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続・刀屋物語 1
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続・刀屋物語 1

    語・眼の勝負






 はじめに

 筆者が刀装拵の職人見習いに入ったのは、ちょうど20歳の大学二年の頃だった。昭和40年初頭のことである。
 この当時は、ごく普通に、職人と言われる人が多く残っていた。それも、一般にありふれた職人の中で、名人と謳われた人が、この世界にはごろごろしていた。奇
(く)しくも筆者と面識があった研師の先生も、こうした職人の一人だった。

 この先生は研師でありながら、刀装なども一人で総てをこなす人であった。刀剣の徹頭徹尾の装いまでも、みな一人でこなすのである。
 研ぎ以外にも、鞘を削り柄巻きができ、刀装拵一式が総て行え、かつ刀剣鑑定や小道具鑑定まで出来る人であり、そのうえ刀剣類に関しては、中々の目利きである。目の見える人であった。そして、恐るべき炯眼
(けいがん)の持ち主であった。
 人生には邂逅
(かいこう)と言うべき、思わぬ人との出遭いがあるものである。そして一生を左右する。
 思えば、実に不思議な奇しき縁だった。

 初対面は筆者が、自分の持ち刀の『平安城石道住正俊』の研ぎと鑑定に窺
(うかが)った時に知りあったことにはじまる。その後、研師の先生宅に何度も訪れることがあり、やがて好きが高じて、刀装拵製作を教わったのである。材木に墨入れ(この道具を「墨壺」といい、大工や石工などが直線を引くのに用い、一方に墨肉を入れ、他方に糸(墨糸)を巻きつけた車をつけ、糸は墨池の中を通し、端に仮子(かりこ)という小錐(こきり)をつける道具のこと)をしての材面からの割り出しや、初歩的な鋸や鉋の使い方を教わり、また鉋の研ぎ方や鋸の目立ても習った。
 筆者は学業の傍
(かたわ)ら大いに学んだ。
 その後、自身で公安委員会の古物商鑑札を取得し、「刀剣商見習い」として、刀剣市場に出入りしはじめたのも、この頃からだった。

 この当時、竹光の製作は一振り造り上げるのに「金壱万円」を頂いた時代である。
 勿論、この製作は今日のように、大方の形をした既製品の材料から、刀身に併せて形取りをするものでなく、朴の原木から鋸で裁断し、鉋だけを用いて、形を併せ、刀身に見立てて、一振りの竹光を作り出すのである。
 この一万円は、仏壇屋の漆塗り職人が碁盤の線引きで一万円を頂く手数料と匹敵していた。碁盤の線は、筆で線を引くのでない。刀剣の、特に先差しを刃曳きした刃の上に漆を載せ、これを碁盤の板の上に瞬時に当てて、一気に漆を載せてしまうものである。こうして碁盤の線が曳けるのである。その手数料と、竹光製作代が、当時はほぼ同額だったのである。

 若い頃は筆者も、塗り鞘などで知人の仏壇屋の主人には、よく世話になったものである。少なからず漆塗の手解きも受けた。
 爾来
(じらい)、六十半ばを過ぎた今日まで、刀屋とともに拵師も遣っている。
 最近は老いた所為
(せい)か、拵製作は、些か自分勝手ではあるが、気が向けば期限無しで仕事を請負い、無理をしない程度にマイペースで働いている。

 一口に刀装拵と言っても、中々奥が深い。それだけに職人技が物を言う。つくづく「巧み」という一語が脳裡
(のうり)を掠(かす)める。
 往時の職人は、実に見事であるからだ。
 したがって竹光一つ、白鞘の削り一つを見ても、往古の名人の作った製作品を目の当たりにすると、自らの未熟は反省させられ、自分では、まだまだ伎倆が足りないと痛感させられるしたいである。

 そして往古の名人たちは、確かに道具は用いていたであろうが、今日と異なり、電気の力を借りた道具がなかった時代、鋸・鉋・鑿・錐・彫刻刀・鑢などの、人力一つを仕事土台にして、数々の並みの人間が真似の出来ない名人芸を披露し、今日の職人に、一種独特の問い掛けをしているように思うのである。
 完成された作品を見せ付けられ、魅了され、それだけに高度な問い掛けをしてくるものでもある。
 あたかも「どうだ?後世の者どもよ。これを同じ物が作れるか!再現出来るか!」と、極めて深い問い掛けをしているように思うのである。
 往時の職人の作った刀装拵には、そうした痕跡
(こんせき)が感じられる。

 ゆえに往時の名人芸から、人力で作り出した作品群を見せ付けられると、つくづく自分では「まだまだだなあ」と、ほとほと感心させられ、かつ未熟を思い知らされるのである。そして、「これでよし」というところまで中々辿り着けない。名人のようには行かない。老いても、未熟を思い知らされ、反省をさせられる日々を送っている。温故知新は古い名人のものをみて、それを改めて思い知らされるのである。

 そして一方、常時戦場……。
 この言葉が脳裡を過
(よぎ)る。
 往時の職人は、武士が戦いに出て、刀剣類を用いても、それに耐えられるだけの見事な頑丈な拵を作ったのである。そのうえ美術鑑賞にも耐えられた。
 古い物を見て、よく出来ていると思う。名人芸だと思う。ゆえに現代人の一員として、自らの未熟を思い知らされるのである。

 しかし、未熟であればこそ、意固地になってこだわらず、素直に、自分の伎倆の拙
(つたな)さを悟り、創意と工夫をもって、更に闘志を燃やし、老いても希望を失わずに、往時の名人芸に挑むことが出来るのである。
 拵職人としての筆者は励むだけである。ただ黙々と伎倆を磨き、精進して、こだわって卑しく、下品にならないように「極める」だけなのである。
 筆者のモットーは、こだわらずに黙々と精進するだけである。他に何があろう。

 水が流れるように、さらりとした感覚を養い、往時の人達が行っていた「水走り」をよくしたいのである。こだわって“ごとごとし”と言われないように、何事にもこだわらず、今日より明日と、希望をもって極めていきたいのである。

 現代は、日本語の言霊が狂ってしまった時代だが、現代の用語誤りは「こだわる」と「極める」とは、その次元において、天地の開きがあると思うのである。こだわれば、単に重箱の隅を楊枝でほじくるように掻き回して、無闇にいじくり回し、作品も下品となり卑しくなるが、極めれば、その崇高
(すうこう)さにおいて、一等、名人芸に近いものの迫れるのである。
 拵職人としては黙々と精進し、ただ極めることに心血を注ぐのみである。一心不乱に極めるのみである。己を無にして、謙虚に、初心から遣り直すために。


    



●眼の勝負

 美術品を鑑賞し、その価値を見抜くには「眼力」が要る。眼力無くして本物と贋作(がんさく)の見分ける区別はつかないし、価値ある物か、唯の並み一般的な程度の物かの、レベルの違いも判定出来まい。
 美術品は刀剣類に限らず、その真意と価値のレベルを判断するには、長い年月にわたり多くの物を見て来た経験によるところが多い。多くの物を検
(み)ることにより、そこに眼の力が養われて行くのである。

 「みる」とは、単に肉の眼で見るだけでなく、作品を通じて作者の人柄までもを「検る」ことが含まれる。
 検ると云う以上、奥の奥を観る。鋭い観察眼をもって深部を観る。肉の眼で確認するだけでなく、その奥にある作者の意図や心までもを読み取るのである。だから肉の眼で見るではなく、作者の心裡
(こころうち)までもを検るのである。作風から人柄までもを細かく考察して検討するのである。

 美術品は単に好きだけで蒐集
(しゅうしゅう)しても、いい物は揃わない。好き嫌いを超越しなければならない。偏りをなくさなければならない。
 そうでないと狡猾
(こうかつ)な業者に嵌(は)められて、本来は二束三文の物を高く売りつけられるだけである。「好き」から離れなければならない。業者の思う壷となり、好みに嵌められる危惧があるからだ。

 そして目利きになるには、“好き者”のレベルを超越した眼を持たなければならない。
 好きだけでは、駆け出しの素人と五十歩百歩である。
 自分の好みだけの小さな世界の閉じ籠
(こも)っていては、大海の大傑作を見逃してしまう。自己自閉症から解放されなければならない。その呪縛から解かれなければならない。

 つまり美術品蒐集家は、先ず第一に美術品が好きであり、かつ、その美術的評価を自分の言葉で言い表せることである。自分なりの文章で来るほどの表現力がいる。またその文章や他人を説得出来るものでなければならない。
 単に好き者では、底が見えてしまう。作品に誘惑されて、ついふらふらと買わされてしまう。これでは金が幾らあっても、最後は破産するか夜逃げするしかない。
 私は長い刀屋経験を通じて、好きが高じて破産したり夜逃げした人を知っている。そうした人の中には素人だけでなく、本業の刀屋まで居た。好きが高じれば、結末はそうなることは多いようだ。
 本当の蒐集家は、自分の言葉で充分にその実直な感想を述べられることが出来るのである。客観的に、冷徹に自分の言葉で忌憚のない感想を綴られることだ。

 更に、第二には上級者について謙虚に学び、慎んで教えを請
(こ)うことである。頭を下げることも必要であり、学ぶとは真似るの語源がなまったものであるから、学ぶ以上、平身低頭の姿勢が大事である。これを嫌う者は不勉強が祟って、とんでもない結末を迎えることが多いようだ。
 上級者について学ばなければ、あるいは真摯にアドバイスを受け、眼力を鍛えなければ、眼の勝負で勝つことは出来ない。単なる好き者では狡猾なる業者の餌食となるだけである。

 したがって、素人同士の持ち合い評論では駄目なのである。井の中の蛙のような小さな世界を構成しても駄目なのである。好き者の小事にこだわるばかりとなる。こだわれば、最後は詰り合いになる。
 持ち合い評論は客観的なものが薄れ、自分の好みに応じた主観的なものばかりが先行するからである。そして素人鑑賞の特徴は、自分の物を高きに置き、他人の物を低きに置くことだ。
 好み先行では、どうしてもそうなってしまうし、また素人同士の持ち合いでは、その持ち物も、レベル的にはそんなに高価な物ではない。作品も多く集まらない。高が知れた物しか集まらない。
 また、サラリーマン愛好家では財力にも限りがあり、実際に何振りもの実物大・等身大の、最上作を見たことがないから、遂にこうなってしまうのである。駄作ばかりでは、優れた物との比較が出来ない。

 「これが虎徹だ」と、その道の経験者から言われると、「果たしてそうか?」と疑う前に「そうかも知れない……」と先入観が疾
(はし)るものである。
 事実、私もそうだった。駆け出しの頃は、この手で何度も引っ掛かった。いいカモにされて啖
(く)われたのである。その度に高い月謝を払わされた。この世界は弱肉強食であり、啖われても経済力があるならまだしも、金銭的基礎体力に問題があれば、直ぐに破産か夜逃げである。
 これは知ったかぶりをした、あるいは勉強不足からのしくじりであろう。
 しくじらないようにするには、基礎体力として眼力を鍛えなければならない。眼力を鍛えれば、眼で見た感じだけでなく、握った感じからも、微妙な真贋の違いを読み取ることが出来る。
 刀剣の場合、刀身自体から訴えているものに気付くようになる。作品が何かを訴えている。その幽
(かす)かな囁(ささや)きを聴くことである。そのためには井の中の蛙では何もならない。上級者について、囁きが聴こえる耳に自身を向上させて行かなければならない。上級者を抜いた素人同士の評論では、底が見えているからだ。

 ところが刀剣愛好家に限らず、美術品蒐集家の多くは、持ち合い評論で素人同士が互いに詰
(な)り合う光景をよく目にすることがある。それは見苦しい限りだが、また素人の為に、一種独特の狡さや自分勝手が感じられることもある。
 これは人間がいつも他人と自分を比較しているからである。片時も気を弛
(ゆる)めず、世間の誰彼を見比べている。そこに詰り合いが起こり、多少なりとも自分の方が優位に立とうとするからである。
 自分の売り込みが第一となる。目立ちたがり屋の特徴である。
 目立ちたがり屋は、出来ることなら、少しでも他人を抜いて、一歩でも二歩でも前に出たいと思っているのである。僅かな得の隙間を、必死で窺
(うかが)っているのである。これが遂に虎視眈々と……という姿になってしまうのである。

 上手に立回って、人を見返してやりたい……。そういう気持ちが誰にもある。目立ちたがり屋だけでなく、一般庶民の底辺にもある。事実、私もそう思いながら六十余年の人生を生きて来た。もう直、七十の聲
(こえ)を聞く。だが智慧は浅く、老練、未(いま)だ至らずである。未熟が先立つ。精進を重ねて祈るのみである。
 だが、それでも「未だに成らず」である。つくづく術が浅いと思う。
 浅い術では「それ止り」である。
 だが、この愚を押し通せば、それによって得るものは大したことでなくとも、その絶対量を問題にしているのではない。他人を抑え込み、牛耳り、先手を取り、先駆けることの聡く、自分が上手く遣っているのだと言うことを楽しみたいの「程度」で終わる。未熟者の「愚」である。
 刀剣愛好家の中には、こうした手合いが多い。
 そして、次ぎなる「愚」を後生大事に抱えている。
 自分の持ち物の方が幾分突出していると自覚出来るほどの、細やかな満足感を求めようとするのである。他と比較して、自分の持ち物の方が優位であると自覚出来たとき、これこそが最も欲する願望となる。ここに客観的な基準など何処にも無い。
 とにかく、他人を凌
(しの)いで生きたい衝動が在(あ)り在りである。これは人間の本性の心の底を顕したものと言えよう。嫉妬の裏返しである。人間ならば、悪い事ではないが、しかし、程度を、自分のレベルを、此処で止まらせれば、心胆(しんたん)を寒からしめるものがある。「墜ちた」と失望せざるを得ない。

 世の中は誰よりも抜きん出ていなければならないという強迫観念が働いている。その強迫観念に追い立てられて人はアクションを起こす。
 人は競う。世に向けて、自らを抗
(あらが)って生きているから当然だろう。いいポジションを占めたい。それも当然だろう。
 例えば、整列乗車をしながら、電車のドアが開くと、誰よりも早く、一番先に乗り込んで、いい席を取りたいのは至極人間的な行動である。その理解は出来る。
 しかし飛行機の場合は違う。
 飛行機に乗り込む際に、ターミナルと航空機の間をつなぐタラップ然の搭乗橋で、人を押しのけて先を競う人がいる。飛行機は決して坐れずに、立ち席になることは無い。電車やバスのように吊り革に掴まっての状況下で飛び立つことはない。あったら、面白いと思うが、今は無い。しかし、戦時中、飛行機の立ち席があったとも聞く。あたかも、田舎の満員バスで、吊り革に掴まるが如く、飛行機が飛び立ったという話も聴いたことがある。予約外の強引な客が登場した場合、誰かが吊り革にぶら下がることになったと聴いたことがある。
 例えば、満洲の新京発・東京直行便で、昭和20年8月9日、ソ連は日ソ中立条約を以降、破棄してソ連国境に攻め込んだことがあった。そのとき関東軍参謀の何人かは新京飛行場から、強引に旅客機の中に割り込み、既に坐っている乗客を立たせ、「自分は国家のとって重要人物であるから、お前達は自分の代わって立つ必要がある」といった佐官クラスの参謀が居たと言う。軍隊官僚の悪癖である。新京飛行場はこの種の夜郎自大の風を吹かす者で溢れたと言う。情けない話である。

 さて、話を戻す。
 最初から予約されている。搭乗客の全員は必ず席に坐れるようになっている。出発も全員一緒である。置いてきぼりは誰も喰わない。したがって先を競ったり、慌
(あわ)てる必要な何処にも無い。
 にも拘
(かかわ)らず、断固競うように走ったり、早く席に着こうとする人は、人を出し抜いている……との快感を味わいたいためである。自分がエリートと自負する野心家にはそうした意識が潜んでいる。
 自分は人より機敏に躰を動かすことが出来る……などと、遅れをとっていない証拠を見せ付けているのであろう。
 そうだとすると、この背景には凌ぎたい……、人を出し抜きたい……などの行動原理が、人間を駆り立てていることになる。その裏には達成時の快感が潜んでいるからであろう。

 人間界では、誰もが必ず他人を凌ぎ、出し抜きたいと願望と意識が働くため、この世界では烈しい競争を軸として進行している。
 この場合、非常に厄介なのは競争の仕方に規定が無く、万事野放しであることだ。
 人間の考え出したスポーツ競技には、総てにルールがある。ルールを逸脱したら失格となる。
 しかし世の中一般の競争には、決まりも無く、申し合わせも殆どない。野放しである。そのために好き勝手をする者が多い。少なくとも法律の抵触しない限り、また違法であることが発覚しない限り、どういう形で何をしようと勝手である。先んずれば人を制すのだから、外連
(けれん)の芸を遣おうと勝手である。弱肉強食こそ、その最たるものではないか。

 野放しの、凌ぎ一辺倒、出し抜き一辺倒にルールはない。無差別でもある。
 スポーツのように、あるいは将棋や呉や麻雀の勝負事のように、単に勝ち負けを判定するのなら、これらがゲームである為にいつかは決着がつく。
 ところが、凌ぎや出し抜きは勝つ為の勝負ではない。人より一歩も二歩も先んずる競い合いは落ち着くところが無い。エスカレートの一途を辿る。
 何処の世界にあっても、出し抜きは人間の自己表現の意向の一つだから、人の世がある限り永遠に続く。続いて増大し、これは激化の一途を辿る。人間界にはそう言う宿命がある。もうこれで満足だという、腰を落ち着ける終着点が無いのである。終着点が無いから我欲に任せて、もっと凌ぎたい、抜きん出たいという熱望が次から次へと湧き起こってくる。
 人の世に交わって、他人より暮らしを立てて行こうとする限り、逃避も隠遁も不可能である。そんなことは許されない。その意味では、自転車操業的である。ペタルを漕ぐのが止められないからだ。
 そのために、「先んずれば即ち人を制し、後るれば則
(すなわ)ち人の制する所と為(な)る……」を地で行かなければならなくなる。そうなれば「狡賢いことも在り」となり、詰り合も好き勝手となる。

 それに、である。
 私のこれまでの刀屋経験からすると、狡猾な業者も恐ろしいが、もっと恐ろしいのは素人である。これははっきりと断言出来る。素人の思い込みが怕
(こわ)いのである。石頭の頑迷が怕いのである。
 素人蒐集家ほど、自分の持ち物を自慢する者はいない。素人売買では自慢に乗せられて、業者の二束三文以上の贋作を掴まされることもある。あるいは素延べの鈍
(なまく)らの場合もある。素人同士の寄り合いは所詮(しょせん)こうしたものである。

 特に怕いのは、道場仲間で先輩後輩の間柄や、指導者と道場生と言う関係である場合、指導者は道場生に「これはどうか?」などと売りつけることがある。それも目利きの出来ない、単に指導的立場にあると言う人間からに、である。
 この上下関係において、下は上の者の云う通りに煙に捲かれ、ついに薦められた物をふらふらとあたかも夢遊病者のように買ってしまうことがある。こうして上から薦められた物に、ろくなものはない。

 その証拠に贋作か、あるいは鈍らを掴まされている。仮に鈍らでなかったとしても、それは市場値段相当ではなく、刀剣専門店の店頭で売られているよりも高い物を掴まされ、鑑定証や認定書が付いていてもそれは決して信用出来るものでない。信用出来る物ではないのだが、素人同士はそうした鑑定のお墨付きの一言に眼を奪われ、かつ有り難がり、易々と信じてしまう。蓋
(ふた)を開ければ贋作であったり、鑑定書や認定書自体が、私文書偽造であったりする。
 私文書偽造の認定書や鑑定書付きの物を掴まされたからと言って、それだけでは詐欺は立証し難い。ババ抜きの感覚で掴ませた方が「偽造とは知らなかった」といえばそれ以上何も言えないのである。
 古美術の世界では偽造も、ありなのである。

 古物商の世界を知らない素人コレクターは、コップの中の嵐で物事を考えるから、その思考自体が狭くて狂っているのである。そして多くを知らない。
 例えば、宝石類もそうだ。
 宝石商が宝石商として成り立つ基本構造には、素人にガラス玉同然
(イエローダイヤやガラスダイヤ)の格落ち宝石を売りつけ、それで儲けを得た利潤で、今度は高価な正真正銘の品物を買い付けて手に入れる。そして正真正銘を、金持ちのお得意先に嵌めて売り歩くのである。これが宝石商の成功する大雑把な基本構造である。安く買って高く売る……、そうしなければ儲からない。資本主義のルールに則って、利潤の追求は出来ない。

 では、素人はこの構造で、どのような役割をするのか。
 これは船会社が客船で利益を出す構造に似ている。
 客船には普通四階級のランクで仕切られている。最上級の特等
(スペシャルキャビンクラス)、一等(キャビンクラス)、二等または特二(ツーリストキャビンクラス)、三等(ツーリストクラス)である。それぞれのランクの違いは部屋並びに食事の違いによる。したがって特等は三等に比べて桁違いに高い。特等料金は誰でもおいそれと払えるものでない。逆に三等のツーリストは料金を総合すると特等の五分の一ほどである。

 特等や一等は、その船会社の「貌」と言うことで高いがそれは一部の富豪に限られ、またこの等級は会社の広告塔でもある。したがって思い切り贅
(ぜい)の限りをこらしてある。それだけに特等や一等にハイクラスの乗客を呼んだとしても、利益率は高が知れている。特等料金で、想像を絶するような贅はとてもでないがペー出来ない。特等料金や一等料金で、決してぼろ儲けと言うわけにはいかない。ぼろ儲けをするのは、二等以下である。
 特に三等は裾野
(すその)が広いだけにこの階級でしこたま稼ぎ出す。支配階級から吸い上げるのではなく、被支配階級から吸い上げる。そして、この階級から薄利多売をすることで採算が取れるようになっている。

 更に、等級別を設けることで、それぞれの階級には行き来出来ないように出入り禁止を制限していることだ。横の行き来はありだが、立ての行き来はなしだ。つまり下の階級が上の階級と交わらないようになっているのである。これはアメリカ社会の構造と酷似する。
 船旅は何日間も部屋に閉じ籠った窮屈な旅である。出られるのは同じ等級のデッキだけである。しかし等級によりその窮屈さが異なる。
 三等は、あたかも夜行寝台車の上下向かい合いの四人部屋で旅をするか、あるいはツーリスト特有の大広間での枕一つ抱えての雑魚寝である。この雑魚寝の衆は、決して最下位の船底から上階のラウンジに入れないになっているし、逆に入ったところで、例えば夕食の晩餐など、仮にそこへ呼ばれたとしても洋食マナーを知らないツーリストグループは着て行く服もなく食事を伴にしたところで少しも楽しくないだろう。食事の内容は庶民と桁違いに違っているのだが、しかし階級の違いはまた、下の階級の鋭気を殺
(そ)ぐ仕組みになっていて、ひとたび交われば庶民はただ一方的に精力を妄(みだ)りに浪費して疲れるばかりである。
 豪華客船はツーリストのためにあるのでなく、ツーリストを啖い物のして、特等や一等の広告塔のためにあるのである。
 宝石販売の基本構造もよく似ている。

 ガラス玉同然の、よく出来た物で満足する下層世界である。大半は、そこの住民である。目くそ鼻くそを嗤
(わら)う世界である。
 そこの住民同士がお互いの持ち物を見比べ、批評し、最後は純度について、カットについて、大きさ
(1カラット(ct)は200mgに当たる)について他人の物を詰り合う。それは、自分の物だけが正真正銘の本物で、高価と信じ切っているからである。
 この心理の裏には、他人より自分の方が一歩先に抜きん出ているという自負があるからだ。刀剣愛好家の世界も、持ち物自慢の世界で、こうした心理状態は他の美術品であっても、似たり寄ったりで酷似している。

 素人は怕い。
 それは「通」でないからだ。マナーを知らないからである。あるいは礼儀を知らないと置き換えてもいいだろう。
 これが私のこれまでの率直な感想である。

刀屋商売は「千一屋」という極めて低い確率での商いではなく、一方で素人客にも悩まされる商売だった。
 特に素人客の思い込みには甚だしいものがあり、自分の物を高く評価し、他人の者を低く見下すのが素人蒐集家の特徴だった。
 これだけで好き嫌いが存在し、美術品を正しく解釈する目は失われていた。目がないだけに、正しい評価も出来ないのである。来店する客の大半はこうした客で占められていた。刀屋泣かせであったことは否めなかった。

 そして一番困るのは素人客だった。
 刀屋をして来て、一番鼻持ちにならないのは、知ったかぶりの御託
(ごたく)を並べる素人講釈師だった。実に困る客である。
 素人には大方二通りいる。
 学ぶ人と、学ばない人である。
 学ばない人は、特に怕い。思い込みで生きているからである。そして思い込みを修正する気持ちも無い。こうした人は、これまでの人生を、自己中で思い込みで生きて来た人である。こういうのは実に困る客である。

 思い込みで、先入観まる出しで、美術品だけでなく世の中を観ているからである。あるいは「甘えの構造」の中に身を置いているといってもよかった。それだけに質
(たち)が悪い。
 御託も人一倍で、評論家気取りで一端
(いっぱし)のことを言い、実に困った講釈師である。上級者の言うことに、聴く耳を待たない。忠告も知らぬ貌(かお)。独善的でもある。口煩(くち‐うるさ)いだけの特技のみ持っている。
 それに対し、自他を比較して、謙虚に上級者の言うことに耳を傾ける客は、まだ幾分救われる。聴く耳を持っているからである。但し、このレベルの客は、即金で購入してくれないのが、玉に傷である。欲しいが買うだけの資金力が無いのである。

 更に付言すれば、そもそも客と言うのは、二通りいる。
 本来、客は店の宣伝媒体になりうる。口コミをしてくれるからだ。
 ところが、口コミといっても安心ならない。つまり客は味方にもなるし、敵にもなるのである。そして味方になる客は少なく、敵になり罵詈雑言を吹聴して回る輩
(やから)は、やたら多い。購入後に、いちゃもんを付けたり、悪態を吹聴する客は多いものである。そうした客によって、信用度が下がって行く。あることないこと吹聴される。

 したがって、誰にでもいい貌をしていたら身がもたない。八方美人では、刀屋は喰って行けないのである。そのためには持ち堪えられるだけの基礎体力がいる。潤沢な資金力がいる。そして、時に任すしかない。
 時間が経てば客相も入れ替わる。悪い客相は長年の営業継続で徐々に解消されて行く。年月がまた信用に値する勲章を授けるからだ。
 刀屋を継続して長く遣っている者は、それだけ多くの物を観ている。酸いも甘いも噛み分けてきている。経験を積むと、世事や人情にも通じるだけでなく、眼力が育っているのである。眼の勝負に勝つだけの勝負所を心得ているのである。
 単に傍観しただけではない。高い月謝を払って、実学を勉強して来たからだ。その辺の駆け出し素人然とは違う。長年の経験がそうさせる。

 それに人間は、単なる噂を信じていつまでも固執するものでない。悪評が流れても、人の噂は七十五日だ。時が解決する。
 人間は変化を好む生き物である。屈辱
(くつじょく)を耐え忍び、基礎体力さえあれば、時とともに汚名を霽(は)らす挽回出来るチャンスもある。噂が、やがて吹聴や欺瞞(ぎまん)であったことに気付くものである。
 しかし最初は、敵になる客に苦労する。一筋縄ではいかないからだ。口が達者であるからである。
 何故か、刀屋に来店する客の多くは、多弁の論客である。自分の小さな世界しか知らない鑑賞知識で物を言う。こうした類
(たぐい)が一番困る。

 更に、敵になる客は、知ったかぶりをする者が多い。批判的と言うことより、悪口が交じっている。講釈だけは一人前である。そして批判と悪口が違う。言うことの次元が違う。
 思い込みで生きているために、その思い込みは甚だしい。狂っているといってもよい。こうした素人の思い込みの激しい狂った客に悩まされるのが刀屋商売である。刀屋は千一屋とも言う。それだけに、悩まされながら苦労する。そしてやがて苦労人となる。
 苦労人にならなければ、素人客から手玉に取られなくて済む。捌き方を覚えるからである。また、玄人同様の蒐集家からも、簡単に騙されなくて済む。口先巧みな講釈師に騙されなくて済むのだ。

 こうして苦労人になって行くのだが、先ずは自他ともに学ぶことである。刀屋と雖
(いえど)も学ぶことである。学ぶことに、何処まで行っても「これで良し」と言うところは無い。学んで学んで、極め尽くさねばならない。眼力を鍛えなければならない。
 だから、私は懸命に学んだ。知らないことを熟知するまで学んだ。
 知らないことは学ぶ以外ない。方法論は、それ以外にない。

 だが、素人はそれがない。趣味人であるからだ。余暇として、趣味の世界を楽しんでいるだけである。自己満足で終始する。そこが怕い。
 思い込みが怕い。先入観が怕い。これが素人の特徴だ。
 一方、学ぶと言うことは、最初「まねる」ということであり、上級者を真似ることが出来なければ、単に独り善がりの趣味人となってしまう。真似て真似て、そこから学び、何かを掴み取って、自分の物に消化して行かなければならない。
 この場合、師匠と煽
(あお)ぐ上級者の人格が左右するものである。
 つまり、金銭ばかりにこだわらない、投資とか金儲けを度外視した、赤貧の師匠に学ぶことが肝心である。投機的な考え方で蒐集している上級者は敬遠すべきである。
 しかし、趣味人の範囲で満足するのも美術品蒐集の一つの手段であろう。一人で楽しむのも、それはそれで良しとする。一儲けを企まないならば、身の程を知ってこの位置に落ち着くのもいいことである。

 譬
(たと)えば日本刀の場合、自分の感性と好みに従って、好きな時代区分(古刀、末古刀、新刀、新々刀、そして戦前・戦中・戦後昭和刀、更には平成現代刀)に別れた刀剣を手に入れてそれで満足するも良し、数万円もする分厚い刀剣大鑑を入試して、それを閲覧し「書籍の範囲」で真贋の違いを区別するのも良しである。美術品の楽しみ方はいろいろあるのである。
 但しいろいろあるが、それぞれに階級とレベルの違いがあり、安物の中での蒐集はやはり安物揃いとなり、一方高級な物を求めて眼を鍛え、眼力を携えればその効用により一見ガラクタと思える中から本物を手にすることも稀
(まれ)にある。本当に稀だが、長い古物商人生の中でそうした、稀なる現象が起こることがある。奇遇と言うべきか、奇怪と言うべきか……。
 人生には思わぬ恐ろしいこと、あるいはラッキーが訪れることがある。

 そして「眼の勝負」において、それは真剣を交えた勝負と同じ勝負となる。
 幸運を、どのようにして捉えるか……。そうした「捉えからの選択肢」が迫られる。だからこそ、意見の念をもって再考すれば、「恐るべし……」と言うことになるのである。
 ここに人間は試されている一面があるように思う。
 こうした状況下に有頂天の舞い上がってはバカだ。舞い上げられて、これを真底からラッキーと思っては間抜けだ。
 是非とも、運命の裏を読みたい。
 更に、眼力を試されている以上、その真贋を見抜き、即座にその判定を下さなければならない。それが出来るまでに、日頃から眼の力を養っておかなければならないのである。

 一口に眼力と言う。
 しかしこの眼力ほど長い間の修行を必要とする。したがって普通、二足の草鞋
(わらじ)を履いてこれを行うには余りにも負担が大きい。何れかを選択しなければならないギリギリのところまで迫られるのである。
 眼力を養うのに仕事の片手間で……とか、副業として、サイドビジネスとして……などの甘い考えでこれを達成することは実に困難である。
 普段はサラリーマンなどをして、副業で古物商許可を取り、仕事の傍
(かたわ)ら古美術を扱っている人がいるが、あれでは眼力の視野はアマチュアのレベルを超えられない。眼力を得るには生業(なりわい)とし、専業化しなければならない。一本化して、その道で生活をしなければならない。二兎を追う者は一兎をも得ず、であるからだ。

 眼の勝負は一瞬の真剣勝負である。そのためギリギリのところにまで追い込まれることがある。
 素人風情の生兵法は大怪我の元であるからだ。
 つまり、「眼の勝負」を遂行する為には、生兵法でなく本物の兵法家にならなければならないのである。
 素人風情が似非兵法家を気取ってその振りをしても結局は足許を見られ、軽くあしらわれてしまう。上には上が居ることを、やはり学ぶべきなのである。したがって素人風情で知ったかぶりは、自分の墓穴を掘ることになるのである。

 それに副業として普段はサラリーマンをしながら、その片手間で……という場合、公務員なら公務員規定に抵触し、また上々会社の会社員なら社則規定などにサイドビジネスが禁止されている場合、これに抵触することになり、所謂
(いわゆる)“重職”が問われて懲戒免職になる場合がある。但し、会社役員ならその限りではない。更に警察署への「定期報告」と「確定申告」をして、国税を払っているのなら問題が無いのである。
 信用第一の仕事に携わっている会社員は、副業で古物商を……などとはいかないのである。

 第一、所轄警察署の古物商係が定期的に『古物台帳』の記載状況調査に廻ってくる。また都道府県公安委員会によっても違おうが、半年に一回営業状況を記した帳簿類を持って所轄警察署に出向かねばならない。警察の指導を受けることになる。更に売り上げは出納帳に記載する必要があり、給料所得以外に新たに毎年確定申告をしなければならない。

 だが、これを怠った場合、脱税となり、かつ諸々の規定に抵触し、公務員や会社員なら懲戒免職になる場合がある。
 前回の『刀屋物語』で公務員規定で抵触し、懲戒免職になった警察官のことを書いたが、懲戒免職は上々会社の会社員でも“重職”となり古物商許可を取得しているだけで懲戒免職になる場合もある。これを承知で内緒で遣っている者がいるが、発覚すれば免職は免れないだろう。
 そして古物商許可は、医師や法律関係者同様、本籍地で発行する「身分証明書」や「後見人でない証明」が必要であり、数種類の書類を揃えて所轄の警察署に提出し、約一ヵ月後に許可が下りるが、審査に不合格になる場合もある。その場合、警察の古物係は不合格の理由を教えない。
 また六ヵ月間営業をしなかったり、六ヵ月ごとの帳簿類の提出を怠った場合は許可が失効され、一旦失効されると日本では、もう再び古物商になることは出来ない。古物商申請を何度行おうと、以降審査には合格しないのである。

 だが、恐ろしいことに許可が失効されていながら、古物商然とした貌で仲間内に刀剣類を売り捌き、古物営業法違反
(普通は実刑を喰らう)と確定申告を怠り、それを頬っ被りして脱税している会社員もいる。普段はサラリーマンを本業とし副業で古物商を商っている者がいるが、これらに抵触していることを甘く考えてはなるまい。
 しかしこうした人間は、甘えの構造の中に頸
(くび)までドップリ身を沈め、「自分には官憲の捜査は入らないだろう……」と簡単に考えているのである。そして本人が恐ろしいことをしていると気付いていないところが、また恐ろしいのである。
 素人は怕い。
 知らないこと、知ろうとしないことが怕い。素人は怕い。実に名言である。
 知らない素人は怕い。学ばない素人は怕い。怕さの根本には、知らないことを甘く考えているところにあるようだ。
 こういう「甘ちゃん」は、おそらく自分の人生を顧みることもないだろう。
 老いても、自分の甘さに気付かずに潰えて行く人であろう。

 そもそも、人間の人生は青春期や壮年期にあるのではなく、歳を重ねた「老後」にあるのである。
 例えば、六十歳な七十歳になって、過去を振り返ったとき、過去、六十年ないし七十年は一瞬のうちでなかったかと思う。大半の人は、この年月を一瞬のうちに過ぎ去ったと感じるだろう。その間の年月は、例えば贅沢をしとか、老いてもなお老いらくの恋の真っ最中とか、あるいは苦労して苦しんだとかの、この程度のことは大した問題ではないのである。
 ところが、この間の老齢期を過ごす時間の中には濃厚なものが備わっていて、老後の一時間とか、その日の一日とかは、実に大事なのである。仕上げの、ラストスパートの時間であるからだ。
 この大事な時間に「ああ、いいことをしたな」とか「自らを鋭敏に研ぎ澄まして、真理に迫った」という確信して、その鋭さの一片を感じたかどうかで、人生の幸・不幸が決まるのである。
 私は老いてもなお、鋭く自らの魂を研ぎ澄まし、そこで真剣勝負の「眼の勝負」をして来た人を何人か知っている。そう言う人は、一朝一夕の付け焼き刃などではなかった。




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