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武門の妻 前篇 1


わが同志・武門の妻 前篇






●一子相伝の血筋学

 生命をどう考えるかと言うことは、「血を考える」ことである。
 子孫繁栄とか、子宝に恵まれると言うことは、生きて今の享楽を楽しむ事以上に大事な、血の受け渡しと言うものがある。

 血は伝達される……。
 次の時代に転写される。
 血は子孫に繁栄され、過去世の過ちを子孫によって訂正して行く行為を、巨大なる有機的生命体は背負わされている。遺伝情報が伝達され、受け継がれ、先祖の過去の過ちを後世の子孫が改めていく。過ちを改めていくことこそ、血に背負わされた使命である。この使命を遂行して、血は繰り返し浄化されて行く。

 先祖は血筋の「祖霊」であるが、祖霊に至るまで霊格が高まっていればいいが、先祖霊の場合、例えば二代前とか三代前になると、まだ太古の祖霊ほど霊格は高まっていない。
 特に父母となると、自分より一代前であり、多くの過ちを抱えたまま人生を潰えている人も多い。したがって霊格も低く、過ちは殆ど昇華されていない。昇華されないばかりに、自分や、自分の子、あるいは自分の孫に昏
(くら)い翳(かげ)りを投げ掛けている死した父母の霊も少なくない。父母の過ちが、翳りを投げ掛けている場合も少なくない。

 『陰隲録』で言えば、父母の過ちは「功過格」でいう“過格”であり、その過ちは未だに拭いきれず、それを子が背負ったままの状態である。
 当然、父母の過ちで子が苦しむことになる。またその苦しみによって、苦しみから逃れようとするあまり、子が親か、親以上に過ちを犯す場合もある。犯罪を初めとする過ちは、血縁者の不仁から起こっている。昇華されていない血の齎す因縁である。

 そして霊魂は意識体であるから、現世の残した過ちは自ら物理的な作用を及ぼして、自らの過ちを自らで糺すことが出来ない。子孫の力を借りるしかない。その力の物理的作用に頼るしかない。先祖は行った行動や行為……。そしてその言動……。あるいは、最も怕い過ちが、何もしない「傍観」という最大の過ち……。

 儒教圏の国では、この過ちこそ、最大最悪の不仁であった。
 過ちを糺さずして、「至誠」も「まごころ」も存在しないのである。口先だけのボーズでは何の意味も持たないのである。
 人生の貸借対照表である『功過格表』の上で、過格の“負債の部”のみに黒星を付けているに過ぎない。

 もしこれらの中に過ちがあったとすれば、それを糺して昇華させて行く物理的作用は、肉体を持たない意識体化した先祖には無く、現に今、肉体を持つ子孫でしかない。物理的作用を及ぼせる、今生きている子孫しか無い。
 子孫は自らの中に流れる血をもって、血筋に於いて先祖も、自分も過ちを糺していかねればならないのである。

 過ちは、過ちを被った者にも、及ぼした者にも、双方の遺恨となって今なお残されている。過ちは償わせ、また償うものである。そういう関係が成り立たないと、怨念はいつまでも悩みや迷いや繰りしみの胤
(たね)となって、永遠に消えることはない。記憶に記され、歴史を構築してしまった過ちは、後世の者が糺して行くしか無いのである。

 過ちは如何に繕
(つくろ)おうとも、決して改竄(かいざん)できるものではない。
 過去の過ちは、血縁に当たる子孫が、ただ受けて償って行くだけのことで、これを逃げて通ることは出来ない。受けて立つだけである。
 この使命は、親の過ちを糺
(ただ)し、また二代前、三代前の過ちを糺していくことである。これが代々受け継がれる。そして先祖霊の魂昇華に当たる。
 血縁とはそういう伝承形体であり、血に遺伝するものが有機的に見えない部分まで絡んでいるのである。
 放置すれば、功過格の余殃
(よおう)だけが加算される。余殃だけが多くなるだけである。

 血は、血でもって子孫が糺して行く以外ない。そこで生命を形作る男女二根の登場が必要不可欠となる。
 一子相伝は二の中で受け継がれる。それが相伝の条件である。そのためには子宝に恵まれねばならない。子宝こそ、血に介入し、過ちを糺して行く媒介者であるからだ。
 また継承も血の中にある。
 この条件下で、子は親の背中、特に父親の背中を見て育つ。父親の生き態
(ざま)を知る。
 波瀾に生きた凄まじい生き態をみせた父親の背中には凄まじさを感じ、一方、可もなく不可もなく、要領よく世の中を泳ぎ渡ろうとした父親の背中には、要領と狡猾さだけしか観てとれない。
 とにかく父親の背中には、父親そのものの生き態と人格が刻まれている。血の濃いき所以である。

 例えば、職人の子の、職人志望の一子相伝は、これが顕著である。職人の子は親の背中を見て育つ。
 したがって、親は子に自分の背中を見せ付けなければならない。子に見せるような背中の無い父親は、父親失格である。映るものは、憎悪だけである。そういう畸形
(きけい)をみせてはならない。

 夫婦とか親子関係と言うのは、あたかも行き先が同じ電車か何かに乗って、旅をする関係である。夫婦の場合でも最初は同じ電車に乗っていたとしても、途中で性格の不一致などを理由を挙げて、夫婦の何れかが途中下車するかも知れない。
 また親子の間柄であっても、子が親の職業を嫌い、親から離れて早々と途中下車するかも知れない。血が繋がっていても、親が子に対して自分の背中を魅せ付けるチャンスと魅力が無ければ、子は早々親から離れて行くのである。そして、一度親から離れてしまうと、もう互いは殆ど惹き合うことは無い。永遠に平行線のままで人生を終える。
 つまり、一子相伝は行われないままの人生であり、血筋も継承しなかったということになる。
 現代社会は、こうした畸形を呈した親子関係が多いようである。これは古いとか、新しいという問題では無い。血とはそういうものであるからだ。

 振り返れば、一子相伝は、まず偉大なる生命の発端が女根より始まるのである。子宝は女根より始まる。
 この始まりこそ血縁を繋ぐ第一条件で、血筋を確保した状態をもって、相伝する第二条件を満たさねばならない。それが男女二根の交会
(こうえ)である。

 『陰隲録』では問う。
 「人の人たる所以は一体何か」と。
 そして、可哀相とか不憫だと思う心であると。
 惻隠
(そくいん)の心があるかどうか、天から試されているのである。
 惻陰とは、いたわしく思う心であり、また哀れみや慈しみである。
 『孟子』
(公孫丑上)は言う。
 「惻隠の心は仁の端なり」と。そして、「惻隠の心無きは、人に非ざるなり」と。

 仁を求めるのは、つまりこの惻隠の心を求めるのに他ならない。
 心は仁の端なりとある。徳を積むのも、この「仁」からなる心を積むのである。
 『周礼
(しゅうらい)』には「春の初めの月の祭には、羊や豚を生贄(いけにえ)にして供えるが、牝(めす)は供えてはならない」とある。牝は仔(こ)を産むからである。
 それに比べると、牡
(おす)の方は値打ちが低い。
 如何なる愚婦も醜婦も子は生むが、男は如何なる英雄も豪傑も、子を生むことは出来ない。

 一休宗純がこのように言う。

女をば法のみくらと言うぞげに     
    釈迦も達磨もひょいひょいと出る

 男には、子供を生むことだけは出来ないのである。
 これは動物でも同じである。世界の始まりは生む者が居て、そこから始まった。
 したがって、捧げものでも牡は捧げていいが、牝は捧げてならないとなった。
 『孟子』はこのことを熟知していて、「君子は台所を遠ざかる」と言っている。
 これは男に料理の類や家事仕事をするなということでなく、台所と言うところは、生き物を殺生して料理をするところだからである。惻隠の心があれば、当然『四不食の戒』を厳守しなければならなくなる。

 四不食とは、第一が動物などを殺すと聞いた時には食べない。第二が動物などを殺すところを見た時には食べない。第三が自分で動物など飼っていてその肉を食べない。第四がもし誰かが持て成し料理として動物を殺してそうした肉料理が出されたときは食べない。
 そして出来るだけ殺生をしないように心掛ける。生命を慈しむ心である。

 慈しみの発端には、男女の「咸
(かん)」がある。
 殺すのではなく、生命を生む慈しみがある。男女の二根の交会によって、生命が生まれ、そこに慈しみが起こる。

 これは『易経』でいう咸であり「感」である。
 陰陽に於いて、あるいは男女に於いて、相互間に悉
(ことごと)く通じ合うという意味で、咸宜(がんぎ)をいい、また咸の爻(こう)の姿は沢の下に山がある形となる。また沢は瑞々しい少女を表し、そこには潤いがあり。艶と恵みがある。
 ちまみに『咸宜園』の「咸」も、『易経』でいう「咸」に由来するという。

咸宜園と広瀬淡窓坐像。

 咸宜園の中には『遠思楼』という不思議な建物がある。
 「遠思」と名がついているのだから、思いを馳せるときに、あるいは思索をするときに、この建物の二階の丸窓から思考して哲学に耽ったのだろう。そして「丸窓」は宇宙を顕していた。

遠思楼の丸窓。

 遠思楼の丸窓の「円」は宇宙への思索に遣われてたのである。
 円は、また『一円相
(いちえんそう)』の「円」でもある。
 禅で、悟りの象徴として描く円輪を「一円相」という。また「円相」は曼荼羅の諸尊の全身を包む円輪でもある。円こそ、宇宙を顕したものであった。

 円はまた月輪
(がちりん)に通じる。輪のように「まるい月」を指す。
 一方で、密教的に言えば、衆生
(しゅじょう)の清浄な心の本質を象徴する月輪を観想をいう。
 円は無垢・清浄に回帰するからである。

 更に、一円相を挙げれば、それは『碧巌録
(へきがん‐ろく)』の中には、「一円相」を問うた公案が出てくる。そして公案は、悟りとは何か、囚われないとは何か、欲と愚かさから離れ、真の自由を得たとき、そこに先人たちの珠玉を観じるとされている。

 更に先人の智慧を知るには、往時の人の気持ちが分かると言うことである。これこそが指導者の条件であった。日本においてそれは武士階級だった。
 文明の発生に検
(み)てよりこのから数千年、その必要十分条件を満たしていたのは、わが国の武家政権であった。そして武門では、世間と言うものを具体的には自分に指示を与えてくれる人であり、また働きを同じくする同志と考えていたのである。


 『易経』でいう咸にあっては、女は「沢」であり、一方、男は「山」を表す。
 辞は、男が女に下るとする。
 また、咸は男女の情を占って交感するに最上の吉卦
(きっか)となる。
 更には、咸は感応の力まで促す。そして背景には陰の持つ見えざる威力であり、そこに有機的生命体の根源がある。

 そもそも女の生命力と言うのは、男の比ではない。斯
(か)くも強力である。その生命力の偉大さは古代人こそ大いに理解し、それを知るが故に、男は女の力を撓(た)めようとした。ゆえに男社会が構築された。

 爾来
(じらい)幾変遷(いくへんせん)の結果、男は、女に力を借りつつ、表面上は虎の威を借る狐を決め込んだのである。
 表面上は、何処までも女に力に推し切られたようなポーズをする。その方が得だからである。何もかも女に任せて、そうさせた方が実際には楽だからである。
 斯くして女は蔭で奮闘する。一人で何もかも背負って、そうするように仕向ける。虎の威を借りた狐の狡猾な一面かも知れない。

 世に、似たもの夫婦と言う存在がある。
 この言は、性質が似ていることを指摘しているのではない。二十年、三十年と連れ添うと、夫婦は似てくることを指摘している。
 したがって性質や性格は、最初から似たものなど居る訳がない。性格の不一致など、あり得る訳が無いのである。更には、相性も似ている訳は無い。陰陽が一致している訳は無い。形が違う以上、性格も違う。

 世に相性と言うものがある。
 特に九星気学などは、相性を九つに分類し、これを陰陽五行説の中に嵌め込み、五数を九数でこじつけている。だが、実際には外れる場合が多い。
 夫婦の場合も、九星気学では当て嵌まらないものは多い。気学で占う相性などは、適合しないものも多い。こじつけに無理な一面を持つ。

 気学占で外れる第一の現象は、後天の気を考えていない点にある。生年月日主体である。
 だが、夫婦の相性は、一緒に長年暮らしているうちに合ってくるものなのだからである。九星に記された相性ではない。
 したがって相性は、初めから合うと言うのは稀
(まれ)で、生活しているうちに、徐々に双方が互いに歩み寄るから、それは相思相愛の相性のようなものと錯覚するのである。

 仲のよい夫婦は、どの夫婦でもある一点で共通項を持っている。
 この「一点」が、仲のよい関係を作るのであり、一方仲の悪い夫婦は、この一点に共通項を持たないから、以心伝心は愚か、言葉ですら双方が双方で意思の疎通が塞がれているのである。
 この「一点」を持たないから、共通項が無く、また均衡
(きんこう)が保てないのである。

 これに反して仲のよい夫婦は、結婚前になかったものが殖
(ふ)え、あったものが減るのである。
 しかし、一点と言う共通項を持ち、相性が合うからと言って、双方は必ずしも相似形をとるのではない。
 それぞれの個性の中で、どこか一点において、物の考え方や物の見方が似て来て、方向性を共にする行為が生じるからである。その行為の中に趣味があったり、人生の目的に共通の部分が生じてくるからである。

 これは一見、相性が合ってそれが働いたと映るのであるが、本当は長年連れ添った関係から共にする共通項を見出したというべきであろう。
 そして、子孫にも似たような血が遺伝されていく。把握されるべきことは、この点であり、共通項の一点の一致が挙げられる。しかし、相性以前に「気が合わない」という先天的なものを抱えている場合、水と油で何処までも共通項を見出すことは無い。永遠に平行線である。

 だが、現代の世は殆どこの点を見逃し、多忙を極めるだけの時代にあって、性の相性のみが問題にされて、肝心なることが忘れ去られているように思うのである。



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