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句集 自選1200句 22

暗雲……。
 暗雲は単に、辺りを暗くする雨雲だけの意味ではない。暗雲が垂れ込めれば、危険を暗示し、破局を思わせる何かだ含まれる。その不穏なる暗さは、また不吉でもあり、不安すらも感じさせ、暗雲は天候のみならず、心にもそれが掛かる場合がある。それが世の中全体を覆えば、文明は崩壊を始めるようだ。

 乱世の徴である。
 紀元前三世紀頃の中国戦国時代の思想家・荀子によれば、「その服は組。その容は婦。その俗は淫。その志は利。その声楽は険」とある。
 国が亡びる崩壊の要素である。

 これはまた、法家の『韓非子』の「亡徴」にも合致する。
 荀子の「徴」も韓非の「徴」も滅亡の意味を含んでいる。

 『韓非子』に曰
(いわ)く、「群臣が学問【註】ここで云う学問とは知識を指す。知識偏重主義となり、昨今で言う学閥・学歴偏重主義だろうか)を好み、重臣が子弟の弁術を玩弄(がんろう)し、商人は他国に財を蓄え、庶民の依頼心強き国、そのような国は、亡ぶべきなり」とある。

 更に『韓非子』は続く。
 「刑罰は淫乱、法規に忠実なく、弁舌の巧みなる者を愛してその実行力を考えず、見て暮れの華麗に溺れて、その実効性を顧みない君主の国、そは、亡ぶべきなり」と。
 あたかも何処か、今日の日本の世情に似ているところはないだろか。
 もし、何処か似ていれば「亡徴」を暗示する。



●各分野が専門化し権威に平伏す現世

 人を「差別する」とは何だろう。
 現代の世は差別禁止の時代である。ゆえに世は、総力を挙げて平等を奨励している。異口同音にして平等を論い、差別をなくそうとする政策が展開されている。
 しかし、功を奏していないことは明白である。

 その理由を陽明学的思考に充
(あ)て考えれば、例えば差別するな、人は皆平等という言葉自体に、差別の実体が隠されていたと言えなくはないのか。
 そこに、誤摩化しがあることは明白である。
 何故なら、それは「嘘をつくな」というのと同義であるからである。

 嘘をつくな、嘘は悪いことである。嘘を絶対ついてはならない。
 だが、これを信じている人など、地球上にはまず居ず、また生まれてこの方、嘘をついたことがないと言う人など、一人もいないであろう。
 現に、仏の嘘を方便といい、武将の嘘を武略と言う。
 人間界では、嘘は憑き物としている。上から下までである。

 世は計略だらけである。上下左右前後に、謀
(はかりごと)が蔓延している。
 国家間でも、国家の首脳陣でも防諜・謀略があり、敵対国を謀ろうとする。至る所に遣り込める要素が転がり、隙あれば揚げ足をとろうとする。

 また、出来るだけ嘘はつきたくないが、しかし嘘をつかなければならない場合がある。
 本来人間とはそういうものではないのか。これを頭から否定する訳には行くまい。
 何故なら人間こそ、矛盾を取り払うように努力しつつも、やはり矛盾した行為や行動をしてしまうからである。
 差別にしても、差別はするなといいながら、しかし差別は現に存在する。

 差別のないことを信じる人、また平等であることを本当に信じている人は、果たしてそんなにいないからである。大半の人は、これらをタテマエとして聞き流している。
 何故なら、こういう人は、「まごころ」が欠如している人であり、人間と言うより動物に近く、理性に欠陥を持つ可哀想な人であろう。あるいは、心即理の人ではあるまい。

 頬っ被りしている人に、悪いことはするなと言って、悪いことは今までに一つも働いていないと思い込んでいるのと同様である。馬の耳に念仏である。有難いお経も効き目無しである。

 善を知るには、悪を知らねばならない。
 悪を知らずして、善の何たるかが分る訳がないからである。平和の何たるを知るには戦争の悲惨さを知り、戦争経験がなければ平和の尊さは分らず、人命の尊さも分らない。こういう実学は、実際に五感を通しての実学を知るしか、人間には理解できないからである。

 世の中には差別がある。人は平等でない……。
 それを知りつつ、口先で差別は行けない、不平等は行けないと言う。
 しかし、これが世の中の不文律である事は、殆どの人がみな知り抜いている。もしこれを本気で知り抜いているのなら、その人は余程お人好しか、暢気な楽天家であろう。また、大嘘つきであろう。

 大嘘つきなら、どこ吹く風の人である。口裏合わせの狡猾
(こうかつ)な人である。
 自分には全くかかわりがないかのように、知らぬふりをしている様からして、狡猾と言わねばならない。そして世の中の傍観者を装う。
 あたかも世人・凡夫と交わらず、独り孤高を侍して山籠りをするようなものである。しかし、世俗から離れて、世の中の矛盾は理解できない。人間理解もない。

 而
(しか)して陽明学的に考えるなら、狡猾なる背景には、人間を人間と看做さず、礼を弁(わきま)えないのは、心底に「まごころ」が存在しないからであると検(み)る。
 至誠の意味を、口先のみでなく、実学として実体感していないと検るのである。
 つまり、綺麗事を羅列して、分け隔てして物申すのは、その言動を吐く者が小人
(しょうじん)であるばかりでなく、そもそも人を分け隔てすることから、道を外していると言うことになる。道を弁えないと検る。

 例えば、“人はみな平等である”と言いながら、実は平等と言うことを頭から信じておらず、それゆえ、陰では罵詈雑言
(ばり‐ぞうごん)を吐き、人を罵倒したり、侮ったり、見下したりするのである。そしてこういう人に限って、平等と云う言葉が非常に好きである。二言目には、それを口にする。

 それでいて、好き嫌いが烈
(はげ)しく、権威の言の擁護派であり、一旦先入観に陥ると、その思い込みから、ある人には異常なまでに入れ揚げて信奉し、尊敬の念を示し、またある人には侮辱の限りを尽くして見下げ、卑下し、畜生の如く罵ったり、不当に扱い、憎々しく指弾することを忘れないのである。総ては思い込みと先入観から起こる。
 この格差自体が、そもそもその人の正体であり、この正体は、人間以前の魔性を隠している場合も少なくないようだ。
 霊的神性のある人と、そうでない人の差である。

 それゆえ真面目と言いながら、その実、不真面目であり、先入観が強く、自己中の域を出ず、真摯と言いながら、ひたむきでないのである。口とは、最初から反比例している。昨今の世の中には、多く見るタイプである。
 こういう人に限り、自分は生まれてこの方、一度も嘘をついたことがないと言うことを臆面もなく言い、自己主張を憚
(はばか)らない人である。こういう人は、思い込みで生きている人に多いようである。

 また近年では、“お持て成し”とか“お接待”という言葉が頻繁
(ひんぱん)に使われている。
 そもそも、こういう行為は、近年の流行のようでもある。古くから一部に在
(あ)った習慣などが、マスメディアの画策人によって、流行として仕掛けられたのかも知れない。最近は、拘泥(こうでい)と言う奇妙な意味合いをもつ“こだわり”とか“こだわる”と共に、よく聴く言葉である。

 さて、“お持て成し”とか“お接待”と聴けば、まことに善きことのように思える。
 しかし、それは金持ち相手の言葉ではることは明白である。
 金銭を遣うに気前よく、ひと撒
(ま)きも、ふた撒きもして、沢山使ってくれる人に対しての言葉である。貧者には、決して使われない言葉である。貧者では、無い袖は触れないからである。対価相当の金額が払えないからである。

 “お持て成し”とか“お接待”とは、単刀直入にいえば、大判振る舞いに対しての媚
(こび)であり、それに対しての持て成しをする馳走や饗応のことであり、相手は金持ちである。また、背景には経済効果を当て込んだ目論見が、これらの行為の原動力になっている。
 一方、底辺の下層階級は、こうした持て成しを受けることは絶対にない。

 また、接待も、持て成しの意味が含まれるが、一般には茶の湯で出てくる懐石
(かいせき)などの食事をのことを意味し、接伴(せっぱん)のことである。この接伴に、下層階級の貧者が、この種の茶懐石などの作法を必要とする食事に預かることがあろうか。そう言う席での持て成しを受けることがあろうか。皆無の筈である。
 接待は、誰も彼もと言う事ではなく、最初から階級を表しているのである。上位者でないと資格がない。

 船のことを考えてみればいい。それも豪華客船を考えればいい。此処は豪華ホテル然である。しかし、全体が豪華を装っていても、上下格差は歴然と存在する。

 豪華客船の仕組みを考えて、乗船する上客のその階級構造が、どうなっているか思考してみることである。ここに、貧者に対しての無料奉仕などという言葉は登場しない。接待も、持て成しもない。ゆえに貧者からのチップもない。また貧者では乗船できない。
 富者の金銭が動くから、サービスがあるのである。第三次産業の基本的メカニズムである。ここでの機能は物質的生産過程以外である。顧客対象は優遇者であり、便宜は支払い能力のある者のみに図られる。
 この恩恵に預かるのは、金持ちである。貧者ではない。

 動く心情は、金持ちの金持ちのための接伴のみである。金銭の所有額ならびに、資産などの所有と家柄などの階級が物を言うようになっている。貧者はこの中に、決して組み込まれない。
 貧者に“お持て成し”とか“お接待”という言葉は存在しない。これこそが、差別化であった。
 差別化とは、他との違いを明確にする。これは差別化の第一義とする。
 次に独自性を積極的に示して、それに相応しくない者を排他する。これを第二義とする。そして差別化に、これ以外のものは存在しない。

 豪華客船を考えた場合、船の中の客の分布は、各等級で別れている。これは人間の階級にも、そのまま比例する。
 客船には普通四階級のランクで仕切られている。
 最上級の特等
(スペシャルキャビンクラス)、一等(キャビンクラス)、更にはこれを隔てる二等または特二(ツーリストキャビンクラス)、三等(ツーリストクラス)である。それぞれのランクの違いは、部屋並びに食事の違いによる。

 したがって特等は、三等に比べて桁
(けた)違いに高い。“桁違い”に……である。
 高額な特等料金は誰でも、おいそれと払える金額でない。逆に三等のツーリストは、料金を総合すると、特等の五分の一ほどである。此処に格差がある。

 特等や一等は、その船会社の「貌
(かお)」と言うべきもので金額は高いが、それは一部の富豪に限られ、またこの等級は会社の広告塔の役割を担うものでもある。
 したがって、内装や調度品は思い切り贅
(ぜい)の限りを凝らしてある。隅々まで職人達の伎倆が、こだわり過ぎるくらい、こだわり抜いて、その粋を圧倒させるように見せ付けている。

 それだけに、特等や一等にハイクラスの乗客を呼んだとしても、利益率は高が知れている。圧倒的に部屋数が少ないからである。ぜったい多数が少ないからである。
 富んでいても、ぜったい多数が少なければ、利益率が上がらない。資本主義の利潤原理である。
 経済論によれば、利潤は総売上額から生産費を控除した余剰をいう。船舶不動産の資本に対する利潤の割合であり、これを総資本で余剰価値を割ったものであり、この比率を利益率と言う。
 単純計算で、特等の総資本と、三等のツーリストではどちらが資本が大きいだろうか。そして、儲けの利潤はどちらが大きいだろうか。

 特等と一等の全部屋数の広さと、二等以下の全部屋数は、その占める面積が同じと言うのである。それくらいハイクラスには広い部屋がホテル並みに用意され、人口密度は極めて少ない。ここも面積に対しての人口密度の格差であり、また露骨なる差別化である。だが、ハイクラスにはそれが赦
(ゆる)されるらしい。
 これを、昔風の言葉で言えば「補填」とか「特典」と言うのであろうか……。
 これは富者に与えられ、貧者に与えられないものである。

 それに比べて、二等以下は人口密度が高くなり、三等のツーリストともなれば、過密状態であると言う。此処に「格差」という差別がある。格差は深刻になり、差別化が如実になるのである。
 資本主義社会の上流階級は、こうした階級別差別化が身分として明確にされるから、上下の格差が好ましいと思うのである。

 特等料金で、想像を絶するような贅
(ぜい)は、とてもでないが船会社はペー出来ない。富豪が大枚を叩(はた)いたところで、一人や二人ではどうにもならない。
 特等料金や一等料金で、決してボロ儲けと言うわけにはいかない。ボロ儲けをするのは、二等以下である。数の問題である。草食動物のヌーの群れでも、大群をなせば、肉食動物のライオンやヒョウを圧倒する。弱者でも群れでの数では、強者を凌ぎ、全く問題にならない。

 特に、三等は裾野
(すその)が広いだけに、この階級でしこたま儲けを稼ぎ出す。支配階級から吸い上げるのではなく、被支配階級から吸い上げる。そして、この階級から薄利多売をすることで、利益の採算が取れるようになっている。あたかも、安売りを専売特許とする大型スーパーのディスカウント・ショップと酷似するではないか。ここに資本主義社会の縮図がある。

 つまり、表向きの自由と平等と差別のない社会の縮図を、等級別を設けることで、それぞれの階級には行き来出来ないように、出入り禁止を敷いて、制限しているのである。何とも巧妙な仕掛けになっているではないか。

 自由と平等に限っては、横の行き来は有りだが、縦の行き来は無しである。横の行き来を民主主義下では、自由と平等と言う。往来自由である。同格同士は平等である。格差はない。
 ところが縦の上下は、階級が違えば交わらない。
 行き来もないし、重ならないし、また交差しない。これを「永遠の平行線」と言う。階級論の定理である。
 この論理には、階級意識
(class consciousness)が論じられている。

 鳶
(とんび)は、鷹(たか)になれないのである。それも永遠にである。生物学上に言っても、種が違うからである。属が違うからである。
 鳶は鳶であり、鷹は鷹である。
 同じ階級に属する人々が、共有する自意識であり、同じ階級同士が、自らの生い立ちと家柄とその歴史、また社会的地位ならびに、社会に及ぼす影響力やその使命を自覚し、かつ階級によって、これを人間社会に実現しようとする身分制度や、その意識下の支配形体の事である。そこに特異な意識がある。
 更に、特定の階級の立場や利害を代表する論理。これを「階級論」と言う。

 つまり下の階級が、上の階級と交わらないようになっているのである。これはアメリカ社会の構造と酷似する。自由の国アメリカは、平等の国アメリカでないと言う事である。これがまた、特定なる支配構造をもつ「アメリカ」と言う国家の国家観である。この国家観は、日本人が想像する自由と平等とは程遠いのである。
 それが、ピューリタン以来のアメリカの威厳であり、その構造は客船に酷似する。現に、タイタニックはその構造を、世界にアピールしたではないか。位階の身分差を見せ付けて……。

 船旅は、何日間も船内や自室に閉じ籠った窮屈な旅である。
 どんなに行動範囲を広げても、船内から外には出られない。出れば海の外である。上下に出られないから、横の移動となる。移動できるのは横軸のみ。上下軸は存在しない。
 つまり、出られるのは、同じ等級の横デッキだけである。デッキの行き来は階級によって階層が違う。

 また等級により、その窮屈さが異なる。上ほど粗であり、下ほど密である。
 此処には粗密の縮図がちゃんと出来ているのである。これも、実社会の構造と酷似する。
 まさに資本主義の社会的階級構造
【註】支配階級と被支配階級、ブルジョアジーとプロレタリア、雇用主と雇用者、キャリアとノンキャリア、ファーストクラスとミドルクラスなど上下軸)と、そっくりではないか。

 更に船室の三等を観た場合、この等級は、あたかも夜行寝台車の上下向かい合いの四人部屋で旅をするか、あるいはツーリスト特有の大広間での、船内配給の枕一つ抱えての雑魚寝
(ざこね)である。
 この雑魚寝の衆は、決して最下位の船底から上階のラウンジに入れないにようになっているし、逆に入ったところで、例えば夕食の晩餐
(ばんさん)などのレセプションに招待されたとしても、洋食マナーを知らないツーリストグループは、着て行くイブニングコートやイブニングドレスのような服もなく、食事を伴にしたところで、堅苦しいばかりで少しも楽しくないだろう。階級が違えば楽しみ方も違うのである。

 更に食事のマナーも知らなければ、見下されて失笑を買い、屈辱だけが残る無慙な結果となろう。
 また、この屈辱は差別になるから、下層は上層に接近してはならないと教える。ある意味では、下層は下層なりに賢明な考え方かも知れない。

 食事の内容は、庶民と桁違いに違っているのだが、しかし階級の違いはまた、下の階級の鋭気を殺
(そ)ぐ仕組みになっていて、一度(ひとたび)交われば庶民は、ただ一方的に精力を妄(みだ)りに消耗し、かつ怒り心頭のエネルギーを浪費して疲れるばかりである。空回りが免れない。
 併
(あ)せて、マナーを知らなければ、気取りや連中では堅苦しいだけで楽しくも何ともない筈だろう。結局、行かなくて良かった、となる。

 ところが、戦後の日本人は戦後の民主主義に翻弄
(ほんろう)されて、自由と平等を心から信じて疑わないから、身分制度もなく、階級もないと思い込んでいる。これは江戸時代の往時の人より、智慧の欠けた人間観であろう。
 現代日本人は、人間観も人間学も、全く理解していないのである。

 豪華客船はツーリストのためにあるのでなく、富豪のためにある。ツーリストを啖
(く)い物のして、特等や一等の広告塔のためにある、それ以外に何があると言うのであろうか。
 これこそアメリカ社会の構造に酷似し、資本主義のルールに則った思想で貫かれている。客船こそ、階級社会の縮図であった。
 それにである。

 アメリカ型階級社会に酷似する客船構造は、またその居住区もツーリストグループとは桁違いに異なっている。それは階級と云う言葉が示す通り、船室の居住区の「階の違い」である。居住区が何処にあるか、何処に位置するかの構造的な違いである。それは生命維持率と解してもいいだろう。
 特等ほど上階であり、ツーリストのような大衆庶民の居住区は、船底に近いところにある。上下が異なるのである。また、空間や環境も異なる。船底は窓も少なく、移動状況は掴め難い。喫水線以下の居住区はもっと惨めである。
 一方、上階、つまり船の甲板線より上にあるから窓もあり、何処を航行しているか分り易く、コンパスまでが用意され、壁には航路図まで貼付けられている。
 これは何を意味するか。

 単に構造が上下で分かれているのではない。階層が分かれているのである。此処には身分の格差がある。貧富の格差がある。知らぬは日本人ばかりである。特に知らないのは、戦後の日本人に多いようである。
 緊急避難の場合までもを考えて、下階には庶民が、そして上階には富裕層が居住する構造になっている。
 これは万一、船が沈没するようなことがあれば、上階ほど甲板に出易く、救命ボートもすぐ付近にあり、緊急避難の場合の生存確率が、底辺の乗客の庶民よりも有利になっていることである。
 生き残れる生存率が違うのである。

 つまり、これは資本主義下におけるアメリカの階級社会と酷似することである。
 そして、この階級構造の特徴は、軍隊における兵や下士官と士官・将校の格差に類似するものであるが、船内構造はもっと厳格で、まさにアメリカの階級社会そのものであり、同じ階級の横同士は繋がりがあるにしても、階級が異なりこれが上下関係ともなると、上下の繋がりも、上下の循環も一切ないということである。上下では、決して交わらない。行き来もない。言葉も交わさない。

 同階級同士は、横に循環はするが、上下の縦には循環しないと言うことなのである。これこそアメリカ社会の縮図そのものである。
 人間はみな平等ではない。ゆえに自由でもないのである。

 平等の意味は、法の下での平等であり、貧富の差や、利益の分配においては、決して平等ではないと言うことである。
 多くの日本人は、民主主義下の社会を自由と平等で捉えているようだが、民主主義の総本山のアメリカをみれば、ここに自由と平等はないことが分かろう。
 日本人の考える自由と平等は幻想である。そして差別のない平等な社会も、綺麗事で幻想に過ぎない。この垣根を現在のところ、現代日本人はそれを取り払う智慧を有していない。民主主義の標榜は、残念ながら標榜に過ぎないのである。差別が克服できない所以である。

 同時に、階級によっては人権すら奪われる観がある。
 その顕著な例が、国民背番号制による巧妙な奴隷化で、監視機構の厳重な眼である。監視カメラでその行動まで権力に把握されている。
 内部警察機構の監視の眼は、そもそも差別主義から擡頭
(たいとう)した。そして国民は、今や階級化され、かつ機能化の中に取り込まれている。つまり差別化とは奴隷化の事で、ここから起こる連想は人間牧場の家畜を想像せずにはいられない。


【著者作の自選1200句】




























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