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句集 自選1200句 5

世間師の話題は何か。
 思えば、世間の一般の通常の出来事であろうが、その中でも“艶もの”の話題が多い。あるいは異性関係とか、色の道の武勇伝を話題にする。そして今の出来事ではなく、遥か昔の色道の過去を痛快に語って聴かせるのである。

 最初、社交辞令のような清談からはじまり、調子付くと奇談となり虚談となる。更に虚談がねじれれば、遂に猥談となる。
 そして話題の中心も“艶もの”であり、締め括りもやはり“艶もの”である。猥談に始まり、猥談に終わるようだ。

 世間には猥談が幾らでも転がっている。
 しかし、本当のことは分らない。真意は不明である。ただ喋る方が、大袈裟に、おもしろ可笑しく、脚色して語ると言うのが世間の通り相場である。
 ために飛躍する。
 勿論、小さなことに輪を掛けて、等身大以上に大きく見せ、捏造し、他から聴いた耳年増も含めて……である。

 山頭火はこうした世間師達を、次のように観察している。
 「同宿のエビス爺さん、尺八老人、絵具屋さん、どれも特色のある人物だった。例のお遍路さんから肉体のおせったいと云ふ話を聞いた。ずいぶんとありがたい、いや、ありがたすぎるおせったいだろう。
 親子三人連れのお遍路さんは面白い人だった。みんな集まって雑談の花が咲いた時、これでどなたもブツの道ですなあといった。ブツは仏に通じ、打つは勿論、飲む買う打つの打つである。
 また、虱と米の飯とを恐れては世間師は出来ませんよと。虱に食はれ、米の飯を食ふところに世間師の喜怒哀楽がある」と、世間師をこのように観察しているのである。
 艶もの猥談は、こうした世間師の得意とするところである。



●こつじき

 極貧者を乞食(こじき)と言う。生活の糧(かて)を持たない者を乞食と言う。
 乞い歩いて物を恵んで貰い、あるいは少額の金銭を恵んでもらい、それで一日程度の生活をする「物貰い」を総称して乞食と言う。

 しかし、同じ字を用いての乞食であっても、これを「こつじき」という言い方もある。
 乞食は物貰いだが、「こつじき」は僧である。
 僧は労働が禁じられているから、托鉢
(たくはつ)をする。
 托鉢をして、人々に布施する功徳の喜びを教え、僧はその布施によって生かされる。乞食僧は人の善意によって生かされる僧侶のことである。

 乞食と書いて「こつじき」と読む。
 乞食は、修行僧が人家の門の前に立ち、食べ物や金銭を乞い求めることを言う。この種の僧を「托鉢僧」とも言う。各戸で布施することを説き、米銭を鉄鉢
(てっぱつ)で受けて廻ることを言うのである。

 托鉢という行為は日本だけにとどまらない。十三世紀頃からヨーロッパにもあった。
 これを「托鉢修道会
(Mendicant Orders)」と言った。
 この修道会は、西ヨーロッパの諸都市に生まれた修道会のことで、修道士は托鉢によって生活をする。喜捨することを人民に教え、これを喜びと教えるのである。
 更に、説教や学問活動などを通じて民衆に信仰の大事を教え、奉仕の精神も教えるのである。
 フランシスコ会、ドミニコ会、カルメル会などがこれである。

 さて、乞食である。
 乞食を「こじき」と執ればそれは虚しい。
 「こじき」と思えば、人間ならばもう当然の如く「乞食は厭だ。物貰いは厭だ」となる。コジキだと自尊心が失われて、動物に近くなるからである。
 憐れみは受けたくない。そう思ったのだろう。

 しかし山頭火は、自分がコジキであることに疑いを持つ。一旦は疑いを持つが、しかし乞わないと食べていけない。何しろ無所得であり、非生産者であり、無一物であるからだ。世間の人達から生かしてもらわねばならならい。そうなると、自分自身の存在すら疑いたくなり、自分は果たしてこの世に必要な存在かとまで疑うのである。そのうえ単なる乞食とは一線を画して、法衣を着て托鉢をしているからである。その資格があるのかすら疑ってしまうのである。

 経済的には赤字生活者であり、この赤字が山頭火を人家の門や軒の前に立たせた。この行為自体が、一先ず自尊心を回復させ、辛うじて托鉢を職業として乞い歩くことを遣ったのである。
 それゆえ、読誦する以上、当然、行乞の相が気になるところである。その相が善いか悪いかで、その日の落ち着く宿た酒食の内容が一変するからである。

 乞食にも「相」があるのである。善ければ極楽飯にしありつけようが、悪ければ地獄飯すらありつけず、空きっ腹を水で誤摩化し、下手をすれば野宿となる場合もある。夏は薮蚊に追い回され、冬は寒さに震えねばならなくなる。それを覚悟の野晒しの旅である。
 托鉢はすれど、野晒しに晒されての行乞の旅である。
 「相」が悪い場合、“弾き”と称される。
 弾きは、「はじかれる」という意味である。無用物として必要とされない、世の中から排除される存在である。

 弾かれると、十軒の門や軒の前に立って読誦して布施を頂けるのは、僅かに一軒程度であるからだ。その一軒を当てにして行乞して廻り、やっと何とかということになる。
 つまり、確率的には百軒廻って十軒ということになる。したがって、逆から検
(み)れば弾いた九十軒は行乞僧を世の中の不要物と考え、当時は労働せずに食にありつく寄生虫のようにしか考えていなかった。そのうえ僧の姿をしていても乞食然としているし、風体から不潔で汚く、それだけに嫌われものであった。

 また、この嫌われものを撃退する方法として『主婦の友』や『婦人画報』などをはじめとする婦人雑誌に、行乞僧が現れた場合、どう撃退するかその撃退法まで掲載されていたのである。そして、その撃退法のマニアルに従って弾かれるから、ますます行乞僧にとっては読誦が遣り難いのであった。世の中の寄生虫として嫌われ、指弾の攻撃に晒されていたのである。
 こうした状況下、世の中は不景気になる一方で、かつては十五、六軒行乞すれば鉄鉢は一杯になったが、今では三十軒以上も廻らなければ満たされないと歎いているのである。

 そして既に弾かれる場合、玄関前に托鉢僧を狙い撃ちして「お断り」とか「御免」という意味の立て札さえ立てられていると言う。
 山頭火は、これを悲しいといい、寂しいというのである。

 また木賃宿の待遇も、悪ければ悲しさと寂しさを募らせる。惨めな思いを感じる。
 それでいて、自分は何事かに執着する未練深い男ではなかった筈だとも思うのである。
 そして、人間としては執着は捨て得ないけれども……と思い返し、その執着はどこにあるのかとも考える。ここに苦悩する自分があるのである。
 しかし何事も因縁時節であると思い、更に旅を続ける。行雲流水の身の上であると思い知らされ、雲のように水のように流れに遵って行動しなければならないと思うのである。そして漂泊の旅は続く。

 旅でつきものは宿である。
 山頭火は宿の善し悪しも挙げている。その中でも宿の経営者の人間性も挙げ、次に超穂品なども宿の善し悪しに挙げ、例えば経営者が曲者であったり、厭な人間である場合、旅を悲しくさせ切なさを感じさせるとしている。


 【著者作の自選1200句】














































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