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句集 自選1200句 23

井の中の蛙という言葉がある。視野の狭いことを言う。
 したがって、大海の存在も知らない。仮に大海を知っていたとしても、自己の思考内の微視的世界の拘泥にしか過ぎない。

 マイホームと言う、今日流のこじんまりした小さな幸福を追求する考え方がある。この考えには、内面の充実より、外面的虚栄に精を出し、直接自分とは関係のない事柄には、関心を持つまいとする核家族主義である。

 一方で、集団主義、服従主義、没個性的社会を形成し、その中で運命共同体の利権争いに精を出す。
 斯くして、多次元的かつ空間的思考を苦手とする。洞察力も皆無となって、遂には思考すら止めてしまう。



●人の今を看るより、その人の晩年を看よ

 最近は、夢だ理想だ、そして希望だと言いながら、全然人生を楽しんでない人が、多く見受けられる。
 夢に理想に、そして希望に燃えて、一旦はそれを口にしながら、年齢を経て若いことに抱いた大志は次第に萎んで行く。歳を取ればとるほど、そういうものは跡形もなくなってしまう。
 それは何故か。

 一つには、世の中が固定化されはじめたからだろう。同時に官憲の監視機構や管理機構が確立され、職業の固定化も、ほぼ固まったようである。

 例えば、政治家の子は政治家、企業の経営者の子は経営者、医者の子は医者、芸能人の子は芸能人、家が坊主ならばその寺を継いで住職と言う坊主になる。
 つまり世の中の職業的固定化であり、末は博士か大臣かの世の中は、遠退いたと言うことである。職業的にも利権保護で、二世三世の定着が濃厚になったと言うことである。

 支配層は支配層として、支配権を確立したと言うことである。
 これは永遠に統治される社会構造が出現したと言うことを表し、これからの日本は、日本人を含む、「善良な市民」と言われる一般市民は「普通」の名において、ズバリ言えば永遠に人権を奪われ、奴隷化され階級化されていくであろう。
 そしてその奴隷化の中にあって、“こぢんまり”飼育されて行くから、その中で飼われる人間牧場の住民は、住民同士の虚栄心と見栄で、「我」と「欲」に益々しがみつく願望が強くなって、例えば地位とか肩書きとか名誉、あるいは功名心とか富貴を求める指向が濃厚になって行くだろう。

 特に、現代人を呼称される者達が打ち立てた文明社会は、「近代」の名をもって、己一人の満足感の充実を目指す社会であるから、人との比較によって自分の地位や生活環境を慰めることに執着し、人間の「格」としては卑小してしまう構造になっているからである。現代人は大都会という「卑小化してしまった檻
(おり)」の中に居るのである。あるいは柵(さく)の中だろうか。

 そう言う縮図の中に閉じ込められた人間牧場の檻か柵の中に居て、つまり戦後民主主義を謳歌する一国平和主義の自由・自由……、平等・平等……と称されている「現代」なのである。
 そのうえで、牧場内には言論の自由と自己主張が露
(あらわ)になるため、この社会では、個人主義が激化して行くことになる。
 そしてここまで進行してしまうと、あたかも進行癌のように、この激化に歯止めを掛けることは出来なくなり、とことん進行して行くしかないのである。もう引き返せないのである。

 人間は豊かさに慣れる体験を味わってしまった。
 この味を一旦占めると、もう戻れないことになる。豊かさの生活に慣れてしまうと、譬えば現在、自分が得ている職を失えば、その時点で貧乏になってしまうと言う恐怖感がある。これが脳裡に貼り付いている。現代人は過保護と贅沢になれてしまったのである。
 そしてこの環境下で、独自な運命共同体を作り上げてしまった。その価値観の中で現代人は生活しているのである。

 この傾向は益々強まるだろう。
 自分の所属する組織とか生活環境とかの相対的な社会や価値観が、自分と、自分を取り巻く世界と小さく、然
(しか)も堅固に結びついてしまったことである。
 そして、この構図を検証すると、そこの住民には、「悪い事をさせない代わりに、善い事もさせないという奇妙な図式」が出来上がる。体裁よく言えば、人間を監督する管理社会である。あたかも、動物を管理しているような図式である。これが社会と組織と家庭の生活域までが、がっちりと組み合ってしまったという感じがするのである。

 然
も、この構造を堅固に維持するために、一度(ひとたび)このような社会構造が生まれると、強大な軍隊と内部警察機構の監視の眼が光るようになり、まずこの世の中を変革することは、もはや絶望的になるだろう。そして人々は背番号が付けられ、背番号ごとに階級化され機能化され、更には家畜化されるだろう。そのシステムは、既に機能しているようである。

 また、こういうことを大っぴらに発言すれば、それだけで世を乱し、煽動する輩
(やから)と看做され、官権当局から、監視の眼が向けられるであろう。もう、言論の自由など存在しなくなる。

 夢と理想と、そして希望……。
 これは何を以て、そのように呼称したのだろうか。
 思うに、根本には「無限の可能性」という世迷
(よま)い言(ごと)に端を発するのではあるまいか。
 しかし、これは幻想だろう。

 夢や理想や希望は、昔風の言い方で言えば、資本家が雇傭した労働者を懸命に働かせるための方便であったと考えてよい。奮闘努力して頑張れば、アメリカン・ドリームのような世界が転がっているという幻想を見せることになった。
 そして、多くはこの夢に魅
(み)せられた。
 この夢に魅せられたのは、多くは男であり、男はロマンに夢と理想を追い掛け、無形のものを追い求めて行く性向があった。一方女はと言うと、根が現実主義者であるため、リアリストである。
 ために男の夢や理想は理解できる訳もなかった。ゆえに、双方の希望指向が一致しない場合は、男女間に断絶が生じた。
 例えば、結婚した者同士の男女が、その後、“性格の不一致”などと称して離婚に至るのは、この断絶の溝は深かったことに起因する。またその多くは、原因をたぐり寄せれば、大方はこの辺のところに落ち着くであろう。

 かつては、この辺の不一致により衝突して、夫婦間で、よく喧嘩をしていたものであったが、今はそういうことが殆ど見られなくなった。単にセックスなどを通じた、「交媾
(まぐわ)い具合がいいか悪いか」のセックス・アニマル的な感覚の不一致のみが論(あげつら)われ、それが女房の不機嫌の理由であり、この点にのみ不平不満が存在するようになった。
 多くは、上の口より下の口の満足度であった。この度合いに応じて、不満を漏らすなどであり、離婚原因の第一は、これらが挙げられているようだ。
 現代人が動物化されて、飼い馴らされている実情が側面にはあるようだ。

 更に、夢と理想について言えば、現代は、男も段々リアリストに傾いたため、女と同じ価値観を共有して、ただ豊かで便利で快適な希望指向を一致させる方向へと向かっている。
 つまり、自分達だけの幸せを願い、悪しき個人主義の方向に爆走しているのである。そのため夫婦仲は動物的に良好状態にあり、昔のように夫婦喧嘩はしなくなった。衝突することも殆どない。双方は穏やかに動物的である。
 しかし、この夫婦仲にこそ、実は大問題が隠れているのではないか。

 男が夢や理想を失って、現実の利益だけを追い求める生き方が、実は、今日のような金銭至上主義の社会を作り出してしまったのである。そして、男が夢や理想を追うことは、今や愚行と言うより、“いけないこと”になってしまったのである。これこそが体制側にコントロールされる管理社会の実情である。

 既婚男性は、徹底的に女房を理解し、奉仕して仕え、我が儘
(まま)を聞き流し、好き放題に威張らせて、女性上位を尤(もっと)も誇らしい現代の理想形におく。これこそが夫婦仲良く、家庭平和の理想状態で、ここから一歩でも食(は)み出ることは許されず、この中に、大人しくマイホーム内にお行儀良くする……ということが体制側の安全弁とする策である。
 今は、自由を束縛する素振りを悟らせない、こうした管理・監督の現実が、別の形の「現代流の人間牧場」なのである。

 また、こういう背景下で、男が夢と理想を追ったとして、女房からしてこの態
(ざま)であれば、もはや二人三脚は無いのも同様で、これを決行しようとすれば、男自身の独断決行となる。
 この男のロマンに、友を呼び集め、理想を熱く語り、それに賛同して、行動を共にする者が果たして何人いるだろうか。
 ゆえに知識人は、今はそう言う時代ではないと嘯
(うそぶ)く。大口を叩く。特に進歩的文化人と言う権威筋ほどこの発言は高い。

 こうなると断念する以外あるまい。
 斯
(か)くして夢は殆ど成就しなかった。無慙に潰えたのである。自分の無力を嘆いていても仕方ないのである。

 ところが、また新たなる手法が起こりはじめた。これは一つの画策であろう。
 あるいは近年に起こった上手な人間牧場の住民の飼い馴らし策であろうか。
 夢や理想が復活したのである。そうした幻影が起こったのである。
 昨今は会社員階層から、あたかも資本陣営の会社役員を錯覚させる「会社役員」という荒手の新アメリカンドリームが登場した。この種の手法が、国内外に席巻しはじめた。
 おそらく上下格差が濃厚になるから、上位に上り詰めれば優越感は一入
(ひとしお)であろう。

 つまりサラリーマンと言う会社員から、サラリーマンに夢と理想を抱かせるために、“サラリーマン重役”というセクションを設けたことである。そして、時と場合に於いては、代表権すらもたせ、経営全般を任せる。
 これにより、サラリーマンは一生懸命に会社に貢献すれば、末は会社員で終わるのではなく、会社役員として、有終の美が飾れるという夢と理想を抱かせたのである。巧妙な仕掛けを考えたものである。
 この地位に、皆が皆なれる訳ではないが、一つに夢と理想にはなり得る。そこに一縷
(いちる)の、一か八かの希望を抱かせる。あたかも、能力主義を錯覚させるように……。

 特に、昨今の特徴は、女性を現場指揮の上級管理職の地位においたり、技術労働者から中間管理職を飛び越えて、一足飛びに重役というコースも用意されている。檄
(げき)を飛ばして奮闘させる“大立ち回り”は揮(ふる)え、ここ一番の見せ場を作っているのである。

 この使役法で行けば、会社員を効率よく働かせることが出来るからである。
 斯くして人間の闘争心と競争原理を利用して、この世界で生存競争と淘汰が行われるのである。有能で商才があり、計算に強く、役に立つ者と、そうでない者の選別も出来る。
 したがって、この世界に差別などあり得ないと思う方が余程どうかしているのである。

 体
(てい)よく、会社員に対し、会社役員と言う将来の夢と理想をちらつかせられながら、粉骨砕身して企業に仕えるのである。使役される事に於いては、一種の家畜である。そして、昨今はサラリーマン社長すら登場していることからして、本当のオーナー資本家は、見えざる手をもって陰に隠れてしまったと言うべきであろう。
 今ではその気配すら感じれられない企業が殖えて来た。陰の総帥が誰かはっきりしない大企業が経済界に君臨し、政治や軍事にまで影響を与えている。

 また、企業同士の巨大合体も、買収も、オーナー資本家を陰に隠す策であるらしい。
 同族ならびに血族企業は、歴然と存在するのである。未
(いま)だに血筋は健在である。
 また、血筋第一の国際金融世界では、血のネットワークこそ総てなのである。単に、一富豪が単独で企業活動するのでなく、富豪同士の血のネットワークで、有機連合体を作るのである。
 この実体を知らないのは、うまく使役されているサラリーマンばかりと言えよう。

 斯くして、知れば知るほど、夢と理想は、益々萎
(しぼ)んでいくばかりである。
 萎む原因は、人間の、また個人の限界である。
 誰の一生も、御伽噺
(おとぎばなし)や童謡唱歌に始まる場合が多い。この年齢期には、誰もが無限の可能性を信じ込み、自分の将来は輝かしい未来が待っていると思い込まされてこの時期を過ごす。

 しかし幼児期、少年期、青年期と過ごし、成人に達して二十歳を超えてみると、無限の可能性は、無限どころか、極めて限られたものであったことに、あらためて衝撃を受けるのである。無限など何処にもなかったと気付かされるのである。
 また壮年期に至って、この歳になると、無限とは甘美な夢であったことが克明になってくる。
 “無限”の言葉に騙されたとさえ思えてくる。そして、子供の時から聞き慣れた「無限の可能性」と云う標語にまんまと躍らされていたことが分ってくる。少なくとも、「その他大勢」の部品に組み込まれた「中の上」と自称する階級は、特にそう思うのではないか。
 しかし、「中の上」と自称する意識は、夢と理想とを引き換えに、卑小化した「あれよりもましだ」という優越感で満足した意識でもある。

 振り返れば、団塊の世代ほど、無限の可能性の言葉に躍った世代はないだろう。
 小中学校の教師は、「無念の可能性」と云う言葉を使いながら、自らは日教組のデモに明け暮れていた時代である。そして児童や生徒は、政治デモや労働デモは正義のために行われていると教師側から吹聴されることになる。

 戦後の教師像は、教師も労働者であるとは、この時を境にして、教師がど労働者に成り下がった瞬間であった。やがてプロレタリア思想は、全共闘時代へと受け継がれていく。官憲や同朋に対して、暴力ならびに武力闘争が正義となった時代である。そして一部は、過激暴力武装集団となってテロを実行した。
 あの時代は、暴力革命こそ正義であった。ヒステリックに叫ぶ「戦争反対」の反戦主義と、武器を遠ざけた平和主義の豪語こそ、正義の代名詞であった。

 また、便乗派という世代も現れた。
 先の大戦当時、幼少年期を国民学校で過ごした人達である。また、戦後民主主義の言論の自由を楯に、あることないことを捏造
(ねつぞう)して、戦争を語る“語り部(べ)”という世代層である。

 例えば、「もう戦争は懲
(こ)り懲りだ。自分達の貴重な体験を次世代に伝えねば……」という言辞を露(あらわ)にし、その使命感に燃え、反戦こそ正義と自負する世代である。
 だが残念なことに、「自分達の貴重な体験談」は、殆どが幼少年期に実感した感情そのものであり、その結果、“戦争は悪い”とか“先の大戦は総て誤りだった”という感情の嵐に煽
(あお)られて、軍事研究すらも否定してしまう。また、奇妙な絶対正義が時代を席巻した。
 感情のみで反戦を論ずる傲慢が生まれたのである。

 軍事と言えば、問答無用で忌まわしいものと決め付け、眉を顰
(ひそ)め、戦争と言えば、ただヒステリックに悍(おぞま)しいと一蹴する感情主義……。そして反戦だけを掲げていれば、世界は恒久に平和になれると信じている楽天主義……。
 異常である。
 武器を遠ざけさえすれば、未来永劫に亘って、地球の平和は保てると考える短見主義。

 その一方で、革命を起こし、立場の逆転を狙った執念を燃やす勢力が擡頭
(たいとう)した。反戦を目的とした社会活動家の登場である。反戦と言いながら、一方で暴力を肯定する矛盾を抱えた思想の持ち主の登場である。それは至って独善であり、根底には自らの欲望によって動いていることも、その支持者は知らずに反戦運動を展開している。
 斯くして体制側と、反体制側との死闘が演じられることになった。

 さて、戦争とは何かと言うことを冷徹に考えれば、“政治の延長”と云う言葉を用いるまでもなく、戦争の内実には、それぞれの国と、その地域民族ならびに部族などの歴史や伝統や風土、文化や道徳規範、更には宗教までもが反映している。
 また、その反映を次世代者は鏡として、そこから運・不運や作戦の合否の教訓を学び取り、争いや諍
(いさか)いの政治力学を、そこに見出そとする。政治並びに戦争のメカニズムと探求である。

 ところが、この探求を単に戦争反対の感情で退けた場合、教訓から学び取るものは何一つなく、この怠慢が奇妙な歪んだ社会の縮図を作り出し、今日のような日本が出現することになる。過去を悪として、精神性や伝統などを軽るんじる歴史観である。
 つまり、「歴史を正しく検証する眼」を奪うことになるのである。
 同時に、次世代にもその重要性が等閑
(なおざり)にされて、理性や知性をもって戦争を冷徹に検(み)るという行為が失われるのである。
 これは、また人命を軽く考えたり、暴力に奔る結果を齎すものである。

 この最たるものが、昨今の日本の現状であり、戦後日本人のものの考え方は極めて皮相的で、また老齢者と雖
(いえど)も、幼児的である。特に軍事観の欠如は甚だしいものがある。
 その幼児的な思考の一つに、軍事に関する探求は、総てが平和の敵とする考え方である。保守への反動であり、また偏狭なる軍事観をもっての反戦主義者のヒステリックである。こうした感情の嵐が、昨今の日本を混乱させ、世代も次の世に変化した。

 現在存命の世代を上げれば、平成27年現在で97歳から90歳までを大正世代と言う。89歳から81歳までを昭和一桁世代。80歳から75歳までを焼跡世代
(国民学校世代)。74歳から69歳までを戦中幼児世代(後焼け跡・全共闘世代)。68歳から66歳までを団塊の世代(全共闘世代)。65歳から51歳までをしらけ世代(無気力世代)。50歳から46歳までをバブル世代(新人類世代)。以降も、時代とともにその時代を生きた世代は社会環境の変化で世代間を隔てることになる。

 時代は変わり、世代間の変化によって格差は起こるが、しかし変わらないものが一つだけある。
 それは、婚期を迎え、例えば結婚一つにしても、なかなか思い通りには行かない「苦」が存在することである。また就職に関しても、一つの企業に入社してそれを一生の仕事にするには心もとないという現実である。つまり、何事も思い通りにはならない「苦」である。
 そこに、人生を「苦」と捉え、人の世を「苦海」と考える仏道的な思想もある。

 時間についても、持て余すくらい沢山あると思い込んでいたものが、単に多忙に追われ、退職後も悠々自適と信じていた事が、現実には覆される実情である。
 そして、現代人の生存年齢も延びて、今まで働いて生きてきた倍くらいを生きれば、老齢期が長くなったものの、残りは余生のような生き方になる。その余生が、惨めな介護や補助を借りての残された人生だったら惨めである。

 特に、生命維持装置の力を借りる余生だったら悲惨である。これにより生きる意味も半減する。
 長生きで来ても、自分の身を、どう立ち振る舞うか分らない老人が殖えている。自分の老後の身の振り方が釈然としないのである。

 さて、残された老後を余生にするか、濃厚な時間にするかは、老いてなお、志が有るか無いかに懸かる。志がなけければ、単に動物的な三食付きの余生を送ることになるが、志があれば、「老いて学べば、死しても朽ちず」の境地が保てるだろう。

 戦後の現代日本人は確かに寿命が延びた。世界でも有数な長寿国となった。この事実だけを捉えれば有難い結果である。
 しかし、延びた寿命をどう遣うか、これが抜けていれば、悲惨な老後はそれだけ長くなる。
 長くなった人生後半の老後をどう過ごすかで、人間の勝ちは決まると言っても過言ではあるまい。

 現に『菜根譚』では、人の一生の晩年についてこのよう表している。
 「若い頃、あばずれで浮き草暮らしをしていた娼婦のような女でも、歳を取ってから身を正してよい夫を見付け晩婚であっても、これまでの過去の悪行や浮気の数々は帳消しになる。
 一方、若い頃、純潔を守り通し、如何に身を慎み、身を清潔に徹した貞淑な才女でも、五十、六十の歳に至って、若作りをして男漁りを始めたり、愛だ恋だに現
(うつつ)を抜かせば、晩節を穢(けが)すことになり、これまで折角守って来た貞操は、この愚かな一事で総て台無しになり、若い頃の悪態の限りを尽くした“あばずれ女”以下になってしまう」と。
 実に名言である。
 また、有終の美が台無しになってしまう、その愚を指摘しているのである。

 だから、古語には「人を看
(み)るには、その人の今を看るより晩年を看よ」というのは、まさに名言であり、大正解と言っているのである。

 「最後に嗤
(わら)う者は誰か」という言葉もある。
 また「最後屁」という言葉もある。
 これは、イタチなどが追い詰められて、苦し紛
(まぎ)れに放つ異様なる臭気である。つまり、換言すれば、窮余の一策の「奇手」である。
 奇手が遣えるか否かで、また晩年も一転する。苦しみ抜いて、困り抜いて、追い詰められて、二進
(にっち)も三進(さっち)もいかなくなったとき、此処に登場するのは奇想天外な奇手である。この奇手を、最後の最後に遣えたら痛快この上もない。
 晩年もよく考えれば、そうした奇手を遣う秋
(とき)ではないのか。

 暢気に悠々自適に浸って、安堵する時期が晩年ではあるまい。この時期に、ひと捻りもふた捻りもあっていい。
 奇手が出て来なければ、この世に生まれた甲斐もあるまい。

 若い頃、あるいは壮年時代に大活躍した英雄でも、事業に成功した人でも、死ぬ間際から計算して、「三年未満」の四季を前にした時代の生き態
(ざま)は、そのままその人の人生になってしまうのである。
 また若い頃、時代の流れに乗り、事が順風満帆に進み、幾ら男気と勇名を馳
(は)せ、時の人となり、一世を風靡(ふうび)したところで、死ぬ前から換算して、三年未満の暮らしの在(あ)り方が無態(いきざま)であれば、総ては台無しになってしまうのである。
 逆に、若い頃の極道や放蕩生活も、晩年に一転させて窮余の一策が出れば文句無しである。

 晩年を、どう生きるか。
 これは老後という時期を、趣味や娯楽や旅行に興じることではない。また、老齢年金などに頼って優雅に、悠々自適に生きることでもない。
 依って以て死んでも悔いはない、そうした「道」を探す事である。「道」に殉ずるものを探す事である。譬え「道」に死んでも、後悔はしないというものを見付けることである。

 老いても志を失わず、志に向かって邁進する事である。
 ゆえに、佐藤一斎が言うように「老いて学べば、死して朽ちず」なのである。
 志とは、「学ぶ」ということである。学ぶと言う人生の「活動説」である。
 人は死ぬまで活動しなければならない。活動して勇名を馳せる必要はないが、活動して、学ぶことを忘れてはならないだろう。

 そして、学ぶ場合、一つの態度が必要となる。
 それは学ぶことに於いて、一貫して至誠を貫くことである。この至誠こそ、往時の日本人の本来の学徒の姿であった。
 至誠とは「誠」であり、誠は「まごころ」であった。『陽明学』の言う「まごころ」である。
 この「まごころ」をもって往時の日本人は、至誠の中に「良心」を見たのではなかったか。
 そしてこの良心こそ、陽明学で言う「良知」でなかったか。
 良知の意識をもって、本来の倫理を自覚し、確立して自己形成が行われたのではなかったか。

 この良知という陽明学に本題に迫るとき、幕末から明治、そして大正昭和という時代を下る毎に、私たち日本人は、かつての先祖が身近に触れ親しんだ『陽明学』を、もう一度じっくり読み直し、これからの私たちの思索の踏み台にしていく必要があるのではないか。
 もう一度、繰り返したい。
 「老いて学べば、死して朽ちず」と。
 そこに「学ぶ」という意義があるだろう。
 人生は「学ぶ以外ない」と解することが出来る。人は学ぶ中に人生がある。老いても学ぶことを継続する。これこそ、晩年の生き方である。



【著者作の自選1200句】


























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