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句集 自選1200句 19

蔓延する平和の中にも、いつ特異点に達するか分らない不穏の因子が隠されている。その因子が陰性の場合、底に沈んで浮上しないが、一度(ひとたび)特異点に達して陽性に変じると、忽(たちま)ち不穏の翳(かげ)りを露にする。



●羨望という陰性因子

 『陽明学』を教える「伝習録」【註】王陽明の語録で、門人徐愛らの篇による。この語録には、陽明学の大網が記されている)に、弟子と師との問答に次のような事が記されている。
 門人の澄が問う。
 「先生、例えば色を好み、利を好み、名を好むなどの心はまさに私欲であることは明白ですが、一方、雑念雑想の類
(たぐい)も私欲に入るのでしょうか。どうしても、私にはこれが私欲とは思えません」

 これに答えて、王陽明曰
(いわ)く、「私欲を突き詰めれば、その根っこには好色、好利、好名がある。そこから起こる心は、自分で探れば、雑念雑想と同じものではないか。
 譬
(たと)え君がその心中に、強盗を働こうと考えないと明白に断言出来るのは、もともと強盗になろうと考える心が根底にないからだ。
 したがって君が、いま財貨、色欲、名利などの心について、強盗にならない心と同じように、一切合切を綺麗に駆逐出来れば、あるのは本心だけであるから、その根底に雑念雑想など、ある筈がない。
 よく人は、善人然として悪事を働いておきながら“魔が差した”などといい訳をするが、魔が存在するのは、不断から心の本心に魔が差す根拠があるからである。心の中に魔が存在する根っこがある。雑念雑想が湧く因子の種火がある。
 だが、一切が綺麗に滅尽
(めつじん)されていたら、“魔が差した”などと心は起こる訳がない。この場合、本心だけだから、心のどんな雑念雑想が湧き起こる根拠があると言うのか。
 こういう一切そう言う雑念雑想が湧き起こることのない境地を『寂然として動かぬ』
(『易経』繋辞上伝)というが、また『動きの発しない中』(『中庸』)というが、これ『廓然(からり)として大いなる公』(程明道『定性書』)の境地であり、斯(か)くしてその境地に自ずから、『総てに感応して天下の故(こと)に通じ』かつ、自ずから『発した動きは節に中(あた)り』とし、また自ずから『あらゆるものがあるが儘に対応して行く』という結果になるものだ」と回答している。

 王陽明の言わんとするところは、心の本心であり、本性の姿を問うている。
 心の姿が本性通りだとすると、雑念雑想は入り込む余地がないどころか、最初からそういうものは存在しないと言っているのである。存在するから雑念雑想が湧き、それが因子の発火点となって、心を鍛えていない者は犯罪に手を染めながら、発覚すれば“魔が差した”といい訳すると言うのである。そして、このいい訳が曲者
(くせもの)としている。

 しかし、昨今の民主主義が猛威を揮う時代、魔が差した曲者を誤って、“若気に至り”などといって情状酌量を願うが、本来はそうしたヤワな判断すら、心を弱める元凶であるとする。
 人は「たった一回のこと」だからと一蹴する。
 しかしこの一蹴が、また曲者である。そういう因子が入り込む事自体が問題であり、これを簡単に許すことから再発どころか、その後も多発しているのである。

 また“魔が差す”という事象と似たものに、“心にも無いことを言う”というのがある。
 心にも無いことを言う……。
 普段は絶対に口にしないことを言う。つい、うっかり口が滑って……といういい訳の類である。
 こういう言動は、普段は決して口にしないのであるが、何かの弾みに多弁となり、つい喋り過ぎてしまうことがある。したがって、心にも無いことを言う……。
 しかし、よく考えれば果たしてそうだろうか。

 心に有るから言ったのではないか。
 口に出来るのであるから、決して心の根底にその発言を発する因子が残っていないとは言えない。因子があるから、普段から心底に仕舞われていて、これが陽性に転じた時に口にするのである。これは決して心に無いことではない。心に有るから出るのである。微細な因子が根底に有るのである。その「有る」ものが、ある日突然、浮上して、口から出るのである。

 最初から心に無ければ、出しようがない。微塵も無いからである。ところが有るから出る。
 第一、無ければ心に無いことを言える訳がないのである。つい、うっかりは、有るから“うっかり”になるのであって、無ければ、うっかりすら起こらないのである。
 そして一旦出たものは、「覆水盆に戻らず」の譬えから、もう元に戻りようがない。戻すことも出来ない。

 更に“魔が差す”という行為を追求すると、「羨望」というものも魔が根底に潜む因子である。
 例えば、浮気とか、本気とか、駆け落ちの類である。そしてこれらの動機は、羨望と言うものが根底に巣食っていることが分る。
 また、それを企てた本人も、決して出来心とは言えないものが普段から心の底に巣食っているからである。この因子が陰性の場合、潜伏するのであって、陽性に変化すれば、やがて正体を現して姿を見せるのである。したがって、出来心などでは絶対にない。最初から、確実に出来上がったものだった。
 これを、つい「出来心」などとは言えない。有ったから、そうなった。

 ここで例えば、浮気・本気・駆け落ちの類を挙げてみよう。それも既婚者が浮気から転じて、本気になり、本気がやがて駆け落ちになるケースである。
 人間には心底に普段から夢見る思いとともに、一方でどろどろとした負の因子を抱え込んでいる。これが陰性の場合、表面化しないが、陽性に変ずると忽ち闇の中から正体を現すことになる。

 ある、幸せな家庭夫人として何不自由ない日々を送っている主婦が、ある日突然、知りあった男と駆け落ちするなどのケースである。この幸せな家庭夫人は、決して魔が差したなどではあるまい。その因子は、充分に前からあった筈である。勤勉な亭主に恵まれ、子供にも恵まれて、それでいてある日突然、偶然に知りあった男と駆け落ちする。

 よく考えれば、そもそも「偶然」という巡り合わせが曖昧である。
 この世の中では、決して偶然など起こらない。偶然と思うことでも、それが偶然ではなく、最初から必然であり、必然が陰性であるから陰を潜めただけであって、陽性に変じればいつでも浮上する準備は整っているのである。現象界の原理原則である。

 それは特異点と言う現象が物語る通り、陰性が陽性に変じただけであって、偶然と言う見せ掛け上の隠れたものが、陽性となって現れ、これは必然現象を起こしたに過ぎないのである。その運命の仕組みを、人間が知らないだけなのである。運命の仕組みは不可視世界のものであるから、人間の観測力ではそれを測定することが出来ないだけであり、世の中で起こっていることには、総て意味があるのである。この意味こそ、実は必然になり得る因子なのである。

 さて、駆け落ちの道行きを想像してみよう。
 昔だったら手に手を取って、夜汽車に二人寄り添って揺られているところであろうか。
 あるいは、女は男に肩に頭を寄せて、夜のハイウェーを爆走しているところであろうか。そして、車のヘッドライトに闇が裂かれていって、光の届いた先にドライブインなどがあり、そこでコーヒーか紅茶を飲みながらひと時の休憩を取っていることであろうか。

 そして男女は、自分たちが追われているというスリルを味わいながら、夫人は自分の亭主が追い掛けて来ているのではないかと気を揉みつつ、テーブルを挟んで二人は手と手は握り合っているが、何か心が落ち着かない。
 それは一方で夢と期待が充満しつつも、片方でどろどろとした灼け爛れた鉄の塊のようなものがあって、どうにもいつ着かないのである。また、それがひと時のアバンチュールであり、これまで心の底に仕舞い込んでいた未来への冒険がスリルとなって浮上したのであった。

 また、この逃走劇に対して、周囲の者は幸せな家庭夫人に対して、「あの人は魔が差した、魔が……」というようなことを言っている。
 そして逃げられた亭主も、残されたわが子とともに、「一時的な迷いで、魔が差したんだよ、魔が……」と言われて慰められるのである。

 だが、魔が差す事自体が訝
(おか)しい。心の底に潜む魔物が夫人を唆(そそのか)したとでも言うのであろうか。
 恐らく周囲の者も、口にする言葉は冗談半分であり、また夫人の女友達などは、普段から抱いている、誰もが心の底に隠している羨望の念が禁じ得ないのではあるまいか。自分もチャンスや隙があれば、それに肖
(あやか)りたいと思っているのではあるまいか。
 勇敢にも若い男と駆け落ちした夫人の行動に、陰で拍手喝采を送っているのではあるまいか。

 世は不倫時代である。不義密通など遠い昔の話である。今は堂々と出来る時代である。
 そして溜め息が出るほど、夫人の駆け落ちについてその勇敢な行動と同時に、心密かに羨望を抱いているのではあるまいか。そういう願望が陰性因子となって心の底に潜んで居る以上、この羨望は誰でも、いつ浮上しても暴走しても決して訝しくないのである。

 また、これが亭主の場合もあろう。何も不倫願望を持つ女房だけでない。
 既婚者で子供を設けながらも、亭主にも複数の女の性を自由に貪りたいと言うハーレム願望ある。そして竃を二つ以上もっている者に、羨望を感じている亭主族も少なくない。また、その機会を虎視眈々と窺っている既婚者も居る。
 この種の亭主には、一つの運命の陰陽に操られる法則があるようだ。

 例えば、運命の陰陽に操られるハーレム願望の亭主がいたとしよう。
 その亭主はそれなりの上場企業に勤め、それなりの肩書きを持ち、部下も数十人居て中に東大出も混じっていて、それなりの地位もあって、そこそこ成功した先ず先ず人生を歩き、夫人との間に二児の子供を設け、その夫人も、とびっきり美人でないが、まあ何とか十人並みで男好きして、幸せな家庭があったとする。
 しかし、亭主がある日、地方の支社に出張した。その夜、亭主は支社の連中を伴って、何処か面白いところはないかと物色をして、飲み屋街をハシゴして廻る。勿論、物色の目的は女漁りである。

 そして深夜のスナックで、それなりの男好きがする中年女が、寂しく独り酒を飲んでいたとする。
 亭主はこれまでハシゴして廻ったのだから、少しばかり呑んだ勢いもある。虎視眈々に、その隙を窺っている。付け入る隙である。
 女とカウンターの横の席に着き、意図的な思惑で、ふと女の眼があった。これを絶好のチャンスと思う。付け入る隙と思う。
 そして呑んだ勢いで声を掛け、女が応じた。話をしているうちに意気投合し、その夜のうちにラブ・ホテルへとしけこむ。
 世間にはゴマンとある話だが、亭主は狙った獲物を見事に仕留めた。それだけに有頂天に舞い上がる。

 常々、願望として抱いていた、女房以外とセックス出来る“妾
(めかけ)暮らし”が出来るからである。
 複数の女を自由に出来る願望が、陰性因子として根底に隠れていたからである。それが浮上して陽性反応を示しただけである。

 この陽性反応を、まんまと引っ掛けたことに成功した亭主は、どういう見解をもつだろうか。
 恐らく自分では「何と運が良いのだろう。今年はツイているぞ」と思い込むだろう。そして「俺も今から晴れて、男として愛人を持ち二竃
(ふたかまど)生活者の仲間入りか」と、意気揚々で……。それが、また鼻高々でもある。
 その後、愛人を連れて海外旅行などにも出掛ける。セックスに惚
(ほう)ける。夫人には、海外出張などの名目をつけて……。

 だが、海外旅行先が儒教圏の国だったら、そこの国民からもバカにされるだろう。日本人のように、簡単には水に流さないからである。厳しく指弾され、後々まで悪しき語り種にされてしまう。
 しかし当の本人は、自分が愚行を働いたと言うことも気付かず、非も知らず、いつまでも善人然としているから間抜けである。
 この種属は、自分が「中の上」と思い上がっている中間階級に多いようだ。
 これを悲劇と言わず、不運と言わず何と云おう……。

 だが、そこからがお決まりのコースで、これまでの幸せな家庭に亀裂が入り始める。これはツキなどではなかったのである。幸運ではなく、不幸の始まりだったのである。
 亭主の外泊は日増しに多くなり、何日間も、女の安マンションにしけこんで、遂には家に戻らなくなる。夫婦の不和が始まる。家庭争議が持ち上がる。
 こうして、やがて離婚騒動が持ち上がる。双方の親だけではなく、周囲や親戚まで巻き込んで見苦しい離婚訴訟が始まったのである。そして裁判と言う見苦しい泥仕合が始まるのである。

 この運命の流れの中を覗くと、陰性因子が陽性に変化したということではない。そもそも根底には“因子”が潜んでいたのである。駆逐出来ないものが心底にこびりついていた。離婚騒動の悲劇は、ここから始まっている。
 言わば心底にまで、因子とともに、離婚裁判と言う見苦しい泥仕合の結末まで潜んでいたことになる。

 これまで述べた“浮気・本気・駆け落ち”の男女現象が、単に魔が差しただけでは済まされない、普段から潜伏する陰性因子の存在が挙げられるのである。
 王陽明は言う。
 「好色、好利、好名は、突き詰めれば、心の根っこにそうしたものが存在していて、綺麗さっぱり滅尽されていないからだ」と。
 したがって、「魔が差したとは言い訳に過ぎない」と。
 つまり、魔が差すような根っこそのものが元凶であったと指摘される。その元凶を駆逐せよと説く。
 『陽明学』とは、「心即理」なのである。心を透明なる鏡にする学問であり、心の本性を鍛錬する学問である。

 そして『易経』の教えるところは、運命の関連性である。その関連性も、断片的に存在するのでなく、運命と言うダイナミックな動きをする流動体が、総て有機的な結合をもって肉の眼に確認出来ない部分までもを含めて有機的な関連性を持っているということを教えている。
 つまり、一つの誘引因子は有機的結合をなしているということなのである。したがって、心底にある因子は陰性の場合、沈んでいるが、これが陽性に変ずると忽ち浮上して新たな現象を起こすことである。
 ゆえに王陽明は、普段から心を鍛錬し、微塵と雖
(いえど)もこうした塵芥(ちりあくた)を駆逐し、掃き出してしまわねばならないと教える。『陽明学』の言わんとするところは、人間の「心の学問」を説くのである。

 人間の心は、鍛えなければ同じことを何度も繰り返す所以
(ゆえん)である。一度あることは二度あり、二度あること三度あるからである。そして追言すれば、「たった一回」が問題なのである。
 その「たった一回」が、人生を一変させるからである。人生の喜怒哀楽を急変させてしまうからである。

 運命の変化は徐々に起こったのではない。ある日突然に起こるのである。あたかもフラスコの沸騰するお湯の液体が、沸点を起点として溢れ出し、遂に特異点
(シンギュラー・ポイント)に変化して気体状態となり破裂するように……。
 運・不運とはそういうものである。異変とは、物理現象だけでなく人間の運命においても起こるのである。

 心が綺麗さっぱり滅尽されていないと、いつでも人間は魔物に魅入られると言うことである。滅尽できているのと、そうでないのとは雲泥の差である。
 悪事の因子すら綺麗に片付いていないと、人は陰性因子が浮上するとそれがやがて陽性反応を起こすのである。
 現に世の中には、「たった一回」の、その一回の悪事すら働かない者が居るではないか。
 本来ならば、心の本性を問題にすべきで、そういう悪しき因子が巣食う温床自体を問題にすべきであろう。

 また、仮に『陽明学』を熟知していなくとも、儒学の根底を成す礼制の、一般に言われる道徳範囲の「礼」を心得ているだけでも、陽性因子は簡単に駆逐することが出来よう。
 つまり、礼儀である。
 礼儀は、そもしも人間関係における知性と感性から構築されているものであるから、自分や相手の立場がよく分る。まず相手に不快を与えないと言うのが根本であり、また礼儀は自発的な行動律であるから、教養としての見識と、鋭敏かつ柔軟な直覚で支えられたものである。

 更に、人間を突き詰めると、時と場合の応じて俊敏な状況判断を要求されることがあり、臨機に変化させ、即応する態度と行いが要求されるものである。これは単なるマナーでなく、禍
(わざわい)を避けるという行動律でもある。
 つまり、人の心を突き詰めれば、互いに犯さず犯されずという立場をとろうとするため、これ以上相手の心の中に土足で踏み込んではならない分岐点の「加減」が分る。だが、この加減の読みが未熟だと、好色の禁を犯したり、あるいは好利、好名の禁を犯して人から蔑まれることになる。そしてこの蔑まれる場合、もっともわが身に堪
(こた)える蔑みは、それまで何の落度も、如何わしさもない身内からである。
 特に伴侶から蔑まれれば辛い。身に堪える。

 仮に、信頼を託された伴侶から「最低!……」などという言葉を吐かれたらどうだろうか。
 これを完全に無視して鈍感で頬っ被りし、平気で聞き流すことが出来るだろうか。中にはそう言う男女も居ようが……。
 これにより両者の信頼関係どころか、人格までもが一挙に崩壊してしまうのである。

 そのためにも、普段から心を学ぶ「心学」を礼儀として心得ておけば、人としての在
(あ)り方が自ずと身に付くものなのである。
 そして、元伴侶への礼儀としては、話し合い・離婚・その後の本気の手順と、けじめと筋目を通して、訴訟離婚に至る最悪のコースを避け、以降の将来のことも充分に保障し、話し合いで協議離婚へともっていき、一切の禍根
(かこん)を残さず、人としての道を踏み外すことなく、心からの「礼」を全うすべきだろう。

 換言すれば「仁」であり、慈しみや思い遣りであり、「任侠」の意味合いを含む。
 また「礼」に基づく自己制御と他者に対しての思い遣りである。忠と恕の両方をもって天道の発言により、相互的な倫理によって筋目を正すことである。
 この「礼」を心得ていれば、人は、道を踏み外すことはないのである。

 人の道とは何か。
 羨望と言う、陽性因子に変貌し易い雑念雑想を普段から掃き出し、駆逐して、心の掃除をしておくことである。そうすると、身だけは殆
(あやう)くしなくてすむのである。
 これこそが『陽明学』の説く「心即理」である。
 礼儀の起こりとは、用心から起こるものなのである。

 この意味からすれば、王陽明の指摘は鋭く、朱子の「格物の説」は確かに心の鏡を工夫
(功夫)して、それに集中することは論じているが、単に知識を弄(ろう)した方法論であり、本性である心の鏡が曇っていることや汚れていることを殆ど問題にしていないからである。
 問題なのは、心の鏡が曇っていることであり、汚れていることなのである。知識を通じて知っているだけでは何もならない。心を制御してこそ実践の意義がある。行ってこそ「心即理」の真価があり、心こそ、清掃の対象であったのである。

 ここに朱子の「格物の説」は、曇りや汚れを見逃して、あるいは見てみない振りをして、ただ工夫することに集中する考え方は、あたかも例えば、室内かその周り火災発生を知らせる火災報知器が鳴っているのに、その鳴り響く音が煩
(うるさ)いからと言って、報知器のスイッチを切って鳴り止ませる方法論で、実際に火災が発生している警報の原因を見逃しているということに等しい。
 煩く鳴り響く火災報知器のスイッチの切り方を知識として知っていても、根本の本性の異常に気づかなければ全く意味はないのである。
 火災報知器の煩い音を遮断しただけで、実際の火災は消火することが出来ないからである。



【著者作の自選1200句】

































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