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句集 自選1200句 9

太古より、家という構造下には屋根があり、その屋根の下に家族の構造を成していた。一家は屋根の下で纏まっていた。分裂していなかった。中心核を持っていた。家には中心なるものが存在した。


●夢の先端

 『邯鄲(かんたん)の夢』という物語がある。
 この夢の主人公は盧生
(ろせい)と言う青年である。
 官吏登用試験に落第した盧生という青年が、趙の邯鄲という街に行った。そこで道士呂翁
(りょうおう)なる人物と知りあいになり屋敷に招かれた。盧生は呂翁に自分が貧乏なる苦学生であることを告げた。
 そのとき呂翁は食事前で、粟
(あわ)を煮ているところだった。

 呂翁は盧生に妙なる枕を取り出して、「これを充
(あ)てて寝てごらん、栄華は意のままになるから」という不思議な枕を盧生に貸したのである。
 盧生はこれを借りて寝たところ、不思議な夢を見た。
 願望が適
(かな)い、栄華を極める夢である。
 夢の中では、大金持ちの娘と結婚し、官吏登用試験に落第し、それから三十年、何事も順風満帆で、トントン拍子に出世して次官まで上り詰めた。次に方々の長官職や総裁職が待っていた。そして退職すると巨額な退職金をもらうことになる。そこで目が醒
(さ)めたのである。

 夢の内容は、次第に立身して富貴を極めたが、目覚めると、枕頭の黄粱
(こうりょう)がまだ煮えないほど短い間の夢であったという故事である。人生の栄枯盛衰の儚(はかな)いことの譬(たと)えである。この夢を「邯鄲の枕」ともいう。

 人間は、思えばこのような儚い夢をおいかけて、今の世を齷齪
(あくせく)と奔走しているのであろう。その奔走の先が、儚い夢であっても、少しでも今より良くなろうとして理想を追いかけているのであろう。
 ところが、個々人か掲げる“理想”というものは、人それぞれに異なり一様でない。
 理想とは、万人が共通する願望ではなく、個人的な理想もあろう。
 このようになりたい、こうしたい。この異なりが、実は個々人の格差を生み出しているのであろう。

 そして現代という時代を考えれば、世界中の国々の政治指導者が向かう理想とは、まさしく独り善がりの政策の独占欲を抱え、単に国民の幸せとは程遠く、独占的な欲望を根幹に為して、“こうあるべきだ”というこの程度のものであり、突き詰めれば万人の幸せとは無関係である。どこまでも個人主義が優先する。
 例えば、株価が上がったとしても、この恩恵に浴する者は、潤沢の資金が用意出来る一握りの投資家や富豪に過ぎない。底辺の庶民でない。
 常に、人が掲げる理想とは、自分を中心とした欲望からなるもので、その欲望は、現代に至っては物質的な欲望であり、決して精神的なものでない。
 豊かさと言うものは、近年は常に物に換算される豊かさであり、便利さや快適さである。

 故に、豊かさの追求と言うことを理想に掲げた場合、この理想は万人向きでない。一部の物質崇拝者がそう想い描くだけである。
 こうした個々人の追求する理想の先端が、庶民にまで及ぶ理想の先端でないことは明白である。

 斯くして、理想と言う聞こえのいいスローガンは、世界中の国々が自国の都合で物を言っているだけで、本来の精神理想は程遠い、物中心の理想であるから、物の価値観が異なる場合、個々人の掲げる理想の先端も当然異なってくるのである。

 特に政治や経済を挙げた場合、昨今は理想だけで物を言うその種の人が多くなったことである。そしてどの理想も、実現不可能なものが多い。
 理想を言ってみたところで、実現出来なければ何もならないのである。

 つまりである。
 人の掲げる理想論は、それのみでは一見、純粋そうに見える。しかしこの純粋を分析してみれば、理想で政治を行うことや、経済政策を目することは、心が清らかなのではなく、単刀直入に言えば、単に理想論者が幼稚なだけなのである。実現出来ない幼稚な理想であるから、何をほざこうと構わないのである。現実を見ていない場合、このような理想が純粋を装って幼稚的な発想が出現してくるのである。

 世の中が表面上は平穏を装い、平和のような状況が出現すると、この平和を変化させたいと思う画策集団が出てくる。流行やファッションを考えれば、これが顕著であろう。そして、この根底に少しばかり理想を織り交ぜ、ついでに純粋を装って次の変化を画策した場合、歴史はどう変わるだろうか。



●らしさがあった時代

 さて、平成27年、西暦で2015年は「昭和」で数えて、この年は昭和90年である。
 この九十年の間に、日本では何が起こったのだろうか。
 そして何が失われたのだろうか。

 「日本らしさ」が、まだ社会に残っていた最後の時代は「昭和50年」頃までだったと感得する。
 この時代までは、確かに男は男であり、女は女であった。男女は、自らの役割を充分に心得ていた。また役割の意味を理解していた。したがって、その領域を冒すことはなかった。お互いに尊敬し合っていた男女関係があった。
 また当時の価値観も、今とは根本的に異なっていた。「らしさ」というものがあったのである。

 強く、ひたむきに生きた男達、そして艶
(あで)やかに、一途に生きた女達。
 この背景を思えば、これを昆虫と植物に譬えるならば、「蜂」と「花」の関係であった。自然の摂理に順応した関係であった。

 男が女の花の香に惹
(ひ)かれる蜂であり、女はその蜂を惹き寄せる花であった。花が美しく身を装えば、蜂は寄って来て何でも言うことを聞く。同時に花を守りたいと思う。その意識が更に進めば得たい、尽くしたい、幸せにしたいと思う。
 一方女は、出来るだけ美しくありたいと思う。その美しさの探求は蜂の機嫌を取るためでなく、蜂の賛美と奉仕を受けてそれに満足するためでなかったか。
 つまり、男と女を蜂と花に譬えた「らしさ」というものである。

 ところが、今はどうか。
 今日の男女の構図はどうか。
 男が女のようになり、女が男のようになった。
 女の美しさを愛でる意識は殆ど消滅している。逆に男は女から愛でられたいと言う願望を持っている。昨今の男が美しい女を得たいと下心を抱くのは、憧れの女性を手中にしたいと思うのではなく、自分の恰好よさを周囲に自慢し、アクセサリーにしたいと考えているからである。
 自分のひけらかし、他人からどう見られるかのそのことばかりを考えての行為に過ぎない。斯くして「らしさ」を失った。

 つまり、今の時代は、何かを手に入れるために修行をせず、鍛錬せず、地道に実力を蓄えるという行動を採らずに、何の悩みも抱かず、何でもかんでも平和、平和……の二文字に酔ってしまったのである。
 行き着いた先は「らしさ」を失った時代であった。

 振り返れば、「らしさ」のあったのは昭和50年頃まであったであろう。
 そこには同時に「日本人らしさ」があった。
 これまでの時代には、こういう日本人が沢山居た。ファッションや流行に冒されることなく、誰もが日本人然としていた。決して「日本人らしさ」を冒涜
(ぼうとく)はしなかった。

 まさに、昭和50年代までこそ、男が男であって、女が女であった最後の時代だったと思うのである。また背景にはその時代を代表する流行歌も流れていた。『船唄』『幸せの黄色いハンカチ』『いい日旅立ち』『赤いスイトピー』などである。

 また子供向けのアニメでも、特撮戦隊シリーズで、 子供向けながら内容が濃く、主題歌も「気合い」が入ってる歌詞が多いのです。 アニメ『フランダースの犬』などは重厚であったし、『タイガーマスク二世』 のエンディング曲は軍歌みたいだった。 更には『秘密戦隊ゴレンジャー』のエンディング曲なども……。
 この時代、かつかつ、ぎりぎり昭和だった。半世紀までの昭和があった。

 しかし昭和50年代を過ぎると世の中がデジタル化して、やたらと横文字の音楽が増えていく。国籍不明の歌が多くなる。ぴょんぴょんと跳ねるばかりの動物的なものばかりが主流を占めるようになる。
 そもそも、昭和50年代というのは、「戦前生まれ」の人達が、まだ社会で活躍してた時代であった。
 したがって歌謡曲にも、根底に「日本らしさ」が重低音のように流れていた。そう分析するのである。

 また、この時代まで、大人達は、「他人の子供でも叱る」という風潮がまだあった。
 女性のヌード写真なども、大人達は子供に隠してた。 またテレビ番組でも、そういう番組が流れるとチャンネルを変えてた。子供には有害で、時期尚早だということを心得ていた。大人の世界と子供の世界のものを明確に出来たのである。
 故に、子供も大人のそうした不文律を、暗黙のうちに自然に心得るのである。それだけ大人への威厳については敬意を払っていたのである。その現れの一つが、大人への敬語で物を言う習慣であろう。

  したがって女子の家に電話する時にも、緊張感があった。それだけに襟を正した。それを自然と誰もが学ぶ。そうあるべきだと暗黙の了解のうちに心得る。親への畏敬である。
 また、子供は親の仕種
(しぐさ)から、不文律を学ぶ。それを口で一々言われなくとも、自然と了解するのである。
 そこから、行為として行っていい事と悪い事を、親の背中から学ぶのである。
 また、それだけ父親は、家長として威厳があり、それに相応しい役割を担い、その家長の第一番の理解者が母親でもあった。
 家族の中には「中心核」が存在していたのである。自他ともに中心核の存在を認めていたのである。

 それだけ「相手の父親」というハードルが、実に高かったのである。恋愛相手であってもである。親には敬意を払った。恋愛にも緊張感があったのである。そして賤
(いや)しい婚前交渉などの、その手のした心は少なかった。男女の付き合い方にも礼儀があったのである。
 それだけに緊張感があった。

 その緊張感の背景には、相手の親と雖
(いえど)も、親と言う尊敬の念である。
 そして、また恋も、葉隠的であった。半分だけは「忍ぶ恋」の気風があった。そこに一線を画してその領域を厳守した。節度があった。肉欲の塊ではなかった。これは今日の自由恋愛とは大違いである。

 更に葉隠的でならない理由は、性行為と言う中に生命の根元があり、この生命は食欲に繋がり、「生きる」という意味を、この時代までの人は充分に認識していたからであろうと思うのである。
 つまり、生死を大事と感得し、生きていくための飲食を大事と感得し、また男女の交わりすら一大事と考えていたのである。それは回帰すれば、お手軽な娼婦的な交わりでなく、生命の尊厳と謂う畏敬の念までに格上げして、純粋に純情に一途に恋の大事を考える思想がこの時代までには息づいていた。

 かの有名な『葉隠』には、「恋死なん 後の煙にそれと知れ ついに漏
(も)らさぬ中の思いは」とある。日本人はその伝統を引き継いだ遺伝子を持っていた。そういう精神性があったのである。
 したがって、時代が豹変する昭和50年のこの時代まで、一途な恋があった。そういう恋愛があった。
 故に、葉隠恋愛術が盛り込まれたこの短歌の中に、格の高い、丈
(たけ)の高い、そして気高(けだか)いまでの情愛を感じるのは、決して筆者の私だけであるまい。

  しかし今は、性教育ならぬ“性器教育”に汚染されてしまったため、日本中がポルノみたいであり、恋のハードルも低くなり、恋の丈も低下し、恥じらいも無くなり、獲得の喜びも低下した。
 あたかもコンビニ弁当みたいに恋が簡単に手に入るから、人々は恋を獲得する努力を忘れ、恋の刺激的な緊張も失った。もう、丈の高い恋など何処にもない。ポルノポルノの肉欲三昧である。

 一方、振り返れば、「昭和50年代らしさ」は、社会に半分あるいは三分の一程度はまだ残ってると思われる。
 そもそも現代は全国画一化が進んでるので、「地域差」なんて無いと考えてしまう人も多いようであるが、それは正確な分析でない。
 その証拠として、未だに地域格差がある。何者かが企てた、全国画一化は途上段階で、これは完全には画一化はできまい。

 ファーストフードのチェーン店のメニューのように、日本中どこも一緒かというと、地域文化はそうではない。風土も同じである。
 全国どこでも同じTVを見て、同じコンビニ弁当を食べてるわけであるから、「大阪も福岡もみんな東京と一緒だろう」 と考えがちである。 ところが違う。
 実は、全然違う事に、気付かされるのである。地方には地方の特徴がある。
 そして地方に行けば明確となる。

 例えば、九州や四国は、テイストがかなり「昭和」である。その名残を引き摺っている。
 一言で、「東京は東日本地域や西日本地域では10年のギャップがある」と言うが、実のところ10年どころか、30年程のギャップがある。そこに地域格差がある。

 更に地方都市から山地に向かえば、現実に山時間と言うものがある。これは都会時間の多忙性と逆行する時間でもある。
 それに地域住民の違いの特徴である。
 地方に行けば、旧軍人のお爺さんとか、旧女学校時代のお婆さんが居たりして、三世代で同居したり、旧軍人さんと近所の町内会で交流するとかも、地方の特徴である。

 しかし、東京のような大都会はどうだろう。
 核家族化が極限まで進んでる現代の東京では、考えられない事ではないのか。
 東北地方もそうであろうが、九州や四国では、上記の諸々の「昭和50年代」的なテイストが、まだかなり残ってるのである。此処には「故郷の水」というものが存在するようだ。
 その地域独特の「飄々
(ひょうひょう)として滔々(とうとう)として流れる故郷の水」と言うのがあるのである。つまり、地域独特とは誰もが思う「ふるさと」ではなかったのだろうか。


【著者作の自選1200句】




























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