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より善き死を得るための老境健康法 1

より善き死を得るための老境健康法







 本当に健康であるとすれば、まず自由でなければならない。縛られていては、健康と言えない。
 しかし、世の中には縛られている人の方が多い。自由を束縛されている人が多い。それでいて、その自覚症状を感じていない。自由を奪われならが、自分が自由でないことに自覚を感じない人が多いのである。

 健康……。
 それは自由を得て本当に健康になれるものである。
 自由を奪われていれば、それが不健康の元兇となり、動くに動けないし、頸
(くび)すらも廻らなくなる。
 世の中には金と引き換えに健康になりたい、長生きがしたい、人から若く見られたいと切なる願望を抱く人がいる。
 また、年から年中病気をしていて、寝たり起きたりして床に臥せているが、せめて正月三箇日だけは健康人でありたいと願う人がいる。つまり「俄
(にわか)健康」である。その日だけの「俄」である。
 何とも、付け焼き刃的な願望を抱く人が多くなった。結局、縛られているからであろう。

 人間の自由は、自らが実践するものである。他人に指図されるものでない。自
(おの)ずから行うものだ。
 そうした中で、人間現象界では社会現象として、貧富があり、貴賤があり、上下があり、差別があり、健康な人と虚弱
(ひよわ)な人、賢人と愚人、そして国家としての興亡があり、また文化文明の隆替(りゅうたい)がある。
 その場合、必要十分条件
(necessary and sufficient condition)は、その定義に従い、自由が健康の必要条件であると同時に、また十分条件も満たし、この場合、自由は健康の必要十分条件になり得ると言えるのである。

 では「自由」とはなにか。
 この自由は、自由奔放を指すのではない。好き勝手の野方図を言うのではない。
 真なる自由を言う。
 それは、健康が自由の必要条件であり、また十分条件をも満たす限りにおいて約束されるものであるならば、身体ならびに自身の環境に纏
(まつわ)る全ては、一切が自由でなければならないと言うことである。束縛されていて自由はない。
 此処まで掘り下げれば、経済的不自由であっては、健康の必要十分条件は満たせないと言うことである。

 その意味で、アラブ人は実にいいことを言っている。
 「借金がなれれば、金持ちなのだ」と。
 全くその通りである。
 彼らは更に言う。
 「貸し借りは、家政の貧しさを顕す」
 同感だ。
 それに比べて現代日本人はどうか。比較すれば一目瞭然だろう。
 アラブの箴言を逆から取れば、“家政が貧しいから貸借が起こり、借金を抱えていれば金持ちであり得ない”と言えないだろうか。
 しかし、自称「一億総中流の上」と信じている日本人は、“借金を抱えて貧乏人”という経済的不自由に全く気付いていないのである。自分の自由が、先ず第一に金銭に束縛され、第二に会社や職場と言う運命共同体?に束縛されているという気付いていないのである。

 アラブは皮肉を込めて、資本主義市場経済に生きる自由陣営革の、今日の日本人に「あなたたちは、実は不自由なんですよ」と、あたかもその種のメッセージを送っているのかも知れない。負債の、債務の出所を指摘しているようである。
 負債を抱えている土地家屋やマイカーの大ローンのことを指摘しているのである。

 そして止
(とど)めが「貧困は争いを残す」と言い、更に「貧困は、人間を盲目にする」と言う、実に皮肉な箴言を持ち出し、あたかも今日の日本人の頭上に降り懸る、個人的な債務というローンだの、月賦だのの「愚」を厳しく指弾しているかのようである。

 三十年以上の債務を抱え、懸命に金融機関への金利と、税金を納めるために働き、これでどうして豊かと言えるのか。
 金と言う紐で縛られ、あたかも遠隔操作されているようである。これで果たして、本当に健康になれる条件が揃っていると言えるのか。一歩間違えば、一家心中ではないか。

 そしてアラブの格言は続く。
 「お前も私もパンを持っている。それなのにどうして羨
(うらや)むのか」
 毎日、如何に暮らしているのか?……という命題を投げつけているようでもある。

 アラブ人は比較的元気である。
 体躯は、痩身で筋肉が締まっており、灼熱の太陽の下でも、平気で過酷な日常生活を送っている。もし、この環境下に今日の日本人が放り込まれれば、一日で根を上げるだろう。
 だが、この環境下の人々は凄まじい生命力を持つ。恐ろしい健康力を持つ。それは日本人の比ではあるまい。

 わずかコップ一杯の水で、アラブゲリラは砂漠の中を、一週間以上も闘い続ける戦闘能力があると言う。
 日本の自衛隊の比ではない。
 凄まじいと言う他ない。
 そのためにアメリカも、陸上戦では完全にイスラム圏の内紛を制圧することが出来ないでいる。
 内紛和平工作に度々失敗が生じるのは、イスラム圏に住むアラブ人の、こうした過酷な日常にも絶え得る「優秀な体質の差」を攻め倦
(あぐ)んでいるからであろう。単に政治交渉だけでは解決しないのは、このためである。
 そもそもアラブ人は、体力に恵まれているというよりも、灼熱の炎天下に堪える体質が優秀なのである。

 それに、何よりも自由である。
 何故なら、借金がないからである。借金の概念がないからである。
 日本人のように、豊かで便利で快適な日常生活を送るのに、そもそもローンで物を買ったり、月賦で物質を手に入れるという発想がないのである。健康なことだ。
 これを考えても、健康と自由は表裏一体になっていて、この一体構造が確立されてこそ、健康維持と経済的自由を得るための必要十分条件を満たすということなのである。

 なお、筆を進めることにあたり、お断りしておきたことがある。
 現代が、往時のような時代背景ではなく、過去の歴史にある生活意識や価値観、または古人の物の考え方が、そのままの形で現代に持ち込むことは、ある意味でナンセンスの何ものでもないであろう。あるいは一部の進歩的文化人や、アナクロニズムを支持する人から批判を受けることがあるかも知れない。しかしそれを承知の上で筆を進めた次第である。
 また、それに違和感を感じる方もおろう。危険な匂い……危ない思想……などと、頭から毛嫌いする人もおろう。

 しかし、である。
 情報と言うのは違和感を与えてこそ、真の情報と言えよう。
 何ら違和感も無く、すんなりと染み込んで、意図も簡単に受け入れられ、それに軽々しく相槌を打つような軽薄情報では、情報としての何ら価値も無く、また言葉を弄
(ろう)して、わざわざ発表することもないであろう。
 ゆえに真の情報と言える。

 この「真」を歴史的人物に学べば、かの吉田松陰がそうでなかったか。
 松陰には先駆者の孤独と怒りがあった。これは本来ならば、称賛されるべきことであったが、違和感により、最初は人々の非難と無理解の渦の中に立たされた。しかし貫き通す信念は、ネバー・ギブ・アップの精神を失わなかった。生涯を陽明学の「知行合一」の信念で貫いた。それを不屈に変えた。
 それも松陰は、歴史的な渦と激流の中で、である。
 これこそ「事情磨錬」の真髄。
 事に及んで、自己を錬磨するのである。その意味で、松陰の「不屈の精神」は後の世まで輝いた。

 歴史の流れは単に通過するだけでない。この流れには渦が存在する。その渦こそ、食わず嫌いの人々の非難であり、無理解である。
 しかし信念を持っている人は、これにへこたれない。自信を失わない。最後まで貫き通す。老いてでも、である。筆者もその精神に肖
(あやか)りたい。老境を貫きたい。

 更に申し添えれば、他を例に挙げ、遠慮のない論説を展開させているが、そのことについての責任に一切は、当然の如く、筆者個人に帰すべきものである。
 また、此処に展開する「より善き死をあるための老境健康法」と銘打ったものは、これを真似したからと言って、寝たっきり老人が恢復
(かいふく)して立ち上がり以前通りの仕事に従事出来るとか、重症患者が奇蹟的に恢復するとか、現在老境を安静に過ごされている方が、同じように真似されて、更に健康で長生き出来るというような類(たぐい)ではない。

 むしろ、これまで心身を鍛錬した経験の無い人は、これを真似して強靭になるどころか、逆に持病をこじらせるかも知れない。
 私が展開する持論は、あくまでも「依って以て死ぬ何か」の糸口を提示しただけで、それがそのまま「成仏健康法」などと思い上がった考えは毛頭も無いことぎ理解頂ければ幸いである。


西郷派大東流合気武術



●年寄りに見える事は悪い事か

 世の中に「あなたは若いですね」と言われると、眥(まなじり)を垂れて喜ぶ。心情だろう。あるいはそれほど単細胞か。
 とにかく、そういう人が多い。
 そして内心、「そうか俺は若く見えるか」と喜々とした感情に舞い上がる。一時の有頂天に酔い痴
(し)れる。

 特にこの言葉は、飲み屋などに行って水商売の女性からこのように世辞を言われると、自分の実質年齢と、他人が見る年齢差がある事に喜々とするようだ。
 あるいは近所のご夫人達からこのように言われると、若く見られる事が実に嬉しいようである。背景には、“モテたい一心”の色気と下心があるからだろう。要するに、単細胞でありながら単細胞の危機的な自覚症状がないからである。軽薄なのである。

 つまり、“自分の年齢より下の歳に見られた”ということが嬉しいのである。その嬉しい根底には、「もしかすると、オレに気があるのでは?……」などの、その手の感情と期待が働いているのかも知れない。

 「あなたは若いですね」
 果たしていい言葉だろうか。
 私がそうは思わない。
 私は若い頃から、青二才に見られるのが実に厭
(いや)だった。若造と言う風に見られ、頭ごなしに軽くあしらわれる事が厭だったのである。

 果たして老けている事と、これに対峙
(たいじ)した数直線上の、「若い」と見える肉の眼の錯覚は、単に「見た目」の形容で、かくもこのように天地を隔てるほど大きなものであろうか。愚である。
 高々肉の眼で視た個人それぞれの主観からである。

 人間の年齢は、高々長生きしても百年程度である。それが仮に百二十歳に達しても、高々120年である。
 宇宙の悠久な、厖大な時間からすれば、高々この程度では一瞬の瞬
(まばた)きであろう。人の生命の光など、刹那(せつな)である。
 青春を謳歌
(おうか)し、恋に歌に享楽に、あるいは淫蕩(いんとう)に現(うつつ)を抜かしたところで、それは100年の数分の一であろう。宇宙時間からすれば刹那である。

 しかし、この刹那が大事と言う人もいる。人生を享楽主義で捉えている人は、多くが、それを支持しているようである。
 その一方では、官能主義は横たわっているからである。快楽こそ、人生の一番の意義と考えている人たちである。だが、これらの人たちに批判する意思はない。また、それも人生であるからだ。

 しかしである。
 享楽や快楽の背景には、「人生は短い」とする刹那主義が存在するからである。刹那の果てに、人は恋に歌に酔いに、身を投じる。
 これが自由恋愛である。
 だが、これは動物的である。

 だがこれを“大人の恋”と賛美する人もいる。これが行き過ぎると、自由恋愛は不倫へと畸形
(きけい)する。しかし、この畸形を好む人もいる。人それぞれだ。批判はしない。
 だが現実に戻れば、この側面に、ただ一時
(ひととき)の情熱に過ぎない熱病の形跡や、一時の酔いに過ぎない幻が横たわっていることも、また事実である。

 こうなると、一人の人間の理想も希望も、ただ一時の夢としか見えなくなって来るのである。
 また、現代人のニヒリズムは虚しい遠吠えのようでもあり、時代の節目節目には、このような現象が顕われるようで、いつの時代も、一つの社会の終わりに顕われて来る末期的な現象といえよう。
 末期に顕われる一つの頽廃
(たいはい)心理かも知れない。また昨今の不倫現象は、これに起因するのかも知れない。だが決して、大人の恋などではあるまい。
 現代の高速化する時代の襞
(ひだ)から生じた、爛(ただ)れた現象なのである。

 不倫の裏には何があるか。
 結末には悲しみが待っている。一方、それに救いの需
(もと)めを俟(ま)っている。側面には現実逃避があるからだ。その側面の部分に“癒し”を感じるのかも知れない。幻想であろうが……。
 だが、この癒しはかりそめであることは疑いようもない。現実逃避から起こった事象であるからだ。

 この事象の実際は、フランスの詩人であるボードレール
Charles Baudelaire/象徴派の先駆者としてならし、頽廃主義の代表者でもある。芸術至上主義を唱え、散文詩「パリの憂鬱」などがある。1821〜1867)や、同じくフランスの詩人のヴェルレーヌPaul-Marie Verlaine/多彩な変化によって音楽的に感情表現をした事で知られる。特に詩集の『秋の歌』は上田敏によって訳され、日本でもよく知られている。1844〜1896)の詩を読むと、それが一目瞭然となる。

 両者には頽廃心理が横たわっている。それを他人に押し付けようとすらしている。
 人々を捉える構造で、散文詩的には一種の体系的誘導がある。それは科学的であるとさえ思える。
 そして、ついにはその誘導によって、「世の中には何も信じるものがない」とか「希望がない」だから「馬鹿げている」という嘆きと呻
(うめ)きがあり、益々快楽の中にのめり込んで行く。
 そして自らも、惹
(ひ)きずり込まれる酔いに酔い、その魔力によって、頽廃する先入観を注入されたような錯覚が起こるのである。

 この錯覚現象の果てに、何が起こるのだろうか。
 それは紛れもなく頽廃
(たいはい)であろう。
 気風など何処にもない、崩れた姿の野晒しである。それに懐かしき、心の頽廃の故郷を感じ、一時の慰安に酔い痴
(し)れるのかも知れない。その程度の儚き回想である。「昔はよかった」という“あれ”である。

 この現実逃避の実体の中に、“その日暮らし”があり、その日その日を酒に酔って暮らせばいいとか、側面には恋の一つでも……という不倫の因子が見え隠れしている。
 呑んだくれた行き斃
(たお)れも、またいい。朝は朝の風が吹く。「今」と言う、現実は思い出すまい……の、この種の感情である。ご都合主義の先送り論である。
 つまり、頽廃の裏には、名声とか出世とか利益とは無縁な、心の虚
(うつ)ろが表現されているのである。それを、働き蟻のように日々あくせく働く俗人には分る筈がないとしている。
 そして益々深みに嵌
(は)まり、酔い潰れ、淫蕩の中に身を没して行く。爛(ただ)れた官能主義の中に、身も心も投げ棄(す)てるのである。

 何処までも酔い潰れる。醒
(さ)めれば現実に引き戻され、心の虚ろが眼を醒(さ)ますから、そのために酔う事で、また現実逃避を図ろうとする。何処までも酔い痴(し)れていたいと思う。一種の麻薬現象である。
 しかし、一方で酔い醒めの悲しみが、身を蝕
(むしば)む現象が起こっている。実に悲劇的である。

 心の底で酔い醒め状態を嫌えば嫌うほど、この状態から醒めまいとして身を乱倫に躍らせるのである。
 そして最も不幸な事は、そう言う自分を、心の底で蔑んでいるのである。気風の一欠片
(ひ‐と‐かけら)も感じられない。現実逃避の実態である。

 不倫の背景とそれは、終焉
(しゅうえん)に向かうストーリーの中には、末期症状としてこうした兆候が現れて来る。
 つまり、わが身を進んで屍
(しかばね)にし、ひたすら官能享楽に明け暮れ、沈湎(ちんめん)するのである。

 この背景に、ややともすれば生への否定が感じ取れなくもない。生気を失っている観すら漂わせている。
 そのくせに死よりも生きる道への模索が幽
(かす)かにあり、少しでも生へと転がり込もうとするもがきがあるが、如何せん、身悶えすればするほど、より深い爛れた心の方へと誘導され、全く自己完結が出来ない状態へと陥るのである。

 一方、唯美主義文学の代表者であったイギリスのオスカー・ワイルドは唯美主義者の典型であるが、人生を享楽と美で追求した人であった。
 唯美主義を信条にその探求に努めたが、遂には行き詰まる。破綻
(はたん)して牢獄へと繋がれた。牢獄の中で目醒めた彼は、新しい生き甲斐を自分なりに発見し、痛切な告白として『獄中記』を書いた。
 その中に彼は溜め息のような深い言葉を残した。
 「真実なものは、悉
(ことごと)く宗教とならなければならなぬ」と。

 つまり彼は、精神の旅路を通じて放蕩息子が、わが家に帰宅するように、そのわが家は、奇
(く)しくも宗教だったのである。そして「理性も助けにならぬ」と一蹴している。
 しかし、また人の世の営みは、究極的には全て虚しい……という結論に宗教が出て来るのは、私個人としてはどうしても解
(げ)せない。そうなってしまえば、終わりは死しかないからである。

 死は、宗教でしか救えないとしているからである。
 しかし、その「救う」は、科学的と称する現代は、肉体を救うのであって、魂を救う事はないというふうに受け止められなくもない。つまり、上手に死から逃げ回る行為の一つを宗教に持ってくれば、果たして人間に死の尊厳などあろうかと思えて来る節がある。

 つまりである。
 人生の営みに対して、なるべく心を煩
(わずら)わす事無く生きる……などの、結局が現実逃避の輪廻の中に返り咲いたような、旧(もと)の木阿弥に戻ってしまう観があるのである。確かに二巡は、一巡より経験度は深いだろうが、同じ輪の中に繰り返される生き方しかなくなっているのではないか?……という懐疑が生じるのである。
 果たしてオスカー・ワイルドは、嘆美主義という濾過器
(ろか‐き)を通じて、放蕩と逃避癖は解決出来たのだろうか。また世俗が超越出来たのだろうか。



●享楽と迷走の現代

 現世の享楽は、何が拠(よ)り所か、迷走させるようである。
 結局、美食に舌鼓を打ち、最先端であると思われる高級衣服や装飾品で身を飾り、豪邸に棲み、高級乗用車を乗り回し、取り巻きに傅
(かしず)かれ、自由気ままに、お大尽(だいじん)的に、気楽に暮らせると言う生活を、現代は“幸せ”と呼んでいるのではあるまいか。
 もし、そう思っているのなら、紛れもない幻想である。だが気付かない。夢に酔いたい。そういう現実が物資文明社会の中に横たわっている。

 つまり、衣食住を最大の享楽にしているだけである。これも立派な享楽主義である。それに、性
(セックス)が加われば、言う事無しという人も居よう。
 背景には、自由恋愛の愉
(たの)しみがあり、性に、色に溺れる官能があり、文化や恋愛の享楽に、より入れ揚げて、これこそ“豊か”と錯覚することや、これ自体を摂取することを現代人は、愚かにも“幸福”と呼称しているのではないか。
 愚である。

 確かに人生の目的は幸福にある。
 次に、永遠なる若さと健康が約束されれば言う事はないだろう。
 いつまでも若く、歳を取らず、元気で、健康という条件を幸福と位置づけた現代の世で、全ての現代人は、自然人的幸福に置き換えて、この追求をしている事になる。虚構の上に虚構を重ね、一生掛かって、砂上の楼閣を築こうとしているのである。
 したがって、この図式の中には、豊かで便利で、快適な物質的な幸福の追求という数直線が成り立ち、その数直線は、まさに右肩上がりである。実情はエスカレート方向にある。
 あたかも麻薬患者が麻薬を欲しがるように……、また金持ちが金をもっともっとと、必要以上に欲しがるように……。

 つまり、現代人はなぜ働くか?……。
 この命題に回答せよ、といったら、果たしてどれだけの人が答えられるだろうか。
 多くは沈黙するより、分らないのではあるまいか。
 それは沈黙と言う方で顕われる。現代人の実態である。
 それは自然人的な人間の欲望を燃焼させ、その欲望を資本主義と言う現状の中で、最大限に満たそうと、誰もが奔走している事である。つまり現代人の「働く」という目的は、此処に回帰されるのである。

 そして資本家や資産家、あるいは企業の経営者は、株式会社と言う経営構図をみても分るように、大規模に組織して、社会的に利潤の追求を当て込み、資本家経営
(社員一人ひとりが経営者と言う、経営者の使役主義の培養と欺瞞)だとか、原料現地獲得だとか、市場獲得だとか言って、その活動の拠点を今日ではグローバル化してしまったため、否応なく取り込まれ、分類され、階級化され、歯車化されたという現実がある。
 言に、第三次産業に関わる職業人の多くは、それぞれの分野で専門化されたということである。この分野では、歯車化されたエキスパートで構成されている。

 そして見落としてならない嘯
(うそぶ)く背景には、恍(とぼ)けた「自然人的追求は、結局は人間は動物である」という万物の霊長の人間を物質視し、格下げした、戯(たわ)けた建前があるからである。

 日本人が「エコノミックアニマル」と蔑
(さげす)まれて随分と久しい。
 更に、人間を政治的動物だとか、社会的動物だとか、道具を使う動物だとかの規定枠表現があるが、結局これは「人」イコール「動物」と看做
(みな)した感覚と同義ある。

 その顕著なる現れが、今日の病院における診療方法で、医者は人間を相手にせず、奇妙にも病気を相手にしている。
 医者は人を診らず、検査結果から出たテータの数値のみを検
(み)て、病名を判断し、治療法を模索するのである。あたかも規定通りの、事前に解答の出たマニアルに従って、手順通りの診療行為を行っているのである。
 これは何とも奇妙ではないか。

 そういう側面を見れば確かに人間の尊厳などは希薄になり、人間が自然的存在としては、動物の中の一種類でしかなくなる訳だ。単に、政治とか社会とか道具とかの用語で区別されて、他の動物との分類を「種が異にしている」と定義付けされているに過ぎない。つまり、動物と言う「物」である。

 その「物」の側面に、愛欲とか楽欲とかが渦
(うず)のように付き纏っているのである。
 更には、怒りや怨みや争うが泡立っている。悦びや愉しみが、幸福と言う別称で呼ばれ、これらが複雑に縺
(もつ)れ合っているのである。何と言う凄まじい爛(ただ)れたエネルギーであろうか。

 この世の人間模様は、浅ましいき人間相であるとともに、また懐かしき人間相でもある。
 一方で、この人間相に、宿命的な矛盾が付き纏っているから、これは何とも不可解である。
 そして回帰の輪の輪廻を一巡すれば、不思議にも、「若く見える」したがって「まだまだ先は長い」という希望的観測に落ち着くとは、何とも奇妙なことである。



●老いが乱れる社会現象

 人は、生・老・病・死の四期を送る。
 最後は死が待っている。その前は「病」であり、ほぼ同じ時期の「老」がある。そして昨今は、老が乱れたと感じなくもない。
 では、「老が乱れる」とはどういうことか。

 老いても、若くありたいという矛盾である。
 この矛盾こそ、現代人の頭上に降り注ぐ大矛盾であり、老いを逆行させると言う、本来自然の摂理にはなかった逆現象を狙った行為が、今の世を席巻しているのである。
 果たして、これに反作用は働かないのか。

 更に働くとして、これに追い討ちを掛けるのが、異常なるサプリメントの飲食率の急増である。急増の背景には、テレビコマーシャルの喧伝がある。
 サプリメント食品は、形状は薬剤のようなカプセル状の恰好をしていて、これを飲用するのであるが、その表現が「飲む」と言わずに、「食べる」というのである。薬事法の制限を受けているからである。したがって、この曖昧さは、薬なのか健康食品なのが実に不明瞭なのである。
 その不明瞭食品は、爺さま婆さま階級を頂点にして、売りに売りまくる。あたかもマルチ商法の如きである。側面には詐欺の匂いすら感じられる。

 甲高い早口の男の声で、あたかも自動小銃
(マシンガン)のように、くっちゃべるあの宣伝方法は、人間の脳を破壊するテクニックが遣われているのではないか。そう思える節もある。
 ゆえに視聴者は強迫観念に揺すられる。話術と言う巧妙なテクニックによって、ガンガン繰り返すと、その心理的効果の暗示に掛かって行く。そのうえ早口で喋りまくる。まさにマシンガンである。
 このマシンガン的テクニックに、視聴覚の老朽化した爺さま婆さまは弱い。遂に掛かる。カモられる。何と他愛の無いことよ。

 この早口が、小気味よく聞こえると、聴いているうちに、人はその暗示に掛かり、「では、自分も買わなければ」という急き立てられるような気持ちになってしまう。強迫観念である。
 ここがこのマシンガン話術商法のミソなのである。早口商法、ガンガン喧伝商法の得意なテクニックの、四十代以上をターゲットにした売込み術である。

 この手の喧伝コマーシャルが流行する近年の現代社会に特徴は、社会構造のターゲットが中産階級の階層に設定されており、そこが狙い撃ちされて、「健康」と言う羨望を感じさせる名の下
(もと)に、この階層を動かす作用が働いているのである。
 したがって実質上は、上辺だけが動いているし、動かされている。
 これを「資本主義商法のターゲット論」とでも言うおうか。
 つまり、資本家は何処をターゲットにして商売をすれば、これまでの自分の資産がより多く倍増出来るか、そこに焦点を当てた理論なのである。

 資本家は、仕掛人に投資する。罠を上手に作れる仕掛人に投資する。
 その投資を、仕掛人を通じて回収する。まさに資本主義の回収システムである。利潤追求は仕掛け上手な仕掛人によって齎される。資本家はそれに準ずる資金提供だけをそればよい。金持ちが益々金持ちになって行く、この社会での社会構造である。
 民主国家と標榜する多くの国と国民の関係は、この中に回収の循環構造を持つ。
 したがって、国民は常に「民主の坐」に押し上げておく必要があるのである。
 その意味では中産階級は絶好の獲物なのである。

 この階層は、ヌーの群れような、同一心理を持った社会的動物であり、それは常に浮動状態にある。したがってコントロールし易い。それなりに小金も蓄えている。獲物に不足無しである。

 選挙で言えば、定まった確たる政党を持たない有権者同様、そのときその場で、浮動的に如何様にも変化する階層である。最もコントロールし易い階層であり、世論操作の風に弱い。風向き次第でどちらでも向いてしまう。
 そして常にコントロール可能な状態にしておくには、「民主」という建前がいるのである。

 これは、この階層が一様に大学まで出た中途半端な知識階級であり、その中途半端な知識、つまり専門職的な知識は持ってはいるが、総合職的な企画や立案という指揮系統の総合知識を持たないからであり、足許
(あしもと)は如何様にも動く浮動体であるからだ。
 つまり、現代社会の現実的な実情は、知識があっても常識ないと言う構図を作り出しておいて、この中途半端な浮動体をコントロールすれば、利益が簡単に転がり込むという仕組みがあることだ。足が地に着かない者をコントロールすることは容易
(たやす)いことだ。

 あたかも某柔術のように「押さば引け」で済むからである。
 足許が不安定な人間を倒すのは柔術の極意であるばかりでなく、政治でも経済でも社会状況においても、世相の一部を操作するだけで、総ての分野に応用可能なのである。この背景に、流行とファッションが生まれるからである。躍るのは中間層である。

 しかだって、この階層は弱点として、これまでに学んだ中途半端な知識すら、智慧に返還する能力を持たないのである。
 大局的に見れば、根幹に企画・立案出来ない、考えない、思考しない脳に、帰納法的に因果係数が変換されてしまったといえよう。

 また、日本の野放し笊
(ざる)法は、厳密に「サプリメント」という定義が為(な)されず、この用語に、「健康食品」の行政側の確たる定義は為されていないのである。
 いつの間にか、“サプリメント”イコール“健康食品”の図式が、日本人の頭に染み込んでしまった。これを医療食品と勘違いしている人も多い。

 また、“サプリメント”イコール“栄養補助食品”として気軽に食べられる状況を作り出しているが、実際には成分表に記載されていない合成栄養素や増粘剤を用いた粗悪品もあり、仮に含有されていたとしても、ビタミンやミネラルなどの有効成分がほんの微量しか含まれず、然
(しか)も矢鱈に高価なのが、このタイプの商品の特徴である。
 つまり商品が「高い」という事がミソである。
 背景対峙として、世間には、安かろう高かろうの巷用語があるからだ。
 ゆえに高い。食品販売会社の、販売価格の特徴である。
 ダイエット用の健康食品と銘を打った食品は、摂取過剰となるとアレルギー症状を訴える被害者も出始めている。

 テレビコマーシャルで垂れ流しするこの手のCMは、殆ど野放し状態で、消費者の安全面や健康面を無視している。
 現に、ビタミンEなどは過剰摂取に注意しなければなるまい。
 摂取過剰は「過剰症」という症状が現れるくらいで、これも現代の奇病・難病に入ってしまった。
 それらは副作用から起こるもので、栄養補助食品の力を借りて、若く見せるとは、健康に見せるという行為自体に問題があり、これは一度嵌まると麻薬のような常習性を持つ。そうなると食べなければ……という強迫観念が働くようになり、遂には手放せなくなるという悪循環に陥るのである。

 これは愚行を含めて、自然の摂理に逆行することは、愚である。
 したがって、老いを逆行させたり、老いの速度を遅らせて、不健康を健康に復元させることではないし、況して重症の病人を元通りに復元させることではないのだ。
 一切の行為に、自然の摂理を無視した愚行があるからである。

 現代の健康産業を扱う商法に、「健康に老いて行く」という自然の流れと摂理を、逆行させた問題がある。
 過剰症を含む健康被害に、作用に対する反作用が働いていた事は顕著である。しかし反面に、幻想の躍る現実がある事も否めない。
 さて、「民主」と持ち上げられた国民のムーの群れは、何処を目指そうとしているのか……。

 私は、老いて行くこと、そして死んで逝くことを、決して悪いこととは思わない。
 人間は、ある歳が来ると、死と真摯に対面しなければならい時期が遣って来る。ここで、死に対してそっぽを向くと、死の方も人間にそっぽを向く。
 立派な作用と反作用である。
 ゆえに死に辛くなる。死が怕
(こわ)くなる。

 死からそっぽを向かれた反作用は、惨めと言うより、その死の瞬間が、まさに断末魔だろう。筆舌に尽くし難い苦痛に苛まされるだろう。
 臨終の刹那の断末魔を著したものに『臨終用心抄』がある。
 それによると、「断末魔の苦しみのために臨終をしくじる」とある。これこそ不成仏の構図である。

 また、『正法念経』には「命終
(みょうじゅう)のとき風(ふう)みな動かず、千の鋭き刀、その身の上を刺すが如し。故はいかん。断末魔の風が身中に出来(しゅったい)するとき、骨と肉とが離るるなり」とあり、ここには断末魔の強烈な痛みが上げられている。
 この強烈な痛みは、あまりの堪え難い痛みに「臨終をしくじる」と指摘しているのである。
 そして「臨終のしくじりとは、つまり不成仏だ」ということだ。
 これはあくまでも、「死後の世界がある」と信じる人にとっては、である。
 信じなければ、その限りでない。




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