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句集 自選1200句 10

この世の中は、これまで欲しい物は願っても直ぐに買えることはなかった。金がないとなれば、それまでだった。自分の思い通りに欲しい物は手に入らなかった。

 また、欲しい物を強請
(ねだ)る子供に対して、親は「うちにはそういうお金はないのよ」と母親が言ったり、父親が「幾ら欲しくとも駄々をこねずに今は我慢しろ」と言ったものである。
 つまり、親達は子供に我慢することを教えた。一つの、庶民流の金銭哲学であった。

 また、子供も親からそう言われれば、我慢したものである。それだけ聞き分けもよく、これで済まされたから簡単であった。
 金があれば買う。なければ控える。何と簡単で単純なことであろう。
 したがって、欲しい物があっても、金が溜まるまで買わない。溜まってから買う。それだけだった。

 だが、今はどうか。
 金がないでも買おうとする。それもローンと言う金利を払いながら、簡単に欲しい物が手に入る経済システムが生まれた。
 つまり借金をして買う金融経済の独特のシステムであり、昨今ではこれを手軽に遣える制度として、大半の人がこれを利用し、物質的な豊かさと便利さと快適さの享受を得ている。
 ところが、欲しい物を借金をして買うという本当の恐ろしさが分っていない。買った後が怕
(こわ)いのである。購入者はそれが分っていない。安易なのである。

 現代の世は、金がなければ買うなとか、金がなければ買わないという、素朴で単純な考え方が理解できなくなっている。また金銭感覚が失われている。
 更には、この素朴で単純な考え方を、日本人は昭和三十年代後半から、金がなければ買うなという考え方が間違いであると言うような論理を打ち立てられた。

 そのうえ金がないにも関わらず、買うと言うのが正しいことで、これこそ金融経済の恩恵に預かるべきだという奇妙な論理が登場した。
 この論理こそ、現代人にとっては「悪魔の囁
(ささや)き」だったのである。
 悪魔は囁く。
 「買えよ……」と。
 誘惑するように言う。
 「うム?……」
 「後払いでいいんだよ。金がなくともいいんだ。欲しい物を手に入れてからの後払いだ。買えるだろ」
 唆
(そそのか)すように言う。

 そして、これを聴いた者は、「じゃあ、金がないでも買えるのなら、買おう。後払いでいいんだから……」となったのである。
 こうして“契約経済”の魔の触手に搦め捕られていくのである。
 後払いの恐ろしさが全く分っていないのである。信用だけで出来るローン漬けの怕
(こわ)さが分らなかったのである。
 特に“リボ払い”と言う巧妙な貸付の怕さを、金銭感覚の分っていない連中は、この安易な支払いを契約によって成立させてしまう。

 “リボ払い”という、つまりリボルビングだが、クレジットカードによる分割払いの総借入限度額を設定された返済方式は返済額も少額だが、これが長期に続き50回だと6年も懸かってしまう。それに多重債務だと複数の返済の履行が要求される。
 この時代は高度経済成長とともに、債務者増殖のための“借金をさせるテクニック”と言うものが、世の中に蔓延
(まんえん)したのである。

 そして、今日に見るように、経済は永遠に成長す続けるという現実を招き、その裡側
(うちがわ)は“未来予測”という見込みで、猫も杓子もローン漬けになっていくのである。
 また現代人は、“ローン漬け”という実体が見抜けないでいる。
 銀行やローン会社から借金をして、マイホームなり、マイカーなりを買うことは金利が掛かり、つまり、定価以上に物を高く買っていることなのである。

 かつての日本には「金がなければ買うな」という、実のシンプルな教育が行き届いていた。これこそ欲望を抑える一種の立派な教育であり、金銭哲学を養う上でも、立派な道徳になり得た。
 ところが、昨今はこの考え方が崩された。 
 ローンは進んでせよと教えている。これも妙な教えである。
 信用調査により“払えるだろう”と予測で買わせようとするし、予測を当て込む金融経済が、数字だけを弄
(もてあそ)んで、金融界は隆盛を得ている。更には蓄財にテクニックが、かつては美徳とされた道徳までを抑え込んで猛威を揮っている。

 だが、この根底を冷徹に洞察し分析すると、つまりローンと言うのは「赤字国債」と同じことなのである。
 赤字国債とは何か。
 問題の先送りに他ならぬ。
 厭なことは後回しにする考え方である。

 かつての日本人の「金がなければ買うな」という単純明快な教えが、現代では崩壊してしまった。同時に、金銭と言う実体を曖昧
(あいまい)にし、この曖昧さが現代社会では、だらしなく認められてしまったようだ。
 斯
(か)くして、貧富の差はますます隔たりを見せ、持てる者と持たざる者の格差が広がる現実を招いたのである。



●極貧入門

 貧乏を経験したことのない人は、貧乏を非情に恐ろしいものだと誤解している。
 実際に「極貧」という最階位の貧乏を経験したことのない人は、極貧こそ、世の中の地獄などと、大変な誤解をしている。あるいは最悪の状態などと恐れ戦
(おのの)いていることだろう。
 だが、これこそ思い込みの最たるものであろう。

 一方、辛
(かろ)うじて貧乏を回避して、何とかマイホームの大ローンやマイカーのローンを払えることが、地獄から遠い位置に居ると考えうるのも短見であり、結局この種の借金を抱えている事自体が、また貧乏なのである。
 少なくとも、ローンの支払いを履行している事自体が、金持ちの行為でないからである。ローン支払いの、この履行こそ、貧乏人のそれであるからだ。そして自由ではない。
 少なくとも経済的不自由である。金に縛られる。致命的な借金でないにしても、ローンと言う鎖を付けられているからである。

 アラブの言葉には、「借金がなれれば、金持ちなのだ」という俚諺
(りげん)がある。
 確かにその通りであり、実に名言である。
 そしてアラブは次ぎなる言葉を続ける。
 「貸し借りは、家政の貧しさを顕す」
 この言葉には誰も異論がない筈である。
 それに比べて日本人はどうか。
 物質的豊かさは、借金の上に築かれて便利さと快適さではなかったか。
 アラブ人と比べて日本人は、自称“中流の上”を自負していても、果たして金持ちと言えるか。

 アラブの箴言を逆から取れば、“家政が貧しいから貸借が起こり、借金を抱えていれば金持ちであり得ない”と言えないだろうか。
 しかし、自称「一億総中流の上」と信じている日本人の多くは、“借金を抱えて貧乏人”という経済的不自由に全く気付いていないのである。自分の自由が、先ず第一に金銭に束縛され、第二に会社や職場と言う運命共同体?……に束縛されているという気付いていないのである。
 金のために、利息を支払うために働きつづける自転車操業的な仕掛けに嵌められてしまったことに気付いていないのである。あたかも経済が、永遠に成長し続けなければなら豈構造である。

 アラブは皮肉を込めて、資本主義市場経済に生きる自由陣営側の、今日の日本人に「あなたたちは、実は不自由なんですよ」と、あたかもその種のメッセージを送っているのかも知れない。負債の、債務の出所を指摘しているようである。
 負債を抱えている土地家屋やマイカーの大ローンのことを指摘しているのである。

 そして止
(とど)めが「貧困は争いを残す」と言い、更に「貧困は、人間を盲目にする」と言う、実に皮肉な箴言を持ち出し、あたかも今日の日本人の頭上に降り懸る、個人的な債務というローンだの、月賦だのの「愚」を厳しく指弾しているかのようである。
 もう一度、反芻したい。
 「借金がなれれば、金持ちなのだ」と。

 例えばマイホームの大ローンと言えば、三十年以上の債務を抱え、懸命に金融機関への金利と、税金を納めるために働き、これでどうして豊かと言えるのか。そして、ローン履行中は支払い名義人が契約期間に払い続けなければならないという誓約を生じる。
 さて、世の中は順風満帆でない。凪の航海であっても、必ずアクシデントが起こる。不慮の事故である。こうした不幸現象に対して、何ぴとも皆無であるとは言えまい。万一不履行になった場合はどうするのであろうか。

 これは「紐で縛られている構造」あるいは「鎖を付けられている構造」の、借金という実体である。借入して債務者になれば「縛られる」という現実が発生する。この実体を契約社会が造った。
 金と言う不可解な動きをする生き物から紐で縛られ、人間は、あたかも自在に遠隔操作されているようである。これで果たして、本当に豊かさが健全になれる条件が揃っていると言えるのか。
 債務が殖えて多重化したり、利息に追い立てられて返済額が膨らめば、経済的不自由は一層深刻化する。一歩間違えば、一家心中ではないか。
 こうなる前に、豊かさの本質を考えるべきではなかったか。
 豊かさを何処に求めるかである。

 そしてアラブの格言は続く。
 「お前も私もパンを持っている。それなににどうして羨
(うらや)むのか」
 物持ちでありながら、毎日、如何に暮らしているのか?……という命題を投げつけているようでもある。あたかも「物持ちでありながら、もっと欲しいのか」と言わんばかりである。
 更に言及すれば、他人の持ち物を羨むという欲望と妬みが、実は借金の元凶になっているのではないか。そのようにも取れる。

 私も、かつては喰えない時期があり、職を失って浪人したことがある。
 言わば、天下の素浪人である。経済的困窮者であると言うより、物質的には豊かでなかった。しかし極貧の困窮状態でありながら、精神的豊かさは失わなかった。楽しみ方はいろいろあった。工夫すれば幾らでも見つかるものである。
 そして素浪人の分際で、当時、億単位の借金を抱えていた。

 “億単位”を読者諸氏は、高が一億や二億と軽くあしらうか、あるいは大した借金だと恐れ戦
(おのの)き、貧乏神の標本のように捉えるかは、それぞれの金銭感覚によろうが、私のとっては大した大借金だった。平成2年9月半ばのことである。このとき会社が倒産した。そして個人で抱えた債務が億単位だった。

 一般に、三、四千万円ほどの借金を抱え、ここまで借金が膨れ上がると、殆どの人が破産宣告を考えると言う。破産宣告申請を裁判所に申し立て、返済不能な借金の棒引きを狙う。
 しかし、申請をしただけでは裁判所は、そうは簡単に問屋は降ろさないのである。破産して、これで決着をつけ、債権者に泣いてもらう策を立てる人もいる。

 しかし申請しても此処までであり、それから先が続かない。
 仮に運良く破産申し立てが成立したとしても、此処までである。確かに借金棒引きになっても、それは債務がリセットされてゼロになったと言う状態であり、これから先のみの振り方が儘ならぬのである。経済的不自由には変わりないのである。そして、そこから先を今度は闇金に手を出して最悪な状態に至り、最終的には人間であることを放棄する人も少なくないようだ。

 こうした軽はずみはするべきでないだろう。
 逃げずに踏み止まれば、道は拓けるものである。頭を遣って、ドン底を這いずりながら、再起を目指すべきである。必ず、道は拓ける。そう信じて、自らの人生を投げるべきでない。

 私の場合、破産宣告もしなければ、倒産の日から数えて二十年後には億単位の借金はゼロになっていた。逃げずに踏み止まった結果である。道は拓けるものである。
 逃げずに踏み止まればということも、いま考えれば真実であったように思う。何とかなるものである。恐ろしい目にも随分あったが、しかし対処や善後策もいろいろとあることも学んだ。
 こうしてとにかく裸一貫になり、天下の素浪人になった訳だが、此処で得したことは幾つかあった。

 かつての金がある時に寄って来た者が、いつの間にか去ってしまい、素浪人になってからは、不思議にも「心友」という人が寄って来た。
 確かに、金の切れ目は縁の切れ目であったが、この種の低俗が去って、その後に親友というべき、心の友に近い者が集まりはじめたのである。

 そして、悟ることも多かった。
 それは返済して行く過程での“借金取り”という種属である。この種属は、一度も貌を合わせない時は確かに怕
(こわ)い存在だが、しかし取り立てる方も人間である。その人間心理の勉強にもなった。

 更にこの所属は「付き纏う」という行動を一種の原理にしている。付き纏われれば鬱陶しくもあり、更には肉食系の猛者
(もさ)が多いから、脅しも一流の気合いの入ったものであった。怕くもある。
 静かに重低音での囁くような彼ら特有の語りは、初めて聞けばこの世の地獄を思わせるものである。そしてこの種属が付き纏って来ると、次第に怕さを通り越して、情けなくなってくるのである。

 この情けなさを、自身で自嘲しつつ、情けなく滑稽に考えると、それはますます滑稽になり、その滑稽さは自他ともに滑稽になっていくのである。
 その滑稽さが、また居直りと言うか、開き直りの境地を開いてくれ、高がこの程度で、ガタガタ騒ぐなと言いたくなるのである。借金も億単位になれば、こうした一種の開き直りの悟りの境地が、道を拓く場合もあるのである。困窮が解消され、道が開けるのである。落ちるところまで落ちれば、それ以上に下はないからである。下から這い上がればいいだけのことである。

 そのうえ、借金から逃げれば逃げるほど追いかけて来るので、開き直りの境地は、逆に借金の中にこちらから突っ込んでやろうと言う大胆不敵なことまで考えてしまうのである。此処まで来ると債務者も債権者同様、同じ立場に立っているという凄味のようなものが出てきて肚
(はら)が据わり、高が借金で……と、これが必死であればあるほど滑稽に思えてくるのである。

 この滑稽さが、ちょいと鉾先を変えるという方向転換にも繋がる。価値観が一変するのである。
 また変わるように自ら仕向け、悲境を潜り抜けた、私独特の秘策であり防禦手段でもあった。
 こうなると失う物がない、天下の素浪人をますます自覚するのである。あるいは開き直りが楽天家の道を進ませるのかも知れない。

 思えば、大借金を抱える羽目になったこれまでのわが人生を思い、これが悲運を通じて私を楽天家にさせたのだと言えなくもなかった。それに、このクラスの大借金を抱えると、これ自体は確かに悲運だが、悲運を歎くことはなくなるのである。むしろ肚が据わり、開き直る余裕が出てくるのである。それだけに現在の状況判断もよく見極めることが出来る。

 余裕と言うのは、損した場合の余裕と同じで、また損害を出したときと同じように、巨額な借金を抱えたときも、同じ余裕が出てくるのである。
 そして私が悲境を潜り抜けて来られたのは、若い時期に「損する余裕」と言う心のあり方を学んだことであった。

 つまり、ケチにならないことであり、金銭哲学を身につけた上で、この哲学に学んで金銭の勉強をしたことであった。金銭哲学を徹底的に身につけておかなければ、「損する余裕」が会得出来ないのである。
 そして、人は「損する余裕」を会得してとき、小事にこだわらずに「おおらかさ」を知るのである。

 幸福と不幸とは、言わば紙一重である。表裏一体で貼り付いている。
 また神と悪魔も表裏だろう。人間現象界には、常に二面性が付き纏う。
 この構造を把握すれば、地獄の底に極楽があるのかも知れない。奈落の底に落ち、その最下位で這いずる廻れば、ここから這い上がる創意と工夫が生まれ、やがては極楽に舞い上がることもあろう。その意味で、地獄の底には極楽への手掛かりがあるのかも知れない。

 現象界では、苦しみもなければ喜びは味わえない。これが人生の相場である。一方だけを追い求めても、この中に真の幸福は追い求めることは出来ないだろう。一方的な喜びもない変わりに、一方的な苦しみもない。喜怒哀楽が上下し、あるいは左右に横行し、この現象界の中にあって、人間は苦しみの度合いに応じて喜びも得るのである。苦しみも烈しいほど喜びも強いのである。
 苦しみを経由しない喜びには、感動が長く継続しないのである。仮に、思わぬ喜びに出遭っても、それは泡のように消えてしまう儚い感動でしかないのである。

 現代の世は、感動の少ない時代である。特に感動は継続時間が短いのである。
 当世はやりの、“うわーッー、可愛い”とか“うわーッー、凄い”などの驚きも、ただその瞬時の時であり、持続時間が殆どないのである。一見、感動に疑似する衝動も、数秒後には失われてしまっているのである。

 これは大半の現代人は、苦しみもない喜びに浸ろうとする現象から発したもので、最初から喜びのみを追求した結果と言えよう。そして、苦しみが烈しいほど喜びも強いという本当の喜びを経由せずに、単に安物の喜びだけを需
(もと)めた結果と言えよう。

 喜怒哀楽の体験には種々の方法がある。
 例えば、苦しんで喜ぶか、烈しく苦しんで強く喜ぶか、苦しまず喜ばす無感動状態に落ち着くか、物事に動ぜず喜怒哀楽に振り回されないかなどであり、仮に後者は禅門の悟りである「苦悩悲喜を超越した境地」であるが、凡夫は最初からこのような境地には到達出来ない。多くは煩悩具足である。
 煩悩具足でありながら、喜びを得るには苦しみを経由しなければ、真の喜びには到達出来ないことを顕している。


【著者作の自選1200句】
































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