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句集 自選1200句 8

多忙の時代、単に多忙に追われているだけでは能がない。
 また多忙人の人真似をして、時代に流されているだけでも能がない。多忙にあって、「閑」と「忙」を使い分け、この拮抗を保ってこそ、自己を失わない生き方となる。

 功利的関係のみの人の繋
(つな)がり方や接し方では、何とも浅い限りで、真に自身の内面形成は貧弱にしかなり得ない。
 こういう時代だからこそ、「心友」を得るべきであろう。
 心友は決して多くある必要はない。小数でいいのである。
 心の友は、せいぜい一人か二人。それ以上の必要はない。決して多くある必要はないのである。

 心友とは、心より尊敬出来る友のことである。一番近い隣人のことである。単に表面付き合いの親友ではない。
 心を許し深く理解しあっている友を「心友」という。肚を割って語り合える友である。
 昨今はそう言う友を持っている人は少ない。
 浅く軽く付き合い、実体は軽薄で、仲間内だけで、へらへらと面白可笑しく、その種を友と思い込んで憚
(はばか)らない者が多い。
 しかし、魂の交わりは皆無で、接点は表面であるため、人生の岐路に立たされた時、何ら奇手を発揮することはない。浅いだけである。

 金・物・色の優先する世の中、そういう表皮の軽薄現象で満足する者が多い。そして精神面が抜け落ちている。
 また精神面の訓練を受けた者が少なくなっている。単に物質主義に奔
(はし)るのみである。
 したがって、世の中に不平不満が蔓延
(はびこ)る。そして工夫が生まれない。それではやがて行き詰まるだろう。

 歴史を振り返れば、この中には「心友の大事」が説かれている。
 例えば、宮本武蔵の沢庵禅師を心友にしたこと、北条時宗の無学祖元を心友にしたこと、足利尊氏の夢窓疎石を心友にしたこと、更には徳川家康の天海僧正など、一廉
(ひとかど)の人物には、必ず偉大な心友なる人が控えていた。
 “いざ”というときに奇手を講じる心の友である。



●食客

 幕賓(ばくひん)という考え方がある。老練の士を用いる考え方である。
 老練……。
 これは何も老人を指す言葉でない。
 老練とは老いと無関係の「老巧」という意味であり、多くの経験を積み重ね、人生に多くの年輪を刻んでいる人のことを言う。また「胆識」を得た人を言う。
 では、胆識とは何か。

 これは知識ではない。
 知識を得たところで、それだけでは機能しない。知識は教訓を積み上げる実践を通じて、智慧に変換させて知識は始めて生きる。知識そのものでは単に記憶しているに過ぎない。
 肝心なのは智慧である。
 したがって、知識だけでは“腹中有害”というべきか。
 機能しないからである。

 知識だけを振り回し、専門的になったところで、それはミクロのことであり、持てば持つほど有害部分が表面化されるだけである。そして、その表面化にいつの間にか馴染んでしまって、やがては自覚症状を持たなくなる。自覚のないことを当り前と思い込んでしまう恐れがある。
 細分化された、断片的かつ専門的と称する知識力の恐ろしさである。
 特に、“科学的”という言葉を好んで使う者の多くは知識を振りかざす汚染者であろう。短見と言うべきか。

 本来は「腹中有書
(ふくちゅう‐しょ‐あり)」というべきであろう。
 知識は実践されて、智慧と言う教訓が築かれる。集積されている。
 知識を実践するには断片的な専門化された、そういうものでは智慧になり得ない。
 何故か。
 腹が無いからである。同時に地に足が着いていないからである。軽佻浮薄の観がある。
 腹、つまり肚
(はら)を造り、肚を据えることである。すると物事の全体像が見えて来る。全体像が有機的な繋がりによって構築されていることが分って来る。先見の明が養われて来る。
 全体像を見据えたグランドデザインがなければ、腹の底に納める哲学は養えないし、断片的か寄せ集めでは軽佻浮薄になり易い。道理だろう。

 そもそも知識と言うものは、単に本を読んだり、読んだ本の何ページに何が書かれているかなどの暗記分野のものでは、ごく初歩的な、薄っぺらなものである。実際的でなく、また機能しない。
 こうした知識を実践し、これが経験になり経験を通じて教訓になり得なければ、集積した学問は見識となり得ない。
 見識とは実行力が加わって効力を発揮するものであるから、見識が教訓となり、それが実行力を通じて事をなしえた場合、これが始めて胆識となり得るのである。
 そして胆識の根源は「腹中書有」である。

 また、「腹中書有」は実践が伴ってのことである。
 実践が伴わずして単なる知識では、まさに「智を好みて学を学まざれば、その弊
(へい)は蕩(とう)」という如く、知識だけを身につけていても、それは単なる物知りの領域を出ないのである。
 知識と言うのは、単なる薄っぺらな大脳皮質の作用だけで得られるもので、例えば学校の講義を聴いているだけで、あるいは参考書を読むだけで暗記力の優れた者であれば身に付けられる。
 しかしこれだけでは、行動にならない。
 得た知識を行動力に変換することが出来ない。知識は行動に転じて、始めて「知行合一」となり得る。『陽明学』の根本思想である。

 だが、これだけでも駄目である。
 『陽明学』は実践学であるから、実戦を通じなければ意味を持たない。知っているだけに終わる。
 その根本には権威が加わらねばならぬ。権威が加わって始めて知行合一が実現に近付いていく。
 権威が加わって始めて役に立つ。実践学の妙である。
 胆識があって、権威は権威として通用するのである。
 権威はなぜ必要か。
 まず、権威と言う意味を挙げておこう。
 一般に権威と言うと、尊大ぶる学者の専売特許のように思われているが、これは違う。その見解は正しくない。

 また、権威などと言うと、誤って“第一人者”などと解されるようだが、その道のスペシャリスト程度では、これは権威となり得ない。単なる物知りの範疇
(はんちゅう)を出ない。
 権威とは、他人に平身低頭させるくらいの威力を云う。つまり、服従の義務を強要することすら許すのである。こういう威力を「権威」という云う。

 権威とは、威力であり、他人を圧して押し通し、かつ服従させ遵
(したが)わざるを得ないその威力を云う。
 では、なぜこうした威力を必要とするか。
 例えば、何かの問題が発生したとしよう。
 この問題解決に当り、知識を用いたとしたらどうか。
 知識は確かに参考意見になろうが、それ以上のものでない。大勢集まって、ああしようとか、こうしようのこのレベルである。あれこれ提示するだけであり、決定打とはならない。初歩レベルの協議会程度のものである。

 次に、見識はどうか。
 確かに見識は、解決策の方向を示すものになろうが、決定的な解決打にはなり得ない。最終結論に至らないからである。
 確かに見識は、智慧の集積であり、人格や体験から得た悟りに近いものをその識の内容としている。そのうえ、見識が高ければ高いほど、逆に低俗な連中は、これを理解し得ない。理解し得ないから必ず反対し、更には妨害する。
 低俗な連中の行き着く先は、散々屁理屈を捏ねて、最後は“やめておこう”の結論しか出し得ないのである。
 そして遂に多数決を採ることになる。

 つまり、民主主義デモクラシーは、このレベルで物を言うシステムなのである。
 したがって決定するのは多数決であり、多数決は、ややともすると“悪の多数決”にもなり得ない。その可能性は大である。
 何しろ、裁決をするのは人間であるからだ。

 その人間は知識人であり、また見識を持った人であるかも知れないが、それだけでこのシステムは正常には働きはしない。
 むしろこうした場合、少数の方に奇手の策があったり、正論がある場合が少なくないからである。民主主義の世の中では、世を動かし、煽動するのは賢者より愚者が圧倒的に多いからである。低俗な連中が解決策を導き出せないのはこのためである。
 未だに民主主義は発展途上の過程に有るからである。完成に至っていない。故に多数決理論は、正しい解決策を的確に示すことが出来ない。
 では、それは何故か。

 つまり「斯
(か)く有るべきだ」という神の声に近い決定打とはなり得ないからである。
 何ぴとも遵わざるを得ない卓れた判断力と方向性を示して、周囲の反対意見を制し、また断固これらを排除し、同時に実践していく実践力を胆識と言うのである。つまり、「肚
(はら)」ということになる。

 胆識を持つ者は、そもそも肚の出来が違う。
 謂
(い)うなれば、決断力と更には最高の判断力をもって、実行力の伴った知識も見識も総て包含し、それを自在に遣いこなせると言うのが胆識である。
 学問の実践であり、『陽明学』の謂う最終的に行き着く「知行合一」である。
 則
(すなわ)ち学問は、実は胆識を養うことにあった。

 さて、幕賓に迫ろう。
 悔いのない人生を全うするか否かは、自身に幕賓が居るか否かで決定されることがある。幕賓を智慧者と称してもよい。あるいは軍師的な存在と考えてもいい。胆識の持ち主でもある。
 単に、その人を知っているという存在ではない。心友的存在を云う。

 世に知識階級と云われる人の存在がある。この階級人は、別名文化人とか有識者と言われる連中である。裏から見れば、単に“お利口さん”という存在である。知識人の域を出ない。
 そしてこのお利口さんは、一見すると一点の非の打ち所もない。学閥は実に立派だし、頭もいいし、才もある。更には、交際も巧く、何の差し障りもない。欠点は外見からは見当たらない。
 また、大して大酒も飲まず、酒席で乱れず、女すら漁
(あさ)らない。
 だが、一向にお利口さんの範疇
(はんちゅう)の中に留まっている。安全地来に畏(かしこ)まっている。一歩も出ることはない。そして、さっぱり旨味(いまみ)もない。人物として感動も感激もなければ、単に忙しいように振る舞っているだけである。
 この現実を考えれば、現代が多忙を装うのは、誰も彼もがお利口さんを装っての奔走か……。

 とにかく現代は忙しい。誰もが多忙に追い回されている。
 しかしである。
 何やら忙しそうに働いているこの行為は、要するにどうでもいいような、誰でも出来るような、そういう行為であり、詰まるところ、ボーズであり、結局は可もなく不可もなくというお利口さんのポーズであった。八方美人であった。実体はドングリの背比べの競い合いである。正体は、お利口さんを装っていることだった。

 この種の手合いが、何百万人、何千万人居たところで体制には影響なしである。時代を動かすことは出来ない。単に、時代から引き摺
(ず)られるだけである。ポーズ人の特徴である。
 手応えなしのマイナス評価を恐れる、その種ばかりなのである。だが、幕賓としては失格であろう。

 同時に日本社会では、昭和敗戦後以降、現代に変わって、幕賓を養成する機関が殆ど壊滅してしまった。単に縦割り社会が強要され、その側面に個人主義の謳歌があった。自分だけがよければそれでいい……、この背景には、悪しき個人主義が猛威を揮ったからである、

 そして根底には食客を養い、育てると言う、少なくとも明治期には存在していた制度が崩壊し、人間を測る物差しも、金品の有無や身に付けている持ち物だけで計る表皮に終始したからである。
 よって現代人は、裡
(うち)に潜む、人物の内容を見抜いたり読んだり出来なくなってしまったのである。殆どが観察眼を失い、単に歯車的なミクロで観察する専門眼ばかりが旺盛になったのである。斯くしてマクロ的展望を凝視出来なくなった。

 表皮に騙
(だま)され、欺(あざむ)かれ、威勢のいい欺瞞に汚染されて、見掛けに圧倒され、肝心なる中身の、闇の中を見抜く視野が失われてしまったのである。そして、闇を透視する視覚も暗くなってしまったのである。
 現代とは、ある意味でこのように「殆
(あや)うい時代」に突入したと言うことである。見掛け倒しが罷(まか)り通るのである。
 特に、戦後の日本は、まさに「殆うし」という時代であり、近年はこの殆うしが連続されて、今もなお継続されているのである。

 それは経済を見ても一目瞭然であろう。
 経済自体は、これからも発展し続けねばならない。発展と止めることは出来ない。
 何故なら近代に資本主義市場経済は、この構造が発展と言う形態を採りつつ、その実体は自転車操業であるからだ。
 動きを止めることの出来ない構造であり、休んで一服すらできない構造になっているからである。永遠に発展し続けなければならない。
 では、発展した先に何があるのか。
 つまり発展をしているこの路上の先に、何が存在しているのかと言うことである。
 単に平坦な何処までも舗装された良路だろうか。近未来に悪路は控えていないのだろうか。
 更には走行しつづける先が、断崖絶壁になっているのではあるまいか。
 それは何ぴとも否定出来ないだろう。
 その一方で、断崖絶壁になっている可能性も否定出来ないのである。

 これを見極めるのは、どういう力か。どういう識力か。
 胆識以外あるまい。
 かって胆識力を養うために、食客と言う人材養成所があった。
 権威と横構造で並ぶ食客制度である。

 さて、清少納言の名歌で『百人一首』に選ばれている、この歌をご存知だろうか。



 この歌は孟嘗君
(もう‐しょうくん)の故事に因(ちな)んでいることで知られている。
 孟嘗君
(姓は田、名は文。諡(おくりな)が孟嘗君で、斉の威王の孫に当たる。生年不明〜前279頃)は中国戦国期の斉の公族である。
 最初、斉の宰相となったが、讒
(ざん)に遭(あ)い、魏の昭王の宰相となる。後に自立して諸侯となり、薛(せつ)で没した。「戦国の四君」の一人として有名なる人物である。
 更に有名なのが、食客数千人に上り、『鶏鳴狗盗
(けいめい‐くとう)』の徒がいたことが有名だった。
 日本でも、孟嘗君
(田文)に畏敬の念を持つ人は多い。女官の清少納言もその一人だった。
 しかし、後世人は孟嘗君を平安人より、単に『百人一首』を通じて知る程度であり、更には清少納言の解釈によってでしか知り得ないようである。

 更に現代人は孟嘗君のことが平安人以上に疎
(うと)いようである。
 その理由は、日本の封建時代においては、縦繋がりの滅私奉公的な上下関係しか権威の存在を知ることが出来なかったからである。そして現代も、運命共同体と言う社会組織の中で、会社人間として滅私奉公型の制度を民主主義の中に引き摺っているのである。

 「民主」とは美名だが、現実問題としては民主など何処にもなく、単に滅私奉公的な階級による縦社会が存在しているだけである。民主を横社会と幾ら解釈し、そう思い込もうとしても、現に階級が存在し、貧富の差に於いて序列が決定され、此処には財力による身分が存在していることである。また、これが偽わざる現実である。
 つまり現代の世で謂う民主主義の平等は、法の上での平等であり、格の平等はないのである。

 現にサラリーマンの行動律は、現代社会に於いて、どういう行為がその行動パターンになっているか、それを考えれば、結局は滅私奉公的な縦社会の現実が拭えまい。
 自らを幾らマイホーム主義者で、よりよき個人主義を謳歌していると断言しても、これは軽薄なる思い込みに過ぎない。現実では、私的なものは一切無視されている。会社人間を見れば歴然となる。

 では会社人間とは如何なる人種か。如何なる種属に属するものか。
 分類すれば、滅私奉公が多人種と言えよう。
 その証拠に、私的なものは総て犠牲にして、日本人の、否、資本主義社会に隷属する大半は、わが身を犠牲にして国家ならびに企業組織のために勤めている筈である。

 確かに“お湿り”程度のプライバシーは存在しようが、それ以上の保障はなく、ただ二重三重の安全装置によって組織時代は崩壊しないように工夫されているだけである。その安全装置は、大企業になればなるほど堅固で、簡単には崩壊せず、また墜落しないように工夫されている。
 例えば、自由恋愛真っ直中の現代社会は、仕事だけが多忙であるのでなく、異性問題においても、あれこれと物色せねばならず、この分野においてもまた多忙である。

 そして、例を挙げれば、一男性社員が自分の懇意にしている恋人や愛人、更には不倫相手に対し、そのことばかりに入れ揚げて集中力が疎かになり、失敗をしたとしても、ある程度までは決定的な損失は出ないように出来ているし、その安全弁として保険も加入しているであろう。

 また企業自体はその種の失敗で、決定的な損失は出ないようになっている。充分にカバー出来る。
 その顕著な例が、航空機である。
 航空機は一ヵ所や二ヵ所の損失では、フェイル・セーフが働くようになっていて、数カ所に損害が生じたとしても、その程度では墜落はしない。これを同じ思想で、会社と言う組織体も造られているのである。資本主義経済を担う企業体の構造である。
 但し、この構造はそれゆえ滅私方向型の縦構造であることは明白であろう。
 つまり、この構造の中に、食客という構造は殆ど見られないのである。縦だけであり、横に構造が欠落しているのである。

 つまり、中国の戦国期に存在した孟嘗君の「食客思想」すら、文明が発達していると自称する現代社会にあっても、殆ど食客を擁する組織体は見受けられず、単に縦構造のみの利益追求を目指して、せっせと金儲けに勤
(いそ)しんでいるだけである。

 さて、孟嘗君
(田文)の食客思想を追求してみよう。
 孟嘗君
の生まれは、薛(せつ)の領主(田文の父・田嬰(でんえい)は斉の宣王の異母弟で、薛(現在の山東省滕州)の領主)の妾腹(しょうふく)の子である。母親は領主の妾の中でも一番身分の賤(いや)しい夫人であった。
 ところがこの夫人が、天性利発で、また才幹を認められて、妾になったのである。
 但し、孟嘗君こと田文が、五月五日の生まれであり、当時はこの日に生まれた子供は成長すると親殺しをすると信じられていたため、父の田嬰は田文を殺そうとした。しかし母親は、田文を匿って育てたという。この話は逸話も混じるようだが、実際はどうだか不明である。

 さて、田文は成長した。
 そして当時は、五月五日生まれの子が「門戸の高さにまで成長すると親を殺す」という言い伝えがあったため、これに対し田文は、「ならば門戸の高さを高くすれば良い」と言い募ったのである。母親譲りの利発を少年時代より発揮していた。
 そこで、父の田嬰は考えるところあって、田文を許したのである。
 だが、これまでの経緯もあり、田文は田嬰の屋敷に住むようになったが、しかし冷遇されていたのである。

 ある日、田文は父に訊いた。
 「玄孫の孫?」はと。
 父は「知らぬ」と答えた。
 そこで田文は「斉の領土は増えていないにも関わらず、わが家が富を得ていることは訝
(おか)しいのではないでしょうか」と父に詰め寄った。
 更に「今では続柄がよく分からないような血縁者が多いこと、これ自体も訝しい。そのうえ、このような血縁者たちのために財産を残すの尚更おかしいのでは?……」と詰め寄ったのである。
 そこで父田嬰は食客を屋敷に招き、田文にその接待係をさせることにした。
 田文には居候同然の食客に対して、実に受けがよかった。

 更に当時を考えれば、諸侯の威勢あるいは権威は、食客の数で決まるとも謂われていた。
 言わば、田文は重要な役目を引き受けていたのである。田文の受けの良さは日増しに高まった。
 食客の間で、田文の評判がますます高くなり、やがてそれが諸侯の間にまで知れ渡るほどまでになり、田嬰は田文を太子として跡継ぎに立てることにしたのである。
 田嬰には四十人ほどの子供が居たと言うが、この中で太子となれたのは田文ただ一人であった。また田文が太子になれたのは居候の食客の御陰であった。

 父の跡を継いだ田文は、何でも一芸あれば、如何なる人物も拒まず、積極的に食客を迎え入れた。その数は数千を数えたという。
 ある時、田文が食事の時に食客との間に衝立を置いたところ、食客の一人が「料理に差をつけているから隠すのだろう」と言い立てた。これを聞いた田文は、その客に料理がまったく同じだと言うことを示したのである。そして疑ったことを恥じた客は、自刎
(じふん)して果てたという。

 だが、またこの事が評判となり食客は後を絶たなかった。ますます膨れ上がったのである。
 そして、更に田文を有名にしたのが『鶏鳴狗盗
(けいめい‐くとう)』という「先見の明」である。これが後世の故事になり得た、かの有名な『鶏鳴狗盗』である。

 常日頃から、学者や武芸者などの食客は、田文が、盗みを働いたり、物真似の芸しか持たないような者すら食客として受け入れていたことに不満であった。
 ところが、鶏の鳴き真似の上手や狗
(いぬ)のように物を盗む者を食客としていた御陰で難を逃れたという故事である。またその種の技能の持主でも、役に立つことがある譬えが故事になったのである。これは「函谷関の鶏鳴」【註】田文は、秦を逃れて夜半函谷関に達したが、関は鶏鳴までは開かない定めであった。従者に鶏鳴のまねの上手な者があり、群鶏がこれに和して鳴いたので、関門は開かれ脱出することができたという故事)で後世に知られる。

 一節には、食客三千人とも謂われているが、実はこの程度ではなく、天下に任侠無頼の徒を集めること六万余という逸話もあり、その数は実に凄まじかったと言えるだろう。
 居候の待遇の良さは、居候つまり食客一人ひとりの親類に及んだと言うから、また何と凄まじいこと。

 この中には学者も居れば、戦術家も居た。武芸者も居れば、その力自慢も居た。泥棒の達人も居れば、物真似上手も居た。その悉
(ことごと)くが居候をする食客である。また幕賓と置き換えてもいいであろう。

 そして実に面白いのは、この伝記には、主人と食客との集団が事業に成功するというロマンの側面を抱えているからである。
 つまりこの場合の食客は、正式な使用人ではなく、野に臥した幕賓と言う関係である。この関係は君主と家来と言う関係でない。横の関係であり、客と主人が同格であることだ。
 本来に主従関係では縦型であるため、どうしても滅私奉公型になり易く、これでは主人のために働かねばならないという強制力が生じで、何とも鬱陶しい。
 ところが食客となると、強制力が消える。

 食客は、万一の場合の恩返しとして何か一大事があれば、意気に感じて働いてやるという、何ともいい気持ちの、逆の面から見れば一世一代の大仕事を遣る場合がある。勿論そうでない場合もある。
 しかし食客の立場からすれば、顧問ないしブレーンである。毎日サラリーマンのようにあくせくしなくていい。滅私奉公で働く必要はない。

 何か事ある一大事において、一芸一能を発揮すれば充分なのである。そうした点も、食客側からすれば実に喜ばしいのである。そしてますます人が集まり、栄えると言う構造が出来る。但し、骨子構造は、君主が食客を喰わせることが出来ると言う条件においてである。
 したがって君主の役目は、喰えるようにして遣ればよく、金を引っ張って来る才能が君主に問われるのである。君主は金は天下に腐るほどあることだけを理解しておけばいいのである。
 この才能を思う時、私は直ぐに遠山満を思い出す。居候を優遇するほどの余裕を実力として蓄えねばならないのである。これも偏に「損する余裕」だろう。

 また、この余裕は幕賓である食客にも「ちょいといい気持ち」にさせるのかも知れない。故に何かが起こった時には、精一杯の一芸一能を最高の状態で披露出来るのであろう。この披露の最たるものが『鶏鳴狗盗』であった。歴史の証明するところである。
 そして、恩返しすらそれを期待する意思が君主に毛頭になければ、その君主はますます大物と評されるようになる。「損する余裕」の妙と言うべきか。

 事実、田文の客人の中には、馮驩
(ふうかん)という老人が居た。
 この老人、田文のところに草鞋
(わらじ)を脱いで一年以上も徒食三昧を繰り返していたが、この間、何もしないでふらぶら遊んでいたのである。
 ところが、田文はこの老人に怒りを思える訳でもなく、好きなようにさせるだけの大きな腹と損する余裕を持っていたのである。これ自体が自分の人気度を高める役目を果たしているということを知っていたからである。太っ腹と言うべきか。

 平安期に「食客」という洒落た言葉があったかどうか不明である。
 しかし、当時の日本では主体はあくまで縦の関係の主従関係であり、食客とか幕賓と言う横の対等関係があれば、この人間関係は実に魅力であったに違いない。
 君主とか主人とかと、食客ないし幕賓は対等かつ同格なのである。
 また対等・同格意識が、居候をしている食客は是非とも主人のために、わが一芸一能を投じて天下を取らせたいと思うのは人情であり、したがって暗黙の了解で懸命に働いたことも事実であったろう。
 そして、これを一概に異国趣味と捨て置けないところがあり、この種の夢想は男ならずとも、女の清少納言の女房
【註】禁中・院中でひとり住みの房(部屋)を与えられた高位の女官のことで、今日で謂う家内や妻の意味でない)ですら入れ揚げたに違いない。


 【著者作の自選1200句】












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