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金銭哲学と金運考 2

現世御利益、そして神頼み。その願い事の多くは金銭であり、また恋愛成就であると言うが、この世には作用と反作用の現象が働いているから、必ずその代償は払わされる。この世には総てに代償を払うと言う現象が付き纏う。願って得た物は、みな埃(ほこり)なのである。


●金銭は再び循環して、もとある場所に戻って来る

 金銭と言う生き物は、「追えば逃げ」、「追わねば蹤(つ)いて来る」という不思議な生き物であることは確かである。
 しかしこの生き物の背景には、「循環」するという特性があり、ひと廻りして、また元の場所あるいは状態に帰り、それを繰り返えす。その事に、多くの人は全く気付いていないのである。あるいは、入って来る金ばかりに囚
(とら)われて、出て行く金に気を止めない。循環していることに気付かない。
 事物や事象が、絶え間なく循環しているように、金も循環している事を忘れてはならないのである。しかし、これを識
(し)らない人は以外に多い。金は溜めるものではない。金はよく働かせることにより、また元のところに戻って来る性質がある。金は溜めるのではなく動かすことが大事である。溜めれば、流れを止めてしまうからである。

 多くの人は、自分の手元に金が転がり込んでくる時、何となく元気になり嬉しくなって、強気にすらなる。しかし、これが支払いとなると、これを出し惜
(お)しみして、非常に消極的になり、これを支払わずに済ます方法はないものかと策を弄(ろう)する。出し渋りが頭から離れない。
 また、貯金の金額が増えていくのは実に愉
(たの)しみであるが、借金ともなると、途端に悲しみに変わる。貯金が嬉しくて、借金が悲しいのである。この感情が、既に間違いを起こしているのである。入金がある時が喜びで、出て行く金には悲しみが付き纏(まと)っているのである。

 しかし、金が入る時が喜びであれば、また出て行く時も喜びではならないのである。この喜びを知らないでいると、金は、自分の方へは、再び循環して来ることはない。循環する事物や事象の現象の中で、一方的に素通りしていくと言う事は、本来あり得ず、循環するから出て行ったものが、再び戻って来るのである。これが
「メグリの法則」である。
 その際、その「戻り」というのは、喜びによって送り出した金は、あなたが喜んで支払った分だけの金が戻って来る。大きく支払えば、また大きく戻って来るし、小さく支払えば小さく払った分だけが戻って来る仕組みになっているのである。

 あなたに、再び循環する金は、あなたが喜びで送り出した分だけが、あなたの手許
(てもと)に戻って来るのである。
 これは朝起きる時が、その日の希望に満ちて、喜びと共に起きるのと同様に、また、夜寝る時は朝起きる時と同様に嬉しいはずである。
 これと同じように、金は入って来る時、元気であるように、また、金が出ていく時も、愉快で上機嫌でなければなならい。何れ戻って来る金に、何故、悲しい思いをしなければならないであろうか。貯金で、金が溜まる事が嬉しいのであれば、借金する時も嬉しくなければならないのである。
 これは生まれて来る時が喜びであるように、また死ぬ時も喜びであるように、生き物は循環すると言う、非実在界の仕組みを把握しておかねばならないのである。

 経済的に困窮している多くの人を見てみると、金が入って来る時は上機嫌になり、その入って来た金は出来るだけ支払いたくないと言う気持ちになってしまう。催促されて支払う時は、何か非常に損をしたような気持ちになって、嫌々払っている姿を見るが、これこそが「貧乏の正体」であり、「損をする」という意識が貧乏を招いているのである。
 金と言う生き物は、「しぶしぶ払う」を繰り返せば、どんどん出て行くばかりなのである。そして「しぶしぶ払った金」は、再び戻って来る事はない。
 一方だけが良く、一方だけが悪いとするのは、自他離別の意識であり、こうした意識は、やはり何処かで行き詰まってしまう。

 世の中には、何か新しい物事を始めるにあたって、よく「金がないので」等と、泣き言をいう人がいる。金がないから、あるいは貧困状態にあるから、それが出来ないと、安易に口にしてしまう人がいる。このような考えを持っている人は、金がないので、「何か新しいこと」を始められないのではなく、金を出すのが厭
(いや)だから、これが出来ないでいるのである。
 こうした考え方で、世渡りをすると、何処かで、必ず行き詰まってしまう。「金がないので」という、こうした考え方は、本当に金の有り難さを知らない人が、安易に口にする言葉である。この安易な言葉が、実は自分の持っている言霊
(ことだま)を汚し、穢しているのである。汚れ、穢れたところに、金と言う生き物は、再び巡って来ることはない。このメグリが止まった状態が、実は「貧乏の正体」なのである。
 金を呼ぶには、金に対する礼儀が必要である。

 金は天下の回りものなどと、安易に考えてはいけない。この考えは金から嫌われる。
 確かに金は廻るが、嫌われた財布には金は廻って来ない。金は、謙虚で真摯で、心から好意を持つ者に集まってくる。いい加減な、浪費型人間には見向きもしない。博奕好きも同じである。小ギャンブルと雖
(いえど)も、その種の愛好者には見向きもせず、通り過ぎて、本当の金の価値を知る者に直行する。
 本来金銭の構造は、中国の古典の『大学』にある通り、徳と財の関係が述べられていて、「徳は本
(もと)也。財は末也」とある通り、財と言うものは、その人に徳がありさえすれば、自然に集まって来るものなのである。
 ところが、世間では「本末転倒
(ほんまつ‐てんとう)」である。本と末が逆になっている。財のみを集めようとして、徳の養成など、そっちのけである。徳を穢して何とも思っていない。

 では、徳を穢すとはどういうことか。
 金銭観の欠如である。そもそも貸借対照表も損益計算書も読めずに、「金だけ欲しい」はないだろう。それは泡銭
(あぶくぜに)というものである。
 「今日、パチンコで五万円取った。十万円取った」などのこの種の発言をする種属
(スピーシーズ)は、そもそも金に縁が無いばかりでなく、金が寄り付かない行いをしているからである。総て、「欲搦み」である。これでは、金の方も喜んでやって来ない。出て行くばかりである。小ギャンブルに興じている人であれば、思い当たることであろう。させる方の胴元は、面白いように儲かるが、する方はやがて回収されて、すってんてんになる。自分で、勝ち続けていると思い込んでいる御仁でも、「年間トータルを取れば、平均して30万円はパチンコ屋に注ぎ込んでいる。ただ、取ったり取られたりの回数が頻繁だから、自分は勝ち続けているように思い込んでいるだけである。これでは、金が逃げて行くのは当り前である。
 更に『大学』はいう。
 「財集らさるは恥じなり。集めて、これを己の物にするのは、また恥じなり」と。
 この境地が理解できれば、金銭観は正常な思考が維持出来るようになろう。
 ファッションや流行に躍らされるべきでないだろう。
 そもそも「中流の上」という意識が狂っているのである。

 多くの人が、中産階級のレベルであっても、こうした「しぶしぶ払う」姿をみると、やはり中産階級の壁を、中々越えられないものである。壁を突破できない理由は、こうした「入る時が喜び」で、「出る時が悲しみ」と言う色分けをしている事が、つまり「それ止まり」の現実をつくり出していると言える。この壁を超えるか否かは、入る時と、出る時の格差を出来るだけ、意識の上で「小さく出来るか」あるいは「完全に垣根を取り払うか」の、二つに一つしかないようである。
 ここにも自他同一の意識が働き、自他離別では高い塀
(へい)を作る事になって、近寄る金も入って来れない状態になっている事に気付かねばならない。
 入って来る時が良ければ、やはり出ていく時も良くなければならないのである。こうした意識を感得して、はじめて自他同一意識が生まれるのである。

 さて、「出し惜しみ」の現象に、「ケチ」というものがあるが、ケチでは結局、最後は貧乏クジを引いてしまう。
 ケチとは、金品を必要以上に惜しむ事あるいは、「しみったれ」な事を言い、「吝嗇
(りんしよく)」等とも言う。一般には、金持ほどケチだと思われている。しかし、果たしてそうだろうか。
 ケチで溜め込んだから理財をなしたのであろうか。更には、実際にケチで、理財が溜まるものなのであろうか。この辺を深く追求してみる研究が必要のようである。
 理財の才のある人は、毎日少しずつ節約しながら、ダムのように水を溜め、必要な時にはいつでも豪快に、堰
(せき)を切って、途方もないことをやってのける。これこそ、しみったれにはできる芸当ではない。
 乾涸
(ひから)びた箇所に、水を送り届けられるような智慧(ちえ)を使っている人は、決してケチではない。本当のケチは、出し惜しみをする人がケチで、金を出し惜しめば、これは浪費と同じ結末を迎える。

 ケチは心の狭い人の特徴である。小心者で、小人
(しょうじん)がケチの特長だ。
 したがって、心が固いという事を顕
(あら)わす。人間の掌(てのひら)は、心臓を顕(あら)わす場所であり、心臓は生命力を顕わす。掌(てのひら)が固い人は心臓が悪く、また性格的には心も固い人である。こうした人は、殆どがケチである。やがて「出し惜しむケチ」で墓穴を掘る。
 利息制限法の上限一杯一杯に、金銭を貸し付ける高利貸しが、晩年を悲惨な結末を迎えるのは、こうしたケチが祟
(たた)っての事からである。

 人間の掌は、固さと、色と、熱を発しますから、掌の固い人は、ケチで心が固い人。掌が赤い人は、肝臓を病んでいて、普段から荒淫
(こういん)の性癖があり、過度のセックスに溺れる人。掌の異常に熱い人は、心臓の弱っている人である。

 次に浪費家と言われる、必要なもの以外の無駄遣いをする人は、「死に金」を遣う人である。死に金を遣う人は、ケチと同根であり、溜めた金も遣わなければ死に金となる。
 世の中でケチと言われる人種が、尊敬を受けた試しはない。ケチで財をなした人は居るが、そうした人は感謝されたり、尊敬の対象になっていないのである。
 多くは、人を苦しめて溜め込んだ金であり、こうした歓喜を齎さない金を集めると、晩年時の死んでいく時は、実に惨めなものとなる。
 金は必要なものに遣ってこそ、生きるのであって、溜め込むだけの金では、やがて腐ってしまうのである。腐れば、金は循環を失う。腐れた金は死に金である。
 したがって、こうした事から、金を一種の生き物として認識する必要があるのである。



●「時は金なり」と言うが……その本当の意味は

 現在、死語に近い言葉に「時は金なり」というものがある。
 この言葉の意味は、時間は保存の利
(き)かない貴重な資源であり、「時」というのは「月日の神」と言われる所以(ゆえん)から、そう呼ばれている。

 事実、借金をすれば証文を書かされ、種類には支払い期日が記入されている。そして、期日の支払日を履行しなければ、再び借金はきかなくなる。きかなくなるだけでなく、遅れた分だけ延滞金がつき、利息が上乗せされる。

 ここに「月日」を大事にする信用と、それを粗末にしている人の差が出る。月日を粗末にしている人は、「神の信用」をも失ってしまう現実が、此処
(ここ)にある。不履行はその人の生涯において、一生涯の汚点となる。街金の言うところの、ブラックの発生である。
 月日を粗末にし、時間を粗末にしている人に、運の良い人など一人もいない。約束を度々破る人間に、運命は決して好転しないのである。

 ウソをついて、一時凌
(しの)ぎの借金をする人は、その時点で、既に神との約束を破っている事になる。しかし何事も先送りして、後になってウソの連続を重ねるくらいなら、最初から返済できない借金はしないことである。

 最後に借金に苦しむ人を見てみると、まず第一に挙げられるのが、浪費的な無駄遣いが多いと言う事である。必要でない物を、だた「安い」という理由で買い集める人がいる。こうした人は、常に何処かで、ダラダラと浪費を繰り返しているから、自分の稼
(かせ)げる範囲内で生活設計が立たない人である。

 馬鹿正直に言われた事だけを実行して、一生懸命に働くだけでは、充分でない。これでは年から年中貧乏を繰り返さなければならない。
 こうした人は、労働者としては優秀かも知れないが、優れた金銭哲学の持ち主ではないからである。また、こうした人に限って、収入と支出の関係が把握できず、ダラダラと、つまらない物ばかりに浪費を繰り返している。金銭出納長すら、記帳しない人である。貧乏や困窮の元凶は、此処にある。
 まず、健全な「時を待ち」、健全に「金を遣う」には、その「時機
(とき)」というものを知らなければならない。

 時機を知るには、ただ節約をして、銀行に貯金するだけでは駄目で、収入の部と支出の部を明確にして、これをベースに「資産の部」と「負債の部」が一目で分かる《貸借対照表》を勉強しておかなければならない。
 これを読めずして、金を呼び込む想念だけを潜在意識に送り込んでも、金は循環して来る事はない。絵に描いた餅だ。

 金銭は懸命に働くだけでは、金が金を呼ぶ事はない。歯を食い縛
(しば)ってコツコツと貯蓄を始めても、途中で息切れがしてしまう。数字を把握できない人に、金が集まる道理がないからである。
 金が金を呼ぶとは、金銭と言うものが「生き物」であるということを把握する事からはじまる。この理解が出来ずして、金運を授かることができない。帳簿上に上がる金銭と言う数字は、生きているのである。生きている数字を読む事が大切である。

 そして、最も愚の骨頂とも言うべき行為に、見せ掛けで、周囲を騙
(だま)すという行動に出る人がいる。つまり粉飾(ふんしょく)である。
 粉飾行為には、企業の粉飾決算
(企業会計で、会社の財政状態や経営成績を実際よりよく見せるために、貸借対照表や損益計算書の数字をごまかすこと)や、粉飾預金(銀行が正規でない手段で作り、実態以上に多く見せかける預金)があるが、こうしたウィンドー・ドレッシング(window dressing)で実情を隠して、見かけをよくしても、虚栄の化けの皮は、直ぐに剥(は)がれ落ちてしまう。

 見得を張り、良い家に住み、良い服を着て、良い車を乗り回すという人が居るが、中身は借金であり、目先の事ばかりに囚
(とら)われて、全く「自分」というものを知らない人である。こうした人はやがて、借金苦から逃避する為に、快楽へと溺れて行く事が少なくない。

 一時の慰安を求めて、安楽や快楽を追い求めれば、かえって心を苦しめる事になる。
 良い服を着て、周囲の眼を欺
(あざむ)いても、それがローンで購入した物であれば「負債の部」のものであるから、これは自分の物ではない。心の深層心理には、何処までも「借金」という意識が潜在している。身を楽しませれば、心が苦しむと言う現実が、ここにある。
 これは総
(すべ)てにおいて、言える事である。

 例えば、旅行をする事が大好きな人は、旅行する事によって知らない所を見て回り、眼を楽しませる事は出来るであろうが、それだけに脚は疲れ、出費があった事に心は苦しむ。クレジットで旅行した時などは、その苦しみは大きいものであろう。

 「旅行」や「旅」を、見聞を広める為と称するようであるが、借金での旅行などは見聞を広める事はあり得ない。見聞を広めるには、金と時間は必要である。限られ多時間に、気ぜわしく動き回るシステム化された旅行など、見聞を広めるに値しない。疲れるばかりである。その上、その後に借金だけが残る。
 この構図は「苦あれば楽あり」ではない。「楽あれは、生涯苦がついてまわる」現実なのだ。楽しみが先に来たものは、生涯その後に「苦」が蹤
(つ)いて廻る。
 旅をし、見聞と広めようと思うのなら、経済的な豊かさが備わって以降の事である。

経済的豊かさは、反面、現代の難病奇病を招いた。人間の欲望には、美味い物を出来るだけ多く食べたいと言う願望があり、その願望には際限がない。

 また、グルメを気取る食道楽の人は、一時的に舌を楽しませるが、心の中には常に何処かに、何か美味しい物はないかと、それらを追い求めて、更に心を苦しませる事になる。これが「食地獄」だ。世界の果てまで、美食を追い求めなければならない運命を辿ってしまうものである。その最たるものが、戦後急速に日本人の食生活に変化を齎した「食肉習慣」である。美食と言われる中毒食の元兇である。

 おまけに、美食はプリン体
purine/複素環式化合物の一つで、化学式 C5H4N4 無色の針状結晶)の病巣になっているから、痛風(動物性蛋白ことに核酸摂取の過剰により、足・手指・膝関節などに尿酸塩の沈着を生じて発作性激痛を反復する疾患)に悩まされ、慢性化した場合は、腎不全(腎臓の機能が低下した状態で「尿毒症」を指す)で死亡する危険からも悩まされ、常に死の影に怯(おび)えなくてはならなくなる。美食の食べ過ぎは、こうしたしっぺ返しが必ず待っている。

 人間は「安易」に流れる生き物である。苦よりも楽を選択する生き物である。「苦あれば楽あり」ではなく、最初に楽を持って来て、最後は苦しむ構図を作り出すのが好きな生き物である。最初に楽をもって来れば、その後の人生は、永遠なる「苦」が待っている。

 木綿
(もめん)の重い衣服よりは、羊毛や絹の軽い服を着たがる。不便で、暗くて、日当たりの悪い家よりは、明るくて便利で軽快で、住み良い家に住みたがる。公共の電車やバスを利用するよりは、自在に、何処へでも動けるマイカーを乗り回す事を求める。しかし、躰を楽しませようとして、躰に安楽を求めたり、快楽を貪(むさぼ)れば、この反動として、心は苦しむ事になる。

 「身を楽しませる物は恥に近く、心を楽しませる物は恥に遠い」現実があることを忘れてはならない。心を楽しませると言う事は、つまり心を豊かにすると言う事であり、心が豊かになれば、今、自分は不便、不快、不自由であっても、やがてそれ等から解き放たれる時機
(とき)が得れるということなのである。

 逆に、身を楽しませる事ばかりを追求すると、やがてはこの享楽から転落するのではないかと言う不安に駆
(か)られる。
 現代と言う世の中は、物の豊かさや身の安逸
(あんいつ)を貪(むさぼ)る事が、何と多い事であろうか。

 「時」というのは、こうして人間の心を蝕み、やがては身を滅ぼしてしまうものなのである。したがって私たちは、「棚
(たな)からボタ餅」式で、時を安楽的に待つのではなく、不便、不快、不自由の中に身を置いて、「心の豊かさとは何か」という、自分の根本を考え直さなければならない時期に来ているのである。そうした経験の想念の中で、将来への「見通し」を模索しなければならないのである。



●時代の性格

 人は、幸せを求めて、人生を放浪する。人生の中で、あてもない漂泊の旅をする。そして、現代という世の中を見れば、現代の不幸は、人々が自分の生活の中に、「頼りになるもの」を失ったことにある。真底から「これは確かだ」というものが、現代の時代にはない。
 そして、多くは悲しいことだが、何年生きたとしても、何の価値もない暮らし方をしている。

 誰もが一様に小奇麗
(こぎれい)な恰好(かっこう)をして、街の中を出歩いているが、その周囲には茨(いばら)の刺(とげ)が散らばっていて、その中を着物を着て、歩くようなことをしているのに気付かない。袖(そで)を引っ掛け、裾(すそ)を引っ掛けて、随分歩き辛そうにしているが、それでも自分ではそれが気付かない。ただ、思い通りにならぬ、スパッと通り抜けられないことに、些(いささ)かの懸念(けねん)を示しているだけである。
 そして、毎日毎日、ただ芥
(あくた)のように暮らしているだけである。そこには何の変哲も感じられない。向上の気配も見られない。

 こうした塵芥
(ちり‐あくた)の如き生活をしながら、人々の多くは、「金が欲しい」と思っている。金さえあれば、幸福だと思う人がいる。金を得て、富者になるのが人生の目的だと言い切る人までいる。かくして富者になる為に働くのである。富者になることだけを願って、ただ只管(ひたすら)に働くのである。

 しかし、一生働き詰めで、もし金持ちになれなかったら、富者になることが人生の目的であった人の一生は、無意味であったと言うことになりはしないか。
 然
(しか)もである。多くの人は、一生あくせくと働いて、自分では中流を意識していても、結局は貧乏な暮らしをしているのである。もし、金持ちになることが人生の目的と考えた人は、貧乏で終焉(しゅうえん)したら、それはその人の人生が、無意味であったと言うことになりはしないか。

 一方、資産家で、「金さえあれば」という、小金持ちの状態の中で暮らしている人は、小金持ちに特有な、遺産相続争いや家庭争議が絶えない、お家騒動の中で暮らしている現実がある。これでは、「金を頼り」に働いて来た結果が、あまりにも殺伐
(さつばつ)として、平和など何処にもないことが分かる。幸せでないことが分かる。果たして、「金さえあれば」という考え方に、疑いを抱かずにはいられなくなる。つまり、「金」イコール「幸福」ではないからだ。

 しかし、それでも世の中の多くの人々は、金の為に働いている。金を頼りに生きている。庶民の多くは「金が総てではない」と豪語しながらも、金に振り回されて生きている。
 彼等の多くは現金がなくとも、クレジットで買い物をし、その支払いの為に働いている。クレジットで、物を買い込んでは、その支払いの為に働いている。いつ果てるとも知れない、長いローンを支払っている。家から車まで、全てが決して安くない長期ローンである。こうした中に、果たして幸せが存在しているだろうか。家庭の中に平和が訪れるであろうか。
 これを分かり切って、なおも金を頼りに生きているのである。時々は、「金が総てではない」と、思わぬことを口にするが、それは単なる負け惜しみに過ぎない。富者に対しての負け惜しみである。

 ある人は言う。
 「私はこれまで、35年間、公務員として働いて来ました。公務員と言っても、上級職ではなく、下級官吏として、不正などには一切手を出さず、真面目に、着実に、ただ黙々と働いて参りました。35年間も働いたのでありますから、それなりに貯金も出来、世間並みに退職金も手にすることが出来ました。贅沢をしなければ、老後も、まあこれで当たり前に暮らして行けます」
 多くの日本人は、浪費を控え、倹約して来たことを誇りに思い、誠実に勤め上げたことを唯一の自慢にするだろう。そして、誰もが真面目に、誠実に働いて来たことに対し、賞賛に値すると言うだろう。

 しかし、この背景には、貯蓄をし、金を頼りに、安楽に暮らそうとした考えが横たわっている。更には、やはり「金さえあれば」という気持ちが何処かに漂っている。金臭さが匂わないでもない。

 これは「安楽に暮らす」ということが、冒険をする者より、一等も二等も上だと考える思考である。そして、その思考の背後には、金銭は、いつでも物に交換できるという考え方がある。
 ところが、金銭を物に交換する行為は、頭で考えるほど簡単ではない。第一、インフレになれば金銭が物に交換できる価値効力は下落する。
松田組の女親分・松田芳子。新宿の闇市を巡回する松田組。

闇の取締(大宮駅で昭和22年4月) 列車の屋根にまで溢れた復員列車

 更に、先の大戦の終戦直後に見られた、金があっても物が買えないと言う現象が起こったことがある。金を頼りに生きて来た都会人は、この時ほど、金は実に頼りにならないものだと感じたはずである。金で物が買えないと言う現象が、実際に歴史の中にあるのである。
 終戦直後の闇市や、農村への食料買い出しは、これを如実に物語っている。これこそ、金が頼りにならない唯一の証拠である。“いざ”という時、金は実の頼りにならないものである。

バブル時代の金余り現象 街に溢れるサラ金広告

カード賭博 パチンコ症候群

 況(ま)して、紙幣など、戦時には何の役にも立たない。現在の金融経済が辛うじて機能しているのは、世界恐慌が起こらず、更には世界規模の大戦争が行われていないと言う条件下に於てである。世界恐慌が起こり、先進国を巻き込む世界規模の戦争が起これば、紙幣など、忽(たちま)ち紙屑(かみくず)になってしまうし、預金通帳に記された「数字の桁(けた)」も、単にアラビア文字の数字の列んでいる状態に成り下がる。

 では、「物」だったらよいのかということになる。金が頼りにならないのなら、物がいいと言うことになる。そして、誰もが安易に考えることは、金を数字に残す銀行預金をするのではなく、物に交換して有事の場合に備え、例えば金塊とか、ダイヤモンドのような宝石類に交換しておいた方がいいのではないかという結論に行き当たるのである。
 しかし、毎日の相場制で、相場を操る人間が、金相場を日々決定しているし、ダイヤモンドなどの宝石類に至っては、小粒では駄目で、少なくとも、五百万から一千万円相当の物でなければ意味を成さない。百万以下のガラス玉では換金効力も、物々交換の威力もないのである。

 物が頼りにならないと言うことは、昔からよくいわれたことである。物は古くなれば腐るし、あるいは時間と共に風化する。火に遭
(あ)えば燃焼するし、泥棒に入られれば、奪われてしまう。物が頼りにならないことは、今に始まったことではない。

 それは街角の裏辻に引っ張り込まれて、ナイフなどで脅され、強盗に遭遇すれば、自分に自己防衛能力のない丸腰の状態であれば、無慙
(むざん)に奪われてしまうのである。物は、ガード能力のない者には無用の長物である。

 頼りにならないのは、金や物ばかりではない。私達、現代人の多くはサラリーマン生活者である。会社の役員であっても、サラリーマン重役であり、結局労働者に変わりない。そして、こういう生活こそ、金や物以上に、頼りのないものである。
 何故なら、現代人と言う人種は、「使い捨て人間」であり、企業だけではなく、スポーツ界を見れば一目瞭然であろう。実績が上がらなければ、直ぐに使い捨てられる。

 一般雇用でも、必要に応じて、また景気動向に変動して、殖
(ふや)されたり減らされたりして、社会状況の応じて均衡を保とうとする力が働くのである。不安定な社会の中で、社会の均衡を保つ為に、いつでも使い捨てにされる人間が、現代人なのである。どんなに能力があり、才能があっても、歯車の一部でしかなく、最高の学閥に属していても、そんなものは何の効力も持たない。最高の学閥を背負い、素晴らしい頭脳や才能を有していても、結局、高級労働者であり、時と場合に於ては、「使い捨て」の憂き目を見なければならない事がある。

 周囲には、そう言う人間に取り巻かれていて、私達は暮らしているのである。その上に、自分を取り巻く家族にあっては、妻子も、その程度の人間に頼って生きているのである。この状態で、安心して、幸福に暮らして行くなどは、夢のまた夢である。文明生活というのは、いつでも此処に回帰するのである。そして、忘れてはならないことは、どんなに素晴らしく発展した文明でも、いつかは凋
(しぼ)むということであり、どんなに繁栄していても、今が盛りというだけで、いつかは崩壊するものである。

 更に忘れてはならないことは、「平和」というのは、戦争と戦争の中にある、ほんの僅かな一時
(ひととき)を、歴史学では「平和」と定義するのである。
 また、経済の面においては、中小企業を含めて、今を「不況の時代」と称しているが、これが20年も30年も続けば、これは不況などではなく、立派な歴史である。一つの文明の、一つの時代の性格を象徴しているのである。

 これを歴史から観
(み)れば、例えばヨーロッパではローマの繁栄の後には、中世期という倹約・倹素の時代が出現した。日本に於いては、平安朝の栄華の後に、質素・倹約を旨とする武家の鎌倉時代が擡頭(たいとう)した。こうした時代が擡頭するのは、栄耀栄華が崩壊して不況に転じたからでなく、一つの歴史的な方向の転換期であった。つまり、生活意識の変革であったわけである。これこそが、一つの新しい時代を示す歴史的な「時代の性格」というものである。そして、私達現代人も、この「時代の性格」の中に取り込まれて、金の為に奔走しているのである。



●貧困について

 経済的循環が停止された状態を「貧困」と言う。
 しかし貧困状態は、幻夢
(げんむ)の一種であり、実在世界における真の姿は、「無限の富」に溢れたものであり、ここには不自由と言う現象は起こらない。しかし非実在界での現象は、心に描いたものが具現されてしまう事物・事象の現象世界であるから、想念によって心象現象が自在に現れたり、消去したりする。

 本来、貧困は不完全な現象である。あるべき現象ではなく、むしろあってはならない現象なのである。
 しかし、こうした不完全な現象が、あるかの如き形で現れて来るのは、まさに異常な想念が作り出した異常現象だったのでる。異常現象は容認すべき事態が、心の潜在意識の中に隠れていれば、それが作用して異常事態を作り上げる。この意識は、「微少」でも、こうした想念が隠れていれば、即、具現化されてしまう。

 貧困から解放され、自由自在性を取り戻すには、次の想念が必要である。

 貧困状態が解消したければ、以上の自由自在性を取り戻す想念を抱き、「常に自分は富者である」という想念とともに、自分が困窮状態から抜け出し、具体的な富裕の未来図を心に描き続ける事である。
 また「常に富者である」という意識は、心に余裕と豊かさを与えるから、この想念を抱き続ける事で、心は「富者」へ移行され、それに伴って、現象社会での出現も、その方向へと移動を始める。

 世の多く人は、「棚からボタ餅」式で転げ込んだ思わぬ入金に、心を踊らせ、一時の有頂天に舞い上がる。しかしこうした意識を、「利
(り)」と言い、やがてはここらか下り坂へ向かう事を暗示する。
 つまり「利」と「衰
(すい)」は、損得についての心の動きであり、「利」に一旦偏(かたよ)れば、次は「衰」の反動が起こるのは拮抗(きっこう)を保つ上でも当然の現象として現れて来る。

 一時的に、思わぬ事で「金が儲かった」という現象は、「これから金に苦労する」という警告であり、ここで有頂天に舞い上がったり、入った金を出し惜しみすると、今度は、そのツケがやがて廻って来る。

 これはパチンコ等の小ギャンブルに手を出している人を見れば、一目瞭然であろう。
 ギャンブルで勝ち続けている人など、一人も居ないのである。よくテレビ等で、プロパチンカーがパチンコの儲けで、高級外車を乗り回したり、豪邸に住んで左団扇
(ひだりうちわ)の映像が流れるが、これは庶民を釣り上げる為の「ヤラセ」であり、自称パチプロと遊戯場組合が、手のこった演出をしているに過ぎない。
 庶民はこうしたヤラセに、まんまと釣り上げられてしまう。

 こうした一局面を庶民が羨
(うらや)ましく思い、「自分もあやかりたい」の想念が、「奪う想念」を作り上げ、やがては「パチンコ依存症」へと傾いていくのである。愚かな事だ。
 一種の、目先の小銭に転んだ困窮意識と言えよう。

 パチンコ屋や公営ギャンブルは慈善事業でない為、最初に甘い仕掛けで「とらせて」おいて、次に「根こそぎ回収」する営利事業なのである。その企業目的は、「庶民から、小銭までを含んで、根こそぎ回収する」ことにある。「回収する」ことが見抜けずして、生涯この依存状態の悪循環から抜け出す事は出来ない。
 要するにパチンコ屋で、朝から晩まで入り浸りで「パチンコで七万円儲けた」とか、競馬場に通い詰めて「競馬で十万円儲けた」と、わが小欲を満足させ、目尻を下げているようでは、生涯この喜怒哀楽が循環する輪廻の輪から抜け出す事は出来ない。つまり、貧乏人はパチンコをするが、金持ちはパチンコをさせる方に廻るのである。この違いが貧富の差を分ける。

 現代は、「小欲産業」が蔓延
(はびこ)る時代である。間抜けな庶民を虎視眈々と狙っている。
 小欲に満足させ、一方で徹底的に搾取
(さくしゅ)しておいて、時には喜ばせ、特には口惜しさのドン底に叩き付ける小欲産業が大流行りで、誘惑の手を広げ、直ぐ側面に忍び寄っている。庶民の心に隙(すき)があれば、底辺の庶民ごと包み込もうとしている実情があるのだ。
 そういうものに、巧妙に絡め捕られながら、しばしの憂
(う)さ晴らしをし、自分を誤魔化しているようでは、わが人生を、人として誇れるものは何一つないではないか。
 また、この手の手合いは、人生の目的地に到底到達は出来ないであろう。

 人生を正しい価値観で満足させる為には、「正大なる大欲」が必要である。そして、金銭は生きものであり、それが常に循環していると言う事を知るべきである。
 世の中は「棒ほど願って、針ほど叶う」という実情を知るべきである。

 金は常に循環していなければならず、入金があった時に愉快で元気になれば、また出て行く時も、これと同じく、上機嫌で愉快でなければならないのである。出て行く時に、「おしい」という気持ちで送り出すと、それは転落への暗示であり、ここから困窮が始まる。

 貯金して、お金が溜まっていくのが喜びであれば、また借金だって嬉しくない道理がないのである。常に「歓喜」に満ちていれば、「歓喜」の方へ流れが移行するのは当然の事である。宇宙法則において、「一方だけが良く」「一方だけが悪い」というのはあり得ないのである。総てが同根であり、自他同一と言う意識が大切である。
 また「歓喜」こそ、《光明思想》の原点なのである。

 光明の思想は、今の苦しい状況下で、未来に輝く何かを掴み、そこから将来への明るい見通しを透徹する思想なのだ。また、智慧や慈悲は、こうした光の中に隱されている。この光を暗闇の中で掴めば、その光で将来を見通す事が出来るのである。

 「苦あれば楽あり」は、最初、苦しむ事によって、その闇の中で未来に開ける光を観ずる事であり、この光を観ずる事によって、将来を切り開くと言うものであり、だからこそ、最初が「苦」なのである。「楽あれば苦あり」ではないのである。この「楽」は、墮落に通じる楽なのである。したがって、「苦楽」を錯誤してはならない。



●潜在意識で金儲けが出来ると言う大ウソ

 人間の深層心理には「潜在意識」がある。そして潜在意識は、α波が派生している時に限り、集中力を高め、普段は10%位にしか発揮されない能力が、80%程にアップされると言われている。

 今、こうした能力をフル活用して、金儲けや仕事が旨く行くと言うような宣伝文句で、新手の新商売が、凡夫
(ぼんぷ)をターゲットに展開されているが、果たして潜在脳力を遣(つか)っただけで、貧困から大富豪へと転身出来るのであろうか。

 こうした新商売は、私たちに、このような甘い言葉で囁
(ささや)きかける。
 「大した能力もないのに、ギャンブルや金儲けがスイスイと面白いように運び、大金が転がり込んで、異性にもモテまくり、仕事もどんどんこなし、お調子者なのに上司の受も良い。この秘密はα波にある」と。

 しかし、少し考えてみれば分かる事であるが、ギャンブルでの金廻りは泡銭
(あぶくぜに)であり、仕事で儲けるにしても、せめて「貸借対照表」や「損益計算書」の読み方を知らなくては、金の流れなど、到底掴む事が出来ない。果たして、こうした事が潜在意識だけで済まされるのであろうか。

 また、潜在意識を上手に活用させる為には、肉食主義者は短命で異常性欲者に陥るから、血液はドロドロで、汚れている。こうした身体環境の許
(もと)で、α波は派生するのであろうか。
 仕事が出来るとは、「要領のいい」ことを言うのではなく、健康な体躯と健全な知性を持ち、発想が柔軟であり、身体的にも躰
(からだ)そのものが柔らかく、更に血液はサラサラで、頭脳が明晰(めいせき)という条件が課せられる。また、先入観や暗い固定観念も、完全に取り払われた状態でなければならない。更に、「損益計算書」の数字をそらんじて言えるくらいの、経営成績を把握出来ている人が、要するに「仕事が出来る人」なのである。

 食肉や乳製品等の動蛋白を普段から常食にし、白米や甘味料を摂取し、化学調味料で味付けした食生活を盲信的に履行した人が、どうして頭脳明晰の条件を満たすのであろうか。

本当によく働き、仕事の出来る者は、こうした馬尿酸や二級アミンの多く含む食肉を常食とはしない。肉を常食とすれば、性欲異常を起こし、年から年中異性を求めて風俗に足を運んだり、色ばかりが充満して、疲れ易くなり、老化が早まるからだ。美食に陥らない。

 食については、まず足ることを知ることだ。食欲本位に奔るのではなく、自制してよくを抑えることが大事である。物質的自我に踊らされてはなるまい。
 長生きをして、働ける躰を維持するには「ほどほど」ということを知るのが急務であり、「ほどほど」こそ幸福への唯一の近道であるからだ。
 欲は、自制心が働いて霊的自我が確立されるのである。

 また、こうした人の特徴は、常に異常性欲状態にあり、異性を求めて奔走すると言うのが行動パターンになっているから、頭の中にあることは、異性にモテて、セックスに及び、安易に性交遊戯を悦楽する思考しかない。その思考そのものは「棚からボタ餅」式の《期待》しか描く事が出来ないので、最も安易な道を選択している事になる。安易な道を選択した人に、富者が出た例(ため)しはない。

 発想が柔軟と言う事は、運動神経ならびに反射神経も優れていて、臨機応変に立ち回る事が出来、持久力があってこそ、積極的な行動がとれると言う事である。性欲異常の想念ばかりを持て余し、食肉の結果、アレルギー体質に陥っている人が、どうして付焼刃
(つけやきば)的な疑似α波だけで、天から金銭が降って来るのであろうか。

 金持ちや地位の高い人で、無理に這
(は)い上がった人は、例えその成功に湧いて、成り金の地位を獲得し、有頂天の世界に舞い上がることが出来ても、これは一時的な現象であり、やがては転落する運命を免れない。
 また、自己の欲望を達成させる為のエゴイズムは、最後はありもしない地獄に、自らを陥れてしまうのである。何故ならば、こうしたエゴイズムは、「自他離別」や「自他差別」の意識から派生するものであるからである。



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