運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
吾が修行時代を振り帰る・第三部 1
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吾が修行時代を振り帰る・第三部 1

吾が修行時代を振り帰る 第三部



わが先祖の岩崎家と曽川家は、かの『壇ノ浦の戦い』の敗北から、両家のその後の歴史が興った。筆者の出生は、遠い先祖の「平家敗北」から始まっている。
 壇ノ浦の戦いは平家の大敗北に帰した。遠い昔、壇ノ浦で敗れた先祖は、源平合戦最後の戦場から落武者となって、長崎県北部の平戸島に流れた。

 平戸島に辿り着いたとき、わが先祖の一人が岩の先
(崎)から上陸したということで、「岩崎」という苗字を名乗ったとされる。
 以後、先祖は代々、水軍の末裔
(まつえい)として平戸藩六万石の松浦家に仕えた。
 私の運命もまた、その先祖の一人の因縁から始まる。
 岩の先から上陸した因縁で……。そして、今日の私がある。
(画『曽川師、海を斬る』より。バロン吉元(龍まんじ画伯)先生/筆)


関門大橋の真下辺りは、かつての壇ノ浦の古戦場だった。 平家物語を琵琶の伴奏で語った鎌倉時代の盲人生仏・芳一像。


◆◆◆ 老婆心ながら ◆◆◆

 私の歩いた道が波瀾万丈(はらん‐ばんじょう)であったか、そうでなかったかは、それは読者諸氏の主観によろう。
 ここで論述すべきは、私が歩いてきた六十有余年の足跡を振り返り、一個人として、世の中の姿と人間の心を巡って、この歳までに感じた気持ちを率直に述懐したメモランダムである。したがって、「振り返る」を“あの昔”の『振り帰る』にしてみた。
 それはあたかも帰雁
(きがん)が、春になって、北へ帰るそんな心境かも知れない。「帰る雁(かえる‐かり)」が、進路を北に向ける哀愁への心境である。

 しかしこれは、単なる華々しい人生談とは異なる。況
(ま)して痛快な武勇伝でもない。悪戦苦闘の反省多き格闘の書である。私自身で体験した、人間が歳を重ねる毎に感じる、若干の見知と運命に翻弄(ほんろう)された足跡を披露したに過ぎない。

 人生には、「もし、あの時……」というのがある。私も御多分にもれない。
 「もし、あの時に賢明に振舞っておけば……」とか、「もし、侮
(あなど)られずに生きることができれば……」とかの、つくづく思い返される事柄がある。私にとっては、これは些(いささ)か遅過ぎた反省事項と言うか、納得済みの教訓事項である。
 この格闘の書には、恥多き、屈辱多き、無念の人生が横たわっていた。

 しかし、自身の人生を振り返ってみて、人間はどれほどの苦境に立たされ、窮地に立たされても、困難に向かって立ち向かっていく気力さえあれば、そこがドン底の絶望で覆
(おお)われていても、まだ“浮かぶ瀬”があり、苦しい境遇や辛い気持から脱け出す機会は、まだ残されているといえる。翻弄された運命の中にも、“浮かぶ瀬”はあるものだ。
 道歌に“身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ”と、あるではないか。
 人生は良いことも悪いことも、その両方が均衡に存在するのだ。

 本当に惨めなのは、浮かぶ瀬もなく、窮地に立たされても立つ脚もなく、肝心要
(かなめ)の気力を削(そ)がれてしまった状態になったときである。そのときは哀れだ。
 人間は、なかなか諦めが悪く、往生際
(おうじょうぎわ)が悪く、粘りのある強(したた)かさを見せるのも、結構いいものである。最後の最後で、ゴネてみるのもいいものである。この期(ご)に及んで、最後の「もう、一(ひと)あがきも」「もう、一泡吹かせるのも」なかなかいいものである。簡単に、くたばらないところが、なかなか捨てたものではない。
 相撲で言うなら、土俵際まで追い込まれ、ここで“どっこい”残り、最後の「うっちゃり」を食わせることができれば、万々歳である。負け犬にならなくてすむ。

 だから、この“強かさ”が消え失せなければ、最後の悲愴感だけは味わわなくてもすむ。辛酸を散々舐
(な)めさせられて、行き着いた最後が、「虚しかった」とか、「つまらない人生だった」と思い知らされるようでは、その生きてきた足跡は無駄になってしまうだろう。それでは負け犬の人生だ。

 人間は、どんな者でも、あるいは日々ぐうたらで自堕落な生活を送っている者でも、何か一応、自分流の「誇り」のようなものに縋
(すが)って生きているはずである。
 傍目
(はため)から見れば、取るに足らない他愛のない滑稽な夢でも、その者にとっては唯一の心の拠(よ)り所であり、その夢を背後に控えているから、明日を思い、人間は希望に向かって生きていけるのである。
 だからこそ、自分の人生は虚しかったとか、つまらない人生だったと言う悲愴感に苛
(さいな)まされれば、実に救い難いのである。救いどころはないだろう。

 自戒すべき根本は、悲愴感に陥ることではない。成就しなかった人生、完成には至らなかった人生でも、成就への道を歩き、あるいは完成への道を歩いた事実を誇らしく思えば、それが最後に到達されなかったとしても、徒労努力として一蹴
(いっしゅう)されなくてすむのである。
 人間は人生を生きる上で、是非とも回避しなければならないことは、徒労に辿り着く悲愴感であろう。徒労は空虚と同義だから、儚
(はなか)い死以上に、辛い徒労だけが先行する、内容のないものになってしまう。ここにこそ、自戒すべき事柄があるだろう。

 老婆心ながら……というには、不必要なまでのお節介を彷佛
(ほうふつ)とさせるであろうが、私は、やはり平凡な名もなき一庶民が生きた足跡として、これをメモランダムに記すつもりである。何故ならば誰にでも、ささやかな何か誇るべき事柄と、精神的富貴を思わせる玉(ぎょく)を懐(ふところ)に抱いて生きてきたからだ。

────────────────────────────────────────

 時代は益々、遠心分離機の如く急速回転に加速度が加わり、その動きが激化しつつある。
 時代も変化しつつある。古人が残した教訓はいつの時代にも、大きな重要事項を含んでいるが、これは見事に遣いこなしてこそ、その信条が生きて来よう。
 更に言及すれば、今からの時代は、首から下の「体躯」にあるのではなく、首から上の「智謀」が物を言う時代であろう。つまり「体」ではなく、「智」である。
 文武は、常に「文・武」であり、この順は永遠に変わることがない。
 したがって、武勇を強調し過ぎれば蛮勇となる。これだけは慎まねばなるまい。
 武は、文を同等に置き、「智勇」が伴ってこそ『兵法』となり得る。智勇あってこその兵法である。

 また「兵法」は戦闘を意味するものでない。
 個人格技を象徴したものでない。更には、単に戦術とも異なり、大局までもを凌駕
(りょうが)した戦略を包含してこそ「兵法」となり得る。
 故に兵法は「平法」でなければならない。

 今からの時代、腕力だけではどうにもならない。格技を誇っても、それは相対的なスポーツの試合に勝利して、一時的な勝ちを納めたに過ぎない。
 一時的な勝ちは、不屈の精神からなるネバー・ギブ・アップの攻めで挑まれたらひと溜まりもあるまい。いつかは覆されるからだ。文武同格は絶対的な境地に達して、はじめて平法となり得る。また武勇は智勇と結びついてこそ、兵法は「平法」となり得るのである。
 故に平法は、争わない理を得て『平武和応』に辿り着く。

 これからの時代、腕力のみに頼る蛮勇は通用しなくなる。和して応ずることこそ、その行いを陽明学の「知行合一」に移してはじめて、権威の相対化、欲望肯定的な理の索定などが生まれて来よう。「致良知説」ならびに「無善無悪説」は、これを明確にするものである。
 そして実践行動学を通じて、心即理説を致良知へと至るのである。
 つまり自己の良知を十分に発揮すれば「致良知」となり、致良知はそれによって社会的な物事に正しく処する「格物」を目指すことになる。これを陽明学では「知行合一」という。
 つまり知行合一は、「致知」の「知」を「良知」であるとし、知は行のもとであとし、行は知の発現であるとするのである。

 その論理に従えば、和して応ずることこそ、その智を行いに移し、智をもって知行合一我を行動に移すことが出来る。その行動とは、戦わずして勝つ奥義である。まさにこれこそ智勇の妙と言うべきものである。
 和を乱して啀
(いが)み合うことだけが戦闘でない。また戦術でもない。大局を見れば争わずに勝ちを得る方法は無限にあるのだ。戦略的なものの見方が則ち、『平武和応』の精神である。

 第五章を書くにあたっての解説

 「吾が修行時代を振り帰る」第三部は第二部の続きとして、本来ならば“習志野時代”から“豊橋移転”についての物語の部分から始まらなければならないのだが、第一部・第二部と進める中で、肝心な著者の青年時代のパーソナリティーを培った説明が不十分だったため、大学時代の数人の《友人像》を挙げ、これを説明したところで、第二部の続きへとリレーしたいと考慮した。
 そのために“時系列”を無視し、時代が随分前に遡
(さかのぼ)ってしまうことをお許し願いたい。
 第三部の冒頭の始まりは、昭和40年代初頭のことである。



第五章 “親友”と“悪友”



●師範代に抜擢した男

 時系列は遡(さかのぼ)ること、昭和42年1月のである。
 私は大学入試の時、三つの違うタイプの人間を見た。全くそれぞれに異種なるタイプだった。
 一人は、遠くから遠望していて、明らかに柔道をしていると思わせる、ずんぐりむっくりの耳が餃子
(ぎょうざ)のようになった170cm前後の弁当箱体型の男と、もう一人は、これも柔道はしているのであろうが、厭(いや)にバカでかい、身長が190cm近くはあろうと思われる当時としては巨漢に入る大男だった。
 後に前者は親友となり、後者は悪友となった男だった。

 この二人が入試会場で、やけに目立つのだった。前者は寝技専門で、後者は立技専門なのであろう。二人の体型から専門技を想像したのだった。
 そして、最後のもう一人は、入試が始まってから知る男となるのであった。

 柔道をしている前者の二人は、学部が違うためにその後、受験する学部の会場へと消えた。最後の男だけが私と受験する学部と同じだったので、同じ会場へと入ったのだった。
 二百人ぐらいが入っていると思える、集中講義室のような大教室へと入れられ、黒板の前に立った五人の試験監督官から、試験前の注意を受けたのであった。
 その注意は、主に答案に記入する場合の注意であり、最後の詰めは、カンニングは絶対にやってはならないという厳しい通達で、この部分に大層、力が入っていたように思う。
 そして答案用紙が配られ、第一時間目は英語だったので、設問が長文のためか、莫迦
(ばか)に長い答案用紙だった。

 その長い設問用紙を配りながら、監督官は厳粛な声で「英語の答案用紙は長い。絶対にカンニングをしないように」と厳しいお達しを発したのだった。
 すると、私の前に坐った男が「いひひひひーッ……」と、厭
(いや)らしく嗤(わら)ったのだった。
 この嗤いに激怒した監督官は「いま嗤ったのは誰かね!」と強く言ったのだった。
 しかし誰も名乗り出るものはいなかった。会場は水を打ったように静粛になった。
 そして監督官は、もう一度「誰かね!正直に出たまえ!」と強く言い放ったのだった。

 暫
(しばら)くの沈黙が流れ、前の男もそのまま頬(ほ)っ被りするのかと思えたのだが、「僕です」と手を挙げたのだった。
 監督官は、「じゃあ、前に出たまえ」と言い放ち、前の男を黒板の前に引き立て、「君は受験資格なし!此処から出ていきたまえ」と大声で言い放ったのだった。
 何とも理不尽な言い掛かりをつけられたものだった。
 男はこれに抗議することもなく、出て行ったのだが、また暫くして戻って着席したのだった。追放されてしまったとばかり思っていたのだが、どうした訳か戻って来たのだった。“受験資格なし”と言われたのだが、それが撤回されたのだろうか。
 そして試験開始が5分ほど遅れ、またそれだけ終了時間も5分延長されたのだった。

 当時の大学入試は、国公立も私学も各大学によって入試が行われていた。今日のように共通テストのようなものはなかった。一次試験も二次試験もなかった。受験日も区々
(まちまち)だった。それ故、一期校、二期校と別れていて複数の大学の受験が掛け持ちできた。
 しかし、一回限りのテストだった。この一回限りで、全てが決まったのである。そして、学部単位、学科単位で入試が行われる形式になっていたので、時間の管理は全て試験管に一任されていたのである。
 試験を始めるにあたり、開始のベルも鳴らないし、終了のベルも鳴らないのである。監督官の「それでは始めて下さい」の声掛りではじめるのである。

 また、科目別に時間が異なり、物理や数学は長く、英語などは短い時間設定がなされた。テストの運営は試験現場の監督官の裁量に委
(ゆだ)ねられていたのである。それに答案用紙も教科ごとに異なり、設問が膨大で長かったり、あるいはB4用紙に収まるものであったりした。当時は、こうしたシンプルな学力審査もあった。

 私はこれより一ヵ月前くらいに、ある私大医学部の推薦入学の試験を受けていたので、入試の運営状況は一応把握していたのである。医学部の推薦入学を受けた時、例えば数学はそれぞれの科目・項目に別れているのでなく、数学1〜3までが一つの数学のテストであり、今日のように各種目別にはなっていなかった。
 況
(ま)して、確率や集合という内容の数学は当時存在しなかった。そうした分野は、これより後に登場するのである。
 設問は、直接試験監督官が黒板に問題を書き、その問題の解法と答えを配付された白紙のB4用紙の解答用紙に記入するなどの方法で試験がなされた。

 今でも印象的に覚えているのは、数学の問題が監督官によって黒板に四問書かれ、これを白紙のB4用紙に記入していくという試験方法だった。実にシンプルだった。
 設問が四問あったので、私はこのとき、配付された用紙を四つ折りにし、それに四問の解法の式と答えを記入したことを覚えている。

 こうした試験方法は大学単位に実施に委ねられていたので、設問が黒板に書かれることもあったし、また印刷されていても、英語などは莫迦に長い長文になっており、それを読み解き、答えだけを小さな解答用紙に記入して、終わったら、設問の用紙と解答用紙を一緒に提出するという方法が採
(と)られていた。

 そのため、設問用紙が数枚に亘り、長くなった場合は非常にカンニングがしやすくなるのである。つまり、設問用紙とともに、カンニング・ペーパーをその中に紛
(まぎ)れ込ませ、堂々とカンニングができるという状態が作り出せるからだった。
 こうなると、試験監督間は受験者を遠望するだけなので、設問の用紙を繰っているのか、カンニング・ペーパーを見ているのか判断がしかねるのである。そのうえ、二百人ほどの受験者を、わずか3、4人で監督するのであるから、隅々まで目が行き届かないのは当然である。
 こうした状況を、私の席の前に坐った男は、「いひひひひーッ……」と
(わら)ったのだった。この嗤った男の気持ちが分からないわけでもなかった。

 むしろカンニングの一番し難い状況は、シンプルなテストで設問されたときである。それに比べ、設問や答案用紙が異常に長いと、カンニングに乗じる機会が大きくなる。
 問題を黒板に書かれ、それをB4用紙に記入するという方法がとられた時、こうした試験方法こそ、本当の実力が試されてしまうのである。シンプルこそ、逆に強敵だった。
 だから、数枚に亘り設問の用紙があり、それも縦長で、50〜60cmもあって、設問用紙が長ければ長いほど、カンニング・ペーパーを紛れ込ませ、使用できるチャンスは大いにあるのである。それに、用紙を繰るだけでもガサガサと音がする。チャンスは此処にあった。それで席の前に坐った男は、チャンするばかりに嫌らしく嗤ったのであろう。

 しかし、その心中は定かでない。
 前の席の男の嗤いは、こうしたチャンスのあることを嗤ったのか、あるいは高校時代からカンニングの常習犯であり、“俺はカンニングしても、簡単にカンニングなどで捕まらないぞ”という自信と自負で嗤ったのか、そうでないか、その嗤いの真意は分からず仕舞いだった。これは本人しか知らないことであった。
 だか何とも強
(したた)かな奴であることは間違いなかった。肉体的生命力だけではなく、悪運的にも強かなのだろう。おそらくこう言うのを悪運が強いと言うのかも知れない。
 しかし奇
(く)しくも、工学部D工学科の入学後、私は試験開始前に嗤って監督官から注意を受けた、この男と不思議にも縁を結ぶことになるのである。縁はまさに異なものであった。


 ─────人生において「友」の存在は大きい。
 特に「親友」という存在は実に大きい。
 かなりの才能があり、素質もあり、然
(しか)も度量や器量もあって、いつまでたっても、うだつの上がらない下積み生活を強(し)いられる者は決して少なくないようだ。
 羽ばたく能力がありながら、上昇気流に乗れず、奇妙な形で不遇の人生を強いられている者は決して少なくない。才能があって、それが発揮できないのだ。
 それは何故なのか。
 そういう者に限って、例外なく「親友」という存在がない。人生を語り合う友がいないのである。親友がいないということを特徴としている。

 親友がいないのは辛いものだ。気軽に話し合える、また窮地に立たされた時には真摯に話し合える友がいないのは辛いものだ。
 辛さの根源は、人生を語らえる、また一緒に死のうとする何かを語らえる、そんな中に、一緒に飛び込んで行ける友を見つける努力を怠ってせいである。多くは人生のしくじりがここから発している。
 この努力を怠ると、人生は大きく変貌する。マイナスに傾き、悪い方に揺さぶられてしまう。不遇に傾く。進退窮
(きわ)まって、二進(にっち)も三進(さっち)もいかなくなった時に、この現象が起こる。
 「ああ!……」俺一人……。天涯孤独……などの嘆きはここから起こる。

 最悪の局面で身内以上に助けてくれる、そうした深い、人生の語らえる本当の心の友を探さず仕舞いになってしまうからだ。
 特に、経済的困窮に直面した時に、この現象が起こる。経済的不自由が生じた時に、この嘆きが起こる。人生を語らう仲間が不在になるからだ。生き方の示唆を失うからだ。
 これでは打開策は生まれない。自分一人のジレンマに落込んでしまう。後は、堂々巡りだけである。

 私にも、この痛感は若い頃からあった。
 来れ、わが友……。そういう悲願はあった。
 かつて私にも二十歳前に、「親友」と胸を張って言える者が、たった一人いた。掛け替えのない友だった。
 しかし、奇
(く)しくもその友とは、あることを切っ掛けとして、交友を失ってしまった。
 失った理由は、些細
(ささい)なことからだった。愚にも付かぬ些細なことだった。この友をここでは仮に“F”としておこう。但し“F”を、ここでは福澤純一郎(仮名)としておこう。

 福澤は、今振り返れば確かに生涯の友だったように思う。親友といえるような、そんな胸を張っていえるような友だったといえる。しかし、この友を失った。それを起因として、その後の私の人生は、坂道から転がり落ちるような惨澹
(さんたん)たるものになった。あるいは人生はもともと、そうしたものかも知れない。
 福澤と知り合ったのは、確か大学に入って、半年か一年ほど経ったときだったろうか。

 私と福澤とは学部が違っていたが、いつも遠くから見ていて、何となく心が惹
(ひ)かれる男だった。鉄火肌というか、親分肌というか、男気というか、“六分(りくぶ)の侠気 四分の熱……”というか、そんな側面を感じさせる、私よりも一回りも二回りも、あるいはそれ以上の懐の深さを感じさせる男だった。
 容姿は弁当箱のように四角く、ズングリにした筋肉質で、子供の頃から柔道をしていることは容易に想像が付いた。受験の時に遠くから遠望していたからだ。彼の耳は柔道の寝技で餃子耳になっていたが、何故か、この男に惹
(ひ)かれるのだった。
 しかし福澤は、どうした訳か、柔道部でなく、応援団に所属しているのだった。
 大学の応援団というと、私のイメージとしては真っ黒の学ランに身を固め、“子供のヤクザごっこ”という感じもしない分けではなかったが、福澤は何故かここに入っていたのである。

 福澤と親しく知り合う切っ掛けをつくったのは、彼と同じ高校の出身者が私と同じ工学部D工学科に居て、ある時、彼の人間性を、その級友が私に詳しく聞かせてくれたことがあったからだ。この男は入試当日、私の前に座っていた男で、嗤
(わら)ったことで監督官から注意を受けた男だった。この男と奇(く)しくも縁を結んだのだった。

 この級友を池辺良作
(仮名)という。
 池辺の話のよると、福澤は「非常に感激し感動し易い人間である」ということだった。
 私は予々
(かねがね)福澤のような男を探していた。
 既にこの時、豊山八幡神社境内に道場を構えていた私は、道場を運営するにあたり、本当の仲間というか、同志というか、そういう親友の名に値する人間が欲しかったのである。何かに向かって、一緒に死ねる、そうした人間が欲しかったのである。そして神社境内にある『大東修気館』道場は、私の力量の無さで、派閥が出来ていて、二分
(にぶん)、三分(さんぶん)しているのだった。
 これを大いに嘆いていたのである。私自身に統率力がない故に……。

 一方、私はその道場の「師範」であったが、有名無実の“お飾り”に過ぎなかった。
 弱冠十八歳の若造では、道場を運営する力がなかったのである。好きなように使われ、理事長や道場長の“使い走り”に過ぎなかった。これを前々から何とか改善し、本来の道場活動を展開したいと考えていた。その打開策を思案しているところだった。
 そうした矢先、福澤の姿が目の前にちらついたのだった。

 これは一つの勘であるが、内心《あいつとだっいたら、一緒に死ねるかも知れない》と思うのだった。あるいは勝手にそういうイメージを抱いたのかも知れない。そのイメージを抱いた相手に、いつも福澤に重ねたのだった。
 彼が通り過ぎるのを遠巻きに見ていて、何か惹
(ひ)き付けられるものがあった。人間の太さを感じさせるそういう魅力が、遠巻きに見ていて、何か感じるのがあった。

 池辺良作に、福澤のことを聞き出した。
 「もし彼を生け捕るには、どうしたらいいだろうか?」を聞き出したことがあった。
 福澤は奇しくも池辺と同じ高校の出身者だった。
 そして福澤のニックネームは「ドタマ」と言うのだった。
 私が「なぜ、彼は“ドタマ”というのか?」と訊
(き)くと、「頭が大きいからだ」と言う。
 そのように言われると、それはその通りで福澤は確かに頭が大きく、池辺からの情報によると、高校時代、福澤は「ドタマ純一郎」の愛称で呼ばれていると言うのだった。略して「ドタジュン」と言うのだった。

 更に、彼は高校時代柔道をしていて、柔道部の主将で、柔道二段で、福岡市の武徳殿で行われる高校柔道全国大会の「金鷲旗
(きんしゅう‐き)」に、二回出場したことがあると言うのだった。予選の時、大将で出場し、快挙の五人抜きをしたというのだった。予選だが、この快挙は凄かった。
 当然この五人抜きをする中には、各高校の柔道部から選ばれた100キロ以上の超重量級をねじ伏せなければ五人抜きはできない。そうした「超」がつく男たちにも対戦したことだろう。それを敗って勝ち抜いたのである。
 そう聴くと、ますます福澤が欲しくなるのだった。

 彼の家は、N市の地元でも少しばかり名の通った土建業の会社をしていて、父親はN市の市会議員と言うことだった。彼の父親は、それなりに地元では名の通った資産家だということだった。
 そのドタマ純一郎の弱点は、人の話を聴いて、直に感動すると言うのだった。熱血漢なのである。熱意の人である。そう聞くと、侠客
(きょうかく)を彷佛(ほうふつ)とさせるのだった。
 池辺からの情報提供によると、「ドタマは親分肌で、熱血漢で、熱意のあるものには感激し感動する人間である」と言うのだった。つまり、義に生きるようなところがあった。その意味では親分肌だった。そして、彼に「セッティングしてもらえる機会はないものか?」と、池辺に依頼したことがあった。

 その後、池辺の仲介によって、福澤と話をする機会を得たのだった。
 まず、大学の講義が終わり、八幡まで来てもらったのである。遠いところへご足労を願ったのだった。
 豊山八幡神社は国鉄八幡駅から、ゆっくり歩いても10分程度のところにある。その道場に、まず来て貰
(もら)ったのだった。道場の稽古が始まるには少しばかり早い時間だった。道場に案内し、中央に腰を下ろして、向かえ合って“差し”で話をはじめたのである。

 私の話をまず聞いてもらい、私は自分なりに未来展望を語った。熱く語った。
 しかしそれは、別に感激も感動もするようなものではなかったかも知れない。最初から収穫を期待せず、まずはジャブ程度の渡り合いである。
 彼との駆け引きはこうして始まった。
 世間話を交え、現在の社会状況を交え、左翼陣営が騒がしく、世の中を席巻している現状をどう思うか、福澤にぶつけたのだった。

 私は彼に懇々と話し、一種の情熱をもって、また武道のことや大東流のことを語った。そして私が思った通り、福澤はなかなかの人物だった。
 彼は人の話をよく聞く、「特異な耳」を持っていたのである。その特異な耳で、私の語りを、彼は熱心に耳を傾けたのだった。
 実に聞き上手だったのである。私の想像した通りの人物だった。打ち解けて話せる人物だった。聴く耳があって、見る目があった。それで話して訴える方は、大いに熱弁を揮ったのだった。

 昭和40年代初頭のこの当時、世の中は国家権力とそれに対する反体制権力の正面対決が行われており、革命が囁
(ささや)かれ暴力が罷(まか)り通っていた。権力で弾圧したり、腕力で物を言ったり、暴力という名の威圧が日本中を覆いはじめていた。混沌としていた時代であった。“こんなことでいいのか”ということを福澤純一郎にぶつけたのだった。

 日本の本来の国家形態は、暴力で物事を解決する国家ではなく、「和」の国ではなかったか、と彼に説いたのだった。大和という「大きな和」は、それを象徴しているのではないかと熱く語ったのだった。
 日本が“大和の国”と言うのは、これに由来するのだと語った。極東に位置する日本は、大いなる和をもった「大いなる東
(ひむがし)」の国ではなかったか、と福澤に語ったのだった。大いなる東をもって、わが流は「大東」を名乗り、この流儀を大東流というのだと説いたのだった。

 この当時、大東流の名前すら知る者はいなかった。
 昭和42、3年の頃である。合気道すら、名前だけは聞いたことがあるというふうで、実際にはどういう武道であるかも、北九州ではまだ殆ど知られていなかった。況
(ま)して大東流の名など知る者は皆無だった。
 そして私は、大東流を教わった自分の師匠のことを話し、私が道場運営についてどう考えているか、それも熱心に語った。懇々と、彼を説き伏せるように熱心に語った。情熱のほどを語った。

 例えば、私の持論としての「厳罰主義やシゴキなどでは人間は育たない」という考えたかである。
 私は、以前から厳罰主義やシゴキの類
(たぐい)では、人間は育たないという一つの思想を持っていた。武術や武道の修練というのは、軍事教練とは違うのだから、恫喝(どうかつ)では人は育たないという考えを持っていた。また、罰則も無益だあった。

 普通、教育というのは、人間が人間であるための最低条件を満たせるように教えるものである。その最たるものが法律であろう。
 世の中をスムーズに平穏に送るためには、一罰百戒の厳罰主義であたるしかない。その違反者は厳しく罰する以外ない。処罰する、あるいは違反者が処罰されるという規則を教えることが教育の目的であり、人間社会を円満に運営していくためには、必要不可欠な有力な基準と考える。

 しかし、である。
 忘れてはならないのは、厳罰主義は社会運営上の一手段に過ぎないということで、これが人間の求める最終的な目的ではないということだ。
 したがって、罰による恫喝も、人間を育てる意味ではマイナスの要因を含んでいる。
 それは、「脅せばいうことをきく」という、本来の服従とは違う意味においてである。脅せば何でも言うことをきくというのは、単に律法学者への権威の屈服を覚え込ませるだけのもので、人間が自発的に人間であるための行為とは異なるからである。
 また、こうした脅しで権威に服従させるというやり方は、裏から見れば、人間教育と言いながら、実は「非人間的な教え」であり、人間軽視の考え方に繋
(つな)がるからである。

 その意味で、古人は決して人間を粗末には扱わなかったのである。
 私が、高校や大学時代の頃、まだ旧陸海軍の古い考え方の厳罰主義が残っており、これらは大学の体育系のクラブ活動の中に受け継がれていた。脅しと罵倒
(ばとう)で、後輩をシゴクというやり方である。まず、頭ごなしに罵倒し、罵倒によって、組織の統制を図るというやり方が旧態以前として残っていた。

 つまり、大学のクラブ活動の部員は、一つの“用兵”であり、“部品”か“歯車”であり、また一部の道場においても、そこの門下生というのは先輩や先達の兵士という消耗品に数えられていた。
 人間を消耗品と考えるのは、残酷な思想である。
 この消耗品は、育てるという形でなく、使うだけ使って、駄目になれば切り捨てるという道具でしかなかった。当時大学や、高校の運動部の特待生で進学する者は、こうした「物扱い」をされた人たちである。駄目になれば、“ポイ捨て”だったのである。

 そして、道具を作るために「厳しい躾
(しつけ)が必要だ」とする考え方があったのである。
 主目的は、躾
(しつけ)という意味のもので、人格教育を意味するものでなかった。この当時の「躾」は“躾イコール言うことをきくロボット”という命令一下の図式だった。命令が、ひとたび下されると、有無もいわせず死守する恐ろしい躾である。こうした躾が罷(まか)り通っていた。
 こうした考え方が主流だったのは、やはり「戦後のベビーブーム」というのがあり、この世代に生まれた世代は、そのように扱われたのも事実だった。

 私は、猛稽古とシゴキの類
(たぐい)は同じでないと思っていた。
 前者は厳しく育てるという目的を持っているが、後者は恫喝による行為であるからだ。
 また、恫喝による行為は「頭ごなしの態度」で一人の人間を扱うということであり、実に卑劣
(ひれつ)な態度といわねばならない。
 しかし当時の私の考え方は、猛稽古とシゴキが同じように看做
(みな)され、誤解されることも多かった。そうした現実を踏まえて、福澤純一郎に説いたのだった。熱心に語ったのだった。真摯に真剣に、饒舌(じょうぜつ)な、然(しか)も情熱的な“語り部(べ)”になっていた。

 「僕は一つの信念をもって、この道場の指導に当たっている。しかし、一人の人間の力は微力だ。それに僕は未熟で若輩である。僕のような未成年者が、大人相手の道場運営も、些
(いささ)か荷が重い。どうか、微力な僕に、福澤君。ぜひ君の力を貸してくれまいか」と、顔色を窺(うかが)うように訊いたのだった。
 福澤純一郎は腕を組んでしまった。
 私が説き、そして語り、最後は「力を貸してくれまいか。そして君も一緒にやらないか?……」と懇願したのだった。悲願にも似た懇願だった。
 暫くの沈黙が流れた。
 福澤は沈黙したまま、暫く俯
(うつ)いていた。“さて、どうしたものか……”と言うふうな貌(かお)で、何かを考えているようだった。大きな頭は下を向いたままだった。

 そして頭を上げたのだった。
 彼はおもむろに言い放った。
 「君も一緒にやらないか?……」と言う、その熱心さに彼が答えてくれるとは思わなかったが、福澤は「自分ごときで宜
(よろ)しければ……」と言い放ったのだった。以外にも即答だった。
 一瞬、聴き間違いではないか、と耳を疑ったが、確かにそう言ったのだった。
 「では、遣
(や)って……もらえるのだろうか?……、本当に遣ってもらえるのだろうか」と嬉々とした声を上げた途端、確かに「自分ごときで宜しければ、ひと肌でも、ふた肌でも脱いで御覧にいれましょう」と言うのだった。
 意外だった。“瓢箪から駒”だった。意外な所から意外な答えが現れたのだ。
 直ぐさま、こうした“色好
(いろ‐よ)い返事”が貰えるとは思わなかったからである。
 だが此処には、力説する方と、聴く方の最大公約数が接点として交わっていたのだった。そう思う以外なかった。

 更に見逃すことができないのが、福澤純一郎と言う男の「決断の早さ」だった。それは素晴らしかった。彼に迷いはなかった。
 彼は私の要望に対し、あるいは切なる懇願に対し、普通の人間が言うような在
(あ)り来たりな、「二、三日考えさせてくれ」などと決して言わなかったことだ。
 最終的には断る逃げ口上を、自分の口から吐かなかったことだ。これが所謂
(いわゆる)“並みの人間”とは異なっていた。即決したのだった。この決断の早さに、私は凄い感銘を覚えたのだった。

 優れた人間か、そうでないかは、「決断の早さ」で決まる。
 頭の中がいつも混乱していて、勇気のない人間は、“即決即断”ができない。自分の無能を繕
(つくろ)って、恰好をつくり、四の五の言う。これこそ無能な証拠だ。不満や文句ばかりが多い。こうした人間は、ポーズだけは一人前だ。

 ところが福澤は違った。
 大学では同じ学年でありながら、もう、この時期からこのような能力差が生まれていたのである。決して人間は平等ではないと確信したのだった。

 私は彼が「自分ごときで宜しければ……」と決断した時、不思議に思って訊き返したのだった。
 「君は、実に決断が早いなァ」
 「いや、その決断の早さを、あなたは期待されたのではなかったですか。自分はそれに答えたまでですよ」と言うのだった。
 「しかし、本当のことを言って驚いたよ。あまりにも即決の早さに」と、感嘆の声を上げたのだった。
 「お言葉ですが、何かを決断するのに迷ったって仕方ないし、決断の早さを期待されて、自分ごときに声を掛けてくれたのだから、その期待に応える義務が自分にはあったのですよ。何かを決断するのに、長々と、一日も二日も懸るようでは駄目ですからねェ」
 「……………」
 かれはいい男だった。男が、その男心に惚
(ほ)れる、惚れ惚れとする男だった。任侠の世界をイメージさせる男だった。

 私は彼の言葉に感動を覚えて、何も言えなくなった。実に光栄だと思った。
 「それに自分は、今まで自分が知っている人の中で、こうまで熱心に、情熱的に、話をしてくれた人を知りません。あえて言うのなら、自分は“語り部
(べ)”の情熱の負けたのですよ」と、惜(お)し気もなく言うのだった。
 彼は私の情熱に負けたと言うのだった。

 昔から、有能で優れた人間は決断が早い。
 それはその人がそれだけ有能で、何かの能力を秘めていると言うことだからだ。こうした人は決断が早いのである。それは一つの才能であろう。
 この決断の早さは、特に軍隊では、その能力が必要とされるとことである。司令官の決断が鈍くて、じっくり考えるなどの行動をしていたら、文字通り命がなくなるからだ。
 即決即断こそ、有能な証
(あかし)だ。彼にはその能力があった。

 しかし、“並みの人間”というのは、決断に関して、結局は理解していない者が多い。自分が自称“有能だ”と買い被
(かぶ)っていても、口に出して「自称」を宣伝する人間ほど、決断は鈍く、よく「二、三日考えさせてくれ……」などと言う。
 これは決断の鈍さからくるばかりでなく、その人間が「無能であること」を雄弁に物語っている。だから、先延ばしするのである。そして、結局は手遅れになる。
 この手に人間は、「今は、ひとまず決断しておくことをしないでおこう」ということを決断するのである。そしてこのタイプの人間は、結局は人生の落し穴に落ちて、自分で最も大事なチャンスの時機
(とき)を逸してしまうのである。

 即断即決が迫られる時に、“決断を後回しにする”のは、裏を返せば、人生を真剣に何一つ考えていないと言うことになる。
 だから人生に関わるような重大なことは、真剣に考えることは面倒になり後回しにするのである。そして、それが重要であればあるほど後回しにし、先延ばしにし、その人自身は無駄な人生を送ることになる。
 つまり、決断を先延ばしにすると言うことは、「人生を無駄に過ごしている」と言うことになるのだ。

 当時のことを今振り返れば、福澤純一郎と言う男は、実に決断が早かった。もう、これだけで彼が並みの人間でないことは、容易に想像が付くのだった。「ド偉い男」だったのである。
 それと似たことは、進龍一の場合にも言えるのである。
 私が進龍一に「千葉に行ってくれないか」と頼んだら、二つ返事で決断して千葉に赴いたことだった。
 これも“並みの人間”とは違う才能だろう。
 当時は時代的に見て、並みの才能ではない人間が、まだ残っていたように思う。思慮深く、物事の実態を見抜き、十年後二十年後の未来像を創造する想像力の持ち主である。つまり決断力のある人間だった。
 出来る人間、有能な人間は、つまり、「決断が早い」と言うことだった。これが有能な人間の特徴である。

 ところが、自称“有能”を宣伝している人間は、実は決断の先延ばしを平気でやり、よく言うことは「二、三日、考えさせて下さい」など逃げ口上である。決断力のない人が使う常套句
(じょうとう‐く)だ。
 こうした人は勇気がないから、即決即断ができず、結局、誰かに相談するなどの無駄な時間を潰し、最後は“へま”をしでかすのである。
 こうした現実の側面には、今日の現代人に余りモノを考えさせない、単調で単純な思考に疾
(はし)らせる意図があるからである。

 特にマスコミの誘導により、大衆にモノを考えさせないような誘導が意図的に行われているからだ。したがってマスコミの報道も、単調で単純な紋切型の、おさだまりの、短絡思考に疾る、この手の報道を洪水のように垂れ流しているのである。テレビや新聞で流されるこの手の報道は、多くが予
(あらかじ)め加工され、操作されたものになっているのである。そしてこうした報道が垂れ流された頃が、昭和40年代前後のことと思うのである。

 この時代、大衆の多くは、左翼のマスコミ陣営の仕掛ける報道に翻弄
(ほんろう)された時代だった。
 “団塊の世代”は大いに、この時代の左翼陣営の仕掛けるマスコミ報道に揺すぶられたのだった、そしてこの後遺症として、団塊の世代は“団塊の世代ジュニア”をコピーし、そのコピーが次々に転写されて、今日の、為体
(ていたらく)で不節操な現実を生み出したのである。

 それは奇
(く)しくも「小市民的で、自分さえ良ければ……」という人間ばかりを生み出す結果に至ったのであった。可もなく不可もなく、またあまり物事について深く考えない人間が出現したのである。思い込みで生き、人真似をしてそれで安心安全と思い込み、デマに直ぐに翻弄されて、単に躍るだけの能しかない者が殖えた。近年はこの増加が著しい。ネット世界は、多数派の勢力による陣取り合戦が顕著だから、総て「言い者勝ちの構図」になっている。多数は意見として言った方が正義なのである。小数派意見は無視される。ここに哲学などない。
 尊敬する者は金持ちと有名人だけである。
 現代は神に代わって、人間を崇拝する時代だから、眼は金持ちと有名人を英雄に仕立て上げる。かつてに比べて、社会の「格」が落ちたとも言える。

 昭和30年代は、明治の気風を残した面影が少なからず残っていたが、時代が下るに従い、情報化社会が情報過多になって来ると、その正邪の取捨選択は難しいばかりでなく、多数派意見が少数派意見を愚弄
(ぐろう)し、呑み込むという怪物が出現したのである。こうしてやがて真実が、正しく伝わらなくなる。邪でも、多数派であれば総て正義のなである。

 それから40有余年の歳月が流れた。
 人々の翻弄は以前にも増して、熾烈
(しれつ)を極めた。人は架空情報でも躍る現実がある。
 また正邪は、「科学的」という言葉で誤摩化される。科学的という言葉さえ口にしていれば、安心安全と思い込んでいるのである。ここに現代の落し穴がある。
 やがて物事を見る眼は、肉の眼で見える現象にだけ眼を奪われ、闇に蠢
(うごめ)く“蠱(こ)”の存在を見失ったと言うべきであろう。既に現代人は、闇を検(み)る視力や失われ、視覚は暗くなり、表面的な、表に表出しているものしか見えないようになって来ている。これは霊的な感性を伴う視界が曇らされてしまったからである。
 それは一方で、霊的神性が曇らされたと言っていいだろう。

 現代人は、闇を検る眼を失った。故に、“捏造物”に躍る。マスコミに誘導され易く、事実、その方向に誘導されている。そして、出来る事と言えば、ただ躍ることである。
 この事実を、私は十代後半から二十代初めに、何度も見てきたのだった。躍らされる現実を見て来た。そしてこの見解は、六十有余年を過ぎた、今でも変わらないのである。



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