運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
武門の妻 序篇 1
武門の妻 序篇 2
武門の妻 序篇 3
武門の妻 序篇 4
武門の妻 序篇 5
武門の妻 序篇 6
武門の妻 序篇 7
武門の妻 序篇 8
武門の妻 序篇 9
武門の妻 序篇 10
武門の妻 序篇 11
武門の妻 序篇 12
武門の妻 序篇 13
home > わが同志・武門の妻 > 武門の妻 序篇 13
武門の妻 序篇 13

人間の五感に感じるものに不快があり、苦痛がある。
 こうした事態に陥った場合、人は誰でも早く苦しみから逃れようとする。不快なるものからは一刻も早く遠ざかりたいと思う。
 ゆえに先ず豊かさを求め、便利で快適なものを選択する。それを導入しようと考える。幸福が物質的に豊かであり、便利で快適でなければならないと信じているからである。

 昨今は幸福の原点を物の有無に求める時代に変貌したのである。持てる者か、持たざる者かの違いにおいて、幸福度の基準が変わってしまったのである。

 斯
(か)くして貧乏は、人間の尊厳において許されない時代に突入したと言えるのである。
 貧乏は、人間として許されてはならない現象であるとなったのである。貧困は駆逐されるべき近代の課題となった。

 しかし、貧乏を駆逐することにより、失ったものも多い。
 現代で駆逐するべきは、物質的貧乏で精神的貧乏ではなかった。駆逐の対象が偏った。

 そもそも貧乏は、物の値打ちを解らせてくれる教えがあった。
 貧することで、何が一番大事か教えてくれていたのである。貧乏することで、物の正当な価値が計れた。そして、物を味わうことも教えてくれていた。同時に欲望を抑え、我慢することも教えた。耐え忍ぶことを教えた。
 しかしこの概念は、現代にはあるだろうか。


●緊急事態にどう対処できるか

 人は、内と外は大分違う。
 外側の見掛け通りに受け取っては誤ることになろう。
 窮して窮して、避け難いと知れば、心ある人ならば修羅場を通ることを恐れたりはしないものである。
 求道者は、陽明学で言う事上磨錬の「試煉の時機
(とき)」が遣ってくれば、力まずに向かい合うものである。
 勇は、何も武人の徳ならず、総ての「道」を訪ねる人の徳である。

 そして人が、わが身の危険も顧みず、危険な場所に赴こうとするのには、それなりの理由がある。
 理由を自覚したうえで目前に迫り来る現実に恐れをなし、及び腰になるのは怯懦
(きょうだ)と言うものである。
 しかし一方で、わが身の危険も顧みず、それでもなお敢然てして立ち向かう姿こそ、勇と言うものである。懦夫
(だふ)が勇者に変わった姿である。この勇者の姿こそ、自覚した者が持つ心の有様を言う。この自覚がない以上、「道」の学など学べようがない。
 そして道には、礼があり、礼とともに「仁」がある。

 この仁は慈しみであるとともに「行い」を問うもので、仁が分らねば、礼にも通ぜず、それは表面の形式のみで終わることになる。肝心なる対峙相手の気を殺
(そ)ぐ「躱(かわ)し」とか「いなし」あるいは「譲る」とか「摩擦除け」などの行為が出来なくなってしまうのである。
 何故なら礼の中に、そういう深い意味での行為が含まれ、これに対して臨機応変なる行動がとれなければ意味がないのである。

 『論語』には「顛沛
(てんぱい)」が説かれている。
 顛沛とは、躓
(つまず)き斃(たお)れることをいい、また咄嗟(とっさ)とか、僅かな時間のことであり、この間に人はどう言う行動がとれるかを問うのである。更には何かの弾みで勢い良く顛倒(てんとう)することもある。この顛倒の刹那(せつな)に、人は何が出来、どう対処するかが問われるとしている。
 況
(ま)して、傍観など論外であろう。

 人間の価値は、顛沛時において何が出来るか、何とをするかに懸かる。そして君子は、その刹那に何らかの対処をしようとするという。つまり君子はそう言う場合にも、「仁を違
(たが)えない」と言うのである。

 『論語』
(里仁)によれば、「君子は食を終うるの間も仁を違うこと無く、造次(ぞうじ)にも必ず是(ここ)に於(お)いてし、顛沛にも必ず是に於いてす」とある。
 「是に於いてす」とは「仁に於いてす」の意味である。
 君子と言うものは、食事が終えるまでの僅かな時間にも仁を外すことがないという。
 また、「造次」とは急遽
(きゅうきょ)とか、火急の時機(とき)とか、緊急事態の意味であり、こうした状況下でも仁の中に居(お)り、更には顛沛の時にも仁の中に居ると言うのである。

 そして人が片時も仁に外れることが無く、その中に身を置いてこれを自らの行動で実践することが重要課題であると言う。
 人は顛沛状態になると、訓練をしたことの無い者は狼狽
(うろた)えるのが普通である。混乱し、これまでの平常心状態での行動が支離滅裂になり、ただ乱れるばかりである。

 実践学の一つである『陽明学』も火急の時機の大事を説き、そういう事態に直面したとき、人は何が出来るかを試されているという。人間は常に天から試されているのである。
 つまり、非常時こそ、君子たる者の「志が試されている」という、天から突き付けられた課題だと言うのである。

 一言で臨機応変と言うのは容易い。
 機に臨み変に応じて適宜な手段を施すことを臨機応変というが、これが中々難しいのである。それは単に肉体勝負でないからだ。肉体的体力以上に、自らの身体行動が、即、対処に繋がっていなければならないからである。

 顛沛の字の「顛」ならびに、顛倒の「顛」のもと意味を追求すれば、「義」に通じる。
 顛の一字で、思いを廻らすとか心遣いなどがあり、万遍なく細部まで見回すという意味があり、それを「心掛け」としていることである。つまり、これはまさしく「義」である。
 更に心遣いを以て、倒れた者への慈しみを、どう発揮するかである。

 例えば、行き斃れの死者をどう検
(み)るかである。此処まで辿り着いて、已(や)む無く倒れ、そして無念のうちに、失意のうちに死んで逝った。
 此処まで来て、さぞかし残念無念であろうと捉えるのと、遂に倒れて、とうとう死んだかと見下すような冷ややかな捉え方とは、自ずから心的な伝わり具合が違おう。
 前者では人に対する慈悲の心遣いがあるが、後者では人を人と見ず、物体化して見下していることである、
 つまり、人間に天より突き付けられた課題は、非業の死者を、どう受け止め、「その鎮魂のための礼を知っているか」ということになる。
 非業の死者を見て、不憫と思うか、物と見下すかである。

 一般的な畳の上での往生と、行き斃れやその他の事件に巻き込まれて殺されるなどした非業の死を遂げた死者は、同じ死者でも「恨みの意識」は違うし、多くの場合、怨念化している。非業の死自体を大いに恨み残念がっている。それは中途半端な恨みでない。
 遺恨が二重三重に輪を掛けている。

 当然放置すれば、それだけで恐るべき怨霊と化すであろう。
 この取り扱いに「仁」があるか、否かである。物体視するか、霊魂視するかである。物と視るか、魂と視るかである。
 そして怨念が絡む以上、そう言うとここそ、尚更、仁が必要不可欠になってくる。ゆえに顛沛時をどうするかを『論語』は説いているのである。
 更に顛沛が起こるときと言うのは、常に不意である。予告無しに襲ってくる。
 敢えて言えば「特異点」的な、急遽に、不意に襲うものである。そのときに「仁があるか」が問われ、不仁ならば、礼法実践者とは言えぬと言うのである。

 人と行動には、仁・不仁がある。そして仁は、裡側
(うりがわ)に存在するもので、外には無い。衣服や装飾品のように外側に着飾るものでない。
 表面は仁者のように振る舞っていても、中身が不仁であったりする場合が多くない。他人の難儀を見て見ぬ振りをしたり、外野で野次を飛ばしたり、冷ややかに見下して傍観者を決め込んだりは、みな不仁の類
(たぐい)である。そのうえ何もしない。
 不善なのであり、徳から外れる行為をする人間である。こう言うのを不仁者という。心ある人から蔑まれる対象である。恥じの者を指すのである。恥知らずである。
 仁者とは程遠い者を指す。

 かつて家内と添いはじめた頃、「仁・不仁」について、懇々と語って聴かせたことがあった。
 家内の出も調べると、俗にいう「お里が知れる」という底辺の出で、親から「仁」について全く教わっていなかった。底辺の最下位の庶民感覚で、悪いことを何もしなければ、それで“悪人ではない”と思い込んでいたのである。

 悪いことは何もしない……。
 だが、これだけで善人だろうか。
 そう、問うたことがあった。
 そして世の中には、義人面して「何もしない傍観者」の人間が如何に多いか説いたのである。この傍観者こそ「不仁の最たるもの」と指摘したのである。

 このとき家内は「では何もしないこと事態が悪なのですか?」と。
 私は「そうだ!」と断言したことを憶えている。
 世は、まさに個人主義であり、悪しき個人主義が蔓延
(はびこ)り、何もしない、可もなく不可もなくの善人の皮を被った悪人が多い。大半は傍観者を決め込む。
 しかし私の発起は、その者達を教導する意味でも、道場を建設し、世を照らす蝋燭
(ろうそく)に自分達だけでもなろうではないか、そう家内に諭したことがある。
 そのためには先ず「函物がいる」だった。
 私はこの函物を自分の住まいと考えたり、自分だけの所有物と考えなかった。皆で共有するもとして考えて来た。

 更に、わが流はだけの門人や道場生だけでなく、有事の際や、天変地異などが起こり罹災者が出れば、道場自体を避難場所に早仕立てして、最低でも60人前後は避難所に使いたいという気持ちを持っている。
 一度緊急事態が発生すれば、わが家族などの垣根を取り払い、万人みな自他同根で、寄り添った者同士が扶
(たす)け合うという施設にしようとする計画も立てたのである。
 家内はこれに大いに賛同した。それを是非遣りましょうとなった。そして今日に至る。
 自分のことは後回しにする。人に道を譲って、急ぎたい人には先を急がせる。それでいいではないか。人に譲って何の不都合があろう。

 こうして家内と、二人三脚の道を生涯歩くことになったのであるが、それがいま流行の「生涯現役」などという軽い合い言葉では無く、万一の場合、自らの身を削って夜道を照らす蝋燭になり、道標の灯となってはどうかと説いたのである。
 そして、最後までこれに「わたしも一枚噛
(か)ませて下さい」と言って蹤(つ)いて来たのが、いま亡き家内だった。

 更にもう一つ、今でも記憶に残っている「顛沛時の咄嗟」について話したことがある。
 仁者は慈愛深い慈しみの心が存在するためでなく、顛沛時こそ、その真価が試されることを説いた。
 仁者はこうした顛倒時にも、仁をなす。また仁を違えない。これでこそ仁者であると説いたことがあった。
 それは、かの有名な『雪の九段坂』の話である。
 この話には、直心影流の榊原鍵吉
(さかきばら‐けんきち)と、その弟子の山田次朗吉(やまだ‐じろきち)の話に出て来る。

 榊原鍵吉は天保元年
(1830)十一月、麻布広尾の榊原邸で生まれたが、天保十二年の十三歳の時、男谷精一郎(おたに‐せいいちろう)の門に入り、直心影流剣術を学んだ。
 以降、研鑽十年、天性の素質と才能に加えて、稽古熱心であったため、免許皆伝を得て、安政三年築地の講武所剣術教授に抜擢
(ばってき)され、また小川町の講武所剣術師範として、師の男谷精一郎と、その門下十三人衆と共に名を連ねる程の腕前になっていた。

 こうした鍵吉の得意絶頂にあった頃に、入門したのが山田次朗吉であった。
 山田次朗吉は師匠の榊原鍵吉と共に、雪の九段坂を歩いて来た時の事が、この話には出て来る。この話は、ある咄嗟
(とっさ)に起った「顛沛事」を取り上げている。
 雪のために鍵吉の履いていた下駄が滑って鼻緒が切れ、わが師・鍵吉が顛倒
しようとした瞬間、山田は鍵吉の躰を咄嗟に支え、残る片手で、今度は自分の履いていた下駄を素早く脱いで、師の足許(あしもと)にあッという間に差し出したのである。一瞬のうちに踏み履かせ、顛倒を防止すると同時に、わが師の足許(あしもと)に、自らの下駄を踏み敷かせたのである。

 これこそ、まさに臨機応変の最たるもので、これ以上の「妙」はない。まさに君子の「仁」である。
 顛倒しようとする人を支えるくらいなら兎
(と)も角(かく)として、機転の利く人ならば、この程度のことはこなそう。
 ところが、問題は次である。
 この顛倒寸前の状態にありながら、咄嗟に自分の履いている下駄を脱いで、その足許に、瞬時に、さっと差し換える妙技を行えるのは、凡夫
(ぼんぷ)には中々できることではなく、つまりこれはその人の持つ、才能と素質が、このような妙技に至らせるのである。
 また、これは普段から「仁」とは何かを心得て、常に心を鍛練しておかなければならない。
 しかし内弟子として修行に励む人間は、このくらいの気配りを行ない、それが例え叶わぬにしても、この気配りは必要ではないかと思うのである。

 雪に滑って、鼻緒が切れ、顛倒しかかると言うこの事件は、ごくありふれた事であるにもかかわらず、その根底には、予期できない偶然性は秘められている。こうした現象は偶然に起るから、「咄嗟」と言い、こうした出来事に、対応できるから、「臨機応変」と言うのである。また、これを君子の仁と言うのである。
 物事は、咄嗟に起こる。徐々に変化するのでない。どんでん返しのように、咄嗟に起こる。咄嗟に起こるからこれが「運命の特異点」であり、運命に偶然は無いと言うことだ。意味があって、人間の人生は運命に繁栄されている。

 そして偶然性と言う、予期できない事象は、そう簡単に、気配だけで感じ取れるものではない。
 それでいながら、咄嗟の出来事に対し、師の顛倒を支え、下駄をすかさず差し出したと言う、随伴者として当然の行為は、心の在
(あ)り方を如実に教えるものである。
 だが、漫然
(まんぜん)と師の伴をしていては、こうした事は出来ないはずである。こうした働きができるのは、その根底に「薪水の労をとる」という心構えが、普段から常に備わっている為である。

 昨今は道案内と称して、師匠の前を自分勝手にスタスタ歩く、礼儀知らずの弟子が多いが、もし、山田次朗吉が榊原鍵吉の前を歩いていたら、顛倒しかかる師匠の躰を支え、残る片手で自分の下駄を脱ぎ、それを師匠の足許に挿
(す)げ替える等と言う妙技は行えるはずがなく、やはり、この場合は「三歩下がって師の影踏まず」という諺(ことわざ)が功を奏したことになる。

 しかし「薪水
(しんすい)の労をとる」とは、門人の上に胡座(あぐら)をかいて君臨し、師は弟子に対し指導者面(づら)することではない。また、こうした事を、現代の若人に要求することでもない。
 しかし、修行するという日々精進の世界は、有事に際して咄嗟の措置が出来なくては、その人は武道愛好者や趣味の域で止まる人なのである。「仁」を致すか、そうでないかに懸かる。
 また精進する世界を、単に勝ち負けにこだわって練習する人間には、こうした「切実」かつ「純真」な心が理解できず、仁不在のまま、ついには有事に際して、何一つ役に立たない禍根
(かこん)ばかりを積み上げている人なのである。これこそ自らの裡側(うちがわ)に不仁を堆積していることになる。

 行動や日々の実践の中に「仁をなす」気持ちがあり、それが実行と直結していなければならない。
 これが「心即理」である。
 『論語』には「是
(これ)に於いてす」とあるが、これは「仁に於いてす」という意味である。
 これは武術実践者についても言えることであるし、また一般人にも応用可能であろう。
 更に論語は、「君子と言うものは食事が終える時間にあっても、仁は忘れることは無い」とある。この心境は、「火急のときあるいは、急遽
(きゅうきょ)という『特異点』に遭遇したときにでも、その刹那(せつな)に応じて、千変万化の変化を見せ、君子は仁の中に居り、また顛沛のときにも仁の中に居るものである」と説いている。

 論語読みの論語知らずでは何もならない。言葉を知っていても実践しなければ何もならない。
 また、論語内の言葉を沢山知っていても、実践し、いつでも実行できる態勢でなければ、それは「ただ知っているだけ」で終わるであろう。

 論語は言葉の暗記でもないし、記憶することでもあるまい。知っていることを実践し、時の応じて事上磨錬を積み上げ、これを見識にして行くことこそ、朱熹
(朱子)以降の朱子学に続く、陽明学の実践へと繋がって行く。この実践を通じて、『知行合一説』が生まれ、知ることは同時に行うことであり、「行うことによって成る」という意味である。
 学徒は、あくまで実践者でなければならず、学者的に、単に多くのことを知っているだけの知識では何もならないのである。心即理があって知識は見識となる。しかし、見識だけでも駄目で、最後は「腹に据える」という胆識まで達しなければならない。

 ゆえに実践者は、片時も仁に外れることはなく、その中にあって、これこそが儒学実践者、ひいては陽明学実践者の重要課題なのである。

 人は誰でも、顛沛のときは狼狽
(うろた)える。咄嗟の以上に混乱する。
 特に、顛沛は特異点と同義であるから、どうしても狼狽えてしまうのであるが、これは見方を変えれば、非常時にこそ、真の君子たる志が試されていることになる。
 「仁」を為すか否かの、そこを試されることになる。君子は咄嗟の時でも「仁」を忘れないのである。それが試される。

 天は人間を試す。
 とことん、その人間が如何なる仁を持っているか徹底的に試すのである。天は、その人に処
(あ)るか無いかを、顛沛と言う現象を起こして試すのである。孟子の『受任者』はそれを克明に物語っている。

 口先だけの、口舌の徒では何もなるまい。
 知識か行ってこそ生きる。行ってこそ智慧となり教訓となる。それを古人は「見識」と言った。
 物事の本質を見抜く優れた判断力を見識という。あるいは物事に対しての確
(しっか)りとした考え方を見識という。
 また、見識を応用させて事上磨錬を実践して、胆識を得た。胆識をえてこそ「仁」は実践できる。この実践こそ、人生の最大の課題があるのではないかと思うのである。

 いま現代人は「天から試されている時機
(とき)」に懸かったと言えよう。
 この時機に際して、その人が顛沛と言う特異点で、如何なる「仁」を行うか、それが試される時代に入ったと言えるのである。
 世の中が混沌としてきた。不穏を呈して先行きが見えない。まさにカオス状態である。原初の裂け目さながらである。
 この混沌の中に、試される特異点が顕われてくるであろう。
 そのとき現代人は如何なる行動で有事に対応し、臨機応変に「仁」を成し得ることが出来るだろうか。今それが試されている時機と言えよう。

 以上のことを、かつて家内に訴えたことがあった。
 これを聴いた家内は、痛く感動した様子であった。
 そして自ら、「わたしは大した運動神経も、身体能力も持っていませんから、道場の裏方に回ります」と言って、昭和56年1月の22歳から平成21年10月の55歳まで、二人三脚を勤めてくれたのである。

 しかし残念なことに、現代の奇病と言われる“横紋筋融解症”で斃れた。
 添い遂げて以来30有余年、道場の裏方に回り、蔭で武門の妻として、奉仕をし続けたのである。そして最初から、その見返りを一切需
(もと)めていなかったのである。
 逆に世話をしながら、礼など、一度も述べられたことは無く、感謝されたことも無かったようだ。単に空気のように思われていた。
 しかし黙々と、不平を言わずで、あった。それでも家内の笑顔は、一度も崩れたことがなかった。

 そして、こう言う者の中に、自分達は今まで随分と世話になりながら「タダ乗り」して来た、ということに気付く者は少ない。
 それは支払った合宿代で相殺していると思い込んでいるためだろう。

 思えば、この当時の合宿代は早割などを含めて、10日から15日までの五泊六日で3万円前後だった。飲んで喰って時間無制限である。それに食器類や家電製品の無償提供が加わる。それゆえ裏方も忙しかった。僅か六日と言うが、前準備と後片付けが大変なのである。
 また参集したオヤジどもは、みな行儀のいい人ばかりでない。大酒を飲んでゲロを吐く。寝具を汚す。便所は糞尿の撒き散らしで散々汚す。廊下はゲロだらけ。そのうえ寝小便は垂れる。然
(しか)も鯨飲して大騒ぎする。

 更に、洗濯機やビデオやテレビなどの家電製品は壊す。かつては、扉の開閉遣り過ぎで冷蔵庫も毀
(こわ)れた。車を貸せば、天井は汚して手跡だらけだし、バンパーやドア周囲は擦って傷だらけにして返す。
 これに「犯人は自分です」と申し出る者もは居ないし、弁償する者も居なかった。
 そのうえ水道光熱類を使えば、節電や節水の感覚やなし。電気は点けっぱなし。水は流しっぱなし。これには注意をして回らねばならない。みな家内の仕事である。

 また時には、屋上で受身などの演武なども披露して、ドタン・バタン遣る。それも夜中である。日頃、組織内では抑圧されているサラリーマンどもは、この時ばかりと羽目を外す。
 翌日近所に頭を下げて回らねばならない。みな家内の仕事だった。
 立場を変えて考えれば、これが如何に大変か分るであろう。

 果たして、自分の家に例えば小人数で10人前後の者を五泊六日で3万円で宿泊させたとする。
 確かに一時的には30万円ほどの金が転がり込む。それを六日で割れば、一日5万円で遣繰りすることになるが、一日10人を5万円の金で飲み食いさせて遣繰りすることになる。果たして主婦一人が働いて儲けが出るだろうか。
 一人頭、5千円だがそれに食事、飲酒が含み、食器類の貸出、寝具類の貸出、宿泊費、水道光熱費、風呂や洗面などと経費も掛り、下準備もある。後片付けもある。仮に皿洗いなどの後片付けは遣ってくれても、普段はそう言うことをした人間が集まるのである。
 主婦の目で検
(み)れば、不十分で再び遣り直さねばならない。朝早くから起きて働き、夜は、やっと終わるのが深夜に及ぶ。重労働である。これを六日間通すのである。

 こういうことを一般の妻君は、絶対と言っていいほどしないだろう。最初から損することはしないだろう。
 もし、10人ほどの男どもが、自分の住んでいるマイホームのマンションか、一戸建住宅の4LDKに遣って来て、好き放題されて、六日間30万円で、ハードに立ち働くこの世話を出来る主婦が、今どき、果たして何人いるだろう。
 とにかく六日間オヤジが居座るのである。
 こういう礼儀知らずを相手に、何十年も遣って来たのである。一ヵ月や二ヵ月ではない。何十年と言う単位である。

 だが、家内の働きはこれだけに終わらなかった。セミナー合宿など序の口だった。
 かつて30代の頃は子供を背負って、小・中・高生対象の学習塾を遣っていたのである。専業主婦のみに甘んじてはいなかったのである。

 個人教伝の門人や、特に道場生・会員らは合宿セミナーの度に、家内には随分との世話になった筈である。私の説く礼儀などは、いつも馬耳東風に聞き流された。
 平成22年5月4日、妻・千歳の生前道場葬。同年6月20日死去。享年55。わが同志で無名戦士、ここに永眠す。
 そして平成27年8月で、あれから五年以上が過ぎた。早いものである。



わが同志・武門の妻/序篇  完


西郷派大東流合気武術



これより『武門の妻』は“前篇”へつづきます。



<<戻る トップへ戻る


  運気     八門人相     房中術     癒しの杜     菜根譚     小説     会報Back No.     合気     蜘蛛之巣伝     死の超剋     霊的食養     心法