運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
理趣経的密教房中術・プロローグ
理趣経的密教房中術 1
理趣経的密教房中術 2
理趣経的密教房中術 3
理趣経的密教房中術 4
理趣経的密教房中術 5
理趣経的密教房中術 6
理趣経的密教房中術 7
理趣経的密教房中術 8
理趣経的密教房中術 9
理趣経的密教房中術 10
理趣経的密教房中術 11
理趣経的密教房中術 12
理趣経的密教房中術 13
理趣経的密教房中術 14
理趣経的密教房中術 15
理趣経的密教房中術 16
理趣経的密教房中術 17
理趣経的密教房中術 18
理趣経的密教房中術 19
理趣経的密教房中術 20
夜の宗教・真言立川流
続・夜の宗教 真言立川流
home > 房中術 > 理趣経的密教房中術 20
理趣経的密教房中術 20

蓮の花は清浄を表す。


●理法とイデア

 人間の心の清浄(しょうじょう)は、そのまま密教にも継承された。
 密教もまた、心は清浄と説くのだ。この清浄を「空清浄
(くう‐しょうじょう)」という。この空は実体がないということを現しているのだから、実体なく、清らかということを現している。
 これはまた、「完全清浄」ともいわれ、その反面、心の本性を束縛し、制扼
(せいやく)するものを、“非本質的な穢(けが)れ”あるいは“塵(ちり)の如き汚れ”といい、これを「客塵(かくじん)」というのは、このためである。

 これは心と煩悩の関係が、金属とそれに作った錆
(さび)または土埃(つちぼこり)に準(なぞら)えているのである。「客塵」は、大乗仏教ではしばしばこの言葉が用いられ、それは例えば、本来は清浄であるはずの「仏への可能性」も、そのままでは「我執(がしゅう)」の塵に覆(おお)われ、曇らされているから、錆と埃塗れになった金属は冶工調練して、開いていかなければならないとしているのである。
 この教えは『金光明最勝王経
(こんこうみょう‐さいしょうおう‐きょう)』に説かれ、仏への可能性を「如来蔵(にょらい‐ぞう)」としているのである。

 これは例えば「真金を鎔銷
(ようかい)し、冶錬(きたえ)して、既に焼打し己(おわ)ってまた塵垢(じんこう)なきが如く、金体の本清浄を顕(あ)らわさんために、金体清浄なり」といい、また「金が不浄のうちにあって見ること能(あた)わざるが如し。天眼ある者は乃(すなわ)ち見て、即ち以て人に告ぐ、汝等もしこれを出し、洗滌して清浄ならしむれば、意にし随(したが)って受用し、親属ことごとく慶(よろこび)を蒙(こうむ)らん。善逝ぜんぜい/仏十号(ぶつ‐じゅうごう)の一つで、悟りの彼岸に去って、再び迷いの生死海に堕ちない者の意。仏に対する十種の称号。如来・応供(おうぐ)・正遍知・明行足(みようぎようそく)・善逝・世間解(せけんげ)・無上士・調御丈夫(ちようごじようぶ)・天人師・仏世尊の十種。如来十号とも)の眼はかくの如く、諸の衆生の類(たぐい)を観る。煩悩の淤泥(おでい)の中にて、如来の性は壊れず、意に随って説法し、一切の事を弁(べん)ぜしむ。仏性(ぶっしょう)を煩悩覆うとも、速(すみや)かに除いて清浄たらしむ」(『如来蔵経』より)とある。

 本来人間の心は『如来蔵経』で説かれているように、本性は「清浄なもの」と観るのである。
 ところが、愛の本質を、慈悲と連なるものと観る考え方の基底にあることは、観やすい理
(ことわり)である。様々な心が観られても、排除されるべきは、その悪しき現象的機能である。
 同様に、愛そのものは「慈」と同じものであるが、衝動的な渇愛と、貪欲
(どんよく)な我執で独占欲が起こった場合、それは排除せられべきものなのである。

 “自分だけのものにしたい”という意識が生じた場合、それが“自分のもの”という観念が起こるため、既に明らかに慈悲とは懸
(か)け離れたものになる。自分の所有物とするのであるから、それは“物”であり、自分の外に置いた物体ということになる。
 恋愛遊戯で怕
(こわ)いことは、相手を美の物体化し、それを屈折させて見てしまうことである。こうなった場合に、その愛欲は肉欲に変貌する。肉欲は肉の塊(かたまり)である「物」を溺愛(できあい)する行為である。肉体に関して感じる欲望は、総てが物へ関心を抱いた時に起こる。

 本来の慈悲は空観による転訛から生じたものであるが、その基底には原始仏教以来の、人間肯定説があったことが分かろう。
 したがって大乗仏教の愛欲間が、原始仏教のそれを継承し、更には空観によって慈悲まで高めたといえるのだ。
 この慈悲は密教の時代に入っても、その威力は衰えなかった。仏教徒の愛欲観は決して基本的には、変化しなかったのである。前時代を継承し、それを更に発展させていった。
 前時代から受け継いだものは、「心は清浄なり」と見る、人間観であり、発展させたのは「真実の智慧
(ちえ)」だった。つまり、「般若の理趣」だった。

 『法華経』の冒頭には、「心清浄」という叙述があり、この言葉は密教にも度々登場する言葉である。
 『理趣経」でも、例の“十七清浄句”をはじめ「清浄」の句は全篇を貫く基調であった。
 ただ、先の『法華経』の序品にある「正法を演説するに、初めに善く後に善く、その義は深遠にしてその語は巧妙かつ純一にして難なく、清白……云々」にそうとうする「文義は巧妙にして純一、円満、清浄……云々」の、円満、清浄などの原語が脱落して残念であるが、前後からして、ここに『法華経』と同じ、「パリシュッダ」
【註】完全に清らか)の語が用いられていたことを推測するには充分であると考えられる。

 聖提婆
しょう‐だいば/アーリヤデーヴァ(Ayadeva)の作とされ、密教では極めて重んじられているものである。『清浄心論(しょうじょう‐しんろん)』も、この系譜の上に立つものである。
 そしてやはり、「心の本質は清らかなり」とする「心性清浄説」に帰着するのである。
 『理趣経』に展開される「大楽」の教えは、人間的な人間そのものを見据え、「人間の心」というものに帰結するものであった。

 『理趣経』で説かれる「理趣
(りしゅ)」とは“ナヤ”といい、「真実なる智慧の」あるいは「真実なる智慧への」の意味を持ち、これが即ち「理趣(みち)」だったのである。
 則
(すなわ)ち、真実を認識するための道なのである。
 理趣の原語に使われている“ナヤ”は、「連れて行く」という“ニー”の動詞から派生した語源である。それは「導くもの」または「案内するもの」を意味し、これがチベットでは「道」「趣き」「方法」という意味を持つ“ツル”という言葉で訳されている。

 唐代の僧・玄奘
げんじょう/法相宗・倶舎宗の開祖。河南の人。『大唐西域記』はその旅行記。『西遊記』はこの旅行記に取材したもの。玄奘三蔵。三蔵法師。600〜664、一説に602〜664)は629年長安を出発し、天山南路からインドに入り、ナーランダー寺の戒賢(かいけん)らに学び、645年帰国後、『大般若経』『倶舎論』『成唯識論』など多数の仏典を翻訳した。
 また不空
ふくう、インド名:アモーガ・ヴァジュラ/唐代の僧。真言宗付法八祖の第六代で北インドの人。720年長安で金剛智に師事。諡号(しごう)は不空三蔵。705〜774)らの翻訳家が、これを「理趣」と訳したのは、「真理への趣き」ということで、「理趣」と訳し、理趣は「道」と同じ意味を持っている。
 また、善無畏
ぜんむい、インド名:シュバカラ・シンハ/真言宗伝持八祖の第五代。金剛智と共に中国密教の基礎を確立。637〜735)は中インド、烏荼(うだ)国の王族の出で、ナーランダー寺の達磨掬多(だるま‐きくた)に密教を学び、716年、長安に来住、『大日経』『蘇悉地羯羅経』などの経典を訳出。玄奘三蔵も、その著の『大日経疏(だいにちきょう‐しょ)』において、玄奘や不空らが理趣と訳したこのナヤを乗道(教えの道)の意味として解釈している。

 更に『金剛頂経』の第六会とされる、この『理趣経』の広本である教典が『最上根本大楽金剛不空真実三摩耶大教王経
(さいじょうこんぽん‐たいらくこんごう‐ふくうしんじつ‐さんまや‐だいきょう‐おうきょう)』と称されるのは、「真理への趣き」イコール「理趣」によって開かれる般若空(はんにゃくう)の理想を意味したものだった。

 則
(すなわ)ち「般若空」とは、“囚(とら)われることのなき実在の理(ことわり)”のことであり、現実的な立場における発現である「大楽」を意味していることが分かる。
 つまり『理趣経』では、「愛」イコール「理」という形で論理を押し進め、愛欲の理解を求め、これを「自然の摂理」としているのである。

 真理の趣きたる「理趣」とは、まさに宇宙全体に及ぶ一つの力であり、大自然のうちに潜む理性は、即ち「覚」客観に対する主観の適合性だったということである。これは人間の自然に対する適合性であり、所謂
(いわゆる)「生に向かった適合性」であったといえる。
 生きるための適合性であり、「生への指向性」とでもいえるのである。

 かつて古代ギリシアの哲学者・アリストテレス
Aristoteles/プラトンの弟子であり、またその超克者。前384〜前322)は、「プラトンの事物の本質」を“イデア【註】idea/もと、見られたもの・姿・形の意。プラトン哲学の中心概念で、理性によってのみ認識されうる実在)”と名づけた。
 イデアは超越的なものとしたが、アリストテレスはそれを形相、つまり“エイドス
【註】eidos/アリストテレスでは個物に内在する形相けいそう)”と名づけ、質料に内在するものとした。

 形相と質料は、存在者を構成する不可分の二原理として、前者が現実態、後者が可能態とも呼ばれる。アリストテレスはアテネに“リュケイオン”という学校を開き
(その学徒はペリパトス(逍遥)学派と呼ばれる)、その研究は論理、自然、社会、芸術のあらゆる方面に及んだ。「形而上学」「自然学」をはじめ、論理学、倫理学、政治学、詩学、博物学などに関する多数の著作がある。そして中世においては、アラビア哲学やスコラ学に継承され。

 また、近世には法則性を明らかにする近代自然科学の側から批判されたにもかかわらず、ライプニッツ
Gottfried Wilhelm Leibniz/ドイツの数学者・哲学者・神学者。微積分学の形成者。1646〜1716)やヘーゲルGeorg Wilhelm Friedrich Hege/ドイツ観念論哲学の代表者。1770〜1831)などにも影響を与え、新スコラ学で再興、今日でもトミズムのなかに存続している。

 アリストテレスの理性によって認識される実在は、「生に質するもの」と解釈すれば、つまり、この生は「善」ということになる。
 更に押し進めて、アリストテレスの指向性は、その見れたものや姿形が、そのまま「生」であるので、またこれも善であり、『理趣経』における赤裸々な、不必要と思われるまでの人間の愛欲の肯定は、“見られたもの”に適応させれば、即ち「善」となる。生きる方向へと向いた指向性は、即ちその一切が「善」なのである。そして、極めて重要なことは、「生」に不可欠なことは、その根本原理が「愛」なのである。

 愛欲を肯定してこそ、生の指向性は、生き生きと生かされるのであって、その愛は純一かつ円満な形で顕わされると、『理趣経』は論じているのである。更に、生そのものは、全存在そのものと同一なのである。
 「愛」はアリストテレスが説いた“イデア”であり、それは「理」そのものなのである。
 このイデアを、仏教徒的に表現するならば、つまり「法身
(ほっしん)」であり、永遠なる宇宙の理法そのものとして捉えた仏のあり方である。
 これは「三身」の一つであるが、色身、応身、報身などに対応し、「真理の具現的表現」といえるのである。この理法こそ、まさにイデアであった。



●理趣即愛染

 『理趣経』は「真実の経典」である。
 現実における具現者は、日本においては愛染明王
(あいぜん‐みょうおう)であるが、「愛染」とは貪愛染着(とんあい‐せんじゃく)の意味である。貪(むさぼ)り愛し、それに染まることをいう。これこそが、煩悩という衆生の心身をわずらわし悩ませる一切の妄念である。

 しかし愛染明王は、 衆生
(しゅじょう)の愛欲・煩悩がそのまま「悟り」であることを表す明王である。本地は《金剛さった》である。貪・瞋・痴・慢・疑・見を根本とするが、その種類は多く、「百八煩悩」「八万四千の煩悩」などといわれる衆生のそれは、また“悟り”でもあるというのだ。相反する煩悩と菩提(悟り)とが、究極においては一つであることを教える。
 そしてまた人間の生死も、その根底の教えには、生死輪廻を繰り返す迷いの世界も、その根底においては、涅槃の絶対の世界と一つであると教える。これを「生死即涅槃」と教える。二元対立的な考えを超越することを教えているのだ。

 現代日本人は、宗教的に見れば、信仰心の薄い、中途半端な無神論者である。端
(はな)から神仏など信じてないくせに、あるいは「死んだらそれで終わりよ」と言いながらも、自分の死後のことを考えたりする。
 本来、無神論者と言うのは、「どんなことがあっても祈りを捧げない人」のことだ。自他ともに祈願をしない人のことだ。神仏に願い事を立てたり、「こうありますように」や「無事で到着しますように」という祈りを捧げない人のことだ。
 したがって無神論者は、地獄極楽は勿論のこと、生まれ変わりなども一切信じていない人なのだ。

 況
(ま)して、臨終の千仏来迎(せんぶつ‐らいごう)など一切期待していないし、もし、抗ガン剤の副作用で末期患者として苦しんで死んで行くときも、その断末魔の苦しみは、ありのままに受け止め、また妻子や資産や、自らの生命などにも執着しない人である。死ぬと、これまでの一切は失われるからだ。失われるのに、それに心を砕いても仕方ないからである。
 ところが、日本人はその殆どが中途半端な無神論者であるため、「往生際
(おうじょう‐ぎわ)の悪いこと」をする。
 口では神仏を認めないくせに、先祖の墓参りはするし、盆、彼岸、命日には坊主を呼んで、線香などを上げて
供養をする。
 結婚式には、神前にぬかずき、あるいは教会に出向いて、神父や牧師の言葉に神妙に耳を傾けて神との契約の名において結婚を行い、死者が出れば葬式をし、盆祭の布施物、供物、供養をする。元旦には正月を祝い、神社仏閣に初詣をする。
 盆暮には俄
(にわか)仏教徒になり、クリスマスイブには俄クリスチャンになり、大晦日は除夜の鐘を聴いて俄仏教徒へ変身し、一夜あければ神道に早変わりして、猫の目のようにくるくる変わって、何とも忙しい限りである。
 大学入試は合格祈願をし、合格したらお礼参りもするといった、何とも奇妙な中途半端な無神論者である。
 悪事を働いて刑務所に入れば、泣いて懺悔
(ざんげ)して仏門に帰依(きえ)し、出所したらこれまでの仏教帰依はさっぱり忘れ、出所祝いの祝膳までする。何ともご都合主義ではないか。この、ご都合主義に一生奔走するのが日本人である。
 そして、ご都合主義の裏側には、諸々の欲望が渦巻いていることが分かる。

 特に、愛欲の強い引き合いによって縛られている凡夫層に対し、この世の中で、欲を捨てるほどの大罪はないと断言したのが、即ち、貪欲な愛に染まる「愛染明王」の姿だった。
 凡夫の救われるところは、「煩悩即菩提」の教えである。相反する煩悩と、菩提
(悟り)とが、究極においては一つであることをいう。煩悩と菩提の二元対立的な考えを超越することを大乗仏教では説くのである。
 そして、「生死
(しょうじ)即涅槃」は、生死輪廻を繰り返す迷いの世界も、その根底においては、涅槃の絶対の世界と一つであるという教えは、凡夫を勇気づけるのである。
 仏教は、小我を離れることを教える。小我を離れ、相対的論理の世界を脱した時、「無戯論性
(む‐げろんしょう)」の真の宗教的価値が生まれるという。
 「理」イコール「愛」は、また「理趣即愛染」という図式によって、初めて可能になるのである。



●般若と方便はもともと一つ

 密教の愛欲観は外面的な戒律の制約から脱することだった。
 自他の対立を超え、宗教的な愛に転じることで、「自分とは何か?……」ということを、深く掘り下げることだった。
 更に密教の説く「空観」は、観念的な空性の世界から脱して、実践的な金剛乗
こんごう‐じょう/真言密教の別称)の世界へ入る関門を通ることを説いてきた。即身成仏を目的とする教えである。それが『理趣経』だった。

 『理趣経』の愛欲肯定の倫理を通じて、密教的進化があったといえるのは、愛欲肯定説が、後期密教において、特に大楽思想に結びついたことは大きな躍進だった。
 この「大楽行
(だいらく‐ぎょう)を通じて、その根本理念をなす「真実と現象の一致」は、般若と方便の不二平等をなす概念で、思想史的に検(み)ても、理趣の思想を受け継ぎ、これを基盤にして、一層実践的な立場を採(と)ったからである。
 それは、“わが肉体”を通じての大楽行であったからだ。
 また、このことが『真言立川流』を生み出すことになる。

 そもそも宗教は人間の長い歴史において、出立当初から、人間本来の理法をテーマとし、人間とはいかにあるべきかということに心を砕いてきた。そのあまりにも熱烈な苦悶の末に、一時は戒律一辺倒主義に陥り、禁欲を強いり、人間を“
お行儀の良いお人形さん”に仕立てようとしたが、その愚に気付き、愛欲をテーマに、これに真剣に取り組んできた。
 人間本来の理法は、「愛を信じる」ことだった。愛を信じ、純粋な欲愛は人間の進歩において不可欠だと悟ったからであった。つまり、宗教は後期に至り、愛欲肯定論へと傾いたのであった。
 愛欲の肯定なくして、人類の進歩はあり得ないと、路線を変更したことだった。仏教においても、後期に至ると愛欲は肯定され、この肯定の実践なくして、人間は成り立たないと悟ったのであった。
 この意味からすれば『理趣経』は、まさに「仏教的人間観」を構築し、そこに、この世に生きる肉体はどうあるべきかということを、具体的に示した教典であったといえる。

 宗教や、ややともすると天ばかりを仰ぎ、肝心な大地の上に立つ人間を見逃してしまいがちである。人間を見逃しては、天を仰ぐことすらもできまい。
 そこで、『理趣経』は人間そのものに目を向けた。人間を見て、人間とはどのようにしたらこの世を幸福に生きられるか、その疑問を訊き、それに回答した教典であったといえる。

 愛欲を自然の摂理からの発露として、素直に認め、男女が二根交会をする行為は、決しておぞましいことではなく、「清らかだ」と説いたのだった。
 この事をキリスト教の「愛」に対応させてみると、非常に興味深いもとが出てくる。
 だが、「神は愛なり」という存在ではあるまい。多くのキリスト者が信じるような、そういう存在ではあるまい。神に愛を求めれば、神は無償で人間を人間を救ってくれるなどと思い込むような存在でない。そう信じるのは勝手だが、本来人間のために、仕事をして下さるような存在でない。神は、願ったり招き寄せたりすれば、それ相当に代償を要求する。神の世界にも作用と反作用が働いているからである。

 仮に、神格を招くということは、そこに何らかの「計らい」を作ることになり、つまりそれは神に対しての「借り」と言うことになる。ここに歴
(れっき)とした神との契約において、確たる貸借関係が生まれ、人間は神との『貸借対照表』において「負債の部」に大きな借りを作ることになる。しかし債権者たる神は「負債の部」をそのまま放置されるお方でない。
 必ず「お礼返し」が必要になる。これを「どう返すか」である。甘いものではあるまい。
 神に借りを作るのは失礼なことであり、むしろ危険であるとさえ言える。お願いし、借りを作ることは、その後の報酬の取立を怖れなければならない。この取立において、神は決して愛としての存在ではないのだ。
 無償で人間に力を貸してくれる存在でないことを確りと認識しておくべきである。
 神は愛なり……。これ自体が、人智で考える単純な問題ではないのである。
 確かに、神は愛なり……かも知れない。しかし、その現実は、その一方で人間に厳しく要求する存在でもあるのだ。ここを甘くみるべきでないだろう。
 したがって、神の力を人間が恃
(たの)めば、人間は神から何を要求されても決して拒むことが出来ないのである。
 人間は、ただ神に沿って、ともに生きるだけの存在である。神とともに生きる存在に過ぎず、神を頼るべき存在ではないのである。神とともにあって、神なしで生きるのが人間の姿なのである。
 神とともにありながら、神に頼らずに人間が自分で片をつけて生きることこそ、神なしの人生がある。神なしで生きる存在だが、側面では神が検
(み)ている。

 確かにイエス以来の結婚生活は、地上の秩序として、キリスト教では「神の意志」に沿って認められるとしている。神の意志が認められなければ、その結婚は不正なもので、またその肉欲も罪であるとしている。そして注視すべきことは、肉欲そのものは、結婚の本質とは異なるとしていることだ。
 個別に行われる男女の愛は、婚姻の偶像であり、またここに、結婚という名を借りた偶有性しか為
(な)さぬものと検られてきたのである。

 然
(しか)も、この偶有性は、私たちに肉体故に起こる「罪」によっての本質的なものと捉えられ、肉と心が相反する律法の、呵責闘争を考えられ、このために過酷な闘争が繰り返されたのであった。
 キリストの降臨と、キリスト教会とによって、生殖は小さな善程度しか評価されなかったのである。そのうえ、童貞は結婚に勝る優位と認められ、禁欲は「善」と信じられていたのである。
 西洋では、性思想に関して、キリスト教的に解釈され、性欲はそれを禁欲する意識のトレーニングによって解決されると見られていたのである。

 最初「生めよ殖やせよ」から、アウグスティヌス
Aurelius Augustinus/初期キリスト教会最大の思想家。354〜430)の肉欲の原罪観を経て、トマスThomas/キリスト教の聖者で、イエス十二使徒の一人。伝説に、インドに渡ったといわれ、その言行は『トマス行伝』に描かれる)の「ほどよい調和」の愛欲観に至る過程を経て、キリストの贖罪(しょくざい)を巡ってキリスト教の愛欲観には二重性格的なものが漂っていることが気付かされるのである。
 アウグスティヌスは、初めマニ教を奉じ、やがて新プラトン哲学
【註】特に、新プラトン学派の祖・プロティノスに思考を近くし、このギリシア系の哲学者の、「神秘合一・エクスタシス」にあるとする説に入れあげた)に転じたが、ついにミラノで洗礼を受け、生地北アフリカに帰りヒッポの司教に就任、同地で没している。
 そして彼の、その神学の核心は、人間は神の絶対的恩恵によってのみ救われるとしたことだ。
 そのため教会は、その救いの唯一の伝達機関であるとしたのである。
 また歴史は、神の国と地の国との戦いであるとし、この三点を哲学的に纏
(まと)めあげたことで知られる。その最たるものが、「三位一体論」だった。

 この論は、内的経験の自己確証性、真理照明説、悪に実在性はなく、善の欠如に過ぎないという説を展開し、人間の記憶、知性、愛のうち、三位一体の痕跡をみる説などが特色であり、キリスト教で、創造主としての父なる神と、贖罪者キリストとして世に現れた子なる神と、信仰経験に顕示された聖霊なる神とが、唯一なる神の三つの位格
(ペルソナ)であるとする説である。

 アウグスティヌスとトマスを対比させ、比較すると、キリスト教の性愛論は天地の差程の開きがある。前者は「神秘合一主義者」であり、後者は「ほどよい愛欲主義者」であるからだ。そして贖罪を巡っての解釈が、天地の差程の隔たりを持っている。
 贖罪とは、犠牲や代償を捧げることによって罪過を購
(あがな)うことである。
 特に、キリスト教の教義では一番重要なものとされている。自らでは購うことのできない人間の罪を、神の子であり、人となったキリストが、十字架の死によって購い、神と人との和解を果したとする、この説は、罪を潔めるための儀式になっているが、では現在地上にいる人間は「どうすればよいのか」という見解が、前者と後者とでは大きく食い違っているからである。また、この解釈の違いが、後世に種々の紛争を生じさせた。

 仏教においても、これまで論じてきた「心性清浄的人間観」の主流の他に、人間の無明
(むみょう)を強く見る「五性格別(ごしょう‐かくべつ)」や「性悪法門(しょうあく‐ほうもん)」があるが、これは別な考え方をする、仏教的な人間観である。
 五性格別とは、人間には五種類の区別があり、その最下なる者は仏となる可能性が少ないという説であり、性悪法門とは、人間の性は悪と見る教えであり、これは一部の天台宗などで説かれてきた仏説である。ここにもキリスト教だけではなく、仏教も、解釈の二重性格性が指摘されているのである。

 しかし『理趣経』を、何ものにも囚
(とら)われず、人間的に、人間として読む場合、そこには、人間の行いとして善と悪があり、愛と憎しみがあり、実存と現象があり、“般若”と“方便”があって、実はこの二つは対峙(たいじ)して、二つに別れているように受け止めがちだが、実はこれらは二つでなく、もともと一つになっていて、人間の内側に内蔵されていると、読み解くことができる。

忿怒の形の仏。

 「理」に連なる愛は、憎しみを伴う愛とは次元を異にするからだ。次元の違いに飛躍性を持つ。情愛に異次元性を持つ。
 『理趣経』でいう愛欲は、性善・性悪の埒
(らち)の、物事の区切りの外にあるものだ。
 『理趣経』に描かれた尊容を読み解く限り、それは「微笑みつつ」も、一方で「忿怒
(ふんぬ)する愛」であるからだ。そしてこの愛の境地を表現するならば、それは「秘密の悟り」であり、この秘密こそ『理趣経』の境地なのである。
 また、『理趣経』は、あるがままの世界を「悟りの秘密」で衆生に教え諭
(さと)す。しかし『理趣経』は、現象を安易に肯定し、人間の欲望をそのまま放任する教えではない。更には、特定の行為と、特定の効果とを結び付けて、非理性的な行為や行動を奨励する教典でもない。
 況
(ま)して、苦悩へのインスタントな特効薬でもなかった。決して“所願成就”の護摩札ではないのだ。

 『理趣経』を安易に表面的に解釈すれば、男女の性愛の道を奨励し、その道がそのまま成仏に結びつくような誨淫
(かいいん)の書のように映る。
 ところが、『理趣経』のテーマは、その第一が「大いなる楽」である。「大楽」とは、何かと見たのが、最も重要なテーマであり、それは人間愛欲の実践の道ではなかったのである。しかし、“この世”での世界観は、単なる形而上学的な命題で終わる、客観的な公式ではないのだ。
 現象人間界の“現象”とは、人間がその中に直接入り、それを体験すべき世界観であるということを『理趣経』は言い放つのである。したがって、男女の愛欲は、実在的に見て決して嫌悪したり避けて通るべきものではなかった。ありのままに受け入れるものだった。

 『理趣経』には、仏教の性に対する命題を、善または悪で一行も偏していない。それどころか、性とは本質的に見て、清浄なるものと定義しているのである。
 人間も、一切が清浄なものであるから、男女の関係が正しい関係にあるときは、実際的にはそれが清浄なものになるのである。重要なのは、「この一点」である。そして特記すべきことは『理趣経』には、清浄な男女関係は認めるが、不倫の男女ならびに同性愛を認める箇所が一行も書かれていないのである。

 唯あるのは、他の全ての実践と同じく、我執
(がしゅう)を去り、清浄に男女の道を認めているだけである。そして、そこに「真実なる智慧」が存在すると教えているのである。唯……、それだけである。あるが儘に見る智慧を示しているのである。

 花を見て、それを美しいと感じるのは、そこに“あるがままの心の働き”があるからだ。四季折々の草花を愛
(め)で、それをそのままに見るのが「真実なる智慧」であり、一方そうした場合にそれを阻むものを一つ一つ取り去っていくのも、また「真実なる智慧」なのである。真実の智慧への理趣(みち)を「般若波羅蜜多(はんにゃはらみった)の理趣」であるとしているのだ。現実界(生死輪廻)の此岸から、理想界(涅槃)の彼岸に到達することを顕わしているのだ。
 自然への悟りを、そのまま「わが悟り」としてこそ、真実なる智慧があるのだと『理趣経』は、淡々と説いているのである。


●わが悟り

 情愛も欲望である。欲望である限り、当然そこには打算が働いている。打算がある以上、迷いも生まれる。
 この迷いを克服したとき、始めて「悟り」が到来し、人間本来の姿が顕われる。
 そもそも「迷い」は何処から生まれるか。
 心が迷うからだ。あるいは人間としての心を失うからだ。人間が獣のように心を失って肉愛にふければ、当然そこには高邁
(こうまい)なる、不遜なる奢(おご)りが生じる。この奢りを謙虚な態度で克服し、その域に到達したとき、本当の悟りが訪れる。

 例えば、たらふく美食を食らったとする。食通として三昧
(ざんまい)を味わったとする。こうして満腹を味わったあと、如何なる料理人の絶品を食したとしても、もはや美味い不味いの区別はつくまい。むしろ正常真満腹中枢を持っているのなら、もう口には入るまい。
 これと同じように、散々房事を尽くしたあと、もはや男女の交わりは、それ以上無理であろう。むしろ欲情は消え失せている。

 問題なのは事後の後悔である。
 この後悔がまた新たな迷いを生む。その迷いは、元はと言えば「こだわり」から始まったものであった。こだわりは捨てれば楽になるものを、後生大事に抱えて来た。ここに迷いが生じた。
 それは「けじめ」がないからだった。それはこだわりという迷いを生んだ。

これ以上満ち足りた「足るを知る」という境地に、満足を覚えることである。この満足感に浸れば、今にでも溢れようとしている器の状態を悟ることが出来る。それを悟れば、もう一滴も加えてはならないことが分かるであろう。

 夢魔という現象がある。
 美女へのこだわり。愛欲へのこだわり。肉愛へのエロ狂いへのこだわり。こうしたこだわりには夢魔の現象を招く。
 夢魔には男の場合、絶世美女。女の場合は貴公子のような美男が登場して、夢の中で性を貪る。睡眠中、男を襲い、あるいは女を襲う。夢の登場人物と情交して、男からは精液を奪い、女からは愛液を奪い去る。一節には女の悪魔は、悪魔の子を孕
(はら)むと言われている。この悪魔の美女名をスクブスという。スクブスは睡眠中の男性を襲い、誘惑して精液を奪う悪魔である。
 あたかも『牡丹燈籠』に出て来る飯島の娘お露の死霊が、恋人の新三郎の許
(もと)に燈籠を下げて通い、情交をして精液を奪いとる……、この怪談話に類似点を持つ。

 さて一方、男の悪魔はインクブスという。
 この美男の悪魔は、睡眠中の女性を襲い精液を注ぎ込み、悪魔の子を孕ませる。
 インクブスとは、ラテン語の「のしかかる
(incubo)(馬乗りになる)」、「下に寝(succubo)」からきており、美女のスクブスや美男のインクブスが、どのような悪魔であるのかを物語っている。
 そして何れの悪魔も、自分と性交したくてたまらなくさせ、烈
(はげ)しく欲情を煽(あお)り、襲われる人の理想の異性像を心象化し、衣服は上半身だけか誘惑する薄着で、下半身は性器まる出して現れる。
 そのため、誘惑されれば拒否することは非常に困難である。怪しき野蛮である。それに魅
(ひ)かれる。あたかも磁力に吸い寄せられるようにである。凡夫では留まる術を知らない。情熱に趨(はし)って、烈しい情に突き動かされるからだ。尋常な惑わし方ではないからだ。夢魔に魅入られれば憑かれる以外ない。
 何れの悪魔も、人の形態をとるだけでなく、標的となった人間の寝室には蝙蝠
(こうもり)に化けて侵入するとも言われる。だが、美男美女に姿を変える能力を剥がせば、その正体は醜い怪物ともいう。これは人間の男女に憑(つ)くのである。魔は荒(あら)ぶり、陶酔させる。

 一説にはインクブスとスクブスは同一の存在であり、自身には生殖能力が無いため、人間の男の精液を奪って人間の女を妊娠させ、悪魔性の邪
(よこしま)な因子を繁殖させるという。こういう言い伝えから、ヨーロッパの一部の地方では「枕元に牛乳があると、スクブスはそれを精液と間違えて持ってゆく」とも言われ、悪魔除けに、小皿一杯の牛乳を枕元に置いて眠るという風習が生まれたという。
 だが、こうした悪魔に魅入られ、蠱惑
(こわく)される原因も、元はと言えば、自身の「迷い」から起こったものであった。妄執(もうしゅう)である。こだわりは妄執を呼ぶ。悟りが得られないからだ。
 そのこだわりが、例えば男女とも容姿端麗などの姿形に固執し、これ自体は妄執を募らせる。烈しい恋慕の思いを錯覚させる。この錯覚が迷いを呼ぶのである。
 色情に妄執を抱けば、作用に対して反作用が働く。
 イエスの言う「色情の眼で視ただけで、汝
(なんじ)は既に姦淫したり!」の指弾も、まんざら嘘ではなさそうである。度が過ぎる色情は、夢魔に憑かれる要因があるようだ。清らかさを喪(うしな)うからである。

 物事は始めがあれば終わりがある。始末である。この始末の大事を、こだわったために見逃した。
 始めがあって終わりの無い人を、「やりっぱなしでけじめのない人」と言う。夢魔に魅入られる予備軍でもある。あるいは夢魔の保因者かも知れない。
 こだわりという迷いが生じる起点があれば、その迷いを滅却する必要があろう。
 そこで、清浄な元の次元に立ち返ることを「けじめを付ける」という。

 何事かにこだわり、こだわりっぱなしで、迷ってばかりいては、人の道すら極めることが出来ないだろう。獣
(けだもの)の道を歩いているようにも思える。夢魔に襲われて終わりである。
 もしかすると、現代は男も女も夢魔に魅入られた時代なのかも知れない。肉慾
(にくよく)に魅入られ、老若男女の多くが蠱惑されているようにも思える。その顕著な顕われが昨今の「色の乱れ」である。
 少なくとも、かつてに較べ、男女二根交会は清浄な形のものでないだろう。
 愛は清らかなものでなくなるつつある。愛は、こだわり、昨今の不倫現象から窺えるように「迷うもの」に成り下がった。

 こだわり続けて、迷いぱなしで、始末をつけることなく生涯を終える人は、また再び六道を輪廻して、「こだわり」という迷いを繰り返すことになる。
 自身に「真実なる智慧」の探求なくば、これこそ「けじめ」なき、終わりなき悲惨な生き方といえよう。



理趣経的房中術  了          





 理趣経的房中術は続編の理趣経的房中術』へと続きます。



<<戻る トップへ戻る

  運気     八門人相     房中術     癒しの杜     菜根譚     小説     会報Back No.     合気     蜘蛛之巣伝     死の超剋     霊的食養     心法