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続々・刀屋物語 1

武門が刀に何かを託し、これを心の拠り所においたのは、心象の背景として「任」の一字あったのではなかろうか。この一字が、「自分に任せられた職分を全うする」という自身の使命を認識したのであろう。これが庶民・民間にあっては「任侠」となり、武門・武士階級にあっては「武士道」となったのであろう。
 そして特に任侠に限っては、今日でも日本人には馴染みが深く、更には人気も失われていない。

 その根幹を探って見ると、此処には日本精神があり、「武士道と任侠道」が横たわっていることは歴然としたことであろう。
 一般に任侠道と言うと、現代人は直ぐに広域暴力団を想像するようであるが、こうしたものではなく、弱きを扶
(たす)け、強きを挫く事であり、そして義のために、愛する人のために、世話になった人のために、自分の命を捨てる侠気(おとこぎ)の事である。そして、死すとも己の節を曲げない。
 だが、決してエエカッコシーではない。また目立ちたがり屋でもない。仕切り魔でもない。
 諦めず、ネバー・ギブ・アップの根性がある。何処までも「不屈の精神」で立ち向かう。
 これこそ「任」の精神である。

 または、ひとつの事に命を賭ける事。弱者に優しく手を差し伸べる事。我が身をかえりみずに、自分一人になっても弱者を守ってあげる事。 そして、施しても報いを受けず。受けて恩を忘れず。 そういった自己犠牲の精神が任侠道である。
 だから、トラックの運転手にも、魚屋の親父にも、 会社員にも、任侠道を実践してる人はいる。この現代に至っても、である。


 かつて武士道は「官」の階級のものであった。そして「官」は自分の責任の全人格において、全体に奉仕すると言う気持ちが強かった。まさに「官」の価値観であった。
 それに対して庶民の武士道が「任侠道」であった。また、両者に共通するのが、敬神崇祖。祖先崇拝の信仰心。
 我らは現界にありて、祖先は幽界にありて力を合わせ、天壌無久の皇運を扶翼する事。しいては先祖の霊と一体化する事。 これこそが、本来あるべき日本精神の正しい姿である。
 日本の庶民生活 の中に生き続ける任侠道。

 それこそが、かの中国の司馬遷が、『史記』「游侠列伝
(ゆうきょう‐れつでん)」の中で述べた侠客・侠気の事である。 したがって任侠とは、カラクリモンモン(倶利伽羅紋紋の彫り物)の兄さん方が凄む事ではない。むしろこれらの青年が、義の為に命を賭ける事であった。命を賭けて、義を貫く気概の事である。
 それは「世話になった人のために、我が命と引き換えに恩を返したい」これこそが任侠道である。

 さて前述のように武士道とは、支配者階級・上流階級のもので、「官」のものである。かつての武門には、その重責を担う責任感があった。今日の役人の比ではない。自己の責任は切腹と言う形で、見事に自己完結をしてみせた。今日の官公庁の高級官僚とは全く違うのである。高級官僚どもは、責任回避に言い訳の羅列を並べ、しかしそれでいて責任を一切取らない。冠たる恥知らず。

 ここには国家公務員一種試験のあり方に問題点があるのは紛れもない事実である。この合格者を上級組
(キャリア)という。他の各種試験を経て来た者を下級組(ノンキャリア)という。
 上級組は優秀者
(エリート)として出世街道を急速に駆け上って行く。
 一方、下級組の頭上には鉄板の如き重圧な壁があって行き止まりになっていて、能力と業績に遺憾に関わらず殆ど累進出来ない。最初から能力の揮う舞台など用意されていない。

 近年の国家公務員一種試験の合格者数は1500人前後という。競争率は25倍以上とも言う。年度において多少の違いは生ずるが、ほぼ同じ状態で霞ヶ関に在籍する者が上級組で在籍し、総員はざっと2万人と言う。そのうちの絶大な権限を発揮出来るというのは約2%であり、現在の日本を牛耳っているのは高級官僚のうち400人程度が日本と言う国を動かしていることになる。

 そして一度、霞ヶ関の組織に組み込まれてしまえば、自由競争の片鱗もないし、また失態には責任をとって辞職することもなく、恥に対しての自覚もなく、総て頬っ被りですます。この優遇には公平
(フェア)性がなく、また人種差別の最たるものである。
 官僚を審査し、点検し、評価する個別の独立機関すらなく、また圧力でそういうシステムすら作らせない。現行の方式で、形ばかりの馴れ合いになっているため、失敗や僻事
(ひがごと)や曲事(まがりごと)の隠蔽(いんぺい)だけが茶番の如く繰り替えされている。
 明治以来、官僚が互いを厳しく批判し合ったり、自浄作用で赤誠を示した実例はこれまでに一度もない。

 かつての武士は、それだけに責任感は旺盛で、恥辱に対しても敏感だった。
 中国の古典を読み、高い教養を身に付け、辱しめられたら、死をもって償う。直ちに腹を切る覚悟を、平素から決めている。

 これが武士の姿であり、明言すれば余りにも浮世離れしている。 五百石以上の上級武士は殿様に仕えてるから、生産活動をしないでも飯が喰える。 だからこそこれと引き換えにわが命を全体のために奉仕して掛けてもその責任は取るという使命を担うのが武士であり、その責任は上に行くほど重かった。一筋に、責任をもって職務に専念出来る。
 しかし、日々の生活に追われてる貧しい一般庶民には出来る訳がない。無理である。
 だから、武士道を庶民化したものが必要になってくる。 武士道を庶民のレベルに落としたもの。
 それが任侠道である。

 そもそも任侠とは、古代中国からきた言葉である。
 死すとも節を曲げない。「任」の一字で押し通す。この精神は『水滸伝』や『三国志演義』の中にも見られる。
 今でも民衆の中にそのまま生き続けている。それは任侠奉仕以外に野心もなく、また私心もなく、義侠とともに粉骨砕身の奉仕活動が民衆の支持を得たからである。

 これこそ「以
(もっ)て人を愛することを勧めざるべからず」ではないか。
 要約すると、「人を愛することを勧めずにはいられない」ということである。また、この博愛精神は墨子集団の中にもあった。民衆の住む城内をとことん守ってみせる守禦術
(しゅぎょ‐じゅつ)の中にもあったからだ。

 暴政を行う権力者から庶民を守る為に、生死をかえりみずに権力者に立ち向かったのが、任侠者・侠客の始まりである。
 だから任侠道はその成り立ちからして、権力者の側の価値観ではなく、最初から庶民の側の価値観であった。

 今日にも伝承される日本のカルチャーを見れば一目瞭然だろう。
 国定忠治、播随院長兵衛、新門辰五郎、清水の次郎長。
 日本人に人気のこれら任侠者
(ヤクザ者。ヤクザと、ヤクザ擬きの暴力団や知能ギャングは性質が根本的に違うので注意)達はみんな、「庶民の味方」の人達でである。決して「権力者の側」の人達ではない。
 あるいは庶民を救う為に、年貢取り立て悪代官に逆らって磔
(はりつけ)の刑にされた佐倉宗五郎。更に武士では大塩平八郎(大坂町奉行所の与力)、吉田松陰、西郷隆盛らの人達。彼等は武士とは言え、大塩を除けば下級の出である。

 日本人に特に人気の上記の英雄達で、「権力者の側」や「体制側」の人間なんか一人も居ない。  むしろ、「庶民を救う為に権力者に逆らって殺された」人達ばかりである。 そしてこれこそがまさに、任侠道である。

 日本人は、判官びいきと言うか、「権力者や体制側に逆らう弱い方」に感情移入する傾向が強い。
 逆に、「権力者や体制側の物語」は、あまり人気がない。 「官僚や役人になって出世した物語」なんて、全く心を打たない。庶民は好まない。
 だから例えば、国家権力の一部である警察をモデルにした物語でも、日本人に人気なのは、庶民的な「こち亀の両さん」である。
 任侠に話を戻すればと、『男はつらいよ』の寅さんや高倉健なんかも、完全に任侠といえる。
 支持する人は多い。 高倉健のイメージは「武士」ではなく、「任侠」である。 健さんは映画の中で武士の役もやっているが、あまりピンと来ない。 国民的大スターの健さんのイメージもやはり、「権力者側」や 「体制側」ではなく、庶民の側で生きる「任侠」なのである。

 日本人の心の拠り所……。
 その深層部には、日本人と日本刀の結びつきがあるのかも知れない。日本人が刀について、畏敬の念を抱くのは日本刀を霊剣視しているからであろう。刀剣をただの道具と看做さず、邪を払う神聖さとともに芸術性と実用性の傑作の域を観じるからであろう。それがまた、任侠道に結びつき、武士道に結びついているのかも知れない。

 刀と言えば、江戸時代の風俗からして武士の二本差しを想像するのであるが、武門以外でも旅をする時は護身用として道中差しなる長脇差しを指し領としていたし、任侠の徒も長脇差しを指していたのは周知の通りである。これは芸術性とともに実用性を認めていたからである。

 神器としても、「三種の神器
(みくさ‐の‐かむだから/さんしゅ‐の‐しんき)」からも分るように、天孫降臨の時に、天照大御神から授けられたと言う鏡・剣・玉を指し、日本の歴代天皇が継承して来た宝物である。
 則ち、八咫鏡
(やた‐の‐かがみ)・天叢雲剣(あま‐の‐むらくも‐の‐つるぎ)・八尺瓊曲玉(やさかに‐の‐まがたま)である。三種の神器を分り易く云うと、まず鏡において「鏡を見ろ、そこに神がいる」という意味で「鏡に映ったあなたこそ神だ」ということを教えており、勾玉は「自身の命」を指し、剣は自分に危害をなす邪悪なものを退治するという意味から始まっている。命あるものを自覚した上で、破邪顕正を教えているのが刀剣なのである。



●資金力

 若い頃から「資金力」という言葉に引っ掛かりを覚えていたことがある。
 刀屋を生業
(なりわい)にしながら懸命に、その道で飯を喰って行こうと思っても、これを時々頓挫(とんざ)させようとする翳(かげ)りが、資金力と言う実の伴う言葉だった。
 実弾がなければ、弾は撃てないのである。

 市場で、古美術品の相場状況を見ながら市状を観察するのであるが、現生
(げんなま)と言う「実弾」がなければ、無い袖は振れないのであった。
 しかし、それにしても相場は微妙に変化するものである。
 昨今は海外と連動相場になっているため、その動きに奇妙な現象が加わる。
 また海外からの古物商バイヤーも、日本刀市場に多く参入するようになった。そのため、思い通りに落札出来ない場合がある。いい物は殆どがそうである。
 「いい物」とは、現代の世にあって、「やがて出世して行く物」と言う意味であり、単に掘り出し物と言うことだけではなく、自分自身の眼を通じて目利きとなり、美術品としての価値を増していく物を指す。それは投機という意味ではない。まさにいい物であり、「出世して行く物」を指す。
 刀剣類にも、こういう物がある。刀の場合は「出世刀」という。

 「出世刀」とは、これから伸びると予想される作家物をいい、これは刀剣類のみではなく、古美術の世界にもある。時代とともに評価が変化しているのである。その評価の中で、目利きの人から買うか、譲るかしてもらっておけば、必ず、そうした物は日とともに、美術品としての価値がどんどん上がっていくという作品のことで、目利きは、自らの眼力を通じて将来出世して行くであろうと言う物を読むのである。したがって、これには投機性はない。愛好する上での眼力で読むのである。

 しかし、読んだところで、無い袖は振れない。また、一か八かの博奕勝負に出て、読み間違いで多大な損を被るだけの資金力もない。
 底辺の私のような資金力の乏しい刀屋では、中以下の物しか廻って来ない。業物にはとんと縁のない今日この頃である。しかし、それでも出世刀を鑑
(み)る目だけは養っておかねばならない。刀剣をみるには「三つのみる」がいる。

 則ち、最初は「検
(み)る」であり、詳しく調べて当否を考え、次に「視(み)る」で思索や過去の経験などを照らし合わせて智恵や知識においてその範囲を視野で見通すことであり、また「読むこと」を意味し、最後に「鑑る」で芸術作品を美として味わうことなのである。この三つのみるが揃って、「出世物」を掘り出して行くのである。
 普通、“掘り出し物”といえば、思いがけずに偶然に手に入れた珍物をいい、また安価で手に入れた物が、実はとんでもない値の張る物で……などという物を指すらしいが、そういう物は人生に一度有るか無いかの幸運と偶然が重ならないと行き当たる確率は殆どなく、最初から夢のまた夢の次元のものである。

 ところが、真なる掘り出し物は常に自分の目の前に回遊しており、それを自分の眼力で探し出すか否かに掛かるのである。目利きでなければ自分の前に回遊している物が何であるか分らない。ただのガラクタに見えたりする。
 しかし目利きはそういう物で見るのでなく、読むのである。それは下地の検るという当否を検討出来る眼がいるのである。それがなければ、目の前を素通りしているだけであり、真物に気付かない。素人の眼とはそういうものである。

 だが、掘り出し物は遠くにあるのでなく、既に自分の前に、自分の足許に転がっている場合が少なくないのである。それを自分が宝と気付かず、また自身で宝の山に入りながら見逃しているだけのことなのである。
 無い袖もあろうが、実は見落として見逃している場合も少なくないのである。私自身宝の山に入りながら、いつも見落とし、見逃してばかりいた。
 しかし、そうは言っても「金のないのは首のないのと同じ」で、経済的不自由では人格まで否定されてしまう世の中である。商魂を燃やして努力することも、また必要である。

 振り返れば、私の刀屋人生は金銭で大いに苦労し、金策の連続だったと思うのである。
 明けても暮れても、金に苦労し通しだった。
 特に入札し、落札する場合、延べ払いは購入品が順調に売却出来ない場合、二回目以降の支払いに窮する事が起こる。
 入札で、延べ3回とか、延べ5回とかなると、要するに月賦購入であるため、延べの先払いを当てにして買い込むと、それ以降の支払いに支障を来す場合がある。購入商品が思うように捌けなければ、資金繰りに窮するのである。
 窮した場合は、金策に奔走せねばならなくなる。手一杯借入を行っている場合、セフティ的な借入は出来なくなり、結局高利に手を出すことになる。
 私は、手当のための金に苦労する人生を歩いた。

 また若い頃は随分とお人好しであった。一括で払えないから、月賦にして欲しいと頼み込まれ、それを安易に承諾し、月々定期的に決まった日にと約束しても、一回目や二回目は何とか期限を守るが、徐々に伸び気味になり、遂には滞ってしまうということさえあった。そのために、こちらは回収に難儀し、また金策に走り回るという無駄な苦労を背負い込むと言う事態を招いたこともあった。

 人は、最初と最後ではその豹変のギャップが大きいようである。そして多くの場合、人間は良い方向に変わることは少なく、以前より悪くなって債務者が債権者を詰
(なじ)ったり、罵(ののし)ったりと言う逆恨みが起こるのである。
 それに月賦で販売した物を不履行という理由で取り立てに行くと、もう現物は早々と処分されており、取り返そうにも、月賦半ばに第三者に販売されていたのである。酷い話である。

 しかし、この酷い話を平気で演じれるのが、また人間の正体だった。こうした正体をした人間を、これまで何人も見て来た。
 自分が、何か別のことで窮すれば、こういうことを遣るのである。差し迫った理由で、背に腹はかえられなかったとしても、現在月賦を履行している物を債権者の承諾無しに自分の都合で転売していいものなのだろうか。
 契約書がないだけに、私には争っても不利だった。
 当時は、信用商売の時代であり、少々の違反は目を瞑
(つぶ)った時代である。それだけ売買する双方が甘かったのである。
 素人の複数買いには要注意である。
 ここでいう“素人”は、古物商鑑札がないのに市場に無断で出入りしている者、あるいはかつて所持していたが所轄警察の生活安全課の呼び出しにも応じず、また古物台帳記載怠慢などで失効した者という意味で、こうした愛好者の中には、詐欺擬いのことをしても痛痒も感じない者がいる。警察はこう言う者を要注意人物としてマークしているようだ。無許可で古物商違反を働いているからである。

 しかし、この種の人間は、この世界の構造を知っているだけに、“延べ払い”などにして、刀屋から複数の商品を持って行き、例えば刀剣を三振りを100万円で購入したことにし、これを最初40万円、残りの二回分を30万円、30万円にして、延べ払いで購入するのであるが、最初の40万円を「少し大目に払えそうだから」といって50万円支払って、残りの50万円を払ったと言い張り、踏み倒す購入法である。こうなると、口約束で商いが成立しているため、結局、払ったの払わないのになり、それで尻切れとんぼになり、残金を踏み倒してしまうのである。

 こういう形で損が生じた場合、穴埋めは殆ど不可能であり、その追求をするより、新規開拓で新たなものを探した方がましだと言うことも分った。こうした経験を積んで、人物の鑑定眼も身に付けたのである。
 この世で起こっている事象に、偶然が無いことも分った。偶然は絶対に存在しない。策謀も偶然から起こったことでないし、起こるべきして起こったことである。
 事象にはその奥に必ず根本となるべき大本がある。それを探求すれば、物事は原因があって結果が起こるように思えるが、実はそうではない。
 結果があって、その結果に応じた原因はその大本で発生しているのである。つまり結果に応じた原因が起こっていると言うことである。

 例えば悪人は、虐げられたとか、環境が悪かったとか、教養がなかったり勉強をしなかったと言う理由で悪に染まって行くのではない。家が貧しかったから喰うために盗みを働いて、徐々に窃盗の悪に染まって行ったと言うものでもない。そもそも悪に染まる誘引の因子が生まれながらにあったと考えられる。
 悪いことをするから悪になるのではない。悪になるために悪いことをする。
 つまり、『予定説』に端を発している。

 『予定説』は、刀屋を遣っていると、口約束を軽く見て自分の言動が重いと言うことも知らず、約束を反古にしてションベンをしたり、また月賦販売で自身でも承諾をしておきながら、途中で不履行をするなどは、ションベンにするから反故をする……、また不履行をするから月賦をする……という一連のシナリオの図式が明確になる。
 最初から、意識・無意識に関わらず、そう言う筋書きが暗黙のうちに出来上がっていたのである。それは人による。これは職業に関係なく、そういう種がいる。これこそまさに『予定説』である。

 金銭を通じ、これを媒介して、人にはランクがある事も分った。
 また、このランクに応じて、それぞれに運が働いていることも分って来た。ランク別の種分けは、その人個人に具
(しな)わる善悪の度合いを計測する基準値にもなり得た。人には、生まれながらに格がある。階級の違いでなく、格の違いでトラブルが生じたりもする。貧しいからと言って格が低い訳でもない、裕福だからと言って格が高い訳でもない。格と階級は無関係であり、高額納税者だからといって生活基盤の上位には属するであろうが、逆に低所得者と言って、必ずしも経済的不自由に陥っていると言う訳ではない。低所得者の中にも人生を楽しみ、足るを知り、悠々自適て金持ち以上にリッチな生活をしている人もいる。
 但し、この人たちは長期休暇を取って外国旅行をしたり、サポーターとして何処かの国に出掛けたり、高級温泉ホテルで美食を前に食通
(グルメ)を気取り、また温泉評論に口を挟まないだけで、それ以外の自分なりの生活の楽しみ方を知っている。
 ここに格と言う、人間固有のランクが存在しているのである。
 だが人間の格の理解とともに、私個人としては金銭に苦労したことも事実である。

 人より多く、人生道の荒波に揉
(も)まれてきたと言う感じで、それは決して不動で安定していると言うものでなかった。欠乏生活を強いられる毎日だった。一ヵ所のボタンの賭け違いから、その後遺症は後々までに響くのである。後遺症の呪縛から抜け出すことは、並大抵のことではなかった。
 元はと言えば、未熟であり、眼力の疎
(うと)さから始まったことであった。読みが利かなかったためである。

 しかし肉体以上に、精神が鍛えられ、少々のことでは驚かない、幾つもの怕
(こわ)い経験を持っている。
 この怕いことを、しかし無駄だったとか、徒労努力をしたなどとは決して思っていない。その時は徒労に思えても、やはりその努力は、後になって反作用としていい経験を残し、教訓にもなり得るのであった。それは失敗談の集積からなる。失敗の経験が多いほど、進退窮まった場合はいい智慧
(ちえ)と言うか、奇手が浮上して来るものである。また、それだけ場数経験がいる。

 失敗をする度に、失敗をしないための智慧が付く。場数から来る効用である。
 そして、いろいろな人間を見て来た。
 人間とは、一筋縄ではいかないものである。それも身に滲
(し)みて理解するようになる。

 人は、人に苦労するのである。
 人と渡り合うと言うのは、実に苦労を伴うものである。
 特に、資力の渡り合いで土壇場に追い込まれたが、それを事件ごとに乗り越え、躱
(かわ)して来た。その経験が大いに役に立った。金融の構造の少しは理解した。
 これを「年の功」というのだろうか。
 そして、知能犯対策の防禦の「術」も身に付けた。売買の要領も駆引きも習得した。
 経験を積んだだけに、上手い口車の誘いにも乗らず、詐欺に掛らないだけの身を護る方法も学んだ。勝負師の気質も具わった。

 また民法は、底辺の庶民にあるのではなく、特に商法部分においては、紛
(まぎ)れもなく潤沢な資金力を持つ実力者のためにあると言うことも知った。そのうえ雄弁な弁護士も雇える。
 底辺の庶民が民法を楯に、懸命に抗
(あらが)ったところで、十重二十重(とえ‐はたえ)と重武装をした資産家には適(かな)わない。だが、単身でゲリラ戦を展開しながら、行く抜く方法も、この市場経済ジャングルで学んで来た。
 市場経済と言うジャングルで生きることは並大抵ではない。大変なことである。

 しかし、ゲリラ戦を展開する一匹狼とは言っても、それは孤独なギャンブラーではない。ギャンブルをするのでなく、商売をするのである。品物を売買する職人である。したがって商売人はギャンブラーではないのである。博打打ちは遊び人だが、品物売買の職人は遊んでいては商売にならない。一か八かの賭けを遣るのではない。品物を仕入れ、それを売却し微かな余剰利益から儲けを弾き出すのである。濡れ手に粟の上手いことが出来るようなものでない。
 しかし博打打ちも商売人も「有能」と言う点において、共通点がある。
 それは、いつも順風満帆でないことを知っていて、「時には損をする事もある」ということを知っていることだ。

 有能なギャンブラーは「損する余裕」をもった博奕打ちというが、損する余裕は同じでも、商売人はあくまでも商売に徹し、仕入れた物を販売してその仕入値と販売値の差額で利益を得て、それで生活を確立させるのである。一か八かのギャンブルをしているのではない。あくまで堅い商いをしているのである。それでも損をすることはある。
 それだけ知っていれば、慌てることはなく、その覚悟は余裕となる。この余裕さえ理解しておれば、集団であろうと単独であろうと有利に商うことが出来る。肚
(はら)も坐る。
 かくして武装の乏しい単独者はゲリラ戦に参加する。

 またゲリラ戦を展開しているとは言っても、単に一匹狼を気取って、市場ジャングルの中で戦闘するのではない。
 ゲリラ戦とは言え、一匹狼では、組織抵抗する集団には適わない。
 そこで個人商店でも、家族が協力する。抗
(あらが)うために組織化する。その協力者が妻君であったり、また子供であったりする。
 こうした家族同士の結束を固め、経済ジャングルでの商戦ゲリラに加わるのである。同族防衛である。
 同族は、こう言う小単位の時に効果を発揮する。血で、外敵を阻止するのである。これ以上の結束はあるまい。
 家族は一致団結する。

 もう、これまで一匹狼の孤独な格闘ではない。協議する血がある。家族同士の愛和の精神があって、はじめて目的を同じにすることが出来る。
 そこで問題になるのは、則
(すな)ち血の繋がりと言うことになろう。結束が固ければ固いほどよい。血は水よりも濃いのだ。
 根本的には、血は結論的にネットワークを組む。血筋であり、血筋こそ血のネットワークの大本に来るものである。
 この考え方は、サラリーマンのそれではない。サラリーマンの場合、仕事は家に持ち込まないのが普通である。また企業の秘密保持のため、仕事内容を家族に洩らすことはタブーとなっている。機密に関する仕事をしているサラリーマンなら尚更であり、血の繋がった家族ですら、内容を漏洩させることは禁じられている。
 したがって、仲間が居るようで、家族間では、一人だけ隔離されて孤独な仕事を余儀なくされる。こうなると、同族の跡形すら残っていない。
 ところが、家族経営は血の通った商売に対する協議を重ねることが出来る。これが孤独なサラリーマンと全く異なる点である。

 世に「同族」と言う考えがある。
 同族こそ血のネットワークの、個を形成する最小単位である。この最小単位は大きな意味があり、個人で、同族で商売をするという基本構造の中には、サラリーマンの会社員をしていては分らない、つまり会社役員でなければ分らない、重大な秘密があるのである。

 ここに血のネットワークの秘密があるのである。
 この秘密をもって、富豪になるべき人間は富豪になり得た。現に、富豪になるべき筋書きが血のネットワークの中にある。富は、秘密の中に集結する。寄せ集められる。
 平たく云えば、企業体なら会社役員と会社員の違いである。企業体でも、秘密主義で展開している企業は、民主主義を持ち込んで、話し合いでということより、実情や内容が把握されない秘密を有している企業体の方が、孫や曾孫の末代まで長続きしている。その寿命も長い。それはまた、一種の権威主義であるからだ。権威主義は、資格や権威のない者は最初から除外しているからである。一種の独裁体制である。独裁が一任されているからである。

 これは外野の意見が入らず、裏切りや寝返りが出来確率が少なく、同族形態の家族の中で、未だに「家長」と言う制度が生き続けている家では、家長を中心に縦割りの命令系統が確立されているからである。それだけに、民主的などと豪語する企業体より、寝返りや派閥の生じる確率が小さくなっている。命令一過の小回りと身軽さがある。根本には命令一過の独裁があるからだ。

 また内輪で固めると、他人を仕込むのでないから顧客管理や勧誘、家族従業員の教育や商売上の躾
(しつ)け、礼儀、資金調達、外交、総務といったものに無駄なエネルギーを遣わなくて済む。内輪ほど遣り易い。子は親の背中をみて育つものである。

 特に子は父親の背中は見逃さないものである。
 勿論これにも欠点は多いが、小回りの身軽さに加えて、血の繋がりから、思いを込め、愛情のエネルギーを注ぎ込めば、血筋からいい後継者が顕われて来る。駄馬の形
(なり)をした駿馬が眠っている場合もある。それを鍛錬して発掘すればいい。
 これは武術の宗家や家元などの「一子相伝」からも明らかになろう。
 相伝とは、血の中で行われる行為であるからだ。故に一子相伝となる。
 これに第三者の赤の他人が介入出来ないのも、また道理である。血は水よりも濃いからだ。

 血を考える上で、大事なのは既に述べたが、この世の中で偶然は存在しないと言うことである。人の眼には偶然によって生じた事象も、実は背景に必然がある。必然によって因子の胤
(たね)がばらまかれる。その胤は、血のよる。血が関与している。奥に胤の因子が存在する。胤は偶然によって起こるのでない。

 また胤から考えられることは、人間に齎される幸・不幸は、総て胤による因子であり、その因子は現世の因縁
(カルマ)によって前世との因縁が絡んでいるものであり、これを「習気(じっけ)」という。
 因縁や運命は後天の気でどのようにも変えられるが、因縁の働くのは、その人の生まれるまでであり、この場合、困窮な因縁を持っている人は貧者の国に生まれ、家や場所、環境や国は貧困である。

 しかし、後天の気は生後の意志により、自由に変えられ、その人の考え方と信念と志しによって変化して行く。貧しい人は貧しいように、富める人は富めるように。また、悪の結果を齎す人は悪を因子とち、膳の結果を望む人は善の因子を引き摺って生きて行くことになる。総て自由意志である。しかし、自由意志はまた自己責任でもある。

 更に、因縁は性格を媒介し、悪因縁を断つためにはそれを媒介させない強い信念が要り、良い性格を造り上げるためには、善なる因縁を呼び込むしかない。また善なる因縁は、善なる想念によって齎される。逆に悪なる因縁は、悪なる想念によって齎される。
 人の描く想念は、眼を検
(み)て、観相を観(み)て、姿の全体像を視(み)て判別出来るものである。

 法に抵触しない人でも、眼を見れば小狡く悪智恵が働いたり、約束を履行できない人は「眼の白目部分が赤い」ことである。充血していて、間接に亜脱臼を起こしている証拠である。疲れている人、直ぐに眠気を催す人、集中力のない人は、約束を履行できない人である。ションベンをする典型と言ってよかろう。

 次に観相から判断すれば、つまり人相であるが、人相的には種々の細部に問題は表出している。人間勉強は人相見も大切である。
 その表出点を挙げれば次の通しである。

表出点 部処と気色 顕われる現象 顕われる言動 顕われている意味
白眼部・赤く充血 利己的で知性欠如 破談・裏切り 二言あり・不履行
瞳孔 黒目大きく弛んだ瞳 集中力の欠如 ストレス嫌い 持久力の欠如
眼窩 栄養質で窪み小 優柔不断・ケチ 金を嫌う言動 観察眼の欠如
印堂 地肌暗く赤腫れ 産毛連結で活力減 消極的で愚痴が多い 狡く運気の衰退
細い・薄い・途切 心配事・怯え 後手で愚鈍 色情・友愛の欠如
輪郭の締まりが悪い 生命力の欠如 声がはっきりしない 衰え・無駄遣い
顴骨が小・茶褐色 争議・訴訟 好戦的・我が儘 陰険でトラブル
張りなく先端部・赤 経済的不自由 傲慢・壮語 金力の欠如・不払い
天中 髪の生え際・赤黒 犯罪・事故・事件 汚職か詐欺を煽る 巻き添え・言い包め
眉骨未発達・青黒 大局観・品性低い 生まれの悪さ 大局・道徳の欠如
尖り小さく細い・青 孤独・晩年運悪し 意志薄弱 反逆的で破壊的
赤斑・赤疱・青汚 人気無し 自己弁護・言い訳 色事で身を誤る
へりが薄い・赤 余裕の欠如・ケチ 消極的・小心 臆して余裕がない
割れ声・濁声 威圧・軋轢 横柄・遣り込める 多弁なる搾取
呼吸 浅い呼吸 焦り・早とちり 天の邪鬼的 何でも反対

 市場の相場をどう読むか。
 市場に関わって商売をする者の最大の関心事である。
 相場は変動する。株式市場のように豹変はしなくとも、市場原理で動いているため、価格の上下変動は起こる。また時代時代のブームもある。急に人気の出る商品もあれば、ブームが去って安値になる商品もある。
 この変動を巧みに読み、機に乗じて決断をし、鉄砲ダムの仕掛けのような大金を用意して、いざと言う時に豪快に買いまくるのが相場師の醍醐味である。その際に、度胸と大局を読む眼がいる。金銭に対する哲学も持っていなければならない。

 この場合に、人相的に言うと眼窩の窪みが少なく、栄養質で、ムードや場の雰囲気に乗り易い観察眼の疎い人間は好機を逃がすようだ。また、この種の人は状況判断があまり上手くない。自分の立場がよく理解できない人である。
 それに、白眼の部分が充血しているように赤く、サービス残業や土日の長距離出張で、いつも疲れているような眼をしている人は勘所が先天的に悪く、相場に関わる仕事は向かないようである。清濁合い濁っているから、悪事を働いても自覚症状を伴わない。洞察力がなく、大事を見逃し小事にこだわる。
 つまり観察力が疎
(うと)く、更には金銭哲学の的確な意識を持たず、無用な者に無駄な資金を投じ、先が読めない人である。優柔不断で迷いが多いとも言える。約束を覆し、ションベンをするのはこのタイプの人間である。

 そして人相を見る中で、印象的なのは「羅漢眉
(らかん‐まゆ)」を持っている人の中に、名人と言われる職人が多いことである。
 羅漢眉の人は頭が賢く回転が速いが、一方で協調性が欠けるので、宮仕えのサラリーマンより職人向きの人である。
 思えば吉藤清志郎先生は、見事な羅漢眉をしていた。ひたむきな性格ではあったが、この性格は奇人と取られ易く、悪く云えば「老いの一徹」というのかも知れない。叱咤するにも、少し雷を落すところがあった。こういうのを頑
(かたくな)と言うのかも知れない。
 しかし名人的な研師としての腕をもっていた。
 その風貌からして、年齢的に言っても老残の見える皺の襞
(ひだ)の彫りが深く、それだけに誤摩化しがきかず、侮ることの出来ない怕(こわ)さを持っていた。

現代日本人でも日本刀を心の拠り所として愛好する人は多い。それは武門の重んじた武士道であり、また一方で民間・庶民にあって弱きを扶(たす)け、強きを挫く任侠道が今でも息づいているからである。
 そして、その深層部には遺伝子に刻まれた「道」の精神があるからだろう。

 私は刀剣市場での初歩的な手解きを受けたが、先生の決断力の早さは職人としての直観が物を検(み)る眼を養って来たのであろうが、事に臨んでの決断力は、物を多く見て来た研鑽による結果であった。そして、いざとなれば自己を犠牲にする潔さも持っておられたようだ。
 要するにそれだけ懐
(ふところ)が深かったのである。青二才の若造や素人では想像に及ばない優れた面を秘めていたようである。
 私は、その「秘めた面」に対して学ばねばならない「何か」を感じていたのである。
 それは眼力を鍛える修行であったかも知れないし、また金銭哲学に準じた価格の先端の変動を読む「今」の状況判断であったかも知れない。

 更に、刀屋経営をしていると、単に刀を売買することだけに囚われなければ、古美術品が世の中の景気の動向に左右されて価格の先端で上下していることが分るが、またそれだけでないことも分って来る。

 例えば、古美術品の市や刀剣市で、値段が高い場合は買わない。買わないことが、値段を反対にする現象に繋がるからである。
 また、市場では価格が適正であれば売る。商売の基本原則である。
 決してこの場合、売り惜しみしない。きっぱりと売る。相当値であれば売る。買手が付けば売る。薄利であっても仕入値を切らなければ売る。そのため商品の回転がいい。在庫が殆ど残らない。決断力が物を言う。

 商売は、在庫を残さないと言うことが基本である。
 在庫整理が出来ないのは、商売が解っていないからである。これが解らないと、全体に波及した場合、不景気が訪れる。不景気は在庫のだぶつきから生じるものである。物余りが起こると、不景気が起こる。循環が悪くなるためである。これは企業でも個人商店でも同じである。

 刀屋を含む古物商は、商品には決して惚れてはならないのである。惚れるとそれが在庫になる。
 刀でも、自分好みという物を作り出してしまうと、売り惜しみをし、健全な商いが出来なくなる。在庫が増えて行く。気に入ったものを手許に置くべきでない。そうなると自分の気に入った物に売り惜しみが起こる。
 また、無駄な所得税が掛かるということも忘れがちになる。
 こうなると商いが歪
(いびつ)になり、在庫を抱えて鈍重になり、換金化がスムーズでないために、やがては倒産か破産の憂き目を見ることになる。貨幣経済は換金化すると言う中に意義がある。

 更に市場に眼を向ければ、世の中の経済動向と連動されているとはいえ、例えば、刀を売った金で他の商品や生活必需品を買う場合、刀の相場値が低くなると、その他の商品は高くなると思い勝ちだが、本質的には、刀の相場値は高くならない。

 これを同じように、刀の相場値が高くなっても、その他の商品の価格は安くなるとは限らない。
 古美術品購入から得た経験は、まず時の価格の先端値を導き出すのだが、これらは景気動向だけでなく、ブームにも左右されて愛好者の年齢層は時代とともに変化しているのである。その変化に応じて、鈍重な大企業方式では小回りと身軽さがなく、「ここぞ」というチャンスに判断の誤差が起こる場合があるのである。勘が鈍った場合などがこれである。そうなるとタイミングが起これる。

 刀屋などの古美術商売をよくよく考えてみると、商売展開は守禦
(しゅぎょ)戦型商売と言えよう。
 市場に集まる業者連中は、皆が皆、総て古美術品の目利きとは限らない。大半は素人である。
 特に同じ古物鑑札で商っている骨董品屋も、刀剣市での刀剣の鑑立てはずぶの素人とであるし、逆に、刀剣商が骨董市場に出入りして、大半が見逃した掘り出し物を引き当てると言うような、そのような眼力も持っていない。
 この意味では、同じ古物商業界に資力を投じながら、それぞれに専門があり、同じ刀剣でも、長年刀屋をしている者と、新参の駆け出しとでは大きな開きがあって、駆け出しはその辺の素人と何ら代わらない。掘り出しの逸品が出ても反応しない。お宝を安易に見逃すことは素人と同じである。眼力がないからである。眼が利かないからである。

 したがって、家族経営の構成を考えてみた場合でも、家族が協力体制にあったとしても、家長を中心に眼力のある者が中核を成し、その周りを素人で構成している場合は、家長命令が一方的に、下に指示を与えるという形が必要になる。
 家族と雖
(いえど)も規律第一で、これが上から下まで徹底されていなければならない。
 重要なことは、守禦
戦型商売と言っても、命令系の規律が徹底しなければ、家族全体の親子・兄弟・姉妹は裕福にはならないのである。誰かの一人相撲で終わることが多い。

 更に、家族で一つの共通の夢と願望とを共通する人生の数直線上に立っていなければならないのである。足並みが揃わなければ、それぞれは豊かになれないのである。家族のうち誰か一人に不心得者が居て、借金で経済的自由を奪われ蹂躙
(じゅうりん)されれば、その家が相続する一切の蓄財は跡形もなく消えるからである。
 しかし、足並みが揃い、家族間の一致体制が整えば、血で構成されているから、最終的には血の威力を発揮するのである。

 かつて連判状に「血印を捺す」という誓約行為があったが、これは血のネットワークを模したものである。
 また、これも血族同士は団結するという、動物的な血筋の繋がりを盟約し、血で連判している限り、裏切りや寝返りも細小限度に抑えられるという安全弁的な役割を担っていた。そこに血の儀式の意義があったのである。
 本来は博徒の盃も、盃の中には交
(かよ)わす者双方の血が入り、それを互いに啜(すす)り合うことで、親子・兄弟の契と盟約を交わしたものであったが、いつの頃からか形式のみの儀式となり、血の意味はあまり重要でなくなってしまった。

 むしろ現代は、任侠も暴力団も区別が着かなくなってしまった時代だから、形式だけが一人歩きする時代になってしまったと言えよう。有名無実の時代である。
 また、金が総てではないと言いながら、実は金は総ての世の中である。昨今の保険合戦の「万一の場合」は金が総てであることを物語っている。
 しかし本当の意味で、実に小数ではあるが、金で心を買収されない人間のいることもまた事実である。



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