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続・霊性の養成『地獄よりの帰還法』 1
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続・霊性の養成『地獄よりの帰還法』 1

続・霊性の養成『地獄よりの帰還法』







 地獄とは、「実際にはありもしない想念」が作り出す恐ろしい世界である。想念なるが故に、そこには様々な「幻覚」を視(み)る。それは実際には無いにもかかわらず、あらかも現実にあるが如く、恐ろしい幻覚を視てしまう世界である。
 故に、この世界を「地獄」と言う。

 地獄は想念によって作り出されるものだが、それ故に怕
(こわ)い。その怕さは「実際には無いも」のが、恐怖となって人間の感覚器を襲うからだ。それは五官の総てに訴えてくる。ただ「眼で視る」という視覚だけでなく、悪臭漂う実際が臭覚にも、恐ろしく喚(わめ)き立てる声が聴覚にも、手で触れる異様な感触が触覚にも、また、口に中で味わう異物の味が味覚にも、同時に襲いかかり、「無いもの」が“あるが如く”に表現され、具現される世界が浮き彫りになる。

 こうした世界は、本来“無いもの”であったが、人間の作り出した悪想念が、現実の縮図を描いて、世にも恐ろしげな「地獄」を作り出したのである。
 この「地獄」を作り出したのは、最初“仏法の世界”だった。

 特に念仏宗は、「蓮の花の世界」の最下位に、「地獄」という想念の世界を、人々の心の中に作り出し、それを機能させてしまった。この為に、本来人間が持つ「正常な想念」を大きく狂わせてしまったのである。
 その意味で、「地獄想念」を作り出した、法然
(ほうねん)も、親鸞(しんらん)も地獄に行った事になる。

念仏宗が作り出した地獄の想念。「南無阿弥陀(なむ‐あみだぶつ)」の念仏を唱えれば、阿弥陀仏に帰命すると嘯いた。そしてこれを唱えると、それによって極楽に往生できるとした。しかし、念仏宗の「極楽往生」は、「極楽と言う名の地獄」に他ならなかった。誰もが、霊的神性を下げ、霊性を悪くし、想念が作り出した地獄に直行下に過ぎなかった。

 念仏宗は人間の持つ想念を、様々に歪
(ゆが)めて、地獄の想念で人々を震え上がらせ、「悪想念」を抱かせることにより、多くの民衆を地獄へと突き落としていった。
 それだけに、地獄に堕
(お)ちるのがいやだから、民衆の多くは念仏宗に帰依した。今日、「本願寺系」の寺院が盛会をみているのは、法然や親鸞の『地獄説法』によるところが多い。多くの庶民は想念の中で、極楽も信じる変わりに、これに対峙(たいじ)する地獄も信じたのだった。

矢田寺の地蔵の救い『地蔵縁起絵巻』より。

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 一方、健全な想念を持ち、霊性を高めていく為には、幾つかの厳守すべき事柄がある。それは巷(ちまた)で流行している「油だらけ」になる食生活を一新することである。

 現代は、アトピー、アレルギー、成人病の蔓延
(まんえん)と、こうした忌々(ゆゆ)しい事態を招いたのは、欧米型の動蛋白を中心にした食生活に起因しているところが少なくない。今考えると果たして、欧米型の食生活は日本人に健康を齎したのであろうか。
 日本の風土に根ざす、玄米穀物菜食と小魚介・貝類・海草類の旬
(しゅん)の食事をすることで、日本人は古来より連綿と培われてきた「霊的神性」を取り戻すことが出来る。粗食に帰ればいいのである。

 しかし一方で、現実問題として
「間違いだらけの現代栄養学」が幅を利かせ、日本人を欧米型の食生活へと意図的に誘導している。そしてその結果、日本人が何に苦しめられ、何によって正しい想念を歪(ゆが)められているか、それは現代の青少年を見れば一目瞭然であろう。
 犯罪の低年齢化、性格粗暴者の増加、道徳やモラルの低下、礼儀知らず、自己中心的思考、性堕落と異常性欲の蔓延など、いちいち挙げれば切りがない。

 彼等は生まれた時から、現代栄養学の推進した「豊かな食生活」で育った子供達である。その子供達にのしかかる身体異常は、アトピー性皮膚炎の急増、虫歯の急増、そして今や、歯並びのいい子供など、探すのが難しくなった。その上、少年少女期から異常性欲で苦しむ子供や、性格粗暴者と言われる子供達が急増している。これは日本人に「霊的神性」が失われたことを物語っている。
 そしてアトピーやアレルギーは、単に子供達の問題だけではなく、大人までもを巻き込む社会問題になりつつある。治癒の難しい皮膚病が蔓延しているのだ。

『妖怪団扇絵』河鍋暁斎筆/福富太郎コレクション蔵

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 また、多くの日本人は「米」を食べなくなり、米に変わってパン食を主体に、肉や肉加工食品、牛乳、油脂類、砂糖類などの「油だらけ」になる食卓の中で、それを満喫することが「文化的」と信じるようになった。
 しかし、それらを食する為には、大量の畜産物や油脂類の生産の追われ、また不効率な、穀物を輸入してそれを牛や豚の家畜に食べさせるという“珍現象”が起っている。これこそ「悲喜劇」に他ならない。何たる
“無駄な浪費”“人手を掛けた徒労”をしている事だろうか。
 こうまでして、無駄を重ねる現象人間界の愚行は、いったい何だろうか。
 穀物の人間が食べず、わざわざそれを家畜に食べさせ、太らせて喰
(く)う、偏(かたよ)った「食指針計画」があるのだ。この世とは、徒労に満ちた、何たる「ろくでもないところ」だろうか。

 この計画に、多くの日本人は取り込まれようとしている。欧米の食メジャーに、まんまと唆
(そそのか)され、傀儡(くぐつ)の人形のように操られている。傀儡師(くぐつ‐し)の意のままに躍(おど)らされている。
 そしてこの計画に、日本人が誘導され、取り込まれた場合、そこに見るのは悪想念が作り出した「豹変
(ひょうへん)した地獄」である。食の誤りから、歪(ゆが)んだ想念が作り出した地獄である。
 果たしてこの地獄から、霊性を取り戻し、何人の人間が生還することが出来るだろうか……。

 昨今は、日本がある意図をもって、一方向に誘導される時代である。
 現代は「民主」という美名の下に、一つの流脈により、人工的に操作され、そして意図的に誘導されている。現代の歴史はまさに、特定の目的を持ち、特定の意図をもって、霊的波調を狂わせる世界へと、誘導されているのだ。
 その意味で、日本人の“食体系の破壊”とも、無縁でないだろう。

 日本人の食卓には「星条旗」が立ち並び、それらが処狭
(ところ‐せま)しと置かれている。そして今や、食事の主体は、米を食べなくなった日本人が、動蛋白で「油だらけにする食事」を美味と感じ、動蛋白を食することが豊かで贅沢な食事と思い込むようになった。
 そして“豊かな食生活”とは、霊的進化に逆行した、実は、肉や肉加工食品、牛乳や、チーズやバターなどの乳製品、油脂類、砂糖類などを使って、「日本人の食体系を“油だらけ”にして、古来より連綿と続いた日本人の高貴な霊性を曇らせる」ことであった。

 戦後、アメリカの持ち込んだ“現代栄誉学”は、アメリカでは既に廃れて久しいが、日本では、これが大盛況である。日本の栄養学者達は、白パンを主食に、肉や牛乳、乳製品、大型魚肉、少量の野菜や海草類、それに油脂類や砂糖類をふんだんに遣って食べることが「バランスのとれた食生活」と宣伝してきたのである。そしてこれが食指針の基本であり、日本ではすっかり定着して、常識となった。

 また、“アメリカナイズされる”ことに、日本の実情は些
(いささ)かの疑いもないし、動揺もない。むしろ、いいことだと、誰もが思い込んでいる。
 また、“日の丸”反対のアメリカ追随の「反日右翼」が権勢を揮いはじめた。「国際派」を提唱する人たちである。
 そしてイルミナティの息の懸かった“某政党”が誕生した為に、日本はアメリカの“第51番目の洲”として、ますますアメリカ的なことを実践することが、常識となって、これは日本社会に定着する様相が見え始めた。

 GHQ
General Headquarters/連合国軍総司令部)の、戦後画策した「日本解体政策」は、此処に来て99%が達成され、ほぼこれで完了したといえよう。そして多くの日本人は、アメリカの文化に酔う。多くは親米派の人達である。進歩的文化人までもが声を大にして、アメリカナイズされることに奨励の言葉を下している。そして巷では、ロック音楽に掻き乱される騒音が、あらゆる処で垂れ流されている。

 これでは想念の中に、ますます阿鼻叫喚
(あび‐きょうかん)の地獄絵を作り出すばかりか、日本人の連綿として先祖から伝えられた霊的神性までもを、穢(けが)してしまうだろう。
 いま、大半の日本人は「反日右翼政党」を支持してしまった為に、地獄想念はますます拡大化されるだろう。
 私たちは、そんな時代に生きているのである。



●霊性とは何か

 人間には誰にも「霊性」と言うものが備わっている。誰もが霊性を持ち得るが、人によって個人差があり、それを強く感じる人と、そうでない人が居る。そうでない人は、感性も薄く、外界の刺激に反応する感覚や知覚を享受する感受性が、些(いささ)か疎(うと)いように思われる。

 つまり、感性的知覚を通じて与えられる事物の判別に疎いようだ。しかし感性の中には、感覚によって呼び起され、それに支配される体験なども含まれ、また従って、感覚に伴う感情や衝動や欲望なども含まれるから、本来の意味からすれば霊性とはあまり関係がない。それは感性の中に、感情的支配が存在し、その感受性は一種の「欲望」であるからだ。
 欲望の渦巻く感情の中に、霊性は存在しない。霊性は、こうした利害外に存在している。無私があって、霊性は伴うようになる。

 最高の認識能力である、叡知
(えいち)によってだけ捉えられる超感覚的な世界を「可想界(mundus intelligibilis)」という。あるいは「叡智界」という。そうした世界に「霊性」は存在している。それは物理的な力を発揮するものではなく、霊性から起る「直覚」である。あるいは直覚説(intuitionism)に回帰される。
 直覚は、一般に、認識に関して経験的もしくは推論的な思考よりも、直観を優位とする立場をとる。特に、実在は直観によってのみ捉えられる分野が存在している。

 言うなれば、例えば、フランスの哲学者ベルクソン
Henri Louis Bergson/著に『物質と記憶』『創造的進化』『道徳と宗教との二源泉』などあり、ノーベル賞受賞者。1859〜1941)の学説に酷似している。
 ベルクソンの学説は、自然科学的世界観に対立する論理である。彼は物理的時間概念に、純粋持続としての体験的時間を対立させ、絶対的かつ内面的自由、ならびに精神的なものの「独自性」と「本源性」を明らかにし、具体的生は、概念によって把握し得ない不断の創造的活動であり、これは直観主義の為せる技とした。そして、これこそ「創造的進化」にほかならないと説いたのである。
 つまり「創造的進化」とは、霊性の進化であり、直観が物を言う世界のことを指す。直観が発揮される状態においてのみ、人間は霊的に進化を遂げていると言える。

 では、創造的進化を邁進し、これを持続していく為にはどうすればよいのか。
 それは人間の「直観」を養う為の努力であろう。直観が働かなければ、人間は未来を創造することができない。“未来のプラン”は、直観の中に宿っている。これは哲学的に言う「直観
(intuition)」である。
 一般に、判断や推理などの思惟作用の結果ではなく、精神が対象を、直接に知的に把握する作用をいう。直感ではなく直知である。
 これはプラトン
Platon/ギリシアの哲学者で、ソクラテスの弟子として有名。アテナイ市外に学校(アカデメイア)を開いた。著に『国家』『パイドン』『饗宴』『テアイテトス』『ティマイオス』『法律』など約30編の対話篇がある。前427〜前347)による、ディアレクティークDialektik/弁証法)を介してのイデア直観、ならびにフッサールEdmund Husserl/ドイツの哲学者で、現象学の創始者。著に『論理研究』『純粋現象学および現象学的哲学考案』『経験と判断』など。フッセルとも。1859〜1938)の現象学的還元による本質直観のことである。

 プラトンは、霊肉二元論をとり、霊魂の不滅を主張した。肉体的感官の対象たる個物は、真の実在ではなく、霊魂の目で捉えられる個物の原型たる普遍者
(イデア/ideaが、真の実在であると説いた。このイデア論に基づいて、認識、道徳、国家、宇宙の諸問題を論じ、哲学者の任務は“イデア界”を認識して、現実の世界をこの理想世界に近づけることにあるとした。

 ちなみに「イデア」とは、もと、見られたもの・姿・形の意である。これこそがプラトンの中心的概念であった。理性によってのみ認識されうる実在のことであり、感覚的世界の個物の本質あるいは原型を指す。また、価値判断の基準となる、永遠不変の価値をいう。そして近世以降は「観念」また「理念」の意味を含むようになる。

 一方、フッサールは心理主義を批判して、論理学的研究を行い、のち哲学を前提のない基礎の上に確立する現象学を提唱した。彼の後期は、人間同士の間主観性に基づく、日常の生活世界の構成にかかわり、そこからシェーラー
Max Scheler/ドイツの哲学者。1874〜1928)の「生の哲学」や、ハイデッガーMartin Heidegger/ドイツの哲学者。著に『存在と時間』『形而上学とは何か』『根拠の命題』『道標』など。1889〜1976)の日常的現存在分析し、また現象学的美学などへの道を拓いた人物として知られる。
 また、シェーラーは現象学的立場から、カント倫理学の形式主義に反対し、実質倫理学を展開した。更に晩年には、哲学的人間学の樹立を試みた人物である。

 更にハイデッガーは、キルケゴール
Soren Kierkegaard/デンマークの思想家。著に『あれか、これか』『不安の概念』『死に至る病』など。1813〜1855)の影響を受け、フッサールの現象学の方法にもとづき、人間存在の根本構造を関心、すなわち時間性として実存論的に分析した。後期では、存在は、自己矛盾的構造のもとに、決して姿を見せぬ根拠として思索を展開した。
 そしてキルケゴールは、合理主義的なヘーゲル的弁証法
【註】ドイツ観念論哲学の代表者のヘーゲルは提唱した哲学で、理念の弁証法的発展という方法で提示した。ヘーゲルは思考活動の重要な契機として、抽象的・悟性的認識を、思弁的・肯定的認識へ高めるための否定的理性の働きを弁証法と呼び、これによって全世界を理念の自己発展として認識しようと試みた。マルクマルクス、エンゲルスは唯物論の立場からヘーゲルを摂取し、弁証法を「自然、人間社会および思考の一般的な発展法則についての科学」とした「唯物弁証法」を展開した)に反対し、人生の最深の意味を世界と神、ならびに現実と理想、あるいは信と知との絶対的対立のうちに検(み)てとり、個的実存を重視した。更に後の、実存哲学と弁証法神学とに、大きな影響を与えている。

 「霊性」を説明するにあたり、歴代の哲学者や思想家の論理を展開させたが、直観と霊性の関係は、それほど密接なものを持ち、直観の持つ直接に知的に把握する作用こそ「霊性」の作用と言える。これは判断・推理などの思惟作用の、人為的な“直感”の結果ではなく、あくまで精神が関与している作用である。



●霊性を高めるにはどうすればよいか

 現象人間界には「霊的」な働きが不可視世界に存在している。この世界は肉の眼に見えない為、可視世界の眼では見えない世界である。したがって可視世界だけが絶対的なものでない。
 しかし多くの日本人は中途半端な無神論者である為、内心では眼に見えない世界が存在するかも知れないが、「科学的」という言葉を介するならば、やはり眼に見える世界だけは真実であり、眼に見えない世界は人間の作り出した迷信であって、これを“非科学的”と一蹴することで、辛うじて自分は科学的な思考をする人間のグループに入るということで胸を撫
(な)で下ろしているようである。

 この中途半端な無心論者達は、中学・高校時代、理数科系の点数は悪かった癖に、「科学的」というタンゴが非常に好きである。基礎的な微分積分も、基礎解析のレベルも、更には中学の連立方程式をも解けない者が、えてして使う言葉は「科学的」である。地球上で起っていることは、総て科学的でありたい、などと考えている。

 こうした人達は一方で、“寄らば大樹”と言うか、“長い物には巻かれろ”というか、多くの日本人か権威筋や権力指向が好きなようである。これらに翻弄
(ほんろう)され易い。日本人の思考の中には、常に「お上」という意識があり、また頼る相手を選ぶならば、力のある者がよいという考えがある。
 したがって未科学の分野まで、「権威筋が認めないから」という多数決の論理で、未科学分野を非科学の最たる物として、闇に葬っている風潮が強い。社会全体的にも、日本人社会には、眼に見えない世界を、科学的根拠のない迷信と決めつけ、オカルトの世界に扱
(こ)き下ろしている。

怪奇現象は、オカルトの世界に捨て置かれる現代科学主義。『番町皿屋敷』の怪は作り話に寄る迷信だったのか?!
 あるいは「意識体」として、非存在なる物が具現されたのか……。

 日本人ほど「科学的」という言葉が好きな民族(あるいは人種か?)はない。そして実在する、しかし肉の眼に確認できない「見えない心の領域」を“迷信”と決めつけたり、“非科学”と決めつけたりする国民は、他に見当たらない。いったい日本人は言う「科学的」とは、如何なる物を言うのであろうか。
 そして「心の見えない部分」を迷信と一蹴
(いっしゅう)する根拠は何処にあるのだろうか。

 世界人類史上、「未科学」と言われる分野は多々ある。しかし、多くの中途半端な日本人は、「未科学分野」を、“非科学”と一蹴しているのだから、これこそ悪しき迷信の最たる物ではないか。
 さて、「霊魂」とは、見えない心の領域が支配する「意識体」であることを認識しなければならない。



●食が現代人を「畸形な死」に導いている

 見えない心は、肉体と共有されている。則(すなわ)ち、肉体にとって、心が“主”で、肉体は“従”の関係にある。しかし、昨今はこれが逆転してしまっている。
 昨今の食の乱れは凄まじい。現代人は食糧危機を間近に控え、それでも“夏のキリギリス”さながら、一夜の食への満喫感を楽しんでいる。飽食に明け暮れ、美食に狂い、誰もが“グルメ”を気取って闊歩
(かっぽ)している。そしてこれらを求めて、何処までも押し掛ける。これこそ“狂った状態”と言えないだろうか。

 こうした「報い」は何
(いず)れ、清算せねばならず、やがて凄まじい勢いで現代人を襲うことであろう。美食に狂乱した、その報いは、現代順の頭上に降り注ぐはずである。そして食糧危機は、目前に控えているのだ。
 その時に直面した日本人ほど、辛酸をなめる人種はいないだろう。飽食に明け暮れる日々のツケは、やがて払わされるのである。食べ物を無駄にした、そのツケの清算は、実に凄まじいのだ。

 実は、こうした病気の背後には、日本人の食する食体系の誤りから起こる食事法に原因があります。
 既に、食と病気のかかわりは世界の医療の権威筋では証明されいることであり、日本だけがこうした指摘を余所目
(よそめ)に、グルメだ、美食だと、軽薄にも踊らされている。

 「食が乱れ、慎みがなくなれば、必ず、その肉体は病む。そしてそれは肉体だけに留まらず、精神も病み、魂は穢(けが)され、霊性は地に落ちる」

 これこそが、日本人にとって重要な危機であり、こうした現実に眼を向ける人は非常に少ないというのが実情である。
 したがって食生活の改善は急務であり、これを怠ると、体質も、気質や物事の思考までが悪循環に陥る。
 日本人の霊的神性の凋落
(ちょうらく)は此処に存在し、こうした凋落(ちょうらく)の元凶は、今、青少年の間に静かに蔓延していることは紛(まぎ)れもない事実である。

 人間は、刻々と変化する社会現象の中で生きている。人体もこうした現象に左右される。
 昨日の貌
(かお)と、今日の貌は厳密に言って違っている。それは私たちの躰(からだ)の細胞が常に新陳代謝を繰り返しているからである。
 人体を構成している体細胞は、絶え間無く少しずつ新しいものと置き換えられ、古いものを次々に脱ぎ捨てて、新しいものに着替えるという作業が繰り返されている。
 こうした置き換えは、臓器や器官によって異なるが、喩
(たと)えば、肝臓では約半月間ですっかり新品になり、頭髪は約半年で新しいものに抜け変わる。

 この「新しいものに置き換えられる」という現実の中に、病気が治り、健康を恢復(かいふく)するという、人体のメカニズムがある。
 病気に罹
(かか)っているということは、体細胞の働きが弱るからで、その原因は主に老廃物や腐敗物質の体内停滞にある。こうした体内停滞が起これば、異常変質が起こり、体細胞は病的化する。またこれが体質を低下させて、免疫力のない躰(からだ)にしてしまうのである。免疫力が失われれば、罹病(りびょう)した病気は更に悪化する。

 体細胞は常に変質し、次々に新陳代謝を繰り返して新しいものに置き換えるという運命を背負っている。この代謝作用に異常を来たのである。
 したがって新しく生まれる体細胞を健全にして行けば、自然に病的細胞は駆逐
(くちく)できるが、異常変質が起これば躰も心も蝕まれる。病変悪化は、此処にある。

 では、健全な新しい細胞を造るには、どうすればよいかということになる。
 それは日本人の食体系を正しく見直すことだ。それが
「食養道」の実践であり、それは食生活を改善して、血液の浄化を図るということだ。この浄化を「浄血」という。血が汚れてしまっては、身体の改造は覚束無いのだ。

 人間は、その人体構造が水冷式の哺乳動物の肉体を採用している為、躰の中を食物が流れていくメカニズムになっている。また、「水冷式」の特徴は、体液とともに、血液が体内を循環していると言うことである。
 血は食べ物から作られる。此処に「腸造血説」の根拠がある。腸壁から食物の栄養分が取り込まれ、その栄養分を以て、時々刻々と体細胞が作り出されている。こうした現実を振り返ると、人体は「食の化身」ということが言える。

 したがって気質や体質や思考能力までもが、食物の影響を直接的な受け、安易に「何でも好き嫌いなく、好きな時間に腹一杯食べる」という食物摂取の無責任な考え方は通用しないのだ。
 人間の人体を造る上で、適切な食べ物と、そうでない食べ物を間違いなく選び出して、人間に許された食べ物を食べなければ健全な人体を構築することは出来ないのである。

 昨今の社会現象を見てみると、食の間違いから起こる由々しき事態が起こっている。
 青少年犯罪の低年齢化、自分の事しか考えない悪しき個人主義、礼儀をわきまえない日本の少年少女の現実、喧嘩早く、好戦的で、切れやすい、我がまま放題の彼等の実態は、食の誤りから起こったものだ。
 未来の日本を担うべき彼等の使命は、今や暴力と性欲の誇示に費やされ、精神的にも肉体的にも、どこか病んでいる。こうした現状は、やがて日本中を覆い尽くし、亡国に向かわせるのは必定であろう。



●言霊を曇らせてはならない

 現代栄養学は、戦後日本に齎(もたら)されたアメリカの“機械理論”である。しかしこの理論も、その本家自身が否定を始め、誤っていたことを認め始めている。
 ところが日本ではどうであろうか。この誤った理論に信憑性と正当性を持たせ、有識者らの権威を引っ張り出して、枝葉末節な理論を唱え、食品企業と結託して、いい加減な“こじつけ”とともに、庶民に食の大量消費を促している現実があるので、私達は十分に注意をしなければならない。

 さて、大自然から人間に許された食物は穀類と野菜類のみであり、日本民族は食体系を「玄米穀物菜食と小魚介・貝類・海草類」で自らの健康を護り抜く必要性がある。つまり
「粗食・少食」を心掛けるべきなのである。

粗食・少食のメニュー。一般の「粗食」といえば“粗末な食事”とか“貧しい食生活”と思われがちだが、粗食とは、こうしたものを言うのではない。
 粗食とは、「素食」のことであり、日本と言う山河の自然の豊かさが齎した風土から生まれた旬の食事のことである。

 昨今の日本人は、「米」を食べなくなり、それに変わってパンを主食とし、副食として肉や食肉加工品、牛乳、乳製品、油脂類、砂糖類などばかりを食べ過ぎている。食卓には油だらけになる食品ばかりが並んでいる。然
(しか)も、それらの畜産物や油脂類を食べる為に、大量の穀物を輸入し、世界の食糧事情に大きな影響を与える結果を招いている。そしてそれらは、「世界の飢え」と無縁ではないのだ。

 その大きな理由は、「言霊」を真に活用する為に、“四ツ足動物”の肉を排除し、血液を濁らせてはならないからだ。
 動物の肉を摂取すれば、血液は今までに述べた通り、濁り、穢
(けが)れ、体内のあらゆる箇所を汚染して、霊的神性を曇らせるからである。

 霊的神性が曇れば、「見通し」の利かない状態になり、澄んだ言霊が破壊されるからだ。
 清浄な血液の通う人体を養うには、肉食を避けることは勿論のこと、「三白癌
(がん)」と言われる白砂糖、塩化ナトリウムを主体とする漂白精製塩、白小麦粉で作られた白パン、それに白米なども不可となる。「白い」ものが“毒”と心得るべきなのだ。
 『言霊七十五清音』を正しく、完全なものにする為には不可とされた食物を避け、霊的神性をより以上に向上させて、清音なる発声器官を通じて宣
(の)りを上げる祝詞(のりと)や神示を「三千世界」に響き渡るようにしなければならない。

 人間一人一人の行動は言霊に委ねられ、動物性や三白癌が入らぬ、濁らない言霊のみが真の意力を発揮する。行動と言霊を一致させる為には、「言霊が濁っていない」ということが必要不可欠になるからである。
 しかし今日、美しい日本語は忘れ去られて遣
(つか)われなくなり、横文字だけが支配する欧米文化が幅を利かせている。こうしたことが日本文化や日本精神を否定し続け、唯物弁証法に翻弄(ほんろう)された、悪しき大衆操縦だったのである。

 マルクスの社会主義・共産主義虚構理論は、実は“言霊破壊”に端を発していたのである。肉を食べれば血が穢れ、魂は曇り、霊的神性は低下するという医学的根拠において、この思想は背後からサポートされ、階級闘争というプロレタリア独裁という虚構理論を捏(でっ)ち上げ、前衛主義を則って、ひと握りの支配層と、その他多数の奴隷層を構築し、ひと握りが全体を自在にコントロールするという現実が社会主義国家で生まれた。

 こうした虚構理論に、ある種の済(すく)いを求めた知識階級が殺到したが、それは精神文化を破壊し、しいては言霊を破壊するテーゼの一環に過ぎなかった。
 そして社会主義が崩壊した現実を見ると、この虚構理論は一種の「外圧・外流」であったことが分かる。

 もともと神から降ろされた気は、直流的に人間の心に届いていた。しかし食を乱し、外圧的思想に入れ上げ、虚構理論に信憑性を抱き、それに人民の済いがあると信じた時、その唸波(ねんぱ)は歪(ひずみ)を生じる。その歪は横道にそれ、「外流」となる。此処から、「邪悪なもの」が忍び込んでくるのだ。
 外流は霊界・幽界・地上界とある中の、幽界と地上界の間を流れる邪気の流れであり、食によって霊的神性を曇らせた人や、心に歪のある人、波調の粗
(あら)い人、「唸(ねん)」などの昏(くら)い翳(かげ)りのある人が、その想念に冒され易く、ついには外流の影響に強く左右されてしまう。

 想念は言霊を基本とした想像の作用を伴うから、本当はもともと存在しないものであるが、想念を作り出すことによって顕在化する。本来“無き世界”が“有る”が如くに具現されるのである。その具現されたものの一つに、「地獄想念」があるのである。
 この具現は、信奉し、入れ込む人が多くなればなるほど、巨大化して、霊的組織が構築され、その信奉の範囲で物質界に実体化して現われてくるのである。
 そして“無いはずの地獄”も、地獄的想念を持っていれば、また、そういう信奉者
(肉食主義者で波調の粗い人)が増えれば、実際にそうした世界が現われる。

 ヨハネの「初めに言葉ありき」という、言霊を思い出して頂きたい。


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