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今わの際の死に様 1


夕暮れの哀愁に死への想念が永遠につながっているように思う。夕日を見ていると、そこには一種独特の郷愁のようなものを感じる。それは人間が、生・老・病・死の四期を辿る人生の路程に、現世という苦界の苦渋を引き摺っているためではないだろうか。
 夕日を見ていると心が落ち着き、心が和
(なご)み、何か“ふるさと”への郷愁のようなものを感じるのは、夕日が遥(はる)か彼方の死の世界を物語っている「今わの際」を思い起こさせるためではなかろうか。
 人に死ぬ瞬間を臨終と言う。臨終に際しては喉の渇きを覚え、「末期
(まつご)の水」を欲しがると言う。人は死ぬとき、喉が渇くのだ。そして臨終を見守る遺族は、今まさに死に逝かんとする人の口に、水を含ませる。これが「死に水」だ。
 美しい夕焼け。そして清らかな川のイメージは、何か人々に懐かしい郷愁のふるさとを感じさせずにはおかない。




●未練を引き摺る現世

 大部分の人は、死ぬ直前または死と同時に意識がなくなります。しかし、肉体と霊体が分離すると、再び意識を取り戻します。この時に、生前に死後の世界の存在を否定したり、人間は死ねばそれで全て終わりだと考える人は、死後の世界の事を考えませんから、自分が死んだと思わずに、現世に止まる行動に出ます。

 ところが、こうした状況が、段々と把握
(はあく)できるようになると、周囲の樣子に違いに気付き始めます。したがって、《死後の世界》の勉強をしなかった人は、状況の変化に戸惑いを感じます。なぜ、まだ生きているのだろうと……。
 死後の世界を研究した人と、そうでない人とは、両者を比べた場合、その分だけ魂の進化の進歩は遅くなります。この遅さが、また憑衣現象や憑霊現象を起こします。人間は、因縁に翻弄される生き物であることを忘れてはなりません。それはあたかも、運命の陰陽に支配されるように、です。

 人間は生・老・病・死の四期を辿ります。死の一歩手前にあるのが、「病」です。病には様々なものがあります。しかし、人間の生へのエネルギーを弱め、死へのエネルギーを強める晩年期の人間の実態には、「古巣への帰巣想念」があり、人間は此処に向かって人生を経験しているのかも知れません。

 そして、現代の病気は、肉体的な現象として現れない内面の心の病気が様々なものに関わり、人間の四期のサイクルを早めようとしている現実があります。その最たるものが現代人特有のストレスでしょう。多くは、畸形しつつある心にその元凶を見ることができます。
 精神分裂病を始めとする躁鬱
(そううつ)病や神経症は、一般に、軽いものは自律神経失調症と言われるもので、自律神経系の失調による症状を指します。これは神経症の身体的表現と考えられ、倦怠(けんたい)・のぼせ・冷え性・眩暈(めまい)・頭痛・肩凝り・動悸(どうき)・息切れ・食思不振・腹痛・便秘・腰痛・下痢・多汗・無汗・不安・抑鬱(よくうつ)など自覚的愁訴は、多彩で、しばしば強く現れますが、器質的異常を欠いて、医学的には不定愁訴症候群と言います。

 要するに、こうした状況下に憑衣・憑霊される側と、憑衣・憑霊する側の相関関係が生まれるのです。そして一度こうした現象が起これば、精神科の薬だけでは治る事は難しく、常に毎日飲み続けて、副作用に悩まされながら生きる現実が付き纏
(まと)います。薬付けの人生です。

 また憑衣・憑霊した方は憑衣・憑霊した方で、この事に気付かず、肉体を持たない霊体の間まで、自らからも苦しむ現象に憑衣した方は、「自分が悪かった」と悟るまで続きます。しかし多くの場合は、憑衣・憑霊したまま、その人の死ぬまで付き纏
(まと)って、捕り殺してしまう場合が少なくありません。自殺者の行動はこうした憑衣・憑霊による病因が起因しています。

 人の死は、何も肉体的な外傷だけではなく、内側方も、また魂側からも蝕んでいるのです。この現実を見れば、人間は紛れもなく生・老・病・死の四期の路程を辿り、死後の世界へ旅立つことが分かります。そして「死」と「病」は密接な関係を持ち、それだけに「現代人が安易に考えている、死ねばそれでおしまい」とする考え方は成り立たなくなってきています。
 その証拠に、人間は死ねば、なぜ埋葬するのかという単純な問題に突き当たります。人の死を悼む行為とは、単に世襲的な儀式というばかりでなく、死者が生きるものへ何らかのメッセージを伝達しているととらえた方が賢明だと思われます。そうでなければ、生きている人間が、現代医学ではまだ解決できない、不定愁訴症候群という精神を害するこの病気の起因に辿り着けないからです。そこには死後の世界からの、何らかのメッセージが伝わっていると考えられます。

 さて、死後の世界を知らなかった為の、悲劇と言う他ありません。
 現代は、昔に比べて、食べ物の欧米化が進み、生活様式も欧米流の環境が好まれる為、悪い想念ばかりが充満していて、現実問題として、魂の進化を疎外
(そがい)する傾向にあります。食の狂いも著しいものがあります。現代ほど、食に対しての慎みを忘れた時代は、他においてありません。人間の性(さが)と同じくする、牛や豚などのほ乳動物を食べ尽くし、その一方で、クジラやイルカは知能が高いので、これを食べてはならないという訝(おか)しな論理が現代社会に罷(まか)り通っています。

 そのくせに狂ったように、日本人は食への慎みを忘れ、「一日30種類以上の、何でも好き嫌いをせずに満遍なく食べよう」の、総花主義に煽動されています。あらゆる食品を食い潰すことばかりの愚行を働いています。
 現代人の体臭に、「霊臭」が混じっているのは、人間の性と同じくする「肉
(じし)食った報い」の現れと思われます。

 特に現代人が、「うんこ臭い匂い」を漂わせているのは、動蛋白に含有される「硫化水素」が起因して、これが現代人の老若男女を問わず、霊臭を漂わせる元凶を作り出しているのです。
 昨今の現代栄養学者たちは、「肉はスタミナの元」という妄想を現代人たちに植え付けました。しかし、人間は本来菜食型動物であるため、他の肉食獣のように動蛋白を還元する酵素を持ちません。したがって食肉が一旦体内に取り込まれると、これが還元できずに腸内に停滞して、異常発酵を起こしてしまうのです。この異常発酵こそ、現代人特有の「うんこ臭い匂い」であり、これこそが「霊臭」の元凶なのです。

 動蛋白には、便秘を引き起こしたり、腸内で腐敗する尿酸、リン酸、硝酸、塩酸、アンモニア、硫化水素などが含まれます。これらの物質は人体にとって有害であり、一度体内に取り込めば、有害な強酸類を発生させます。この発生により、血液はアシドーシスの酸毒症となり、その酸毒類を中和させるために、体内のアルカリ性物質であるミネラルなどが無駄に消費されてしまうのです。

 この状態になると、心身共にバテ易くなります。その結果、体内と同程度の状態の、酸毒思考に陥ります。腸内には霊臭を漂わせている酸毒物質で汚染されているのですから、これらが充満して、腸内から発せられる放屁も、異様に臭い匂いを発します。これは肛門からばかり出るのではなく、口臭からも、毛穴からも、この「うんこ臭い匂い」が発せられます。これが霊臭なのです。
 霊能者が、「臭い!」と敏感に感じるのは、この「うんこ臭い匂い」が、人生をかき回し、運勢を減退させる足枷
(あしかせ)になっているからです。

 その証拠に、肉常食者は短命であり、性的興奮が旺盛であり、いつも発情状態になっていて、性腺を刺激される状態が長く続いていることが、精の浪費を起こさせ、心身共に早老を早めているといえます。疲れやすいのはこのためであり、疲れた思考から出て来るのもの、ストレスの元凶になるものばかりです。こうした考えが齎
(もたら)す思考は、極めて単純であり、皮相的なものの見方しかできなくなるようなものばかりです。

 選択肢も単純で、右か左かの、その程度の選択肢しかできません。安直な思考に汚染され、単純に割りきれるものに魅力を感じてしまうのです。こうした酸毒思考が単純さを選択させ、軽挙妄動に走らせます。それの最たるものが「悪い想念」です。
 そして現代は
《悪い想念》ばかりが、先行されている為、それに応じた悪い状況が現れます。現代社会こそ、本来の人間の究極の目的(魂の進化)を見失っている時代と言えましょう。そしてこの想念から起こる現代人の「死に様」は、当然、いいものばかりではありません。むしろ、悪想念に汚染された「阿鼻叫喚の地獄」を見るような死に様ではないでしょうか。



●人の死に様には、どういうものがあるのだろう

 人間にとって死が訪れる臨終の瞬間には、大きく分けて二つあります。
 一つは自然死で、もう一つは不自然死です。この不自然死は、一般には事故死と言われ、自ら求めて死に至る自殺や、他殺、交通事故死、戦死、災害死、病死等がこれに入ります。

 さて、事故死には次のものがあります。
 末期癌等の病気による抗癌剤投与による死亡、殺人による死亡
(絞殺死、刺殺死、毒殺死、撲殺死、射殺死、斬殺死、落下死、水溺死、感電死)、交通事故による死亡(水難船舶・自動車・飛行機・列車などの交通事故死)、生き埋め事故による死亡、天災による死亡、放射線事故による死亡、過労による過労死や突然死、その他、自殺(首吊り、入水、飛び降り、飛び込み、睡眠薬、ガスなど)、水死(溺死)、落盤事故死、火事等での焼死、野山での遭難死、船舶転覆後の漂流死、機械等に挟まれての圧死、特攻隊による突撃死、暗殺による狙撃死、崖淵や岸壁からの転落死、爆死、凍死、窒息死、輪姦(りんかん)ならびに強姦死、行き倒れによる死亡、餓死、感電死、落雷死、生体実験死、薬害死、服毒死(河豚(ふぐ)毒やトリカブトなどの野草毒の摂取)、刑死(銃殺刑・絞首刑・斬首刑など)、拷問(ごうもん)による死亡、冤罪(えんざい)による死刑、獄中死、抑留死(強制収容所での死)、堕胎死(中絶手術、水子発生)等が上げられます。
 何
(いず)れも、阿鼻叫喚の地獄を連想する恐ろしいものばかりです。

 これらの事故死による、こうした死に方をした人は、生に対して執着し、死に対して恐怖を抱いて死んだ人です。
 したがって現世への執着の余り、生への未練が強く、また、死ぬ瞬間のショックの大きさから、極度に波動が乱れ、魂が落ち着く事のできない苦悩を味わっています。
 霊魂は肉体を持たず、物質的な存在でないというのは、この為です。

脳波の波形とその周波数領域。脳波には、脳が瞑想や落ち着いた意識の状態の時に現れるα波と平壌意識のβ波、眠りに近い状態の時のθ波、深い眠りの時のδ波の四種類がある。

 だから強い乱れた波動(θ波)だけが歪(ひず)みとなって現世に残こります。これが「唸(ねん)」と言われるものです。
 事故死は、肉体の波動の強烈な荒々しい「β波」と、強烈な霊体波動の「θ波」が急激な分離変化によって生じ、また、自然死は穏やかな霊体波動
(θ波)と穏やかな肉体波動(β波)の緩やかな変化で、優しい柔らかな脳波(α波)によって、徐々に死に向かう形をとるものです。

 つまり事故死は、強烈な肉体波動と、強烈な霊体波動が霊体波動に移行して、肉体的な苦しみを総て霊体波動が担ってしまう事であり、そこには強烈な歪んだ「θ波」が空中に浮遊します。

 また自然死は、「β波」が心地よい安らぎの「α波」に移行して、空中に唸
(ねん)を残さないという最期を向かえるのです。これを「眠るような穏やかな死」と言います。

 換言すれば、結果と原因の逆説的な《予定説》の考え方からいくと、強烈な二者の分離が行われますから、その死に方は事故死。また穏やかな遊離が行われますから、その死に方は自然死となるわけです。これこそ、結果が先で、原因が後に来る
《予定説》の現実があると言えましょう。

 一般に、因果応報を信じる世界では、仏教の影響もあって、過去における善悪の業
(ごう)に応じて現在における幸不幸の果報を生じ、現在の業に応じて未来の果報を生ずると信じられていますが、実際はそうでないことが分かります。原因があり、結果が生まれるというのが因果応報の、原因と結果を数直線で捉えた思考です。
 ところが、予定説では、このように考えません。いきなり最初に“結果”が出てきます。最初に結果があって、それに相応しい原因が派生するというのです。

 善いことをしたから、善い結果が生まれるのではなく、善い結果が出るために、原因に向かって、そのように善い結果を派生させる、「善いことをさせる原因」があるというのです。この結果に導くために、善い原因に向かって原因の根本にまで遡らせ、善いことをさせる結果に、その人をそのようにさせるというのです。これは、この世が「現世ご利益でないこと」を説明しているのです。
 無から有を生むのは心象化現象の賜物
(たまもの)であり、心に念じたことが想念となって現世に具現されると考えるのです。強く、一心にそう念じて行動を起こせば、この現象界では念じた世界が具現されます。善い想念も、悪い想念も、この心象化現象の賜物です。

 人の運命は、他力と自力の両方が交互に巻き付いていて、その時の盛運期と衰運期の周期によって、結果を残すわけですが、予定されていた結末から考えると、人に死は、人生を形作る運命以上に、非常な苛酷
(かこく)なものと言えます。
 波動が急激に変化するから事故死に見舞われ、また、波動が緩やかに変化するから自然死となるという、この宇宙の玄理
(げんり)は、その根本に食餌法(しょくじ‐ほう)が大きく関与していることが分かります。
 それは一体何故でなのでしょうか。

 霊的食養道で言う「肉
(じし)喰った報い」は、人間の性(さが)に近い物を「食べる」ということで、哺乳動物を食べたと言う、食べられた側の恨みが絡んで来ます。哺乳動物は人間の脳に近い辺縁系の哺乳類脳を有しています。

 この哺乳類脳には人間と同じ、愛情があり、他と触れ合う交流の意識が存在します。こうした、極めて人間の意識に近い動物を食べる事は、その恨みから、事故死を招く結果を作り出してしまいます。食餌法の正しくする為には、人間の性より遠い、穀物だけが人間に許された唯一つの食べ物なのです。それに附随する副食
(御数/おかずとしては、近海で採れる小魚等の魚介類やワカメ等の海産物だけです。
 これを無視し、動蛋白を摂取しますと、死にざまは断然、事故死が多くなります。

食と霊層界の波調の関係。人間の性に近い哺乳動物ほど、幽界や地獄界に沈む唸があり、逆に遠い穀物ほど、神霊界に近いものがある。

 そもそも、人に死は予(あらかじ)め決められているからです。「死ぬ」と言う事は、生まれた時から予定されたものなのです。
 但し、こうした「予め定められた」とする《予定説》ですら、実は非実在界の虚像に過ぎないのです。つまり虚想をして、《予定説》と唱えたのです。総ては想念の為
(な)せる技だったのです。
 これこそ唯一の「想念から起こる予定説」であり、然
(しか)も、想念を用いれば、最終的にはこれが決定論となり、また目的論にまでなってしまうのです。創造主が人知を超えて、こう決めたと断言出来るものなのです。

 一見この考え方は、不合理なように見えますが、人の「死に方」には、個人各々に現われるのですから、ある人は選ばれて自然死となり、ある人は選ばれずに事故死となる、という苛酷な《予定説》が、想念に大きく関わっているのです。
 そして、自然死と事故死の比率は、圧倒的に事故死の方が多いのです。

 人の死にざまは、「神が予
(あらかじ)め計画を予定する」非実在界の想念であり、個人に及ぼす想念はまぎれもなく《予定説》であり、私たちは間違いなく、この決定論の中で自らの想念を描きつつ、死出の旅立ちをするのです。

 さて、死ぬ瞬間を考えた場合、両者は波動変化の上においては同じですが、それが《肉体の波動》であるか、《霊体の波動》であるかという事が問題になります。
 ここに肉体主体で生きた体主霊従者と、肉体の酷使を止めて霊的波調を高めた霊主体従者との間には大きな差が生じるのは当然の事です。

 死亡する時の「死」という刹那
せつな/あまりにも短い一瞬で、仏教的な時間を指す)の瞬間で感じる次元は、物質界の尺度で計れば、時間的には同じものですが、そこから解放される者と、解放されない事故死者と、自然死の大きな違いは、自然死が、肉体と霊体の二つの波動が遊離する時、徐々に行われるのに対し、事故死は一気に、急激に二者の分離が行われますから、そこに強烈な痛みと、苦しみと、恐怖が伴うのです。

 例えば、飛行機事故で、遥か上空の空中に投げ出され、そこから落下して、地面に叩き付けられるという死にざまを経験しなければならなくなった時、この死はまさに断末魔のそれであり、恐怖そのものと言わねばなりません。これは畳の上で、家族に看
(み)取られながら、静かに死んで行くのとは天地の隔たりがあります。

 先祖の苦しみとは、こうした事故死による非業
(ひごう)な死に方をした人が、苦しんでいる波動の唸ねん/音声から出る言霊の一種あるいは強い想念。非業の死と遂げた人は、苦しい、悔しい、惜しい、辛い、痛い、無念などが唸波となる)が、憤懣(ふんまん)やる方ない激しい波動(θ波であるが、実際にはβ波とθ波の合体で、肉体を持たない為にθ波がβ波を代表する形となる)となって空間に漂い、それが霊的エネルギーとなって浮遊し、それを身内に呼びかけるというのが、精神分裂病患者の実態であり、分裂病患者が共振・共鳴しているという実情が、自我が潰れた病因となっているのです。
 つまり恐怖のβ波を、θ波が代行していると言う事になります。これが「心の連続性」であり、唸は継続されると言う事を顕
(あら)わしています。

 霊体並びに肉体の各々の波動が、急激に分離する時は「事故死」、緩やかに遊離する時は「自然死」が、予め予定され、その目的に従って死に方が決まったと考えられます。人間の死に方は、これに集約されていると言っても過言ではありません。これは決定論であり、一旦想念が潜在意識に焼き付いてしまえば覆
(くつが)えす事は出来ません。
 それは肉体から抜け出した死者の霊体が、二度と同じ肉体をもって、この世に生き返らないくらいの確率で明確な事実となります。

 人間は、生存中、自分の努力でその活計
(くらし)や、環境や、貧富の差はある程度変える事が出来ます。しかし死に方を変える事は出来ず、これは予め決定されたものであると言えましょう。
 またこれは「救われる者」と「そうでない者」の差であり、死に方は予定説の範疇
(はんちゅう)にあるものなのです。つまり決定されたものは、この時点で覆(くつがえ)す事が出来ないのです。ここまで来たら、何人たりとも宇宙の掟(おきて)に甘んじるしかないのです。



●闇の中から来て、闇の中に帰る

 人間の生涯を見てみますと、誕生という「生」ではじまり、人生を経験して、天寿てんじゅ/天から授けられた寿命で、「定命」とも)という「死」で終わります。

 この現世での入口が「生門
(しょうもん)」であり、出口が「死門(しもん)」となります。本来こうした「門」は、肉眼で可視的に確認出来ませんが、しかし誰もがこの入口から現世に生まれ出て、この出口から去るという、この二つの門を通り抜けて行きます。

何びとも「生門」から生まれ出て、やがては「死門」へと帰って行く。そして生と死は、始めなき始めから、終わりなき終わりまで、永遠に連続している。これが魂の連続性である。

 人間は、つまり仏道で言う、生門を通って、覚醒(かくせい)時の実相界(現世の非実在界)に生まれ出(い)でて、一生を送り、死ぬ時に死門を潜(くぐ)って胎蔵界(たいぞう‐かい)に行くという仕組の中で存在しているのです。此処に「生命の循環」があります。

 さて、生門と死門と言う門を、人間は通過して行くわけですが、この二つの門以外にも、人の人生は様々な門を潜り抜けます。「門を潜り抜ける」と言うのが、人間の生涯の基本形であり、人間は「門」を潜り抜けるという事が、人生の課題となっているとも言えます。
 そして、この門の通過の仕方を誤れば、闇に迷い、苦悶
(くもん)を繰り返す事になります。ちょっとしたしくじりや、不摂生や気の弛みで、訳の分からない闇の中に閉じ込められます。この、身動き出来ないほどの幽閉は、確かに苦悶です。

 この苦悶の最たるものが「病気」ではないでしょうか。
 誰もがこの世に、人として生を享
(う)け、死に向かって進んでいるというのが人間の宿命ですが、その生涯の生きる姿として、「仕事をする」という労働が課せられます。しかし、仕事をするという行為は、単に気忙しく動き回るという事だけが、本来の仕事の意味ではありません。

 仕事をするにはリズムがあり、このリズムを無視するわけにはいきません。走り続けるだけでは息切れがしてしまい、結果的に見ると、徒労と多忙で終わる場合が少なくありません。更に、無理をすれば、心臓マヒや心筋梗塞
(しんきんこうそく)等の過労死で無慙(むざん)な死に方を余儀なくされます。

 人間に課せられた不条理は、生まれて来る時代を選ぶことができないばかりでなく、死ぬ、最期の選択も、実は自分で選べない云うことなのです。
 人間と類人猿の違いは、生まれた以上、いつかは「必ず死ぬ」と言う自覚があるか否かです。多くの哺乳動物は、自らが死に向かって生きているという自覚がありません。ところが人間は、自らの死をを自覚して生きています。つまり、「人生を体験している」という自覚を持って居る事です。そして、人生を体験しつつ、最期は死に向かうと云うことを自覚しているのです。

 人生を経験し、体験していると言う自覚を持つのは、人間だけです。そこで人生を謳歌するにはどうしたらよいか、様々に模索するのです。したがって、前向きに前進する為にも、適度な遊びと、休養が必要であり、これは節目節目のリズムとなることに気付いたわけです。

 この節目のリズムを洞察しますと、この中には周期が存在し、盛運期が約4年、衰運期が約5年という周期の繰り返しが起こっています。そして約九年を一サイクルとして、生・老・病・死の四期のうちの、生と老を司ります。

九年一サイクルの盛運期と衰運期。人間の運勢は盛運期5年と衰運期4年の交互のサイクルで入れ代わっている。しかし盛運期の4年と言う期間は実際にはこれより更に短く、ほんの数カ月と言うのが正しく、素人ではその頂点を見極める事は非常に難しい。素人レベルの九星気学が適中しないのは此処に原因がある。

 この四期の思想は、農耕民族の「タネ撒(ま)き」と「収穫」から生まれています。
 収穫を得るには、まずタネを撒かなければなりません。
 
《9年1サイクルの法則》から言えば、衰運期とは収穫の望めない時期であり、この衰運期に、地道に畑を耕し、タネを撒き、発芽期から害虫や雑草を取り除いたり、水を遣(や)り、肥料を遣り、とにかく自然の猛威(もうい)を防ぎ、雨の日も風の日も、懸命に世話をし、それは収穫が期待できる露払い的な作業となります。

 これが「苦あれば楽あり」と例えであり、最初に「苦」というタネ撒きの、地道な時期があり、これを耐え忍んで努力をすると、収穫期には実ある刈り入れが出来るという結果を招きます。これを「因果応報」とも言います。

 人間の四期を、季節の四季に例えますと、九年ごとに繰り返す一サイクルは、数えの年齢で収穫期は23〜26歳、32〜35歳、41〜44歳、50〜53歳、59〜62歳であり、それ以外は総てタネ蒔き期・耕作期という事になり、地道な衰運期の時期になります。そして多くは、六十代中頃から老衰期に入り、生と老を経由して、やがて死に向かいます。

 したがって、これを春夏秋冬で見ますと、春に生まれ、夏を経由し、秋に収穫を行い、そして冬に至って、死を向かえます。しかし「冬」は、一方で「殖
(ふ)ゆ」の意味合いを持ち、収穫期の蓄えを以て、蔵の中が「殖ゆる」という事を顕(あら)わします。
 こうして考えていくと、人間といえども、自然界に一部であるという事が解ります。

 如何に能力があり、人知を尽くして、近代科学を駆使したところで、自然をコントロールしたり克服をするという事は到底不可能であり、一旦は管理し、制御するシステムを有したかのように見えても、それは所詮、その克服率は、限りなくゼロに近く、僅かミクロ単位の事に過ぎません。したがって人間も、自然に則した生き方をしなければならなくなります。
 自然と共に生きるという事は、自然から四季を学ぶように、人間もまた、そこから四期の人生の真理を学ぶのです。

 衰運期の耐える、苦悩する時期は長く、逆に盛運期の喜びに充ち溢れる収穫期は、ほんの一時に過ぎません。そして衰運期と盛運期の境界線は克明であり、この明暗はハッキリとしています。
 こうした自然の理
(ことわり)を知らずに、派手な行動や方角(九星気学で言う方位ではなく、八門遁甲で言う方術)の誤りを犯すと、信じられない位の不幸と不運を背負い込む事になります。

 動いてはならない時期は動くものではなく、じっと耐え忍び、力を貯える時期なのです。地道にコツコツとした、自然に対して畏敬
(いけい)の念を持ち、辛抱強く次の盛運期に向かってのプランを練り、研究する時期なのです。

 そして衰運期はリズムの中では、「足踏み」の時期であるので、前には進めません。しかし足踏みは休む事なく、しっかりとした足つきで、地面を踏み続けなければならないのです。
 こうした足踏み状態で、疲れた大脳を休ませ、リズムを整え、思考判断を間違いないものに暖め直していくのです。

 こうした時期に、前進しても結果は良いものが得られず、実
(みの)ってない時期に収穫を開始したり、実っても育ちが悪かったりするのです。したがって衰運期こそ、慎重な心配りと冷静さが必要になります。
 人間にはこうした盛運期に当たる収穫期が、一生のうち、五回訪れ、人生を終盤の死生観へと持ち込みます。

 六十代半ばを過ぎてからの終盤期は、これまでの人生を顧みて、欲から解き放たれる時期であり、欲望に対する執着を極力捨てるようにする努力が必要になります。
 こうして過分の欲望を頭から解き放つ事が出来れば、今度は不思議にも、今まで自分が望んでいた以上の物がやってきて、気付いたら「満たされていた」という幸運に遭遇します。こうして、人生の本質は「苦」だったのですが、これが実は迷いを断つ為の
《悟り》だと気付くのです。それは魂が鍛えられ、かつ浄化された事を意味します。

 つまり魂の変化であり、魂は「死の意志」に向かって、最終段階の四期の最後の「死」を自覚します。
 生に執着する多くの人は、「死んだらモトも子もない」と言いますが、これは肉体を前提とした理念であり、人間の本能は年齢と共に「変化する」という事を知らねばなりません。
 こうした本能は既に、人間として受肉した時点で組み込まれており、その意志が働くからです。そしてその働きは無意識的であり、「意志の働き」が、年齢と共に成長していくのです。

 人間の四期の最初の段階である「生」は、まず、本能にはじまり、次にそこから衝動が起こり、その衝動が欲望となって、その達成の為に、動機としての働きが起こります。これが自分を快適にしたり、豊かにしたり、便利にしたりの物質界での願望となり、一種の理想となって、それを追いかけようとします。
 こうした願望意識は、第一回から第五回迄の間に集約されていて、第一回から第四回迄は「意志」の現われであり、最後の第五回は「決意」となって、魂の奥底に浸透していきます。
 意志は、年齢と共に成長し、これが決意にまで成長した場合、これが成就する、しないにかかわらず、六十代半ばから次第に薄れ始めます。

 こうした五回の周期を迎えつつ、回を重ねる度に、意志の成長とは逆に、肉体の成長はこれに反比例して衰えていきます。こうして意志が最後の第五回目で決意に変わり、最終的に意志が自覚し始めると、今度は「完全自覚」という形をとりながら、これに向かって魂は突き進みます。そして魂が「完全自覚」した時が、死ぬ時なのです。

 何故ならば、魂は肉体がいつまでも付き纏
(まと)っていては「完全自覚」が出来ないからです。
 人間は、肉体を失う時、はじめて魂は、時空間に制約される不自由な肉体の束縛
(そくばく)から離脱して、完全な自由が得られるのです。そして意志は完全に目覚め、再び元の霊界へ戻るのです。



●死生観を超越する

 「決意のエネルギー」は、絶えず私たちに無意識を働きかけます。
 意志の強い人であれば、決心の記憶として、心に留め置かれます。決意とは、こうした「意志」の中に内蔵されているのです。叡智
(えいち)はこうした意志の働きによって、益々磨きがかかります。
 また叡智は太古の昔より、源初の人間時代から、一貫して持ち続けた遺産です。この遺産は、常に生活の中で磨かれ、そして人生に終盤期には必ず光輝くものでした。

 私たちは無意識の中に、やわらかい、やさしい感情表出を持つ心情と同時に、細かく、気
(け)高い祈念の言霊とを肉体の中に宿してきたのです。
 こうした生命体特有のメカニズムは、如何に近代科学が高度な技術を極めようとも、歯が立たない叡智を宿しています。

 それは未
(いま)だに、心のもつ深層心理の複雑なメカニズムは解明されていませんし、咽喉(のど)の声帯(喉頭の中央部に位する発声装置で、前端は甲状軟骨の内面に、後端は披裂軟骨に付着する弾力ある二条(ふたすじ)の靱帯(じんたい)で、空気の通路である「声門」の幅を縮め、肺から出される空気によって振動し音を出すメカニズム構造)一つ取り上げても、これと同じ複雑な構造をもつ装置や、そこなら言霊を発する仕組などは、近代科学では同じものを作り出す事が出来ません。

 これはそのメカニズム自体に、人知が及ばぬ、途方もない壮大な叡智
(えいち)が組み込まれているからです。
 私たちはこうした叡智によって、身体器官を動かしているのです。その原動力は「意志」であり、意志が叡智を作り、叡智が心と体を作ったと言えます。

 そしてこの叡智は、今日の人類に最終段階を促し、最終進化を迫っています。
 その変態
メタモルフォーゼ/Metamorphose/変身)のこれまでのプロセスの中で、人一人が生まれ、そして死んでいくという「苦しみの人生」の幕を閉じます。
 そして苦しみを味わえば味わう程、自分の中に内蔵されていた、意志としての叡智は輝き、神々
(こうごう)しさを放つのです。

 こうして人間は死後、現世に残る地上人とは異なる、無限の叡智に包まれ、光輝く存在になるのです。
 どんな人でも、死後の魂は、今まで隠されていた意志の叡智は表面化されて、神に近い存在になるというのが霊魂の真の姿です。

 しかし生前に霊魂の自覚がなく、肉体信奉者として人生を送った人は、自らが霊的存在であるという事を知らず、意志の叡智が隠されたままになって、死後もそのまま放置され、幽界の暗い海に沈みます。

 そして本来は、あるはずもない幻想を抱き、生前の暗い固定観念や、先入観が作り出した地獄の幻覚を体験する事になるのです。
 無限に続く輪廻のプロセスは、こうした地獄の幻覚すらも体験させ、その繰り返しが、また魂の永遠として長く続くのです。



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