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現代テロリズム考 1

現代テロリズム考



昭和47年(1972)2月の浅間山荘事件。機動隊と武闘連合赤軍との死の銃撃戦。同月19日には軽井沢峰ヶ原の別荘地で壮絶な銃撃戦が行われた。(毎日新聞社刊『昭和史』(経済大国と石油ショック・昭和47〜52年)17より)

昭和46年2月、赤軍アジトで発見され、押収された散弾銃、空気銃、散弾など。これらは銃砲店から強奪されたものだった。(毎日新聞社刊『昭和史』(経済大国と石油ショック・昭和47〜52年)17より) 河合楽器社員施設「浅間山荘」での機動隊の突入の模様。これに対し犯人は人質を取り、山荘の三階に退いて抵抗。(毎日新聞社刊『昭和史』(経済大国と石油ショック・昭和47〜52年)17より)

 この世には“持てる者”と“持たざる者”の、格差に対する怨念が渦巻いている。支配階級と被支配階級との間には、水と油のような関係で隔絶するものが存在している。
 いつの世も、世界の歴史は“支配する側”と“支配される側”とで構成され、これは現代にいたっても少しも変わっていない。

 “支配する側”は対外的には巨大な軍事組織を有し、内部的には内情調査を徹底させる国民管理の警察機構を有して来た。同時に、財力と情報を一手に独占し、堅固な独裁体制を敷いて被支配階級に対して、独占的に監督・管理してきたのである。
 人間の有史以来の歴史は、この“支配する側”と“支配される側”の壮烈な攻防戦であり、この関係は人間である以上、未来永劫まで崩れることはないであろう。現代の世も、この関係により歴史を刻み続けている。

 民族、国家、王朝、企業といった組織形態は、常に攻防戦の関係の構図の中にあり、「攻防」という関係の中で目紛しく変化してきた。
 そして、その変化の中に存在したものは、富と収奪の独占を企む人間の欲望だった。欲望を原動力として、人間は死闘を演じてきたのである。
 支配階級の欲望は、自らのその地位と独占を永遠に保ち続けることである。自分が死んでも、その地位と独占を子に受け渡し、孫に受け渡すことである。この成就がかなって、その欲望は誰よりも満足させることができるのである。

 一方、被支配階級は、その立場の逆転を狙って、限りない執念を燃やす。逆転を成功させるためにあらゆる暴力的手段を講じて、逆転する機会を窺う。そして、その行動原理も、また欲望なのである。
 かくして両者の間には、常に死闘の原理が成立し、人類の歴史はそれを目論んでの行動ではなかったか。
 古代から現代に至るまでの人類の歴史は、「戦争」が存在したという歴史により、死闘がいつの時代も存在したことを雄弁に物語っているのである。

 死闘は現代の世にも存在する。日本だけが戦争放棄して、安泰ではいられないのである。日本が戦争を放棄しても、世界は「国際協調」という名で日本を戦争に引き摺り込むのである。
 いまや戦争を無視しては、貿易すら成り立たず、その上、世界の至る所には一触即発の微妙な関係で「戦争の火種」が、いまもなお燻っているのである。
 「現代テロリズム」は起こるようにして、起こっているのである。だからこそ、ただの傍観者ではすまされないのである。

ミュンヘンオリンピックで、パレスチナ・ゲリラに襲われたヘリコプター。空港で西ドイツ防衛軍の銃撃戦になり、人質9人全員とゲリラ4人が死亡した。(毎日新聞社刊『昭和史』(経済大国と石油ショック・昭和47〜52年)17より) 昭和50年8月、日本赤軍ゲリラのスバン空港での人質。
 その後、人質は、犯人からピストルを突き付け、AIAビルからバスに乗るよう強制された。
(毎日新聞社刊『昭和史』(経済大国と石油ショック・昭和47〜52年)17より)



●食の誤りからの情緒不安定が招いた浅間山荘事件

 昭和47年(1972)2月、長野県軽井沢峰ヶ原の別荘地にある河合楽器社員施設「浅間山荘」で、人質を取った武闘連合赤軍と機動隊の間で銃撃戦が行われた。
 当時、連合赤軍は革新派の武闘の戦闘組織として、恐れられる集団だった。この武闘組織は、たびたび内部抗争を繰り返し、抗争が激化すると、警察の捜査を逃れて、軽井沢山中にある峰ヶ原の河合楽器社員施設「浅間山荘」に人質を取って立て籠
(こも)った。人質は、この山荘の管理人だった。

 峰ヶ原の山中に潜伏をしているとき、内部抗争は一段と激しくなった。組織は崩壊寸前となった。集団仲間への残虐なリンチ事件まで起こすようになっていたのである。このような状況に陥った中で、人質を取り、10日間立て籠ったのである。そして、機動隊と銃撃戦を繰り広げたのであった。

 事件後、意外なことが判明した。この中のメンバーの一人が家計簿を付けていることが分かったのだ。
 活動中、食料担当の係は、克明に家計簿を付けているのであった。その家計簿を調べた結果、食事の大半はカップラーメンと缶詰、清涼飲料水などで一ヵ月間を凌
(しの)いでいたことが判明したのだ。そして、驚くべきことに、野菜を一切食べていなかった。
 この食事のメニューから推測されることは、極度のストレス病に襲われていたことが推測できる。日々の食事を、ただ腹の中の空腹を満たすだけの、それだけの食事であったのである。栄養のバランスなど、殆ど計算に入れたものではなかった。

 日々の食事が疎
(おろそ)かになっていたことは、脳に絶対不可欠な栄養素が完全に欠落していたことになる。これは結果として、感情のコントロールが不安定になる要因を招いた。それだけに、極度に思考能力が低下したのだった。
 栄養バランスが崩れると、脳に与える影響も甚大
(じんだい)なものとなるのである。心身の崩壊は、毎日の食事と密接な関係にあり、また、有害物を取り込めば、思考を大きく低下させ、兇悪な状態になるということを明確にしたのだった。人間とは、そのような生き物なのである。脳と、毎日の食事が密接に関係しているのである。

 浅間山荘事件は、現代の世でもあり得ることなのである。あるいは、既に起こってしまったことを通じて、現代の世に訴えている兇悪事件でもあった。
 人間は、食事をすることによって、生を全うしている。したがって「食の化身
(けしん)」である。生きている人間は、食によって生かされ、肉体を維持している。脳も肉体の一部である。つまり脳は、食べ物によって操られていることになる。

 逆説的にいえば、食べ物が悪いと、脳は思考力を低下させるということだ。
 思考力低下は、人生の進むべき方向を誤らせる。脳に有害な毒物食品を送り込むと、それだけ思考は低下し、感情は不安定になって、人間は兇悪かつ兇暴になるということだ。

 2004年にアメリカで公開された映画で『スーパーサイズ・ミー』という映画があった。
 この映画は、監督のモーガン・スーパーロック氏自身が行った、ある実験を題材にした映画だった。ドキュメンタリー・タッチで描き出だされている。それは食品が、脳と身体に関連した内容のものである。

 氏の実験というのは、マクドナルドのファストフード・チェーンのハンバーガーやフライドポテト、またテレビコマーシャルに出てくる清涼飲料水メーカの食品を、一日三食、30日食べ続けるという実験映画だった。この間、健康のための運動はやめて、彼の身に起こる身体的かつ精神的な影響について実験したのだった。
 更に、氏はファストフード業界の社会的な影響を調査し、この業界が利益のために栄養を犠牲にしていることを明らかにした。

 氏は、まず“ファストフードは本当に体に悪いのか?”という疑いから始まり、自らの体を実験台にして検証したわけである。
 氏は、当時33歳で、身長は188cm、体重は84.1kg、体脂肪率11%、BMI指数23.2だった。アメリカ人としては、まず健康体と看做
(みな)され、決して肥満ではなかったという。
 ところが氏は、ファストフードを一ヵ月食べ続けることにより、まず、体重が10kg以上も増加した。また、コレステロール値も上昇した。
 氏が行った実験のルールは、次のようなものだった。

一日三食マクドナルドの食品を食べる。
マクドナルドの全メニューを、一度は食べる。
メニューに無いものを買わない。マクドナルドの商品だけを食べる。
「スーパーサイズ」を勧められたら、必ず「スーパーサイズ」にする。
飲み物はマクドナルドお薦めのコーラにする。

 一ヵ月間食べ続けた結果は、体脂肪率が18%になり結果として「7ポイント」増加、BMI指数も27となり、躁鬱(そううつ)傾向、性欲減退で勃起不能または半勃起状態、更には深刻な肝臓の炎症を起こしていた。
 この要因になったのは、一日5,000kcalの食事量をマクドナルドで摂った結果である。異常なる食生活の結果だと言えるだろう。

 更にこうした身体面の変化に加えて、情緒不安定になり、倦怠感が起こり、満腹中枢を狂わせているためか、「もっと食べたい」という、食欲が起こったという。“食べても食べても食べ足りない”という、「ジャンクフード特有の中毒症状」が現れたという。精神面が狂いはじめている、顕著な症状が現れたのである。
 こうした病因に至った元凶は、マクドナルドの食品の摂取し過ぎよるものだと主張し、訴訟した。しかし、訴訟自体は因果関係が認められないとして、裁判では却下された。結局マクドナルド側の勝利に終わったが、氏はタバコ会社に対するのと同様の非難が、ファストフード業界にも当て嵌まるのではないかと厳しく指弾したのだった。

品 目
身長
体重
体脂肪率
BMI指数
コレステロール値
実験前
188cm
84.1kg
11%
23.2
(アメリカでの正常値は19〜25)
168
実験後
不 明
95.2kg
18%
27.0
(アメリカ基準では標準以上)
233
体重が増えれば、重力方向に脊柱の椎間板のゼラチン状の髄核は押し潰されて身長が縮む。腰痛の原因となる。

 モーガン・スーパーロック氏の実験から窺(うかが)えることは、ファストフードのようなジャンク食品は、N/Cレートが低いために、これを頻繁(ひんぱん)に食べ続ければ、心身の大きな変化が現れるということだった。
 そして実験終了後、氏は2ヵ月かけて体の機能を元に戻し、14ヵ月かけて元の体重に戻したという。
 この映画は、反響があった反面、疑義が持たれた。事実を伝えていないと反論が起こった。肝臓障害とこの実験との因果関係についても、根拠がないとされた。

 ある歌手などは、自身の世界公演ツアーで、マクドナルドを食べて応援するなどとも言い出した。この歌手は、熱狂的なマクドナルド食品支持者だ。
 更には類似の実験をして、逆にマクドナルドで、一日2,000kcalの食事量を食べ、今まで体重が79.4kgから63.0kgに減少したという女性まで現れた。しかし、その真意は不明だ。

 『スーパーサイズ・ミー』の映画は、アメリカでは賛否両論が入り乱れている。日本でも、これに追随する現象はあるだろう。
 今や、食肉常食者は、肉は人間の体にいいと言い、穀物菜食主義者は食肉は有害であるという。栄養学に疎
(うと)い、一般素人は、どちらの言が正しいか分からない。情報過多の時代は、大いにその選択と判断を狂わせるのである。

パンや食肉や油食を常食する動蛋白常食主義者は、この食事法が体にいいと主張する。
 現代栄養学者たちは、食肉の持つアミノ酸だけに注目して、これは人体に有効な栄養源て定義した。ところが、肉などの動物性タンパク質の中には、便秘を引き起こしたり腸内で停滞する、尿酸、硫酸、リン酸、硝酸、塩酸、二級アミンなどの強酸類を作り出す物質が含まれている。
 当然、血液は酸毒症
(アシドーシス)となり、その酸度類を中和するために体内のミネラルなどのアルカリ性物質がどんどん抜け出していくのである。
 しかし現代人は「肉はスタミナの元」という思い込みが捨てきれない。
一方、玄米穀物菜食の少食主義者は、少食を徹底した方が身体には省エネに通じ、気力や根気、更には健康にもいいと主張する。
 健康増進は、主食が正しく摂れているかに懸かっている。それによって、慢性病の治療効果が決定される。
 未精白穀物の中で、玄米は重要である。玄米を中心にした雑穀類である、はと麦や丸麦、あわ、きび、ひえ、小豆、大豆などの雑穀しにた「玄米雑穀ご飯」の主食は、基礎体力をつけ、体質を良好にし免疫力や抵抗力を高める栄養学的かつ医学的データがある。
 ところが現代は、こうしたものより、口に優しい、舌触りのいい、柔らかい食べ物ばかりが尊ばれている。

 しかし日本では、既にファストフードやカップ麺などのジャンクフードが情緒不安定になり、それが躁鬱状態に陥れることは、「浅間山荘事件」で実験済である。
 また、暴走族の暴走行為に走る青少年の食事の多くも、ファストフードやカップ麺などのファンクフード、スナック菓子、コーダやその他の清涼飲料水の摂取が主である。
 精神状態が不安定になり、その後、狂暴化することは目に見えている。残忍な青少年犯罪の多くは、こうした食品の常食者である。

青少年の暴走行為は、ファーストフード、カップ麺などのジャンクフードが盛んになり、食品工業が繁盛しはじめてから青少年の情緒が不安定になり出した。

 現代はこうした常食者が、被害妄想を持ちながら、世に溢れている。この世に溢れた、ゴマンといる兇暴な青少年の犯行に、現代人がいつ巻き込まれないとも限らない。現代人こそ、栄養バランスの崩れた隣に居る者から、いつ被害を受けても不思議ではないのである。現代人は、このような時代に生きているのである。



●革命という暴力

 世の中の多くの人は、庶民の底辺の子として生まれ、底辺の人間として生き、それなりに社会への貢献が求められ、税金を払い、国民の義務を果たしつつ、平凡な一生を送って死んでいく。
 その多くは、大金持ちになって巨額な金を掴むこともないかわりに、極端が貧乏をして、極貧困窮者の人生を送るわけでもない。大勢の中間層として、生活は困らない程度に保証され、平凡な人生が全うできるように、そんな最初から敷かれたレールの上を走る運命を余儀なくされる。

 ところが、一万人に一人とか、十万人に一人という単位で、平凡な庶民とは異なる華やかな人生を送る人がいる。映画俳優、芸能人・タレントや歌手などもそうであり、またプロスポーツ選手や、政治家らもそうである。
 更に、大企業の財界人エリートや、富裕層の上部に位置する一握りのスーパーリッチの資産家もそうである。
 こうした彼等は、庶民とは異なる優越感の世界で生きる人たちである。一般に言う、労働者とは異なる階層の人たちである。

 こうした人たちに対し、一種の羨望
(せんぼう)が生まれる。羨望はブルジョアに対しての羨望だ。上層階級は、下層階級を搾取(さくしゅ)しているという懐疑からである。
 そしてその羨望は、戦後とともに変わった。

 戦後の日本人の下層階級
(自分では中流の上と思い込んでいる)の多くは、自分の国の悪口を言うのが大好きな国民に変貌したのである。多くは自虐的な言葉を吐き、愛国心という言葉を蔑(ないがし)ろにする。愛国心イコール軍国主義に直に結び付けてしまう。
 “日本という国を愛することは、悪いことだ”と戦後の平和教育の中で教えられてきた。日本の山河や花鳥風月などの情緒を持つことは、軍国主義を復活させることだと、日教組の組合員教師らが中心になって、当時の「団塊の世代」という子供たちを洗脳してきた。
 全共闘という暴力世代が「団塊の世代」であったことは、周知の事実である。
 そしてこの世代こそ、日教組の大きな影響を受けて成人した世代であった。

 大企業粉砕!
 それは資本家に向けられたスローガンだった。資本家は搾取
(さくしゅ)する生き物というのも、暴力世代が定義した理論だった。

 つまり、金持ちは穢
(きたな)くて庶民を騙し、不正と腐敗に満ちているが、貧乏人は正しく、清く、美しく、そして何よりも正義を愛する、真の意味での正義の味方、という結論に至ったことだ。金持ちは、資本家であり、資本家は労働者である底辺の貧しき庶民を搾取するというものだった。そのために、全共闘をはじめとする学園闘争が起こったのではなかったか。
 学園闘争では、正義が標榜され、その正義に対し、また全国の学生や労働者が呼応したのではなかったか。
 資本主義を、搾取する社会システムと結論したのではなかったか。

 権力は国民を騙し、資本家は労働者を搾取するという図式は、全共闘や日本赤軍が暴力で日本中を席巻した時、日本列島は革命の赤旗で大きく揺れ動いた。革命の嵐が、赤い旋風を巻き起こした。
 多くの企業にはドス黒い欲望が渦巻き、国民の生活を踏みにじり、その元凶となっているのが、財界や政界と決めつけ、企業の「奥の院」を暴くという名目で、“大企業粉砕!”というスローガンが生まれた。

 そして表面聖人君子は、実は、どうしようもない腹黒い私利私欲の塊
(かたまり)の輩(やから)で、権力の亡者、金儲けだけが目的に守銭奴と位置づけたのである。この位置づけにより、左翼系の新聞や週刊誌などのジャーナリズムが後押しをして、“ストリート・ジャーナリズム”を展開したのだった。
 この主義主張こそ、ジャーナリズムとして「社会正義」と標榜したのである。このジャーナリズムの一員に加わり、左翼の一翼を担う権威筋として、進歩的文化人という連中の猛威は凄まじかった。全国の学生や労働者に、呼応の檄文をマスメディアを通じて呼びかけたのだった。
 その尖兵
(せんぺい)となり、傍若無人に暴れ回ったのが「団塊の世代」という、昭和22年から24年(1947〜49)のベビー・ブームたちだった。また、この世代を核に、前後の年代の世代が、これに呼応した。



●現代だからこそ緊張が大事

 スポーツや格闘の世界では、“先手必勝”という。
 ゲームやプレーの局面で、先手を取った側が、必ず有利になるという。闘いは、先んずると勝利するという。だから先手攻撃をかけて、自らが負かされる前に、相手を叩き、反撃できないように叩きのめせという。
 また、殺される前に殺せという。
 しかし、殺される前に、殺す必要はないのだ。
 殺される前に、わが命をしっかりと守り抜けばそれでいいのだ。わが命を守り抜く「術」を身に付ければ、それだけでいいのである。

 目には目を、歯には歯を実行する必要はない。ただ守り抜けばいいのである。犯されず、犯さずの「礼」をわきまえることを会得すればいいのである。
 しかし、「我が身を守る」ということは、常々「最悪の事態」を想定して万一の場合の、その心構えと、防戦体勢を確保しておかなければならないのである。安穏とした、平和ボケでは命を失う。
 緊張のない、弛
(ゆる)んだ世界に自分を置いていては、“いざ”という時に対処できない。緊張のない人間は、自分を閉鎖の宇宙に閉じ込め、自ら、手も足も出ないようにしてしまう。

 “敵は襲って来ないだろう”と言う、希望的観測に縋
(すが)ってはならない。一寸先は闇である。いつ、何が起こるか分からない。
 心の中には、防御の体勢が必要である。猫背になり、顎
(あご)を出し、口の痴呆のようにだらりと開け、身も心も自分の中にこじんまりと縮こまっていては、“いざ”という時に万全の態勢がとれない。

 「静止した時の動作」も、「歩いている、走っているのアクション動作」も、隙
(すき)を作らないというのが大事だろう。そのためには「静」の動作から学ぶべきである。
 つまり、きちんと正座したり、正しく椅子に坐るということから始めなければならない。坐った時に、背中を丸めるようでは何もならない。また精神も緩弛型では、何もならない。弛んでいれば、隙を突かれる。不意打ちを食らう。
 こうした状態を避けるには、普段から緊張することを学ぶべきだ。ほどよい緊張を学ぶべきだ。自然なる緊張を学ぶべきだ。死なないために、である。無惨に殺されないために、である。

 真の緊張は、必ず自然体によって起こる。ごく自然に、素直に立った体の構えの中から起こる。呼吸もゆったりしている。荒々しくなく、気忙しくなく、ゆったりしている。そして此処には本当の意味の、弛緩をともなう自然体がある。この自然なる緊張は、決して緊張し放しということではない。緊張だけを長期間、継続させるということではない。この中に「緩急」がある。
 したがって、ごく自然な弛緩があり、この方法をもって、賢者だけが知る「平常心での張りつめた意識」を持つことができるのである。

 一般には緊張すると、ストレスを招くと誤解されている。ストレスから、種々の病気が発症すると思い込まれている。
 しかし、これは誤りである。
 緊張がないからこそ、ストレスを呼ぶのだ。緊張がないからこそ、癌発症を招くのである。癌発症が、決してリラックスだけの、緩みっ放しの精神からだけでは避けることができない。だから、自分に見合った緊張は、決して身体に悪いわけではない。
 ストレスから種々の病気に見舞われるような人は、むしろ幼児期から緊張に題する訓練を怠った人と言えよう。親から、緊張に対する心構えを教えて貰わなかったのか、親自身が
「真の緊張」ということを心得てなかったのであろう。こういう人は、病魔に襲われ易い。

 したがって、人生を学には、絶えず緊張するという意識が必要である。あるいは緊張の中に、わが身を置くことも大事なのだ。緊張を通じて、人間と、人間の世の中というものを見詰めていれば、この世の諸現象や諸々相の実体が見えてくる。
 緊張すれば、世相の真相が見えてくる。それを見詰めることにより、自ずと、個人の能力差というものも理解できるようになり、更には、個人の力では限界があるという、自力本願の誤りにも気付くのである。
 こうしたことに気付くことで、人間は初めて自分を解き放ち、あるいは折りを見て、緊張しなければならないという「締まり」も学べるのである。
 人間には、締まることと、緩めることの二つの動作がひつようなことを知らなければならない。

 ところが現代は、あまりにも平和ボケから、多くが「緩み放し」になっている。危険なことを避け、きついことを避け、苦しいことを避けとうよしている。
 物事から避けて通り、緊張の訓練を受けないというのは、あまりにも「病的」である。この病的な緩慢が、逆にストレスを呼ぶのだ。
 これは本質的に精神が緩慢なため、逆に、ゆったりとしたスペースを自分の中に確保できないから、ストレス病が忍び寄るといえよう。安穏な快楽だけの人生を追い求めていては、やがて心身を崩壊させる時が来よう。
 また、娯楽に、一時の慰安に逃避しても、虚しさは解決しまい。現実逃避をしていては、益々空虚を招くばかりである。

 現実逃避を企てたり、一時の慰安に興じる方法としては、酒を飲む、パチンコなどの小ギャンブルで憂さを張らず、風俗などの店に出入りするなどであろうが、これでは本当に長引く憂さは解消されない。現実を忘れるという理由で、こうした行動に走っても、それで解決するものは何一つない。現実逃避が結局、一時凌
(しの)ぎであり、根本は何も解決しない。
 あるいはテレビの漫才や落語、その他のお笑い番組を何時間見ても、その笑いは、時間の経過とともに直に消えてしまう。直に消えるだけに、それは虚しい。結局、心身を害してしまうのがオチである。これでは、逆に迷いに迷うばかりである。何も解決することはできない。

 二時間も三時間も、バカ騒ぎのお笑い一辺倒の白痴番組を見ていたら、自身の精神は本当に腐ってしまって、緩慢になるだろう。腐った精神は融け出して、“いざ”という時の心構えは死んでしまうだろう。
 人間の精神というのは、私たちが考えるほど、そんなに強靭
(きょうじん)ではないのである。特に現代人の精神は、そんなに強くない。隙を突かれれば、直に沈没してしまう。

 一寸先は闇である。
 安全と思っていた道路も、大都会の人込みも、交通機関の行き来でも、100%安全の保証付きではない。いつ何が起こるか分からない。それに、ある日、突然に自然災害や異変が生じることもある。予期できないことは、常に起こっている。
 それは一寸先は闇であるからだ。
 この闇の世界を人間は正確に予測することができない。“前門の虎、後門の狼”であるからだ。

 そして、前も後ろも恐くて、井戸の中に逃げれば、そこには大蛇が多くな口を開けて、人間の逃げ込んで来るのを待ち構えているのである。
 災難というのは、一難去って、また一難なのだ。一つの災いを逃れて、更に他の災いに遭うということを覚悟しておくべきなのだ。生きている限り、災難は一件落着など、あろうはずがない。だからこそ、緊張が必要だと言える。

 緊張して、「身を守る」という行為は、本質的には、決して高級なものでもないし、不自然なものでもない。
 換言すれば、身を守る上での常識的な行為であり、その行為は、人類が有史以来の、「自分以外の他人を意識した時点において始まっている」と言えるのである。その象徴たるべきものが「護身」ではなかったのか。
 護身は、裏を返せば「緊張」から成就するものである。緊張して、初めて自分の身を守る準備が整うのである。

 他者を意識すれば、緊張が疾
(はし)るという神経は、ごく普通であり、これこそ、極めて普通の動物反応といえるであろう。緊張は自然的な動物反応なのである。生存本能があるからだ。生きながらえる意識があるからだ。

 緊張すれば、命が漲
(みなぎ)る。
 その源泉は、血滾
(たぎ)り、血騒ぐ、心躍る、そんなわくわくとした「血の漲り」にある。その場合も、相手に対し、あるいは今から起ころうとする出来事に対し、「命の漲り方」が違うのは当然である。緊張は、こうした利点も所有しているのである。



●緊張の欠如から起こった浅沼稲次郎刺殺事件

 日比谷公会堂で、“刺殺事件”が起こった。昭和35年(1960)10月12日のことである。
 此処では、三党首演説会が開かれていた。
 民社党の西尾末広
(にしお‐すえひろ)の演説が終わり、次は社会党の浅沼稲次郎委員長の番だった。最後に控えたのが自民党総裁・池田勇人(いけだ‐はやと)首相だった。この順番で浅沼委員長の番が回ってきた。

 
浅沼委員長が壇上に上がると、ヤジが激しくなり、場内は騒然(そうぜん)となった。西尾委員長の時もヤジはあったが、浅沼にバトンタッチされると、ヤジはいっそう激しくなった。浅沼委員長は、ヤジにはお構えなく、お馴染みの濁声(だみごえ)を上げて演説をはじめた。また、右翼団体の中には、壇上に飛び上がって、ビラを撒(ま)く者まで顕(あら)われる始末だった。

 この時、NHKテレビ
(ラジオでも放送)で、一部始終を放映する予定になっていた。
 ヤジの激しさに困惑したNHK司会者は、浅沼に演説の中断を促し、前列の記者席ですら、話が聞こえないからと、会場内の静粛
(せいしゅく)を呼び掛けた。それでも激しい罵声(ばせい)は収まらず、事件は、浅沼が再び演説を開始した時に起った。観客席から突然一人の学生服にコートの少年が這い上がり、浅沼めがけて突進していったのである。少年は短刀のようなものを持っていた。ナイフではなく、短刀か脇差しの得物と思われた。抜き身の刃物を持って浅沼めがけて突進したのだった。

 この事件は、日本政治史上の大事件となった。テレビでは、この事件を繰り返し放映していた。テレビの視聴者は、リアルタイムでこの事件を目撃したのだった。
 浅沼委員長はその後死亡したが、検死が行われて驚くべきことは、普通犯人と格闘した場合、必ず「防禦創
(ぼうぎょ‐そう)」があるものである。被害者が加害者に対し、自らの体を庇うものである。これが格闘した際の防禦創となる。
 ところが、浅沼には防禦創がなかった。テレビで放映された状態の時と同じように、殆ど無抵抗で刺殺されているのである。むざむざ刺されているのである。

 問題になるのは、「なぜ防禦創がなかったか?」ということである。
 防禦創がない……。
 この事件は当時の高度経済成長と相まって、日本人は既に「平和ボケ現象」に陥っているということを雄弁に物語った事件ではなかったか……ということである。この平和ボケ現象は、政治家も例外ではなかった。

 このような刺殺事件は、近年に秋葉原でも起こっている。
 平成20
(2008)年6月9日、秋葉原で10人以上刺され、5人心肺停止という事件が起こった。この時、中央通りは封鎖された。
 事件は、中央通りの一番大きな交差点で起こった。警視庁警察官や目撃者の証言によると、犯人はレンタカーの2トン・トラックに乗って、通行人4〜5人を撥
(は)ねた後、トラックから降りて来て、通行人を次から次へとサバイバルナイフで刺したという事件だった。無差別の通り魔事件である。

 まさに不意打ちのような事件だった。予測がつかない事件だった。
 大勢の人が賑
(にぎ)わっている電気街で、まさかこうした事件が起こるとは誰も予測しなかった事件である。予測できない裏には、「日本は安全だ」という思い込みがあるからだ。これこそ「平和ボケ現象」の最たるものではなかったか。
 こうした事件の特徴は、被害者には浅沼稲次郎刺殺事件と同じように、殆ど防禦創がないということだ。無抵抗のまま刺されているのである。事件の遭遇した被害者の脳裡
(のうり)には、「日本は安全」という思い込みが巣食っていたのではあるまいか。

 交通機関の発達により、世界は非常に狭くなりはじめた。
 航空機を利用すれば、何処にでも行けるようになった。同時に外国からも、いろんな国の外国人がやって来る。外国からの来日者は、日本の風土も気候も、また為来
(しきた)りも文化も違う、そういう所からやって来る人たちである。こうした違いによるトラブルから、争いになることを計算に入れておかねばならない。不慮の事故を予測するべきだろう。今や、交通の発達により世界は小さくなり、世界は地球規模で、テロリズムの真っ只中にあるといえよう。日本でも例外ではないのだ。

 また、見逃してはならないのが、現代の食べ物の質の悪さから起こる「肉体異常」だ。
 例えば、食肉や乳製品ばかりを摂取していると、単に肉常食者が短命であるばかりでなく、内臓機能を早々と狂わせることである。肉の分解によって生じた強酸類は、血液を酸毒化させるということである。
 この酸毒化により、代謝機能は根本から狂い、その結果において、「性的な病的興奮」が起こるということだ。それがまた、深刻な排せつ機能障害を起こすのである。

 現代は食肉メジャーの宣伝に踊らされて、「肉はスタミナの元」と信じる人が多く、またその思い込みにより、食肉を過食する人が急増している。
 そのために、血液中の過剰な強酸類は、性腺を激しく刺激するのである。これが異常興奮に繋がる。この異常興奮が、また種々の悪質かつ兇悪な、性犯罪事件を起こすのである。性犯罪事件に関与する青少年の急増は、動物性タンパク質摂取過剰からくる要因も決して無視できないのである。現代はまた、切れやすく、“感情家”も決して少なくないことだ。

 ドイツの精神病理学者であるクレッチマー
Ernst Kretschmer/1888〜1964)の『クレッチマー分析』では、気質と体型の関係を論じ、分裂質と細長型、躁鬱質と肥満型、粘着質と筋骨型を関連づけたことで有名である。
 このクレッチマー分析によれば、昨今は肉常食者あるいは食肉過食傾向にある人は、筋肉質で然
(しか)も高血圧っであり、こうした人は往々にして感情家が多いということだ。つまり、思考が「酸毒化」傾向にあり、酸毒思考に汚染されているということである。こうした人を分析すると、次のようになる。

粘着質であり、かつ性格粗暴者で、犯罪を犯すと、粗暴犯の傾向を持っている。兇暴な面を持ち合わせるが、人間像としては単純である。
また、こうした人の特徴は、感情的で喜怒哀楽が激しい。筋肉質で高血圧の徴候がある。
自分の思い通りにならなかったり、意図する方向に物事が進まないと、直に腹を立てる。
感情家ゆえ、虚勢を張りたがる。その根底には「恐怖」の感情があるからである。また、怒鳴ったり大声を出すのはその顕著な現れ。ストレスを発散させようとしているからである。

 昨今は粗暴犯が起こす犯罪も、決して少なくない。食べ物が昔に比べて、情緒不安定になる食品あるため、ジャンクフードなどに過食により、性格粗暴者にもなり易い。こうした人間が、人込みの中に紛れ込む。そして、テロを企てる犯罪者も、同じように紛れ込む。紛れれば、普通は見分けがつかない。

 また昨今は、「テロとの戦い」という言葉が報道語になっている。テロと戦うことが正義のように報じられている。
 しかし、テロを行うのは、テロ指定国家だけではない。自由陣営も、秘密機関を通じてテロを行うのだ。右も左もテロを働くのだ。この事実は忘れてはならないだろう。一方が正義で、他方だけが悪ということはあり得ないからだ。

 以後、本HPは「浅沼稲次郎刺殺事件」の解説を加えながら、『現代テロリズム考』を進めていくことにする。



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