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句集 自選1200句 13

月が雲を呼ぶのか。雲が月に懸かるのか。
 雲が動けば月が止まる。雲が止まれば月が動く……。
 そして、雲が走れば月を運び、また雲が走るとき、月が動くときであり、これが何れが始めで、何れが終わりと言うこともない。

 更に、何れが動いて、何れが止まっているということでもない。あるいは生滅流転しているものでもない。静動は、己が心の現れである。
 一切は、見る者の心の儘なのである。
 見る者の心が動じれば、心の儘に現れれ動き、動じない心になれば、対象物は総て静止するだけなのである。



●超感情

 俗な言い方だが、人間は経験や体験によって、人間の幅が出てくると言われる。
 確かにその通りだが、それは何も難しいことではないと思う。
 経験することや体験することは、日常の中に幾らでも転がっているからである。その転がっていることを見聞し、それを感じればいい事である。

 見聞し、かつ感じる……。
 私の場合は、人間の出来具合が元来俗人に出来ているから、少なからず幅を作るためには些かの時間を要した。
 そもそも出来具合が宜しくない。一介の底辺の凡夫に過ぎない。しかし、凡夫は凡夫なりに努力した。
 日々の格闘の中で、凡夫の感情に苛まされ、その中でもがき、他人との諍
(いさか)いや憎しみや、憤懣(ふんまん)やる方ない理不尽を通して、その誹謗中傷に耐えながら、この経験や体験を通じて、やっと人間の憐れみと人情の機微を知り、時間とともに甘受して行く心の余裕を育てたと言えよう。

 したがって、必要な分だけ人と付き合い、また摩擦のない付き合い方をした。抗うことをやめ、摩擦を排除した。
 つまり、苦悶
(くもん)したり、憤怒(ふんぬ)の思いを馳せたり、辛酸をなめたり、必要以上に無為のない痩せ我慢をせずに、以降、出来るだけスッキリとした整理の整った生活をしてきた。それも出来るだけ簡素化し、単純化し、無駄なものは整理して処分し、明確なる人間理解に努めて来たのである。

 人生は、また人間を知ることであった。そのように理解した。
 人間を知らずに、人生などわかろう筈がない。
 とにかく、人間理解に努めることである。人間を知らずして、どうして人間への理解を深めることが出来ようか。
 更には、人間の哀れを知らずして、どうして自分の人間としての幅を広げることが出来よう。

 核化の時代、人間が人間を知ることなく、物への理解だけを示し、人間への理解を深めようとしない。ただ物のみに奔
(はし)っている。物質的に豊かであれば、それでいいと思っている。
 冷蔵庫の中に当分の食べる物があり、その他の物財に恵まれ、かつ便利で快適であれば、それが幸せだと信じている。そして、物が豊かであると言うことは、金銭的にも豊かであり、多くの収入があれば、それが則
(すなわ)ち幸福であると信じて疑わない。
 現代人にとっては、幸福イコール生活の快適さにあるようだ。

 したがって、こうした生活環境下では、最も憎まれるものが不快であり、苦痛であるのだ。
 不快であったり、苦痛であることに対し、抵抗力を失った現代人は、肉体のみならず、心の苦しみに対しても抵抗力を失ってしまっているようである。
 ゆえに、苦しむことは、現代の不合理になってしまった。
 現代とは、物が豊かであり、物によって、幸福が得られると信じた時代である。また、その路線を走っている。

 便利なもの、快適なものを追い求め、それに身を委ねたとき、人は墜落する。そして自立の精神を失う。
 また、自分では墜落したと思いつつも、つい文明の利器を利用してしまうのが現代人である。
 私自身も、多分に洩れない。自分では、ああ……墜落したと思いつつも、便利な方を選び快適な方を選んでしまう。そして、一旦便利さや快適さを覚えると、人間は、以前の不自由で不便な時代へ戻るのが難しいようだ。

 楽を覚えてしまえば、苦には挑まなくなる。
 更には、一旦美食の味を覚えると、それ以下の蔬菜
(そさい)の味には馴染めなくなるものである。口でも、一旦奢れば、元の戻れなくなるのである。これは、現代社会が例えば江戸時代の生活様式に舞い戻ってしまえば、忽ち混乱し、前の世界には戻れないのと同様である。
 そもそも“戻れなくなってしまった”ということが、一つの墜落なのである。
 墜落したかそうでないか、前の生活に戻れるか否かで決まるのである。

 自分では、とうとう此処まで墜落したか……の、その繰り返しである。そういう嘆きとともに、不便に馴染むことを忘れてしまうのである。
 ゆえに現代人は、私も含めて、欲望の満足に対し、謙虚さを失ってしまったのである。それは不便と不快を忘れることでもあった。
 更に恐ろしい事は、現代社会の物質の氾濫
(はんらん)が、私たちの精神までもを含めて、物質的に満足を覚える、その次元にまで占領するに至ったことである。ある意味では精神的な墜落であった。

 金銭的かつ物質的な財産と蓄財、豪華なる海外旅行などの行楽、家事一切の便利で快適な合理化された機械への追求……。そして物質的なる安楽……。
 それが現代人の幸福であり、人生の目標であると思い込むところから、私たち現代人は、ゆとりと余裕を失ったのではあるまいか。

 そう言いつつも、一方で、金が総てではないと言う。そう思っている人も少なくない。
 金で買えない物があると信じている。
 金が総てではないと豪語する人は、金で買えない物がこの世にあると信じている。実に結構なことである。

 ところが、それへの信頼は、物によって裏付けされたもので、物がなくなれば、忽
(たちま)ち不幸になると言うのが、現代社会の実情である。このように、精神的には実に脆(もろ)い。
 したがって精神面とか心と言うものは、大きな存在価値の比重を占めず、金が総てではないと言いながら、結局は金銭に回帰すると言うのが、現代の世の正体である。

 では、いつからこうなったのか。
 此処に至るシナリオは、まず明治維新と言う日本の西洋化に始まったと言える。恐らくこの時期が第一波の到来であった。
 この時期を起点に、西洋の右回り思想が猛威を揮いはじめた。
 科学万能主義であり、体系主義である。そのために、日本人からこれまで連綿として脈打っていた日本精神は悉
(ことごと)く一掃され、急速の横文字文化が進むことになる。

 次に、大東亜戦争の敗北である。これが第二波である。この猛威は凄かった。何しろ、日本列島の至る所が焦土になっての第二波の到来であったからだ。多くの犠牲が伴う襲来であった。
 日本は、昭和20年8月15日に大東亜戦争に敗北し、日本列島は悉く焦土と化した。同時に、この日を起点に、アメリカ文化が雪崩れ込んできた。

 此処に至る経緯は、おそらく敗北以前から仕組まれたものであろう。既に計画されたものであった。
 仕組まれたからこそ、一つの大きな流れが出来て戦争へと誘導された。そして、戦争へのエネルギーは物凄い勢いで日本を貫き、誘われるが儘に、ある種の流脈へと導かれた。敗北へのシナリオである。計画されたシナリオであった。
 そして敗北の日を起点に、日本精神は悉く葬り去られ、悪のレッテルを貼付けられてしまったのである。

 また、以降の流れは凄まじいものであった。激変の連続で、目紛しいものであった。
 日本人の欲望は高度経済成長を境に、拡散・膨張しはじめた。あたかも、その流れの中に誘われるように、まんまと誘導されてしまったのである。その流れを、高いところから流れ落ちる欲望の瀑流
(ばくりゅう)とでも名付けようか。
 「滝の直下の飛瀑」の源泉の如き存在が擡頭
(たいとう)した。その急変が凄まじいだけに、この頃より時代に加速度がつきはじめた。

 斯くして、昭和30年頃を境に日本人は、物質経済最優先路線を驀進してきたのである。
 これは取りも直さず、これまで日本人が美徳としてきた、欲望を抑えるという耐え忍ぶ心を放棄させるに至った。
 現代では、欲望を抑えることは美徳でなくなった。愚かしい痩せ我慢と嘲笑されるようになった。

 更に、欲望への我慢は、現代では正しくないこととなり、人間としては、不自然であると一蹴される思想へと変貌したのである。欲望を満たすことだけが最優先される時代となった。そのために、現代では、物事に対して深く考えないことが第一なのである。
 考えず、思考回路を閉鎖して、周りの者を視ながら人真似をするということが、この時代を生きるための常識になってしまった。

 深く考えないこと……。
 では、なぜ深く考えようとしないのか。
 それは、信仰を持たないと言うのと同義である。
 信仰のある者は、物事を深く考え、思慮深い態度をとるが、信仰のない現代の日本人のような大半は、「神仏とは何か」を考えず、触れず、ただ科学的に分析することのみに重きに置かれているように思うのである。

 つまりである。
 現代社会の特徴は、科学的と云う言葉を用いつつ、一方で何事かにこだわりつつ、専門的知識を弄して、言葉としての美辞麗句を並べ立て、物事を分析的に語りはするが、それを語る専門家にとって、核心には触れないと言うのが、現代流の配慮ある言い回しのようであり、そして例えば、「神仏とは何か」の命題に対し、最後まで触れずに回避すると言う語り口が正しいとされているようである。
 ゆえに、神仏は存在するのかしないのか、この核心には、結局触れることがタブーであり、もし触れれば、自分の語り部としての、語り部生命は終わりになるからである。
 大半の評論家の語りは、この程度の軽いものになった。

 この語り部達の多くの言葉には、決まって出てくるのは、「最近の日本人は」とか「そもそも日本人と言うのは」という、この種の語源は頻繁
(ひんぱん)に登場するが、では、その日本人に日本人を語る語り部達は、自分がそれに入っているのか、そうでないのか、実に不明確であり、特に、知識人や有識者といわれるこの種の専門家や、語りや物書きを職業とする連中は、その評論を聴くにつけ、己を棚に上げて、好き放題喋っていると言う感じがするのである。

 これではまさに、日本中が、“口舌の徒”に成り下がっていると言う気すらするのである。
 斯くして口舌の徒の影響下によって、現代人はますます好き放題に料理され、口舌に汚染されてしまった現象が日本中に蔓延
(まんえん)するのである。

 現代人にとって、精神や心は、あまり問題ではないようだ。斯
(か)くして蔑ろにされる。それが現代と言う世の中である。
 更に、現代の特色である金・物・色が大きな比重を占める世の中にあって、人はそれぞれに持って生まれた性
(さが)を殆ど顧みることなく、また自己の探求も怠ったまま、人生の選択権を物の置き換えかねに換算して、それだけの付加価値を追い求めている。

 これでは、神すら、わが心すら、死んでしまうのである。表皮のみに囚われようとしている。
 現代の、あまり物事を深く考えないという現象も、元はと言えば、“科学的”なる言葉の羅列に端を発したように思うのである。

 現代人は、生き甲斐などと言うものを追い求めつつも、一方でそれとは裏腹に、平穏で無事なる生き方にしがみつこうとしているのである。
 これまでの、少なくとも昭和30年以前の生き方は、人生の生き甲斐と言うのは、苦難・苦難の連続を乗り越え、波瀾万丈の波に翻弄
(ほんろう)されながら、それを乗り越えて克服したところに、ホンモノの生き甲斐があった。

 ところが、今日ではこうした生き方は流行らない。平穏無事なことが第一なのである。安全圏に居て保身に勤め、そこから一歩も出ない殻
(から)に閉じ籠(こも)った生き方なのである。
 この生き方の背景には、おそらく平和こそ幸福と考えることから始まっているのだろう。
 それは、波乱と戦いが不幸と思っているからである。不幸を回避するために、殻に閉じ籠った畸形なる生き方を選択してしまったのである。

 斯くして、表皮という厚い角質した殻はますます固くなり、伸縮性は無きに等しくなっているのである。
 そして、伸縮性が失われたことで、人生を決定し、人の世を味わい、かつ道を踏んで「かく生きた」という厳然とした、依
(よ)って以て死ぬ「何か」を失う結果に至らしめてしまうのである。伸縮性や柔軟性を取り戻すべきである。精神が枯渇してしまう前に……。


【著者作の自選1200句】

































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