運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
句集 自選1200句 1
句集 自選1200句 2
句集 自選1200句 3
句集 自選1200句 4
句集 自選1200句 5
句集 自選1200句 6
句集 自選1200句 7
句集 自選1200句 8
句集 自選1200句 9
句集 自選1200句 10
句集 自選1200句 11
句集 自選1200句 12
句集 自選1200句 13
句集 自選1200句 14
句集 自選1200句 15
句集 自選1200句 16
句集 自選1200句 17
句集 自選1200句 18
句集 自選1200句 19
句集 自選1200句 20
句集 自選1200句 21
句集 自選1200句 22
句集 自選1200句 23
句集 自選1200句 24
句集 自選1200句 25
home > 胆識と流転の句集  自選  1200句 > 句集 自選1200句 4
句集 自選1200句 4

近代に近付けば近付くほど、金が物を言う社会になった。
 「金が総てではない」と、金嫌いな人がいる。
 本心で“金嫌い”ではあるまいが、世の中には「金が総てではない」と豪語して憚らない人がいる。
 だが、世の中のトラブルの少なくとも70%から80%は、金で解決するのではないか。

 そして不足分の、この部分は金がありさえすれば、次善策が解決するのではないか。
 もし、金で解決出来ないとすれば、せいぜい全体の数%とくらいであろう。
 換言すれば、「現代」と言う世は、金さえあれば、ほぼ100%近く解決出来る世の中の仕組みになっている。したがって、トラブルは金を遣う限り、後遺症は近代では残らない。そうなっている。

 極端に言えば、トラブルは金で解決出来るという近代の世の中の仕組みになっている。
 現実問題のトラブルは、殆どの場合、金で解決出来る。
 それも、「金に変えられない」と言いながら……。
 そいう言って、表面では憚らないのだが、やはり金で解決するらしい。
 これ、魂というものを挙げた場合、果たして本当だろうか。
 だが、結局は金銭で埋め合わせするしかないというのが、現代と言う世の中なのであろう。

 しかしである。
 心の埋め合わせということを考えれば、これで決着をつけたことになり、終わったのだと言えるだろうか。
 そういう反論もあろうが結局のところ、心の痛手を「癒す手段」を、今日の現代人は、どういう、金銭以外のもので心の痛みを解決出来る方法を知っていると言えるのだろうか。
 時間が解決する。時間が不幸を解決する。過去の忌まわしい出来事は時間とともに消滅する。

 これ、本当だろうか?
 被った損害を、時間が本当に解決するという「世迷い言」を現代人は信じているのだろうか。
 もし、そうだとすれば「金は総てではない」の、“総てではない”は否定されなければならない。
 こういう論陣を張って、世を誑
(たぶら)かすのは「邪」と言う他あるまい。
 つまり回帰するのは、金の問題と言うのであろうか。
 金……。
 問いたい!



●真贋綯い交ぜ

 人の世での「善」か「悪」かは人間側の、また個人の見立てによる。客観より、主観による場合が多い。
 更に、人間界と言う現象界は、単に表だけでなく、裏もある。表だけを見て、善悪は判断出来ない。裏側から見る必要もある。
 したがって両面からの総合判断が必要である。
 これを更に三次元構造の「立体」で見れば、前後・左右・上下の六面方向からも見なければなるまい。

 ただ表面だけを見て、更には、自らが安全地帯の温室内の閉じ籠
(こも)って、世の中全体を洞察しても、それは所詮(しょせん)机上の空論的な洞察に過ぎない。
 現に、似非
(えせ)坊主のような高位の僧籍をもちながらも、肉を喰らい、女を抱いて何の憚(はばか)ることも知らない生臭坊主も居る。この輩は、徳など何処にもない。
 つまり、この世にはニセモノとホンモノがあるということだ。

 そしてニセモノの方が、本当らしく見せ掛け、大いに幅を利かせている。
 例えば、テレビなどに出て一端
(いっぱし)の禅を説くタレント坊主である。
 この種属は、本当の禅坊主とは程遠い。全く、あっけらかんとしていない。
 何かしら、こだわりを持ち、二言目にはこだわりを乱発し、出し惜しみをし、等身大以上に尊大振り、毎日欠かさず坐禅をしているようなことを豪語する。

 だが、日々を坐り抜いているようなホンモノは、禅の「ぜ」の字も口にしない。
 第一、禅の効用などの論じで自らの寺や自分の偉さを喧伝せず、自然に振る舞って飄々
(ひょうひょう)とした一面を持っている。
 これはニセモノが、自分は偉いと思い込んで尊大に、磊落
(らいらく)に振る舞っているのに対し、ホンモノは、自分はちっとも偉くないと悟り切っている。この悟り切りは、ニセモノの“生悟り”と対象的である。偉くないところが偉いのである。君子とはそういうものである。

 同じ坊主でも、次元も格も、こうまで違うのである。
 坊主も同じ人間である以上、尊大に振る舞うこの種は、人間界には宗教者に限らず何処にでもいる。ちやほやされて、有頂天に舞い上がるタレント如きの輩
(やから)は、表向きは豪放(ごうほう)磊落に見せ掛けて、内心は細かい物事にこだわり、ちっとも朗らかでもなく、気が大きくもない。
 気が大きくなるのは酒を飲んだときだけである。酒に呑まれて気が大きくなるだけである。

 そして、坊主などを含めた宗教者は、神仏について尤
(もっと)もらしいことを言う。分っているようなことを言う。悟り切ったようなことを言う。
 ところが、どっこいである。

 この種属こそ、実は最も神仏からは遠い存在の輩である。
 神仏について饒舌
(じょうぜつ)な口を持つ輩は、宗教には暗い素人を前に、難しい宗教用語を並べ立てて小難(こ‐むづか)しくし、神仏を自分のために利用して、「神の前に、神とともに、神なしに生きる」のではない。神仏ともには生きていないのである。

 よく世間では「あの人間は悪人だ」などと言うことがある。人を名指しで、そういう誹謗中傷をする。
 しかし、そう言われた人間が、必ずしも悪人であった例
(ため)しはない。誹謗中傷は噂が一人歩きしたものが多い。真実とは無関係である場合が多い。伝搬途中で捏造(ねつぞう)されて、これに勝手な尾ひれがつくこともある。
 また逆に、その反対もある。善人然が、大した悪徳の持ち主である場合も少なくない。

 この場合、見方を変えれば、悪を知らない自称“善人”の方が、本当の善人でないからだ。
 無力な善人は、悪である。
 つまり、善行とは口先ばかりでなく、行動の裏付けが要るからである。安全地帯の外野席でほざくことではない。

 私の知人には、若い頃、沢山の悪を知り抜いて、悪を研究した挙げ句、悪に染まらなかった、好々爺
(こうこうや)なる善人がいる。この御仁は、悪を知らない善人より、数段も上の善人であり、また私流に言えば、無力な無しもしない善人から見れば、悪党かも知れない。
 しかし、私が観ずるところ、可もなく不可もなく、目立ったことも特にしない、この手の無力な善人の方が恐ろしい。何もしないことの方が、むしろ悪と言えるのではないか。

 つまり、教訓に代表される本当の善とは、悪を知った善であり、またこれまでに紆余曲折を繰り返し、挫折を知った、悪経由の善だから、この善は、無力の善人より偉大なのである。
 そこに、また人間的な魅力があろう。
 そういう魅力の持ち主は、人を魅了して止まない。実に吸引力がある。

 悪を知り尽くした善なる人は、単に悪に転ばないばかりか、最初、違和感から反撥を覚えるものである。ところが、やがてそれが同時に魅力であることが分る。
 これは「伴侶」というレベルで考えても納得いく筈である。
 生涯の伴侶は、最初の見た目だけでは決まらない。一見
(いちげん)では、度量や器量が計測出来ないからである。
 また一見は、見掛け倒しもある。表面虚飾である。その事から考えれば、見掛け倒しに陥ることなく、中身を探るべきである。

 真相を知るには、ある程度の観察時間が居る。一概に断定してしまうことは危険である。冷静な目で、第三者の目で自分の主観を含まず、判官贔屓
(ほうがん‐びいき)も捨てて、また弱者に対しての第三者の目も同情も無用である。一方だけで愛惜してはならない。

 また、観察する場合、自分の好き嫌いすらあってはならない。偏りをなくして中庸を維持して物事の真相に迫ることが出来る。故に一面透視では駄目である。裏を見て、裏の裏まで見抜かねばならない。
 それが為し得て、はじめて真相に迫ることが出来る。見た目とか、第一印象や自分の感性での好き嫌いで判断してはならないのである。

 山頭火を表面的に観察すれば、誰の目から見ても乞食坊主だろう。自分では、僧侶の資格はあるのかと懐疑を抱き、苦悩しつつも乞食坊主であると同時に、似非坊主という疑いすら抱いていた。その呵責に、生涯攻められるのである。
 しかし、乞食の似非坊主などとは、聞いたためしがない。
 普通、似非坊主は乞食などしないものである。似非を充分に利用し、生臭の身でありながら、実に僧侶然としたものである。
 故に尊大である。

 その尊大さは、テレビなどに登場し、一端の論説を並べ立てる饒舌で証明済みである。似非坊主の特徴は、一人の例外もなく尊大であることだ。
 似非を尊大で隠すためである。したがって、自らがどれだけ尊大に振る舞うかで、似非や生臭を見事に隠してしまうのである。
 “肉食妻帯
(にくじき‐さいたい)”の類は殆どがこれである。

 したがって乞食などしない。
 乞食自体をナンセンスと罵倒しているのである。それだけ、自分の似非を隠して憚らないのである。
 この意味からすれば、山頭火の似非感覚は実に軽微なものと言えよう。あるいは皆無かも知れない。

 しかし、山頭火は資格のないのに法衣を着て行乞をする自分に懐疑を覚え、このこと自体に苦悩するのである。
 山頭火の句に、「ホイトウとよばれる村のしぐれかな」と言うのがある。
 この句自体が強烈なインパクを与える。
 これこそ、自らを乞食と自称するもっとも低姿勢の考え方であり、敢えて言えば此処に山頭火の「正直」があると思うのである。

 ボロ雑巾のような法衣を引き摺
(ず)って山頭火が歩いて来ると、道々の子供達が「乞食が来たぞ」と寄って来て、乞食の正体を突き止めようとするのである。

 乞食が来たぞ。
 興味津々の言葉である。子供心に、見てみたいと思う。一種のヤジ馬根性であろう。あるいは好奇心からだろうか。
 これは子供だけでなく、大人なら尚更かも知れない。
 世の底辺を見てみたいと言うのは、優越感からして当然の好奇心からかも知れない。
 しかし、乞食とは何と残酷なる見下げた意識から発した侮蔑用語であることか。

 侮蔑甚だしき罵倒を口々に投げつけつつ、このような酷い乞食に比べれば、貧乏していても「自分の家の方がましだ」と優越感を感じるのである。
 山頭火は、度々優越感を感じる対峙者として引き合いに出されている。
 つまり、「ああいう乞食より、自分の方がましだ」という、貧者が貧者を見下す意識である。
 この意識こそ、貧者が清貧としての気品が保てず、ついに“赤貧”となる顛落の結末である。
 人間は貧しくとも、赤貧でなく、「清貧」を保ちたいものである。

 世に、綺麗事は多い。そういうスローガンは多い。
 ところが現実はそうでない。
 人は、自分よりも弱い者に対して、「弱者を苛めてはいけません。弱い人は守ってあげましょう」などというスローガンとは裏腹に、弱者をとことん苛め抜き、罵倒し軽蔑し、その絶好の対象者として、あたかもこの時代の乞食の代表格にされてしまったのである。
 子供達は言う。
 「乞食が来たぞ」
 そして、この乞食を一目見ようと、恐いもの見たさに寄って来るのである。
 山頭火に駆け寄り、破れ笠の中をしきりに覗こうとするのである。

 一方山頭火の心理としては、自身で、物乞いとも托鉢僧とも何とも要領の得ない、資格のない自分の境遇を愧
(は)じてはいるものの、しかし「乞食が来たぞ」の罵倒や罵声を聴くと、何とも遣る瀬なく、そして悲しいと思うのであった。

 恐らく、この悲しさは似非坊主にはないものだり、逆に似非坊主こそ存在に振る舞いから、道行く姿を見ただけで周囲の人は走り寄り、尊崇
(そんすう)の深い意味を込めて深々と頭を垂れるか、土下座までして、拝跪(はいき)の姿勢を示すだろう。

 それに比べて山頭火はどうか。
 悉(ことごと)くに愧じ入り、資格なない上に乞食坊主然としている。この点を懐疑のともに悔悟するのである。
 その愧じが次ぎなる句を詠んだ。

 ありがたいお金をさびしくいただく

 供養受けるばかりで今日の終りし

 内心は、「私は確かに乞食坊主だろう。しかし、乞食であっても坊主ではないんだよ」ということすら言い返したい心境であろう。
 故に、子供達が言う「乞食が来たぞ」を否定しないのである。ただ悲しいと思うだけである。寂しいと思うだけである。そう思い、それに頷く以外なかったのである。

 その乞食坊主が、わが身を省みて、「私は詐欺者じゃないか、否、掠奪者じゃないか、と恥ぢる、かういふ生活、かういふ生活に溺れてゆく私を呪う……。芭蕉の言葉に、わが句は夏炉冬扇の如し、といふのがある、俳句は夏炉冬扇だ。夏炉冬扇であるが故に、冬夏炉扇として役立つのであるまいか。荷物の重さ、いひかへれば執着の重さを感じる。荷物は少なくなってゆかなければならないのに、だんだん多くなってくる。捨てるより拾ふからである。」と自戒しているのである。

 しかし、人間とは矛盾の最たるものである。
 山頭火は自戒の直後、北九州八幡を行乞しこう日記に記しているのである。
 「八幡よいとこ────第一印象は、上カンおさかなつき一合十銭の立看板だった、そしてバラック式長屋をめぐる煤煙だった。そして友人の温い雰囲気だった。」と書き添えている。
 更には、飯尾氏宅で俊和和尚に逢ったとき、「私は所謂
(いわゆる)禅坊主はあまり好きでないが、和尚だけには好きにならずにはゐられない禅坊主だ。」とも書いている。
 これこそ矛盾の最たるものではないか。

 一番低姿勢である筈の行乞僧が、時には不平を洩らし、あるいは少しばかりの優遇を得て暖かい温情に触れたといい評価をつけているのである。
 そもそも行乞とは、一番最低の低姿勢に修行法でなかったか。
 しかし、人間は喉元の熱さ過ぎれば直ぐに忘れてしまう主観的な生き物のなのである。矛盾多き生き物なのである。これを一概に指弾することは出来まい。重箱の底をほじくってその非を見付け、小事に拘泥することもあるまい。
 ある意味で、それでこそ人間と言うべきか。


 【著者作の自選1200句】































<<戻る トップへ戻る 次へ>>

  運気     八門人相     房中術     癒しの杜     菜根譚     小説     会報Back No.     合気     蜘蛛之巣伝     死の超剋     霊的食養     心法