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刀屋物語 1


   





●刀に魅入られた日

 私が刀に魅入られたのは確か、あれは小学校二年生の頃であったろうか。
 小学校低学年時代、私は長崎県平戸市で育った。母が病弱のため、母方の叔母の家に預けられ、そこから平戸小学校に通っていた。そうした低学年時代、毎日のように通っていたのが父方の叔父の家だった。叔父の家は本家であり、祖父は米の相場師だったと聞くが、既に相場に失敗して家は没落状態だった。
 そして祖父だが、この爺さまの口癖は「腐っても鯛」だった。飛ぶ鳥を落とす勢いを経験した人である。洋行帰りと噂された人でもあった。その人が相場の失敗で、一夜にして転落した。転落して極貧の淵を彷徨
(さまよ)っていたというが、プライドだけは未だに失われず……という観があった。

 先祖は平戸藩中野村の代官という話だった。石高は僅かに十五石の下級武士だったが、登城しない下級武士は“お目見え”という百石以上の武士とは異なり、副業が許されていた。半農の武士だった。そのため、米を商っていたのである。代々がそうだった。幕末から明治に掛けて、米相場を家業とした。だが、それでも名字帯刀が許された家だった。
 遠い先祖は壇ノ浦で敗れた平家一門だったという。壇ノ浦以降、落ち武者となって肥前平戸に流れて行った。そして平戸島に上陸する時に、“岩の先きから揚がったので、岩崎を名乗った”という。また遠い先祖は、平戸の水軍・松浦家に仕えたという。
 曾ての記録が残る松浦史料館の資料によれば、岩崎家は馬周り役や村代官を勤めている記録が残っている。代官時代は下級武士だったが、その当時は非常に裕福だったと聞く。しかし明治期の途中、祖父の代で米相場に失敗した。相場に失敗で、一気に貧乏のドン底に叩き落とされた。裕福な家から極貧の底に転落した。没落……そして一家離散の寸前だった。

 ところが、この危機を長男の本家の叔父が救った。丁稚奉公を経て年少兵で海軍に入り、まだ当時幼少の、私の父や弟や姉妹達を海軍の水兵の給料で賄
(まかな)ったのである。もちろん米相場で失敗した祖父も、祖母も、叔父によって救われた。
 叔父は海軍での生活を極力切り詰め、自分の給料はそっくり親の許に仕送りした。それで私の父や弟や姉妹達は命を繋いだ。叔父は長い間海軍に居た。武士のプライドをもって、一家離散を食い止めたのだった。常にプライドを支えたのは心に拠り所があり、それは先祖伝来の刀だったと言う。士族という名がそうさせたのかも知れない。当時は戸籍に、武士の出は「士族」と記載される。下級武士であったも、武家は士族と記載された。そして何処まで堕ちても、刀だけは手放さなかったという。刀が拠り所になり得たからだ。
 その最たるものが、大小二刀
(ふたふり)の日本刀であり、銘があるのか無銘だったかは知らないが、また銘があるとすれば、その銘はいいのか悪いのかは知らないが、本家には先祖伝来の刀が床の間に飾られていた。それは叔父の代になっても同じだった。私はこの刀を能(よ)く見ていた。

 私が平戸にいる小学校低学年時代、叔父は長崎親和銀行に勤務し、トップの管理職だったので、没落寸前の家を建て直し、また唯一の道楽が日本刀の蒐集だった。銘のいいものを集めていたように思う。
 本家はみな女ばかりの家だったが、私が子供ながらに毎日此処に通う理由は、東京の女子大に通う従姉妹
(学期の休みの度に東京から帰省していた。そのたびに纏わり付いて居たことを覚えている)と、高校生の従姉妹と何らかの遊びを興じることで、特に下の高校生の娘の方は歳が離れた年上だったが、私がじゃれつくにはいい遊び相手だった。そのついでに、叔父から床の間の部屋に呼び寄せられて、その傍(そば)に端座し、日本刀の手入れに付き合わされることだった。

 そして、手入れの度に叔父が口にする言葉は、「日本刀はなあ、女と同じだからのう。よく心せにゃあ、魅入られてしまうぞ」だった。子供の私に刀談義を聞かせるのであった。
 当時の私としては、その意味は釈然としなかったが、今にして思えば、なるほど……と頷
(うなず)けるのである。魅入られる意味がよく分かるのだった。
 確かに思えば、刀は、私にとって魅入られる対象としては、女と同じだったかも知れない。いい女ほど惑わされ、悩まされ……、悩殺という言葉がある通り、魅入られるのと同様、刀もいい刀ほど魅入られてしまうのである。刀を美しき魔物と形容するには正しくないかも知れないが、私のとって刀は、つい魅入られてしまうような怪しい存在だった。気付いた時にはいつの間にか、欲しくて欲しくてたまらない気持ちに惑わされ、魅入られている。魔に掛かったようになる。惚れた刀に、ふらふらと蹤
(つ)いて行ってしまうような、刀は恐ろしき魔力を備えていた。私にとってはそうだったのである。
 私が後に、日本刀を生業
(なりわい)にして刀屋家業を始めたのは、この小学校時代に、日本刀に魅入られたのが最初だったかも知れない。この時から魅入られっぱなしで、今日に至っているのである。【註】詳細は『旅の衣』後編および『吾が修行時代を振り帰る・第三部』に詳しいので拝読乞う)

 小学校低学年時代に芽生えた日本刀への入れ込みは、その後も消えることなく、大学時代になってその想いは益々強くなるばかりだった。
 大学に入ったばかりの時に、同学年の一人にいつも匕首
(あいくち)か短刀を学生服の懐に呑んでいる者が居た。その刀剣は倶利迦羅(くりから)の入った惚れ惚れするような物だった。そして、遂にそうした硬派スタイルにすっかり宛てられてしまったことがあった。それ以来、寝ても覚めても刀のことが頭から離れなかった。
 刀が欲しい……と思う。

 刀剣類は幼少より触れていたが、私の欲したのは自分の刀である。借り物や、使用させてもらっている道場所有の刀でなく、自分自身の刀である。そうした心の拠り所が欲しかったのである。
 欲する者が心の拠り所である以上、私が通う道場のボロ刀ではなかった。
 巻き藁や竹等を切って、飴の棒のように曲がった錆刀ではなく、また何を切ったか分からないようなそんな物でなく、正式な研ぎの入った、刃文がくっきり浮び、鉄地肌が板目状になった、出来れば棟横にあたかも鎌倉期の刀のような“映し”の浮いた、この手の物が欲しかったのである。

 大学時代は、学校の行き帰りに博多駅付近にある、当時は『金丸刀剣店』という店に能
(よ)く通っていた。此処の店主は中々の商売人で、刀屋で財を成し、その後直ぐに博多駅前近くに六階建てのビルを建てる勢いだった。学生時代、この店で最初に『平安城石道住正俊』(当時は無認定。その後転売したのでこの刀が偽名か、あるいはどの程度にランクされたかは不明)という一刀(ひとふり)を需(もと)めたのだった。時代鞘の黒絽漆塗りの拵のついた刀だった。そして鍔は六角鍔で、“マル特”(特別貴重小道具。財団法人・日本美術刀剣保存協会発行)がついていた。
 刃渡り2尺3寸7分9厘(72.1cm)で、“互の目乱れ丁字”が平安城の特徴だった。その一刀を陳列の外から見ていると、「どうしてもこれが欲しい〜い……」となるのだった。魅了されて、どうしようもないのだった。そのように子供の時から暗示が掛けられているのである。その結果、金策のためバイトに奔走するのだった。
 そして遂に、この刀を当時七万五千円で買ったように思う。この値段が安かったのか高かったのか、その当時は分からなかった。しかし、当時と今とでは、十倍の開きがあるから決して高い物を買ったようではなかった。

大学の頃から刀漁りを始めた筆者。

 こうして私の日本刀漁りは始まったのであった。そしてその後、刀から刀へと、まるで女から女へ、女漁りでもするような放蕩生活が始まったのである。以降、女道楽ならぬ刀道楽の生活が始まった。
 既に学生時代、日本刀の売買を行っていた。県公安委員会の古物商許可を取得し、日本刀を商っていたのである。当時は面白いように刀が売れた。

 また、売買で生じた儲けを手に、現生をもって買い漁ったことがあった。その売買において、利益は私を益々刀に熱狂させる着火剤となり、その後もエスカレートして行くのだった。面白いほど儲かるのだった。
 しかし、こうした順風満帆
(じゅんぷう‐まんぱん)は一時的なことであり、これが長く続くことはなかった。そのうえ二十歳そこそこの青二才が、持ち慣れぬ金を持つと、ろくなことはなかった。これが勝負師に身を持ち崩す構図だったのだろうか。あるいは生まれながらに、米の相場師だった祖父の血を受け継いでいるのだろうか。
 危ない綱渡りをする博奕打ちのような生き方を選択したのは言うまでもなかった。そのうえ時代は、ドルショック、オイルショックと激動の様相を極めた。昭和48年後半から不景気が襲い、美術品が売れなくなっていたのである。暗雲への突入であった。



●長曽禰虎徹興里

 偽物を掴まされたのは、確か北九州市八幡西区の黒崎商店街に刀屋を開店して直ぐのことだっただろうか。
 当時持ち込まれたのは、かの虎徹だった。本来、同業者間では「虎徹と聞いたら、まず偽物であると思え」が常識だった。かの“ハネ虎”で有名な虎徹は、一生涯のうちで滅多に出会わない、それくらいの大業物
(おおわざもの)であり、新刀においては最上作の重要文化財級の“凄い奴”だった。
 そして“虎徹と聞いたら、まず偽物であると思え”が、何と事も有ろうに、私の店に持ち込まれたのであった。これが凶事の始まりだった。

 持ち込んだのは人相風体から直ぐに“その筋の者”と分かる男二人で、この偽物の虎徹には終戦間際、アメリカ軍が没収したと思われる物が、旧持ち主に返還されたことを示す米軍の刀剣登録証
【註】終戦直後に作成されたと思える藁半紙のような紙に、あたかも日本の銃砲刀剣類登録証をローマ字で横書きにした奇妙な証書)が着いていた。この登録証が本物であるか否かは差だけではないが、私が米軍の発行した刀剣登録証を見たのはこれが初めてだった。
 持ち込んだ男達が、虎徹の銘の切られた偽物刀に日本の教育委員会文化かが発行する登録証が付けられないので、敢えて米軍発行の登録証を偽造した物かも知れなかった。そうなれば公文書偽造である。その辺のことはよく分からないが、私の興味を引いたのは銘に「長曽禰虎徹興里
(ながそね‐こてつ‐おきさと)」と入っていることだった。その上、白鞘に仕込まれ、刀身は赤錆を噴いていた。既にこれ自体が臭かった。
 明らかに一見して偽物と分かる代物だったが、男達はこれを格安にして、私に売りつけようとする肚
(はら)が見て取れた。腹積もりがやがて口まで出て来て、男達は交互に「破格値で500万円でいい」というのであった。

 私は偽物を前に、首を横に振っていたが、男達はそれでも食い下がり、500万がやがて300万になり、更に値下がりして200万までなった。金を欲していることは見え見えだった。執拗に食い下がり、一刻も早く現金化しようとする気持ちが手に取るように分かるのだった。早口で捲し立てて、ごり押しをして来るのである。些か能弁の口をしていた。
 だが、こうした口に対し、したたかな刀屋は耳を貸さない。宙に眼を浮かして聴かぬ振りをする。そして能弁者が飽きるまで相手にしないのである。それで痺れを切らし、怒ればそれを咎めて警察を呼ぶ。多くはこうした結末に至る。それでもしつこい奴はいる。この手のハシゴをするのだ。そのしつこさから、既に何処かに持ち込み、そして最終段階として、私のところに持ち込んだのだということが想像出来るのであった。
 さて、どうしたものか……と思うのであった。
 煩い!で一蹴するか、あるいは警察を呼ぶぞ!と、凄みを利かせるか。はて、どうしたものか……。

 そして遂に口にしたことは、「米軍接収の登録証では、どうにもならない。どうしても話をつけたいのなら、この米軍の登録証と刀を持って警察の防犯課に行き、これに発見届を付けて下さい。その後に考えさせて頂きましょう」と言ったのだった。
 これを聞いて男達は一瞬混乱したようだった。おそらく“警察”と“発見届”の言葉が混乱させたようだった。何かを恐れているのが手に取るように分かった。同時に、偽物の“虎徹”を200万円で売りつけようとする肚すら見て取れるのだった。刀の恰好をした“鉄の棒切れ”に等しい粗悪な代物だった。

 しかし、棒切れと言って追い返すより、警察に行って発見届を貰ってこいというのが余程、効果的だったのである。同時に刀はそれほど厄介な代物である。警察の防犯課は簡単に、新たに発見された刀に発見届は付けてくれない。出所を根掘り葉掘り訊く。昔から親が、先祖が所持していてそれを知らなかった等と言っても簡単に信じてくれない。むしろ、処分してしまえというふうに働きかける。新たに出て来た刀剣類は容易に認めないのだ。発見届一つ書いてもらうにも、なかなか骨が折れる。下手をすれば、その場で没収されたり、刀剣不法所持で逮捕されかねない。その危険性があるのである。棒切れに等しい刀は、美術品としての価値がないから、教育委員会文化課の登録審査を受ける前に警察で没収されてしまう。
 このように言うと、店の座敷に上がり込んだ男達は慌てたように、刀を風呂敷に包み、逃げるように出て行ったのである。幾ら当時私が二十代半ばの若造とはいっても、そう簡単には騙されないのである。断るにも、恨みを持たれないように道理を通して断る口は持っている。

 しかし、災難はその後何回か登場し、そしてかの“虎徹”に引っかかることを何回か繰り返したのである。
 刀屋の常識としては、「虎徹と聞いたら、まず偽物であると思え」が常識である。それは鉄則と言っていい。決して覆せない物だ。
 ところが、その常識を覆して私は、まんまと虎徹に引っ掛かり、大した月謝を払ったことがあった。勉強とはいえ、これに使った月謝は半端なものではなかった。経営が逼迫しているときは、痛い出費であった。
 そして刀剣愛好の道と、刀屋商売では全然違うということも学んだのである。

 刀剣愛好家は自分の感性と趣味のレベルで刀を買い求める。つまり惚れ込んで買い求めるのだ。その刀が好きになって買うからである。
 一方刀屋は、売買するのが目的で刀漁りをする。自分の好き嫌いで買うのではない。売買出来るから買うのだ。買う時に、既に客の顔が浮んでいるのである。顧客の顔が思い浮かぶから、刀を仕入れるのである。その仕入れ方は好き嫌いではない。売れるから仕入れる。客の顔が思い浮かぶから仕入れる。そして仕入れた後に、巧妙な色仕掛けで売りつける。これが刀屋商売である。刀剣愛好家とは、この点が全然違うのである。
 刀剣愛好家という素人が、プロの刀屋から色仕掛けで攻められ、ついに“買う”に至るプロセスは愛好家のレベルを通り越した、プロの巧みな色仕掛けの言葉に堕
(お)ちるからである。
 だが、刀屋にも私のような、梅雨と半端な両刀遣いがいる。

 刀屋のくせに、愛好家のレベルも卒業出来ないで、直ぐに刀に惚れ込んでしまう、私のようなお人好しが居るのである。
 刀屋が刀に惚れ込んだらお仕舞いである。惚れ込んだ刀は、売りたくなくなるからである。いつまでも自分の手許に置き、それを愛
(め)でようとする。ここに間違いがあるのだ。可愛い、愛(い)おしい女をいつまでも離さず、それに執着しようとする心理に酷似している。こんな刀屋が儲かるわけはない。この手の刀屋は、刀屋を遣ることによって失敗し、ついに身の破滅を招く。
 何故なら、一番嵌
(は)められ易い、お人好しの、商売人には不向きの刀屋であるからだ。私は、“この手”の刀屋だった。それで、その後も何度も“虎徹”に引っ掛かるのである。


 ─────虎徹と聞けば直ぐに、かの有名な「新撰組の近藤勇」を連想する。そしてこの御仁(ごじん)が虎徹と繋がる。
 本来は近藤勇と虎徹は無関係なのであるが、自称の愛刀が虎徹だったので、それを連想させてしまうのである。また近藤自身も、自分の刀を“無銘の虎徹”と思い込んでいたので、それが講談等で盛んに語られ、こうして“虎徹イコール近藤”あるいは“近藤イコール虎徹”という図式が後世に成り立ってしまった。そして近藤の所持した愛刀は、無銘の虎徹だったか、そうでないかは未だに議論されているが、昨今は偽名だったという説が有力らしい。

 さて、新撰組には近藤勇なる人物がいた。新撰組を率いる局長である。この局長は剣客であった。天然理心流の達人だった。また人物だった。後に近年では、幕末の義士と称されている。
 彼は口に拳骨を丸ごと咥え込むという珍妙な特技を持っていた。
 近藤の珍妙なる裏話には、彼が尊敬していた戦国武将・加藤清正
(かとう‐きよまさ)も同様の特技を持っており、それに肖(あやか)ってのことだった。両人ともこれが出来たという。

 戦国期から江戸初期に話を戻すと、清正は安土桃山時代の武将であり、豊臣秀吉の臣だった。彼の名の通称を虎之助といった。賤ヶ岳七本槍
(しずがたけ‐の‐しちほんやり)の一人で、文禄の役に先鋒、慶長の役で蔚山(ウルサン)に籠城(ろうじょう)し、また関ヶ原の戦では家康に味方し、肥後国を領有した安土桃山時代の武将である。
 そして清正の愛刀は長曽禰虎徹興里
(ながそね‐こてつ‐おきさと)である。
 それがまた、近藤自身にとっても、わが愛刀は虎徹ではならなかった。“近藤イコール虎徹”という図式を作るために……。

 講談などで出て来る近藤の決め台詞の「今宵の虎徹は血に餓えている」は有名な話である。
 しかし、こうした言葉を近藤が実際に吐いていたとは信じ難い話である。これでは近藤の愛刀が殺人剣である。理由もなく人を斬り殺す、人殺しの凶器である。恐らく講談での話を大きくする作り話であろう。何故なら近藤は殺人鬼ではなかったからである。殺人剣を、勤王の志士相手に振り回していたのではなかったからである。そうでなければ、近年、新撰組の評価が持て囃され、また幕末の志士などと噂されることはない。

 では、果たして近藤の愛刀は虎徹であったか。
 ここに問題点がある。
 いつの間にか、講談仕立てで“虎徹イコール近藤”の図式が出来上がっているため、誰もがそう思いがちだ。そして直ぐに、そのように信じられ易い。素人感覚にはそう思う。

 実際には近藤の虎徹は、当時名工として名を馳せていた源清麿の打った刀に偽銘を施したものとする説もあり、現在ではこちらの説の方が強い。私もその一人である。
 近藤自身は所有の刀を虎徹と信じており、池田屋事件の後に養父宛てにしたためた手紙の中に「下拙刀は虎徹故に哉、無事に御座候」とある。
 他に将軍家から拝領した“長曾ネ虎徹興正”
【註】長曽禰の「禰(ネ)」の字に、“ネ”や“弥”の字があり、また“祢”もある)の作であったとする説や、虎徹の養子である二代目虎徹の刀であった説などがあり、子母澤寛(しもざわ‐かん)の故老の聞書を生かした時代小説の『新撰組始末記』では「江戸で買い求めた」あるいは「鴻池善右衛門(こうのいけ‐ぜんえもん)に貰った」更には「斎藤一(さいとう‐はじめ)が掘り出した」の三説を挙げている。しかし、何れも根拠はなさそうだ。
 そして近藤は、暇があれば刀剣の話をしたという。その話の中のことが手紙に書かれ「脇差は長いほうが良い」と書かれたものが残っている。

 さて、源清麿
みなもと‐きよまろ/新々刀を代表する大業物を造り出した最上位にランクされる刀工。文化10年3月6日(1813年4月6日) 生まれ〜 嘉永7年11月14日(1855年1月2日)没)である。清麿と虎徹の刀風には幾つかの共通点がある。非常に似通った名工としての作風を持つ。
 清麿は幕末に活躍した刀工である。本名は山浦環
(やまうら‐たまき)という。
 初銘は正行、ついで秀寿を名乗った。兄は刀工の山浦真雄であり、水心子正秀
(すいしんし‐まさひで)、大慶直胤(たいけい‐なおたね)と並び「江戸三作」と称された名工である。
 彼等は波乱に富んだ人生を送ったことから、新々刀期の刀工の中でも、特に人気が高い新々刀きっての名工とされる。したがって近藤勇の愛刀が無銘の虎徹で、本人が本物と信じていた以上、切れ味も最高の物であったのだろう。何しろ、大業物の“清麿”であったからだ。
 人間の思い込みが、熱狂的な信仰の信心に変わり、その「信」が貫かれた場合、その威力は凄まじい。天下無敵となる。正邪の違いはなくなる。邪でも、正の如しだ。ここに信念の凄まじさがある。
 但し、幾ら大業物の名刀でも、新刀と新々刀では時代が違う。
 もし、敢えて時代区分のよる本物と贋作の違いを述べるならば、時代において虎徹と清麿の生きた時代は違っている。したがって、清麿が虎徹になりようもないし、その逆もあり得ない。

日本刀剣史略年表

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 さて、虎徹だが、その作刀は地鉄が緻密で明るく、更に冴えているともいう。
 私は本物を実際に手にして見た事がないので、名刀虎徹がどのような名刀かは想像し難いが、“冴え”とあるから、鑑賞面にも優れ、それに加えて「映し」というものが鎌倉期の刀同様に浮き上がっていたのかも知れない。そのように想像出来るのである。それがまた、鎌倉期の刀と同じような、切れ味鋭い名刀であったと想像出来る。
 虎徹の別名は興里。あるいは長曽禰興里、長曽禰虎徹、乕徹ともいう。
 通常、虎徹といえば、この興里を指すのである。しかし興里は、本来は甲冑師であったため、刀剣の他にも籠手や兜、それに鍔などの遺作もあるのである。この天才甲冑師が五十歳を超えてから刀工に転じたのである。老いるほどその技倆は冴え、また輝きを増した点でも興里は異色の刀工であった。

 つまり「虎徹」とは、甲冑師の長曽禰興里の刀工時代の入道名の一つなのだ。
 そして虎徹の作刀には、国の重要文化財に指定された刀をはじめ、文化財に指定されているものが多い。庶民同然の、底辺の私のような刀屋では、生涯こうした重要文化財にはお目にかかれない。したがって、騙されもし易い。あるいは……という意識が働き、つい助平心を出すからだ。助平心を出したばかりに、どれほど痛い眼を見たか……。
 絶世の美人が庶民には高嶺
(たかね)の花のように、虎徹も底辺の刀屋には、まさしく高嶺の花だった。空想するだけで、現実とは程遠い。虎徹とは私にとってそう言う代物だった。

 また興里自身が、群を抜いての天才的な名工であるため、その所持者は大名に限られたようだ。高嶺の花は権力者に独占される。
 例えば、土佐山内氏、尾張徳川家、奥平氏伝来の品、江戸幕府の大老・井伊直弼
(いい‐なおすけ)の差料であった脇差などを見ても分かるように、大名が所持した刀剣類には虎徹が多い。
 つまり虎徹は、到底下級武士では絶対に手に入れることの出来ない番付上位の名工であった。その人気は江戸期を通して変わらない物があり、江戸後期には世間一般的に言う大名道具、あるいは大名差しといわれる高嶺の花の代物となっていた。名字帯刀を欲しがる豪商や豪農が、旗本や御家人の株を買う時代になった幕末においてもはそうだった。虎徹は滅多に、金持ちでも廻って来なかった。また関ヶ原以降の、先祖伝来と称する将軍や主君からの拝領刀が多かった。個体数が少ないのである。

 その人気ゆえに、今日でも刀剣業界では「虎徹を見たら偽物と思え」という鉄則があるのだ。それほど、お目にかかれない名刀なのだ。そして虎徹は、偽物が非常に多いことで有名である。刀屋間では在銘で、“虎徹”と銘のある刀剣のほぼ十割り方が偽物とさえ言えるのである。
 そして私自身、未だに本物の虎徹を手に取ったことがないので、新刀の刀工名鑑によれば、本工の銘字は「虎」の異体字である「乕」を用いて「乕徹」とも書き、「虎徹」に比べ「乕徹」と名乗った期間が長いと掲載されている。
 また「乕徹」の銘の方が後期の作であることなどから、刀剣書などでは「乕徹」と表記されることも多いことを考えると、「虎徹」よりは「乕徹」と切られているのではないかと考えるのである。

刀工名鑑などの掲載されている長曽祢興里虎徹入道。“ハネ虎”と称す。武蔵ー寛文初期。新刀。 銘/左:長曽祢興里入道乕徹、右:長曽祢虎徹入道興里

 更に、虎徹も、また他の長曽禰一族も「長曽祢」と銘しているため「長曽祢」が正しいともいわれるが、銘字の引用部分は「長曽禰」となっているらしい。
 したがって、長曽弥、あるいは長曾弥と表記される場合もあるが「禰
(祢)」と「弥」は別字であり、これは完全な誤りであり、こうした誤りから、偽物と判明することもあるのである。更には「虎鉄」と表記されることも少なくないが、「虎鉄」という架空の刀剣類などもあり、刀剣好きの素人は、この手の偽物にも嵌められ易いようだ。

 かつて私の刀剣店に出入りをしていた、ある刀剣愛好家から「コテツ」と銘の入った物があるから見て欲しいと自慢げに切り出されたことがあった。そして、その人の家に行って「コテツ」なる物を拝見したのだが、その銘には「長曽弥虎鉄」と入っていて、その場で吹き出しそうになったことがあった。この笑いたくなるような刀を、この御仁
(ごじん)は、何と一千万単位の大金をはたいて買ったというが、売る方も売る方だが、買う方も買う方である。
 “虎鉄”と銘を切った物を千万単位で買ったのだから、あるところには金が有り余って唸っていると思った。しかしこの御仁は、この“虎鉄”なるものを買うために、山林や田畑を売って金策したというのだから呆れて物が言えなかった。今もそれを後生大事に、手放さずに持っているというから、幸せな人である。

 そして長らく刀屋をして来た私が思うことだが、刀剣業界というのは刀屋も含めて、その刀剣愛好家も、海千山千のその手の種属の、どろどろとしたそう言う魔の世界の染め上げられているようにも思うのである。魅入られたというべきか。私個人はそう思うのである。
 そして刀は、自分のなけなしの金をはたいて買う……、少なくともぎりぎりの線で生活し、私のような貧乏人は、どうしてもそのようにならざるを得ないのである。そこで“海千山千崩れ”となるのであろう。ミイラ取りがミイラになるとは、このことである。地獄に人探しに出掛けた者が、いつの間にか地獄に住人になっているのである。
 この手の種属のしたたかさも、この辺にあるのではないかと思うのである。資産家でないが故の悲しい足掻きである。

 更に特記事項。
 刀剣業界からすれば、自分が買うときは高く買わされ、自分が売るときは二束三文で易く買い叩かれ、煮え湯を飲まされることだ。
 この事実は絶対に覆せない。そして一方、素人愛好家は愛好家で、自分の二束三文にしかならないボロ刀でも、大した刀と思い込んでいる。これも厄介なことだ。
 そのうえ素人は、刀鑑や刀剣書籍に掲載されている刀剣価格の値段を、そのまま自分の愛刀に当て嵌め、大層高く見積もっているのである。これも困り者である。

 これが安物の刀を蒐集している、自称愛刀家のどうしようもない見栄なのである。素人の怕
(こわ)さである。こうした怕い素人は、大きな顔をして刀屋には出入りするのである。
 私は今までの刀屋を生業としてこれまで生きて来たが、このギャップには、ほとほと異様な拒否反応を示すのである。そして、この手の愛好者の八割方が、このレベルの人間で占められていると思うのである。そして素人の自身の刀自慢は、実に鼻に衝いて厭なものである。本当の意味での紳士的な刀剣愛好家でないからだ。下賎な匂いが漂っている。最近はこの手の礼儀知らずが殖えたように思う。
 また、“マル特”であっても、昭和40年代から50年代に、ごり押しで認定したと思える“村上マル特”なる、認定書が本物だが、刀が偽物というものが紛れ込んでいるのである。目の勝負に敗れたのだから、これも文句言わずに引き取るの言うのが刀屋家業のルールであり、また心意気である。



●刀剣商としての気風

 刀剣会の暗黙のルールと言うか、男粋というか、自分が一旦「買う」といったものは、絶対に後で偽物であっても、絶対に覆せない。これを一回でも行えば、除名されるだけでなく、名前が知れれば全国何処の刀剣会の市に行っても入場を拒否される。鼻つまみ者にされる。
 自分の口から言った言葉は絶対であるからだ。約束は厳守しなければならない。
 但し、購入した刀剣類に“刃切れ”があったり、“銃刀登録証に偽造”があったりすれば別だ。購入後であっても発覚した時点で、当然購入時の代金は返還される。それ以外は一切相手にされす、会の会則違反となる。刀剣商の風上にも置けないと揶揄
(やゆ)される。実にシビアな掟がある。

 偽物を掴まされ、それを喚いても相手にされない。却
(かえ)って、眼の勝負での“凡眼”が指摘され、笑い者にされる。仲間外にされることが大である。入札時の口約束は、絶対に重く、厳守しなけれならないのである。
 一旦「買う」といったものは万難を排して金策しても、絶対に買い取らなければならないのである。これが刀屋の信用である。また、購入後、後で四の五の言わないというのが刀屋の心意気であり、勝負師としての技倆
(ぎりょう)が問われるのである。

 私はかつて、セミプロとは行かない素人に近い、本業はサラリーマンで副業として古物商許可を取り、片手間で美術品の売買をしている者に、縁頭や鍔などの小道具類を口約束で売ったことがあった。
 公務員や名のある上場会社では重職で、服務規定違反で懲戒免職の対象になるのだが、昨今は知らずか知ってかはしらないが、随分とこうした副業を内緒で遣っているサラリーマンも多いようだ。
 各都道府県で多少異なるが、六ヵ月ごとに古物台帳の点検のため、警察署の古物係に台帳の記載状況を提示しなければならない。また、一、二ヵ月に一回程度、今度は店舗にしている古物係の巡回がある。その時に、種々の指導を受けるのである。ところが重職状態では、指導を受ける暇がない。この埋め合わせをどうしているか、サラリーマンをしながら古物商をしている、こうした人達の切り抜け方は実に不可解である。そしてサラリーマン感覚で物事を考えるから、言うことも遣ることも多くは幼児的である。

 さて、ある前日、この手の副業者に縁頭の小道具を売った。
 ところが翌日、「昨日買った物は返せますか?」と言われたことがあった。
 つまり、勢い余ってつい「買う」と言ったが、よく頭を冷やして考えてみたら、やはり値が大きくて買い取れないと思ったのだろう。あるいは自分のイメージした、買いそうな客に当たったが断られたのだろう。何れにしろ、そのうえの「返せますか」だった。腹立たしいが、また言い出した者の哀れを感じた。心の中で、「それを言ったら、終わりだぞ」と教えてやりたかった。「もう、この世界では商売が出来ないのだぞ。分かっているのか」が、口からで掛かった。しかし、言うだけ無駄……ということも悟った。
 これを聴いて、私は煮え湯を飲まされたような感じだった。自分の口で、「買う」と言った言葉を重く受け止めていたからである。人間の言葉が、これほど軽いとは思わなかったのである。その人間に失望したのだった。以後、相手にしない一人となった。人はこうして信用を失って行くのだ。しかし、自分の失った物に気付く者は少ない。

 このとき私は、決して偽物を売りつけたわけではない。名の通った、直ぐにでも認定書の付く、作者は本にも出ている有名な時代作者だった。要するに支払うための金がないということだったのだろう。それで、「返せますか?」と訊いて来たのである。これは寝耳に水で、まさに青天の霹靂
(へきれき)というか……、このルール違反に耳を疑ったのである。
 自分の口で一旦は買うと言いながら、後日、返してもいいかというのは、果たしていかがなものであろうか。人間の言葉が、あまりにも軽々しくないだろうか。

 しかし、私はこの者の、人間性の根底にある心意気の貧困を知ったので、「いいとも、返せるよ」と譲歩したことがあった。
 商いが崩れたというより、このレベルの人間の言葉に失望したのであった。
 私はそれ以来、精神が貧弱な者には、刀剣類も縁日の出店のように披露することはないし、商いもしようとは決して思わないのである。見せない、売らない、奨
(すす)めない主義である。無駄なことはしないのだ。また、絶対に相手にしない。こうした人間を傍(そば)に近付けていては、危うかろう。
 売上計算が狂って、同じ煮え湯を飲まされるからだ。それだけで、充分にその者の人間不信に陥る。信用出来ない。これは正しい感性だろう。

 孫子の兵法は、一般に知る限りでは“敵を知ること……”などと言う。よく知られた言葉である。そして次に、己を知ることだと続く。
 だが、それだけではない。
 敵以上に、己を知ることも確かに負けないための兵法ではあろうが、滅びないための兵法もある。
 滅びないための兵法……。これが最も大事である。
 故に、孫子は言う。更に続けて言う。
 それは「側近に愚者を近づけないことだ!」と。
 愚者を側近に近付けなければ滅びないのだ。
 金言である。
 一方、愚者を近付けては危うし、と言うのである。これを孫子は重要視しているのだ。
 したがって、相手にしない人間を近付けてはならないし、もう金輪際、近付いてもならないのである。幼児的発想しか出来ない愚者に、近付けても、近付けても、危うし!……なのだ。

 何故なら刀剣会で、買った後に「返せますか?」をやったら終わりである。人間性が見られる。嘲笑されるだけでなく、下手をすれば会を除名される。相手にされなくなる。そこで、その人間の信用は失墜する。
 これを刀剣商が集まる刀剣会で遣ったら、一巻の終わりだ。この者の信用は一挙に失墜し、以後、どこの刀剣会へ行っても爪弾きされるだろう。それほど、刀剣を商う人間の口約束は重く、絶対に二言は言えないのである。言ったことは躰を張って履行することしかない。
 刀屋の暗黙の了解として、“武士に二言無し”というところがあるのだ。
 一部の穢
(きたな)い者を除いて、刀剣商の多くは、こうした毅然(きぜん)とした気概と、心意気で商いをしているのである。これは確かだ。

 また、一度買った物を後日、新たな物に目移りして、「前の分を返して、これと買い替えることが出来るか?」と覆す者がいる。それも商い相手の違う人の持ち物に……で、である。実に信じ難いことである。こうしたことを平気で口にする。何の呵責もなく、意図も簡単に覆すからだ。
 つまり、A店で一旦は刀を買ったのだが、B店で見た刀に目移りがしたので、A店で買った物を返し、B店の物と買い替えをするという意味のことだ。
 支払いは既に済まされている。その決済済みの代物を後で覆し、買い替えをしたいというのである。こちらにしてみれば、馬鹿も休み休み言えと言いたいとこころである。

 同じ店での買い替えならば、ある程度の下取り価格を設定し、買い替えも可能だろうが、そもそも店が違うのである。商いしている人間が違っているのである。こうしたことを平気で言って来るのだから、まさに大人になりきれない子供の言い草である。
 昨今はこうした、大人になりきれない子供が、大人のような顔をして、刀屋に出入りするという奇妙な時代になり、客もこの程度の成り下がった者が殖えたようである。人間性のレベルが堕ちたというべきか。
 そして逆から論ずれば、刀剣愛好家は、何らかの形で、常に自身の人間性を見られているということだ。刀剣所持者は、他人の眼から常に人格と品格を見られているということだ。

 かつて相場師としてならし「北浜の風雲児」と称えられた岩本栄之助
(いわもと‐えいのすけ)の話を聞いたことがある。
 岩本は明治44年、大阪市中央公会堂
(旧中之島公会堂)を建設するために、大阪市に当時の金で百万円を寄付したことでも有名である。また風雲児と称されただけあって、株式仲買人としても有名だった。
 日露戦争に出征し、陸軍中尉となり、凱旋後、従七位に叙し、また勲六等単光旭日章を授けられ、更には渡米実業団に加わり、渋沢栄一
(すぶさわ‐えいいち)らとともにアメリカ合衆国を視察している。飛ぶ鳥を落とす勢いの、まさに「時の人」だった。
 その後、公会堂の竣工は着々と進められ、完成が迫っていた。

 ところが、大正5年
(1916)の第一次世界大戦の異常景気で、株式相場は大衆の買いが殺到する。こうした中「大衆買いの場合は逆をとれ」という相場の格言により、相場師として、岩本は売りに回る。しかし相場は動かず、ために岩本は苦境に陥るのである。損害は膨大になる。
 そして、没落の暗雲が垂れ込め、使用人と家族を宇治への松茸狩りに出した後、自宅の離れで、陸軍将校時代に使用していた短銃で自決を図るのである。
 これまでの株式相場で大損をしていたのである。損額は膨大なものになっていた。ついに支えきれなかったのである。こうなると、どうするか。自らの尊厳を護るには、どうするか。

 家族や使用人にとって、中之島公会堂建設のために寄付した金百万円は、岩本商店を再建するにあたり返還してもらえれば、どんなにか有り難かったであろう。しかし、武士に二言はなかった。一旦寄付したものは返せとは言わなかった。
 二言を発せす、自決したことは、死後、岩本栄之助の名を大阪中に広めた。もし、一旦大阪市に寄付した百万円を、「相場で損をしたから返してくれ」といったら、岩本は、後の大阪中で恥知らずの汚名を被ったことだろう。これは人間としての問題にように思う。二言があったかどうかが問題なのだ。
 したがって命を張ってまで、二言を言わなかったことには評価するべきものがある。言い訳や、泣き言を言わないというのは、人間として崇高
(すうこう)な精神なのだ。

 一方、刀剣類などを初めとする美術品は、常に相場が変動する。時代とともに変動している。
 しかし、素人の刀剣蒐集家はそれが分からない。金に困れば、自分の買った値で手持ちの刀が売れると思っている。
 ところが刀剣類の相場は変動している。
 これが分からずに、「自分の買った値で買い戻して欲しい」という世間知らずの馬鹿が顕われる。無茶苦茶な話である。馬鹿の言は、いつの時代も無茶苦茶と、通り相場は決まっているが、それでも幼児的な思考は鼻に衝く。一種の言い掛かりにも思える。人間性が見られる幼児的な言い草だ。

 こうした人間は、刀剣類所持の資格者でないばかりか、それ以前の人間性や、大人になりきれない子供の部分を引き摺った人間と言えよう。こうした種属は、刀剣類の所持の資格がない。
 こうした金に困ることからして、刀を所持する資格は失われている。最初からそうした資格はなのだ。
 数年前、あるいは数十年前、買った値段で買い戻せとは無茶な話である。
 刀剣類などの美術品相場は、時代とともに変動しているのである。昨今は不景気のため値下がり気味だから、尚更始末が悪い。大人の幼児的な思い込みは、かくも無慙
(むざん)である。

 一方、刀剣会の市での競争入札の“押し付けるような競り”を見ても、そこで繰り広げられているのは、まさに生きながらの地獄であり、地獄の釜を囲んで、鬼どもが刀にそれぞれの値段をつけているようにも見えなくもないのである。お互いが騙し合いなのだ。そのうえ付き合いとして、無理に売りつけられることもある。
 そのうえ“延べ払い”ともなると、売れ残った刀の支払代金が、もう翌月には迫っている。毎月、百万単位の支払いで追い回されるのである。売る付けられた物の中には、認定書偽造の私文書偽造の各種の、偽証明書が付随したものが混ざる。これも文句が言えないのだ。古物市場を開催している刀剣会では、特にそうだ。偽証明書は放棄し、偽物は偽物で処理する以外ない。

 文句を言えば、「お前は認定書だけを見て、中身は見なかったのか」と、逆に遣り込められる。刀剣商の世界は、いわば何でもありなのだ。
 刀剣や小道具などに付けられている“日本美術刀剣保存協会”とか、“日本刀剣協会”とか、あるいは“藤代”や更には民間発行の認定書が出回っている。素人愛好家こそ、こうしたお墨付きを有り難がる。私文書であることにも気付かない。鑑定書の記載オンリーで、信じて疑わないのである。
 そして、このレベルの全てが発行している認定書は、日本国が発行している公文書物でないから、これに付いている認定結果が外れたとしても罪にはならない。私文書だからだ。鑑定した審査員の審査ミスで済まされる。詐欺ではないのだ。刀剣を鑑定して、自分の私感で鑑定結果を下す。これは合法である。不正をしているのではない。私文書の鑑定間違いに、その責任を追及することは出来ない。鑑定違いは出来るだけない方が好ましいが、間違ったからと言ってその責任を追及することは出来ない。鑑定をした審査員の無能が問われるだけである。それで済まされてしまう。そのうえ鑑定に懸かった鑑定料や登録料は返るわけでもない。

 しかし、世に審査ミスの刀が市場を出回り、また店頭でも、個人所蔵の刀剣類でも、売買されているのである。陳列の中で、刀剣とともに堂々と鑑定書が付けられている。こうした“認定書付き”の刀剣類や小道具類にも審査ミスや偽造があるのだ。
 それでも日本で一番信用度の高い認定書は、財団法人・日本美術刀剣保存協会の発行する認定のお墨付きだ。ランクが下がるほど、その鑑定は怪しくなる。

 私は、“藤代”が鑑定して付けた認定書の刀剣を、参宮橋にある刀剣博物館内にある“日本美術刀剣保存協会”の審査に出したら、最下位の「保存刀剣」すらならなかった痛い経験をしたことがあった。
 頭に来た私は、間違いではないかと文句を言いに行ったことがある。
 対応の白衣を着た鑑定人に「これはかの藤代が付けた鑑定書なんだよ」と、それを見せて、声を張り上げて迫ったことがあった。しかし、的確な説明をつけてくれて、鑑定の間違いを当協会の鑑定人は示してくれた。明らかに審査ミスだったのである。贋作を見抜けなかった。単刀直入に言えば、藤代の審査員は目利きでなかったのである。鑑定が見事に外れたのだった。そのように、日本美術刀剣保存協会では言われたのである。格が上である。諦めるしかなかった。藤代の鑑定書は紙屑
(かみくず)に帰した。
 このように、個人の付けた鑑定書は、絶対に信用出来ないのである!

 これも刀剣商を通じて得た、貴重な経験だった。そして、この貴重な経験から学んだことは、刀剣の素人こそ、お墨付きや鞘書き、あるいは箱書きを何でも有り難がって信用するということだった。こうした物は、信用しているうちが華
(はな)なのだろう。素人を満足させるに十分な物だった。
 同時に、素人は怕いということだ。プロと素人の違いは、こうしたところにも転がっていた。

 つまり刀剣愛好家の個人の眼と、刀剣商としての商う人間の眼は、双方が大いに異なるということだ。
 それは、個人では自分の好き嫌いがはいるが、商いは好き嫌いで刀剣を選ぶわけにはいかない。個人の好き嫌いの眼で刀を選
(よ)り好みしていたら、直ちに食い上げに陥るだろう。愛好家は趣味の範囲を出るものでないが、商いは趣味などと言っておられない。範囲も広範囲だ。趣味の範疇(はんちゅう)を越えて商売をするのである。この意味は大きい。
 また、個人的な好き嫌いを主張していては、偽物を掴まされるし、眼の勝負にも敗北するのである。偏った小さな眼では、敗北する以外ないのだ。
 そして眼の勝負に敗れるということは、丸裸にされるという、実はこういうことなのだ。総て自己責任なのだ。わが眼を鍛え、鋭い眼力を養う以外ない。他人任せでは、刀剣商は食い上げとなるのだ。自らの眼で鑑定する能力が試される。しかし、言うは易し……である。眼力は簡単には宿らない。それが難しい。

 そして、偽物を掴まされ騙される度に多額の月謝を払うのであるが、幾ら勉強とはいえ、月謝を払わされる度に痛感することは、その度に馬鹿だったと思うことだ。しかしこの反省は翌日になると、すっかり忘れている。またもや、同じことを遣るのだ。この点は女誑
(たら)しと酷似する。一向に懲りないのだ。
 刀に一旦魅入られたら、死ぬまでこの地獄の堂々巡りのような輪の中からは抜けられないのかも知れない……と思い知らされる。それでもなお、刀に魅了されるばかりなのである。色に魅入られた観がある。また、あたかも魔に取り憑かれたようにも感じるのである。
 しかし、刀剣商という地獄での修羅場の入札会議に参加しながら、やはり毅然とした人間の誇りだけは失いたくないと思う次第である。そういう心意気が自分自身を支え、鬼と接しても自分は鬼にならず、地獄に居ても“地獄の垢
(あか)”に染まらないというのは、何と痛快なことか。愉快でさえある。

 だが、愉快・痛快の裏には些
(いささ)かの泣き笑いもある。ぬか喜びもあった。よく騙されたからであった。これこそ、魅了された者の報いであろう。そして虎徹には、よく騙された。
 騙されながらも、今度こそ虎徹に行き当たるのではないか……という、気の遠くなるような幻を追い掛けていたのである。今も、その幻を追い掛けている。夢の中に生きているのだ。
 “ハネ虎”と聴いたら心が躍る。気付いたら、躍らされぱなしで、齢
(よわい)は既に還暦の六十をとっくに越えてしまった。この躍りは死ぬまで続けるだろう。雀、百まで躍り忘れず……だからである。老婆心を顧みず躍ることは辛いことだが、止むことがない……だろう。
 それでは私のこれまでに演じた“四方山
(よもやま)話”の、滑稽な、道化師的な、躍り躍った、刀屋物語の話を始めることにしよう。



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