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死ぬるも、また一大事 1

死ぬるも、また一大事







死のトンネルを抜けて。洞窟の先に見える光は何か。


●老成のすすめ

 人間は四十歳になると「初老」と謂(い)われる。つまり、老境に入りかけた年齢なのだ。
 しかし、多くの現代人は平均寿命が伸びた為か、「四十歳」という年齢に、老いを感じる人は少ない。
 かつては四十歳を「初老
(しょろう)の紳士」などと称したが、今では四十歳を「老」と形容して、この年齢を表現する人はあまり多くないようだ。

 むしろ“初老”という年齢を先送りして、五十歳を初老と呼んだり、六十歳を初老と呼んだりしている。
 こうした初老に対する年齢意識の間違いは、小説などにも多く見られ、作家自身が「初老」という年齢を間違っているのである。老いると言うことに、現代は何らかの意味を持たず、ただ若いだけを旨としているようである。
 つまり「人間が老いる」という、“老いる行為”を見逃しているのである。

 では、こうした間違いは何処から起るのか。
 それは現代人特有の、初老に入ったら、これまでの肉体的偏重世界からそろそろ抜け出して、精神世界へと移行しなければならないということを知らない為だろう。人間は年齢と倶
(とも)に、最初、肉体や物体に宿ったものを、精神へと移行するからである。
 また、そうした機能と移行への働きが、人間には備わっているからである。

 更に「老いる」という行為が、やがて「死」に至り、生を全うしたことへの完結を迎えるのである。
 人の一生を数直線上に並べれば、生・老・病・死という四つの「四期」を辿る。この四期は季節の「四季」に欲にている。
 つまり春・夏・秋・冬だ。

 農事を見れば、この春・夏・秋・冬はより一層明確になる。
 春に種を蒔
(ま)き、夏に苗を植え、秋にはそれを収穫し、冬には収穫した農作物を貯蔵する。
 秋になれば、春に種を蒔き、夏に苗を植えら労働の苦労が、秋にやっと報われるのである。汗を流した労働の苦労は、その成果が報いられ、収穫した米や麦その他の穀物で酒が造られ、あるいは甘酒を造って、村中に振る舞われその歡喜が充
(み)ち溢れるのである。老若男女を問わず村は歡喜に包まれるのだ。

 そして冬になれば、それが貯蔵される。貯蔵の目的は再び春になったら、その種を蒔く為だ。種を蒔くことは次の季節に備えて「殖える」ことを意味する。だから「冬」を「殖
(ふ)ゆ」などと称するのだ。冬こそ、生命の息吹を貯蔵された蔵の中で感ずる時で、此処に至って、「一粒の麦」は、自分が「死ぬ」と言う行為を通じて、次の生命を確保するのである。

 「一粒の麦」は地に落ちて、死ななければいつまでたっても、“ただの一粒の麦”である。しかし、死ねば実を結ぶ。自分が死ぬことにより、他の生命を生かすことになる。次の生命の為に、自分が犧牲になって死ぬことこそ、多くの生命を生かすことになるのだ。他を生かすには、自らの生命を犧牲にしなければならない。
 自分の生命を犧牲にするというのは、決して“損をする”と云うことではない。また、虚しいことでも、悲しいことでもない。自らを犧牲にすると云うことこそ、実は人間にとっては「歓喜」なのだ。真の喜びなのだ。

 他の犧牲になって生きると言う生き態
(ざま)こそ、実は自分の「生」を満たすことなのである。それは誰でも、自分の死が近付いた時にはっきりと自覚することだろう。死は暗いものでも、また逃げ回る対象でもない。喜んで迎え入れることなのだ。
 これを喜んで迎え入れた時、明るい未来が開けているのである。未来を感じさせる、観念としてそれが明確に分かる時なのだ。それがつまり「死」なのである。
 そして死を迎えるに当り、その準備をするときが老年期であり、ここで「見事に老いて見せる」ことこそ、死へのエネルギーを充填
(じゅうてん)する時なのだ。
 人間が死ぬと言う行為には、死ぬ為のエネルギーがいるからである。このエネルギーを充填する時が老年期であり、この老年期こそ
「美しく老いなければならない」のである。



●魂の感得

 最初、青春の謳歌
(おうか)は「肉体美」にあった。肉体こそ、若さの象徴であり、そこに躍動と生存の証(あかし)を認めていた。
 ところが、体力の衰
(おとろ)えと倶(とも)に、その固執は、肉体から精神へと変わりはじめる。「魂」と云うものに気付きはじめる。
 少なくとも、かつてはそうだった。
 古人は、自分の「魂」と向かい合った。向かい合うことで、自分には「魂」があると感得した。

 だが、物質文明の発達はこうした移行への切り換えを遅らせてしまい、肉体に長く留まる“若さ”という美の鑑賞に耐える媚薬
(びやく)を作り出してしまった。この媚薬が、つまり若返りの肉体強化だったり、指向の補強だったりしたのである。これこそが性欲を催させる薬であり、“恋慕の情”を晩年にまで持ち越しさせてしまったのである。
 斯
(か)くして「老いる」という意識は先送りされてしまったのである。
 それは当面は、“老いる”ということを空白化させてしまったのである。「老」に対し、極めて無知にさせてしまった。「老」の意味すらも空白にしてしまったのだ。

 この「精神世界への移行」を知らないのは、何も初老に差し掛かった四十代ばかりではない。五十代でも六十代でも、「老」の意味を知らない人が多い。
 かつて律令制下では、61歳以上65歳
(のち各1歳引下げ)以下の者を「老丁(ろうてい)」と呼んだ。これは課税に関係している。正丁(せいてい)の2分の1の課税を負担するからである。律令制下では、課役すなわち調・庸・雑徭などの人頭税を負担する21歳から60歳までの健康な男子に課せられた課税制度があった。これは肉体的な分かれ目を示したものであろう。

 しかし、一方で「老」の形容は「老獪
(ろうかい)」や「老練」の言葉から、年功や経験を積むことで次第に物なれていることも併せ持つのである。

 人は、他人から「若いですね」などと謂
(い)われると、俄(にわか)に嬉しそうな顔をする人が多いが、これは「あなたは年齢のわりには幼稚ですね」と謂われるのと同じで、この本当の解釈の意味が謂った方も、謂われた方も分かっていないのである。
 つまり、年齢より老成してなく、頭の中は“からっぽ”という意味でもある。

 最近はこうして手合いが殖
(ふ)えている。いい年をして若者ぶったり、通勤電車の中でアタッシュケースから少年漫画雑誌を取り出して辺(あたり)(はばか)らずこれを読んだり、四十歳過ぎたいい大人が、文章を書く時に自分の事を「ぼく」と云う自分自身を指す語を使ったり、自分はまだ肉体には自信があり若いと思い込んでいる初老年代は、実に哀れなものがある。年齢相応に熟していないのである。そのうえ肉体を“物差し”にしているからだ。
 精神への移行の準備ができておらず、自分は特別と思っているからだ。

 こうした多くの錯覚は、初老に達したら、一応「死の見通しを立てる」ということを知らない為である。「死の見通し」とは、「人生の見通し」と同義であり、死の見えないものに人生が見えるわけがない。
 したがって、死の見通しの立たない者には、また人生の見通しも立っていないのである。最近は、この手合いが実に多く、生きとし生けるものは、歳を取るということを完全に忘れているのである。生まれて来たものは、やがて死ぬという真理を完全に忘れ去っているのである。死を遠い概念で忘れ去っているのである。

 「死」というものは、老成しなければ、見えてくるものではない。
 常に死が見えない者には、人生など見える分けがないのである。人生の見えない者に、死は見える分けがなく、死は、ただ逃げ回るばかりの対象となる。そこに死を逃げ回る現代人の愚かさがあると言えよう。
 死を思わない人間こそ、その人間が口にする人生論は嘘
(うそ)で塗固めた人生論であり、また死を逃げ回る人生論である。こうした人生論に、学ぶべき者は殆(ほと)ど皆無だといっていいであろう。

 さて、人間は長生きするだけが能ではない。健康で長生き出来ればそれに越したことはないが、多くの場合の“長生き”は病気を引き摺
(ず)っての長生きである。病気で長生きすることは、それだけ苦しみが長引くと云うことである。
 また、死ねばそれで苦しみが消滅すると考えるのも間違いである。死に方によっては、「横死」などのように、その苦しみが未来永劫にまで続くのだから大変である。

 死後の世界を信じない人でも、苦しい闘病生活や臨終
(りんじゅう)間際の“断末魔(だんまつま)”の苦痛から逃れたい一心で、安楽死を望む人が多くなっているが、それで肉体上の安楽は得れるかも知れないが、心を司る精神上の安楽は決して得ることがない。

 だが、安楽死で安らかに死んだとしても、死後、苦しんでいないとは限らないのである。安楽死で死んだ場合、肉の躰は死ぬ為の弛緩
(しかん)によって、弛(ゆる)みきって、安らかに死んだ穩やかさを表情に浮かべるが、それは表皮上の事に他ならない。心までが安らかであったとは言い切れないのである。

 それでは一体、どう云う死に方をすれば良いかと云うことになる。
 死に方は、生きている裡
(うち)に充分に考えておくべきだろう。最悪なのは、生きている裡に何一つ死生観を解決せず、自分の死を遠きものに起き、50の五十路(いそじ)を過ぎても、死について何も考えなかった時である。生きている裡に、死生観を解決することは大事な事柄である。死ぬついて考えるのは、何も歳をとってからのことでない。
 未来永劫の苦しみを引き摺
(ず)らない為に、臨終でも苦しむ事なく、死後も自由な霊魂となって、苦悩と云う束縛から解放されることである。

 死後、「成仏」が願いたければ、生きている裡に死について考え、死生観を解決し、人間の死を感動をもって真っ向から見詰め直さなければならないのである。
 人間は「非存在」なる生き物である。非存在なる生き物が、存在として生きていること事態が奇蹟なのだ。人間が日々を生きるというのは、日々存在していると云う奇蹟が人間に訪れていることになる。奇蹟は人間が起こしているのでないから、それがある期間存在出来るということについては、感謝する心が必要であろう。「生かされている」という自覚が必要であろう。

 これを最も強く意識出来るのが老齢期である。この心の意識が濃厚になる老齢期を、安易に過ごしてはならないのである。この老齢期こそ、死と向かい合い、死について考え、死を感動あるのものにする心構えを養う時期なのである。老を成すとは、そういう時期の心構えを云うのである。



●死を嗜む技術

 老成しなければ死は見えない。老熟や老練の境地に辿り着いてこそ、死は克明な形をして顕われてくる。

10代 20代 30代 40代 50代 60代 70代 80代 90代
少年期 青年期 青年晩期 初老期 五十腕期
(初中老)
六十
晩学期

(中老)
初大老期 大老期 白老期
自我意識が著しく発達する。10代後半は免疫力のピーク期。 性的特徴が顕著で異性を求める。免疫ピークを超え下降線を辿る。 独身を通し難い年齢で、伴侶探しと子孫残しの奔走。 老境に入りかけた肉体の衰弱の始まり。肉体からの離脱の開始。 50歳位になって時々起る腕の痛みであるが、同時に種々の病の始まり。精神世界の始まり。 六十の手習いという言葉があるが、晩学の始めとして死を嗜む道を学ぶ。 死を嗜む道の実践の開始。学んだことから行動へ。 死を嗜む道の実践中。より善き死を求めて。 死を嗜む道の実践の総仕上げ。百に一つ足りない「白」の年齢期。

 人間にとって、常に心に繋ぎ止めておかなければならない事実は、この生き物は「非存在」ということである。一運命の転機が顕われて、「存在」から「非存在」に変化するかも知れないと云うことである。
 人間は生きられて、ぜいぜい頑張ってみても僅かに百年程度である。その百年も、ボケずに百歳以上と云うのは稀
(まれ)である。そして、何とか百歳までの長寿を全うしたとしても、その多くはボケ老人か植物人間である。

 人間は長生きしても、せいぜい、百年ほどの人生である。
 多くの人間は百年も経たないうちに、その殆どが死に絶えてしまう。また、運良く百の長寿まで生きられたとしても、その多くは、寝たっきり老人であったり、植物人間であったりして、生命維持装置の厄介になり、薬漬けにされて、辛うじて生命だけを繋
(つな)いでいるだけの「生きる屍(しかばね)」である。

 その殆どは、生きる屍の域を出ない。自分で喋ることも、歩くことも、考えることも、働く出来ない。ただの、生物の形態を成している物体に過ぎない。人格を持たない物体である。行動を伴わない点では、動物以下の姿に成り下がっている。もはや寝たっきり老人に、人としての尊厳はない。

 そこで「人生とは何か」ということを、真剣の模索しなければならない。人間は、人生の折り返し点を過ぎたら、改めてこの事を考えなければならない。誇りある壮年期を迎え、名誉ある晩年期へと繋
(つな)げなければならない。
 しかし、現代という時代は、こうした生き方が困難な時代でもある。

 現世と言う「この世」は、あらゆるものが複雑に、複合的に組み合わされて、依存しながら存在している。何一つ、単独で動いているものはない。しかし、現世は現象界であり、私たちの棲
(す)む現象人間界は、変化し、流転(るてん)するという制約に縛られている。その為に、固定した実体というものが、何一つない。

 ところが人間は言葉を用いて、現象のそれぞれに名称や名前をつけた。自分の足許
(あしもと)を見て、踏みしめたものを「大地」といい、天を指して「空」と名づけた。そして自分にも、「わたし」もしくは「ぼく」という一人称での呼称をつけた。
 こうして、一旦名前が与えられると、大地も空も固定した、実体を持つ存在に思えてくる。かくして、私たち人間は、固定観念の世界に絡
(から)め捕られ、先入観に襲われるのである。

水平線の彼方から、何処が空でそこが海か、その境目が明確にできるだろうか。どんなに微小な部分をとっても全体に相似している(自己相似)ような図形がフラクタル(fractal)であり、例えば海岸線などが近似的なフラクタル曲線とされる。そうすれば、空と海も、一種の相似と考えられるだろう。

 人間の脳には二つの脳があり、普段は左脳が中心になって働いている。つまり、本来は左右の脳が分離し、かつ独立しているわけだ。するの左右の脳には各々に二つの宇宙が映っているということになる。そして二つの宇宙があるならば、二つの脳にも二つの宇宙が映るごとく、やはり二つの脳を持った自分が
映っているはずである。

 そうすると、映っている自分の脳には、常に「二つ」が無限に続くことになる。
 では、「無限」とはどういうことか。
 それは総て、点になってゼロ次元に集束するのかと云えば、そうではない。これはフラクタル次元といって、絶対にゼロにはならないのである。非常に複雑な集束の仕方をする。
 例えば、二つの脳の場合、別々に働き、然
(しか)も互いに響き合い、何処までも二つの対応関係が連続するのである。この意味で、「天の気」と「地の気」は宇宙の気と合一し、互いに反応するのである。

 大空を見上げて、何処から何処までが空か、判然としない。また、大地を見て、山や丘の判別がつくだろうか。あるいは空と海の境目が、何処にあるのか判別がつくだろうか。
 こうして人間は、言葉や固定観念に囚
(とら)われ、この中に絡め捕られていく。その為に、人間は「こだわり」を、「わたし」や「ぼく」に向け、これに固執するようになる。そして遂には、あまりにも「わたし」や「ぼく」にこだわる為、自分が、年とともに老いて、死んでいく自分を案じ、この現象を「怖い」と思うようになる。これが「死への恐怖」である。

 人の悲しみや、苦しみの根源には、「死への恐怖」が横たわっている。
 しかし、無常は止
(や)むことがない。変化をし続ける。現象界では、一時たりとも止まる事がない。常に流転(るてん)するのだ。
 宇宙は絶えず、「生成」と「死」を繰り返している。その中に、現代を生きる私たちがいる。その中で形成されている以上、私たちの世界もいつかは破壊され、やがて「空
(くう)の世界」に回帰する。

 変化は生成し、その後、必ず死が齎
(もたら)される。この世に生まれ出た人間は、必ず死に向かって、一歩一歩、歩んで行かなければならない。
 「自分はまだ若い」などと、箍
(たが)を括(くく)ってはいられない。また、「死は、自分には、まだまだ先のことだ」と安心してもいられない。だから「死について考える」など、ナンセンスだと一蹴(いっしゅう)することも出来ないだろう。そうした隙(すき)にも、死は確実に忍び寄っている。

 一般的に言って、「老化」は老人の問題のように考えられている。しかし誰でも、生れ落ちたその日から、確実に加齢が始まっている。若者と雖
(いえど)も、日々老化しているのである。若いといっても、病気に斃(たお)れれば、“死の風”に脅(おびや)かされる。

 また、老衰が近づけば、やがて死を覚悟しなければならない。
 この世での「生」は、常に“死の風”に吹かれ、脅かされているのである。儚
(はかな)いシャボン玉のような人の命は、いつ強風が吹いて、潰(つい)えるかも知れない。そのうえ夜寝て、翌日の朝、元気に起床できるという保証はない。したがって、翌日の朝眼を覚ますことが出来るというのは、大変な奇跡でもある。
 いつ、死の風に吹かれるか、それは何びとと雖
(いえど)も知ることができない。人間は奇跡の連続に頼っていかなければ、一秒たりとも生きることが出来ない。

 一度、死の風が吹き始めれば、あなたがどんなに大富豪であっても、これを躱
(かわ)す事は出来ない。家族や友人に恵まれたとしても、また、地位や権力を得ている人でも、一旦死の風が吹き始めれば、これらは何の力もない。金銭や財力で、どうこう出来ない。
 したがって、人生の折り返し点を経験した晩年期は、自分の生きた証
(あかし)を示す、ラスト・スパートであるともいえよう。それな、よく生きた人間だけに、「よりよき死」が与えられるのである。
 「よりよき死」を迎える為に、あなたは一体何を模索しているであろうか。

 年金生活を前にして、贅沢に送る老後を、後半人生のビジョンに描いているのであろうか。それとも、安穏とした後半の人生設計を、漠然と頭の中で描いているのだろうか。

 しかし、あなたが目指す豊かな老後は、単に物質的な豊かさを指しているのではあるまいか。
 多くの日本国民は、豊かな老後を送る為に、若い頃、懸命に働く。老後に備えて、働かないで喰っていく為に働く。つまり、最終目的は、働かない為に働く。これは、何と矛盾した考えであろうか。

 しかし、誰も働かない為に働くという現実を、矛盾とは思わない。その自覚症状すらない。
 そして、「働かない為に働く」という行為の中に熱中する。そして、これには老後の精神的な文化は、殆ど含まれていない。
 ただ、誰もが豊かな老後を夢見ている。その豊かさとは、精神的な豊かさではなく、物質的な豊かさを追い求めているに過ぎない。それは精神生活が抜け落ちた「延命の老後」である。
 あるいは、何処かの豪華マンションタイプの老人介護施設で、贅沢で、退屈な、気だるい日々に明け暮れる老後を夢見ているのであろうか。

 人間の生涯に、最終的な「有終の美」の時期があるとすれば、それは晩年期に差し掛かった時に思慮する「よりよき死の模索」ではないだろうか。
 自分の生きた証
(あかし)を誇り高く、名誉に導くものがあるとするならば、それは「老化する私」の現実を真摯(しんし)に受け止め、そのことを具体性をもって、これに関心を示すことではないだろうか。

 現代を高齢化社会と位置づければ、高齢化は、一見長寿村のような意味合いを連想させるのであるが、何故か、「高齢化」と「長寿村」のイメージはイコールにはならない。暗い、惨めな衰退する社会を連想してしまう。これは何故だろうか。
 それは日本人の平均寿命が延びた事にも起因していることであろう。
 しかし、平均寿命が延びたと豪語しても、それは薬漬けにされ、生命維持装置の手を借りての寿命延長であり、健康的で、溌剌
(はつらつ)とした老年期を過ごす老人が大勢いるということではない。高齢者の誰もが、自力移動が可能と言うことではない。意識も健全と言うことではない。障害を来たしている人もいる。そう言う人が綯(な)い交ぜとなった長寿である。

 老年期にあっても、社会活動に参加し、意欲的に健康法を実践し、「日々新たに」の思想をもって、晩年期を元気に全うしている65歳の老人は、全体の一割にも満たないであろう。
 それどころか、いま自分が「若い」と自負し、盲信している若年層にも、老化の魔の手は忍び寄っている。
 一瞬先は闇の魔の手は、老若男女を問わず牙を剥く。
 小学生の健康診断にも、糖尿病、肥満症、動脈硬化、高血圧、高脂血症、心機能低下などの成人病の兆候が現れ始め、また、思春期の憂鬱
(ゆううつ)は、心を病み、鬱病や神経症を齎(もたら)し、精神を病んでいる現実は、何も老人だけとは限らなくなった。

 そして、最も恐ろしいことは、現代の環境の変化に、子供のうちから老化が見られる現実がある一方、薬物や医療機器などの生命維持装置を使って、高齢者の平均寿命を押し上げ、国民の医療費に負担をかける現実があることだ。
 薬物や医療機器などを使った高齢者の延命医療は、人体の自然の生理に反している。医療現場で実践されてるこうした医療措置は、単に高齢者をだらだらと生き延びさせておく、技術以上の何ものでもない。実に恐ろしい事といわねばならない。

 また然
(しか)も、生命維持装置によって、不健康に生き延びた老人達が、社会の尊敬を受け、生産現場に復帰して、精神的文化に大きな貢献をしているという話は、一度も聞いたことがない。現実の日本に、誇りある老年を送る為の社会条件や習慣といったものは、この国にはないのである。
 現実問題としてあるのは、老人は嫌がられ、最後は完全看護の、高級マンション風の老人養護施設で過ごすという、体裁の良い「姥捨て山」があるだけである。
 こうしたところに収容されて、果たして「よりよき死」が得られるだろうか。

 多くの人は、大方このように生まれ来て、また役割を終われば、もと来た場所へと帰って行く。人間は生を受け、生・老・病・死の四期を辿り、再び、もとの世界に帰って行くのである。
 こうして人の死を観
(み)ると、人の死には「様々な死に方」があるといえよう。



●死ねばそれでお仕舞いか

 したがって、「死ねば、これまでの意識もなくなり、総てはそれでお終い」と云うようにはいかないのである。現世の三次元現在界は物質界であり、生活の基本は、物質至上主義や科学一辺倒主義で、主に可視世界を指す。これが「この世」という「表」である。

 そして、人間の住む世界は現象界であるので、現象とは「変化」を指し、同時に変化をする為には「二大対極」の相反するものが存在しなければならない。眼に見える光以外に、もっと細やかな、素粒子より小さな心を司るモノがある。裏を司る界域である。
 人間の意識は、この界域を飛び回る。
 憎悪や怨念の元凶である悪念も、心地よいゆとりを感じさせる善念も、意識体に帰属する。
 意識伝達を媒介する半物質物体である。「霊子」と呼称してもいい半物質である。しかし、現段階では発見されていない。

 この二大対極の向こう側に、肉の眼では確認できない「不可視世界」がある。これが「あの世」であり、「裏」である。
 この事から人間の生命は、不可視世界と可視世界を循環していることになる。「生」あるものは、やがて寿命が尽きて「死」に至る。しかし、同じ死でも、様々な死に方があるのが周知の通りである。それならば、誰が考えても、事故死よりは自然死の方がいい筈
(はず)である。死に態(ざま)にもレベルがある。
 したがって、よりよき「死に態」を得る為には、生きているうちに「改心」しなければならない。

 「改心」とは、単に、これまでの「行い」や「心」を改めたり、悪い心を教化することばかりを指すのではない。一般には「改心して、出直す」などというが、最初から、もう一度やり直すことばかりでなく、これまで間違った固定観念や、先入観を消去させることも「改心」の一つである。

 間違った固定観念や、知らず知らずの間に蓄積した先入観は、固定的な観念や見解は、「自由な思考」を阻害する元凶となってる。真理が真理として捉
(とら)えられなくなり、意図的な洗脳によって、先入観は固定化されてしまう。そこに自由を失う元凶が横たわっている。

 例えば、先入観の一つとして強い躰
(からだ)と言うのは、「強靱(きょうじん)な肉体と、体力だけを指す」と考えている人が少なくないようだ。
 また、「本当の健全」の意味も解しないまま、「健全な精神は、健全な肉体によって造られる」と思い込んで居る人が少なくないようだ。
 あるいは強い肉体は、強い精神力を持ち、そこから強い力、強いエネルギーが放射されると信じて疑わない人が少なくないようだ。これこそが、間違いを誘引する、先入観と固定観念の最たるものではあるまいか。



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