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スタッフ紹介

daitouryu.net スタッフ紹介


日本人は山岳民族の名残りを残し、山の緑に郷愁を覚える国民である。
 福智山山頂から下界を遠望す。晴れた時もいいし霧が掛かった時もいい。


人間はもともと大自然の中の住人だった。
 そして樹木の対話を通じて、気分をさわやかに一新することが出来た。ときには父と娘で、こうした自然の中で身を置きながら、将来を語ったりする。親子共々トレッキングの愛好者。
この日の福智山は深い霧の覆われていた。
 気温が20度で、風速5mの風が吹いていた。1m吹くごとに1度失われるのであるから、体感温度は15度だった。
 しかし、山は精気に満ちて実に清々しい。道場生を連れての福智山登山。



文章にして物申すことの難しさ

  


 ●綱武出版とは、どういう出版社か

 『daitouryu.net』を運営する綱武出版とは、「どんな出版社か?」と、よく読者の皆様から質問される。複数のスタッフが関与していると思われている。
 綱武出版について言えば、「父と娘の二人だけで運営する日本でも一番小さい、ちっちゃなちっちゃな」出版社である。
 父が文章を担当し、それを娘が編集し、図版を描き、色彩を定め、レイアウトをしてネットに掲載する。つまり、父と娘の二人三脚の零細出版社である。

 さて、筆者が書籍や他の出版社に対し、文章を書き始めたのは、42歳のときである。
 それ以前は、「ど」を五回くらい重ねてもいい「五つ星」のド素人だった。42の歳まで、殆ど文章は書いたことがなかった。況して、本など殆ど読んだことがなかった。
 敢えてそれまで読んだことのある本と云えば、仕事の上で使っていた理数の教科書か参考書程度のもので、多くは仕事上の専門書だった。文学も無縁であり、文才も無縁だった。

 最初、文章を書いたのは、ある出版社依頼の『武道書』だった。
 出版社の社長からは、「あなたは一度に多くの単語を取り入れて、長い文節で一気に表現しようとするから、文章が捻れていますね」と、このような厳しい評価を受けたことがあった。
 「文章が捻れている」つまり、主語が述語に対して明確でなく、文節の意味が全く不明になって、何を言っているのか分からないという状態を出版業界では「文章が捻れている」と言うらしい。
 また、ある編集者からは読点と句点の注意を受け、「あたかも裁判で起訴する、検事調書のような長い文節をだらだらと並べ立てないで下さい」と詰られたこともあった。

 更に、ある出版社の編集長からは、「下手ですね、売り物になりませんよ」
(事実売り物にならず1万部売って絶版)の無言の罵声の中で、本一冊(349ページ)丸ごとゴーストライターの手直しが入り、屈辱とともに大変なヘマを仕出かしたこともあった。商業用出版物の意味を理解しないばかりか、文才も能力もゼロだったのである。面白いプランをもっていても、ド素人ではこのざまだった。
 政治家やタレントら有名人は上手く書いているようであっても、背後には百戦錬磨の優秀なライターが付いている。有名人自身が書いたものではない。売名行為のため“金さえ出せば……”というやつである。そういう影の恩恵に預かっている。
 ところが、私のような貧乏侍はそうはいかない。
 有名人の手記や告白記は必ずと言っていいほど、商標用読物として所定の枚数に纏めるリライトをする者がいて、こうした校正の出来る者を各出版社は抱え、商業用として採算が取れるようになっている。こうした点を、素人作家は知らない。所定の文字数以内で主張を纏める能力がないのである。

 しかし、最初は誰でも新人である。ド素人である。
 況して、物書きとしては非常に不適格な、才能ゼロの第一歩から始まり、「そんかことも知らないのか!」と、あざけられ、また、トンチンカンな受け答えをして恥をかかされたことが随分あった。
 その度に、文章は拙い、下手、書いていることが観念的である、まったく面白くないなどと、いちゃもんをつけられたこともある。自分では一生懸命修行し、書いているつもりなのだが、その程度なのであろう。
 九州の田舎者と言われ、単に朴訥だけでは商業用出版物としては売れないなどと言われた。商業用の、プロの眼にかかれば、私のような田舎侍はたちまち弱点を曝
(さら)け出してしまうのである。商業用として発表を控えたのも、こうしたところにあった。
 雪辱が雪がれるまでは……。今もその気持ちである。
 この恥は未だに延長線上にあり、六十半ばに達したこの年においても、厳しいご指摘を受けることがある。それを甘んじて受け、昔ながらの「徒弟制度」を通じて、人間は修行させられ、進歩していくのではないかと考えている。

 物を書き始めたのは42歳のときだった。
 そして、これが縁で、自伝小説でも書こうかと思ったのも、この一年後くらいからだった。
 以前、小説というのは作り事で、殆どが嘘っぱちで、実に女々しく男と女の関係をメロドラマ的に描く、その程度のもの……と考えていた。
 本来、畑違いのことを遣っているのだから、その程度の感想しか持たなかった。だが、この考え方を改めねばならないことが起こった。書き始めてわかったのだが、「文章にして物申す」ということは、決して生易しくないのだった。
 総合的で複合的な思考が出来なければ、少年少女相手の冊子程度の薄っぺらな恋愛小説一つすら書けないことを悟ったのである。

 かつて理数畑を歩き、またその道での学習産業に携わり、受験を食い物にして生活の糧を得ていた。しかし転機が42歳の厄年のときに訪れた。学習産業の一員として飯を食っていたが会社が倒産。そして夜逃げ。その夜逃げから、また新たな道を模索することになったのである。
 天は見捨てなかった。
 天は、自ら助くるものを助くだったのである。それを実感した。
 そして、随筆を書くにも、小説を書くにも、こうしたものを書くには、恐ろしいエネルギーが要るのだと言うことを思い知らされたのである。
 文章にして「物申すこと」は、体力的にも気力的にも、そして集中力も、大変なエネルギーが要る。
 長年、理数畑を歩き、また幼少の頃より武術を通して体力や気力は養ったつもりだったが、随筆や小説を書くという作業は、武術で肉体を鍛え上げる比でないことを思い知らされたのであった。

 物申して文章を書くというこの行為を、再び真摯に見詰め直し、なおも続ければ、あるいは人間修行の、武術と共通した極意に達するのではないかと思うのである。
 老いてもなお、随筆や小説を書こうとする原動力は「理想の追求」であろう。そして、その追求は人生の厳しい大事業の挑戦であると信じているからである。
 三文文士の三文小説でも、読む読まないは別にして、文章にして物申すくらいの権利はあろう。

 最初に発表した小説は『旅の衣』と題したものだった。青年期の実話を基にして、一部を小説化したものである。
 この小説は、43歳ことから書き始め、二年掛かって書き上げた。そして、この作品を最初に見せた人が、かつて『柔侠伝』シリーズで一世を風靡した劇画作家のバロン吉元先生だった。
 バロン先生は「これは立派に作品になっている。発表してはどうですか」と薦められたことがあった。しかし当時、「私如き」という気持ちがあった。
 またバロン先生とは深い想い出がある。よく銀座でハシゴしながら、次に新宿に流れ大酒を飲み回ったことがあった。そこで紹介された出版社の編集者達と朝まで、酔い潰れるほど飲んだことがあった。それを今は懐かしく思う次第である。

 また、『旅の衣』については、知人らの作家仲間からも「発表しては」と薦められもした。その関係の幾つかの出版社からも、お声が掛かった。しかし、いつも「私如き」という思いはある。三文文士は埒外である。これは謙遜でない。本心である。
 ただ、私如き……という気持ちもネットに公開されることは許されると思っている。誰の力も借りず、父と娘の二人だけの「ちっちゃなちっちゃな出版社」を細々と運営しているのである。これくらいは許されよう。

 読者か、出版関係の人かは知らないが、「おたくは多くのスタッフを抱えて幸せですね」というお言葉を頂くことがある。しかし、スタッフは父と娘の僅か二人である。編集者すらいないのである。
 差し詰め、私がある大学の論文添削を請け負い、その内職で得た薄給で、この「ちっちゃなちっちゃな出版社」を運営しているのである。ポケットマネー運営というか、道楽というか、そうした懐の寂し懐事情で、寂寥の哀愁を込めて運営している出版社である。

 毎回のアクセス数は多いものの、会員になって、お金を払い読んで下さる方は殆ど居ない。読まれているのは、「open」箇所だけである。これではレンタルサバー料も払えない状態である。
 それでも「売り上げゼロ」を覚悟で遣っているのだから、これも有り難い「人生の試煉」と考えている。そして年間の売り上げと、出費を差し引けば、マイナスになっている。『貸借対照表』は毎年マイナスで、いつも帳尻が合っていない。こうした貧乏経営ゆえ、原稿用紙に赤線を入れてくれる編集者の一人も雇うことが出来ない。
 文章量は膨大である。毎日読み返し点検するが、一人で内職の合間、誤字脱字箇所を探すのは大変である。

 読者の方々から、「誤字脱字や意味不明の表現があまりにも多い」とか「独善的で批判ばかりしている」とか「内容が難し過ぎる」などの、ご批判とご指摘もある。昨今は、読者の不勉強も作者の所為
(せい)にされるらしい。おかしな世の中だ。
 また、何処も此処も、つづく、つづく……となってばかりで、殆ど完結してないではないかという手厳しい苦情もある。
 しかしそう言われても、一人で内職の合間、全ページの全文章を書き、この辺の貧乏事情をご理解願えれば“有り難き幸せ”である。
 願わくば、編集者の一人でも……というのが当面の悲願である。
 更に欲を言えば、動画編集制作者と電子書籍制作者が居れば言うことはないが、貧乏閑なしどころか、貧乏金なしである。当然、親子二人で……というのが当面の運営状況である。
 孤軍奮闘するも、また孤立無援である。編集者もいなければ、応対や注文やスケジュールを調整してくれる秘書もいない。
 今のところ、コツコツ……という“亀さんスピード”が現状である。何卒、至らぬところは平にご容赦願いたい。

 禍福は糾える縄のごとしという。
 これが人生という実体そのものだろう。幸不幸は、より合わせた縄なのである。
 そうだと分かれば、これを甘んじて受けるのも、生きて行く上での定めであろうし、諦めだろう。禍福は人間の力では、どうにもならない。天に任せる以外ない。
 以後も、ポケットマネー運営は覚悟のつもりである。道楽の世界に身を投じながら、かつ「有り難い?人生の教え」を、一つの試煉と考え、また使命として遂行したい次第である。

文章担当者    







文章担当:曽川和翁 ネット担当:曽川 彩

【略歴】
 
昭和23年生まれ。幼少より、西郷派大東流合気武術を学ぶ。
 長年、数学畑を歩き、高校教員、刀剣商、大学受験指導の家庭教師、進学塾経営、大学予備校経営、予備校講師を経て、作家を生業とす。
 少年期、平戸時代の小学2年の頃、叔父から見せられた日本刀に異常な興味を持つ。
 昭和42年、18歳の時、大東修気館道場を開設。
 大学時代、刀屋をはじめて小金を得る。
 大東美術商会代表取締役、大学予備校などを経営し、塾長、理事長などを歴任。
 会社倒産を2度経験する。訴訟裁判で弁護士なしで、原告訴訟代理人相手に受けて立つ。
 極貧時代、千葉県習志野、愛知県豊橋、滋賀県大津などを転々とし食えない時代を経験。
 苦渋時代、書籍や冊子の挿絵や、週刊誌や女性誌の雑文書きとしてとして細々と生計。
 平成2年、習志野時代、『柔侠伝』で一世を風靡
した劇作家バロン吉元氏と知り合う。
 平成2年12月、習志野所払い。愛知県豊橋に転居。
 平成3年4月、滋賀県大津市に転居。
 末妻の精神分裂病にも25年間付き合う。精神科医師に知り合い多し。精神医療界には医商もいたし、逆に『医は仁術』を貫いているサムライもいた。学ぶこと多し。
 42歳の厄年より、随筆や小説を書き始める。
 平成13年病魔に斃
(たお)れたため、自宅で細々と論文添削の内職をして生活の糧を得る。
 「死」をテーマに、不可視世界を研究。
 現在は北九州市小倉南区志井に在住。
 『大東流合気武術』に関する一般書籍の他、数学、哲学、政治学、陰謀学、歴史工学に関する学術論文多数あり。
 米国イオンド大学教授、同大学哲学博士。
バロン吉元先生と(平成8年、小学5年生)

【略歴】
 
昭和60年、曽川和翁の末娘として生まる。高校時代初頭までを滋賀県大津市瀬田で過ごす。
 小学校3年の頃より独学でコンピュータをいじり始める。
 小学5年の時、瀬田の自宅に来訪したバロン吉元先生と会う機会を得た。これを機に多大なる影響を受ける。
 高1のとき、父の仕事で北九州移転につき滋賀県立草津高校を中途退学。
 以降、ネット部門や作図などの図版部門を担当し、また父親の仕事を扶
けて、現在、綱武出版代表ならびに、日本刀専門店・尚道館刀剣部(大東美術刀剣店)代表。
 武道歴は、小学2年より6年までの五年間を河西泰宏先生の元で極真空手を、そして中学一年より父を師事して、本格的に西郷派大東流を習う。
 総本部尚道館女子部指導員。西郷派大東流合気武術准師範。四段。
 日本刀鑑定と刀装造り
修行中。刀剣商。



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