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続 老成録 1

 老成録










手水鉢のつばき

蓮の花
蓮池の鯉


 人は未来に期待を繋いで生きている。未来に時間があることを信じ、それを永遠に期待し、未来があるからこそ生きていけることが出来る。
 しかし一方で、私たち人類は多くのことが謎に包まれ、その最大の謎は「人類の根源」であろう。そして現代に至っても根源は明確でない。
 もし根源が明確になれば、その先には終焉
(しゅうえん)が待ち構えていることになろう。始めがあったのであるから、終わりのあるのは当り前になる。
 だからこそ、あるいは根源など探しても分からない方がよく、混沌としていた方がいい場合もある。知らない方がいいとでも言おうか。

 人間は、高々生きて百年前後である。人は、自分が長くて百年も生きれば、その先は死であることを誰もが自覚している。生まれた以上、いつかは死ぬことを自覚している。
 だが、現代人にとって「死」は最大最上位の恐怖でもある。死ほど恐ろしいものはない。現代はそのように、死を怖れるものと作り替えられた世の中になってしまったのである。

 だが、人の死はいつ襲って来るは分からない。ある日突然、死は襲って来るかも知れない。現代人にとって死の訪れは確かに恐怖であろう。
 それにも拘
(かかわ)らず、誰も死を恐怖せずに夜には床に就く。夜を迎えて床に就き、明日目覚めるという保証はないのに、明日の目醒めを信じて床に就く。何故だろう。
 それは未来時間を信じているためである。人が所有する未来時間は、ひと時の間、死のあることを忘れさせてくれる。だからこそ、人は死を恐怖せずに今を生きていけるのである。それは信じることから始まった。

 一方、神仏の存在を信じるのは、実際には神仏は存在しないからである。
 人間は誰が創造したか?……となると、それは実際には分からず、源初は混沌としているから、また人間が創造主によって創造されたと信じることが出来るのである。
 人間の自覚する現実時間の中に、神仏は存在すまい。神仏は人間時間の中に存在しないのである。現実時間に神仏が姿を顕せば、この世にいる私たちはどうなるだろうか。
 神仏は人間の自覚する現実時間の中に存在しないからこそ、神仏は神仏であるのだ。



●数息観

 老いることを現代人は何故嫌うのか。
 それは「老いる」と言う先に、「死」が待ち構えているからであろう。
 この「死」を嫌って、現代人は死から逃げ回り、少しでも自分が若くありたいと願うのである。
 つまり、「若くありたい」というのは、出来るだけ死から遠ざかりたいというのと同義で、若くあることが、自分の死は遥か遠く離れ、あたかも対岸の火事のように考える事が出来るからである。それはまた、「忘れる」という事と同義かも知れない。死を忘れる事で、その日暮らしを誤摩化しているのかも知れない。これが現代流の生き方なのであろうか。

 人間は緊張したり不安を感じると、何かを忘れる作業として「数を数える」ということをする人が居るようだ。
 数えることにより、一時的に緊張や不安を忘れようとすることに利用するのだろう。
 その、数を数えるという行為にも、終わりなき数を数えるというものがある。
 終わりの無い数を数えると、何となく安心できるということで、数を数えるという作業をする人が居る。
 特に、数え切れないものを数える場合、数え切れないということを承知で、数える作業に入る人が居るのである。

 では、数え切れないというものは何か。
 例えば、波打ち際にて、そこに佇
(たたず)み、波の打ち寄せるのを数えるのである。
 波が何回浜辺に打ち寄せて来るか……、それを数え、その終わりは?……と思いつつ、それを数えるのである。既に、最初から無駄を承知で数えるのである。また、それだけにエネルギーの消耗であるが、消耗することを覚悟で数を数えたりする。
 人間には時々不安が襲ったときや、烈しい覚醒
(かくせい)が起こったときに、その興奮を和らげるために、数を数えて沈静化させようとする行動を執(と)る場合がある。そうした行動に趨(はし)る裏には、消耗させても、決して変わることのない不変のあり方が実感できると考えるためだろう。無駄を承知で……。

人間は不安解消と心の安定を図るために、知らず知らずに数を数え始める……。人間の、緊張緩和の本能と言うべきか……。

 不変のあり方の実感……。
 それは恐怖から逃れる一つの手段であるかも知れない。あるいは緊張感からの解放の手段であるかも知れない。
 特に人間は、先に恐怖が訪れ、それが死であったりすると、その恐怖から逃れるために数を数えて、和らげたりする場合がある。数えると、忘我が起こるからだ。
 数える事に心が奪われ、遂にはその中に入り込み、やがて現実の吾
(われ)を忘れる。自他の境目を忘れる……、これが忘我である。

 老いとは、裏から見れば、近未来に差し迫った死を認識する作業が含まれているかも知れないのである。そして、その作業を通じて、一時的に死を忘れようとしたりする。忘我である。

 人は死を免れない。必ず、いつかは死が訪れる。
 特に、老いと死は、背中合わせで貼り付いている。剥
(は)がそうにも、無理な相談である。
 それゆえ人は誰でも、死が遣って来ることを自覚している。いつかは死ぬと認識している。
 ところが、では「いつ遣って来るか?」ということについて、誰一人としてその日がいつなのか、誰も知らないであろうし、また勿論判ろうともしないであろう。生きる人間にとって、死は、遠くにある方が有難い。

 そして、「判ろうともしない」という裏には、「忘れる」ということが同義として貼り付いていて、これは数え切れないものを数えるという作業と同じような行為なのかも知れない。
 いつかは死ぬが、今は死なないという、今の安堵
(あんど)のために数え切れないものを数えたりする。

 波打ち際に佇み、波の打ち寄せる回数を永遠に数え続ける……。実に気の遠くなる作業である。終わりが無いから尚更である。
 これはある意味で、無限を意味するものでないか。
 無限を意味するから、数えること自体が、自分の寿命とダブらせているのかも知れない。
 あたかも、自分の肉の眼で、円周率の最後の姿を見届けようとする行為と同様ではないのか。
 そこには数え尽くせない「何か」があって、そこにこそ、「何か」の根源があると信じているようなものである。
 その「何か」は、決して数え尽くせないものである。また、その「何か」には根源的なものが隠されている……、そう信じて、数えることに安らぎを覚えるのかも知れない。

 仏道には「数息観
(すそく‐かん)」なるものがある。
 出入の息を数えて、心を統一する修行法を「数息観」という。
 特に、坐禅の際に用いる修法である。
 坐禅三昧
(ざんまい)の中に得るものがあるとすれば、それは安らぎであり、坐ることで安住を得たことと同義の静寂を感じることだろう。
 探し求めた先に安住を得て、心が静寂に戻ったとき、人間はやがて死ぬ……などの未知のものから解放されることがある。その解放感が忘我である。そして“こだわり”から解き放たれている。意固地になる呪縛から離れて自由を得る。

 人間にとって最後の未知は、則
(すなわ)ち「死」である。
 自分にとって、最後の未知は死であることは誰もが知りながら、それが未知なるが故に、自分は決して死ぬことはないと思い込んでいるのかも知れない。あるいは知覚していても、それは遠い先の事と思い込んでいる。思い込んでいるが、一方で覚悟もしているのである。
 そして、自分の死は信じてもいないが、だが知っている。また、覚悟もしていると言う不思議な矛盾までもを承知しているのである。



●足るを知る

 老齢期は物質から精神に移行するときである。
 これまでの物欲願望から、物への“こだわりの欲”を離れて、心的な精神の安住を求めて努力する時期である。この時期に、欲に悩まされ、苦しむことは愚かなことである。こうした愚行を避けるためには、まず、今の状況を顧みて「足る」を知ることである。

 「足る」を知れば、これまでに自分を取り巻いていた煩
(わずら)わしいものは、その殆どが解消され、心を悩ませていたものは次第に消滅していく。
 この消滅こそが、老いて、死を迎える準備となる。
 人間が死ぬという行為には、相当なエネルギーが要
(い)るのである。だからこそ、死に際しては予(あらかじ)め準備をしておかねばならない。

 人が死を迎える場合、現代においては、老いて、直には遣って来ない。老い、そして病む時間が、昔に比べて長くかかる。
 老いて直に死を迎えれば、こんな楽なことはないが、現代は老いの後に、長い間病んで生かされるという、「生きる屍
(しかばね)」を経験しなければ中々死なせて貰えない。

 老いて、老衰し、枯れるように死んでいければ、こんな有り難いことはないのだが、現代は延命の医療が発達しているため、簡単に、老いて直に死ねるという分けではない。昔に比べて、死ぬまでに床に伏せ、周りの者に煩
(わずら)わせるという手間を掛けながら死んでいくのである。昔に比べて「死ぬための手間」というのは、老いた者にとって実に煩わしいものである。煩わしいと思いながら、自身では死生観を解決できないから、他人の手を借りる事になる。
 現代は、昔のように安楽な死に方が出来ない時代でもある。

 医療技術の発達は、皮肉にも、年老いた人間を元通りに復活させるのではなく、また再起させて、社会に再び人間として活躍する場所を与えるのでもなく、寝たっきりの状態に放置して、植物人間として生き続けさせるのである。死ぬ事ではなく、生きる事が前提になっているからである。奇妙な、“生きる哲学”が生まれたものだ。現代こそ、生きる哲学が真っ盛りである。

 そしてこれが、老いて寝かされた人間には、何とも苦痛なのである。決して安楽な死に方ではないことは明白である。
 現代は、死ぬに死ねない苦痛というものが無理強いされる時代である。したがって、死ぬ行為そのものよりも、死ねないでいること自体に、無駄なエネルギーを遣わねばならず、死ねないで生かされることに大きな負担が掛るのである。何たる矛盾であろうか。

夜の静寂を思う。黙した静寂の中に、わが身の「足る」ことを知る。老いてなお、それを知らねばならない。

 物質から精神への移行。
 若さから老いへの移行。
 この作業を若い頃から怠った者は、老後はあまり恵まれた老後を送れるとは思えない。若いことから元気を求め、健康だけに入れ揚げて来た者は、老いた時に、一瞬困惑するはずである。自分はこんなに老け込んだのか!……と、鏡を見て、嘆きの言葉の一つも漏れてくる筈である。
 「よくぞ、無事にここまで老いた」とは、誰もが思わない筈である。
 大半は自分の老け顔を見て愕然
(がくぜん)とする筈である。どうしてこんなに老けてしまったのか!……と驚嘆する。そして驚嘆する老いこそ、惨めなものはない。

 老いれば、低下してしまった視力や聴力、更には体力、また体力に付随していた反射神経の鈍くなってしまった事に嘆くはずである。膝が痛い、腰が痛い、肩が痛いの「痛い」ことだらけの老いを忌み嫌う筈である。身体的不自由が顕われた現実に、老いる事を恨む筈である。

 また、記憶力の低下とともに襲う物忘れの烈しさに嘆く筈である。物覚えが悪くなり、つい今し方思えていたものまでも、どこに置き忘れたか、これを探しまわって嘆く筈である。
 こんな筈ではなかった……、その悔悟が起こるのは、人生晩年期の特有の現象である。

 色に未練を残しながらも性的に減退し、役立たずになって生殖器を恨めしく思い、生活力にも弱くなり、疲れ易くなり、無理が利かなくなり、愚痴や小言が多くなる。そんな生活が、老後だと多くの人が思い込んでいる。老後に至って襲って来ることは、しかし、こういうマイナス面ばかりだろうか。

 人間の人生は、生まれ落ちたその日から、生を授かり、その後は老いていく。老いれば、当然免疫力もなくなり、抵抗力が弱くなり、病気に罹
(かか)り易くなって、生命すら危険に曝(さら)す時間が多くなる。老齢期は、若い頃と違い、死と隣り合わせの時期なのである。
 体力や反射神経が衰えるだけでなく、根本の生命力も低下するのである。生命を燃焼させる火の力が弱くなるのである。それだけ欲望も沈静化していく。肉体から精神への移行が始まるかである。

 若い頃、想像できなかったことが、この時期になって克明に、具体的になって、残り少ない余生のシグナルを鳴らすのである。したがって、物質から精神の移行が、必要不可欠な時期となる。
 老後は肉体を超克する時期なのである。若作りの肉体主義から離れて、精神性を高めていかなければならない。真理は外にあるのでなく、自分の裡側
(うちがわ)にあるのである。「内なる自分」を求めていかなければならない。そして自己を掘り下げねばならない。自分とは何かを探すことだ。

 老いてなお、貰う物が少ないとか、物が減っていくことに不平を漏らす場合でない。出来るだけ欲から離れたいものである。死ぬまでの準備として「欲から離れる」というのも大事な下準備であろう。
 もともと人生は、物を減らすために存在する。物を捨てていく中に人生の真実がある。最終的には無一文になるところに、世の中の真理があったのである。
 生まれたときも無一物。したがって死んで逝くときも無一物。これでプラス・マイナス=ゼロである。得をしない代わりに、何一つ損もしていない。それで丁度、人生の貸借対照表は帳尻が合うのである。

 減らすこと、捨てることが充分に理解できたら、今の現状に満足を覚えることである。この、「今を満足する」ということを“知足
(ちそく)”という。

 さて、“知足”と“小欲”を、一般には同じことのように捉えられがちだが、「知足の徳」と「小欲の徳」とは、厳密にいえば違う。
 知足の徳は今ある無一物に満足する徳であり、小欲の徳は少しばかりは物を所持する欲望で、物持ちと比較して「少ない」という事を徳とする考え方である。

 道元はこの違いを『八大人覚』で、はっきりと区別している。
 則
(すなわ)ち、八大人覚(八念)とは、禅の『遺教経』【註】鳩摩羅什(くまらじゅう)の訳で、全3巻。釈尊が拘尸那(くしな)城外で諸弟子に遺した最後の教誡。禅宗で仏祖三経の一つとして重んぜられる。『仏垂般涅槃略説教誡経』とも)に説かれているもので、その第一は、欲を僅かにする小欲で、吾(われ)と、わが身を養うのである。省エネを本義とする。一切の物質的欲を最小限にし、衣服にしても同時に何着も着れる訳はないし、食物も一度に何食も喰らう事は出来ない。衣食にしても少ないことを徳としている。そして住にしても、高々人間一人の躰で、何部屋もの居場所を同時に占拠する事は出来ない。一体一部屋である。

 その第二は、足るを知る知足
(ちそく)
 吾を養う上で、物は充分に足りていること知ることである。現状を満ち足りたものと理解し、不満を持たないことである。そしてこれを「知足安分
(ちそく‐あんぶん)」という。
 足たるを知り分に安やすんず、の意味である。現在の境遇を自分に見合ったものとして不満を抱かないことを感得することである。

 その第三は、静寂を楽
(ねが)う楽静寂。
 一切の外的活動を捨てることをいう。外の騒音に振り回されないことである。
 特に神仏に帰依して、鎮
(しず)まることを旨とする。精神を鎮めて無念無想となり、一切を捧げて神明に帰依することをいう。自分を抜きにして、捧げ尽くせばいい。捧げ尽くす中に自己が映り、わが魂の探求を旨とする。

 その第四は、日々精進に努める勤精進。
 心身を浄め行い慎むことであると同時に、肉食せず、菜食することをいう。殺生も慎むことである。出来るだけ人間の性
(さが)から遠いものを食し、四ツ足の殺生は特に慎み、また喰らわない事である。
 肉を牽制し、血を鎮める精進がいる。血を騒がせては、性欲が募るばかりである。老いてこの態
(ざま)では、死の刹那(せつな)に断末魔の嵐に襲われることになろう。そして「極楽」と言う名の地獄に行く事になる。

 その第五は、念を忘れない事の不忘念
(ふもうねん)
 ひとたび事を始めたら、絶対に止めない。遣
(や)り通す。
 “こだわり”という悪習の小事に心奪われず、大事を行う。この大事を行うに当り、念が湧く。念じるは大事のみ。これ以外にない。
 この念が、心から生じて来る。その一念が、一時
(いっとき)たりとも心から離れないように念じ続けることをいう。それは“こだわり”を捨てた、大事を行うときのみ招来する。
 
 その第六は、禅定を修める修禅定。
 心を静めて、一つの対象に集中する宗教的な瞑想を指す。また、その心の状態いう。小事にこだわるのではない。大事に向かえ合えばいい。大事を心の描いたときに、大往生の兆しが訪れる。こだわれば極楽と言う名の地獄に行く事になる。
 
 その第七は、智慧を修める修智慧。
 物事の理
(ことわり)を悟り、適切に処理する能力、あるいは真理を明らかにし、悟りを開く働きを指す。
 だが、凡夫に「悟り」は難解である。寺の坊主すら悟れないものを、どうして凡夫
(ぼんぷ)が悟る事が出来ようか。
 だが、悟るための智慧はある。
 その智慧こそ、小事にこだわる愚行を捨てる事だった。こだわりを捨てれば、そこに悟りがあるのである。捨てる中に、実は悟りが内蔵されていたのである。思えば、悟りは外になく、自分の裡側にあった。

 その第八は戯論をせず不戯論である。
 戯
(たわむ)れにする議論や、無意味で利益のない議論を避けることを言う。理屈を捏(こ)ねても、不言実行がなければ物事は成就しない。二言の武士に何が出来よう。
 不言実行で二言がないから、武士は武士然となるのである。
 無能者の消極論は、臆病の拘泥
(こうでい)に回帰するだけである。

 臆病者は戯論が好きである。
 臆病者が珍しく発言する場合は、その多くが戯論である。
 何を為
(な)すべきか、為さざるべきかを思案する時、必ず戯論の持ち主は「止めておこう」に回帰する。臆病者の特徴である。そして、その結論に辿り着くまでに戯論という屁理屈を動員する。
 臆病者のスローガンは、人の意見を聞いても「参考にまでに」で終始し、何事も為さずに済ませ、細心な自己説得で戯論を捏ねる。
 その結果、臆病は一直線に無為に帰着する。事を託すに相応しくない。そして粘っこく、愚痴っぽいのを特徴とする。戯論の最たるものとなる。
 自分勝手で、自己閉鎖症は戯論の持つ主だ。駆逐する必要があろう。
 
 これを総じて八大人覚という。
 道元禅師によれば、釈尊が最後に「八大人覚」を説かれたことを意識し、晩年、事実上最後の『正法眼蔵』
【註】道元が仏法の真髄を和文で説いた書で、75巻本・12巻本・95巻本などがある。『永平(えいへい)正法眼蔵』とも。また、他に真字正法眼蔵(漢文体、正法眼蔵三百則)もある)を著したと言われる。

 まず、小欲であるが、まだ訪れてもいない未来に対し、あれやこれやと欲望を持つことである。
 少なからずの欲を持ち、例えば、いつまでも元気で健康で、せめて90歳まで生きたい、などといった欲である。多くは望みはしないが、「せめて」という気持ちの願望が「小欲」である。

 一方、知足は、今の現状、今得ていることにおいて満足することであり、ここには願望がなく、ありのままに「今」を淡々と生きることである。心を平穏に保ち、安らかに生きることである。
 例えば、今年でやっと60歳まで生きられた。有り難いことだ。

 癌
(がん)などを罹病して、40代、50代で死んでいく人もいるのに、自分はこうして還暦を迎え、ついに60歳まで生きられた。こうして生かしてもらうことにより、60年の人生において好きな友人も作れたし、多くの仲間とも語り合うことができた。また、多くの人との出会いもあった。実に有り難いことだ。感謝の限りである。
 まさに、こうした感謝の気持ちを持つことが、今を満足する「知足」なのである。これに対して、何に不満を漏らすことがあろう。

 この「知ることを満足する」という気持ちが、知足であり、自分の今までの境遇を顧みて、それに一切の不平や不満を言わないことである。心から、「ああよかった」と思うことである。足りていることに安堵
(あんど)するのである。その安堵は、満ち足りている満足である。それ以上を望まないのである。

 人生は欲を言えば切りがないからである。あれやこれやと不満が漏れる。
 しかし不満の漏れる人生では、知ることを満足することにはならない。足るを知らなければ迷いが起こり苦悩が起こる。それらに囚われると、肩書きや地位が欲しくなり、社会的な名誉が欲しくなり、それに財産や家族などのいろいろな重荷を担ぎ回って、更に迷いと苦悩が起こるだろう。
 足るを知らない欲から発した願望は、結局迷い通しの結果を齎すのである。

 迷う。
 それは迷ったことにより、自分の人生における死生観を解決しないままに生涯を終えるということになる。それは則
(すなわ)ち、迷いの冥界に迷い込み、再び六道を輪廻するような迷いを繰り返すということになるのである。愚かなことだ。

 これでよかった。よくぞここまで生きられたということを感謝して、はじめて人間が人生の風雪に耐えてきた価値がある。また、迷いから解放されるのである。
 努力することは決して報いられることとは限らないが、その人生が究極的には成功に繋がらなくても、成功に向かって歩いたと言う事実は、成功したのも同じだからである。

 現代は、成功を金持ちになったか、貧乏のままで終わったかと言うことで評価するようだが、問題はそういうことではない。貧しくとも目的に向かって歩いたということが、問題なのであって、結果は人間側が決めることではない。成功するか成功しないかは、天にある。運にある。人間側にはない。貧富の差は人間側の問題ではない。

 成功を信じて歩くことが大事であって、その一点に問題が集中するのである。
 勿論、不成功に終わった場合、その方法論には大いに問題があろうが、その道に向かって継続して歩き続けるというのが大事である。“継続は力なり”というではないか。
 これこそが「不忘念」であろう。

 足るを知れば、多くの苦悩から解放される。貧富の差に、不満がなくなる。むしろ貧富を念頭に置くから、多くの苦悩が生まれるのである。
 人間の心から悩みを駆逐するのは簡単である。
 将来に対して、欲張らず、今の人生を大いに満足することである。満足できるように創意と工夫をすることである。そして今の人生に満足を覚えたら、自然と感謝の気持ちが表れ、ここまで生かしてもらえて有り難いと思えるはずである。その有り難さが、心に安らぎを与えるのである。



●老いと病気をどう見詰めるか

 生・老・病・死の四期を、以外にも生きている人間はそれを遠い未来のように思い込んでいる。自分には無関係なことだと、四期のうちの「老・病・死」の三段階を遠い先のように思い込んでいる。
 ところが、生まれたら、この世の“生きとし生けるもの”は、老化するようになっている。
 老化とは、同時に「成長」であり、成長は老いに向かって延び続けているのである。そして成長の延長上にあるものは、「死」である。

 現代人は「死」から盛んに逃げ捲
(まく)っている。少しでも長生きしようと、健康に気を遣い、それでいて健康に害していることを行い、死を早めている自らの愚行がある。美酒に酔い、美食を貪るのもそうであろうし、性を求めて一年365日の発情もそうであろう。

 人間、長生きすることだけが能ではない。長生きしても、植物状態で生かされたのでは何もならない。自分の「生」は社会に還元でき、順化できてこそ“生きている価値”があるのである。
 社会から疎外され、病院の別途に寝かされ、植物状態になって生きているのでは、本当に生きているということにならない。それは「生きる屍
(しかばね)」でしかなく、既に精神は死んでいるといえる。

 多くの人が、植物状態は望まない。生きていることは、「行動」することだと認識しているからだ。
 寝たっきりでは、自分を表現することもできないのである。人間は自分の意思表示ができ、外の世界に対し「抗
(あらが)うことができる」というのが、本当に生きているということなのだ。
 悪口を言われれば、あるいは反対意見が論じられれば、それに対して「反論する」というのが、実は“生きている”というこのなのでさる。

枯れてみる……。しかし、枯れ方にもいろいろある。美しく枯れるか、醜く枯れるかである。

 死から逃げ回るばかりの枯れ方は、見る者に醜さを与えるであろうし、死に対して清々しく受け入れる姿は、見る者に爽やかさを与えるものであろう。

 避難され、攻撃されても「何もしない」のでは、実際に生きていることにはならない。現実世界を生きようとするならば、反論を企ててこそ、「自分は生きている」ということがいえる。病院の堅いベットに寝かされ、下の世話から何から何まで他人が面倒を見るようでは、これは本当に生きているとは言えない。
 生きるためには、1センチでも1ミリでも、自分の力で、「自前」で動くことなのだ。
 「自前主義」が理解できない老人は、それは人間とは言わない。この類
(たぐい)は「生きる屍」と言うのである。だからこそ、自力で、自前で活動する、「今を生き抜く力」がいるのである。

 今を生きるためには、自分の足で立つ。自分の力でアクションを起こすと言うことが大事なのであって、他人の介助を頼ってはならない。1センチでも1ミリでも、自分の肉体を動かすことができるのなら、他人に頼らず動かすべきである。他人を宛にせず、快適で便利な機械を宛にしない。そもそもそう言う機械生活を宛にしない。総て自力移動である。他の便利と快適を借りるものでない。一切、自前で賄
(まかな)う。自前主義である。

 数センチでも、動くことができればそれを支えとして、自力で動くべきである。何から何まで他人に頼ることは禁物である。年老いて、他人に頼る権利は、自身にはないのである。自分のことは自分でしなければならない。
 若い頃から、「自分のことは自分でする」と言う心構えがないものは、他人に頼り、頼ることを当然の権利と思い込んでいる。しかし、これは現代の時代錯誤と言うべきものである。

 人間は、「死ぬ間際の態度」が問われるのである。死ぬ間際の態度が、どれだけ立派だったか、“後世”に語り継がれるのである。これを考えれば、死とは程遠い、若い頃からこの準備にかからねばならない。決して、「死を遠い先の未来にあるもの」と思わないことだ。



●在る

 肉の眼で見える物には多くの迷いが巣食っている。また、肉の眼に映るものは迷いを生む。迷いから解放されるためには、心眼を開く必要があろう。心眼を開いてこそ、迷いが去り、悟りに入る第一歩が開けるのである。

 さて、ここに「悟りに入る」とか、「悟りが開ける」などと言う『悟り』に関しての語が出て来るが、では一体『悟り』とは如何なるものであろうか。

 悟りと一口で言うが、考えれば実に難しいことである。
 仏道でも、悟り、悟り、悟り……と三拍子連発で悟りを協調しているが、では実際に悟りを開くことはどういうことか、それを明確に言い表すことは難しく、また悟ったと知覚するものは、どのようなことか知る者は少ないであろう。
 悟りに入るには自己を深く掘り下げ、坐禅三昧の中で瞑想し、「想ってみる」ということに明け暮れるのであるが、想うだけで悟りが開けるのかという疑問を持つ人も少なくなかろう。

 では、悟りの根本には何が置かれているのであろうか。
 それは「存在」である。
 人は人生を経験しつつ、その格闘の中で普段は自己の存在を忘れている。自己を見つめないでいる。単に外に対して抵抗し、世間の波に抗
(あらが)いながら生きている。そしてその抵抗こそ、自己主張の象徴だった。
 しかし必死に自己主張をし続けるものの、肝心な自己は遠い昔に置き去りのままだった。自己を見忘れていた。
 則
(すなわ)ち、自分が存在する世界のことをすっかり忘れ、ただ多忙の追われていた。多忙であることが、何か一生懸命に働いていると勘違いしていた。

 多忙は懸命に仕事をしたのではない。
 「多忙」という現代流の流行に乗っていただけだった。その流行に乗った時、自分は他人と同じ事をしていて、他人の人真似をしていて、何となく安堵を思えたものだった。安堵のために多忙を装っていたのである。つまり幻想を追い掛けていた事だった。

現代人は自己を掘り下げるべきときに、自己とは正反対の多忙ばかりを追い掛けている。

 多忙に追われ、単に近い時間に追い捲くられて生活する日常は、帰家穏坐(きか‐おんざ)の機会を得られないまま時を過ごしていく。ただ都会時間に追い捲くられるだけである。安穏の寛ぎはない。早いだけで、その流れは加速度的でもある。目紛しさに息切れがしてしまうほどである。それに併せて、多忙を気取る。それだけで忙しく働いているように錯覚する。

 だが、老いに至ると、その目紛しさから少しばかり解放されて来る。この、少しばかり解放された状況から過去を振り返れば、ようやく自分の「存在の世界」があることに気付く。そして長い間、自分が彷徨
(さまよ)っていたことが解るのである。多忙に誤摩化されていたことが分かる。
 それは躰ばかりが彷徨っていたのでなく、心までもが彷徨っていたのである。現代人として、多忙の中に彷徨っていた事が、自嘲とともに気付かされるのである。

 時には在
(あ)るべきものに苦しみ、また在らざるにはいられないものに悩まされていたのである。そして老いとともに、ようやく在るものに落ち着くことが出来るのである。そうした自己に気付くことが、つまり悟りなのである。
 多忙の中に彷徨っていた。多忙を少しも不可解と思わなかった自分に気付かされるのである。これを悟りと言う。悟りは寺の坊主の専売特許ではない。在家にとっても専売特許なのである。

 この世には清濁
(せいだく)併せ呑む現実がある。善と悪は対峙(たいじ)して、それが格闘を繰り返しつつも、それらは総て大きな物に内包されている。
 在るべきものも、在らざるにはいないものも総ては、一切が「在るもの」の中に内蔵されていたのである。在るものを知るとき、また総てを知るのである。

 在るべきものを捨てようとするのでもなく、また在らざるにはいないものからも逃げる必要はないのである。
 「存在の世界」を知って、それを再認識し、更には再確認して、そこから再出発する行為が、つまりこの世での「悟り」なのである。そこには自然体で、「ただ在る」のである。自然体の自分が、ただ在るのである。
 それをあるがままに認めるのが「存在の世界」での総仕上げとなる。
 その「在る」こそ、実はこだわりを捨てた姿ではなかったか。こだわりを捨ててた姿こそ自然体ではなかったか。



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