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句集 自選1200句 7

現代人は苛立っていながら、その一方で無気力になりつつある。また、無感動も甚だしい。感動は一瞬の出来事であり、もう数分後には感動は綺麗さっぱり消去されている。

 うわー凄い……と言う感動も、うわー可愛い……と言う感動も、長くは持続はしない。そう感じても、一瞬のことである。あたかも束の間の線香花火のようだ。
 現代人の感動も感激も“この程度”の「こぢんまり」とした感性に押し下げられ、霊的神性が低下し、退化してしまったのだろう。

 それは高速の時代を暮らす現代人が、至って無気力になり、無感動になっているからである。近年は無関心が猛威を揮っている。
 感情すら足早に変化し、次々次へと移っていく。多忙と言う時間の中を、ただ分けもなく驀進しているだけである。
 故に、肝心なる「魂」は置いてきぼりである。
 そして“先送りの発想”の論理。
 その最たるものが“明日があるさ”である。

 “明日があるさ”の言い回しの裏には、今日出来る事でも、総て明日に延長したいのである。
 故に、“明日があるさ”である。
 明日がある。今日遣らなくていい。明日すればいい。

 明日……。
 何と云う「甘美」な言葉であろう。
 現代の世は、甘く爛
(ただ)れている。甘えの構造の中にある。
 明日に希望がなくとも、明日があることに訳の分からない希望的観測を抱く。これが現代だ。現代の物質主義だ。



●魂の故郷へ

 道具と云う物がある。
 また現代人は、道具として科学やそれに対する技術を手に入れた。それを手に、人間に役立つ道具とした。
 道具は確かにその恩恵に預かれば、人々の暮らしを便利にし、快適にし、そして豊かにしてきた。しかし、その反面、公害を出し、更にはエネルギーの枯渇の憂慮の中に晒す現実を招いた。
 道具は確かに文明を豊かにし、便利に快適にしたが、人間の生命
(いのち)までは幸福にはしなかった。道具はあくまで道具でしかなかった。精神性は伴わなかった。

 ところが、現代人は豊かさ、便利さ、快適さを幸福と混同し、これを物質的幸せに求めた。この混同は、何と現代人に多いことか。如何に多く人はこの混同を招いて、混同の誤謬
(ごびゅう)がどのように本来の人間性を歪めているか気付いていない、如何に人間の精神生活を歪め、病的にしているか、殆どの人が分っていないのである。
 また、この歪んだ物質生活が、人間に不幸と貧弱を齎しているかに、人は悲しくも、僅かにしか考えず、他地で起こる不幸現象を対岸の火事くらいにしか思っていないのである。

 そして、今や「命を育む」という行為は、神不在の生活を送っているため、自
(おの)ずから神と偕(とも)にある世界を感じ得ず、また仏と偕に融(と)ける境地へ至っていないのである。
 総て心までもが物質的になり、その物質は金銭で換算されるようになったしまった。
 現代の世は、総て金次第である。

 大半の人は、一口で“金が総てではない”と豪語する。そして、金が総てではないと言い放っておきながら、何処かで金に頼る解決法を期待したり、金の金額によって誠意を計る企てが試みられている。

 金が総てではない……。
 果たしてこの考え方は、万人を納得させることが出来ようか。
 そう、豪語しながら、万人はそれを受け入れようか。誠心誠意を、金以外で納得出来ようか。
 納得出来ないような、精神性が、もはや崩壊しているからである。
 第一、罪の贖
(あがな)いは金で済ませる。それ以外の解決法を、未だ人類は見出していない。賞罰は金による。賞も金であれば、罰も金である。
 やはり、金が総てである。

 それは結婚にしても、そうでないのか。
 例えば女性が結婚する場合、相手方の男は、余程酷い男でない限り婚姻に同意し、結婚し場合の亭主は一種の財産であり、また月々の給与を運ぶ貯金通帳ではないのか。それを当て込んで、自分の未来を計るのではないか。
 経済的不自由を警戒するからである、
 背後にブルジョア的な思惑があることは確かである。

 またトラブルを考えても、世の中の不慮の出来事や自己などの人災による災難は、その70から80%ほどは金銭で解決出来る。残りの不足分は、金があれば次善策で解決できよう。金で解決出来ないものは、せいぜい10%未満であろう。
 つまりトラブル絡みのアクシデントは金絡みのものであり、現実問題としては大抵の場合、金銭で解決出来るのである。

 世の中には「金には替えられない!」と豪語する人がいる。
 しかし、そう言いながらも、結局は金で埋め合わせることを納得せざるを得なくなる。人の世に、金以外で解決する真理を人類は未だ見出していないからである。

 それでも「心の痛手はどうするんだ!」と強気の人がいる。
 しかし、そう反論したところで、結局のところ心の痛手を金以外で癒す方法を未だ人類は発見していない。

 心の痛手まで癒す方法が見つかっていれば、今日のような金融経済は誕生し、発達していなかったであろう。あれば、とっくに癒していた筈である。癒す手段がないから、不慮の出来事の遭遇者やその遺族は時間を掛けて、時が解決するのを待つ以外内のである。時を経て忘れる以外ないのである。
 そこで、残るのはやはり金銭問題が絡んで来る。その場合、多いか少ないかである。

 多い場合は100%解決するが、少ない場合は裁判沙汰に及ぶ。そして被害者と加害者の歩み寄りで半ばを採って示談と言うことになる。
 金が総てではない。机上の空論に過ぎない。青臭い善人論である。
 一方、金で決着が着く。極論だが、然し乍ら大いに説得力を持っている。
 そして、この世はその説得理論によって動いているのである。誠心誠意の量は、金額の多少で決定される。

 近代史はルネサンスとともに幕開けした。
 ルネサンス以降の近代史の方向は、資本主義社会の到来で神仏的精神社会が止めを刺された。また、止めを刺すべき方向へと向かった。
 だが、これで総てが新しい方向へと向かった訳ではなかった。
 資本主義の擡頭
(たいとう)により、次に共産主義が擡頭し、かのロシアの地で人間牧場の実験がなされた。共産主義社会はその出現によって、ある模索に一つに過ぎなかった。
 ところが近現代史は、この模索に大いに入れ揚げ、共感・共鳴し、熱狂的に指示した人も少なくなかった。それが、単に思索のための試案と実験に過ぎなかったにも関わらず……である。

 そして民主主義は日本の敗戦によって米国より押し付けがましく齎された。
 デモクラシー民主主義は「民主」と云う言葉で大衆を酔わせ、しかし未だに真の意味での民主主義は確立されていない。民主主義を受け入れられるだけ、社会が、大衆が成熟していないからである。民主だけは一人歩きし、分けも分らず誰もが民主主義を標榜し、それが世界最高の社会システムだと思い込んでいる。

 その現実下に、民主主義は老朽化の様相を呈しはじめた。朽ちて、多くは腐朽が見え始めたのである。そもそも民主主義の総本山の米国が揺らぎはじめたからである。
 現代人は、こうして転換と模索の最中に逍迷
(さまよ)っているのである。
 思えば、こういう時代は、人々がある意味で「人生とはないか」という問いに対して、周期的に先祖帰りをしているのではないかと思うのである。魂の故郷へ、帰家しはじめたとも言えるのではないか。



●自己犠牲的な愛

 「優しさ」とか「思い遣り」が問われる時代である。
 しかし、これを明確にして行動や行為に顕している人は少ない。そこで「心遣いが足りないのかなあ」などを考えてしまう。
 まず、優しさとは何であろう。優しさとは単に「まめな」ということではあるまい。
 また、思い遣りを考えれば、相手に対する深い配慮であろうか。
 そう言えば、中
(あた)らずと雖(いえど)も遠からずであろう。

 人間は自己中であることを批判しながらも、結局のところエゴイストである。大半の人は自分のことしか考えない。そのうえで「愛」という一語も、それほど深く信用していない。
 世間で云う「愛」とは、大部分が砂糖を被った甘ったらしいエゴイズムである。
 迂闊にも深入りして入れ揚げると、後で期待はずれをする。そういうものであるなら、最初から甘い思いに浸らない方がいい。

 正直を呈するならば、エゴイズムを明確にしておく方がいい。この明確さを、何ぴとも冷淡と指弾すべきではないだろう。誰もが同じ宿命を背負って生まれてきているからである。この辺の白黒は明確にしておくべきである。

 モラルについても、明確にしておくべきである。
 これを端的に、単なる道徳と解してはならない。
 道徳を一般的な規律とするのでなく、自己の生き方と密着させるものであるから、それを具象化したところに生まれる思想及び態度である。
 これは人によって違おう。

 人は、どんなモラルを信奉して入れ揚げても構わないが、自分の律するモラルと他人を律するモラルの物差しは、必ずしも同じでないと言うことである。また尺度として信ずるものも違おう。
 そして、信ずる以上その信念に、必ず作用に対して反作用が働くと言うことも覚悟しておくべきである。

 例を挙げるなら、まず商売についてである。
 商売上のモラルと言うのもいろいろあろう。商いの遣り方は人それぞれで異なっている。基本形は商法に則って商いが展開されるが、遣り方と言うのは人によって異なっている。思考が違うからである。そこにはモラルも含まれよう。
 例えば、自分の信ずる商売の仕方が、商売とは人を騙して金儲けをすると信じているのなら、それはそれで構わないだろう。
 しかし、自分が人から騙された場合、騙されたことに対して苦情を述べてはなるまい。

 また昨今流行している自由恋愛についても、恋愛を異性を騙して甘い夢を見させておいて、その隙の乗じて肉体を物にするという手段の恋愛術を展開しているのなら、妻帯者の男の場合、自分の妻が不倫したり、娘がその種の方法で誘惑されて他の男に寝とられたのなら、それについて苦情を申し立ててはなるまい。

 突き詰めれば、この世に働く運命の反作用は、ここまで厳しく斬り込んでくるのである。

 更に反作用現象を挙げるならば、甘い罠も存在する変わりに、暖かさを感じる善意もある。
 世間とは単にひたすら優しいのではない。それを超越した神仏のような暖かさもある。
 此処から起こる善意を、一口に“まやかし”と言うのは易しい。

 しかし、そういう善意が存在していることも確かである。見も知らぬ者に対して、自分の命を投げ出して、善行を行おうとする人もいる。わが命を犠牲にして、他人の生命を救おうとする人もいるのである。
 こうした善に触れた場合、人は理屈を越えて有難い善に触れることが出来るのである。
 この場合、受け取る方より与える方が勝っていると言えよう。異にとは張って犠牲を覚悟すれば、後世の残るホンモノの美談となり得る。


 【著者作の自選1200句】
































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