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句集 自選1200句 3

少しおかしいぞ。
 時代の変わり目や特異点には、次の時代の繋ぎ目の洗礼として、奇妙な人間現象が起こる。昭和十年代の大戦前夜も、何か重圧的な現象が起こりはじめていた。
 そして少数派の良識人は、その時代を敏感に察知し、「少しおかしいぞ」という感覚を抱くのである。

 人間のは良識を感得する機能がある。流されていく時代、その時代に危機感を感じる警報装置がついている。
 損得はともかくとして、何か人間として、どても大事なことに背いているのではないか、という畏れを抱くものである。そんな警鐘が鳴り響いていた時代が、大戦前夜だった。
 そしてその警鐘は、現代の「今」でも、止まずに鳴り響いているのではないか。



●捨身懸命の野晒し三昧

 山頭火は、漂泊の旅を捨身懸命なる放下著(ほうげじゃく)に置き、その中で度々葛藤(かっとう)に襲われ悶絶(もんぜつ)を繰り返している。それは一種の強敵に対峙する「格闘」に似ている。一種の格闘家のごときである。
 そして、格闘家がひねり出す句は、実に生々しい。故に肉弾戦となる。

 まさに体当たり攻撃である。
 肉体をぶつけた響きは、本来の定型句には収まりきれるものでない。だからこそ、山頭火は非定型句に、自らの肉弾人生をぶつけている。

 彼の力説したかったことは、よい意味での風流を綺麗事では表現しきれないと考えていたのであろう。だから、定型句の綺麗事の風流から飛び出し、肉迫した人生道に迫ったと言える。人生は、また旅でもある。

 芭蕉が、「旅人と 我が名よばれん 初しぐれ」と詠んだ句に対し、私は直ぐに山頭火の、「しぐるるや 道は一すじ」と詠んだ、芭蕉の句と重ね合わせてしまう錯覚を抱くのは、果たして私だけだろうか。
 そして、また山頭火の「うしろ姿の しぐれてゆくか」の、肉弾野ざらしに、再び帰着するのである。

 繰り返し句を詠む度に魂が揺すぶられる。
 これは山頭火の精神生活の魂に触発されたためである。山頭火が現世という物質文化を超越して、彼自身が己の魂と格闘し、「行
(ぎょう)」を繰り返した行乞僧としての生き態(ざま)に触発された事に起因する。その魂への揺さぶりは、山頭火自身の表現した「孤寒」に帰着するものである。単に綺麗後事を通り越して、魂の領域までに声が届いてしまっているからだ。

 しかし、更に一歩深めて、山頭火はこの孤寒に甘んじる事なく、寂寥感へと到達している。その寂寥感は単に孤独と言うことではない。また個人が抱く淋しさとも異なる。
 大自然の寂寥の一部で、大自然が見せる非情の一面である。そこには無常観までもが塗り込まれているのである。その無常が「死」であろう。
 つまり、人間の「生」は、死に直面してこそ、死と対決しうる表現へと進化しているのである。これは彼の『其中日記』などで顕著になる。
 この点において、山頭火と芭蕉を隔てる近代的な新鮮さがあると思うのである。

 また、山頭火は事実、俳句を訪ねて漂白放浪するのであるが、俳句を訪ねつつ、表面は法衣に包まれているが、その中身は僧ではなく、一介の俳人であり、一介の詩人であった。そして、僧形と俳人・詩人の相入れぬ分野が、度々撃突を繰り返している。
 果たして自分に、「僧の資格があるのか」と繰り返し疑念を抱いている。それは「行乞をする資格」までもを問い質
(ただ)している。それが生涯山頭火を懐疑ということで、繰り返し自問させるのである。

 しかし、山頭火は行乞以外に生きていく手段はなかった。ここに彼の葛藤があった。
 またそれを格闘する為に、行乞僧としての、歩くという「行い」があった。その「行い」こそ、私が敢えて声を大にして伝えねばならぬ、もう一つの「山頭火論」である。
 これまで山頭火は多くの文人ないし、文学的素質に恵まれた多くの作家によって語り尽くされている。

 その中で、何故、私が今更、何を付け加えなければならないか、そう思うとき、大方は語り尽くされたような気がする。
 しかし種田山頭火を文学の探歩として捕えるのでなく、その生い立ちから、晩年の生き方を通じて、魂と格闘した、格闘家として彼を捕え、紹介したいからである。

 芭蕉の「乞てくらひ、貰てくらひ云々」と前書きの始まる句の中に、「めでたき人の数にも入らぬ老の暮」というのがある。山頭火も、この「めでたき人」であった。

 彼は永い間、行乞を以て、その日暮しをしていた。歩き、歩き徹す生活に、年々いを感じて来て、肉体的には、毎日毎日歩き詰めて家々の門に立ち、物を乞う事の淋しさを味わっていた。それは蔑まれる惨めさでもあった。

 しかし、歩かずにはいられなかった。行乞せずにはいられなかった。
 もう歩くまい、歩きたくないと思いながらも、やはり晩年も歩く事を止められず、「行
(ぎょう)」という行動の中に幾多の名句を残し、五十九歳で大往生している。

 そこに山頭火の、魂と闘う、格闘家としての心意気が感じられるのである。
 またそれが、私に筆を取らせる原因を作ったのであった。常に魂と闘い続け、その最大の敵は自らのうちに潜む「愚」であった。「愚」と格闘しつつのたうち回っている。悶絶
(もんぜつ)に似たのたうちを演じて、苦しみに苦しみ抜いているのである。

 また山頭火の「愚」の根底には懐疑が潜んでいた。愛欲と求道の狭間に揺れ動く「どうしようもない自分」だけでなく、常に自身の「資格」と問い続けているのである。果たして、僧侶としての資格があるのかと。
 自分には、その資格があるのか。
 山頭火はその資格について自分に自問自答を繰り返しているのである。それは次の事に対しての自問自答である。

 乞食に見放された家、さういふ家がある。それは貧富にかかはらない、人間らしからぬ人間が住んでゐる家だ。私も時にさふいふ家に立つことがある。
 その一銭をうけて、ほんたうにすまないと思ふ一銭。
 秋は収穫のシーズンか、大きな腹をかかえた女が多い。ある古道具屋に「御不用品何でも買ひます、但し人間の“こかし”は買ひません」と書いてあった。“こかし”とは此地方で怠けるものを意味する方言なそうな。私などは買はれない一人だ。
 

 喜捨してもらって済まない。そういう家の前に立つことを自ら心苦しいとしているのである。
 また、“こかし”という怠け者とか、ぐうたらを指す言葉はそのまま自分に跳ね返って、自らの「ぐうたらの愚」を戒めた言葉を自身に浴びせ掛けているのである。

 既に、自身で矛盾に気付いているだけに、山頭火の人間味があり、世の中には「自分は嘘をついたことがない」とか、自身を「善人だ」と言って憚らない、その種の手合いより雲泥の差があると言えよう。それだけ、自分は嘘をつき、人を騙し、善人でなく、無力であることに大いに愧
(はじ)じ入っているのである。

 嘘一つ挙げても、この世に嘘をつかない人間など一人も居ない。
 嘘をついたことがないとは、単なる自称で、自称こそ当てにならないものはない。
 人は大なり小なり、場所と時によっては嘘をつかなければならないことがある。出来るだけ嘘はつきたくないが、それでも嘘をつかねばならぬことがあるのである。それを承知で嘘をつくのと、自覚症状のないまま「嘘をついたことがない」と憚
(はばか)って嘘をつくのは、承知で嘘をつく者より却(かえ)って悪質と言えるだろう。
 世の中には、この種の悪質なる自覚症状の無い嘘が多いし、そういう種属が多い。

 また、自らを「善人だ」と言って憚らない悪人の多いことである。自称善人こそ、悪質である。正義ぶる義人面した自称善人が多いことである。
 似非
(えせ)善人が、自らを善人と言い憚って、善人であったためしがない。自分でも気付かない大した悪党である。
 それだけに自称“善人”は恐ろしい。悪人と自覚している悪党よりも、自称“善人”の方が恐ろしいのである。
 山頭火は、この自称“善人”の類
(たぐい)を知り過ぎるほど知っていたのであろう。

 世間師に身を窶
(やつ)し、世間を巡回すれば、一番眼に付くのが先ず第一に人の善意と人情であろうが、その善意と人情と同じくらいに眼に付くのが自称善人が多く居ることである。
 つまり、人間の善と悪の矛盾した二面性である。そして山頭火自身、自分の裡側
(うちがわ)に善なるものと悪なるものが同居していることに気付かされるのである。
 人間こそ、矛盾の最たるものだと痛感するのである。
 そして山頭火は、この矛盾に対し「愚」と一文字で言い当て、愚と言う矛盾を抱えて生きていく他ないと観念するのである。

 その意味からすれば、山頭火の漂泊の目的は、この世の自称“善人”の嘘の世界から逃避することだったかも知れない。単に厭世観からの現実逃避でなく、嘘で固めたタテマエの世の中を煩
(わずら)わしさを離れて、嘘つきだが正直に生きたいと格闘したに違いない。これ自体は漂泊の目的になっていたのではないかと思われる。

 更に、寝る食べる飲むの東漂西泊の記録を読めば、世間の人情味にも触れている。世間は鬼ばかりでないことを自らの体験を通じて証明している。
 それは宮崎県南西部の元薩摩藩支藩、北郷
(ほんごう)(のち島津姓)三万石の城下町である都城から高岡町までの行乞間で体調を崩してしまったことについて語っている。

 この日、山頭火は午前八時頃、無理して宿を出立した。その後、暫
(しばら)くして悪寒に全身が襲われた。そして熱を出した。
 こうなると、もう行乞どころではない。
 しかし歩かねばならなかった。暫く歩くと路傍に小さなお堂を見付けた。そのお堂の中に這
(は)いずるように板張りに転がり込んだのである。そこで横になる。発熱していて、熱も相当に高いようであった。板張りに転がったまま喘(あえ)ぐしかなかった。大きく深呼吸して呼吸を整えようとする。それでも喘ぎはおさまらない。熱は益々上がる一方である。

 こうした処に近所の子供達が遣って来た。子供達は蓙
(ござ)を持ってきてくれたのである。その蓙を地面に敷いて、そこに臥せれというのであった。
 山頭火は有難いことだと思う。ここに幼き人の善意と人情を感じたのである。それは実に有難いことであった。

 子供達が言うままに、そこに身を横たえた。熱と悪寒と慄
(ふる)えは直ぐには治まらないが、少しずつ安らいでいった。熱のある躰には、冷え冷えとした大地が気持ちよかったのである。その気持ちのよい中で、夢とも現実ともつかぬ時間が二時間ほど過ぎて、熱は下がり悪寒は消え、慄えも治まっていた。
 総て大地が吸い取ってしまったのであろうか。

 こうして山頭火は忽
(たとま)ち元気を取り戻して恢復(かいふく)し、これまでとは打って変わって、家々の門の前に立ち、観音経などを読誦したと言うのである。読誦すればするほど徐々に調子が良くなり、すっかり元気を取り戻した。その後、再び元の宿屋に舞い戻り、渇いた喉を潤すために水を心ゆくまで呑んだとある。
 この経緯には、一つの有機的な因縁の繋がりがある。

 まず第一に路傍のお堂に行き当たったことである。第二に、そこに子供達が現れ、蓙を持ってきてくれて寝かせてくれたことである。
 第三に大地に横たわって、大地が熱の吸収に大きな役割を果たしていることである。
 第四に、山頭火自身は、水を飲んで養生すれば健康は恢復出来ると、これまでの体験からこれを躰で自得していることであった。

 この四つは因縁を得るための必須条件になっている。この因縁がなければ山頭火は助からない。因縁が生かしてくれたと言うべきであろう。
 つまり、山頭火の体験は人の世の人間現象界が、因縁によって有機的に繋がっていることの事実を証明していることである。もし山頭火自身に因縁がなければ、そこで終わっているかも知れない。この日、病気をこじらせて、以後の山頭火は此処で潰えているかも知れない。そういう結末があっても不思議ではない。

 山頭火自身、そういう結末で終わった放浪者を幾人も検
(み)てきているからである。それを検て、自分も死と、常に隣り合わせに居ることを繰り返し認識させているのである。死すら大自然の中で予感しているのである。人のみならず、生きとし生けるものは、死とは無縁でないことを熟知しているのである。
 そしてそれは、句にもなっている。

 しずけさは死ぬるばかりの水が流れて

 いつ死ねる木の実は播いておく

 おちるいて死ねそうな草枯るる

 それは死の前のてふてふの舞

 きぬきぬの金魚が死んで浮いてゐる

(多々桜君の霊前にて)
 桃が実となり君すでに亡し

 うららら蝶は死んでゐる

 仏教論を展開するならば、「生かされている」という物事の動機であり、切っ掛けである。
 この切っ掛けは、自らが自力で生きていると言うことでなく、他力により「生かされている」という自覚の出所である。
 これを観る場合、まず繋がりについて考えてみなければならない。

 (老遍路)
 死ねない手がふる鈴をふる

 (行旅病死者)
 霜しろくころりと死んでゐる

 句の中で、死を直視しているが、特に衝撃的なのは行旅病死者を詠んだ句である。自分もやがてはそうなるとすら予感し、旅に死ぬだろうと覚悟をしているのである。
 しかし、いま生きるのは因縁だろうとも承知しているのである。

 そして眼に見えない隠れた部分には、「因」である直接的動機と、「縁」である間接的条件が有機的に繋がっていることが分る。ゆえに「因」と「縁」が結果として生じる。これを「縁起」という。
 これは、定められた有機的な繋がりで物事が生ずる切っ掛けを構築しているのである。これをまた「因縁」と言う。
 しただって因縁がなければ、この世から消える以外ない。

 しかし、因縁は山頭火を生かした。
 此処に現れた四つの条件は、決して偶然などではなかった。必然であり、それは起こるべきして起こった有機的な繋がりを持った因縁であった。

 世の中には、「不思議にもこう言うこともあるもんだ」という現象が起こるが、これは偶然に気紛れに起こるのではなく、必然に因縁的に起こるものである。そうなるべきして起こるのであって、一見偶然と思えることですら、因縁的に必然的に起こっているのであって、背景と目に見えない深層部には有機的な繋がりが存在していると言えよう。
 もしかすると、山頭火はこの因縁から起こる有機的な繋がりの秘密を知っていたのかも知れない。

 普通、この時代を含めてそれ以前の行乞僧は、乞食の旅で死ぬことが多かった。それを覚悟で漂泊の旅に出るのである。

 漂泊して、乞食となり、千家の軒下で読誦して、修行法としては最も低い修行をするのである。
 行の世界で、修行者が生きる因縁が失われていれば、修行は忽
(たちま)ち死をもって返って来るのである。
 則
(すなわ)ち、因縁があるかどうかである。
 因縁の意味を理解し、体得していなければ、因縁を得て生き残ることは出来ない。死者は因縁を失って生きる資格を失い、生命の火が消えるのである。


 【著者作の自選1200句】

ー 五 ー





ー 六 ー





ー 七 ー





ー 八 ー





ー 九 ー





ー 拾 ー





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