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そろそろ死のうか 1

続・うまく死ぬ法 そろそろ死のうか






 本セクションは、安楽死とか極楽浄土に行けるなどの、死後の世界に向かう、その種の手引書でもないし、またその方法を解説したハウツー物でもない。
 死について、自分自身で真摯に向かい合い、生きているうちに死生観解決に当り、思考することを促すものである。
 人は、常に「人生とは何か」と、問い懸けを持ちたいものである。

 そして最期を迎えるとき、人生を顧みて、臨終間際「自分の歩いた足跡には、面白いものが一杯転がっていた。嗚呼……、何と面白い人生だったことよ」と、死に恵まれる幸福の切っ掛けを掴んで頂ければ幸いである。
 死生観の解決の糸口に繋がれば幸いである。

 さて、人生において最大の幸せとは何だろうか。
 それは「より善き死」に恵まれることである。
 真実の智慧を得て、臨終の刹那、「嗚呼……、面白い人生だった」と、そう言う感想が一瞬にでも感得できれば論じた論者は論者冥利に尽きる。

 晩年は人生最後のラストスパートとして、「より善き死」に恵まれるために、死の準備をしておかねばならない。そのために、そろそろ死ぬ、人生最後の最大の幸せ掴む努力を開始しなければならない。

 いま死に直面している人も、これから直面するであろう人も、人間は非存在として一時期存在を許された生き物であるから、生死は表裏一体であり、そのことを常に念頭において生きる人生は、生も死も充実した人間に廻る生・老・病・死の四期を有意義に過ごせる。真剣に生き、真摯に死に向かい合うことが出来る。

 より善き死は、何もせずに指を銜
(くわ)えて俟(ま)っていればいいと云うものでない。それ相当の覚悟を必要とする。
 生きているうちに、死に馴染んでおく必要がある。
 この覚悟を作る準備こそ、人生最大の課題となろう。
 死は逃げ回っていれば、それで済むと言うものでない。誰にでも間違いなく遣って来るものである。

 人生最大の幸福は、よく生きることである。また、よく生かされることである。そしてその背景には運に恵まれることであった。
 人に恵まれ、過程でも友人関係でも、また職場の同僚なのに恵まれ、よき仕事に恵まれることであった。

 しかし、最後の最もよく恵まれるべきは、より善き死である。
 より善き死は、棚ぼた式で口を開けて俟っていても遣って来ない。自らで掴み取らねばならない。そのためには用意周到な準備がいる。

 冬は「殖(ふ)ゆ」の季節。殖える季節。貯える季節。
 春の種蒔きに備えて、冬に貯える。貯えて春を俟つ。
 四季の春・夏・秋・冬は再び廻るが、人の四期の生・老・病・死は、死で一応終止符を打つ。しかし総てがこれで終わったのではない。
 次の生を俟つために死に入る。
 四季では冬は死に譬えられる。この季節は、みな死んだように映る。
 しかし総てが終わったのではない。一時期隠れるだけである。

 さて、そろそろ死のうか……。
 これには準備と覚悟が要るのである。
 死から逃げ回っていては、死ぬにも死ねないのである。
 “極楽という名の地獄行き”のキップより、生死を超克した死生観解決へのキップを手に入れたい。
 そろそろ死のうか……。意味深長である。
 そこに、逃げ回る死との対峙は無い。

 而
(しか)して、次元の低い者や低俗なる輩(やから)とは、自ら事を構えず、好意が持てないのならば争いもせず、避けてただ去ればいい。
 晩年期は、喧嘩相手も選ぶべきで、こちらか無視して遠ざかるがよい。人は好意と信用の出来る相手のみ、論争相手とすればいいのである。無駄な論争は濃厚な時間の浪費となる。

 生・老・病・死の各段階には、必ず若気に至りと言うものが存在する筈である。若さ故に失敗もしくじりも多い。
 しかし、これを乗り切って後の人生に繋げる原動力は、運であろう。
 それも「悪運」と言っても過言ではないだろう。

 より善き死を迎えることの出来る「死」に恵まれるには、健康であるよりも健康そうに見えることである。また健康そうに見えるには、体力よりも体質である。善き体質をもって、病魔を交わし、時には病魔と共棲し、清濁併せ呑むことである。

 善も悪も呑み込んで一体とすれば、もはや病魔に追い掛けられることは無い。健康体も病体も、無駄に意識する苦悶からは解放される。
 そしてその土壇場で、より善き死に態
(ざま)に恵まれればいい。
 果たして死病から追い掛けられても、一体でいられる間は、逃げずに踏み止まれるのである。
  



●けじめ意識

 娑婆(しゃば)では汐時(しおどき)と言うものがある。娑婆を去る汐時である。そして去り際を逸すると、後味の悪い思いが後に控えている。
 汐時、つまり去るタイミングを間違うからである。

 人間が棲
(す)む現象界世界では、「いつ行うか」という行動や行為に関する“いつ”という刹那(せつな)のタイミングがある。刹那ゆえ、瞬時の判断力を必要とする。そしてタイミングを外せば、以降の行いも無意味なものになる。汐時は誤ってはなるまい。
 判断力および決断力が問われる所以
(ゆえん)である。したがって消極策に固執していては時機(とき)を逸する。逸した後の行為や行動は無意味と言わざるを得ない。

 更に無意味であるばかりでなく、場にそぐわず、時を間違った反作用として、後には後味の悪さが残る。心の裡
(うち)に「凶」が巣食う。暗雲が垂れ込める。それは時と場所を間違ったときの起こるようだ。
 では、どのような後味の悪さが待ち構えているのか。

 例えば、こういうこともある。
 公私のけじめが急速に失われていることである。社会通念が、奇妙な捻
(ね)れ方をしていることである。そのために場所を弁(わきま)えない人が多くなった。
 また自らの立場を理解せず、公に従事する職務柄ということ解してない節がある。公人としての自身の立場を弁えていない節がある。最近はそういう人が増えたように思うのである。

 「弁えない」という現代特有の現象に、長年生きて来た者は、年少者を傍
(はた)から見ていると、うんざりさせられ、失望することもある。見苦しさがあるからである。
 あたかも「犬も喰わぬ……」の、そう言う落胆と失望である。
 公私のけじめと、公人・私人の区別はつけておくべきだろう。自らが公人か私人かを弁えておく必要があろう。

 近年、ある夫婦の若い国会議員が子育てのために、父親に当たる議員にも育児休暇が必要だというようなことを言い出した。
 こうした言は、民間企業での会社員の申し出ならば、ある意味で尤もなことと思う。企業は利益を追求して過剰利益を社員奉仕や福利厚生に遣えばいい。国民の税金を喰う訳ではない。社員に利益の還元をして、その家族に奉仕すれば済むことである。これに公金が遣われる訳でない。

 しかし、いやしくも国会議員と言う日本国の平時有事を問わず国政に関わる重職が、父親にも子育てのために育児休暇が必要だという言のは、如何にも議員として、公私混同も甚だしいと思うのである。
 また、公人と私人は根本的に立場が違うからである。国民の血と汗の結晶である貴き膏血が費やされているということを知り、それを弁えねばならない。

 一般国民の庶民層から見て、一般のサラリーマン以上に高額な報酬で国政に従事する国会議員が、育児休暇などと、国政を放り出しての休暇は、国民側から見ても実に不可解に映るのである。国民を代表した公の場に従事しながら、また国民に奉仕をする重責任務をおいながら、個人の権利を持ち込むのはいかがなものか。
 果たして、日本国の将来を国政と言う大舞台で、どのように考えているのか、また一般会社員の如きではない自らの立場を何処まで理解しているのか、甚だ疑問である。公人意識があるのだろうか。

 国家の有事の際にも、戦時有事にも、育児休暇などとぬかすのであろうか。
 そもそも国会議員に立候補したときから、自らの生活を犠牲にしても、公僕として国民に奉仕する覚悟は出来ていた筈である。
 したがって、公人は個人の権利も一般に比べて狭くなり、制約され、ガラス張りの生活空間が国民から検
(み)られ、常にその姿勢を問われ、その覚悟があって総てを承諾したうえで立候補した筈である。
 それだけの併せ呑む覚悟があって立候補し、国民から選ばれたことを誇りに思って、その輝きを背負って公務に専念すべき、国民の代表者ではなかったのか。そのために一般のサラリーマン以上に高額な報酬を受けとる。その見返りとしても、一般国民以上の俸給を受け取る。

 だが、個人の所用で休暇すれば、その期間の欠席分は換算して貰い過ぎた額は返納すべきではないのか。これが公私を分ける「けじめ」であろう。そして当然そこには、公人と私人の一線を画する歴然とした境目があって然
(しか)る可(べ)きと思うが如何なものであろうか。

 そもそも政界と言うところは、自分のためにああしたい……こうしたい……の意志を殺して、他人の意志を代行する義人の集まりである。
 そして現に、世には育児休暇を貰えない下層階級の人がゴマンと居る。政治家が国民を差し置いて、自分の権利を優先して行動したら、その政治家は大多数の国民から、「ふやけたことを言う」と忌憚
(きたん)されはしまいか。次回は選出されないかも知れない。

 父親の育児休暇などと言うことは、傍から聴いていて亭主議員が女房議員に対して、国民のことより自分のことを優先して国民のことは後回しと映るのである。夫婦揃っての子育てに励むことは結構なことであるが、それは一般国民こそ優先されるべきで、公人は、私人の後でも遅くはないだろう。

 国会議員は公僕である。国民の奉仕者である。偉いのではない。役人風ならぬ議員風を吹かしてはならないだろう。
 国会議員が本当に仕えねばならないのは、所属政党でもなく、また政府の大臣達でもない。仕えるべきは国民である。
 また民主主義下では、主権在民の民主に対し“御用聞き”のような存在だ。
 御用聞きが役人風を吹かして、威張り腐っては御用聞きにもなり得まい。
 御用聞きは客の注文を聴いて廻る役目がある。広く注文を訊いて回る。単に清潔であるだけでない。襟を正すとともに、注文を訊いて回る為に頭を低くして粉骨砕身せねばならない。偉いと思い上がってはならない。民主主義下の鉄則である。

 そして民主主義下では、政治家は清き川に棲
(す)む魚で無くてもいい。
 「清き川には大魚棲まず」の喩
(やと)えもある。水が清くなれば大魚は身を隠すところが無い。小物の雑魚しか棲まなくなる。
 民主主義下の御用聞きはいろいろなことをする。
 そのために、危険極まりない獰猛
(どうもう)な動物に綱を繋ぎに行く勇気と、したたかさがいる。清潔一色の無力な善人では何もならない。

 そもそも日本人は元々遺伝子の中に外交音痴の因子が組み込まれている。そのためにいつも西洋列強の政治家達に赤子の手を捻るようにあしらわれて来た。
 国際政治が展開される時代、外交上手の手腕も問われよう。その才がいる。
 清潔で口先だけの、弁舌爽やかな国際政治の理論家然だけではどうにもならない。御用聞きとして積極的に動き廻らねばならない。その評価が問われて然
(しか)る可(べ)きである。
 それでいて威張らず、夜郎自大にも陥らず、頭が低いことが民主主義下の御用聞きの真の姿であろう。

 国民に低姿勢のポーズを取るのは、何も選挙戦を闘うときばかりではない。普段から御用聞きとして低姿勢でなければならない。威張ったり、夜郎自大になればそこまでのレベルである。
 御用聞きは広く注文や要望を聞くことが仕事であり、本来の役目である。そして顧客の要望を聴き、それを政治に反映させ、理想とする志に向けて公約実現のために奮闘しなければならない。この中に家庭の事情を持ち込むのはお門違いであろう。そんなものは後回しでいい。御用聞きは御用聞きとしての仕事がある。その仕事に徹するべきである。

 そのために公約を並べ、被選挙人として立候補し、当選議員はそれが支持されて、国民から選ばれた筈だ。
 選んだ側の期待がある。それに答えるべきだ。
 自己権利のみを求めて、自分を優先したり、公人としての役目を弁えず、選んだ選挙人の期待を裏切るべきでない。
 したがって自分のことは後回しでいい。国民のことを最優先するべきだろう。国民が幸せになるために奮闘すべきである。

 公人たる国会議員に、どうしても育児休暇が必要であるとするならば、その裁決に対しては国会運営の体制側が決定を下すのではなく、被選挙人は選挙人である国民側の国民会議などに判断や審判を委ね、公人は国民の同意を求めるのが筋であろう。
 被選挙人は常に民主の名の下に、国民同意の多数決をもって賛否を問うべきである。これを国会運営側の議員団で決定するより、選んだ側による採決権と決定権に委ねるべきである。

 世の多くの下層階級の底辺の国民は血税に喘いでいる。
 その一方で、“国会議員にも育児休暇を”などと、ふやけたことを言えば、それ自体に厳しい指弾の目が向きかねない。
 筆者である私にはそのように映るが、果たして読者諸氏はいかがお思いだろうか。
 もし反論や批判があるのなら、それは筆者に帰るべきで、他に転嫁する気持ちはない。受けて立とう。

 公務に携わる側の政府要人が、一般企業の労働組合的なことを遣り出せば、肝心なる重要裁決の公務はどうなるのだろうか。また、有事に際しても育児休暇などと、ふやけたことが筋として通るのだろうか。

 そして現状を顧みれば、日本国民の庶民層は、満足に育児休暇など貰えないで、夫婦の権利を無視されて労働している底辺の就労人口の方が圧倒的に多いのである。この下層の人達を差し置いて、公人が私人を差し置くとは、どういうモラルだろうか。その無神経を疑うしかない。
 それとも、モラルと言う意識が時代と伴の変化したのか。
 また民主主義の基本的人権は、単に何人
(なんぴと)も個人優先のエゴイズムの実践なのだろうか。
 それならば、この個人主義は“悪しき個人主義”に墜落するだろう。

 自分らの育児休暇を論
(あげつら)う前に、国民全体が育児休暇を総て実施できる政策を実現した後に、今度は自分らの番と言うのが御用聞きの役目である。御用聞きが我田引水を遣ってはならない。
 そのために自らを粉骨砕身して、国民の諸休暇が総て施行できる状態にして、法が確立してからでも遅くないのである。その時はゆっくりと休暇を取ればいい。
 公人は、経済的にも弱き私人を先に行かせ、総ての人が行き終わった後から、次に公人が行けばいいのである。
 行軍ならば殿
(しんがり)を務めるべきだ。防禦の「後備え」である。公人は最後尾で、公人としての役目を果たすべきである。その役目が出来て、始めて国民から尊敬を受けるのである。

 しかし、今日の日本人が国会議員やその他の地方議員に対して、大した尊敬を払わない現状は、国民から尊敬される前に、自身で自身を“偉い人間”と思い込んでしまうことである。そうなると国民からの信頼は薄れ、出身学閥の威力だけでは尊敬を集めないのである。そういうものをひけらかしていると、失望を買うばかりである。実行力とか決断力と言う以前の、自らの政治家として、殿も毅然として勤める姿勢であろう。一番美味しい米飯は他人に廻す、そして自分は糠飯を喰う……という、この姿勢こそ、尊敬を受ける偉人としての姿であろう。
 偉い偉い……国会議員は偉い……を自作自演していては、出しゃばりの気分屋として失望を買うばかりである。

 公人は自分のことを我先に先走るのではなく、自分のことは後回しにして、国民の一般私人が国の恩恵に預かってから以降でも遅くはないのか。
 本来公人と言うのは、そういうことが実践できる国民の代表者ではなかったのか。その代表者は、時として御用聞きの役目を努めなければならないのである。

 国会議員が自分のことを国民より数段上で、偉いと思い上がったり自惚れたならば、そこで御用聞きとしては失格であり、その役目は顛落
(てんらく)したことになろう。それは国会議員としての役目も失格したことになるのである。
 御用聞きは何処までも御用聞きを全うしなければならない。権力筋と思い上がってはならない。低姿勢でいいのである。

 誰もが標榜する自由と平等の民主主義下では、国会議員は決して雲の上の人でないのである。
 第一の役目は御用聞きである。国民のために粉骨砕身する公僕である。国民のための奉仕者である。そのけじめ意識だけは確
(しっか)りと心得るべきだろう。
 また選挙人が被選挙人を選ぶ場合、被選挙人にけじめ意識があるか否かを、選挙人は見定める責任があるだろう。“偉い”という思い上がりは禁物である。そして後味の悪さ、胸糞の悪さを国民に与えてはなるまい。
 政治手腕で、御用聞きとしての役目を果たして貰いたいものである。国民の期待はそこに懸かっている。

 かつて国際主義などという言葉があった。それに併せて、この時代を“三化け時代”などとも称した。
 三化け時代とは、その筆頭に国際化が挙げられ、続いて情報化、そして高齢化であった。これを称して三化け時代と称したのである。
 時代はまさに国際化の只中にある。地球規模で各民族・国民が経済発展のために鎬を削り、もみ合う時代に突入した。こうした背景に国際政治額なる学問まで研究し始められた。
 こう言う時代では、かつての日本人のように外交音痴では、政治家は国民の御用聞きとしての役目は果たせないであろう。

 ところが日本は旧態依然の党派対立があり、それぞれは水と油のような関係で、協調姿勢や建設的意見に欠ける。それぞれが、まるで“ドングリの背比べ”である。目屎鼻糞を嗤うの茶番劇が国会では繰り広げられている。
 そのうえ議論と言えば、小難しい論理展開に明け暮れ、野次擬いの応酬である。これも実に後味の悪い余韻だけが残る。国民には雲の上の議論合戦のように映る。そしてこの種の党派対立だけでは、国民はうんざりしているのである。この背景の元凶には党派対立間での“けじめの無さ”も挙げられよう。

 更に現実問題としては、国民の格差不満などもあり、社会の現状は未だに解決されていない。
 民主主義下の政党政治も、党利追求の、国民不在の議論合戦だけでは政治家としての能も無いし、才も無いことになる。無能な政治家は、自身で無能を晒していることになる。
 国際政治舞台で、現代の政治家は、どのような御用聞きとしての役目を果たせるか、此処に焦点を当て、党派対立より、また政治家個人の私人としての一面の、権利などと言うふやけたことを国民を差し置いて優先させてはなるまい。またそう言うことを、口にしてはなるまい。
 政治の舞台も日本国内に止まらず、地球規模になった。民主主義下では、政治家は国民の代行者として御用聞きの役割を確
(しっか)りと果たすべきだと思うが、いかがなものであろうか。



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