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句集 自選1200句 21

後光のように、落日に輝く夕陽。そうした表情を持つ沈む夕陽には、明日への希望と夢が含まれている。またそれが、前途を祝しているようで晴れがましくもある。

 希望と夢……。
 人は、この二つを追い掛けて、人生の生きる原動力にする。
 今日できないことでも、明日はできるようになりたいと思う。明日に希望を抱く。そして無限大の未来が前途に開けているように思う。無限大にこそ、前途洋々たる未来が控えているように感じる。

 それゆえ人間は、何事も遣れば出来るのだと思う。その気持ちさえ持てば、何でもできると思うのである。困難は乗り越えられると思うのである。
 だが、遣れば出来るは嘘である。遣らない者が出来る訳がない。
 「遣ろう、出来る」に至って、はじめて遣るための「一歩」が始まる。僅か一歩進むだけである。
 旅も同じであろう。

 人の一生は旅である。その生涯は旅である。
 確かに、人の一生は旅に譬えられることが多い。だが、この旅の本当の意味は、永遠の前の、僅か一歩に過ぎないのである。
 この「僅か一歩」を見逃している人が多い。一生と言う、ほんの僅かな一歩を、旅の全行程に思い込んでいるのである。

 本当の旅の前途は、この世に生きて、その人の一生が終わった後に開けてくるのである。終わるまでは、「その一歩」は閉じたままなのである。ゆえに旅は永遠であると言う。
 「その一歩」を踏み出した時から、本当の旅が始まる。



●精神的死相

 世の中は知識階級が殖えたとしても、賢人ばかりで構成されているのではない。皆が皆お利口さんばかりでない。
 確かに知識のある人は殖えたかも知れないが、それは学業が能
(よ)く出来るよいう程度の人で、知識はあるが常識がないとも言える。
 したがって、お利口さんであっても、その人達ばかりが、深い人生を味わう分けでもない。
 そして、バカはバカなりに、人生に道草を食いながら紆余曲折で、回り道をしつつも、味わい深い生き方をしている場合もある。

 それは野心のない平凡な人生であるかも知れないが、平凡は平凡なりに素晴らしさがある。
 多くを望まない、足るを知る人生にも素晴らしさがあるのである。
 ヨーロッパに出向き、パリでローストビーフを食べなくても、ギラギラした中華料理の大皿を囲む食事をになくとも、玄米粥に梅干し一つに荀の蔬菜で、30分も1時間も掛けて、ゆっくり味わう食餌法もある。
 さて、前者と後者は果たして、どちらが優雅であろうか。

 食餌法さえ心得ていれば、少なくとも飽食で食傷だけは起こさないで済む。今まで、食べ過ぎで成人病に罹り、死んだと言う話は聞くが、食べられないで死んだと言う話が戦後の日本で聞いたことがない。

 ともあれ、平凡は平凡なりに優雅で素晴らしい人生もあるのである。
 物質と文明に食傷した現代人は、まず肉体と精神とを癒し、単に煽動され、情報操作で操られる現代の多忙に追い捲られる俗界を離れて、心も体も、ここらで少し休めた方がいいのではないだろうか。
 忙中閑ありである。
 この中には、精神的な優雅がある。この優雅こそ、平凡なる偉大なのである。
 果たして多忙なる都会時間に生きる現代人は、忙中閑ありの中に、息苦しいほどの羨望は覚えないのだろうか。

 昨今は、幸せの価値観も随分と違って来ているように思う。物がなければ幸せを感じない人も多いようだ。物中心に、それらに恵まれていることに、多くの人は幸せ感を覚え、物に恵まれなければ不幸だと思い込んでいる人が多いように思う。
 しかし物は、物としての存在であり、それ以上のものでない。物であるゆえ盗まれもするし、殖え過ぎれば置き場に困り、欠乏すればそれだけで不幸を感じる。殖えることもあるが、減りもする。そして、幸せを単純に考える人が殖え過ぎた。

 したがって、経済は永遠に成長しつつけ、物質文明は永遠に栄えなければならないと言う経済第一主義を支持している人も多いようである。

 経済的に家計が恵まれていることや、愛し愛されるだけで幸せを感じるなどと、単純に考えてはいけないだろう。
 経済的困窮や経済的不自由は、実に束縛された紐付き生活を余儀なくされるが、この「紐」という手枷足枷であり、本来、人間はこうしたものから自由を束縛するものでなかった。

 ところが、資本主義と言う経済理論が登場して以来、プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神にその源を発するこの経済システムは、「契約」と言う形の意思表示の合致によって成立する法律行為が生じる結果となった。実際に、いま金がなくても物が手に入ると言う経済的契約である。

 これにより現代人は以降、紐付き生活を余儀なくされる。ローンと言う形の契約である。これが登場して以来、現代人は信用取引きの名において、実に不自由になった。履行義務は、一方で期限に追われるので自由が失われる現実が生じた。
 これらからも分るように、物に恵まれると言うのは、ある意味において、それを引き換えにして代償を払う反作用が働くのである。

 さて、精神的優雅さは、金銭がなくても、それでよしとする。
 物が欠乏していても、ある物で工夫して、「今」を生かされていることに感謝し、足るを知る。ただ、それだけでいいのである。足りていることを自覚すればいいのである。

 野心を抱えて、金儲けに奔れば、全部が全部儲かると言う訳でない。順風満帆の滑り出しで快調な日々だけでない。
 やがて変化が起こり汲々とする状態が生じ、亡者と化して人間の本質を見失うことにもなる。遣り込められたり、嵌められれば、憎んだり、怨みに思う者まで出てくる。事業は総て上手くいくとは限らない。損することもあるし、失敗することもある。それなりの忍耐力もいる。その才能もいる。また、心の狭さである狭量を悟られて嘲笑されることもある。

 嘲笑に耐えられる人はいいが、皆が度量の大きな器を持っているのではないから、狭量なる人は屈辱の何ものでもないだろう。そこに怨念などを奔らせて、自分の霊性を低下させることにもなりかねない。以降の人生は、憤懣やる方ない怒りだけが露
(あらわ)になり、そこから顛落(てんらく)する人も出て来る。精神が鍛錬されてない人は、以降の人生は廃人同様となる。これは、まさに精神的死相の現れであろう。
 思えば、何れの生き方も一方通行であり、道は一つしかないと思い込んだような生き方である。

 つまり、野心に燃える順風満帆な生き方を前者とし、狭量で途中で転覆を喰らうようなしくじり多き生き方を後者とすれば、共通項は何れも執念であるが、決して幸せな生き方とは言い切れないだろう。
 また、執念の裏には、生きることのみが前提となっている。
 人間は生き方と同時に、死に方も模索しなければならないのである。生きることだけでは一方通行になってしまう。死に方までもを考えて、はじめて生死の円周上を行き来できる。

 野望に燃え、地位や階級を争って、この種の競争心を燃やし、自分は他人とは違うのだという人生観を持っていても、それは思い込みの範疇
(はんちゅう)を出ない。自己の思い込みの裡側にいる。この“思い込み”を「精神的死相」と言うのである。

 現代の世に生きる、少なくとも五十歳以下の人は、自分の死が遠い先の未来にあると思い込んでいる人は多いようである。
 人間はいつかは死ぬが、しかし未
(ま)だ若いから今直ぐには死なないと考える人は多い。したがって、死は未だ先のことだと考えている。つまり、死から逃げ回る人である。生きることこそが正しいと信じている人である。

 だが、老いて何十年か先の六十、七十、八十になる頃、死を目前にすると、未だ死は遠い先のことなどと言っておれなくなる。
 死を、遠い未来にあると思い込んでいる人は、生き方だけの一方通行をしている人である。一方通行であるから、死に方を全く考えていない。

 例えば死に直面するような重い病気に罹ったり、事件や事故に見舞われて半身不随にでもなれば、死は、ぐんーと近付くから、これまでの思い込みは一掃されてしまうだろう。
 自分の死が、遠い未来に存在するなどという思い込みは幻想だったことに気付く筈である。
 人間に生まれた以上、死は常に生と隣り合わせなのである。死だけが一方的に存在する訳でもないし、生だけが一方的に存在しているのでもない。

 その存在は、幸せについても言えるだろう。
 幸せは、不幸と背中合わせである。幸・不幸は表裏一体であり、現象界ではこれは交互に働き、作用と反作用を繰り返す。決して一方だけではないのである。

 若者の眼から検
(み)て、死は未だ遠い先に存在しているように思う。死が遠い先と思い込んでいるから、確固たる現実主義に浸り、“死んで花実が咲くものか”と、生だけに執着する。死ねば、幸福に廻(めぐ)り遭えないと固く信じている。
 しかし、人間の命は斯
(か)くも脆い。強靭な一面と、脆弱な一面を併せ持つ。

 確固たる現実主義……。
 この考え方は、今や老若男女を問わず蔓延している。
 生のみを謳歌
(おうか)する現実主義を誰もが信じて疑わない。そういう背景には、日本人の寿命が延びたことであろう。延命医療技術の発達で、老いて、寝たっきりになっても生命維持装置の力を借りれば、長寿を全うできるようになった。

 しかし、これは健全なる生命の現実ではない。病んで、寝かされて、機械に生かされている生命である。肉体は確かに生きることが出来る。それでいて一歩も歩けない。何一つ自力で行動できない。
 この側面には、現代人の生きながらにして“精神的死相”が現れているのである。それゆえ、大半はこの死相が拭いきれずに、解脱できないでいるのである。

 それゆえ老いても、生だけが前提になり、死を目前に控えつつも、しかし此処から解脱できないのである。ただ、生から解脱できず、生きることこそ正義と信じ、死から逃げ回ることばかり奔走するのである。昨今の医療機関の隆盛は、それを雄弁に物語っている。

 多くは、貪欲に生にしがみつこうとする。死を忌み嫌う。そして残念なことに、現代人の多くは生死の使い分けが出来ないのである。
 これが、未だに生から解脱できない「迷い」であろう。迷いっぱなしで、然
(しか)も生にしがみつこうとする。

 昨今は、死生を解決することなく、生涯を終わる人が殖えたように思う。
 だが、解決できない生き方は、迷う生き方であり、再び六道
(りくどう)を輪廻して、迷いを繰り返すことになるだろう。これこそ、終わりなき一方通行の生き方ではないか。
 一方通行では、結局最後の日まで自分を生かしきれず、そして死ぬにも死にきれないのである。死生観が解決できず、中途半端で終わるのである。
 斯
(か)くして日本人は中途半端な無神論者と成り下がった。

 何故なら、信仰も持たず、特定の宗教にも属せず、神仏を信じない自由を標榜する現実主義者に、多くの現代日本人は変貌してしまったのである。
 そして、「中途半端」という形容が付随するのは、無神論者でありながら、そのくせ先祖の墓参りはする。盆・彼岸・命日には墓参りをして線香を上げ、結婚式は神前でぬかずくか、教会のバージンロードを誇らしげに腕を組んで歩き、12月24日はクリスチャンでもないくせにクリスマスを祝い、大晦日には除夜の鐘を聴いて仏教徒となり、一夜明けて元旦ともなると神社に初詣に出掛ける。

 そのうえ2月14日のバレンタインデー
【註】2月14日。269年頃に殉教死したローマの司祭、聖バレンタインの記念日)には、女性から男性にチョコレートを贈る習慣が、キリスト教国でもない日本にはほぼ定着している。これらの定着は、近年では復活祭【註】イースター。グレゴリオ暦を用いる西方教会では、復活祭は3月22日〜4月25日の間の何れかの日曜日、東方教会では、グレゴリオ暦の4月4日〜5月8日の間の何れかの日曜日)にも見られるようだ。
 また、実に滑稽なのは10月31日のスコットランド・アイルランドの古代ケルト人に起源を持つアメリカの祝いであるハロウィンには、魔女やお化けに仮装して近くの家々を訪れてお菓子をもらったりする風習などが、日本にも定着しはじめたことである。こういう遊びを、仏教系の幼稚園でも、毎年の恒例であるクリスマス並みに、父母共々
が奨励し毎年の恒例行事にしているのである。
 此処まで神仏が乱れれば、これまでの日本人の宗教観からしても、八百万の神などでは済まされないであろう。宗教混戦である。

 更に、高校・大学受験時には合格祈願のために神社仏閣へと出掛け、家を新築する際には神官を呼んで地鎮祭を行う。更には海外旅行に出掛けて、税関で「あなたの宗教は?」と訊かれれば、胸を張って「無神論者です」と答えるこの傲慢
(ごうまん)。その無神論者が、わが子が山で遭難すれば、「どうか無事でありますように」と祈る。
 現代日本人のご都合主義こそ、中途半端な無神論者を象徴しているのである。そして、それはまた、精神的死相が現れているとも言えなくもない。

 無神論者はキリスト教で言えば、天国も地獄も信じない。また仏教で言えば、極楽も地獄も信じない。
 況
(ま)して念仏宗で言う、臨終間際の千仏来迎(せんぶつ‐らいごう)など全く期待していない。神仏の一切を信じないのである。
 更に、臨終際には、中途半端であるとは言え、無神論者を自負している以上、投薬の副作用などで起こる断末魔の苦しみも有りのままに受け止め、同時に妻子や財産や生命への執着やこの世の未練も一切持たないのである。祈りもしないから、墓すら必要ないのである。先祖の墓も総てなくしてメモリーなど不要である。
 そして遺骨は、山か海に蒔けばいい。自然に還ればいい。本来、無神論者ならば、そうした死に方をし、臨終もあっぱれである。
 ところが、残念なことに、何しろ中途半端である。なりきれない。付け焼き刃的な無神論者であり、筋金入りでない。この点が現代の精神的死相が現れといえるだろう。


【著者作の自選1200句】


















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