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句集 自選1200句 12


我慢強い意識は何処から起こるか?……。
 親の鍛え方によろう。
 親の鍛え方が甘いと、子は我慢に対する力が弱い。その弱さは親の責任である。親が子を鍛えないから我慢も意志力も弱い精神的畸形児が出来上がる。

 精神的畸形
(きけい)児は、そのまま大人になるため、大人になっても精神的には幼児であり、意志力もなく、信念もない。妥協が他人間や優柔不断な人間が出上がる。直ぐに屈してしまう。脅しにも断固闘えない。
 社会に出れば、どんな虐待や理不尽が待っているかも知れない。

 世間では苛めはいけないと言う。小中高校での苛めはよくないと言う。ところが苛めは何もそうしたところだけで、あるいはそう言う年齢世代だけで行われているのではない。いい年をした中年オヤジの世界でも現に苛めはある。
 したがって、もっとも過酷で可哀想な苛めは弱年世代だけでない。中年オヤジの世界にもあり、更に陰湿であり脅迫まがいのものもある。

 幼少年期に、親が、世の中の理不尽を教え、理不尽に絶えることを教えていないと、幼児のまま軟弱な大人が出来上がる。
 世の中とは、そもそも理不尽であり、ろくでもないところなのである。

 この“理不尽”と“ろくでもないところ”と世の中の構造や社会の構造を幼児期から親は子供に教え、鍛えてないと、これらの不条理には闘えなくなる。不条理に闘い、それに耐え、乗り越え、克服して行くと言う精神力を養うのは、幼少年期をおいて他にない。子供を安全地帯に確保し、暗室の中で育て、自らも保身主義で消極的な生き方をする親では、子は軟弱のままの幼児大人になってしまう。

 つまり、人間が社会に生きると言うことは、「差別の中に入る」と言うことであり、格差社会の中で貧富の差に苛まされ、家柄や身分の格差によって、理不尽の中に入ると言うことである。
 更に知的能力を求められる現代のような社会では、この背景に大いに物を言うのは「閥」であろう。
 知的能力の無い者と、ある者との間には劃然
(かくぜん)として区別があることは言うまでもなかろう。一様でなく、平等ではなく、対等でもない。
 このことは、現社会に生きる人々は一人残らず骨身に沁みて感じることである。

 こうした現社会の差別が存在する実情を前に、何ゆえ子供だけを、差別から守って育てなければならないのか。この現実こそ、大人が子供に教える重要事ではないのか。
 差別に対して耐性を養う能力と忍耐力を教える事こそ、親が子に教える教育の根本である。

 小手先の論理で重箱の底をほじくるような、こだわり根性で、弥縫策
(びほうさく)を弄(ろう)しても、それは小事にこだわったことに過ぎない。全体像を教える必要がある。
 こだわり、こだわりでは、事なかれ主義に流れてしまうのである。

 こだわりという拘泥
(こうでい)の小事のミクロ視野から抜け出し、全体像を視るマクロ的なグランド・デザインを描けるような見知に立たないと、物事は極めるとは出来ないだろう。小事にこだわるのではなく、大事を見詰めて大事を極めなければならない。

 “こだわり”という奇妙な語源が流行する現代こそ、こだわりをさらりと捨てて、大事を極める境地を目指すべきであろう。

 極めることは、世の中の理不尽も不条理も総て清濁併せ呑み、これを承知して耐えた後に「極めの境地」に達するのである。小事のこだわることと、大事を極める境地とは同じものでなく、此処には雲泥の差があるのである。
 こだわることと、極めることは、同じレベルのものでない。
 極めると言う響きは高尚なものを感じさせるが、こだわると言えば賤しさが鼻に突くのである。



●閥

 世に「閥」という資格のようなものがある。
 また、出身や利害を共有する組織がある。その組織では属する者同士が結成して、排他的な集団様式を結成し、他者を寄せ付けない。門閥意識と言うものである。
 したがって、「閥」の属さないと評価も地の堕
(お)ちてしまう。他者では、仮に誇るべき何かがあったとしても、閥だけにしかない功績はないからである。これらを名閥とか名門と言う。そしてその評価は、一般的にも高いようだ。
 では、その評価となるものは何か。

 つまり、いい学校、いい会社、いい家庭及び家柄と言うことになる。名門の所以
(ゆえん)である。
 だが、これがいい事か……。
 果たして、人生でいい事であろうか。
 単に、自身の資格を誇って、その誇る事自体が人生を送る上で意味のあることなのか。あるいは生き甲斐を感じることなのか。
 それ自体に意味のないことは明白である。

 敢えて言うなら、いい服を着ているという程度であろう。ところが、日本ではこのいい服が、大いに物を言うようになっている。そういう人脈の構造があるようだ。
 しかし単に、安全圏に居て、保身のための資格に過ぎないのではないのか。

 人生を生きることに於いて、貧乏はちっとも恥ずかしいことではない。極貧の只中にあったとしても、それは恥ではない。
 確かに赤貧は恥だが、清貧は恥ではない。
 清貧であれば毅然
(きぜん)とした態度が維持出来るからである。清貧ならば、貧しくとも、譬(たと)え極貧であっても、それだけで胸が張れるのである。
 金持ちの中にも、恥ずべき人間は多く居るからである。金持ちの恥ずべきは、清貧に比べれば何ほどのものでもない。

 家柄を威張り、学閥を威張り、職業を威張り、自分の就職先の組織や企業を威張り、就職先の中でも最低なのは、自分の部下が何十人も居て、その部下の中には東大出が居るなどと抜かす輩
(やから)である。

 この輩は、ズバリ言えば赤貧並みであろう。自らの赤っ恥を自慢しているようなものである。
 それに甚だしきは自らの勘違いである。役職からくる勘違いである。役職を自分の偉さと思い込んでいるからである。そのことで自分が偉いと頑
(かたくな)に信じて、その偉さが自分の偉さでなく、会社のネームバリアから来るものだとちっとも認識していないのである。自分の真の実力と役職とは無関係なのである。それを混同する。
 これだけで赤貧に値し、自らの赤っ恥を自慢しているようなものである。

 昨今は、こうした赤っ恥の大人になれない大人が殖
(ふ)えた。
 流行に培養された“子ども大人”は急増した。そして、“子ども大人”の特徴は、観察眼が疎
(うと)いことである。わが身を護る観察眼が疎いことである。そのうえ頭隠して尻隠さずである。然も自信家である。
 だが自信過剰は、やがて墓穴を掘るだろう。

 観察眼が疎いから、状況判断が出来ない。
 対峙した相手を見極められない。人間研究が出来ていないが故にである。
 同時に、ゆとりがない。余裕がない。損する余裕がない。実にケチである。
 吝嗇
(りんしょく)も甚だしき、この種の“子ども大人”は、障害や窮地に立たされると簡単に音を上げてしまうのである。
 そしてこの輩の同一的特徴は、八方美人である。エエカッコシーなのである。

 目立ちたがり屋で、自分が中心に居ないと満足しない自己中人間である。そのくせ、怒る時に怒らない。発言すべき時に発言しない。何事も消極的に保身を図る。ただ目立ちたがり屋で、エエカッコシーのポーズを付けることを得意とする。
 だが、こういう手合いは順応性ではないだろう。

 大半の日本人の持っている能力に一つに、順応性がある。直ぐに馴染む。馴染んで同化してしまう。特異なる順応性である。
 順応性があると言うことは、一方で変化の対応としていい事のように考えられるが、要するに付和雷同し易いのである。

 例えば、権威筋の誰かが“子供の気持ちは理解するべきである”という学説混じりのことを言うと、多くの日本人の場合、権威筋には弱いから、我も我もとなって理解を示すポーズを執る。
 更には、“子供は叱るべきでない”と言えば、簡単に同意する。
 常に権威筋には弱いのである。

 斯
(か)くして、子供の機嫌取りばかりをして、遂には子供の我が儘を容認してしまう。以降は、言いなりでズルズルである。その結果、子供は社会に出て礼儀知らずになったり、かつては非行とされたことも、今では容認し、擁護までするのである。現代の親も此処まで落ちたと言うべきであろうか……。
 そうだとすると、由々しき事態である。
 これは全部が全部そうなったと言わないが、大半はそのような傾向に流され、現代の現象人間界を危うくしているのである。この事実も否定出来ないだろう。そして情報が優先する時代、メディアの関わりは多大な影響力を持っている。

 ゆえに画策され、流される……。誘導される……、操作される。
 現代に世には、そういう一つの流脈あるいは潮流がある。複雑怪奇ゆえに、そのように運ばれる病巣があるのである。情報化の只中、現代特有の時代の流れと言えよう。

 そして流行に流され、世の中を要領よく泳ぎ渡る人間を、昨今では奇妙だが“おとな”と言うそうだ。
 「あの人は“おとな”ですね」
 この“おとな”の意味は、大人
(おとな)という意味ではない。本来の大人の意味ではない。況(ま)して、儒学に出てくる小人に対峙した「大人(たいじん)」という意味でもない。徳の欠片(かけら)もない。
 ただの“おとな”という、その程度のことである。
 それはどんな“おとな”かというと、妥協型の無気力人間を総称して、そう言うらしい。そしてこうした背景には何があるのか。

 恐らく、多忙を装うと言う要領の良さを売込む手段が遣われているのではないか。
 昨今の多忙の時代を分析すれば、根底には昭和30年代からに掛けての高度経済成長があり、その経済成長を引き摺ったままの平成バブルの残留品が、これに絡んでいるのではないかと思われる。

 つまり、今日でも多くの日本人は、バブル時代の後遺症から抜け出していないのである。
 後遺症を引き摺ったまま、それが今日でも悪しき影響となって、単に忙しくするというのが、この時代の風潮にあるように思われる。

 近年は忙しく働くことが美徳となっている。
 忙しく働くことに対して、何ら疑いを持たない時代である。
 忙しく働くことが、会社が生き残る方策であり、また自分がリストラされずに済むと思い込んでいる現代である。
 己を犠牲にして、更に献身的に犠牲にして、犠牲にされることでマゾヒズム的な喜びを感じるのが、昨今のサラリーマンのようだ。
 そして資本家は、それによって、喜ぶ人の喜びを、自分の喜びと感じて、ますます多忙に追い立てるようである。
 また、こうした資本家の下で働く会社員側もさるもので、繕うポーズだけは巧くなった。人事考課の受けの術は巧くなった。

 要するに、“忙しくする”というポーズの背景には、忙しいのではなく、忙しく振る舞うことで、働いていることのアピールをしているだけなのである。働いているポーズは、忙しく振る舞うことで、それをカバーしているような気になっているだけなのである。
 そして、こうした行動には智慧が不在であるといえよう。既に忙しく振る舞う時代は終焉を告げているのだが、これが未だに見抜けていない。智慧の無さ、戦略のなさであろう。
 知識だけあって、見識がないと言う構図だろうか。それゆえ奇妙な“おとな”が登場するのである。

 だが、根底にある“おとな”の意味は、その人を褒
(ほ)め言葉として遣っているのである。世も変わればかわるものである。
 人の世は、このように時代の流行に流されて行くものなのであろうか。
 流れるからこそ、また人間としての矛盾を内包しているのであろうか。

 矛盾な内包……。
 これは完璧に否定は出来まい。
 それゆえ人生とは、己の裡側
(うちがわ)に矛盾は存在していることを、しみじみと味わうことなのである。

 また、魅力ある人間とは何か?……となると、矛盾を否定せず、あるが儘に受け入れることであろう。
 否定したり、矛盾を消滅させようとすれば、これ自身に反作用が働き、奇妙な、表面だけが賢い、現代流のお利口さん人間が出来上がる。

 現代の“お利口さん人間”とは、如何なる人種か。如何なる種属
(スピーシーズ)か……。
 いい大学を出て、いい就職先に勤めて、いい服を着て、表面と見せ掛けだけを繕い、自分は矛盾の一欠片もないというそういう者ではあるまいか。

 『論語』の世界を思うにつけ、孔子が実力者の少正卯
しょう‐せいぼう/中国・春秋末期の魯(ろ)の大夫で、一時期、高く評価された。紀元前496年、魯の司法・警察を統(す)べる大司寇(だいしこう)に就任し宰相の職務を代行することとなった孔子に「政(まつりごと)を乱す者」として誅殺されたと伝えられる)を誅するとき、二の足を踏む門弟達を次のように叱咤した。
 「人には許せる欠点とそうでない欠点がある。許せる欠点は置くとしても、許せない欠点には、どうしても許せない五悪がある。その五悪を少正卯は悉
(ことごと)く備えている。この人間を誅せなければ、句にそのものが危うくなる」と、その五悪の悉くを列挙したのである。
 その五悪とは次の通りである。

万事に手抜かりがなく、それだけに何喰わぬ貌をして険悪で陰湿で恐ろしい手を打ってくる。
遣ることなすことに公明正大性がなく、考え方に偏った僻案があり、それでいて表面を繕(つくろ)い、公明正大性を強調しつつ、何処から指弾しても確(しっか)りした謙譲語で理論武装されている。
(よ)く聴く耳をもって解釈すれば直ぐにわかることなのだが、美辞麗句に虚飾されていて、内容が紛らわしく、嘘八百を並び立てているのにも関わらず、如何にも正論に聴こえ、かつ弁が立っていゆえ、その欠陥があやふやになって、如何にも正論のような発言をする。
物事の記憶力が極めてよく、そのうえ博識である。
悪どい事を平気でするくせに、その反面、多くに人に恩恵を施している。

 この種属の輩に世の中が牛耳られるようになると、五悪の次の六悪が加わり、更に悪化するととも孔子は付け加えている。
 つまり、「奸険、凶淫、煽虐
(せんぎゃく)、肆毒(しどく)、善類を賊傷し、君心を蠱惑(こわく)し、国家の命脈を断じ、四海の人望を失う」と。
 これは野望の恣
(ほしいまま)に、天下に動乱を齎す破壊的な人物のことである。
 時として、このような人物が天下に出現し、人心を乱す場合がある。時の人となって世の中を惑乱する。

 世は平和を装い、誰もがその恩恵に預かっているように見える。
 特に、今日の日本の世は、少なくとも、世界の平和度から見ればそのように映る。
 そして、選出される国会議員と言えば、タレント擬で、役者風で、気取り屋で、一見私心がなく、崇高な理論を論
(あげつら)い、それゆえ作為がないように映る。

 また、あたかも人間が大自然の恵みに浴し、その空気を吸い、水を飲み、こうした行為をしながらも、このこと自体に全く意識を感じないように、平凡に淡々と流れて行く。更にこれと同じように、何とはなしに人々を経済成長によって物質的豊かさの中で物質的な幸福に浸らせ、禍
(わざわい)は直截的でないうちに揉(も)み消してしまう。

 このような行動の中に何が見て取れるか。
 表面的には、非の打ち所もないように映るだろう。
 今世人には、一点の非の打ち所もないように映る筈である。
 そのうえ、頭がいいと来たらどうなるか。それに加えて、才もあるとなると、どうなるか。
 これに加えて、交際上手……。況
(ま)して当たり障りもない。
 これこそ、“お利口さん人間”の典型ではないか。
 この典型人間が、他者の手本になりつつ、憧れの人物になりつつ、大して酒も飲まぬ、女漁りもせずとなると、どうなるか。

 この手合いを能
(よ)く観察し、凝視し、冷徹の分析して行くと、何か不具合な畸形(きけい)箇所が見つかる筈である。
 つまり、矛盾の一欠片も感じられないのである。あたかも無機物人間のようである。
 総称すれば、総てがこぢんまりと整っているが、その反面、さっぱりうま味もなければ感激も感動も感じないのである。
 出来過ぎと言う感じだろうか。

 その上にである、
 何やら忙しそうに働いている。確かに急がしそうに働いているが、遣っていることと言えば、要するにどうでもいい事をしているのである。誰が遣ってもいい事ばかりで、可もなし不可もなしである。

 昨今は、そう言う手合いが殖えたと言えないだろうか。時代が、この手合いを急速に培養したと言えないだろうか。
 もし、この手合いが急速培養されているとしたら、この手合いが幾千幾万、集結したところで、今日の複雑多岐に渡り、奇妙な動きをする世の中の根源を見極めることは出来ないだろう。
 時代は確かに複雑で、単純さを失った複雑作業をするロボット的な動きをしているが、これは飽くまで無機的な動きであり、有機的な動きとは言えない。人間として有機的な動きが無視された時代が現代なのだ。

 矛盾を認めない。短所と長所の共有も認めない。
 確かに時代はそのように変貌しつつある。それは人間性を喪失させる元凶ではないのか。
 一見、完璧で、矛盾すら感じさせない人間。
 そういう人物は、底辺の凡夫の持ち得ない長所のみを多く所有しているだろう。

 だが、一方で、種々の数えるべき短所を持ち、同時にそれが魅力となっている人物も居るのである。それゆえ人々を魅了し、不思議と人を集める人物もいる。
 私はその一人に、種田山頭火を挙げたいのである。
 山頭火は、貧して極貧に顛落
(てんらく)し、そこで人間としての、愚の愚が一皮むけたような気がするのである。

 したがって、世の中の底辺と接しつつ、そこから漂ってくる無神経な空気にも、鈍才の集まりにも不愉快の貌
(かお)をせず、あるが儘に受け入れ、それを句に詠んでいる。底辺・庶民の実社会をあるが儘見て、それを鋭く句に著しているのである。

 霜しろくころりと死んでゐる

 草をしいておべんたう分けて食べて右左

 どこでも死ねるからだで春風

 死ねない手がふる鈴をふる

 おちついて死ねさうな草萠ゆる

 旅はゆふかげの電信棒のつくつくぼふし

 重荷を負うてめくらである

 ここを死に場所とし草のしげりにしげり

 ちんぽこもおそそも湧いてあふれる湯

 笠をぬぎしみじみとぬれ

 草しげるそこは死人を焼くところ

 びつしより濡れて代掻く馬は叱られてばかり

 松風すずしく人も食べ馬も食べ

 特に、世間師と言われる連中の生き態(ざま)をである。
 それだけに開き直ったと言うか、妙に肚の据わったところが見出せるのである。
 これは大寺院に畏
(かしこ)まり、大僧正と仰がれているその種の坊主より、数段上を行っていると思料するのである。
 思えば、名門などと言う閥とは、まさに無縁だった。



【著者作の自選1200句】




























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