運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
うまく死ぬ法 1
うまく死ぬ法 2
うまく死ぬ法 3
うまく死ぬ法 4
うまく死ぬ法 5
うまく死ぬ法 6
うまく死ぬ法 7
うまく死ぬ法 8
うまく死ぬ法 9
うまく死ぬ法 10
うまく死ぬ法 11
うまく死ぬ法 12
うまく死ぬ法 13
うまく死ぬ法 14
うまく死ぬ法 15
うまく死ぬ法 16
うまく死ぬ法 17
うまく死ぬ法 18
うまく死ぬ法 19
うまく死ぬ法 20
うまく死ぬ法 21
うまく死ぬ法 22
うまく死ぬ法 23
うまく死ぬ法 24
うまく死ぬ法 25
うまく死ぬ法 26
うまく死ぬ法 27
うまく死ぬ法 28
うまく死ぬ法 29
うまく死ぬ法 30
home > うまく死ぬ法 > うまく死ぬ法 1
うまく死ぬ法 1

即身成仏  うまく死ぬ法








 現代は「死の哲学」「死の思想」が蔑ろにされる時代である。
 ただ死を恐れ、忌み嫌い、逃げ回るばかりで、死と直視しない時代となった。
 今日の多くの日本人は、病院で生まれ病院で死んで逝くプロセスの中に取り込まれ、死に直面して混乱し、うろたえ、恐怖を感じながら死んで逝く。
 本来、死は超克せねばならない課題でありながら、何らその探求すること無しに迷いと失意のなかで、ただ生に固執するばかりである。
 現代は何故このように死に無知になってしまったのだろうか。

 高齢者社会を迎えた今日の日本では、死に真摯に向かい合い、やがて死するであろう自身について、人間の宿命に対して模索している人が果たしてどれだけいるだろうか。
 昨今の世は、死を悪と考え、死から逃げ回ることばかりを企てる時代である。
 人間は死なないことが正しいとなっている。
 この考えは現代の医学をみれば克明になる。そして誰もが、自分の死は遠い先にあると思い込んでいる。

 しかし、死は決して遠い先にあるものではない。隣り合わせである。
 宿命は固定的だが、運命は流動的でありダイナミックにうねるもの……。
 決して固定され、決められた道筋があるものでない。突如として変化するものである。その変化の最たるものが「特異点」というものであり、突然の「どんでん返し」である。これに襲われたら、ひとたまりもない。これまでの運命は進退窮まる。
 特異点に抵抗しても、人智では、いかんともし難いのである。
 こうして襲った特異点の尖端に「死」が待っているかも知れない。現代人は何故このように、死に対して無防備で、忌み嫌い、人間が死ぬ存在と自覚していないのだろうか。

 無慙な死、非業な死、こうした死を「横死」と言う。事故や事件、思い掛け無い災難や紛争の戦火に巻き込まれて死ぬ死を、こう言う。一般には不慮の死と片付けられてしまうが、その死の刹那が凄まじい。断末魔に襲われる死である。筆舌に尽くし難いほどの苦痛極まる死である。
 そして、巧く死ねない悲惨な死を、横死と言う。

 人間、死ぬには死に技術がいる。
 いかに死ぬか、どうしたら巧く死ねるかの、死ぬための技術である。
 現代の世は、長らくこの技術を蔑ろにし、ただ生きることだけが正しいように考えられて来た。ひらすら死から逃げ回って来た。

 科学万能な時代、万能の筈の科学知識は、人間にとって最も根源的な「死とは何か」あるいは「いかに巧く死ぬか」の回答が未だに出来ないでいる。
 根本なる死ぬための技術について、何ら解明して来なかったからだ。ただ死から逃げ回り、生きることだけに知識の拠り所を求めて来たからである。

 人間の人生は、その最後に死が待っている。
 本来、死ぬ筈の人間が、死なずに生きていることは奇蹟に等しい。人間は非存在的な生き物である。やがては死に見舞われる。ゆえに死と真摯に向かい合わねばならない。生に固執し、死から逃げ回るのは愚行である。

 また、死によって肉体が滅べば、何も残らないとする科学的見解は、人間が何処から来て何処に帰って行くかを何ら回答していないのである。
 死をひらすらタブー視して、隠したり、真摯に考える研究を怠ったりしているのが現代の世である。
 現代人は生を前提として生きるのではなく、人生最後に死を迎える、死について、あるいは上手な死に方について、今こそ考え直す時期が来ているのではあるまいか。



●大往生への途

 どんなふうに死にたいか。
 この世と、どう訣別をするか。
 死ぬことについての最大の関心事は、高齢者ならのことであろう。
 自分がどう言う死に方をしたいか……。
 これを問われて、しかし戸惑いもあるようだ。

 何故なら、人生の見聞の中で他人の死は検
(み)てきているが、やがて死に臨まなければならない自分の死に対しては、殆どの人があまり注意を払わないからである。それは高齢者でも同じだろう。
 他人は死ぬが、自分は未
(ま)だ死なないと言う思い込みがあるからである。
 つまり、人間は生きている間、他人は死ぬが、自分は死なないと思い込んでいるのである。

 特に、死について研究をして来なかった人は、死後の世界を端
(はな)から信じているなどは聞いたことがないからである。ただ漠然と、「死後の世界などある訳がない」と一蹴(いっしゅう)する人が殆どではあるまいか。
 したがって、自分がどう言う死に方をしたいかとなると、漠然としていて、出来れば苦しまずに安楽に「ポックリ」と死にたいを考えている人が殆ど出はあるまいか。

 ポックリ死ぬ……。
 この死に方は一部の幸運な人に限られるようだ。
 大半はそうはいかない。
 多くはポックリと死に得ず、老いと病気は同居するもので、老いつつも病を患い、それも短期ではなく長期で、病人のベットに縛り付けられ、それでいて直ぐに死ねるのなら未
だしも、昨今の医療技術の延命治療は優秀であるから、簡単に“入院”即“ポックリ”とはいかないのである。病んでも死ぬまでには長い時間が掛かるのである。
 そして近年の病は、老いと同居しているために、本来ならば、老いと死が同居していなければならない分けだが、老いや病と同居してしまったのである。そのために老いて弱って病を患い、この患う期間が、昔に比べて長くなったのである。

 簡単には死ねないのである。
 換言すれば、簡単には死なせてくれないのである。死のような病にかかっても、ダラダラと引き延ばされ、ひと思いに死なせてくれないのである。
 こういう中途半端な死について、その発端は中途半端な無神論者であったことに元凶があるように思えてならない。

 戦後の日本人の大半は無神論者である。神仏など信じていない。
 しかしこの無神論者が問題である。それは中途半端であるからだ。
 現代日本人は昔とは異なり、“科学的”という言葉に誑
(たぶら)かされて多くの日本人は中途半端な無神論者になったことである。完全なる無神論者なら未だしも、不完全なる中途半端な無神論者である。

 その証拠に、口では神仏を認めないくせに、先祖の墓参りはする、盆・彼岸・命日には線香を上げ、結婚式は神前にぬかずんだり、あるいは教会のバージンロードを誇らしげに新郎新婦とも腕を組んで歩いたり、仏式の葬式には寺に詣り、神式では教会に訪れたり、正月には初詣して、暮れの三十一日まで除夜の鐘を聴いていた仏教徒が、一日開ければ神社に詣でて神道氏子へと早変わりする。
 子供の高校入試や大学入試には、合格祈願に神社仏閣に詣で、合格したらしたで、お礼参りをする……などの、日本人は無宗教と言いながら、その実は中途半端な無神論者なのである。

 しかし、こういう人はよく観察すると、無神論者と言うより、宗教への無関心が発端となっている場合が少なくないのである。

 よくよく考えてみれば、宗教への無関心者と、唯神論を支持しないと言うのは、根本的に違うのである。
 つまり、宗教への無関心者は、その人自体が単なる無知か、思想上、イデオロギ上の怠慢であり、また傲慢
(ごうまん)ですらあるのである。
 敢えて言うなら、真の無神論者とは、神や仏の永続的な徹底した対決と格闘の経験をもって、神仏を徹底的に否定するという立場をとってこそ、無神論が本当に肯定出来るのである。

 世の中には唯物論を信じる無神論者も居るし、唯心論
(唯神論)を信ずる敬虔な信仰家も居る。
 したがって、宗教に関しては肯定する人と、否定する人がいる。
 問題になるのは、宗教肯定者も宗教否定者も、この何れかを決定するのに、最低でも十年以上はそれを信じるか否定するかの心の格闘が必要であろう。この格闘無しに、安易に科学的と云う言葉を信じたり、振り回されて、何れかに落ち着くのは早計であると思うのである。

 死後の世界があるのかないのか……。
 この有る無しに関わらず、人間が死を迎えると言うことは簡単ではないようだ。
 ただ、死に際して「上手に死にたい」「巧く死にたい」そして「苦しまずに死にたい」と思うのは万人の願いだろう。誰もが安らかに死んで逝きたいのである。

 そこで、死を上手に受け容
(い)れ、出来るだけ抵抗せずに自然体で死んで逝きたいと思うのは万人の願いであり希望であろう。
 しかし、願っても訪れないのが人間現象界の奇妙なことである。願えば、願った分だけ逆に逃げて行く現象を起こすから、人間界とは不可解な世界である。

 死ぬことは難しいように思える。
 また、人間は死期に至っても、簡単には死ねないものである。死ぬには、死ぬだけのエネルギーがいるからである。
 では、死ぬエネルギーとは何か。
 それは生に未練を抱かず、この世に名残惜しさを持たず、自然体で死を受け容れることであろう。
 ここに、上手に死ねるか否かに懸かろう。

 そのためには、まず死と親しむ必要がいる。生きているうちに死と親しむことである。
 それは死を否定する努力で無く、死と馴染む努力である。臨死体験などもこれに入ろう。
 そして少しずつ、死の方に近付いて行く。そのためには無理な肉体酷使の健康法をしたり、サプリメントをたらふく呷
(あお)って、健康食品依存症になることではない。
 不自然な長命を願わないことである。
 長命を願わないことこそ、巧い死に方である。上手な死に方の秘訣である。

 そして過剰エネルギーなどの余剰は無用で、老いればこれを始末しておく必要がある。
 「余剰」とは、あのマルクス経済学の主要概念の一つとして数えられた「余剰価値」に匹敵するもので、資本家が支払った労働力の価値
(賃金)以上に労働者によって生産された価値のようなものである。
 死に際して、余剰など無用である。死ぬ時は無一文でいい。もともと人間は生まれる時は無一文ではなかったか。
 何を掴んで死に就こうと言うのか。

 余剰エネルギーの始末こそ、上手に死ねる秘訣なのである。
 ではどのように余剰エネルギーを始末するのか。
 簡単なことである。
 老いた躰に鞭打って働けばいいことである。仕事をすることである。
 これはスポーツをすることではない。肉体酷使のスポーツをすることではない。
 仕事をするのである。
 働き続けることは人間の自然の姿であるからだ。

 労働する。働く。それも老人が働く。
 この実情は、見た目には酷なように映るが、老人は、死ぬその日まで働くことは、むしろ好ましいことであり、働く仕事を持たない方が、実は苦しい老後の過ごし方になるのである。
 躰は酷使する必要はないが、動かし続けることはいいことである。そこに働く意義がある。
 寿命が尽きる、死のその日まで働く。それでいいのである。

 老境に入った……。
 老後こそ、楽して暮らせる時期が来たなどと考えるのは、お門違いである。
 更に老後こそ好きことをして、物見遊山を真似て大尽然として過ごす。また、退職金を少しずつ切り崩しつつ、悠々自適の年金生活に満喫して、エンジョイするべきだなどと考えるのは、自らの死に態
(ざま)を悪くする。これこそ不成仏の相である。
 人間は仕事からリタイヤできないように作られた生き物なのである。

 大往生を得るとは、死ぬその日まで、懸命に働き続けることであった。魂を遊ばせないことであった。無意識の緊張を継続させることであった。更には働くことにおいて、老体に鞭打って働き続けることであった。決して老齢期と言う長期休暇に入ったのではない。

 人間は老いても働き続けることが自然体であった。死ぬその日まで働き続ければいいのであった。
 この「働き」は、理想的には元気で健康で……ということが最もよい事であろうが、何も健康であらねばならないということではない。健康であることよりも、健康そうに見えることだ。病んでも、健康そうに見えればいい。

 また、不運にも半身不随になったり、寝たっきりを強いられた場合、それでも頭は働かせることが出来る。頭が働いている状態が、働くことであり、これは賃金を対象にした“労働”という意味ではない。
 死ぬまで働き続ける。死のその日まで懸命に働く。これが真に生きることである。
 これが自然体で、自然の人間の姿であるから、死はあるが儘に受け入れればよかった。
 これだけで、死の恐怖は半減する筈である。そして死の妄念から解放される。

 老いれば、巧い死に方を模索せねばならない。どうしたら巧く死ねるかを研究しておかねばならない。
 だが、それは自殺的に死ぬと言うことではない。
 死ぬには自らの役目を果たさねばならない。働く役目を全うし、寿命が尽きるまで生きることである。
 それが大往生を果たすことになる。間違いなく成仏することになる。それも力まない自然体でなければならない。

 大往生するには、いい老後を過ごさねばならない。死について模索する老後を送りつつ、上手に死ぬことを考えておき、最後の最後の死の土壇場で、巧く死ぬことなのである。
 つまり、生きているうちから、即身成仏の稽古に入るのである。
 生きているうちに即身成仏をすれば、死は少しも怕
(こわ)くはない。生きながらに臨死体験をしておくことである。これは死を超越することである。

 成仏するとは、この世に思い残すことが無く、また未練も引き摺るでもなく、綺麗さっぱりと、娑婆をおさらばすることである。この稽古をしておかねばならない。その修練を積んでいなければならない。
 この稽古を怠ると、この世に未練を残したまま死を迎えることになる。死した後、未練が引き摺って成仏を覆
(くつがえ)すからだ。
 例えば、たった一枚の着たかった着物や、食べ損なった美食や、海外旅行で行っておきたかった観光地や、金品を惜しむなどの、物に執着する思いは、往
(ゆ)くべきところ往くことが出来なくなる。

 肉体が滅びても意識は残る。
 霊魂と言うのは、換言すれば意識である。この世に生きていた時の意識を引き摺っていては、真っ直ぐ往くべきところに往けないのである。

 仮に不幸な生い立ちであり、不幸な人生を送り、恵まれたものは数えるほどしかなかったとしても、心の持ち方しだいで成仏し、すんなりと往くべきところに往けるのである。心の鍛練により、未練や執着などは消去させておかねばならない。
 しかし考え方を間違い、鍛練を怠り、それが災いしてこの世に残留することがある。
 生きているうちの心の鍛練の違いが、成仏を全うさせたり、不成仏を作ったりしてしまうのである。

 欲とか嫉妬とかは禁物である。気掛かりも駄目である。恨み辛みを引き摺っては、巧く死ねないのである。
 人間は長生きすると、「枯れる」という現象を起こす。これは肉体が枯れるからであり、肉体力が薄らげば情念も枯れいく。枯れ木のようになって死ぬのが最高なのである。
 枯れれば、金銭欲も物欲もなくなる。色欲すら消える。
 老後とは、これを自ら経験しつつ消すことに専念するのである。楽しむばかりが老後の過ごし方ではない。

 そのため先ず身の回りを簡素にすることであり、単純化し、かつ完結化できるように、その準備に取りかかる。
 また、「自分のことは自分でする」と言う、意図も簡単な行いを自身で癖をつけることである。自己完結性が必要なのである。

 世に、自己完結性を持っていない人間は多い。他人任せで自力で完結すると言う覚悟を決めている人は少ない。何事も他人任せで、人に頼る。人を当てにする。現代人の特徴のようである。
 自分のことは自分でする、自己完結性を持つことこそ、大往生への途
(みち)となるのである。



●なぜ死んではいけないのか

 現代は、死んではいけないと言う理論で世の中が動かされている。
 死は悪者扱いにされている。
 現代人は、なぜ自然死を望んではいけないのだろうか。
 私は、こうした素朴な質問を持っている。

 死んではいけない理由にこうした考え方がある。
 「あなたは健康であるから、死が未だ遠い先にあり、実際に死に直面したことが無いから、“なぜ死んではいけないのだろうか”などと寝ぼけたことをいう。人間はどんな状態にあっても、生き続けたいと切に思うものだ」と、死を頭から否定する現代流の考え方がある。
 人間が何処までも生に縋
(すが)り、生き続けるのは人間の本能であるというのである。

 しかし、生が人間の本能の命ずる発現であっても、その一方で歳を取れば、精神は徐々に衰え、生に固執する精神力も希薄になり、その状態にあっては自然と死を受け入れると言うのも、また本能ではないか。
 死もまた、本能の命ずるままに、死に就こうとするのではないか。
 死期を悟れば、本能は死に従う。
 そして死を受け容
(い)れ易いように、人間には老齢期があるのではないか。

 人は時間とともに老いる。
 老いて老齢期と言う濃縮された時間を過ごす。人生で一番濃縮された時間である。
 その時期こそ、死ぬために準備をする時ではないか。
 死を謙虚に学ぶ時間である。老朽化した肉体を着替える時を知る。それは総ての面に於いて衰えるからである。そして、次ぎなる生命の再生を試みる決意を固める。
 それこそ、実に人間らしい自然の本能と言うものである。そして、その時点で人生を完了してもいいのである。

 だが、医療側にはその締念
(ていねん)を乱す考え方がある。
 自然死と言う道理に逆い、充分に生きてこの世を去る段になって「諦める」という行為をさせない不条理がある。何が何でも生に縛り付ける。簡単には諦めさせないのである。
 それが「死は悪だ」という思い込みである。
 果たして死は悪だろうか。

 もう、自分で自力移動することも、自力で喋ることも出来ない死期を迎えた人を無理矢理、生命維持装置に縛り付けて、命のみをダラダラと存続させる。
 こうした装置に縛り付けられた人は、本来は回復の見込みが無い。自力移動も不可能である。
 況
(ま)して、生命維持装置の世話になった結果、回復して社会に復帰して働くということは、もう絶望的なのである。それでも、こう言う人は時々目を開けたりする。確かに呼吸もしている。色艶もいいように見える。

 もし自分が生命維持装置の世話になって、寝たっきりの立場の患者であるとき、時々目を開いて「まだ自分は生きているのだ」と感じることが、自身で可能であろうか。そう言う知覚があるだろうか。
 また、その時に生かされている喜びがあるだろうか。それとも絶望を感じるだろうか。

 さて、上手に死ぬためには、それ以前に対策を立てていなければならないようだ。充分な準備が必要なようだ。
 死の準備は、何処で整えておくかが問題となって来る。
 ズルズルと生に縛り付けられる前に、巧い手を考えておかねばならない。
 なし崩しに生に縋らせられるようでは、その死も暗澹
(あんたん)たるものとなる。
 そうなる前に自己完結性を持っていなければならないのである。



  運気     八門人相     房中術     癒しの杜     菜根譚     小説     会報Back No.     合気     蜘蛛之巣伝     死の超剋     霊的食養     心法