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理趣経的密教房中術・プロローグ
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夜の宗教・真言立川流
続・夜の宗教 真言立川流
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理趣経的密教房中術 18

青面金剛夜叉尊絵像


●未熟が招くセックス・ストレス

 呼吸の浅い男は、この周天呼吸法が出来ない為に、性交を行えば、かなり体力を消耗してしまう。呼吸が浅いと言うことは、肺呼吸を行っているからであり、下腹である「丹田呼吸」を行っていない証拠である。
 浅い呼吸は“精”を漏らし易い。“鴉
(からす)の行水”になり易い。愚かなことだ。

 “精”は生命力と同じであるから、“精”を漏らしている人間は、短命である。自ら寿命を縮める。墓穴を掘る愚者だ。その上、持続力がなく、淡白で、好色であると言う割には粘りがない。
 直ぐに飽きるタイプである。持続性がない。口でいう割には、からっきしだらしがない。
 飽きるタイプは、年から年中発情しているためである。こうしたタイプは、口ほどでもない。
 人間は、他の動物と異なり、発情期がない。一年を通じて発情しているというのが人間の男女だ。一年365日発情している。おそらく、こうした種属の動物は、他にいないだろう。こんな種属は、人間以外にないのだ。
 普通、動物には発情期というものがある。その時期が来るまで発情しない。ところが人間は違う。年から年中発情し、安易に精を漏らそうとする。いい女、いい男と検
(み)ると、それと結びたがる。しかし、落し穴がある。
 多くの男女は、精を漏らすために暗躍する。その隙
(すき)を窺(うかが)って、多くの男女は夜の巷(ちまた)を徘徊(はいかい)することになる。男も女も年から年中発情しているために、精を漏らすチャンスを窺うようになる。この窺いが、今日では「不倫」という呼称で呼ばれているのではなかったか。

 人間は、精を漏らすチャンスを窺
(うかが)っているくせに、実際には、いざ本番となると実にだらしないところがある。一年365日発情する状態は整っているくせに、いざ本番となると、いつも中途半端に終わる。自他共に、“髪の毛の先まで痺れさせる”というのは稀(まれ)である。多くは期待外れと失望に終わる。
 それは他の動物と異なり、発情と交情の時期が定まっていないからだ。365日いつでも発情の準備は整い、気が向けば交情へと至る。男女が安易に“番
(つが)え”ばいいと思っている。対(つい)になれいいと思っている。

 しかし、不倫形式の交情は、本来の『理趣経』で説かれる「愛は清らかなもの」という認識がないため、愛を欲情に変え、その欲情が相手の性器目当ての肉欲に成り下がる。清らかなものは期待外れの汚らしいものになる。これが心に風穴を開ける。虚しさが襲ってくる。
 所謂
(いわゆる)低俗なセックスであり、これが過度に過ぎれば、セックス・ストレスを派生させる。
 セックス・ストレスは男の場合、勃起不能であり、あるいは半勃起状態。女の場合は、不感症である。過度なセックスを起因とするセックス・ストレスがその病的な現象を作り出している。その病的原因に365日、いつでも発情可能という元凶が災わいしているのである。年から年中発情していれば、それはストレスとなる。

 また、一年を通しての発情可能は、身体的変化が“慣
(な)れ”に変わるため、慣れはいつでも“飽(あ)き”に繋(つな)がり易い。こうした慣れや飽きは、また倦怠期を呼ぶ。倦怠期に陥れば、全身全霊を注ぎ込んで、という熱中状態にならない。いい加減に終わらせたいと思うようになる。これにより、慣れた相手からは、「セックス逃避行」が起こりはじめる。女の髪の毛の先まで痺(しび)れさせるという、エクスタシーが訪れない。
 こうなると、逃避行に偏る。
 性交が終了すると、崩れるように、どっと倒れ込む。これは中途半端が原因している。性を安易に考えた仏罰だ。
 また、精の無駄な漏れを起こしている。これこそ無駄な浪費だ。しかし、当の本人は気付かない。自分では当たり前と思い、世間並みか、それ以上と自負している。ところが、何故か虚しい。脱力感を感じる。こうした状態は、性を無駄に垂れ流し、愚かな浪費をしているからである。

 こうした現象を招くのは、呼吸の浅い男に多い。
 このタイプの男にとって、性交が一種のスポーツセックスであり、体力の消耗戦に自分が一戦参加したと言うことになり、こうした考え方で性交を続けると、性交を重ねれば重ねる程、肉体は弱り、大変な体力の消耗をしていることになる。
 同時に、「疲れる性交」は、体質をも悪くし、こうした変化は血液が酸毒化した為である。これでは精気は漏れ出すばかりである。疲れるのは当たり前であり、自ら寿命を縮めている。短命間違いなし、である。やがてガンを筆頭とする慢性病を患うであろう。

 短命は血液にも欠陥を持っている。
 血液が酸毒化すると短命になる。脂を好んで食べるものは血液を汚すのだ。
 血液の酸毒化は、異常に性腺
(せいせん)を刺激する為、気ばかりが逸(はや)り、肝心な肉体が言うことを利かないのである。これは安易に、本来の交会を単なるピストン運動として解釈しているためである。この運動は、本来の密教房中術でいう周天呼吸を狂わせる。

 呼吸と動きが乱れて、逆になるだけでなく、心臓の脈は「不整脈」になるからである。この不整脈が疲れる原因であり、同じようなことを毎回繰り返すと、不能状態になっていく
 不整脈は脈搏の調律が乱れて、不規則になったものをいう。この元凶は、心臓を衰弱させているからである。呼吸が乱れるというのは、心臓に無理は負担をかけ、それを狂わせているからである。

 心筋梗塞
(しんきん‐こうそく)なども、呼吸の吐納(とのう)が正しくないために起こる現象である。
 これは冠状動脈の閉塞または急激な血流減少により、心筋に変性ならびに壊死えしを起す疾患だる。冠状動脈硬化による狭窄部に、血栓、塞栓
(そくせん)、攣縮(れんしゅく)などが加わり、閉塞を起すことにより生ずる病変だ。心臓を衰弱させ、生殖器自体に病変を生じさせる。この部位を弱くする。
 その場合、男は前立腺肥大症になり、やがて細胞が病変して前立腺ガンになる。また、女は子宮筋腫を発病し、それが悪化すれば、子宮ガンへと移行する。

 特記すれば、子宮筋腫は子宮壁に発生する腫瘍の一種であるが、その病因は呼吸法の誤りにある。この腫瘍は炎症によって起こるが、炎症発症が平滑筋腫であり、指頭大から、拳
(こぶし)大、あるいは稀(まれ)に悪性のものは子宮ガンへと病変する。恐ろしい病気だ。
 子宮内に発症する子宮ガンは、子宮頸ガン
(主として扁平上皮癌)と子宮体ガン(主として腺癌)がある。子宮頸ガンは子宮内のガンの中で頻度が高い病変だ。その時に出血、帯下(たいげ)などが起こり、進めば疼痛、全身衰弱などを来す。そしてこれを特徴的な症状として、凄い悪臭を発生させることだ。
 この悪臭は、子宮の腐敗を顕わす。得てして多いのは、早い時期からの性交である。十代前半から早熟が災いして陥る「未熟な性」は、腫瘍という炎症を発生させる。炎症は多くの場合、ガンへと病変する。その部位の細胞をガン化する。

 更に、未熟な性に、男の無理で安易で傲慢
(ごうまん)なピストン運動が加われば、早熟の女体内に炎症を発症させる。スポーツ・セックスなどもその恐れがある。未熟な性の男側には、包茎ならびに亀頭の間に溜まる垢様の物質である“恥垢”が存在するので、これが女体内で炎症を起こす病因となる。
 また、女体内にガン発症をさせるのみに留
(とど)まらず、自らも早熟による異常性腺刺激によって、“陰茎ガン”になる要因を作ることだ。自業自得といえよう。包茎に多く見られる現象だ。

 特に、男は男根に物を言わせ、安易なピストン運動を行うと、それだけで陽気を漏らしてしまい、疲労の原因を溜め込んでしまい、徐々に体質が悪くなる。これが“セックス・ストレス”である。このストレスは、一方で「陽気漏れ」を起こしているのである。
 この病因的な疲労は、「陽気漏れ」が原因である。
 陽気漏れが起これば、当然体質は陰気化する。体内に陰気が充満すると、霊的変化は「陰圧」が高まって、憑衣され易い状態となる。この憑衣も、セックス・ストレスの病変を派生させる。
 つまり、女陰から陽気が極端に吸い取られ、「陽気漏れ」を起こしているのである。陽気漏れを起こしている男は病気に罹
(かか)り易い。陰陽のバランスが崩れるからである。霊肉両方から仏罰を受けるのである。
 それは無理で無意味なピストン運動にあり、呼吸の乱れであり、心臓の不整脈であり、これらが相互に絡んで吐納の誤りを招き、これが原因して精気の根源である“陽気漏れ”を起こすのだ。

 陽気漏れを起こした男女は、呼吸が浅くなり、心身に乱れが生じ、気の循環が滞るようになる。気が一部に停滞し、特に頭重を覚えたり、偏頭痛や後頭痛を起こす。顔が赤く腫れ上がり、高血圧症患者のように膨らんだようになるのは、呼吸法に問題があったからであり、その背景には発情がいつでも中途半端に整った状態である、中途半端な性交にある。集中力に欠けた、中途半端は恐ろしい。これでは陰陽の気の交換が、安易に狂わすだけの病変発症を招き、やがて霊肉共に衰弱が始まる。

 したがって呼吸は深く、深呼吸であるのが正しく、「吐く→止める→吸う→止める」の真呼吸
(しん‐こきゅう)が正しいのである。
 周天法は真呼吸に始まり、臍下
(せいかい)三寸の下丹田よりで、そこで陽気を発生させて、会陰(えいん)に居たり、尾閭(びろう)を経由して命門(めいもん)に至る。命門に至った陽気は脊柱(せきちゅう)を上り、唖門(あもん)に入り、「玉枕(ぎょくちん)温養」を行う。
 その後、陽気は泥丸
(でいがん)に居たり、印堂(いんどう)を経由して人中(じんちゅう)、天突(てんとつ)、そして胸許(むなもと)の「中丹田」に届き、再び下丹田へと戻って来る。

 女性の場合は、これを反対の経路を辿って、下丹田へと一巡する。そして男女は、二根交会により、お互いが周天法を行って、霊的ホルモンを体内に取り込む、ホルモン療法を行うのである。
 男は、心の中で「吽
(ん)」を念じつつ、突き込れ、女性は腰を浮かせて「阿(あ)」の息を洩らすのは、自然の動作の中に、大自然のエネルギーを発生させていることになる。
 人間が人間であることを自覚するのは、セックスに於て、である。
 したがって、セックスは消して猟奇
(りょうき)の対象であったり、賤(いや)しむべき、淫(みだ)らな行いではない。それどころか、セックスこそ、人間生活の聖なる根本である。

 男の願望には、常にいい女を抱きたい、世の中をいい女を吾
(わ)がものにしたい、独占したいという男の夢がある。そしてこうしたものを膨らませ、これに応じる女性本能が、人類発展の根本をうかがって来たのである。この事実は否定できない。
 しかし、精を漏らした結果から生まれる人間に大した者はいない。精を漏らす大きな要因は、性交中あるいは性交前に大小便を排泄することだ。大小便を排泄して性交に及ぶと、精が漏れるために出来た子は“並み”か、“並み以下”の子供である。要するに“凡夫並み”か、“それ以下”の暗愚な子供が生まれる。

 俚諺
(りげん)に“親の因果が子に報い……”というのがある。
 親のした悪業
(あくぎょう)の結果が、子に報いて禍(わざわ)いをすることをいう。これは行いであるから、性行為もそれに入る。
 幼児期、子供の中で、口の閉まりにだらしのない子がいる。いつも口が開いたままになっているのである。食事をする時も、口が開いた状態で物を噛む子供がいる。こうした子供は既に、口呼吸をしているのである。口が締まらないから、鼻で呼吸することができない。口に頼って呼吸することになる。そして、口にばかり頼っているので、鼻から呼吸する方法を忘れて、鼻詰り現象を起こす。
 鼻詰りは、「鼻つんぼ」の要因をなし、これが因縁として継続される。たいてい、こうした子供は頭脳明晰でない。多くが暗愚で愚鈍である。のろまな一面を持っている。また、「鼻つんぼ」は幼児期に甘やかされるため、“前頭葉未発達”となる。もう、これだけで人生マラソンは最初から躓
(つまず)いているのだ。愚者はこうして出現するのである。

 こうした子供が産まれる根本には、父親となるべき男が、周天呼吸を識
(し)らなかったためだ。
 また、性交に及ぶ時間帯を間違ったためだ。昼間の性交でそれで妊娠し、生まれた子供はあまり頭が良くない。暗愚であり、少年期に入ると、人相的に痴呆
(ちほう)が現れる。
 更に「大凶時
(おおまか‐どき)の禁」を犯せば、出来た子は精薄児が多い。太陽が天中にある、こうした時間帯に性交に及ぶべきでない。また、風呂場などの性交も禁物である。大凶時の禁を識(し)らない最近の男女は、安易に風呂場やプールなどで性交に及ぶ者がいる。こうした場所で性交に及び、出来た子は暗愚であるばかりでなく、非行に趨(はし)ったり犯罪者になる確率が高い。

 ちなみに、この場合の“非行”や“犯罪者”というのは、「世間を騒がせるような」という意味で、単に教化によって矯正
(きょうせい)できるという程度のものを指すのではない。過去世(かこ‐ぜ)との習気(じっけ)が重なれば、最悪となる。異常性欲は過去世の習気と無縁でない。所謂(いわゆる)色情因縁である。色情に駆られて、常態を失した挙動をなすことだ。これを色情狂ともいう。

 異常性欲者は、性癖を司る過去世からの習気を引きずっている。
 この異常者は、通常状態でない性欲の持ち主をいう。心理学では量的異常と質的異常
(性的倒錯)とに分ける。前者は著しい亢進または低下、後者は性対象の倒錯と性目標の倒錯とを内容とする。なお、正常か異常かは時代・社会・文化によって相異が大きく、明確な区分けは難しい。原因は、酸毒化に冒されていることだ。間接的には肉食による血液の汚染でもある。そして、身体に歪(ゆが)みが生じる。骨格も歪む。呼吸が浅いためだ。

 胸式呼吸だけしかしない男女からは、要するに「頚椎
(けいつい)の歪んだ」子供が生まれるということだ。
 犯罪学からいうと、頸
(くび)が曲がっている人間の約半数は、これまでに何らかの犯罪に関わってきたというデータが出ている。頸の曲がりは、人間に良からぬことを考えさせる元凶を作る。
 したがって頸の曲がった人間は、鼻持ちならないだけではなく、信用ができない人間なのだ。
 こうした人間は、「生まれながらに」という宿命を背負っているので、これは教化によって改悛
(かいしゅん)させるということが極めて不可能に近いのである。あたかも“馬の耳に念仏”の如し、である。説き聞かせても、無駄なのだ。

 世の犯罪者の多くは、「社会に貢献して金持ちになる」という発想がない。
 金持ちになるためには、人から強奪したり搾取により金銭を得るという短絡的なことを考えてしまう。短絡思考は、酸毒化の元凶であり、血が、血液が酸毒化されれば、その思考も短絡的になる。多くは食物に影響しているが、大凶時に性交に及びその結果生まれた子供は、“生まれながら”という宿命を背負うため、これを回避し、あるいは強化することが非常に困難なのである。

 大凶時は「魔の時間帯」である。
 魔の時間帯に性交に及べば、“かくの如し”という子供が生まれてくる。慎むべきである。一年365日発情するばかりでなく、一日24時間発情しているのも問題なのである。
 「秘め事」は夜である。
 だいたい夜9時から早朝の5時までがその時間帯であり、これ以前に行うのは良くない。
 もともと秘め事は「夜の宗教」であった。夜の宗教儀式において、そこには「修法」という慎み深い礼儀があった。この礼儀を無視して、飽くなき無益な性行為に及ぶと、結果はろくなものでない。絶望するような未来が待ち構えている。それはあたかも「雪の泥濘
(ぬかるみ)を歩くが如し」である。

 世の中には、学者の家や司法官の家に、ときどき暗愚な子供や精薄児が生まれるが、それは大凶時を無視して自分勝手な快楽遊戯を展開したためである。要するに、セックス・ストレスもこうしたところに蔓延
(はびこ)り、血統を悪くしているのである。



●第二の我

 性は、人間の原点である。
 性欲により、生命が誕生した。生存本能の、子孫を後の世に残して行く試みこそ、人間の永遠なる本能であり得た。密教房中術は、これを主眼として、この“聖なる秘伝”をテーマに、秘密裡
(ひみつ‐り)に今日まで脈々と伝えられrたのである。
 そして、この聖なるテーマこそ、いつも新鮮で、不滅の形で、後世まで受け継がれて行かなければならないのである。

 まず、その為には、密教房中術で説かれている“交会の大事”を学ぶべきであろう。
 交会という男女の交わりの根源には、生理学的に検
(み)ると、人間の霊肉が持つ死生(しじょう)と大きな関係がある。
 例えば、「死」という現象だが、人間は死んでから、別の死が始まるというばかりではない。死に就く前の肉体には、人体を構成する細胞があり、細胞には「体細胞」と「生殖細胞」の二種類がある。

 体細胞は、主に自分の生存のために活動して老衰を招き、やがて死滅していく運命にある。
 一方、生殖細胞は「受精作用」によって、血統の中で“第二の我
(が)”を造り出す。その第二の我から、更に“第三の我”を生じさせ、永遠に生き延びていく因縁を作り出していくのである。
 人間には生きているうちから、新しい「生」を生じさせる“次ぎなるもの”が始まっているのである。
 これは精神においても同じである。
 私たりが生きている間に喋ったり、語ったり、書いたり、行ったりする行為は、連鎖的に波紋のように次々に広がっていく。範囲が拡散膨張の方に向かっていく。この場合に、善いものも悪いものも、同時にである。善悪は綯
(な)い交(ま)ぜになり、清濁(せいだく)併せ呑むという縮図を描いて拡散し、膨張するのである。
 この拡散膨張は他人の人格形成にも関与する。語ったことでも、文章で書いたものでも、見知らぬ人間にまで伝達され、次々に波紋を起こしていく。波紋は他人への影響に成り易く、これに関与した他人は、言行が広ければ影響も広く、言行が深ければその影響も深いところまで到達する。

 例えば、シャーマン
(shaman)である。
 あるいは日本でいえば、巫覡
(ふげき)であり、巫女(みこ)である。
 シャーマンは自らをトランス状態
(忘我・恍惚)に導き、神、精霊、死者の霊などと直接に交渉し、その力を借りて、更には託宣、予言、治病などを行う宗教的職能者をいう。
 また巫覡は、神と人との感応を媒介する者であり、神に仕えて、人の吉凶を予言する者で、女を巫、男を覡という。
 更に巫女は、神に仕えて神楽ならびに祈祷
(きとう)を行い、または神意を窺(うかが)って神託(しんたく)を告げる女性であり、未婚の少女がこれにあたる。

 人間は肉体と精神のみで構築されている生き物ではない。その両方を繋ぐ霊的分野が存在する。
 かつてのシャーマニズムは霊的分野に関与し、シャーマンを媒介とした霊的存在との交渉を中心とする宗教様式だった。
 この背景には、独特の世界観と超自然観が存在し、社会的背景を反映し、特に東洋では中国、朝鮮、日本では巫術、巫俗等の名で知られる職能人が誕生した。
 シャーマン思想の根底には、人間の霊魂というものを横たえている。霊魂は死亡後、死体を離れるとだんだん影が薄くなるという特性がある。その薄くなった影が幽霊化して彷徨
(さまよ)い歩くのだという。

高地から遠望する、中国西湖の蓮の海。

 仙道などでは、高い山に頂上にある霊魂の国に安息する修行を行う。だから高地に居る人を「仙人」と呼ぶ。これに対して、低地にいる人を「俗人」という。俗人とは「谷に落ちる人」のことだ。
 仙道では、高地の生活を続けることを行法にしている。高いところで修法する。

 このことは霊魂不滅を実証するとともに、また霊魂分散という考え方が貫かれている。
 高地にいる仙人は、自身を宇宙の一員と考え、既に、来世に心を向けているともいえる。それはまた、現世が“仮の姿”であり、来世に自分の本体はあると考える考え方である。そして、それは霊魂の不滅を蔑
(ないがし)ろにしていない。安易に唯物論に固執するような、思想の染まっていないのだ。
 霊肉共にある、高地での安らぎを説いている。
 しかし、こうした見方も、実は“死を遠くに視る遠望観”に過ぎない。生死の別を、ただ遠いところに置いて眺めている、のんびりとした見方である。実際の人の生き死には、そうしたものでない。生と死が遠くにあって、それが対局するものでない。
 むしろ「死」は、“生の中にある”といっていいほど、表裏一体のものであり、懸け離れた場所にあるものではない。その上、「生」は死でもなく、また「死」は生でもない。この区別が認識し難い。

 私たち人間が生きているという現象は、「生命の火」の燃焼に過ぎない。一言でいえば、生命の仕業
(しわざ)である。生命の火の燃える結果である。生体と命体が合わさっての仕業である。
 この火の燃えている間は、人間は生命活動をすることができる。
 「生」の状態が維持できている間は、命の火が燃え続ける。この間に、行為があり、行動がある。そして言動がある。

 ところが、原因が難病であれ、あるいは老衰であれ、間近
(まぢか)に死が近付いてくると、生命の火は弱くなり、それはあたかも機械が静止するような状態になりはじめる。そして、臨終の刹那(せつな)が遣って来て、ひとたび生命の火が消えてしまうと、肉体の全ての器官はこれまでの活動を一切止めてしまう。今まで生きていた生体は立ち所に、「物体」へと移行するのである。ただ、“物”になるのである。
 死の一秒前まで、死の刹那の前まで、確かに生きていた肉体は、その刹那後、“物”になってしまうのである。もう、次の瞬間には死んでいるのである。

 呼吸は停止し、心臓の鼓動は聞こえなくなり、脈は絶え、暖かかった肉体は急速に冷えて、眼の瞳孔
(どうこう)は広がって、もう何も視ることはなく、口は固く閉ざされ、何も語ろうとはしなくなる。
 この生と死は、天地の隔たりを持つのである。これは生命力が、肉体を離れた後の現象である。

 人間は、死と背中合わせに生きている。
 この自覚があるからこそ、男女二根交会は行われる。次なる、次世代の生命を宿そうとする。これは他の動植物も同じであろう。人間に限らず、生物には、こうした意識が働くのである。
 男女二根交会は、いわば生命の分散活動である。あるいが霊魂の分散活動である。分散することにより、血統を後世に遺
(のこ)そうとする、生命エネルギーの結果から起こるのだ。このエネルギーをもって、男女は二根交会により、自分の生命体の分散を図ろうとするのである。

 男根から放たれた精子は、女根
(膣)に辿り着き、子宮の収まって小さな生命の塊(かたまり)を形成する。これが宇宙の霊(スピリット)ととの融合である。これにより、生命伝達の永遠性を獲得する。

 人の死は、生命活動の裏側に潜んでいる。
 この裏側には深淵なる奥深い森の中で、あたかも澄明な水を湛
(たた)えるが如く、静かに光っている湖水のような、死の受容の境地と裏返しなのである。こうした湖面に辿り着くには、幾つかの山あり、谷ありの、悪路を越えなければ此処に到達することは出来ない。難所を越えて行くには、心理的な山や谷の嶮(けわ)しさが、何度も行く手を阻(はば)むが、平常の修養と死生観が物を言う難易の差は、普段からの、また修行の差でもあろう。
 『理趣経』では、愛と念を説き、そこには「清らかなものが存在する」と定義している。その清らかなものが、澄明な水を湛
(たた)える湖面なのだ。

想念には、常に透明な水を湛える湖面のイメージが必要である。

 それはミクロ的には、一匹の精子が男根陰嚢から放たれ、女根の子宮に辿り着くまでのプロセスに酷似している。ミクロ的には、精子が卵子に辿り着くための酷似するプロセスである。
 人間の死の刹那
(せつな)は、一説によれば、「射精の刹那」に酷似するという。脳裏に、一瞬“チカッと光る”あの刹那に酷似するという。それは死の刹那に、よく似ている。

 死の受容は、あるいは、あの射精の刹那に、臨終の一瞬があるのかも知れない。
 それは青酸カリなどで、自殺を図ったり、あるいは首つり自殺をして、死ぬ刹那に、男は男根を勃起させ、かつ射精の跡を残すという。これは次世代の生命を遺さんがための“最後の足掻き”ではなかったのか。
 人間は生まれ落ちる時機
(とき)も一人であれば、死に逝(ゆ)く時機も一人である。そうした孤独の中に、自分の存在を後世に伝えようとするものなのである。これこそ、仏道でいう、無常観ではなかったか。一切の物は生滅・変化して、常住でないことではなかったか。


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