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句集 自選1200句 16

一杯遣りたいな……。
 山頭火が、そう思ったのは、こういう夕陽だったのだろうか。
 人間は夕陽に託して、いろいろな想いが疾
(は)しり、過去の追憶が始まる。
 それは懐かしい想い出だろうか。あるいは若さに任せて、乱暴狼藉を働いた若気に至りだろうか。

 筆者は全共闘世代である。
 団塊の世代であるとともに、かの時代は、正義としての暴力が吹き荒れた時代であった。革命と言う暴力肯定の時代であった。
 それを今は、若気に至りと片付ける。それだけで許されることだろうか。
 そして、その時代のかつての青年は、キンキン声のテレビ通販のサプリメントや健康器具、あるいはカロリー制限食品、さらには振り込め詐欺にほだされる今はいい年をした、高齢期に達したジジ・ババである。

 当時、日本列島に吹き荒れた革命の嵐は成就しなかった。
 成就しないだけでなく、暴力こそ正義であった。誰もが、今は当時の若気に至りを頬っ被りしている。
 その作用に対する反作用が、今日の反動となって、次世代に憑衣してのではあるまいか。
 その最たる元凶が、人間の命が軽くなったことである。分けもなく殺される。
 この現象は今に始まったことでない。
 革命の嵐が吹き荒れた戦後世代に、その“はしり”はあった。

 昨今の不穏と事件多発は、「当時の作用に対する反作用でないのか……」と、そう思えなくもない……。
 戦争を知らない世代は、戦争を放棄することで、また武器を社会から遠ざけることで、人の命の尊厳が維持出来ると考えているのだろうか。

 もしそうなら、短見であろう。真相を見ていない。人間現象界を見ていない。
 そして、至る所に蔓延る、子供社会高でなく、大人社会も含めての「苛め問題」も然りである……。



●現代のはびこり語

 最近の奇妙な常套句のような言葉に、“こだわる”とか“こだわり”と言うのがある。誰もが安易に遣う。そして最近では、いい意味で遣われているようだ。
 しかし、“こだわる”とか“こだわり”は、近年の流行語でない。また、造語でもない。
 既に日本語の意味として古くから存在した言葉で、原形は拘泥である。
 “こだわる”とか“こだわり”は、小さい事に執着して、融通がきかないことを指す。つまり、これが拘泥
(こうでい)の意味であり、また“小事に、こだわること”の真意である。

 そして“こだわる”とか“こだわり”と言う語が、流行語より質
(たち)が悪いのは、流行語であるならば、流布されてある程度の飽和状態に達すれば、次ぎなる新しい流行語が現れることにより、消滅するのであるが、この、流行語でない語源は将来にわたっても消えることはないだろう。

 言語画策の、日本語の言霊を乱す煽動者が居る以上、長らく続くであろう。あるいは日本語として定着するかも知れない。
 そして定着の元凶には、資本主義以来の金・物・色に執着する物質主体の世の中の構図と自己中心的な、持てる者と持たざる者の格差に単を発しているものと思われる。
 これはまた、闘争が絶えないことを意味しているようだ。そのうえ心身が病む蔓延の兆しすらあるようである。

 “こだわる”とか“こだわり”と言う語は、言語画策者の統一への画策があるようだ。
 しかし、本当の統一とは“一色化”することではない。
 一色集中で、一色に塗りつぶすことを目論んでいるようだが、一色に塗りつぶすことで、統一化が図られ、それが一つ屋根の下の一家とはならない。
 特に世界を一つ屋根の下に置き、統一すると考える思想こそ、浅はかな考え方である。
 だが、何事にも“こだわる”とか“こだわり”と、それが一色化すると画策者は錯覚を抱いた。

 つまり、“統一”という言葉の目的には、明らかに一色化があり、一色に塗る潰すことを目的としている。
 例えば、赤一色などの一色に塗りつぶすことをい言う。
 しかし、本当の統一とは、赤とか白とかを一色にすることではない。
 この世界には黄もあれば青もあり緑もある。それぞれの色は皆それぞれの色であって、これを一点の中心に帰一するところに本当の統一の意味がある。色破壊をしたり、気紛れや思いつきで混ぜ合わせて混血色を作り出したり、ごちゃまぜにすることではないのである。それぞれに色同士が互いの色を尊重し合い、尊厳し合うのである。決して、相手の色を犯さないのである。
 風土や気候、その他の地域性から生まれた総ての特色を互いに犯さず、犯されずを厳守するのである。これが統一ある厳守である。礼儀である。

 それはあたかも、極を示す磁石が北を向くように、総ての色が自らの色を保ちながら、総ての一点を向くことである。
 この統一現象を「公平」と言い、「平等」と言うのである。
 人間の人為で、勝手に混ぜ合わせて人工的な色を作り出すことでない。善は善であるように、悪は悪であっていい。一色であってはならない。十把一絡げの一緒くたであってはならない。
 “こだわる”とか“こだわり”で、総ての色を混ぜ合わせ、雑多を作り出し、一色に染め上げてはならない。同一視してはならない。色にはそれぞれに特色があり特徴があり、種々あっていい。色とりどりでいい。
 これに、人工的なこだわりを掛けて、なぜ同一視しなければならないのか。

 一色に定めることは、それぞれの独立性を失うことである。尊厳までもを失うことである。何故、一色にこだわり必要があろう。
 また、一色に塗りつぶすことは、ぞれぞれの独立性を破壊することである。
 破壊のために、固執する“こだわる”とか“こだわり”が用いられ、これが脳裡
(のうり)を染め上げ、洗脳されてしまえば、言霊は狂い、宇宙の統一を乱し、一色化した滅亡へと導かれることになろう。
 そもそも満ち足りた意識と余裕がないから、こだわらねばならない。拘泥して、依怙地
(いこじ)にならねばならない。

 だが、現実はその真意を解さない。
 平気で満ち足りた喜びを破壊する言動や行為が激化の一途を辿っている。
 誘導の過程で“こう非ねばならない”という思い上がりと、自称先駆者の思い込みが、世論を操作しているようである。危険なことである。
 その危険は、ほぼ九分通り現実化されているようだ。
 そしてやがて、間違って悪い意味で遣われる“こだわる”とか“こだわり”が、正しい日本語の言葉として辞書なのに明記されるかも知れない。

 メディアなどを通して頻繁
(ひんぱん)に遣われるようになれば、それは下々底辺まで広く流布され、猫も杓子もと言う形で遣いはじめ、やがて確実に定着する。そして、意味を取り違えたまま、実用面で、学者筋ですらこの言葉を頻繁に使い、いい意味での言葉としてすり替える、日本語の言霊としての危機が顕われる。
 これが便利さとして蔓延
(はびこ)りはじめたようである。

 “こだわる”とか“こだわり”は、その響きからしても、何処となく卑
(いや)しさが漂っているが、不思議なのは、「極める」と言えば崇高なる響きを持つことである。なぜ崇高を選ばないのか。
 そして、こだわるといえば、なぜか卑しく響いて聴こえるのは何故だろう……。
 その“卑しさ”の中に、依怙地や頑迷や頑固、更には拘泥と言う、いじましいまでの重箱の隅を楊枝でほじくるような些細な干渉や穿鑿
(せんさく)までもが含まれているからであろう。

 あるいは、こだわって卑しいままの方がいいのだろうか。
 手軽で便利だから頻繁に遣われるのだろう。そして、これ以上にいい言葉が見つからない限り、“こだわる”とか“こだわり”とかの語源は、一度根付けば消えることはないだろう。これは画策語であるからだ。

 背後には言霊破壊の画策があるようだ。
 こう言うのを庶民層に流布させ頻繁
(ひんぱん)に使用させる、ある種の意図があるようだ。世の中で流行となったり、持て囃(はや)される媒体には背後に必ずその仕掛人が居る。時代の仕掛人によって画策されたことが的中すれば、世の中の流行になって、やがて定着していくようだ。
 したがって、こだわり、こだわり……となる。いい語源のように持て囃
される。
 少なくとも、二十年前、三十年前にな今日ほど“こだわり”という言葉は頻繁に登場しなかった。ところが近年に至って、頻繁に遣われている。

 流行語と言うのは、時間とともに消滅する運命にあるが、一旦、何らかの操作により正しい語となってしまえば、定着し、正確な日本語の表現として、その後も生き残って行くと考えられる。
 この調子で行けば、言霊の狂いはますます烈しくなり、やがて若者達から正確な表現力は失われると懸念される。

 つまり、正確な表現力が失われることは、日本語の意味すら、やがては失われてしまうと言うことである。
 更には、失われるのは正確な表現力だけではあるまい。
 人間の日常の中での喜怒哀楽は、感情表現からなっている。したがって、物事に対する正しい感情や正しい反応が失われて行くことは、それが言葉と感情や反応が一致しないと言うことになる。

 例えば、人も好意に感謝する心とか、自らの過ちに対して侘びるときの気持ちが言葉と一致しないことである。単なる社交辞令か、美辞麗句の羅列になることもある。
 また、尊敬の念すらも、あるいは大自然に対しての畏敬の念すらも崩壊してしまうだろう。そうなると、後に残るものは曖昧な表現でしかなくなり、この曖昧は、結局、自らの言葉の語尾に疑問符を付けるようなそう言うものになって行くだろう。

 現に、「これは何々ですか?」と訊いたことに対し、「そうですね」という言い方であり、なぜ「そうです!」とはっきりと断定出来ないか、この辺もあやふやであり、曖昧なのである。
 語尾の「ね」は要
(い)らぬ一語と言えるが、これは心情表現までもが曖昧になっていることを顕しているのである。

 更に不可解なのは若者に限らず、年寄りまでが自分の喋った言葉の語尾を濁して、疑問符を付けることである。こういう喋りは実に不可解である。この疑問符こそ、日本人の言霊が急速に乱れ、その乱れを年寄りまでもが日常会話の中でこうした奇怪な喋りを行い、言霊を乱した画策人とともに一緒になって煽っているようである。
 言及すれば、現代には既に感謝や敬意、更には感激や感動などもいい加減になっている時代であり、感動すらも、短時間で焦熱して行く時代なのである。

 昨今の若者の言葉を聴いていると、「わーッ、かわいい」とか「わーッ、すごい」の語が、物の数分も経たないうちに消滅してしまい、長らく継続しないように、感情表現も足早に過ぎ去っていっているのである。
 そして、その言葉の伝染は、もはや若者達だけでなく、それ相当の年齢層にも波及し、今や老人世代もこの手の“はびこり語”を遣っているようである。

 分けも無く、語尾を跳ね上げ、疑問符形体の言葉を羅列させて、単語よりも大きな語句や文を単位とする発声の抑揚を露にし、自分の喋った言葉が疑問文でもないのに疑問文形体で語調を狂わせてしまうのである。
 だからこそ、「○○です」とは言わず「これって、○○っての?ー」という言い方になる。実に訝
(おか)しな日本語である。誰もが日常会話の中で、疑問符形体の喋り方になった。

 一方で「わーッ、かわいい」とか「わーッ、すごい」の語が、老若男女を問わず日常生活の中で蔓延りだしたのかも知れない。

 日本語のもつ言霊には、言霊の中でも一種独特の意味が含まれている。
 言霊について簡単に説明すれば、「アイウエオカキクケコ……ン」の五十一音に、濁音と半濁音を加えたところに七十六音の真意がある。
 この七十六音から成立する言語こそ、日本語であり、つまり世界の民族の中で『言霊七十六音』を正確に発音で生きるのは、日本列島と言う国の土壌に育まれた日本民族だけなのである。

 五十音から重複音
(ちょうふく‐おん)を除いたものが『イロハ四十七音』であり、これに「ン」を加えたものが四十八音である。つまり、この四十八音が「カタカナ」であり、『型神名』と書く。
 カタカナとは、その一つ一つが「御神名」になっている。

 更には、世界の言語の中で日本語だけが、言語を使う脳の部位が異なるのである。
 日本語は左脳を使用するが、日本語以外は殆どが右脳である。
 左脳は大脳の左半分であり、この部位は言語的・分析的・逐次的情報処理を司るところとされている。
 一方、右脳は大脳の右半分を占め、言語的・分析的・逐次的情報処理を司るところとされている。

 宇宙には、光が満ち溢れていると言う。光が満ち満ちているから、言葉もここにあり、これを「光透波
(ことば)」という。この光透波を遣うのが日本語の言霊である。また、言霊には一種独特の言葉のもつ微妙な響きがある。
 つまり、七十六音は言霊から出来ていて、此処から発する言語に心の伝達と言うものが存在するのである。

 しかし、残念なことに、現代の“はびこり語”は、光透波を悉
(ことごと)く破壊して、根本を狂わせる「言わねばならず、言ってはならず」の悪しき元凶が隠れているようである。
 もし此処が破壊されれば、言葉を話し、言葉を理解する機能を司る大脳皮質の領域は何らかの損傷を受けて狂わされる。

 特に感性の面で、喜怒哀楽の感情が破壊されることになるかも知れない。
 感情が、徐々に浄化されて、超感情に至る機能が停止される懸念も出てくるようだ。
 現に、イントネーションの狂いも出てきており、狂ったままの日常会話が近年の老若男女を問わず広く流布されるようになった。
 こうした背景には、現代日本人が物質的に豊かになったためであろう。

 しかし、この「物質的豊かさ」が曲者
(くせもの)だった。この曲者は、日本人から義理人情を奪った。
 豊かさの背景には“科学的”という言葉に代表される合理主義があり、合理主義の覆われた社会にある種の悲劇が生じた。それが義理人情の喪失である。



●策略の時代の到来

 そもそも人間には情念があり、それが喜怒哀楽に由来する。
 人間が人間でありつづける以上、単に物質的な合理主義で覆われることは、当然その側面に悲劇が生じるのである。悲劇は義理人情を捨てたときから始まる。義理人情を捨て去る限り、その悲劇は続くのである。

 悲劇は執着や嫉妬、欲望や野心だけが齎すものでない。理想や夢も悲劇の元凶を構成している。人間に愛がある限り、愛情と言う情がある限り、悲劇は続く。したがって、豊かになり便利になり快適になれば益々、悲劇は継続される。
 義理人情を捨て去り、ただ単に物的にこだわれば、そこには悲劇が生まれるのである。

 では、悲劇を探求すればその根本は何か。
 基底核というものが喪失したことにより発生する。
 つまり、往時の日本人には喜怒哀楽の中に義理人情と言う任侠の心を持っていた。
 本来の日本人には任侠の心が横たわっていたのである。任侠心が潜在意識の中に普段は沈殿していて、有事に際してはこれが浮上し、義侠に燃えた。本来の日本人のアイデンティティーである。

 これこそが日本人の根幹をなしていた。
 押し並べて言えば、日本人なら誰もの心の中に、細胞の隅々までに、この基底核があり、事あればそれが勇気となり得た。この勇気は、決して蛮勇などではなかった。弱きをたすけ強きをくじく気性である。

 ところが、近年になってこれが急速に失われ、崩壊の憂き目を見た。
 基底核には任侠があったのである。
 しかし、一般に使われ、思い込みとして信じられている任侠は、近年では暴力団のそれを指すようである。

 だが、真意は違う。根本は暴力でない。
 他人の為に喜んで犠牲の道を行く事であり、他人の悲しみを我が悲しみと受け止める事であり、弱きを助けて強きを挫く事である。つまり任侠とは、暴力団組織の事ではなく、「生き方」 の問題である。

 また、任侠とは、入れ墨の兄ちゃんが凄む事ではない。
 むしろこれらの青年が、義の為に命を賭ける事である。
 かつての日本にはそういうものが存在した。武士道然りである。そして、陽明学によって培われた吉田松陰の実践学も、根本には日本人のために立ち上がった任侠が基底核をなしていたのではなかったか。

 しかし残念なことに、今の世では危険を冒して、悪に立ち向かう人間は勇者でなくなり、傍迷惑
(はた‐めいわく)な蛮勇の持ち主として否定されるようである。
 昨今は、二言目には戦略、戦略と喚いて、策略の時代なのである。
 現代人は勇気をもって生きるのではなく、知識を縦横に駆使して策略に生きる時代である。
 悪と戦うのではなく、損をしないように理論と知識で武装して防衛策を講じ、悪から巧妙に身を護る策略を立てることを第一とするようである。これが身を護る第一義となった。
 こうなると、当然、勇気は摩滅する。当時に毅然とした態度も失われ、人間の尊厳も誇りも失われる。

 昨今では「勇気」と云う言葉は完全に死語になっているようである。
 誇りも、毅然とした態度も見受けられない。それがまた貞操感を失わしめ 、愛国と云う言葉までもを奪ってしまった。
 斯
(か)くして現代日本人は、ますます心的機能が錆び付く頭に改造されてしまったのである。
 これを精神的ロボトミーとでも言おうか。


【著者作の自選1200句】























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