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理趣経的密教房中術・プロローグ
理趣経的密教房中術 1
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夜の宗教・真言立川流
続・夜の宗教 真言立川流
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理趣経的密教房中術 19

肉体は、大宇宙の神秘からの贈り物である。人間はそこに秘められた生命力へ礼拝することにより、日々新たに、今日の充実した一日を授かっているのである。今日を懸命に生きることは、明日への希望が約束される。今を生きるということは、即ち、明日への繋がりの中で、また元気に活動できるということだ。


●歓喜と法悦

 性には「歓喜(かんぎ)」がある。
 同時に歓喜が「夜の宗教」であるならば、そもそも夜の宗教において“信仰”とは、則
(すなわ)ち「法悦(ほうえつ)」でなければならないことになる。

 一般に“法悦”などというと、仏法を聴き、または味わって起る、この上ない喜びを「法喜
(ほうき)」などともいうが、聞くだけの法悦では意味がない。
 行う法悦を果たしてこそ、その意味が出て来るというものである。要するに、行動の法悦であり、“交会をすること”なのだ。しかし、行うだけでは駄目だ。単に、男女が交わるだけでは駄目なのである。交わって、頂点に達し、果てる。それでは駄目なのである。
 真言立川流ではこれを一歩進めて、「エクスタシー」などと解釈し、つまり“恍惚
(こうこつ)とするような歓喜の状態”をいうのである。恍惚に至って初めて法悦の喜びがあるのだ。法悦は、坊主どもの説教にあるのではない。説教を喰らって、それに法悦を感じるといっても、ピンとくるはずがない。実践し、行ってこそ、それは“なるほど”と感じ入るのである。

 法悦は、この上もない喜びであり、“脱魂状態”をいう。これこそ、魂の脱離だ。エクスタシーだ。魂は肉体を超越して、宇宙に遊ぶのだ。魂は、この現世という“ろくでもない世界”を超越するのだ。だから、これを法悦という。
 人間が神と合一した「忘我」の神秘的状態を、こう呼ぶ。
 物事に心を奪われ、うっとり我を忘れることであり、夢中になることだ。
 では、何によってか。
 それは、男女二根交会において、である。

 脱魂状態はフィロン、新プラトン学派、中世神秘主義思想家の重要な概念だった。また、これを忘我
(ぼうが)といい、有頂天といった。
 では、人間に忘我・有頂天・恍惚・法悦などという現象が訪れるのか。
 それは本質的にいって、人間は歓喜をする生き物であるからだ。
 この歓喜こそ、そこに横たわる根本本能は、例えば、朝日を拝めば、それ自体で「清々
(すがすが)しくさせる」という喜びが現れ、こうした感覚は人間以外の動物にはこの感得が出来ないのである。
 早朝朝日を拝み、新鮮で、静寂な大気を腹一杯吸い込んで、深呼吸すれば、これまでの体内の古い空気は一掃されて“ガス交換された”という意識を持てるのは、まさに人間だけである。

 また、朝日を拝謁
(はいえつ)して、それを凝視し、太陽ごとを自分に取り込むイメージさえ、人間は想念で描けるのである。これを何分間か懸けて一身にやれば、それだけで大らかになり、ゆったりした気持ちになり、あるいは気を大きくさせたりもするものである。ゆったりと落ち着いて鷹揚(おうよう)が訪れるものである。

 人間は、「喜び」を得るために、様々なアクションをする。
 学術上の発見発明も、商人の金銭に対する金儲けも、総ては喜びを味わいたいためである。喜びのために、力も籠
(こも)るわけである。
 他人と争い勝負をすることも、競ってスポーツの勝敗を争うことも、また、戦争をやって、勝って相手国を奴隷状態にしたいと思う意識も、総ては勝ち誇る喜びを得たいためである。この「一心」がなかったら、これらは総て“馬鹿馬鹿しい所業”ということになる。

 勝って喜ぶ……。勝ち誇る……。征服する……。服従させる……。
 これは人間だけに与えられている喜びである。自分が他人より優れていると思う快感は総て「喜び」に回帰される。
 人間は、悲しみより、喜びを求める生き物である。
 したがって、悲しませるもの、辛いものを“邪道”と解釈する。悲しませる原因は“悪魔”と決めつける。この悪魔に対して、歓喜を求める心が「正道」と理解する。
 正義は力なり、という言葉も此処から生まれた。
 人間の行うところ、為
(な)すところ、その究極には喜びを求める心があり、そこには必ず「歓喜(かんぎ)」がある。

 さて、「歓喜」である……。
 では歓喜とは何か。
 この喜びには、「精神上のもの」と、「肉体上のもの」がある。
 これを信仰上の立場からいえば、“法悦”は「精神」となり、“性交”は「肉体」となる。
 しかし、精神も肉体も、結局は歓喜であり、快感であり、これらは生理現象としては「同一」のものである。これらは「人間の本能」に帰着するからである。
 したがって、信仰だって、法悦に至らないものは、無駄の最たるものとなる。
 法悦に至らないものは、第一、まず“中途半端”といえる。これこそ、無駄の最たるものである。身も心も躍らせなければならないのだ。
 性交だって、呼吸法を識
(し)らずに嫌々やっても、健康を損なうばかりである。
 半勃起、あるいは不能状態で、女根に挑んでも虚しいだけである。“粗チン”で挑んでも侮蔑
(ぶべつ)されるばかりである。
 気が向かない肌を合わせることは、健康を損なうばかりでなく、運勢まで衰退させてしまう。運を閉ざしてしまう。“嫌な肌”とは合わせるべきでないのだ。
 心から気が合う肌、親しみを感じる肌、懐かしいと思う肌と合わせるべきである。
 二根交会は、一旦始まると、これを途中で中断することが出来ない。始まれば、誰が覗こうと気にすることは出来ない。始まったが最後、極楽まで一気に運ばなければならないのである。

 『理趣経』では、一旦始まってしまったものは、徹底的に快楽を追及すべし、とある。
 “極楽まで行くべし”とある。
 快楽の追求こそ、歓喜する正道であり、尊い仏様を拝んで、法悦に浸ることこそ、悟りに至る同じ原理に基づくものなのだ。これを極楽浄土という。安住に至って、有り難い悟りを得るのだ。この悟りは、見たり聞いたりでは訪れない。行って、初めて成就するのだ。
 では、信仰法悦と性的歓喜は、どのようにすれば強化できるのであろうか。

信仰法悦 夜の宗教の信者は、まず遠慮しないで、自分の持つご本尊様と同じものであるということを強く信じることである。
 それは例えば、自身を観音様と心から強く思い込めばいいのである。あるいは力強い不動明王と思えばいいのである。
 単刀直入にいうと、例えば経済格差を上げて、隣家の富豪を羨
(うらや)むより、自分の方が大金持ちの信じ込めば良いのである。強く念じて信じて疑わなければいいのである。それだけで優越感の暗示が生まれるのである。

 この優越感は、自分を心地よいものにさせてくれる。だから、実際には困窮して経済的に窮していても、それを心から信じて強く思い込めば、その想念はやがて現実のものとなって開花するのである。想念にはそういう力があり、心象化現象は「強く念ずること」で、無から有を生むのである。
 法悦においても、“自分のものになった”と喜べば、想念はそのように働き、これに心象化現象が起こるのである。これを可能にするか否かは、「念」の問題である。念じ方である。
性的歓喜 性交者は、まず遠慮なく振舞うことである。性行為をし、交会するのに何を遠慮することがあろう。
 特に交会に及ぶ男は、相手の女の性器ばかりでなく、行為中にも女の乳房、脇腹、腰、唇、二の腕など、どこでもよいから、完全に女体を我がものにしなければならない。男は女の全身をコントロールし、女はそれを心から受け入れれば良いのだ。

 これを「仏理」に当てはめていうならば、「肌」は密着の地天。腰の動きは水天。乳房への刺激は火天。接吻や愛語の囁きは風天。性器の目合
(まぐあい)は空天である。そして交会を行っている最中のツボにも“仏”が存在する。
 自らを庇護する、歓喜を齎
(もたら)す仏がいるのである。したがって、安易な“鴉(からす)の行水”では意味がない。中途半端な即戦即決は慎まなければならない。特に男の場合はそうだ。
 安易、早とちり、思い込み、固定観念や先入観を全て一掃し、大いに時間をかけ、腰を据え、毅然
(きぜん)とした態度で、怕(こわ)がらずに性的法悦を享受すべきである。

 密教房中術は「夜の宗教」である。
 これは真言立川流の目指すところでもあり、密教の理論的教義の“教相
(きょうそう)”である。
 また、交会の“事相
(じそう)”である。密教で、実践方面をいう。生滅する有為法(ういほう)をいう。教相と事相は論理と実践で合い対立するが、これが両輪の輪の如く連絡されれば、セックスにおいては“鬼に金棒”である。
 これこそ“現象界”の存在であり、様々の因縁によって生じた現象、また、その存在をいう。絶えず生滅して、無常なことを特色とするのだ。
 セックスもその一つであり、男女二根交会もそうである。論理を理解すれば、それが応用面として実践しても同じようにこなせるのだ。この意味では交会は、「教相事相」である。問題は頭脳を良くすることだ。ここが良くならなければ交会の意味はない。これこそ、陽明学でいう“知行合一”である。知ることは、行うことなのだ。

 夢中になって男女は相手にしがみつき、早とちりをして安易に発射しては、全て無駄となる。全てパーとなる。これでは軽蔑されるだけで、厳しい現代社会を生き抜いていくことはできない。十分に持ちこたえなければならない。
 だからといって、性交時にまで、仕事のことや勉学のことを問題にして、頭を酷使すれば病気になる。
 そこで密教房中術では、呪文を唱え、心身の統一を図るのである。
 呪文を唱えれば、燃える性的エネルギーは頭脳と直結され、この習慣を交会の度に習慣付ければ、頭脳は冴
(さ)え、頭脳明晰(ずのう‐めいせき)の境地をもって、これはやがて神通力となるのである。『理趣経』はそう教える。だから、愛は清らかなものと説く。愛は雑音の中にあるのではない。静寂な中にあるのである。静寂こそ清らかさの象徴なのである。



●人倫的な愛のみを認める『理趣経』

 愛は清らかなもの……というのが『理趣経』の基本定義である。
 では、愛欲は“清らかなもの”でなければならない。つまり、愛欲は清らかなものなのだ。清らかである、ということは、では、それは善なのか悪なのか。

 『理趣経』は言う。
 愛欲そのものは善でもなく、悪でもない……と。
 また、逆に、善にもなるし、悪にもなる……ということだ。
 これが、そもそも仏教においての、本来の愛欲に対する見方であった。

 ギリシアのメナンドロス
Menandros/ギリシア、アッティカ新喜劇の代表者。前342頃〜前292頃)は、長老ナーガセーナに尋ねた。
 「快感は善ですか、それとも悪ですか?……また、その何れでもないのですか?」
 これに長老答えて曰
(いわ)く「それは善でもあり、また悪でもあり、更にあるいは、その何れでもない」と。
 メナンドロスは、アテナイの市民生活を舞台とする約百編の作品を書いたと伝えるが、『気むずかし屋』以外は断片だけ現存し、他はプラウトゥスやテレンティウスの翻案を通じて知られる人物である。

 愛欲は善でもなく、また悪でもないのだ。
 仏教でも、目的や効果を問う以前の課題として、愛欲に対する答えは、実は善にもなり得るし、悪にもなり得るのだ。
 斯
(か)くして、『理趣経』が「愛は清らかなもの」と定義している以上、それが純粋な限り、「清らかなもの」なのである。
 「清らか」という条件に限り、純粋が保たれ、仏教では愛欲が認められるのである。

 愛の最も純粋な形として、男女の熱烈な恋愛は、それが性器目当てで、興味本位の猥褻
(わいせつ)行為でない限り、当然、賛美されるものなのである。
 古代インドの仏教説話の『ジャータカ
(Jataka)』によれば、「愛する者の愛する人は誰であろうとも、譬(たと)えチャンダーラcandala/インドの四種姓(ヴァルナ)以外の最下級の身分で、狩猟・屠殺などを業とした階級)女であろうとも、総ての人は平等である。愛(カーマ)に差別なし」(『ジャータカ』6、421G)と記されている。
 故に、当然ながら、世俗的関係としての結婚生活は、それが倫理的な組織に合致する範囲においてのみ、認められるのである。ここで大事なのは、その「範囲」であり、これは婚姻関係を結び、それが世俗的に成立していること、なのである。したがって、それ以外の「不倫」という形は、仏教では認めてないのである。この点が重要なことである。

 ちなみに最下位のチャンダーラは、「不可触民
(ふかしょく‐みん)」とも言われる階層である。
 この階層は、インドの四種姓
(ヴァルナ)制の枠外に置かれた最下層身分である。穢(けが)れた者と看做(みな)され、長らく差別を受けた階層である。ガンディーは、カースト差別撤廃を目指し、彼等をハリジャン(神の子)と名づけた。

 さて、仏教では、妃
(きざき)と寝ることは「問題なし」としている。
 世俗的関係において、男は妻を抱き、また女は良人
(おっと)から抱かれることは「一切問題なし」としたのである。それは夫婦であるからだ。夫婦が和合することは好ましいとされたのである。それは人倫的組織で合致しているからである。
 かの『サンユッタ・ニカーヤ』には「子らは人々のすみかである。妻
(バリヤ)は最上の友(サカー)である」(同書1、17G)とある。

 愛は美しいもの、尊いものであると仏教では認めたが、しかしそれがそのまま宗教的な愛とは、まだ認められていないのである。仏教を生み出したインドでは、原始仏教で、恋愛も、欲望も、等しく「カーマ」という言葉で表現され、両者の間に区別が立てられていないのは、愛欲が人間の生理的消長
(しょうちょう)あるいは盛衰(せいすい)と不可分であり、そのもの自体が、全生涯的なものでないからだ。
 全生涯的でないということは、乳幼児には当てはまらないし、また、死を間近に控えた晩年期の老人にも当てはまらないからである。更に、死した後に、愛欲は何の価値を見出そう。

 特に愛欲は、相手を独占しようと言う心の働きが起こる。相手を独占するに伴い、その独占欲は嫉妬心で徐々に強くなり、あるいはやがて色褪せて、情熱が失われてしまうものなのである。ここには消長があり、盛衰がある。更に、愛を充足することには、忍耐と困難を伴う。
 したがって、愛が充足されなかった場合、これは直ちに憎悪へと変貌する。その変わりようは「豹変」という名に相応しく、今までの愛が直ちに「憎さ」に転じる契機を内蔵しているからである。そのような、情欲の絡んだ“愛欲”は、宗教的には愛と認められないのである。

 宗教で言う愛は、そのようなものではない。
 宗教的な愛というのは、独占欲を伴わない、「一切に平等にふるまう愛」で、かつ「全生涯的な愛」でならなければならない。更には、時間や空間の範疇
(はんちゅう)を超えた、「高次元の愛」でなければならない。
 だから恋愛の愛欲の愛は、実は独占欲から起こる愛であり、「欲の制約を受ける愛」である。決して「大いなる愛」ではないのだ。
 では、「大いなる愛」とは、いかなるものか。



●大いなる愛を説く『理趣経』

 愛の観念は時代的によって、それぞれ異なる回答が出されている。
 大いなる愛……。
 この問いに対して、弁士仏教はあまりにも倫理的である。あるいは便宜的であって、教典群の与える回答は、根本的な処置をせず、間に合せで論じていると言えなくもない。その範疇では、実際問題としての解決に縁遠いものばかりであり、また実行する上でも、あまりにも堅苦しい。

 例えば、 原始仏典の一つである『法句経
(ほっく‐きょう)【註】パーリ語で書かれた全編423の詩で、『ダンマパダ(Dhammapada)』とも。仏教の要義を約説したものとして、広く読まれる)には、「放逸に耽るな。愛欲と歓楽を習うな。思念をこらし不放逸なる人は大いなる楽を得る」(『法句経』27)と、道徳的な戒告だけが繰り返されているだけである。
 実際には、宗教的な愛を提起したとしても、道徳的堆積以外の何ものでもなかったろう。

 宗教的な愛には、仏・菩薩が衆生を哀れむ「慈悲の心」が不可欠である。慈
(いつく)しむ心がなければ駄目である。
 一説に、衆生に楽を与えること
(与楽)を「慈」、苦を除くこと(抜苦)を「悲」という。特に大乗仏教において、智慧(ちえ)と並べて重視される事柄だ。
 宗教的な愛は、単に一人に向けられる愛ではない。愛を一人の愛に終わらせぬ倫理の完成が必要だった。つまり「大乗」を持たなければならなかったのである。

 原始仏教は、もっぱら道徳的かつ倫理的に表現され、愛欲観は殆ど顧みられなかった。
 ところが、仏教が大乗的な意味を帯びてくると、ただ一人に向けられるだけの独占的な愛は、大乗になりえず、新たなる武器によって、純粋に宗教的な愛に昇華させなければならない必要性に迫られた。この「愛の昇華」に後世の仏教はエネルギーを注ぎ込むことになる。愛の昇華がなければ、愛欲すら成り立たなくなっていたからである。
 その契機が「大乗」という考え方であった。
 紀元前後頃から、インドに起った改革派の仏教を「大乗仏教」と言う。
 従来の部派仏教が出家者中心あるいは自利中心であったのを「小乗仏教」として批判し、それに対し自分たちを「菩薩」と呼び、利他中心の立場をとったのが大乗仏教だった。東アジアやチベットなどの北伝仏教は、何れも大乗仏教の流れを受けている。

 そして大乗仏教が、新たなる武器に用いたものは、「自他の区別を超える」という、愛の範囲の境界線を取り払ったことである。自他を区別しないことこそ、大乗のもっとも特異とするところであり、一人の小さな愛の留まらず、また愛を独占したり、あるいは寵愛
(ちょうあい)という形で愛の独占を放棄することから始まったのである。

 愛は自他との区別をなくし、一人が独占するのでもなく、「空観
(くうかん)」をもったことだった。
 諸々の事物は、縁起
(えんぎ)によって成り立っている。そこには永遠不変の固定的実体がないということである。
 特に『般若経典』や中観派によって主張され、また大乗仏教の根本真理とされるのが「空観」だった。
 『般若心経』で説かれる「色即是空
(しき‐そく‐ぜ‐くう)」の、色(しき)とは現象界の物質的存在をいう。そこには固定的実体がなく空(くう)であることを説いている。
 また、「空即是色
(くう‐そく‐ぜ‐しき)」とは、固定的実体がなく、空であることによって、はじめて現象界の万物が成り立つということを説いている。

 要するに、「空観」は、一切の事物は固定的な実体をもたず、さまざまな原因
(因)や条件(縁)が寄り集まって成立しているということを説くのだ。
 大乗仏教においては、一般に語られる人間的な愛も、宗教的な慈悲も、本質的には同種のものと考えられていた。
 ところが、その両者は何ら区別されずに、連続しているのではないという思考が加えられた。
 それは、一方が対立する対象を持ち、これは自我への執着を内蔵していることであった。それに対し「慈悲」は、乖離をを超えた理想形になるもので、これには自我を内蔵していないのである。
 慈悲は人間の愛を通して表現されるものであるが、しかし愛の次元を超え、それを「昇華する」というところに慈悲特有の、慈しみ、哀れむ心がある。この転換に基準になったものが「空観」であった。

 空観と慈悲との論理的連関は、愛欲肯定説の支柱となりえ、特に「愛は清らかなもの」を「心は清らかなり」に置き換えて、この説より、「心性清浄説
(しんしょう‐しょうじょう‐せつ)」を打ち立てたことだ。
 これは人間解釈における愛欲観は基礎となった。この基礎が大乗仏教に正しく継承されたのであった。
 大乗仏教の愛欲肯定説を「心性清浄説」とに対比させ、心には種々あるということを理解することだった。
 したがって、『理趣経』の正確な経題は『大楽金剛不空真実三昧耶経
(たいたく‐こんごうふこう‐しんじつ‐さんまいや‐きょう)』という。
 この経典は七世紀から八世紀に掛けて、インドで完成したものであると推測されている。

 大楽金剛とは、この経典が示す
“金剛さった”のことである。
 “金剛さった”と云う菩薩を通して、大楽と云う男女の欲望を倶
(とも)に体現し、清らかな愛を交流させて、一つは長寿を全うし、もう一つは健康なる長寿と倶に覚醒を覚え、悟りを得ると云うことである。
 『理趣経』では、男女の二根交会を“あるがままの欲望”と解する。この欲望こそ、「真実」と定義しているのである。そこに不純は存在しないと説く。そしてこれを体現し、その中の「人となる」のである。
 般若波羅蜜多
(はんにゃ‐はらみた)とは、智慧(ちえ)で溢れていることを云う。

 仏教とは、仏陀
(ぶっだ)の教えである。この教えには宇宙論が説かれている。男女間にも壮大な、一つの宇宙が存在する。その宇宙にあって、人間男女は、何を自覚するかに掛かっている。そして、それは愛欲を通じて可能であると説かれている。
 また、その根底には普遍的な「自覚の真理」が横たわっている。そして、その振仏陀とは、「自らを証知した人」に他ならない。
 これは自己以外の絶対神もしくは絶対者を設定し、それを神聖なものとして礼拝するキリスト教などの緒宗教と、仏教との違いはこの点において、大きく分けられている。
 つまり仏教は「自覚」の可能性において、それに賭
(か)ける宗教である。自己の外に神仏を求めるのではなく、自己の内に、自覚を通じて仏を見ようとする宗教が、つまり仏教なのである。そして自己の自覚の可能性は、人間そのものの確信なくしてはあり得ないのである。

 後世の仏教においては、愛欲を含めて一切の人間的なものが決して否定されることなく、道徳意識や倫理意識に反しない限り、常に是認される立場に置かれてきたのである。仏教の特異なところは、人間肯定の宗教であると言うことだ。
 人間肯定とは、人間活動の本質をなす“心の働き”と密接な関係を持っているのである。そして、その心を分類すると次の三つのようになる。

種々心を顕わすもの。即ち、心には種々のものがあるということ。心には、種々のものがあり、それが一辺倒でなく、様々な変化していること。
染浄和合の心を示すもの。心には汚染(けがれ)の姿もあり、また善浄(きよらか)な姿も共に備わっていること。
心性本浄(しんしょう‐ほんじょう)とするもの。心は本来その性(しょう)的に、浄(きよ)らかとみるもの。ここに清浄の意味が存在すること。

 最高の目的とされる「解脱」を考慮して心を観察する時、そこには心の作用と心の動きが観測できる。そして心の本質を追究すると、そこには中心的なものに集中し統一しようとする作用と働きがある。同時にその働きの中には、穢れの心相と清らかな心相が同時に存在していることが分かる。
 更に心には種々の心がある、と経文にも示されている。
 心の本質は、その中に世間の写しとして清濁
(せいだく)(あわ)せ呑(の)むという実際があり、善も悪も綯(な)い交(ま)ぜになっていることだ。その上、苦悩があり迷いがある。苦悩の潜勢力は「随煩悩(ずい‐ぼんのう)」といわれるものだ。これは一切の煩悩を指し、根本煩悩である六随眠(貪・瞋・痴・慢・疑・見)に対して、それ以外の煩悩を、こう呼ぶ。そしてその分類は、倶舎では19種類、唯識では20種類に分類されている。

 心は洗滌
(せんじょう)されていない金鉱に例えられることがある。
 その金鉱は洗滌されていないのだから、放置のままでは、譬
(たと)えそれが金鉱であったとしてのそのままである。表皮は塵(ちり)や殻(から)に覆(おお)われている。そのため決して眩(まばゆ)いばかりの金の光は放っていない。冥(くら)いのである。
 そこで洗滌の心が湧いてくる。
 洗い浄めようとする。
 それを努力し、修行して垢塵
(こうじん)を取り除こうとするのが人間の向上心である。苦悩や迷い、煩悩や垢汚(けがれ)を取り除こうとする努力や修行を試みるのが、また人間なのだ。
 しかし、無理にこうした努力をしなくても、「自然法爾
(しぜん‐ほうに)」に心は清らかになることがある。これを「心性清浄」という。
 この状態は、心が安定した状態にあるときだ。騒音やケバケバしい毒色に汚染されていない時に、心の安定の境地が図られる。

 もともと“自然法爾”は、人為を加えず、一切の存在はおのずから真理にかなっていることをいう。また、人為を捨てて、仏に任せきることをいう。一切を「任せきった時」に心の安定は図られる。

 「心性清浄」の説は、原始仏教において、既に心の本流の地位を確立していたが、次の世の、分派仏教の時代に入り、様々な解釈がなされたために、この解釈は屈折状態を見せた。そのため結局、本流たる地位は不明のままだった。そして『理趣経』の次元を獲得して、「愛は清らかなもの」が「心は清らかなり」とする基本的な立場を獲得したのだった。それが種々の論説に影響を与えたのであった。
 『心所論』『解脱論』『涅槃論』『縁起論』『仏陀論』など、みなそうである。
 これらの重要課題は、総て「心は清らかなり」とみる立場を取っているのである。
 したがって、大乗仏教の心性説も、その本流は、原始仏教の心性説をそのまま受け継いでいるのである。

 後に鳩摩羅什
くまらじゅう/中国南北朝時代の訳経僧)の翻訳した『妙法蓮華経』の序品の第一には、「正法を演説する初めに善く、終りに善く、その義は深遠にして、その語は巧妙。純一にして難なく、清白(しょうびゃく)・梵行の相を具足す」とあるが、この「清白」は清廉潔白のことで、『瑜伽師地論(ゆがしじろん)』にも取り上げられ、「清浄とは謂(いわ)く、自性解脱するが故なり。鮮白とは謂く、相続解脱するが故なり」と註釈され、「心は清らかなり」にと回帰する。
 つまり、清らかな心に確立された愛欲は、また清らかであり、更に「愛は清らかなもの」へと帰着するのである。

 『理趣経』の「愛欲肯定論」は、このようにして、心の在
(あ)り方を述べ、次に「心は清らかなり」の状態に至って、はじめて「愛は清らかなもの」になり得るとしているのである。


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