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死の荘厳 1

死の荘厳







 人は“この世”に生きる生き物である。そして肉の眼に見える物質世界で生きている。
 この世界では、この世が「苦界」と定義されながらも、一方で幸せを感じ、悲しみで一杯になったり、何事かに腹を立てたり、絶望の“どん底”に叩き落されて、それでも這
(は)いずり回り、あるいは光明の光を発見して、明るく溌剌(はつらつ)とした希望を見出したりして生きている。

 しかし折角見つけた幸せも、あるいは希望と思ったそれも、永続的なものでなく、時間の変化とともに費
(つい)えることがある。そして再び“旧(もと)の木阿弥(もくあみ)”に戻ることもある。

 苦悩したり、長患
(なが‐わずら)いをしたり、束(つか)の間(ま)の笑いに転げたり、生真面目(き‐まじめ)に涙を流したり、とにかく食べて、働いて、遊んで、寝て、ささやかな定期的な慰安を楽しみ、人は生きている。

 ところが、こうして生き続ける人も、いつか自分の持ち時間である
「寿命」を迎える。やがて、その寿命とともに死を迎えることになる。生まれたものは、やがてこの世から去って逝(ゆ)く運命にある。その時を迎える。
 それが「臨終の瞬間」である。

 死は孤独なものと連想し易い。なぜなら、それもたった一人で、肉の眼に見える世界から消えていくからだ。
 しかし、それで人が総てが終わったのではない。何もかもが無くなってしまったのではない。肉体の消滅で、そう錯覚するだけだ。

 世の中には、一つの考え方として、「死ねば総てがそれで御仕舞
(おしまい)」とする考え方がある。
 特に、日本人のような特定の宗教を信仰することがない“中途半端な無神論者”は、「死ねば総てが無くなってしまう」と思い込んでいる。そういう先入観の中で、この世を生きている。
 しかし果たしてそうだろうか。
 人は死ねば、それで総てが終わり、何もかもが無くなってしまうのだろうか?……。
 また、総ては無に帰するのだろうか?……。

 死とは、古い肉体を脱ぎ捨てて“この世”と“あの世”の世界の「入り口」に立つことを言う。
 素直に見えない世界の「入り口」に立たされたことを、「死」と受け入れるのである。そしてこの素直な意識は、更にこの世では経験できなかった「未知の世界」へと旅立つ……。
 しかし、それは遠い国への旅立ちではない。

 “この世”と“あの世”は、隣接した世界である。“この世”にダブって“あの世”が隣接している。死者の旅立ちは、隣接の世界での旅立ちである。死者の意識は隣接地で意識体として在
(あ)り続ける。

 人間の生きる総ての条件の中で、愛が最大で、掛け替えのないものならば、愛こそ、人の肉の眼で見ることの出来ない世界を、垂直に感得する唯一の「鍵」と言えるのではあるまいか。
 そして「愛」こそ、眼に見えない霊的な波調が注がれている、「見えない心」の現れなのである。
 何故なら、見えない心には意識体の念が堆積されているからである。

 肉と心は死した後、それぞれに別のものを構成するからである。
 本来、生死が表裏の関係とする思想からは、死んだからといってそれで総てが終わった訳でない。肉体は腐れ果て、白骨化し、現世からは魂魄で言う「魄」となるが、魂と言う意識体は存在の念を維持する。
 しかし、肉体の腐れ果てる無常観は否定できない。
 それを古人は「九想
(くそう)」と言った。あるいは「九相」と言う。
 九つの変化・変貌のことである。

 九想とは、人間の死骸が腐敗して白骨化し、更に土灰化するまでの九段階を観想することで、肉体への執着を断ずるための人生教訓をさとしている。そこに無常観があるのである。

犬に食われる女の屍体。
 美女も死ねば膨張し、腐乱する。腐乱死体には蛆が湧く。皮膚は腐り膿血が流れ死臭が漂う。肉体の死は斯くも無惨で不浄に満ちている。
 生きとし生けるものの哀れさがある。

(『六道絵』より)   


 人間が死んで、その「相」を九つに分けた九段階の絵を九相図といい、この絵に九想観を『大般若経』よって観想している。また、これを表した絵を『六道絵』という。そして人間の死体は、生きている時とは異なり死後、九つの推移の変貌を遂げて行くという。
 また、花の色は時間とともに移り変わる。今の栄華は時間とともに変貌する。


 生は果敢ない。虚しい。いずれ死を迎える。
 人間が生きられる時間は余りにも短い。果敢なく、虚しい故に、生きている姿は「かりそめ」である。生はかりそめである。そこに一切のものは無常であるとする観想がある。

 九想観の「相」に“蓬
(方)乱相”なる第四の相がある。
 そして、その道歌はこうである。

恨みても甲斐なき物は鳥辺山(とりべやま)   

         真葛が原に捨てられるる身を

 この道歌は、かりそめの姿を飾り立てて、どうするのだろう?……と、化粧や装飾品を纏う疑問符がある。
 かりそめの姿のものは、やがて朽ち果てる。
 喩え科学や技術に凭
(もた)れ掛かって僅かばかり余命を繋ぎ止めても、いずれは朽ち果てるものである。朽ちはれる現実から眼は反(そ)らせない。

 恋に、酒に、歌にと狂奔したところで、その若い肉体の青春の三部曲は、やがて萎
(しぼ)む時を迎える。若い肉体はしぼむ花に等しいのである。
 思えば、朝に咲いたら夕べに散りゆく「ひとときの花」である。如何に美しく咲いても、やがて散るあえないひと時の命でしかない。

 しかし、あえないひと時の命の実体を知らぬまま過ごせば、ただ燃焼するだけで、それも完全燃焼なら少しは増しであろうが、不完全燃焼となると何とも哀れだ。
 肉体に享受できる時間は短い。
 酔いと恋と歌は、確かに若い肉体に宿る三部曲であるが、長期の持続は難しい。やがて萎む。

 ところが、生に固執する現代の世は、そうではない。
 若い命が萎まぬうちに、夜の喧噪の灯に惹
(ひ)かれ、夜もすがら歌い、酔い、恋をして狂奔しようではないか……というのが現代の生に対する考え方である。
 だが、よく考えれば、これは若さに対する考え方と、人間の心理状態が全く正反対になっているのである。
 つまり、若いうちに旺盛に、野心を燃やしつつせっせいと働いて金を貯め、恋に歌に酒にと、自由恋愛を楯に、かりそめの雨宿りを企てる。若いうちはバイタリティーだけが取り柄である。この取り柄を生かして、この時期は適当に雨宿りをすればいい。そして真物
(ほんもの)は、この時期にない。
 真物は潤沢な資金を貯えた、歳を取ってから遣って来る……と、そう信じている。

 さて、老境に入った。
 歳を取ってから、少しは金も出来た。経済的に不自由をしないだけの金もある。それで遊べばいい。時間も閑も出来よう。そして、「さあ遊んでもいい……」となった。
 だが、その時は頭も禿げ、歯も幾本か抜け落ち、貌も皺だらけ……。こう言う状態で誰に相手にされよう。まさに悲哀である。
 現代の世に生きる人間は、昔と違い、生きながらに九相図のような生き態
(ざま)を実践しているのではないか?……と思わずにはいられないのである。老若男女を問わず、現代人はこれを地で行っているように思えてならない。


●死ぬその日まで、働く

 人間の行動原理に、「働く」という現実がある。人は、齢(とし)を取っても、なお働き続けねばならない。老齢だから、働かなくていいということは許されない。死ぬまで人間には働くことが付き纏うようである。

 往々にして老人は、若い時に一生懸命に働いたのだから、せめて齢を取ったら楽をさせてもらって、働かずに、のんびりと隠居して、年金生活をする人が居るが、これは明らかに間違いである。

 老齢期に達したこの時こそ、残された人生は少なく、この時に、人生最後のラストスパートが出来ないようでは、後半の人生は失敗していることになる。この事を老人はもっと謙虚に、もっと虚心坦懐
(きょしん‐たんかい)に受け止めねばならぬだろう。

 心の中に「わだかまり」があってはならない。心に何のわだかまりもなく、さっぱりした、平らな心が必要である。そうした心で、物事に臨むさまが、また虚心平気をつくるのでる。ここに平安が訪れる。

 人間は世襲に流されて、訝
(おか)しな社会常識に染まっている。
 その為に、誰もが若いうちに一生懸命に働き、齢を取ったら楽をする為に「働かない」という、老後の設計を目指して、若い時はだけに一生懸命働こうとする。
 これは「働かない為に働く」と言う、訝
(おか)しな理屈である。その逃げ込む先は、年金生活者の“働かない世界”であり、これこそ、矛盾の最たるものである。

 つまり、現代人は働くと言う目的はその先に、「働かない」という影を引き摺
(ず)っているのである。
 人は齢を取れば、働かせられることは、“まっぴら”と言う意識がある癖に、口では心にもない「老人には働く場もありゃしない」などと、不平不満を言う。
 そしてその心理は「働きたくもなし、怠けたくもなし」という、働かないことの言い訳に似た心理が働いている。この意識は、老齢者だけではなく、老若男女を問わず、共通した意識ではあるまいか。

 働かない人間は、退化の一途を辿るようだ。
 働かないことにより、“怠け者”になるだけではなく、思考能力は著しく低下し、人生の実際が全く見えなくなってしまうのである。そして不平や不満ばかりが強くなり、“愚痴”や“文句”ばかりを口にすることになる。
 最早
(もはや)こうなると、思考能力は低下し、物事の大局の流れが掴(つか)めなくなる。

 かつてはこうした能力低下に陥ったのは、主に老人が中心であった。しかし老人と同じ現象を起こしているのが、就業年齢になっても「働かない青少年世代」である。この世代の働かない若者は、老人と同じ思考回路を持ち、同一系の能力低下が伝染しているようだ。
 彼等の多くは、職がないから働かないのではなく、働きたくないから、職が少ないことに、“不満の言”を洩らしているのである。そして異口同音にして“政治の貧困”を論
(あげつら)い、社会の仕組みが悪い、世の中が悪いと、その所為(せい)にする。

 当然、働かないのであるから、生活の基盤を支える収入源の得る方法を知らない。金銭的にも困窮している。その為に福祉に頼ろうとする。
 しかし日本の福祉制度はそんなに甘いものではなく、財政難を理由に、生活保護者を出来るだけ排除しようとする。この悪循環が、人間を生きる屍
(しかばね)にしている実情がある。
 これこそ、生きながらに「死んだ状態」なのだ。

 人間が死んだ状態に陥れば、最早
(もはや)何も見えなくなる。思考能力も退化するばかりである。
 大局的な流れが掴めないのであるから、視
(み)ている先は“目先”であり、小さなことばかりに固執し、それに頑迷にこだわり、他人の“揚げ足”を取ることばかりを考えるようになる。
 こうした考えに陥っているのは、何も老人ばかりではない。若者の中にも、けっこう、こうした考えに固執する者は少なくない。

 他人に“善”ばかりを要求して、自分の“善”を蔑
(ないがし)ろにする。他人の非を責める。思考全体が“幼児化”する。そして自分が“善”になり切れないので、心は常に不安定であり、安らぎがいつまで経っても訪れない。

 さて、此処で挙げる“善”とは、何も宗教的な善を挙げているのではない。心安らかな“善”で、もっと日常的な人間としての行為であり、忠誠を尽す“善”である。あるいは孝行をするという意味の“善”である。これは義理を果たすとか、義務を果たすといった意味合いもを含んでいる。

 この“善”の境地を会得すれば、仲間を信頼する心情も、自
(おの)ずと“善”となり、したがって、「裏切る」という行為に出ない。
 金・物・色に振り回される、この“現世”と言う世の中は、とかく世知辛
(せち‐がら)いものである。打算的である。
 計算高く、何事にも抜け目がない。損をすることはしない。
 その為に、他人との約束を守らないものは多く、義理を欠く人間も多い。約束事を実行出来ない現代人は多く、人間の行動原理を全く理解していない、躰
(からだ)だけが大人と言う者もいる。幼児期からの変態が巧くいかなかったのである。

 約束事を履行
(りこう)し、実行すると言う“決まりごと”に、「時間を守る」というのがある。
 しかし僅かな時間のズレを、意に介さない者がいる。そしてこうした者に限り、真実を述べず、自分勝手に見事な言い訳をする。
 世の中で最も信用出来ない、近付いてはならない人間のタイプである。
 昨今は、こうした人間が老若男女を含めて激増している。自分の“行い”を、全く制御できないのである。

 このタイプは、昔は年齢的な現象として、老人によく見られた現象であったが、昨今は若者層にも殖
(ふ)えている。表面は確かに若者の皮を被っているが、その中身は老人以下の、既に人間を終了している者もいる。こうした人間は老人に限らず、自分のことを棚(たな)に上げて、他人の立場が分からず、何事にも無関心になったり、狭量になったり、自分の事ばかりを何とか相手に認めさせて、自己主張ばかりを強硬に押し進める輩(やから)である。
 つまり、思考全体が極めて幼児的であり、幼児趣味に後退している。

 こうした実情に陥っている若者の場合は、人生を断片的に切り取ってみて、一言で「若気の至り」と、その後に改悛するチャンスもあろうが、老人の場合はそうはいかない。残された時間が少ないからだ。

 「生」の余白を少なくして、後は「死」が待つばかりの、余命に余白のない人間は、ただ死を待つばかりではなく、“頭を鍛える必要”があろう。特に、老人は急務である。
 かの朱子学を奉じながら陽明学に傾倒し、陽朱陰王と評された佐藤一斎は言う。
 「老いて学べば、死しても朽ちず」と。
 『言志四録』の一節には、そうある。

(わか)くして学べば、壮にして為(な)すあり
壮にして学べば、老いて衰えず
老いて学べば、死して朽ちず

 佐藤一斎は江戸後期の儒学者である。林家の塾頭たり、昌平黌
(しょうへいこう)の教授となった。そして経書に、訓点を施したことで知られ、これを世に「一斎点」と称された。

 長寿とは、単に長生きをしたことを指すのでない。朽ちる肉体以外に、何かを自らに宿さねばならない。何を宿したかが死した後に問われる。
 また、長老は、単に“長生きをした”という老人のことでない。長生きした老人にも、幼児的な老人もいるし、その環境次第で、長老には値しない人もいる。動物的に老いた人も少なくない。

 ところが長老と言われる人は、それだけに物知りであり、博学の域を持ち、まさに佐藤一斎が言うような、この一節にピッタリくる人なのである。ここに「学ぶ」という深い意味がある。
 それは「学ぶ以外ない」と解することが出来るかも知れない。人は学ぶ中に人生がある。

 頭を鍛える最良の方法は、絶えず、物事や他人に対して抗
(あらが)うことである。心身共に抵抗感を感じることである。
 抵抗のある状態に我が身を曝
(さら)し、これと抗えば、肉体的にも精神的にも、一種の「働き」という行動原理が生まれる。
 この事が、「死ぬその日まで働く」ということなのである。

働く朝を象徴する朝の木漏れ日。

 抵抗のある状態に、常に曝
(さら)されるのであるから、当然そこに起こりうる問題は「厭(いや)なこと」が多くなる。理不尽を身を持って感じ、この悪環境の中で抗(あらが)うことが、実は「働く」ということなのだ。

 他人から“厭な目”に遭
(あ)わされて、腹立たしく思ったら、これを「素直に感謝する」のである。これくらい「働き」という中において、自己の心身を賦活(ふかつ)させるものはないであろう。
 死ぬその日まで、何かに抗い、抵抗していれば、簡単には惚
(ぼ)けないし、頭の鍛練にもなって、自己を見失わずに済むだろう。
 そしてこの境地から、「死生観」というものを正視してみる必要がある。



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