは人の深層心理に強く働き掛けるものである。武運長久も験を担ぐことに由来し、共時性などから考えれば、験を担ぐことにより、幸運の呼び水になる場合もある。

 江戸中期の儒学者で、新井白石の推薦で幕府の儒官となり、将軍吉宗の侍講となった室鳩巣
(むろ‐きゅうそう)の『駿台雑話』に出て来る「武運の稽古」の大事というのがある。
 日常が非日常に変化した時、本当に役立つのは体力ではなく、体質の善し悪しで決定されるとする鳩巣の説は実におもしろい。霊肉ともに鍛錬し鍛える中には、ただ躰と心を鍛えればそれで済むというものではない。
 つまり体質の善し悪しの有無を言う。体質が悪ければ、例えば伝染病の流行域に入ってしまっては忽
(たちま)ち死んでしまうからだ。生き残って、自らを活かし、かつ他を活かすためには「武運長久」でなければならず、「武運」がなければ生き残れない。肉体を鍛えるばかりでなく、武運の鍛錬もしなければならない。
 この当時の、江戸期の武士たちは、武運の稽古の大事を知っていた。

「智」とは何か。
 思えば「智」とは生きるための道具であった。よりよく生きるには、どうしたらよいか。ここに焦点が当てられ、「智」が起こった。それがやがて洗練されて哲学にもなり得た。しかし「智」とは、生きるための道具に他ならない。したがって「智」によって生きるのではない。生を条件においた上に「智」が載っているだけに過ぎない。こうなると「智」より生が基本になってしまう。
 そうなると道具である「智」が生の主人になり、ここに合理的という言葉が登場することになる。合理的思考は、眼に見えるものだけを追い掛ける分別裡になり、また知識のみに偏って、肝心なる眼に見えない藕糸
(ぐうし)が隠れていることを見逃してしまうのである。藕糸を見逃せば、物事を一切無機物として感得してしまい、有機的な結合をなしている肉の眼に確認できない大局を見逃してしまうのである。
 そうなると矛盾多き現象界では、不条理とが理不尽が浮上して煩悶
(はんもん)する結果を招き、知識主義が横行することになる。
 現象界で今日人間を監視し監督し、管理するのは大半が文明の利器と称される機械によって行われる。機械は合理主義から生まれた科学一辺倒主義、あるいは物資至上主義から生まれたものである。しかし、人間の生の動きは、機械の動きでない。人間が行動を起こすとき、それは「信」の上に成り立ち、「信」に照らし合わせて媾合が起こるからである。
 この「信」は武の道においても、信ずるからこそ行動となるのである。術者は、己
(おの)が鍛えた心身の鍛錬の結果を信ずるから、「信」において戦うという行動を起こすのである。また「信ずる」からこそ、そこに運気が発生し、それが「武運」となるのである。

 『駿台雑話』には、次のようなことが書かれている。
 鳩巣先生は、江戸の旗本や御家人の師弟で構成される若侍が集まって、何やら修養の話をしているところに出くわした。最初、鳩巣先生は黙って彼等の話を聴いていた。
 ところが、鳩巣先生は何を思ったのか、突然次のようなことを言った。
 「諸君らは、日々武術の鍛錬をしていることと思う。まことに結構なことじゃ。だが、幾ら武術の技に優れているとはいっても、武運が拙
(つたな)くては何もならぬ。ところで、諸君は武運の稽古はしておられるか」と言い放ち、これを聴いた一同は唖然(あぜん)となり、これまで勢いよく、それぞれに意見を交わしていた若侍たちは急に黙ってしまった。
 そこで鳩巣先生は、再び切り出した。
 「武運を養う稽古こそが、此処で私が聖人の書を講ずる所以である。武運は徳の現れである。聖人の書に説かれているのは、徳を積む修練法が書かれているのだ」そう指摘したのである。

 蘊蓄
(うんちく)の深いものは、表皮の解釈では分からないと言っている。奥の奥を汲み取るには、根底に潜む人智を超えた教えを学ばねばならないと言っているのである。
 この場合、鍛錬術は深いものと浅いものがあるが、肉体に潜むものも深い浅いがある。


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