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句集 自選1200句 17

芽吹いて蕾となり、咲いて花は本来の姿を顕す。そこに人工的な人為はない。自然のままである。あるがままである。それ以上に、何を作ろう。



●後ろ姿

 昨今の流行の一つに、年齢より若く見える行為がある。
 また人から若く見られるように、涙ぐましい無駄に近い努力を重ねている。
 とにかく“年齢より若く見られる”ことに、多くの年配者が躍起になっているようである。
 歳より、十歳でも五歳でも若く見られることに心血を注ぎ、表皮の改造に凄まじいエネルギーを注いでいるようである。

 しかし、よく考えれば“年齢より肉体の表皮が若く見える”ということが、それほど価値のあることであろうか。
 また、人から「若い、若い」と言われても、それは見掛け上の表皮のことで、中身まで柔軟な若さが保たれている訳でない。思考も柔軟ではない。こだわる、こだわるで拘泥で頑迷でもある。
 ところが、現代日本人の高齢者の多くは、この「若い、若い」の言葉に躍らされて、若作りに奔走する。

 若返ったように映る実体は、勿論、素顔ではない。
 眼に見えないファンデーションやリップクリームなどのこの種の成分を化粧にしている。また併せて、宝石貴金属類の巧妙に出来た宝石類他ペンダントを着け、俄リッチに成り済ましている。

 この背後には、この種の画策をする化粧品会社や薬品会社、食品会社や健康機器会社、更には量販家電販売やイミテーションの宝石貴金属販売、あるいは衣料品会社の、高齢化社会と消費時代に便乗する画策があることは明白である。こういう販売を“すれすれ”と言うらしい。
 ターゲットは、小金持ちの年金受給の高齢者である。みな“すれすれ”で瞞
(だま)され、ガラクタを買う。

 そして、最たるものが医薬品に類似したサプリメント
(成分表のみで医学的に効果不明)であり、昨今流行の“おせったい”や“おもてなし”然(しか)りであろう。狙うのは金銭である。中層階級の金銭のみである。この階級は、古来より搾取の対象となった。

 この金銭に誰もが酔う。
 酔って狙われるし、狙い所である。少し頭が良ければ分ることだ。
 分布を視るがいい。
 横広の大量に分布するから、仕掛人の狙い所である。だから“カモ”という。
 “カモ”はネギを背負っているから、まさに都合がいい。この都合に合わせて、資本主義と民主主義が迎合した。何ともいい組合せである。かつてはターゲットを中産階層といい、今では自らを“中の上”と自負する中間階層である。

 肩書きとしては、極めて少ない確率だが近い将来、サラリーマン重役になれるか否かの瀬戸際の、部・課長職であろうか。
 自分の部下には東大出が居るなどと自慢するその種の職を司る種属である。また、その夫人である。更には“おねだり”上手の、その愛人である。そして自慢者の退職金である。
 考えればこの所属は、此処が経済防備のガードが甘く、実に狙い所である。懸かれば大きい。
 この階層は、流行やファッションに躍り易く、浮動で、権威の言葉に弱い。それゆえ照準が此処に合わせて金が舞う。
 万事は金の世の中であり、此処に依存症の元凶がある。

 これらの依存症に狂ってはなるまい。ご都合主義の実体を見極めるべきである。
 また声高で、早口で、矢継ぎ早で喧伝するこの種のテレビコマーシャルは、“大道香具師”のあの遣り方と酷似する。
 買わされる方は、香具師の話術にまんまと載せられていると言えよう、

 何事も“補助”に頼っては自立していることにならない。自力で動いている人間とは言えない。
 あたかも、子供が自転車の乗ることを覚え始めの自転車の補助輪のような物に頼り、それでいていつまでも補助輪がとれない、いい年をした大人と言うことになる。大人が、補助輪に頼ってしか自転車に乗れないと言うのは、何とも情けないことである。そういう物から卒業すべきである。

 資本主義は、上流と最下位階級を除く、中間階級をターゲットに、大量に物品消費を促す政治システムであることを忘れてはなるまい。
 この階層が喧伝や言葉に操られる程度の幼稚であれば幼稚であるほど、仕掛人は大量の利益が捻り出せるのである。そのために画策者は、流行やファッション演出に脳漿
(のうしょう)を搾り出し、“手を替え品を替え”のあの手この手を考え出すのである。

 その背景下にあって、多くの人民が、平等に、公平に豊かになれないのは、画策する側が経済構造に奇妙な策略を持ち出して、巧妙な仕掛けを施し、かつ知的弱者を食い物にする喧伝媒体に種々の画策製品を用いて、独特の言い回しで我田引水を計るからである。
 そして「若い」という現象も、まんまと画策者の思惑と流行に便乗する現代流の手法に載せられているからである。あたかも手品が見破れず、その手の乗るが如し。
 それが年齢否定の昨今の社会現象であるかも知れない。

 人間が生きた証(あかし)の根拠となる年齢……。
 この年齢について、よく考えてみたい。
 まず、年齢だが「年相応の若々しさ」と言うのがあってもいいと思うのである。年齢は歳に相応しくなければならない。
 十代には十代の若々しさがある。二十代には二十代の、三十代には三十代の、そして四十代には四十代の若々しさがあろう。それが年齢と人格の一致するところである。

 ところが、五十代になって三十代のように若く見えるというのは、どこか変である。
 “若返った”と見えるのは年輪に刻まれた経験や経歴が逆戻りし、それだけ未熟となり、これこそが異常であり、奇妙なことだ。故意にそれを企めば、なおさらである。

 それに見せ掛けと、見せ掛けようとする下心も窺える。
 したがって心までもが反映されている。その反映に卑しさが漂っている。癒しは差誤摩化しと同義である。
 その卑しさは人為であるだけに、更に見苦しく映る。見せ掛けである。見せ掛けに固執するから、また卑しくなる。卑しさの根元には、こだわりがある。それがいっそう見苦しくする。これこそ妄執と拘泥であろう。
 斯(か)くして、年相応の若々しさが崩壊する。異常さが顕われる。

 それが自然に、そう見えるのならまだしも、人工的な造作によって不自然に、無理に作られたのならなお異常である。奇怪である。
 作為によってでは画策があり、異常と言う他ない。
 この異常を“意外性”として喜んではいられないことである。
 年相応に見えず、それより弱年に見える。未熟に見える。
 果たしてこれが意外性だろうか。
 異常性と言うべきである。

緋牡丹は自然であるから美しい。そして不自然な美しさを引き摺っていない。
 ただ自然に存在するだけである。そこには人為も画策もない。
 美しいものには潤いがある。瑞々しさに枯渇がない。
 しかし、それは永遠の潤いではない。いつか枯れる。終わりが来れば枯れて朽ち果てる。朽ち果てるから、また美しい。永遠でないから美しい。
 現象界は一切が変化の中にあり、変化はやがて終焉に向かう。終焉することこそ、自然なのである。

 五十代に五十代の、この歳での若々しさがあっていいと思うのである。
 つまり、若く見えるということではなく、五十代なりに健康体を維持し、そして元気であると言うことであろう。
 若く見えるが病弱で、白痴的で、その行動も軟弱と言うのであってはならない。年相応の毅然
(きぜん)とした、矍鑠(かくしゃく)とした姿があってもいいと思うのである。生きた証の年輪に誇りをもってもいいと思うのである。この年輪こそ、若者にはない誇るべき点である。

 世に、見せ掛けで“そう見せるペテン”がある。そして、ペテンに引っ掛かって驚く。驚くだけでなく、騙される。
 引っ掛ける方よりも、ペテンに引っ掛かって驚く方が間抜けである。眼力ゼロであるからだ。眼識が欠けているからだ。

 世に見せ掛けで騙す手法がある。
 その手法にまんまと引っ掛かり、騙されたことに気付かない。これを“間抜け”と言わず、何と云おう。
 ペテンには、トリックと誤摩化しがあることに気付かねばなるまい。表だけがあるのでなく、裏もあり、裏の裏もある。それを見抜くのが眼識である。

 見掛けは若く見えても、病弱の五十代では何もなるまい。完全なる健康でなくても、健康そうに見えることが大事である。
 病院通いでない五十代の方が好ましく、またサプリメントの力も借りず、自力で健康と元気を維持出来なければならない。他力依存の健康や補助食品の力を借り手での元気では何もなるまい。

 総て自力で賄(まかな)える健康と元気でなければならない。
 それに老いても、健康を元気を維持するには体力より、体質の優秀性が物を言うようだ。要は病気にならない予防的な体力ではなく、病気に罹
(かか)っても直ぐに治る体質なのである。
 体質維持の有無は「積少為大(せきしょう‐いだい)」であり、背景としての裏付けは、創造性と安定性であろう。
 不安定要素の中で、近未来の襲ってくるであろう「老醜」は、揺れ動く心では克服できないものである。

 人は生まれた以上、必ず老・病・死の順を辿り、最後は必ず死ぬ。
 特に、生の裏には死が張り付き、この表裏一体の関係は、老と病を挟んで、人間を遂には死に向かわせるものである。そして老は病と同居している。
 老いるから病む。病むから死ぬ。
 人生の“通り相場”は、そうなっている。
 したがって老いて病んで死ぬ。人間の変化の中にある運命である。生まれた以上、定められた避けられない四期
(生・老・病・死)である。
 必然的に訪れるものであるから宿命でもある。絶対に免れない。人間はこれに遵うしかない。

 老いている。病んでいる……。
 それは年齢相応の人生の四期の過程を辿っているのである。
 正常と言えよう。
 昨今は老齢という年齢も、かつてより苦役の労働や家事も少なくなり、それだけに肉体的負担は軽減した。そして日本人は、大半が長寿を全うしているようである。世界有数の長寿国でもある。
 しかし、長寿の目的が明快でない。
 長生きしたとしても、単に長寿が動物的であったりする。動物的に生き存
(ながら)えている隠れた実体もある。自然に、人間として生きているのではなく、動物的に生命維持装置の力を借りて、人為的に生かされているだけである。

 ところが、美しく枯れる生き方もある。天命を知る生き方もある。
 死ぬ時期が来たら死ぬ生き方もある。したがって、年相応に若々しい。老いても矍鑠
(かくしゃく)とし、またその態度は毅然(きぜん)としている。怯(ひる)むこともない。だが遠慮しているふうでもない。

 誰にも遠慮せず、正しきは言うべきを言う。態度で示す。口先だけではない。
 老齢期に達しながら、背筋はしゃんと伸ばして矍鑠とし、毅然とした態度をとる。尊敬されるべき老い方である。したがって年相応に若く見える。それは背筋力が鍛えられているからである。背筋力を若い時代から鍛錬した人は、まず姿勢がいい。猫背でない。胸を張っている。そういう枯れ方こそ、理想的な老い方ではあるまいか。

 それは作られた若々しさでなく、自然の若々しさである。怯まないから、なおさら若々しく映る。背筋力が腰骨の上に、脊柱を垂直に立たせるからである。この姿こそ、矍鑠の原点である。

 現代は、自然の若々しさを保っている人が非常に少なくなった。
 誤摩化した若々しさであり、サプリメントなどに頼った若々しさであり、見掛け上の若々しさである。自然美に欠ける。
 況(ま)して作為で誤摩化そうとすれば、なおさらである。こだわれば、なおさらである。
 こだわっても時代は逆戻りしないからである。

 過ぎたものは戻らない。去ったものは帰らない。
 「覆水(ふくすい)盆に返らず」である。
 遠い過去は、過ぎ去るままでいい。追ってはなるまい。偽って逆戻りさせる必要はない。自然の儘でいい。

 例えば、五十代なら五十代の若々しさがあっていいと思うのである。この年齢の女性を検
(み)た場合、特にそう感じるのである。
 
 ところが、昨今の作られた若々しさは、五十代が小娘のように見える若々しさを需
(もと)めようとしていることである。不自然に、歳に相応しくない畸形的な若さを求めようとしていることである。
 これは自然の若々しさでなく、作られた見掛け上のことであり、表皮の繕
(つくろ)いに躍起になった人工美でしかない。ホンモノでないのである。偽物である。
 消費を煽る近世の風潮である。その風潮に煽られ、願望者がほだされて躍っているに過ぎない。

 思うに、五十代には五十代の若々しさを保っているのが好ましいのであるが、どうしたことか、小娘的な若々しさを求めたところに不自然さがある。更にもっと不自然なのは、簡単にテレビコマーシャルに騙され、まんまと依存症にさせられていることである。
 したがって、六十代には六十代の若々しさがあり、七十代には七十代の若々しさがあっても良いのである。これが年齢以上に、見掛け上の表皮のみが若く見えるというのは異常である。年齢相応以上の若返り願望は異常である。

 現代は隠れていた陰性の因子が表面化する時代である。底深く隠れていたものが浮上し、表面化して、赤裸々に現れる時代である。裡側
(うらがわ)が暴露される。
 例えば、心の裡側の隠された願望などがである。
 隠された思い、秘めた思いはそのまま現れ、堂々と表面化されてしまう。それが表皮に顕われる。
 こうした表皮上の、年齢より若く見えるということは、それほど価値のある若さでないと思うのである。それは、願望が一時的に表皮に現れたに過ぎない。やがて過ぎ去る。

 しかし、それを一時的に留め置く技術も発達した。そして、若返るように、肉の眼に映すことに成功した。見た目の錯覚なども導入した技術である。
 だがそれは投影された影に過ぎない。実体ではない。幻覚に過ぎない。したがってホンモノでない。
 付け焼き刃であり、時間が経てば崩れる。その後、消滅する。消滅を前提に現れたものだ。

 要は「年相応の若々しさ」であり、また心の若々しさである。固執せず、拘泥しない若々しさである。
 だが人工的なものには、これがない。
 こだわり、こだわる、作られた若々しさは、下品になり易く、卑しい人工美であろう。

 五十代には五十代の、六十代には六十代の、七十代には七十代の年相応の賢さと老練さと心の張りと言うものがあっても良いと思うのである。張り子の虎のような、張りボテでは何もならない。中身が必要である。
 表皮だけを繕った貼付け細工のような人工美は、それが賢さと老練さと心の張りと均衡がとれているかが問題なのである。

 昨今は、女性に限らず、男でも鏡を見る機会が多い。一日のうちに、男でも数回は鏡を見る筈である。女性ならもっとであろう。
 誰もが鏡を見る時代である。何処にでも鏡が据えつけられているからだ。それゆえ鏡を視る機会が多い。誰もが始終鏡を見ている。そして鏡を見て、自分を知ったつもりでいる人も少なくないであろう。

 ところが、果たして自分を知っているのか。
 人間の眼は前についている故、貌(かお)の前面や姿の前面は見ているだろう。前だけ見て、しかし後ろ、特に自分の後ろ姿を自分で想像出来ない人は多いのではないか。
 人が本当に見なければならないのは、鏡に映った前面より、自分の後ろ姿ではあるまいか。


【著者作の自選1200句】




























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