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死ぬとどうなるか 1

死ぬとどうなるか





水を求めて「意識体」は彷徨(さまよ)う。


 愛する人の死に直面し、その人の亡骸(なきがら)を涙のうちに荼毘(だび)にふし、火葬場で、煙雲流れる空に向かって垂直に立った煙突から、愛する人を焼く薄い煙が大気の中に溶け込んでいく時、その人の総てはそれで終わり、何もかもが無くなっていくと言う「錯覚」を人は抱くようだ。

 人の「死」と言うものは、その人の死によって、その人の総ては終わり、何もかもが無くなってしまったと言う感覚を、誰もが抱くようだ。

 火葬場で焼かれる人の煙を観測し、その人は死んで大自然の中に還って逝
(ゆ)き、一切は燃え尽きて灰と焼け爛(ただ)れた幾らかの骨だけを残して去った場合、これで何も残るものは無くなってしまった。本当に人は、そう思うだろうか。

 人は、愛する情愛が深ければ深いほど、「愛」が死によって引き裂
(さ)かれたとは思い難いようだ。愛する人の死は、その人が死ぬことにより、総てが無くなってしまったと思い難いものだ。

 世の中に、「死ねば、それで総てが御仕舞
(おしまい)」という考え方がある。特に日本人のような、“中途半端な無神論者”は、この考えに落ち着こうとする。
 しかし「死後の世界」を半信半疑で疑いながらも、自分が死ねば、墓に入ることを望み、春秋の彼岸には墓参りを遺族に強要し、命日ごとに僧侶を読んで経を上げ、回忌
(かいき)ごとの法要を頼み、心の中では自身の成仏を願っている。これこそ何とも矛盾した考え方ではないか。
 「死ねばそれで御仕舞」と考える人が、何ゆえ自分の死後のことを“こだわる”のだろうか。

 また、完全に「死後の世界」など全く信じない人でも、最愛の人を失った時、肉の眼だけでしか見えないこの世の物質現象に対し、愛する人の肉体は消えても、その人の霊魂は身近に生きているのではないかと、在
(あ)りし日の姿を思い浮かべ、コンタクトを執ろうとるすに違いない。

 唯物論者達は「死後の世界は想像上のもので、実際にはそんなものはない」と嘯
(うそぶ)く。また、こうした考え方に同調する“中途半端な無神論者”も少なくない。大半の日本人は、特定の宗教を信仰していないくせに、中途半端な意識で、“天国”や“地獄”の存在を心の片隅に残存させている。一旦は“ない”と信じたものが、実は心の片隅に「偏在させている」のである。
 常に科学的とか、あるいは唯物論を持ち出して科学的でない、迷信だと豪語する人でも、人間の死後はどのような生活を続けるのか、詰問すると明確に答えられない。その一方で、眼に見えない世界の事を存在しないと一蹴
(いっしゅう)する。

 ところが、愛する人の死によって、生前の面影をイメージする事自体が、単に感傷的な生易しい感覚でなく、本当に「眼に見えない世界」の存在が、そのイメージの中で実感をもって皮膚感覚に迫った時、そこにはその人の霊魂が存在していることを意識しているのである。人が「想う」その意識の中にこそ、「霊魂の永遠」があるのである。



●皆、いつかは死ぬ

 「人間は死んだらどうなるのか?……」それは現代人の最大の関心事であろう。
 しかし、その一方で「死を恐れる」のが、また現代という時代の特徴である。
 現代は、とことん死を忌み嫌う。死から逃げ回ろうと必死になる。死からの逃避は、現代医療がその逃避癖を明確にしている。誰もが死から逃れようと必死になる。

 果たして死から逃れようとして、それが実現するのか。死から逃れることが長寿に結びつくのか。
 昨今ブームの、種々の健康法は、いつまでも若く、健康と長寿を全うしたいという人々の願望の現れではないか。
 つまり、現代が死から逃れる事だけが、安住の魂の糧
(かて)と錯覚している時代なのである。生命活動の本源が健康と長寿にあると信じだ時代である。しかし、そこに本当の魂の安住の糧はあるのか。それで魂は安らぐのか。

 生まれた者は死ぬ。
 如何に長寿を全うしたところで、生まれた者は、やがて死ぬ。
 この事実は、医学が如何に発達したところで、この真理は覆
(くつがえ)せないだろう。
 こうした真理がありながら、現代は死からの逃避に躍起
(やっき)になっているようだ。死を暗黒のものと思い、その暗黒が肉体を浸食し、蝕むことを忌み嫌い、それに恐怖を覚えるのである。現代の恐怖は、此処にある。

 いま地球上には、その至る所で戦争の火種が燻
(くすぶ)り、あるいは点火されて激しい闘いが続いている紛争地域がある。
 日本人が経験した半世紀前ほどには、太平洋戦争があり、日本敗戦後は、朝鮮戦争、ベトナム戦争、そして湾岸戦争やイラク戦争へと、その火種は飛び火して行った。そして戦争と人の死は、実に因縁深い。
 こうした戦争などを、ニュースやリアルタイムのテレビ放映で見ると、人間は自身が非戦論者でも、戦渦に巻き込まれて死ぬものだということが再確認される。

 一方、末期病棟でも、死を目前にした人達が、毎日何十人何百人と死んで行く。
 人間は死ぬものだ……と確認されるのは、つまり、人間こそ、ドイツの哲学者ハイデガー
Martin Heidegger/人間存在(現存在)の根本的あり方を世界内存在としてとらえ、その本質構造を関心すなわち時間性として実存論的に分析した。主著『存在と時間』『形而上学とは何か』『哲学への寄与』『ニーチェ』など。1889〜1976)が指摘した「非存在」なる存在であるからだ。
 非存在なるが故に、死ぬ。人に死は、そこに尽きるのではないか。
 そして死んで行くのは自分だけでない。戦争や病気や天変地異などに巻き込まれた人の死の「事故死」を見れば明らかだ。自分だけではなく、他人も死ぬのである。

 この世に生を受けた者は、死ぬ。必ずいつかは死ぬ。
 皆、いつかは死んで行くのである。自分だけではない。皆も死ぬ……。いつかは死ぬ……。
 こう思うと、一見納得したような気持ちになる。
 しかし、他人の死を自分の置き換えて考えてみたところで“他人の死”によって、自分が長期の延命を授かった訳でもなく、また自分の死が慰められる分けでもないのだ。他人の生命と自分の生命は違うからだ。こうして見ている限り、自他は同根でない。自他離別に意識が、こう思わせる。その意識の先きに、他人とは違う自分の生命がある。

 肉体には肉体年齢というものがある。
 使い過ぎた肉体は、やがて壊れる。長い間風雪に耐えれば、それだけ老朽化する。それは肉体が物の一種に含まれているからだ。この物体が神秘で、不可解な構造を持っていても、一応肉体は生物学上「物」の分野に分類されている。したがって肉体は、やがて滅ぶ。いつかは消滅する。
 それは万人の認めるところであろう。

 ところが、「意識まで消滅するのか?……」という次元で人の死を考えた場合、この意見は大きく分かれる。
 人間にとって本来一番恐ろしかったことは、肉体の死ではなく、意識を司る霊魂の死であった。魂の死であった。この死に、多くに人は間接的に、無意識的に限りない虞
(おそ)れを抱いているのである。これこそが恐怖の正体だったのである。

 何といっても、これまで生きて来た人間が、死と同時にこれまでの意識を失うことは、恐ろしいことである。意識が消滅することは、実に恐ろしいことである。
 生きて来た証である、成長とともに構築した意識。この意識が失われることは、何といっても恐ろしい。
 死とともに無に帰するといっても、この「無」に限りない恐ろしさを抱くのである。

 何故ならば、成長とともに構築し、蓄積した経験や体験の意識が、死とともに消滅することは、これまで考えたり苦しんだり悩んだり迷ったりの、人間の煩悩(ぼんのう)の一切が、死とともに消し飛ぶということである。
 本来、後生大事に引き摺
(ず)って来たこの世の柵(しがらみ)の一切が、死によって跡形もなく消え去ることへの恐怖が、恐ろしいから、それから逃避しようと肉体の生存に必死になるのである。現代人が肉体に固執するのは、そのためだろう。
 そして現代人にとって、考えたり、感じたりという自己の持つ感覚が、死とともに消え去ることに恐怖を抱くだけでなく、それが「許せない」と思うからであろう。現代人の死との格闘は、此処にあるようだ。

 だが、こうした「意識」というのは、何も死ななくても失われる場合がある。
 痴呆症に罹病した場合や、肉体だけが生きている寝たっきりの植物状態になった場合も同じである。この場合も、正常に生きた時に蓄積された意識は切断され、断片化し、あるいは以降中断されてしまう。もう、考えたり感じたりすることは、正常状態ではあり得ない。生きる屍
(しかばね)状態でしか、感じなくなる。そこに残留する物は、横たえた、転がった物体的な意識であろう。あるいは檻の中に詰め込まれた意識かも知れない。
 またそれは、死と同義の状態を表す。だから死とともに、現代人はボケも寝たっきりも、死と同じくらい恐れるのである。

 しかし肉体がこの世に残り、意識がこの世を去ったか、それに近い状態にある時、果たしてこれを「本当の死」と呼ぶことが出来るだろうか。
 医学的には、両者は明確に区別されている。脳の死をもって、「死」と断定されるのだが、脳の死は果たして、これもまた「本当の死」と断定出来るのだろうか。
 脳死の問題は、いつも此処に回帰する。それにも意見が大きく分けれている。否定と肯定がある。

 更に追言すれば、人間が死んだ後、その意識はどうなるのか?ということだ。
 残るのか、それとも完全に消滅するのか。この論議も充分でなく、唯物論者と、唯神論者の開きくらいに大きく隔てられた意見が展開されている。信じる者と信じない者で隔てられている。

 さて、チベットやエジプトには『死者の書』という書物が存在し、また日本にもこれに類似の古書が存在している。こうした言い伝えを記した書籍は世界各地にあるようだ。洋の東西を問わず、人間が死んだらどうなるか?……は世界共通の課題だったようである。
 そしてこの共通の課題の中で、多くは「冥界
(めいかい)」のことを記し、神話の世界を記している。
 更に、人類万人の共通項として「この世界を信じることが出来たら、如何に幸せか……」ということが宗教に繋
(つな)がっているのである。宗教は此処を起点として、人間の死に深く関与して来た。

 だが、此処にも同じ共通項を持ちながら、これは各国で些
(いささ)か違った表現形式をとっていることである。
 その根本は宗教の違いにある。次に文化の違いにある。更には気候や風土の違いにある。こうした種々の異なりが、実は死後の表現方法も、ズレを生じ違っているのである。

「死ぬるばかりの水か流れて」(山頭火)

 例えばチベットの『死者の書』では、人間が死んだら、死んだその人の、意識が生み出す幻覚ないしは幻影が顕われるのだとしている。もしかすると、その表現は最も現実に近いかも知れない。
 ところが残念なことに、幻覚や幻影を解脱したところに、一体何が存在しているのか、ということを全く記していないのである。死した後、そこに何があるのかということを、この書は明確にしていないのである。
 それは「個々人の死」が、その人の死に方によって、体験あるいは経験する意識の内容が違っているからであろう。

 簡単に言えば、畳の上で自然死する人と、交通事故や災害や内戦などに巻き込まれて、手足がちぎれ、腑
(はらわた)が飛び出す死に方をした人とでは、死後の世界における「あの世の現実」は、普遍性をもって同一には語れないからであろう。



●現代は事故死の時代

 「生」あるものは、死ななければならない。生きているからこそ、死ぬのは自然である。この事実を、私たちは普段、忘れているのだ。
 したがって「死は遠い国の出来事」でもないし、対岸の「悲しい出来事」でもない。死は常に、生きている自分自身と密接な関係がある。それは「生」と「死」が表裏一体の関係にあるからだ。
 しかし、「死」を他人事のように考えている人は以外にも多い。「死」は、自分とは無縁と思っている人は多いのだ。

 では何故、こうまでに「死」を自分と無縁にしているのであろうか。
 それは、自分だけは他人と同じでない。自分は例外である等と考えている人が多いからだ。

 「死」を、こうまでに無縁にする理由は、先ず人は、自分の年齢を挙げる。特に若年層である場合、死は遠い先のように思ってしまう。長い間病気をして、死と隣り合わせに、すれすれの処で生きている人は、死が自分の身近にあるかも知れない。
 また、晩年の人生に生き、既に精神世界の中に辿り着いた人も、死を常に自分の身近に置き、死について繰り返し反芻
(はんすう)しているであろう。

 ところが若年層や、自分が健康であると過信している人は違う。「死」は、遠い国での出来事となる。自分とは、当分無縁と考えている。しかし、この考えは甘い。実際的でない。本当に生きてるということを忘れた人の考え方である。死はいつも、自分の側面に漂っていて、少しでも隙があれば、“死神の釜”で刈られてしまうのである。

 このことを、よくよく考えてみれば、人間は生きているから
「死ぬ」のである。生きているから死があるのは当然である。はじめから生きていなければ、死ぬと言うことはない。生きた結果として、必然的に死が訪れるのである。
 本来、死はある日突然に遣
(や)って来るのではなく、生きつつ成長していることが、同時に死の成長も育て、生きると言うことは、まさに「死につつある」と言うことだ。

 私たちが死ぬのは、病気や災害、事件や事故などに巻き込まれて死ぬ場合が多いが、それ以外にも、今ではめっきり少なくなったが、「老衰」によって寿命を全うし、その結果、死ななければならないと言うことがある。こうした場合の死は、「めでたい」ものとなる。

 ところが、老衰による自然死と言うのは極めて稀
(まれ)になった。多くの場合は、老衰以外の、枯れて死ぬというものではなく、病気、災害、事件、事故などに巻き込まれて、その犠牲になり死ぬことが多くなった。こうした死を総じて、「事故死」という。ガン等を罹病し、最後は病死するという状態も、広義では“事故死”に入るのである。
 その証拠に、現代人は病院で生まれて、病院で死ぬからだ。つまり、「生」の始まりも病院であり、「生」の終わりも病院なのである。これは現代人が、「自然死ができない人種になりつつある」ということを雄弁に物語った、現代の現象ではないのか。



●人間は死は本来、潮の満ち引きが関与していた

 古来より、月は人の死と不死を司る神として観念されていた。そして、月が人の死に関与したことで、人は潮の引く時に死ぬのだと言う考えが伝承されてきた。
 ところが現代は必ずしも、そうではない。

 もし、人の死に月が関与し、その運行によって生死が分かれていたと言うのなら、私たち現代人は、太古の人類や、死と潮の関係を関連づけた人と比べても、退化した存在に成り下がってしまったと言えるのではないだろうか。
 古典の文献等を紐解
(ひも‐ど)くと、月の潮汐(ちょうせき)は、人間の死に係わっていた可能性が非常に多いと思われる。

 潮が引くと言う時、人は死ぬという古来からの経験則に従えば、現代人は、月の運行とは関係なく、病院で生まれ、病院で死んでいく。病院から病院へと言う人生は、現代人にとって、潮が引くように死んでいく死に方が出来なくなってしまったように思う。自然死の難しい時代といえよう。
 こうした現代の実情を見ると、現代人は古代人に比べて、やはり退化した生と死に、生きる他ないのであろう。



●死後の世界の“ある”“なし”論争

 「死後の世界」が“ある”のか“ない”のか、唯物論者と唯心論者との間で、よく論争されるところである。唯物論者は“志穂の世界など絶対にない”と断定し、唯心論者は“死後の世界もちゃんと存在している”と反論し、唯心論者は唯物論者達を“物わかりの悪い連中”と揶揄(やゆ)している。

 その揶揄の論拠に、唯物論者達がいかに霊界を否定しても、霊界の波動は宇宙に作用しているということを力説する。そして“この世”という現象界は、“あの世”と表裏一体の関係になっているという。
 また、事象の“
奇々怪々”なる事実を挙げ、例えば、ある人の霊の憑衣を受けて、私学者も首をひねるような奇病に苦しめられたり、充分に注意しながら交通事故や地域的災害や殺人事件に巻き込まれる、こうした現象を挙げ、これを憑衣霊(ひょういれい)の仕業(しわざ)である「霊障」と呼ぶのだ、としている。

 そして唯心論者達は、異口同音にして、「霊界とは、眼に見えない想念が描く“心の世界”なのである」としている。更に追伸のように、「霊界とは、肉体を失った人間の心の想いによって構成された世界であるから、霊界は人間の想いの数と同じように、無限の種類と階層が存在している。いかに霊界を否定しても、人間である限り、誰しも霊界と無縁でやり過ごすことは出来ない」というのだ。

 唯心論者達にいわせれば、霊界とは人間の心の「想い」がそのまま表出されてしまう、虚飾のない世界だという。そして彼等は更に、唯物論者は不幸なことに、「生前において、全く霊界の存在を信じず、したがって他界し、死んだ後の知識のない唯物論者達は、死後の、霊界での道のりは厳しい」と言い放つのである。

 また念を押すように、古代から現代に至るまでの、人間という生き物の持つ、動物なみの本能的な欲が、いつまでたっても、地上から戦争を無くならないようにしているのであり、この元凶には、人間の心の裏側に潜む、悪心、欲望、疑い等が複合的に絡み、このマイナス面が、どうしようもない現実を作り出しているという。

 一方、唯物論者達は、この現実に対し“政治の貧困”を挙げ、資本家と癒着する政治家と、その一握りと金持ちによって、大半の人間は苦しめられ、労働においては資本から搾取
(さくしゅ)されているので、この資本主義を改めなければ、政治の貧困は治らない。
 したがって政治の貧困を消滅させる為には、資本主義社会を転覆
(てんぷく)させ、プロレタリアによる革命を遂行させて、国全体、世界全体を共産主義にしなければならない。そうすれば、戦争など一挙に解決し、地球から戦争が消える、というのである。

 しかし唯心論者達はこれに負けず、戦争の根本には人間の欲望が絡んでいるので、全世界が共産主義化したとしても、想念の格闘である“心の争い”は無くならず、結局、人間の欲望が戦争に駆り立てるのであるから、全世界が共産主義化されたとしても、地球から戦争は消滅しないのだ。その消滅しない理由に、人間の歴史は、古代から現代に至るまでの一切の出来事は、大半以上が戦争ではないか。

 戦争を誘発する原因は、政治の貧困ではなく、人間の心の裡側
(うちがわ)を見つめるべきで、地球全体が、いま地獄化しているからだ。その想念が霊界の最下位部にある幽界から“この世”に漏れ、この「Uターン現象」が、人間の心を悪魔化し、戦争を起こさせるのである。

 戦争を定義すれば、結局は領土の奪い合いである。この戦争への図式は、古代でも現代でも殆ど変わっていない。それは人間の心の深層部に、悪心と欲望と疑念が巣食っているからだ。それを露骨に延長したものが、“戦争”である。戦争は領土の奪い合いから始まり、相手国の領土を占領することで、此処から産出される貴金属、鉱物資源、その他の稀少産業から生産される種々の物品、農作物、労働力、更にはその国が石油産油国であれば、そうした資源すらも奪ってしまうのだ。

 また、軍備の貧弱な、国民が世論で右往左往するような国では、その土地が交遊の要所よして便利な場所であれば、これすらも奪い、侵略国の利益に誘導してしまうのである。そして戦争は、つまるところ人間の“欲”の現れであり、欲望を制御しない限り、政治形態が変わったとしても、人間の心までは変わらないのであるから、戦争は地上から消滅しない、と言い張るのである。

 人間は他の動物と同じ、全く同質の肉体を持つので、物質主義に奔
(はし)れば、人間が動物的本能のままに行動する生き物である。人間が持っている肉体は、本能的には“動物”なので、空腹になれば、例えば肉食獣が他の草食動物を襲い、これを喰(く)らうように、人間もまた、己の空腹を満たす為に、他の領土に入り込み、その国の領土で収穫された食糧を奪い、これを喰らうのである。この点は、動物も人間も、全く同質の「性(さが)」を持っている。

 したがって、人間としての行動規範は、本能のままに突き動かされるのではなく、理性によって肉体の運用を制御しなければならない。人間として難しいのは、肉体の運用の方法であり、心の御
(ぎょ)し方である。
 人間は、一生涯において、肉体の御し方一つで、運命を善くもしたり悪くもしたりする。この世での御し方は、あの世、つまり霊界での死後の運勢までも決定するのである。何故ならば、人間の死後の生活は、生前の日常生活の想念の反映であり、その想念生活が死後の意識として引きずるのである。

 これに対して、再び唯物論者達は反論を加える。
 人間は、死ねば肉体も消滅するのであるから、自意識も残るはずがない。自意識は脳で感ずるものであり、肉体を離れての、意識などは一切存在しないのだ。
 だいたい、“死後の世界”などというのは、人間の作り出した、「死を巡る俗信」である。この俗信は、従来の既成宗教を初めとして、新興宗教が使う最も、信者獲得の為の常套手段であり、これを使って宗教活動を展開している。だから、この何
(いず)れかの宗教を信仰する人種は、妄信的に愚かなる“死後の世界”の幻想を信じている。

 これを信じる、信じないはその人の科学的知力によるが、知的レベルの低い人ほど、霊魂観の神秘主義に振り回され易い。
 人間の精神活動を重く視るのは、その人の非科学面がそうさせるのであって、肉体活動の能力としては、その能力を、生命と精神力を明確に区別しなければならない。霊肉が一体などという、神秘主義で、自然科学の眼を曇らせてはならない。

 一般に精神力といった場合、その精神力は、個人を、個人として生かす精神を意味している。自分達の複雑な精神生活を振り返ってみると、此処に存在する事実は、肉体が腐敗し、生命が滅びてしまっても、精神だけは消滅することがあってはならないとする、単なる唯心論者の暴言である。
 そしてこの場合、霊魂が存在するか、また死後の世界が存在するか、こうした幼児的な思考に振り回されるのは、自身に、特定の宗教を持たない人の“霊魂観”である。

 唯物論者達は、生きた脳髄が存在しないところに、思考が起こるわけがないという。
 これに対して唯心論者達は、心は知識外に存在しているのであり、生きた脳髄にあるのではない、と反論する。
 そして、唯物論者達は“霊的存在というのは、いったいどういう存在なのか”“霊魂が非物質のもので、眼に見えず、手に触れることも出来ず、こうしたものを霊というが、これは何によって確認出来るのか”と烈しき切り返してくる。

 これに負けずに唯心論者達も、反論の烈しさを加えて迫る。
 世間の多くの人達は、肉体の死によって、総てが終わると考えているようだが、この世は物質界で、物質界の低次元な科学力で、眼に見えない心の世界までは、解き明かすことが出来ない。自然界の中で、光を視たり、物事を考えたりは、物質的思考力というもので、結論的にいえば、宇宙というのはこうした単純なものではない。
 物質的思考を持たない人間が考える以上に、宇宙は複雑なのだ。そこは広大であり、深遠なのだ。

 眼で見える物理現象だけを取り上げて、“人間の肉体の死は、この世の総ての終わり”とする物質界ならびに、自然界的な視野で視れば、これは正しい。
 ところが、人の死を「霊」と立場から視れば、あるいは霊界の側から視れば、肉体に潜んでいた霊、更には、肉体に棲
(す)んで肉体とともに行動してきた、肉体を一つの道具として使用してきた霊が、肉体の使用を止め、肉体の使用を止めたとしたならば、その肉体すら、維持できないのである。
 主体は「霊」であり、体躯はそれに使役される“従”に過ぎない。

 植物人間を視るがいい。確かに、病院で寝かされ、生命維持装置の力を借りて、彼等の肉体は生きているではないか。それなのに、生命維持装置を借りて生きる彼等は、声を発することも出来ず、意思表示することすら出来ないではないか。
 これが肉体あっての、霊魂といえるのか!

 この言を受けて、唯物論者達は益々エスカレートして、烈しい激論を繰り広げる。
 唯物論者達のいう「人の死」とは、肉体が腐って分解し、生命はそこで死ぬのであるが、肉体の死は、同時に霊魂の死でもあるのだ。肉体を離れての霊魂の存在はあり得ないのだから、肉体が死ねば、霊魂も死ぬ。唯心論者達は霊魂を「人の意識」と考えているようだが、肉体を離れての意識など、存在しないのだ。

 肉体を離れての意識は、肉体なしでは“物”を考えることも出来ないし、物を考える精神活動が失われて、どうして肉体が死んだ後、意識現象として、何かを表現することが出来るのか。こうした表現の中に、霊魂を認めることは、何処を探しても見当たらないではないか。
 人の意識は、肉体あってのものであり、肉体の死とともに消滅する霊魂など、何処にもないのだ。

 両者の激論は、平行線のまま、いつまで相手の潰
(つぶ)しに掛かろうと、“ああ言えば、こう言う”で、結論は永遠に見出せない。
 そこで、こうした双方の意見を聴く「中途半端な無心論者達」は戸惑うのである。どちらにも、決め難いのである。特定の宗教を持たない、無知な宗教観がそうさせるのである。どちらに軍配を上げていいか、分からないまま、その決め難さに揺れ動くのである。

 ついに達した結論は、「唯物論者達の言ってる論旨にも一理はあるが、唯心論者達の言っている論旨にも一理がある」ということになり、その中でも、「もし、唯心論者の言うように、本当に霊界が存在し、そこには天国もあり、また地獄もあるとしたら……」という、“もし”の疑念に駆られるのである。

 こうして迷い、苦慮している“中途半端な無神論者”に、唯物論者達は、“日本のルソー”といわれた、自由主義の祖であり、民権論を提唱した中江兆民
なかえ‐ちょうみん/土佐の人で、1871年(明治4)渡仏、帰国後仏学塾を開き民権論を提唱、自由党の創設に参画、同党機関紙「自由新聞」の主筆。第1回総選挙に代議士当選。ルソー「民約論」、ヴェロン「維氏美学」を翻訳。また、「一年有半」「続一年有半」などの著は無神論ならびに唯物論の思想を示す。1847〜1901)を出して、彼の『続一年有半』の「無霊魂論」から、こういうのである。
 「精神とは、本体でない。本体より発する作用である。その働きである。本体は五尺躯である。この五尺躯の働きがすなわち精神という霊妙なる作用である。
 精神は不滅のものでない。精神の本体源たる体躯こそ、若干
(じゃっかん)元素の抱合になれるもので、たとい解離したとしても、これこそ不滅である」ということを、強調するのである。

 中途半端な無心論者は、“科学的”という言葉が好きである。科学的という言葉は、信仰に近い、動かし難い真理のような、深い信奉をよせている。
 そのくせに、神や仏は端
(はな)から信じていないくせに、心の片隅に、「肉体は死滅するが、霊魂という精神作用は、死した後も生き残るのではないか?……」という疑念を抱いている人も少なくない。完全に唯物論者の論理を信じないところが、また中途半端な無心論者の、その中途半端な所以(ゆえん)なのだ。

 中には、この手合いの中にも臍曲
(へそまが)りが居て、「霊魂は滅びはするが、肉体は死滅せずに、霊魂は死滅する」という人まで顕われて、これを聴く、第三者の中途半端な無心論者達は、益々戸惑うばかりである。

 この隙
(すき)をついて、烈しい留(とど)めの一発を刺そうとするのが、唯物論者の「留(とど)めの一発」である。

 「諸君!霊と呼ぶものは詐術(トリック)なんだよ。それは肉体を持たない霊魂が、生前の感情を持ち続け、死した後、どうして物を考える生活を送ったりすることが出来るのか。
 人間の思考能力の備わった過程を検証すると、局部的な感情作用により、反射運動が起こる。これは全体的に、統制されて本能が起こるからだ。これが目的に対する自覚と能力となる。これが完成することにより、知能が出来る。知能活動と感情とは、総てが肉体による物理的現象の現れである。

 狭い意味で言えば、心を司る霊魂は、即ち神経系統が織り成す物質的活動であり、神経系統に起こる生理的作用を総称したものが霊魂と呼ばれるものだ。
 自覚とは、自分の占めている場所を感覚することに過ぎない。感覚するところに、自分の指先が有り、それは頭の中へと直接されている。そう考えると、全身が自身の霊魂となる。身体の全部こそ、霊魂の現れであり、肉体を離れての霊魂など、あろうはずがない。

 だからこそ、肉体の死は霊魂の死である。肉体によって生ずる霊魂は、肉体の死によって消滅する。肉体を失った霊魂が、その肉体の死後も生き続けることはないのだ。
 肉体の生活の中でも、霊魂と言う心と密接な関係を持ってるのは、飲食の方面である。飲食により、肉体は生きる。一日の活動は、朝食に支配され易い。朝食こそ、一日のエネルギーの源と言うではないか。朝食に思考を見出すような、食物を摂らない場合、脳の思考力は低下する。思考するには、血液に含まれる糖類が必要で、脳を円滑に作用させる為には、特に葡萄糖は不可欠だ。
 このことは、食べ物がなければ、霊魂は衰え、力尽きて死ぬことを現している。

 仏教でも、浄土を死後の楽園として教える。これはキリスト教でも同じだ。しかし楽園あるいは天国と言うものは、観念上のことである。何故、こうした観念の錯綜が起こるのか。
 それは死後の不安を引き立て、観念的な解決として、安心に導くのが宗教であるからだ。
 現実として言えば、死んだ自分も、これまで生きた“この世”に、そのまま“ある”ので、死んだからと言って“あの世”に行くことはない。
 人間の意識が知覚する感覚の中で、“あの世”とか“この世”とかの区別はない。感覚が繋
(つな)がる世界は一つである。この一つの世界において、生命は生きたり死んだりしているのだ。

 人の生死は、宗教上の観念の中に生まれたものを宗教観に基づいて、観念の世界の中で、未来の世を“来生”などというが、これか換言すれば、頭の中で描く空想に過ぎない。
 生命活動は、手足を動かすのと同様、意識し、諸々の意識現象の中に展開するもので、肉体を使ってこそ、生命活動がある。
 肉体がなければ生命活動はないし、生命活動がなければ意識することもなく、どんな意識現象も起こりえない。

 “もの”が活動すると言うことは、活動を促す“もの”としての動力や、エネルギーがなくてはならない。
 この活動エネルギーを人間は食物に得ているが、活動の基盤である肉体を離れて、単独に霊魂が存在できるとすれば、その活動エネルギーを何に求めることができようか。あるいは何処から取り入れることが出来ようか。
 霊魂を肉体上の精神作用としてではなく、いわゆる霊魂を肯定する人々は、それを形も何もない非物質とか、半物質のようなことを論じて、頭で描いた“空想物”に求めるが、そもそもこれこそが“まやかし”である。
 つまり“インチキ”を通じて、心の不安を誘い、架空のもので人心を欺
(あざむ)いている。これが宗教の“天国観”であり“地獄観”である。

 だいたい物理的に認めることが出来ず、自然科学でも認められない“非物質”などというものは、宇宙現象の中に存在しない。非物質なるエネルギーは、いったい何処から取り入れるのか。そういうものではエネルギーの供給を受けることは出来ない。
 また、霊魂を認める唯心論者達は、それ自体で活動できないとしているのだから、霊魂を、霊魂として認める考え方にこそ、逆に、その存在を否定するものがあるといわねばならず、これは唯心論者の大いなる矛盾である」

 と、唯心論者達をやり込めるのである。これで反論出来ずに、唯心論者はたじたじとなる。

 何が何でも、生命活動を“霊魂イコール肉体活動説”に固執する唯物論者に対し、唯心論者は「生前、霊界について全く理解することもなく、知識を持たない人が、死を迎えて、肉体を脱ぎ去り、魂だけの存在になった時、この人が霊界入りしたら、果たしてどのようかことが起こるだろうか……」と、前置きするのだ。

 そして「死んで肉体は無くなっても、意識は生前と同じようにあるのだ」と豪語した上、「人間界で非常に知的水準が高く、科学的思考に頼り、“科学”と言う迷信に固執する、いわゆる頭脳編重の人達と言うのは、とかく眼に見えない、理屈を越えた心、想念界、ひいては霊界、神の世界について理解力が乏しく、人間は死んだらそれまでと思っているようだが、これは頑迷に固執に過ぎない。そして自分が、いかにも強力な思考の持ち主であるか、残念にも理解できずに居るのである」という言で、最後の留めを刺そうとする。

 両者は“犬猿の仲”で、霊現象を否定したり、あるいは肯定する。霊現象は無いとする唯物論者と、あくまでも霊現象はあるとする唯心論者は、激論を戦わせたまま、この攻防戦は平行線を辿ることになる。

 そして、その“板挟み”になった「中途半端な無心論者」は、両者の言い分を聞きつつ、右に行ったり、左に行ったりしているのである。まさにその傾きは、シーソーの傾きに酷似し、中途半端な死生観は、益々濃厚になっていくのである。

 ちなみに、「中途半端な無神論者」というのは、神仏を全く信じないくせに、先祖の墓参りはするし、盆や彼岸や命日には僧侶を呼んで法事をし、結婚式には神前でぬかずき、あるいは十字架の前で神との結婚の契約をし、仏式の葬式では寺に参り、毎年、12月24日ともなればクリスチャンでもないくせにクリスマスイブを祝い、大晦日
(おおみそか)には俄(にわか)仏教徒となって“除夜の鐘”を聞き、一夜あけて元旦ともなれば俄神道(にわか‐しんとう)で初詣をする人達である。

 入学試験には神社に合格祈願に出かけ、合格したらしたで、お礼参りをする。家を建てる土地には神主を呼んで地鎮祭をし、“祀りを行わずに行動すると、悪いことが起こる”と祟
(たたり)りを恐れ、こうした日本人が、いわゆる中途半端な無心論者なのである。



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