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武門の妻 序篇 1
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武門の妻 序篇 1

わが同志・武門の妻 序篇







はじめに

 かつて日本人は、海外の人から敬意を持たれていた。
 イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルは言う。
 そして、ザビエル神父は、当時の日本人の「清貧」さについて、驚きと感動の念を表している。
 「日本人にはキリスト教国民のもっていない特質がある。それは武士が如何に貧しくとも、その貧しい武士が、豪商と同等に人々から尊敬されていることだった。清貧なる貧しさを、少しも恥だと思っている武士はいなかった」と。
 この神父は、武士の清貧を高く評価した。
 背景には毅然
(きぜん)さを失わない凛(りん)としたところを感じたのであろう。

 これは、生と死の二元大局が導いた「死生観を解決した胆力」であろう。その胆力を知る「胆識」を弁
(わきま)えた思想でもあった。あるいは揺らがない心の安定を表す「不動心」であろう。
 更には、命を引き換えにしても屈しない「ネバー・ギブ・アップ」であり、「不屈の精神」であろう。
 日々、死をわが心に充
(あ)て生きる。武士道の教えるところである。
 そもそも武士の美学は「潔く死ぬ」ということであり、背景には恥辱に対する意識があった。この背景に「仁」があった。

 また、武士階級においては、死をわが心に充てて学ぶ以上、死は怖れるものでもないし、憎むべきものでもなかった筈である。
 生きて大事業を為
(な)す可能性があるなら、いつまでも生きて、生き存(なが)え、とことん生き抜けばいいし、死して不朽の可能性があるのなら、いつ何処で死んでもいい筈である。
 天より生かされていることを知っていた。寿命な大事を知っていた。

 武門に、これを当り前と思う心は幕末期まで生きていた。
 明治維新の原動力も、考えれば、清貧を全うした武士階級であった。
 そして、下級武士ほど、その意識は高く、少なくともザビエルが驚きと感動の念とともに、当時の日本人を表した清貧は高潔として、この時代まで確
(しか)と息づいていたと思われる。

 そして、筆者は明治期の清貧を引き摺って生きた、何人かの武門出身の人を幼少年期、見聞したことがある。
 それはもう直、七十に手が届く筆者自身に深い感動とともに、その余韻の音が、今でも聴こえてくるのである。

 また、その側面に清貧に甘んじる武門の妻の姿があった。
 更に武門の妻をよく観察すると、不思議にも、苦手なる人物が居ないと言うより、作らないとする、何とも奇妙な回避能力があり、この能力が「礼」であり、実は「笑顔を以て人に接する」という離れ業
(わざ)を遣って退けていることである。

 この物語りはノンフィクションである。筆者が見聞したことを綴っている。
 ただし幾分脚色して、小説仕立てに描いてみた。




●武門の妻

 家内が死んだ日のことを、今でも克明に覚えている。
 あれから、もう五年以上の歳月が流れたが、それでも昨日のことのように思えている。あの時のことが脳裡にはっきりと焼き付いている。
 歳月の経つのは早い。まさに光陰矢の如しである。
 何かの弾みに、ふと思えば懐かしい。家内の生前を偲
(しの)べば、昨日のことのように憶(おぼ)えている。それゆえ懐かしいのである。
 そして、今でも「ただいま」と言って、買い物から帰って来そうな錯覚すら覚える。

 平成22年6月19日から20日に懸けて、家内は、死を待つばかりの身になっていた。
 死ぬ前日、家内の願いは確
(しか)と聞き届け、永眠までの安息の時間帯に入っていたように思う。何某かの安堵があったように思う。
 19日になると危篤状態に入った。
 私にとっては覚悟の時間だった。血圧は僅か50に低下し、“最早これまで”という状態に陥った。この日は土曜日だった。

 主治医から、「今日辺りが一番危ないので覚悟しておいて下さい。心の整理をつけておく必要があります」と言われたのである。
 “覚悟”という言葉が悲愴さを感じさせた。
 これを聞いて、“いよいよ来たか”という気持ちで、娘と息子を連れて病院に駆け付けたのだった。家内の看護のために医師や看護師は献身的な働きをしていた。いつも顔を合わせる、担当の若い女性の看護師は、特に献身的で忙しく働いていた。
 そして、いつもだったら笑顔を見せるこの看護師も、今日に限って顔が引き攣
(つ)っていた。

 真剣というか、必死というか、そんな慌ただしい働きをしていた。その働きぶりを見て、いま家内が、どういう状態に置かれているか容易に想像が付くのだった。もう長いことあるまい。そういう時間が迫っていることを、ひしひしと感じ取っていた。そして、人の死の荘厳さを垣間みたような気がした。
 “最早これまでか”が、目前に、急速に近付きつつあった。いよいよ別れのときか……。
 その悲愴が胸に迫った。

 血圧は50から60の範囲を行き来し、危ない状態であったが、それでも小康状態を繰り返していた。この間一旦帰宅し、私はかねてより手配しておいた葬儀店に連絡を取り、「どうも今日辺りが危ないので」という一報を入れておいた。
 この葬儀店は、仏母寺
(ぶつも‐じ)という禅宗の寺がやっている公益法人の葬祭屋で、この寺の住職が代表者だった。そして死んだ場合の手順を住職から訊き、その順序に従い、火葬に付す手続きや火葬場の手配をしてもらったのである。
 わが家も禅宗であったが、臨済宗である。だが、この寺は黄檗宗
(おうばく‐しゅう)だったので些か勝手が違ったが、日本三禅宗の一つであり、共通点もあった。喪に服す作法を細々と教わった。

 午前中は、とにかく“危ない”といわれながらも、血圧は50から60くらいの間を行き来していたのであったが、午後に入って30に落ちてしまった。手足も、死人のように冷たくなり、常温の人間の体温ではなかった。しかし、まだ呼吸はしている状態だった。
 “長くても、あと数時間”という状態になり、午後2時から4時半くらいまで待つことにしたが、生命の火はそれでも消えなかった。その火は消えずに弱々し続いていた。
 何か、家内には、まだ死ねない心に掛かる未練があるのだろうか?……。そう思わずにはいられなかった。

 このまま行けば、深夜になるだろう……という予想を立てて、再び病院を後にした。まだ死なないのだという安堵
(あんど)と、もうすぐ死ぬかも知れないという切羽詰まった気持ちが、過去の想い出と共に交錯(こうさく)した。数時間後、死ぬ運命が免れないところにきていた。
 この日は土曜日だったので、道場の稽古がある日で、少年部は六時から、一般部は七時半から九時までであった。そしていつも通り稽古をし、稽古後、遅い夕食を摂って、ただ病院からの連絡を待っていた。

 十時が過ぎ、十一時が過ぎ、それでも連絡がなかった。もしかすると、明日になるのではと思い、家族三人は交代で仮眠をとることにした。そして、午前零時を過ぎ、うつらうつらしている頃、娘が病院からの連絡を受けるために起きていて、深夜、突然電話が鳴り響いたのだった。

 私はハッとして起き上がった。
 既に電話には娘が出ていて、病院からの連絡を受けているところだった。そして娘が、「お母さんが、たった今、息を引き取ったんだって」と、私に取次ぐのだった。私は即座に時計を見た。午前零時48分だった。
 「何時にだ?」と訊くと、「今日の午前零時45分だって……」と答えるのだった。その声には悲しい余韻
(よいん)を引きずるようなものがあった。
 遂に逝ったか……。
 胸に迫るものがあった。家内は平成22年6月20日の午前零時45分に息を引き取ったのだった。
 私は即応し、「今すぐに行きます、と言え」と返事をさせて、末坊主と伴
(とも)に病院に向かったのだった。
 そして“ついに駄目だったか”そんな感想とともに、末坊主の運転する車上の人となっていた。

 病院に着くと、顔見知りの看護師から深々と頭を下げられ、電話から十五分以上は経っていて、家内は既に息を引き取った後だった。もう顔は、青白い顔になっていた。これで死んだということが確認された。
 看護士から、「奥さま、まるで眠るようにお亡くなりになりましたよ。本当に美しいお顔ですこと」といい、その死に顔を見せてくれた。
 この言葉で救われたものがあった。
 そして、あれから五年以上の歳月が流れていた。
 月日の経つのは早いものである。同志が去って、はや五年である。

 まさに、かの六朝
(りくちょう)時代の東晋の詩人・陶淵明(とう‐えんめい)が『対酒』の中で詠ったように「歳月人を待たず」であった。
 時は流れ、月日は更に流れてその止まるところを知らない。これこそが、まさに大宇宙の玄理
(げんり)である。刻一刻と月日は流れ、歳月は移り変わり、四季を運ぶ。そして人はこの中に集約され、制約された時間を誰もが所有している。過ぎた日々は、決して戻ることはない。

五回忌。家内が世を去って、はや五年の歳月が過ぎた。
 時は変化して止まない。
 歳月は人を待たず、刻々と変化をするのである。しかし、人の心はこの変化の中で揺れ動き、喜怒哀楽の中にあって、心だけは常に定まらないものである。

 これまでを振り返れば、つまり、私が浪人していた習志野に居た、あの時代が一番懐かしい。
 当時は極貧のドン底にありながら、一番充実したときでもあった。私も家内も、生き生きしていた。よく働いていた。
 そして、そこに映ったものは、一般に信じられているものとは程遠く、ただただ「忍の一字」であったように思う。忍んで、逃げずに辛うじて踏み止まっていた。

 一方で辛い時代でもあり、振り返れば、また楽しい時代でもあった。あたかも『酔古堂剣掃』に出て来る「貧士の客好き」のような生活をしていた。
 その一方で、あの頃、人生の幕が降ろされつつあった。終焉
(しゅうえん)のときが刻々と迫っていた。側面には「もはやこれまで……」という敗北が漂っていた。
 貧乏はしたけれど、遂にそれを回復させることは出来なかった……、というような一種独特の悲愴感もあった。
 だいいち億単位の借金を抱えていては、全く身動きが取れない状態であった。そして、一旦は閉ざされた前途も、再び、あの時代開花したのである。

 思えば奇
(く)しき特異な時代でもあった。次ぎなる時代の第二段階を迎えて、奇跡が起こった開運の時期であったかも知れない。人生には、第一段階で幕切れするのでなく、第二段階、第三段階……と続くようである。
 人間には進退窮まったとき、窮して窮して、二進
(にっち)も三進(さっち)もいかなくなったとき、逃げずに踏み止まれば、これまでとは異なる特異点のような“どんでん返し”が起こるようである。

 このとき、日本には、まだ少なからず義理人情が残っていた。
 単に合理主義とが商業主義の“儲け話”だけに振り回されず、誠とか「まごころ」という、人に対して欺
(あざむ)かず、その基準を利害を超えて、素なる心で接する人が少なからずいた。
 当時、そういう人が次から次へと現れた。
 私にとっては不思議な体験であった。まさに人生は奇なるもので、一寸先は闇で、その闇の先で何が用意されているか、皆目検討がつかないのである。これこそが特異点、所謂
(いわゆる)「シンギュラリティ」と呼ばれるポイントなのだろう。この時をもって“どんでん返し”が起こるように急変するのである。

 浮世の汚れや巧妙な企みなどを排斥して、素心で接する人にであったのも、極貧のドン底にあった習志野での、家内とともに生きた浪人時代であった。
 偏
(ひとえ)に「道」を知っていたからである。それを学んだ時代でもあった。
 そして、むしろ富貴・福沢によって身を誤らず、過ちを犯さず、行を乱さずということを慎んだから、貧賤でありながら目上の引き立てを得たと考えるのである。
 これこそ、窮すれば通ずであった。
 人事を尽くして天に通じた。
 通じたことを、家内とともに感謝したものである。

 いま振り返れば、現代流の考え方の誤りは、大勢が大衆社会や集団勢力に眩惑され、あるいは見掛け倒しに圧倒されて、個人の無力を感じ、個人的な自覚や発想や、更には努力する他力の原点である「他力一乗」の、発奮しつつ努力することを放棄して、集団的社会的頽廃の中に己が身を投じ、苦難を避け、安全圏を確保して保身を図り、その位置に安易に就こうとする目論見である。

 そして大多数は、“寄らば大樹の蔭”を決め込み、大きいものに頼る安堵とともに、極力、苦難を避けて、何事も安楽へと奔ることであるようだ。残念なことに、試煉に向かい、自分の前に立ち向かう壁を迂回してしまうことである。
 だが、これでは遣り直しも利かず、新生も出来ないのである。

 格言に「苦難は人を強くするが、安楽は総
(すべ)てただ人を弱くするばかりである」とあるではないか。
 難事に際して己を磨く……。そして心を錬る……。

 事上磨錬の大事は此処にあり、安全で安楽で保身ばかりが図れる場所は確かに安逸なる休息所であろうが、人間を、心を、魂までもを鍛えてはくれない。
 一方、正当なる苦難は、自らの必要な喜悦とともに、元々自分自身に内蔵されているのである。
 私は、苦難の浪人時代に、家内とともに陽明学の言う「事上磨錬」を感得したものである。思えば楽しい苦難の連続であった。



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