運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
句集 自選1200句 1
句集 自選1200句 2
句集 自選1200句 3
句集 自選1200句 4
句集 自選1200句 5
句集 自選1200句 6
句集 自選1200句 7
句集 自選1200句 8
句集 自選1200句 9
句集 自選1200句 10
句集 自選1200句 11
句集 自選1200句 12
句集 自選1200句 13
句集 自選1200句 14
句集 自選1200句 15
句集 自選1200句 16
句集 自選1200句 17
句集 自選1200句 18
句集 自選1200句 19
句集 自選1200句 20
句集 自選1200句 21
句集 自選1200句 22
句集 自選1200句 23
句集 自選1200句 24
句集 自選1200句 25
home > 胆識と流転の句集  自選  1200句 > 句集 自選1200句 11
句集 自選1200句 11


老いれば、殖(ふ)やすことではなく、減らすことこそ肝心となる。
 晩年のラストスパートには、物を抱えていては身動きも儘ならない。身軽にして身辺整理をして、足るを知り、清々しくしておくべきである。
 減らすことこそ人生晩年の大事なのである。

 日本には戦後、分けのわからぬ行事が殖えた。
 特に宗教とは無関係な行事の数は、実に夥
(おびただ)しいほどだ。
 かつて、戦前・戦中・終戦直後には存在しなかった、分けのわからぬ、もともと日本とは無関係だった宗教行事まで持ち込まれ、大半の日本人はそれに舞い上がり、実に多趣味になってしまった。あれもこれもと忙しいのである。
 昨今の忙しいのは、何も仕事だけでなく、旅行や娯楽などの多趣味にも忙しいようだ。

 物質的豊かさは、ここまで来てしまった。それだけ物質的な余裕ができ、飽食の時代の物余り現象に拍車を掛けて、単に消費だけを流行させるのだろうか。あるいは商業主義の現れだろうか。

 行事が殖えたが、一方で粗末にされるものも多くなった。数ばかりが物を言い、数値主義の現代、数字だけが一人歩きしている。
 そして、誰もが労働の多忙に追われ、慌ただしい時代に流されながら生きている。
 果たしてこれが、いいことか悪いことか……。

 かつては激動の時代などと言われた。
 しかし、激動は単に目紛しいだけで、その正体は、早さに翻弄される濁流かも知れない。それを激動と見なのだろうか。
 多くの人々は、川底の見えない濁流に翻弄
(ほんろう)されて、時代に流され生きている。

 悠久な時代の流れ。
 それは換言すれば厳粛な歴史の流れでもある。
 その流れの中に人は流され、巻き込まれて行く。そして生きるとは、その流れの中に躍り込み、抗
(あらが)い、かつ泳ぎきらなければならないのである。これこそ生きている証(あかし)である。
 時代の流れに棹
(さお)さして濁流の川底を突いて、自らの使命を果たそうとする行動こそ、生きることなのである。


拡大表示 拡大表示
平成27年(2015年で、昭和九十年)の『句集』を鏤(ちりば)めた著者の異色の年賀状(左)
 また、著者の年賀状に応えての、著名な音楽家の佐孝康夫先生からの年賀状
(右)



●窮地に立ち向かう

 人間のは本来、難解なことや困難なことなどの難問を抱え、窮すれば窮したなりに、窮地に立ち向かう意気の強さを与えられている。この意気の強さを発揮出来るか否かは、その人の覚悟の度合いによって決まるようだ。
 臆病はそうでないかである。あるいは生まれながらに習性として抱えてしまった懦夫
(だふ)の意気地なしの性癖である。つまり臆病か否かに懸かる。
 しかし、克服する方法もある。

 大半の人は、生まれながらに我が儘と言う欠点を抱えながらも同時に、人の頼らずに自分で解決しようと困難に立ち向かう気概も持っている。この気概は普段隠されていて、心の奥底に仕舞われている。そして中々浮上せず、勇気を抑圧して普段は隠れたまま日常生活を送っている。したがって、普段は意気地無しのように映る。

 ところが、ある時点を境に抑圧されたものが浮上し、芯
(しん)が弾けて立ち向かう勇気に変わることもある。一介の凡夫(ぼんぷ)でも勇者に変わることがある。
 人間は捨身に転じた時にこういう現象を起こすようだ。

 人間は強弱の二面性を持っているから、急に臆病になったり、裏切ったり、卑怯者になったりして、勇気を発揮する他方が抑圧されているが、これが時として、人生の試煉
(しれん)として浮上するときがある。ある時期を起点として、芯が弾け出る時がある。
 この時ばかりは臆病風に取り憑かれた懦夫でも、ある時期を起点として、見違えたような勇者になることがあるのである。
 ちなみに、稀
(まれ)だが……。
 では、その時はいつか。

 一度、ドン底まで顛落
(てんらく)した時である。
 奈落の底を這
(は)いずり回り、のたうち回った時である。
 絶望に苛
(さいな)まされ、苦難の中で、不遇の底で、絶体絶命直前に陥り、幾度が崩れかかり、悩みと不安を通して、それでもドン底から這い上がる「意志の焔(ほのお)の火種」が消えずにいれば、いつしか浮かぶ瀬もある。

 しかし、浮かぶ瀬の機会に恵まれるのは、とことん悩み抜いた末である。悶絶
(もんぜつ)するような苦しんだ末である。そして、何もかも失い丸裸になった時である。
 勇者になる条件は、一度この局面を経由しなければならないのである。この場合に捨身になることを経験するのである。

 普段、人間は「何によって生きていこうか」と模索している。
 つまり、生きることばかりを考えている。また、自分だけが生きられればいいと云うことだけに力を注いでいる。この一点に奔走の原点を見出している。そして他に求めない。
 つまり、何によって生きていこうか……である。

 自分を生かすことばかりを考えている。更には、力強い生き方は「何か」ばかりを追い掛けている。生き方だけの模索である。
 しかし、これでは本当に生きはしないだろう。
 生に奔
(はし)ろうとすれば、死から追い掛けられるからである。死神の追尾に遭(あ)う。死から極力逃れようとして、死に追い掛けられることになる。故に損得勘定が先行する。打算的になる。

 しかしこれでは、むしろ逆に殺すことになる場合が多い。自分を殺してしまうのである。
 結局、死んでしまうことなのである。
 生きることばかりを考えるから、結局は自分を殺し、遂には死んでしまうのである。肉体は動物的に生きているとしても、心は死んでしまうのである。

 それは何故か。
 本当に生きる道のは、何かばかりを模索したからである。そして、真に生きるにはどうしたらよいか。どう言う生き方が力強い生き方かばかりを追求したからである。
 普通、何によって生きていこうかを考える。生きることだけを主眼に置く。
 しかし、そもそも此処が行き詰まる元凶だった。

 これを回避するには、何によって生きていこうかではなく、「何によって、その魂を全力で投入し、何によって死のうか」であった。
 つまり、依って以て死ぬ「何か」の探求が急務だった。
 依って以て死ぬ何かを見付けたとき、人は始めて心の安住を得るものである。そして安住を得た場合、此処に来て長い間の動揺や不安から、するりとにけ出すことが出来るのである。

 生きて行くにはどうしたらいいかと言うタテマエから抜け出し、またそういうタテマエが付き纏う以上、人間はどうしても利害を考えたり、打算に奔
ったりしなければならなくなる。そして損することを悉(ことごと)く恐れるようになる。こういう状況下では、世の中の油断も隙もない世間の風に煽られて、少しの安らぎも、心の安住もないだろう。
 安定がないからである。

 生きていこうとすれば、どうしてもこのような情態が生じて来る。心は不安定となる。恐れるものや失うものが多くあるからである。同時に、焦りも出て来る。
 焦りが出れば、心を萎縮するだろう。却
(かえ)って、殺してしまうことになるだろう。そして遂には行き詰まる。二進(にっち)も三進(さっち)もいかなくなる。
 こうして、進退これ谷
(きわ)まるのである。前に進むことも出来ず、また後ろに退くことも出来なくなる。遂には窮(きわ)まるのである。

 しかし、この状況から改善を目指したり、また浮上することも難しい。此処まで来ると絶望のドン底に落ちる以外ない。
 まさに奈落の底に落ちるが如しの状況が出現する。
 そして此処まで来ると、気付くことがある。但し、運が良ければの話である。
 もし、ドン底に落込んで、運が良ければ、その極処で気付くことがあるのである。

 今まで、何に依って生きて行こうかばかりを考えてきた。この考え方は、実は誤りではないのか。
 そして本当は、「何と一緒に死ぬべきだったのか」という、ある種の懐疑に突き当たるのである。
 道とは何か。本当に生きるとは何か。
 果たして生きるとは、単に生を追い掛けることは本当に生きることだったのか。
 そして、はたと気付くのである。

 こういう生き方は実は自分を萎縮させ、強いと思っていたことは、本当は弱い生き方ではなかったのかと。
 これまで探求したものは、何によって生きていこうだった。更には、どうしたら得に繋がり、損をせずに利益を得ることが出来、また栄えて行こうだった。

 だが、これでは人生の本当に味は分るまい。
 都合にいい人生であり、本当に「道に行ずる」という妙味が分らないのである。
 そこで、はたと気づくことがある。
 道とともに死のうではないか。道とともに滅びようではないか。

 すると、どうか。
 これまでの自らを萎
(しぼ)めさせていた生きることばかり、得することばかりの打算的な人生観が一変するのである。
 道と共に滅びればいい。道と共に死ねばいい。
 そういう結論に至ったとき、人は始めて生きることを知る。道に殉ずることが本当の生を齎すのである。

 この情態に至り人は、朗らかになる。恐れるものがなくなる。何に動揺しよう。
 本当に活力のある生き方が、つまり一旦はドン底に落ち、奈落の底を這いずり回り、苦悩し、絶望し、極限まで至って、真実の奮闘が生まれるのである。
 道と共に死のうではないか。
 この、死のうではないかの「何か」を見付けたとき、それに殉ずるものを探し当てた人は、臆病な習性を持って生まれた人でも、此処に来て一新し、これまでの懦夫の呪縛が解かれ、勇者となる。懐疑も不安も消えるのである。
 これが、懦夫が勇者に転換する瞬間である。

 こうして勇者になった者は強い。
 かつては、一家の全責任が双肩に懸かる家長は、強いものであった。
 勇者に生まれ変わった家長は強かった。
 俺が生きている限り、俺の家族は不幸になる分けはない。物質的には貧乏だけれど、精神的には幸福な家庭を築かねばならないと言う自負で溢れていた。家長は自信に満ちていた。

 つまり、家長にあるべき父親は、幸福なる家庭を築くことの確信に満ちていたのである。
 家長がこのような確信に満ちていれば、当然その家族も、いつのころからか同じ確信を抱くようになる。
 仮に、不幸の影が家庭内に射し込んできたとしても、それが“本当の不幸”とか、これから始まる“本格的な不幸”だとは思わなかったのである。
 そういう不幸を、台風と同じような一過性のものと信じていた。
 この「信じるエネルギー」が、また確固たる確信となり、仮に一過性の不幸に見舞われたとしても、「今は確かに不幸に見舞われているが、いつかよくなる。きっとよくなる」という呪文を繰り返しつつ、嵐の通り過ぎるものを待ったものである。

 これは楽天的な希望であったかも知れないが、家長が「大丈夫だ、心配するな」と繰り返せば、家族も「一晩寝れば、明日はよくなっている」と信じる希望を抱かせたものである。

 「一晩寝ればきっとよくなる」
 これとともに「お父さんが言うのだから間違いはない」と、今の不幸を明日に回復させる希望を抱かせたものである。もう少し我慢すればきっとよくなる。
 家族はそう思い込むのである。
 またそう思い込む背景には、「どんなに惨めでも、これ以上悪くなる分けがない」という、家族の長である父親が言うのだから、という家長の自信と確信がそう思い込ませるのである。
 これこそ、単純で、然も力強い、不幸を幸せに転ずる、この世の心象化現象なのである。

 心の念じたことは、必ず実現する。具現化する。
 これが、複雑を単純にする心象化の妙である。

 だが、今日はどうだろう。
 実に簡単なことを、ますます複雑にし、分り辛くしている現代の複雑な世の中がある。
 昨今は世の中が複雑になり、また人間が単純化を失った局面がある。人間と人間の関わり合いも、とにかく分り辛く、複雑になってきている。人と話すにも差別用語は禁止。文章一つ書くにも配慮に配慮を重ねて言葉を選び、慎重を期し、人間同士の繋がりも複雑になって、ひたすら気を遣い、思い遣りをし、非情に難しくなってきている。
 現代は必要以上の遠慮と無駄な気遣いが必要なのである。
 こういうのを“思い遣り”と言うそうだが、しかし単純化が儘ならない世界となってきた。複雑過ぎる世の中となってきた。
 そのために現代人は故意に人間関係を切り捨て、隣同士の関係も希薄である。

 その一方で、新教育のあり方として、親は子供に親の愛情を押し付けるなとか、盲愛はよくないとか、子供の親の私物化は厳禁で、子供にも人権があるので子供の人権も尊重せねばならないと言う。
 子供に人生に、親は口出しするなという。
 斯
(か)くして親はへっぴり腰になった。腰折れ状態である。
 新教育の権威筋は、親の愛情は程々にして、説教も程々にしなければならないという。況
(ま)して、体罰は厳禁。体罰で子供を叱ってはならないと言う。更には、子供の邪魔にならぬようにせよと言う。
 これでは老いた者は、尊敬される社会構造になく、また親すらも無用の長物となる。哀れなものだ。身の置き場もなく、肩身はますます狭くなる。
 斯
(か)くして、親は子供にとってはお邪魔虫となる。後は邪魔にならぬように姨捨山にでも入らねばならぬのか。

 子供が結婚をし、子供の邪魔にならぬように気を遣ってばかりの老後を送ることになる。そして一息つく間もなく、子供の目の前から消える存在になっていく。目の前から消えるために、老後のために蓄えた細やかな老後の資金は、体裁の良い老人ホームと言う現代の姥捨山に入山するための死ぬまでの生活資金だった。
 また、現代は年寄りが子供の世話にならず、自ら進んで姥捨山にいくことが暗黙の了解となっているようである。

 昨今はこう言うのを“暗黙の了解の老人現象”と言うらしい。
 この“老人現象”により、大勢の、大方の親は老いれば現代風の老人現象に押されて、歳を取るに随い、自信を喪失し、悲しい、寂しい老後が待っているのである。
 今どきの親は、新教育の影響下で自信を喪失してしまった。家長と言う、本来の家の仕組みは崩壊した。ここに来て崩壊してしまったのである。
 更には、暗黙の不文律に搦
(から)め捕られ、老いれば自ら進んで姥捨山に分け入って行くと言うのが、あたかもパブロフの犬の実験の如く条件反射になっているようである。

 かつての親は勇敢だった。持って生まれた習性は貧弱で懦夫の類
(たぐい)だったが、家の長として威厳を保ったものである。
 そして、自負としては家族を守った。
 「自分の生きている限り、家族は不幸になる訳がない」
 親はこの言葉を自らの誇りと考え、自分なりに毅然
(きぜん)とした態度をとって理不尽に立ち向かったものである。それが負けると分っていても、負け戦を挑んで家族を守ったものである。そして親は、親としての自負があり自信があった。怯(ひる)みはしなかった。親とはそういうものであった。

 この自負と自信は、現代では荒唐無稽だと思われるだろうが、この荒唐無稽こそ、今は懐かしい「昔の親の姿」であった。
 いま振り返れば、私は一時期、天下の素浪人を遣って、それでも簡単にくたばらなかったのは、かつての父母から荒唐無稽の自負と自信と、更には両親の愛情とを目一杯に吸収して、その力によるものかも知れない。


【著者作の自選1200句】



























<<戻る トップへ戻る 次へ>>

  運気     八門人相     房中術     癒しの杜     菜根譚     小説     会報Back No.     合気     蜘蛛之巣伝     死の超剋     霊的食養     心法