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続・夜の宗教 真言立川流 1

続・夜の宗教 真言立川流










 性の倫理が破壊された状態を「姦淫」という。不倫な情事である。
 狭義には、姦淫は夫と妻が、それぞれ妻並びに夫以外の異性を性交に及ぶことを、こう呼ぶ。男女の不正な交わりだ。

 近年では、「不倫」と言う言葉でお馴染みである。
 こうした行為は、主として、今日では消滅してしまったが、「姦通罪」に当たるものだった。
 この罪は、夫のある女性が姦通する罪をいい、また相手方も処罰された罪であった。これは親告罪の一種で、戦後は男女平等の原則と権利に反するということで、1947年の刑法改正により削除されてしまった。

 戦後の平等教育においては、男女の不義は堂々と行えるという理由により、男女は自由恋愛を通じて、幾らでも好き勝手にできるということが市民権を得たのである。配偶者のある者、特に妻が、配偶者以外の異性とひそかに肉体関係をもつことも、あたかも市民権を得たように公認的な形で行えるようになったと言うことである。
 今日のこうした行動は「不倫」と言う名でお馴染みである。

 では、この「不倫」が市民権を得る経緯には、どういう時代背景があったのか。
 それは人間的という次元から、“動物的”という次元に転落したからである。この転落により、不倫は市民権を得た。その類の小説や、これを奨励する週刊誌の情報が、市民権を得るように日本国民を煽
(あお)り立てたのである。

 この現実をどう解すべきか。自由恋愛の本場であるアメリカさえ、ここまで露骨にはならなかったが、日本では「白昼堂々と」という形で、なかば市民権を得たような愚行が流行することになる。

 さて、今日の日本人が動物的なレベルにまで転落したという背景には何が起こったのか、考えてみなければならない。この、「動物的」という動物は、果たして実際には、“動物的なのか”ということである。
 よく考えてみれば、動物と言う生き物である。この動物は、日常いつも目にする犬や猫のことであるが、彼等は自然の摂理に則った「発情期」というものがある。
 ところが人間は別格である。年から年中、発情する種属である。そうした種属に転落したとも言える。これを考えると、“動物並み”というより、動物以下ではないのか。
 犬でも猫でも、発情期がある。その時期が来るまで、雄が幾ら雌の周りをうろついても見向きもしない。知らぬ顔である。ところが、人間はどうだ?人間は違うではないか。

 365日、生物学上はサル目
(霊長類)ヒト科の動物は、年から年中発情しているではないか。この種属の雄でも雌でも、毎日、発情する準備が整っているではないか。

 ところがでる。
 この発情は愚かにも、中途半端である。特に、発情した雄の中途半端は、何とも、だらしがない。
 この「だらしなさ」といったら、川魚の比ではない。
 川魚でも、産卵の時期になると、身体の色まで変化させる。発情と交情の時期が明確なのだ。その時期が到来すると、体色が極度に変化するほど、克明に色を変え、全身全霊をもって、交会に熱中する。一心不乱で、そのことのみに集中する。

 ところが人間はどうだ。
 それに引き換えると、実にだらしがないではないか。いつでも発情するくせに、中途半端でないか。
 この中途半端な、特に、生物学上は「オス」といわれる男の種属は、いつも中途半端でだらしがない。自称「精力絶倫」と自負しているオスでも、知能と理性が災いして、男女共、自然になり得ぬ「素朴な美しさ」を殺している。

 本来、『理趣経』で説かれている、仏が与えた自然の美しさを、現代人の男女はどこかに置き忘れているのである。そのくせ「不倫」を自負しているのだから笑止と言う他ない。
 その上、不倫に代表されるアメリカ流の自由恋愛で、そのモラルは動物以上に低下し、かつての姦通罪の罪の意識を心の片隅に横たえながら、姦淫と言う罪を犯しているのである。

 現代のモラル低下を捏造した進歩的文化人たちは、「愛し合っていれば罪がない」というようなことを豪語している。ところが、この主観は「愛情と言うものを蔑ろにし、肉愛という形で自由恋愛を奨励しているところに、大きな問題点を作り出している。恐ろしい限りだ。
 それは理趣経的にいっても、多くの問題を残し、性の共同体が淫乱で掻き消され、しかも大自然の宇宙法則と倫理からくる尊重の低下を招いているからである。

 また、戦後教育の一環に数えられた「性の解放」を合い言葉にした、性教育ならぬ性器教育は、人間自体に所有する「愛は清らかなもの」という理趣経第一課題である情を交わす愛を失墜させたといえる。
 そもそもこの元兇は何か。

 『理趣経』は「平等主義」を説く。
 だが『理趣経」で説かれる平等は民主主義の説く自由と平等の「平等」ではない。生命の尊厳として、生命はみな平等だと説いている。権利の平等ではない。男女同権の平等ではない。
 平等界の生き物として、生きとし生けるものは差別なく、あまねく等しい絶対の真理の世界に生きるべきだとしたのである。ここに権利の平等など無い。平等権の平等ではない。
 この世には、生命の平等があるだけである。また平等心を説き、総てのものを差別無く愛する慈悲の心を説いている。

 更に平等界の平等は説いているものの、一方で「差別界」のあることも説いている。その証拠に、人間には九つの品位の差別があることも説いているのだ。それは人の生まれの違いを説き、生まれながらに平等でないことを説いている。そもそも男女の性別の違いだけでも、これは差別界から起こったものだ。人は等しく。平等ではないのある。顕著なものは美醜の差であり、才能や素質の差も、そもそもは差別界に付随するものである。

 立川流で説く「九つの品位」とは何か。
 これを「九品
(くぼん)」という。
 差別界で九つに品位が分かれるのは、そもそも衆生の生きとし生けるものに格差があることから来ている。九つの品のうち、品は三通りに分けられる。つまり上品
(じょうぼん)、中品(ちゅうぼん)、下品(げぼん)であり、上品には上中下があり、上を上性(じょうしょう)、中を中性(ちゅうしょう)、下を下性(げしょう)という。以下、中品も上中下があり、下品にも上中下がある。
 形ある人間の色
(しき)にも醜美があるように、当然、性器にも九つの品位がある。これが存在する以上、人間はみな平等ではない。

 かくして現代人は、平等を履き違えた。中途半端な全身全霊を打ち込めないセックスを、肉愛の世界に徘徊し、それを仏典で説く性交と思い込んでいるのだから、これ自体が「二重の笑止」である。
 要するに現代人は、理趣経で説かれ、真言立川流で説かれている「人間としての本物の交会」を識
(し)らないのである。

 仏典で説かれた「愛は清らかなもの」あるいは「男女の性愛は美しいもの」が、現代に至って「穢
(けが)れだした」のである。穢れの中からは、穢れたものしか出てこない。美しいものは何一つない。美しいものと思い込んでいるものでも、それは穢れを纏(まと)った“かりそめの美しさ”だ。その愚に、現代人は気付く必要があるのではないか。

 そして現代は、未熟な性の反乱の時代である。姦淫ポルノやエロサイトなどに誘導された、興味本位の「未熟な性」の真っ只中にある。
 仏典からは程遠い性。それは生殖器を異常に狂わせるだけでなく、異常な性腺刺激が行われ、それにより狂う人間が殖えているということである。この種属が殖えれば殖えるほど、日本の未来は危うくなる。それは、取りも直さず、日本人の未来を失うことである。
 そしてこの現実に気付くものは少ない。


第一章 真言立川流受法



●陰陽と男女二根交会

 真言立川流は、人間の肉体を崇高(すうこう)な知性と感性の繁栄と観(み)る。したがって、これはまさに神秘である。神秘に対し、素直である事が人間の真の姿である。
 素直さとは、人間の持つ崇高
(すうこう)な知的感性であると倶(とも)に、霊的な直感を養う宗教的な原点とも言える。こうした霊的直感は誰にでも持っているのである。そしてその発信源は、取りも直さず「性器」である。生殖器である。生殖器こそ、無から有を生む不思議な根源である。

 性器は、神仏と同等・同格に尊いもので、神仏が人間の生活に密着しているように、性器も人間の生活に密着した存在であり、特に
「夜の宗教」には、性器は欠かせないものである。そして、男女二根を交える性器は、単に子孫を残す為の生殖器ではない。情愛を増幅させる増幅器なのである。

 性器は男女とも正常な、然も健全な状態での増幅器でなければならない。性病などに罹
(かか)っていてはお話しにならない。また、性機能が弱っていても、真摯(しんし)な情愛は交わすことが出来ない。これは男女二根が交信する為の唯一の、オルガズムへの増幅器なのである。

 多くの宗教並びにその宗教の主宰達は、神仏の形態を人間の姿に似せたものを偶像化して、これを「ほとけ」といわせたり、「かみ」といわせて、下々の人間に拝
(おが)ませるが、これらは神仏を人間の崇高(すうこう)な知性や理性に反映させているだけに過ぎない。
 また、感性なども、偶像化した神仏には反映されているであろう。「祈り」は、偶像崇拝から始まると言うが、これは、むしろ具体的は方策ではなく、偶像が何処までも偶像であり、その実体を求めるのなら、生命の根源を為す「性器」の方がより具体的で、説得力を持ちを持っているはずである。

 したがって、この世の中で、人間の性器ほど尊いものはないのである。性器を粗末に扱い、乱雑に誰とでも性交する輩
(やから)は、最後の最後に天罰を受けるのは必定であろう。
 「尊いもの」は、抽象化
(アブストラクト/abstract)されるべきものでない。三次元世界が肉の世界であるならば、肉の眼で見えるものを人間に提示すべきであって、性器こそ生命の根源であるので、これこそ三次元の眼で見せるべきものである。

 人間一人ひとりがが携
(たずさ)えている性器は、見るからに尊いものである。男女二根こそ、まさに神仏の姿そのものであり、人間の姿に似せた神仏のそれは、人間の頭の中で創り出された、単なる偶像に過ぎない。しかし、既存の宗教はこの偶像を拝ませることにより、人心を騙し、そこの神仏が宿っているなどと嘯(うそぶ)くのである。
 こうした偶像を幾ら拝んでも、「開運」などは絶対にあり得ない。運は自分から働き掛けねば遣
(や)ってこないのである。“拝む”という類(たぐい)のものではない。
 それよりも、間近に《生き仏》を拝むことだ。それを眼に見ることだ。

愛染明王は、衆生(しゅじよう)の愛欲煩悩がそのまま悟りであることを表す明王である。また、恋愛成就の願いなどもかなえる明王として広く知られている。この明王こそ、愛染法の本尊である。

 真底「開運」を願うのならば、神仏は、一人ひとりが生まれたその日から備わっているので、これを「拝みの対象」あるいは「祈りの対象」にしたいものである。
 神仏は、男根と女根の二つに別れ、男女の各々が生まれた時に背負うようになったのである。人間に「性」が存在するのも、この為である。
 則
(すなわ)ち、人間とは、生まれながらにして神仏を携えた生き物なのである。つまり、これこそ《生き仏》の証(あかし)である。そして、《生き仏》は実際に眼にして拝む為にある。

 さて、現行法を拡大解釈すれば、法に定義されている「性器」は、猥褻罪
(わいせつ‐ざい)として、あるいは猥褻物所持罪になるわけだが、こうした法で、性器を規制するのであれば、人間は老若男女を問わず、その容疑が懸けられよう。

 人民は各々に国において、刑法に触れる「物」を股間に付けているわけだが、この奇妙な形をした男女のシンボルこそ、人類を繁栄させた根源のではなかったか。
 これが人類の根源である以上、この二根は非常に尊いのであり、神仏が、そのお姿に宿った姿が、実は神仏の正体であると真言立川流は教えるのである。
 性器こそ生き仏であり、生き仏は拝む対象である。実際にわが眼で見て、それに触れ、感触を確かめて拝むものなのである。これを偶像化させてはならない。触れる為に、「物」という存在はあり、肉体もその一つである。真言立川流の教義の根本は、此処にあるのである。

 この二根のお姿の尊いことは、『大仏頂如来密因修証了義諸菩薩万行首楞嚴経
(だいぶっちょう‐にょらいみついん‐しゅうしょうりょうぎ‐しょぼさつ‐まんぎょう‐しゅりょうげん‐きょう)』という仏典に説かれており、これを「男女二根菩提涅槃真処(なん‐にょ‐にこん‐ぼだい‐ねはん‐しんにょ)」といい、これこそが人間が、菩薩になる為の尊い教えであると説いているのである。生き仏になる為の、その真髄が記されているのである。そして生き仏に成就してこそ、そこには本当の悟りがあり、安らかな平安があるのである。
 平安は、光を放つものであり、この光によって魂は膨らみ、その裡側
(うちがわ)に「光の子」を増殖させるのである。この光の子こそ、菩薩の姿を変えた魂の根源であり、此処に至るには男女二根交会が大事だと真言立川流では説くのである。

 つまり、「菩薩
(ぼさつ)」とは、悟りを求めて、あるいは光の子を求めて“修行する者”の意味であり、他人を救うことによって、自分をも救う修行者の事を指すのである。人を救いと云うことは、則(すなわ)ち、自分も救うことなのである。

 また、「涅槃
(ねはん)」とは、静かな安らぎを言う。この「安らぎ」は総(すべ)ての煩悩(ぼんのう)から離れて、真理を極めた境地を言うのである。悟った境地であり、此処には騒音の一つもないのである。ただ平安があり、平穏があるだけである。静かなること、限り無しである。光だけを放つ、無限の静寂が広がっている。神々しいほどの光であり、“しん”とした静寂だけがそこにある。そして光に包まれて、静かに漂う世界なのである。
 更に、現象人間界で見られたような争いもなく、金・物・色に魅入られることもなく、魂の移行は物質から精神へと移行されており、もう、人間界で見たギラギラするような煩悩は消え去っている。

 “煩悩そく涅槃”というが、両者は同根から発し、その枝先で煩悩と涅槃に分かれ、もう、そこに至れば天地の隔たりをなしているのである。
 しかし、人間は現象人間界に居る間は、煩悩に大いに苦しめられ、金・物・色に振り回されなければならない。そこで“もがき”“苦悩し”“迷う”ことが人間に課せられた宿命であるからだ。人間はこの宿命を全うし、それが昇華できるまで、この世界に何度も生まれ変わらなければならない。そして、生まれ変わりを通じて、騒音の世界から静寂の世界へと移り棲んで行くわけだが、静寂の世界はあることを知らない人間は、それに気付くまで、騒音の中で“もがき”“苦悩し”“迷う”ことが課せられ続けるのである。

 苦悩し、迷うのだから、そこには当然、闘いが生じる。人間は死ぬまで闘い続けなければならない。死ぬまで格闘が続く。この闘いの原点にあるものが、人間の持つ愛憎である。愛憎が起こるうちは、その一切が騒音に満たされている。相手と闘い、自分自身に耐えることも、また一つの闘いである。

 更に、自分との闘いを放棄したら、途端に人間的な魅力を失ってしまう。自分自身に魅力が失われない為にも、人間は騒々しく闘い続けなければならない。金を稼ぐ為に、人より善い生活をする為に、人間は騒々しく、物質的な豊かさを求めて奔走して廻る。
 そして男女共、いい女を探して、あるいはいい男を探して、異性同性の分け隔てなく、色漁りをし、色に興じて奔走する。騒々しいこと、この上もない。

 恋愛遊戯も、実はこの騒々しい世界に置かれたものだ。だから騒々しい世界では、激しい音が奏でられているため、静寂とは程遠く、不安定で、いつ消えてなくなるか分からないような心配事で満たされているのである。常に騒音の裏には、心を騒がせる心配事が隠れているのである。

 一方、騒音がないと言うことは、夜の巷
(ちまた)の暗黒の空に谺(こだま)し、徘徊(かいかい)する芸妓(げいき)や酌婦の嬌声(きょうせい)もないわけで、その頭上に渦巻く暗雲すらないのである。夜は深閑(しんかん)したものであるが、その遥(はる)か頭上にはコバルトブルーの、静寂な「安らぎ」が何処までも広がっているのである。ロック音楽や、その他の騒音然とした世界で心を掻(か)き回されている者は、遥か彼方に安らぎの世界があることに気付かない。
 これから分かることは、簡単に言えば、神仏の秘密の総ては、性器に秘められていると言う事を知ることになる。性器は清らかなもので、静かに見て、触れて、味わうものだ。だから「尊い」のである。此処に、「性器礼讃
(せいき‐らいさん)」の意味がある。これが分からないうちは、性器はただの生殖器であり、快楽遊戯の為の道具でしかない。

  真言立川流では、「男女の愛を清らかなもの」と考え、男女を模して、日月と観
(かん)じる修法を行う。お互いは、照り輝く太陽と月なのである。
 自分の光の輝きによって、相手を照らし、生命力を芽生えさせる事を主眼を置いている。生命力の芽生えこそ、そもそもの「愛」なのである。男女が溺愛する事を、決して愛と言うのではない。溺れるのではなく、「芽生える」ことが愛の根源である。
 だから男女は「対等」となる。この対等の中にこそ、男女二根交会の本当の情愛の世界がある。それは対等の愛であり、平等の愛ではない。

 そもそも「愛」に平等など、あろうはずがない。男女は平等に作られていない。男女に存在する精神世界は、両者がお互いに磨き合う為の、「対等」だけが存在しているのである。男女は対等でなければ、同質のオルガズムは得られないからだ。これが対等であってこそ、男女共、その情愛によって同じ喜びを感じ得るのである。だから、この情愛は溺れる愛とはならない。

 恋人同士が、貪
(むさぼ)るような情熱だけの愛とはならない。情熱から発する愛は、いつかは消えてしまうものである。熱によって暖められた愛は、やがてどちらか一方が去ることによって、その熱も冷めるのである。しかし、熱されているときは、それが分からない。恋愛は錯覚によって起こるのものであるから、常に「関係」を良好に図る為に、必要以上のエネルギーを必要とする。二人の「関係」を連結させるには、鎖のようなもので、いつもお互いを縛っていなければならない。そして、この関係は、“拘(かかわ)り方”が問題になってくる。

 拘り方というのは、実際には眼に見えるものでない。また、触れることも出来ない。恋人同士の情熱の愛は、よく鎖に繋がれた関係に喩
(たと)えられるが、それは見えない鎖で連結されていることをイメージさせる。しかし、イメージだけで、実は確たるものではないのだ。不確かな、不安定な存在なのである。

 ところが、そもそも人間と云う現象界に生きる生き物は、本来の習性は「寂しがり屋」である。寂しがり屋であるからこそ、自分一人になる孤独を恐れる為に、常に男女はお互いを求めて繋
(つな)がろうとする。人との関係を求めて奔走する生き物なのだ。
 特に男女においては、「渇愛」という咽喉
(のど)の渇きのような状態に陥って、常に異性と関係を結ぼうとする。そして一旦結ばれると、相手を鎖で繋ぎ止めようとする。独占したい気持ちになる。

 しかし、実際に男女の関係において、「鎖」というものは存在しない。存在しないから、男が女を縛ることは出来ず、また女も男を縛ることは出来ない。
 縛ることは出来ないのだが、恋人同士の愛は、その正体が情熱から発した渇愛であるから、溺愛に等しく、溺愛においていかにも縛ったような錯覚を抱くのである。つまり、「縛ったような錯覚」である。

 この錯覚が蜃気楼のように見えている間は、恋人同士の愛は“溺愛”のまま、良好な関係が続いていると見てよいだろう。それは情熱によって、二人は蜃気楼のような幻でできた鎖を見ているからである。溺愛が続く以上、それはある期間限定で存在することが許されるのである。しかし、この溺愛も、長時間続くと大変なことになる。人間崩壊に向うからだ。

 単に溺れる愛だけでは、溺愛となり、やがて「渇き」を観じる事になる。これを仏道では「渇愛」という。危険な、恐ろしい愛である。
 それはまるで、渇して水を欲しがるように、凡夫
(ぼんぷ)が五欲【註】感覚的欲望で、五官(眼・耳・鼻・舌・身)または五境(色・声・香・味・触)に対する欲望)に愛着して、お互に男女の性を貪る事を云うのである。貪る愛に陥れば、自制が利かなくなる。行くところまで突き進む。そして愚かしいまでの愛着の世界に迷い込むことになる。
 愛は一つの「迷い」からも生じるものであるからだ。やがて、迷いぱなしで収拾がつかなくなる。男女の、情熱の愛の結果、行き着く先は自己崩壊である。おおかた溺愛で情死にするのは、こうした渇愛による情熱冷めあらぬ、醜態が端を発することが多い。

 快楽主義に溺れる俗人は、愛の定義を次のように云うようだ。

それは男が女を求め、女が男を求め、独占し、自己を犧牲にして、「相手に尽くす事」という。その証拠に、二人はしっかり結ばれているという。その愛の形は「鎖」でしっかり結ばれている。それは固く結ばれて離れないという。どこまでの二人は一緒という。契った結びは、離れないという。花も嵐も、乗り越えるのだという。
 愛があれば恐くない。愛がすべてだと信じ、愛があればすべてを満たしてくれると信じている。そして愛はすべてを充実させてくれると錯覚する。喩
(たと)え火の中、水の中……という錯覚も、鎖で縛る独占欲の中から生まれた……。つまり、“鎖で縛った愛”こそ、渇愛なのだ。一方的に、“貪る愛”なのだ。

 実に勇ましい限りである。しかし、この自己犠牲的な愛への考え方、あるいは独占欲が最優先される考え方は、果たして正しいだろうか。これでは人間がまるで、蟷螂(カマキリ)ではないか。人間は自己犠牲を自ら好んで、ただ相手に食われる為に、尽くし、信じ合うのだろうか。
 また、「愛の鎖」など、存在してはいけないのではあるまいか。
 本当の愛は、「清らかなもの」でなければならない。清らか故に、愛は人を縛り付けるものではないのだ。愛は、その愛によって、人を解放するものでなければならない。

 本来の愛は、相手に対して無条件に与えるものであり、同時に相手が何をしようがそれを無条件で許すものなのである。この「無条件で許す」という条件下において、本当の愛は存在するのである。こうなった時、人は本当の幸福感に浸ることが出来るのである。だから渇愛のような、咽喉の渇きを覚えるような「縛りへ向う愛」であってはならない。鎖で、縛りへ向い愛であるならば、手枷足枷を嵌めた愛であり、首に鎖を付けられた愛である。
 もし、これが愛とするならば、まさに「渇愛」の最たるものではないか。独占欲から生まれた、幼児的な、未熟な愛である。

 本来の愛は、男女が睦
(むつ)み合い、お互いを尊敬し、ともに日月であり、照らし合う存在であったはずだ。
 房中術を伝えた古人は、今日の男女の愛の考え方と異なり、女性の月としての姿は、静かで涼しげな光で男を照らし、また男は、男性的な太陽の光をもって、女性を照らし、暖め、慰め合い、睦み合うという生命を育む為の、男女二根交会と考えていた。
 また、男女の交わりは、日月の交わりと観じ、これを愛の原点としたのである。真言立川流は、太陽と月の関係を教え、男女の双方が、同じ質と、同じ量の「愛し合える情愛の世界」を説いているのである。

 どちらか一方が重く、どちらか一方が軽いのでは、対等でない。男女とも同質で同量の愛し合える形を整えることが好ましいのである。男女陰陽の関係がアンバランスでは、同質で同量の情愛の関係は展開できない。この条件に至るのは、男女が対等である場合に限り、である。
 この条件下において男女は、同質で同量の喜びを感じ得るのである。そして男女が「睦み合う」ということは、つまり「交会」において、睦み合うことなのである。そこに情愛の「清らかなもの」が存在しているのである。



●喜びを知る為の呼吸法

 同質で同量の喜びを感じるには、どうしたらよいか。
 それには、まず「呼吸法」を正しく学ぶことである。更に、男女共に「周天法」を学ぶことである。

 人間にとって呼吸は、大事なガス交換の一つで、生物の生命活動は此処に集約される。生物が外界から酸素を取り入れ、二酸化炭素を外界に放出する現象である。特に動物が、その為に行う筋肉運動であり、息を吸ったり吐いたりするガス交換である。
 しかし、呼吸をする事を、一々習わなくても、息の仕方くらいは分かっているという人が居るかも知れないが、呼吸法は、酸素を吸収し、二酸化炭素を吐き出すと云った、単に息の吐納をするだけではなく、その吐納
(とのう)の仕方を学ばなければ、呼吸は正しく行われないのである。

 そして、呼吸のうちで最も重要なのは、男女が二根交会をしている時の、性交時の呼吸法である。
 この性交時の呼吸法ほど重要なものはない。安易に性交を重ねている男女には、単に性器のみの快感に酔い痴
(し)れて、局所を貪るだけの息の粗い呼吸で、鴉(からす)の行水的なもので終らせようとするが、これでは髪の毛の先までが痺(しび)れるような「極楽の境地」は味わえない。

 性的興奮の絶頂をオルガスムス
【註】Orgasmus/オーガズム、最高潮)あるいはオルガズムというが、人間の男女には、この質と量が、それぞれ対等に与えられている。そして絶頂期には、快感の波が押し寄せてくる。情愛の中で最高の波である。

 本当の快感とは、「髪の毛の先まで痺れる」という極楽の境地であり、未熟な性交では、中々極楽の境地まで辿り着けない。
 則
(すなわ)ち、女体を抱く男は、男の責任において、女性を髪の毛の先まで痺れさせ、しっかりと極楽に送り届ける義務がある。

 しかし昨今では、間違った性教育が、小中高校で、これを公然と“性教育”であると公言している為、実はそれが単なる性器教育と性教育関係者も気付かず、安易な性器ばかりを教育している。その側面に備わる、肝心な情愛を一切無視しているのである。そして、性器のみで結び合う男女の中は、実に脆
(もろ)い。

 現代青年の多くは、男は女を極楽に送り届ける義務を負わず、女は男と一緒に極楽に行く作業を怠っている。それは今日の間違って性教育ならぬ性器教育が、こうした現代青年に、悪しき元凶をまき散らしているからである。そして、昨今の男女関係は、まさに「一年中盛りのついた犬か猫」である。
 盛りのついた、年から年中発情している男女の多くは、最近では、擦れ違っただけで声を掛け、また、その声に乗り、カフェバーに行き、その夜のうちにラブホテルに行って、ベットを伴にするというインスタント恋愛術が横行しているようだが、こうした元凶の根底にも、実は今日、小中高校で指導されている性器教育のあり方に大きな問題を抱えているからである。

 そして現代青年達のお目当ては、結局、異性の「性器そのもの」が問題であって、性器に固執する考え方で、男女は気軽に声を掛け、食事やカフェバーを経由して、最終時間にはその日のうちに、ラブホテルにしけこむというお決まりにコースに準じるのである。

 更にお粗末なことは、学校で教える性器教育が生殖行為に類似している為、この関係は性の関係からすれば、双方の性気に貪りついて発情した犬や猫のように、貪るだけ貪り尽くしたら、後は興醒
(きょう‐ざ)めという脱落感に陥るのである。

 貪る性愛は見苦しい。その背後には“肉欲の愚行”がちらついているからだ。男が女に、女が男にアプローチするのは、ひたすら情欲をものにする為である。昨今の若者の“恋愛術”と名付けた欲望の多くは、殆ど肉欲を目的とした発情期の雄
(おす)であり、また、雌(めす)である。その目当ては、相手の性器である。
 したがって、こうした目当てでアプローチを掛ける若者の間には、恋愛と云うものが成立する可能性が極めて少ない。恋に何ら駆引きがないからである。プロセスがなく、いきなりベットインの、余りにも短絡過ぎる行いであるからである。

 しかし、頭のお粗末な男女は、恋と云うのを発情そのものと思っているようだ。恋愛していると云うことを、発情した男と女が繰り広げる快楽遊戯と思っているようだ。
 大衆の前で、いつもベタベタとくっついて公然と接吻をして憚らない、この手の男女も結局当たり構わず、発情した雄と雌を演じているに過ぎない。その発情した雄と雌が、自分達では、いま恋愛の関係にあり、恋の真っ只中と思い込んでいるのである。頭の程度が知れよう。

 要するにこうした手合いは、恋愛と発情した雄と雌との区別が付かないのだ。学校で教える性器教育の悪しき社会現象といえよう。自分では美しいことをしていると思っていても、傍から見れば、見苦しい異性の性気を貪るベットの延長が、公然と社会へ流れ出しているとしか思えない。本来の秘め事とは、「房中術」でも、《房中》という言葉がある通り、秘めたる場所で行うのが、その道の道理であり、これを表側に持ち出してはならないのである。秘めてその内容を表で明かさないのが秘め事である。裏にあるのが秘め事である。

 つまり、真言立川流では秘め事を「裏技」を考えているのである。裏技は、裏にあるから「とっておきの切り札」であり、これが表に顕われてしまっては、肝心な切り札として役に立たなくなる。だから裏に隠さなければならないのである。裏技は裏に隠れてこそ、裏技としての価値があるのである。



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