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礼儀と武士道論 1

礼儀と武士道論







牛若丸と弁慶の図


深閑とした「杜」の中に、心に安定と「道」を全うしていく毅然(きぜん)とした自己を見い出すことが出来る。そこには、静寂(せいじゃく)なる自己と、求道者としての自己が同居している。

 そしてその静寂な杜の中からは、真実と奮闘する、己
(おの)が姿と生き態(ざま)がある。「道と一緒に生きるのだ」あるいは「道と倶(とも)に滅びよう」と決意する時、「道」は初めて人間を、生き生きとしたものに生き返らせる。


 『法旬経(ほっしゅん‐きょう)』には、達磨大師(だるま‐たいし)の言葉が記されている。その言葉には「自分こそ、唯一の寄方(よるべ)」としているのである。自分を除いて“頼みとする所”は自分自身だとしているのである。
 『法旬経』によれば、物事には全て意味があり、意味あるのものに人は導かれて“縁”を結ぶとしている。だからこそ、頼みとするのは自分自身であり、自らを創造して行くものは、自分以外にないとしているのである。自らを確立するのは自分であり、これに他者が、あれこれと介入することは許されないのだ。

 “天”ですら、独立独行、依頼心なく、奮闘努力するものを、天は助けて幸福を与える、と云うではないか。
 天は自立の精神を人間に求めているのだ。自立の精神があるの者だけに対して、大いなる「天の恵み」を与えるのである。
 自立を確立する精神の第一歩は、天地に適合した「礼儀」であろう。

 礼儀なくして、人の道は踏み出せない。“礼”と“義”をもって敬意をあらわす作法こそ、社会生活の秩序を保つ為に、人が守るべき行動様式である。
 そして人間はこの社会にあって、「非存在なる生き物」である。いつまで「生」をとどめるか、それは不確かな生き物である。だからこそ「非存在」なる存在なのだ。
 これについて『葉隠』は謂
(い)うではないか。
 「生きても死しても のこらぬ事ならば 生きたがまし」
(聞書・第一 118頁)と。



●死のうではないか、この大旆の下に

 現代は「芸は身を助ける」という世界が猛威(もうい)を揮っている。
 少しばかり、歌が上手な者がその纔
(わずか)な美声を震わせて歌謡界に君臨する。ある者は小鳥のように美声を囀(さえず)り、またある者は猛禽類や野獣の如きに咆哮(ほうこう)を放ち、観客を魅了する。
 少しばかり、演技力がある者が俳優や女優として、タレント業界に君臨する。映画界に、テレビ界に、雑誌やその他のマスメディアに所狭しと奔走して、お茶の間の人気者になる。

 また、少しばかり運動能力に恵まれた者が、プロスポーツ界に君臨する。
 彼等は投げ、打ち、叩き、飛ばし、走り、泳ぎ、這
(は)い、捻り、押し、引き、総てに力み、かつ蹴り、殴り、切り、掴み、絞め、倒し、伏し、潰し、脚を上げ、股を開き、くねらせ、悩殺し、セックスアピールを観客に投げ付けて……わが肉体により、他を圧して、その頂点に君臨しようとする。威圧しようとする。肉体の勇者として咆哮を放つ。ガッツ・ポーズの拳を振り上げて大衆にアピールする。この構造に不可解を感じる人間は、今では殆ど居なくなった。誰もが、それを当たり前と思い込んでいる。

 そしてどこの業界も、此処で糧を得る彼等は、人間の頂点に君臨しようと鎬を削り、ついには大衆を圧して、金・物・色を貪
(むさぼ)る。大衆も、金・物・色に吊られてそれに“右へ習え”をする。
 それを、社会と大衆が模倣し、世はまさに「一億総タレント時代」である。

 これに対して『葉隠』は謂
(い)う。
 「芸は身を助くると云ふは、他方の侍の事なり。御当家の侍は、芸は身を亡ぼすなり。何にても一芸これある者は芸者なり、侍に非
(あら)ず……」(聞書・第一 133頁)

 人間の本能は「他より、わが身を重んじて、自己を中心において他を圧する」ことである。自分を演劇の主人公に引き据えて、他を脇役に従えることである。
 現代では芸能タレントのみならず、プロ野球選手、プロサッカー選手、大相撲の力士、プロゴルファーなど、様々なスポーツ選手までもが芸能人の仲間入りし、スターとして英雄視される時代である。それはスポーツ界や格闘技界が“地続き”であるためである。

 そして人を魅了する専門的技術の持主が、総合的人格を脱して、一つの技術の傀儡
(かいらい)となり、その時代の英雄となって、大衆から崇拝される時代構造が出来上がっている。

 しかしこの時点で見極めなければならないのは、その世界の一芸に秀でた者が「一つの技術の傀儡」となっている事実である。
 傀儡とは、一言で云えば「操
(あやつ)り人形」である。操り人形には、それを操る人形師がいる。人形師は、本来は陰に身を隠して、人の眼には映らない。その陰の手によって、人形は操られる。人形に主体性はないのだ。

 人形は、ただの「くぐつ」に過ぎない。“くぐつ”は「傀儡
(くぐつ)回し(傀儡師(かいらい‐し)とも)」の手によって、まるで大道芸の“猿回し”のようの操作される。これを側面から凝視すれば、人の手先になって、その“意のままに動く者”の意味だ。陰の意図が働いているのだ。
 つまりその背景には、人を操って思いのままに行動させる者の意図があり、それは「策士」であったり、「黒幕」であったりする。新たに述べる間でもなく、芸能業界やスポーツ業界の構造は、上記の如く傀儡師によって、コントロールされているのである。

 その現実を、かの『葉隠』は見抜いたのだった。出雲阿国
(いずも‐の‐おくに)以来の歌舞伎芝居の正体を『葉隠』は見抜いたのだった。
 『葉隠』の口述者・山本常朝
やまもと‐つねとも/元佐賀鍋島藩士で、藩内外の武士の言行の批評を通じて武士の道徳を説いた)は、江戸中期の元禄時代(東山天皇朝の年号で西暦1688.9.30〜1704.3.13を指す)においても、現代と似通った町人文化旺盛の時代であった。これこそが「河原乞食(かわら‐こじき)」の正体であり、京都の四条河原で興行したこの芸能が、元禄に至って大衆演劇の総帥として開花したのであった。その“傀儡廻し”に操られる操り人形こそ、歌舞伎役者だったのである。
 この時代、武士が町人の真似をし、歌い、踊り、描き、作り、物を書き、そうした時代の操り人形になることを、大いに批判したのであった。

 一芸に秀でた者や芸能に興じる者を、『葉隠』の口述者・常朝
(つねとも)が罵(のの)り、これを批判する背景には、時代が芸能上手を持て囃(はや)し、人間を憧(あこが)れのスターに押し上げ、その時代人が、新しい風潮に染まりつつあったと言う事を物語っている。
 これに歯止めを掛けようとしたのが『葉隠』だった。

 この点においては現代も変わりない。
 現代は物質優先のテクノロジーの時代であると同時に、芸能人が天下を収める時代でもある。タレントと一切名の付くものは、時代をリードすることができる。大衆から英雄視される。まさに故郷に錦を飾る英雄となれる。この英雄に誰もが押し掛ける。
 一芸に秀でた者は、その一芸によって、社会から絶大な拍手喝采
(はくしゅ‐かっさい)を浴びる。だから英雄を夢見て、年端(としは)もいかない若者が殺到する。傀儡師の手先で操られる操り人形になることも知らないで、若者達は殺到する。

 しかしこの世界が、いかに派手に、いかに巨大に見せ、いかに英雄的に映ったとしても、それは人間の全体像を忘れた「一つの歯車」「一つのアクション」に過ぎず、本来の人間の目標を見失っていることに気付かない。
 掛け替えのない、「自らの人生」と云うものを、傀儡と姿として身を窶
(やつ)し、操る人形師の意のままに操られて、わが魂を売る。売れば暴利にありつくことが出来るからだ。しかし、魂までも売って、暴利を貪る生き方と云うものは如何なものか。

 芸能という商業主義の華々しい町人文化の「芸」は、やがてその人間の全体像を見失った時点で、もう、運命の陰陽からは、左右される時期に入っていると言えよう。栄えた者は滅ぶのだ。未来永劫のものではない。栄枯盛衰の例え通り、栄えた者はやがて滅亡する時が来る。

 まさに常朝が指摘した「一芸これをある者は“芸者”なり、侍に非ず」の言は、そのまま現代の芸能人が英雄視されるこの時代を、大いに批判し、胸のすくような思いがする。それは同時に栄えた者の、滅亡の暗示を裏で指摘している。

 人間の生きる模倣は“芸”にあるのではない。芸者の“一芸”にあるのではない。親に貰った纔
(わずか)ながらの美貌を、人前で自慢することではない。
 まず、人として道を歩むには、「礼」と「義」により、その「信」を全うしなければならない。“信”を致すことに出来ぬ人間に、「美」は存在しない。

 人間は「非存在なる生き物」であるが、その本能は「生」に固執するものである。「生」の本能は、生きるか死ぬかと言う状況に追い込まれた時、生に執着するのは当然の事である。
 しかし、ただ人間が「生」を美しく表現して、美しく死のうとした時、いつまでも「生」に執着したことが、その美を、遂には裏切ってしまうことを覚悟しなければならない。
 また、美しい死に、美しく生きるという、相矛盾する思考は相容
(あい‐い)れないところがある。もし、美しく生き、美しく死ぬことを全うすれば、それは醜く生き、醜く死んだということ同じになり、美しい「生」は、醜き「死」の換言されるということを雄弁に物語っている。つまり、美貌を全うした人の死は、美貌のままでは死ねないと云うことだ。

 この世では常に陰と陽が鬩
(せめ)ぎ合い、美しく生きて、美しく死のうとしても、実は醜き生き、醜く死んで行く行為と同じ結果になってしまうのである。更に、醜美は意識である為、美しく生きようが、醜き生きようが、最後の臨終に際して、それは生き方の醜美でなく、死に方の醜美が決定すると云うことだ。派手に、優雅に、生きた人間の生き態(ざま)こそ、その死に態は穢(きたな)いと言うのは周知の通りである。

 そして現代こそ、「美」に固執する時代で、“生の哲学”をもって、この世は牛耳られているのであるから、その「美」は、どこまでも「生」に固執し、その生き態
(ざま)は、“醜く死ぬ身”を選択することが多くなって来ている。現代人の多くは、醜き生き、醜く死ぬ、愚かしいまでの「生」を模倣していることである。
 その生の模倣こそ、多くに人間が、金・物・色に貪欲
(どんよく)になることではなかったか。

 そしてこの貪欲は、世の中の一切を損得勘定で考える思考を蔓延
(はび)こらせ、それを現代社会に見事に装填(そうてん)していることである。
 この結果、現代人はどうなったか。
 損得勘定が旺盛になった為に、「損」をすることを忌
(い)み嫌うようになった。現代の資本主義社会において、利潤を追求するのが当たり前で、損を出すことは許されないと言う、捻(ねじ)れた社会常識を作り出してしまった。また一方で、リスクを怖(おそ)れる。

 しかし、損を怖れ、リスクを怖れた人間の行為は、結局、突き詰めれば「動物の模倣」に過ぎなかった。礼儀も何も存在しない「野獣的に生きる動物」の模倣だった。それは自称「人間的」と100万遍繰り替えして、繰
(く)り言を放っても、絵に書いた餅で、それは口先だけのお題目となる。

 人間は、つまり損すること、あるいは何かの為に、自分の命を差し出すと言う行為が、つまり人間を偉大にせしめ、此処に至って人間は動物の本性から抜け出し、はじめて人となることが出来るのである。自分が進んで損をすることによって、人間となることが出来るのである。
 それは日々、死を、わが心に充
(あ)てて生きる、武人の生き方ではなかったか。
 そしてその「死」の持つ大義こそ、「大旆の下
(もと)に死す」という、人間の条件ではなかったか。



●不確実性からの解放

 「死を怖れた者は、やがて“死”から取り殺される」
 これがこの世の掟である。そしてそこに訪れるものは「永遠の死」である。損得勘定で打算的に生きた、派手で優雅な“生き態
(ざま)”は、そのまま「醜き死に態」へと変貌(へんぼう)する。

 人生を、生きる上において、動揺が起きるのは、打算的な生き方を繰り返すからである。欲に転ぶからである。迷うからである。
 常に損得勘定を考え、これに振り回されるからである。そして長らく、こうした考えに染まると、心に動揺が起り、やがて不安が付き纏
(まと)うようになる。

 それにより、不安と絶望の底に沈み、しだいに心の安住を失っていく。利害や打算によって、感情的になり、自制が効かない状態になる。心は荒々しく、嶮
(けわ)しくなる。腹立たしく生きていく事ばかりに振り廻され、やがてに不安と絶望が襲って来る。また同時に、概念的な思考能力が失われてくる。
 感情を荒立てていてばかりでは、真・偽や善・悪を識別する能力も失われる。これにより、更に不安や絶望の輪が拡
(ひろ)がる。

 こうした不安と絶望の淵
(ふち)で苦悩する「生」に対し、武士道は「何に頼って生きていくか」ということを否定し、「何によって死ぬか」と言う命題に迫る。
 「本当に生きる道」とは、あるいは「本当に生かされる道」とは、実は「何によって死のうか」という、「死ぬべきもの」を掴
(つか)んだ時、それが不安や絶望を排除して、鮮やかに浮上して来るのである。
 則
(すなわ)ち、「死して出発する捨てる生き方」である。

 普段、人は「何によって生きていこうか」と模索し続ける。生きる事ばかりを考える。生に執着する。それも、利害が絡み、打算が絡む生き方である。しかし、この生き方では、やがて行き詰まるのは必定である。
 そこで、「何によって生きようか」と考えるのではなく、「何によって死のうか」という次元まで、自己を掘り下げるのである。常に、心に死を充
(あ)て、「死ぬべきもの」を見付けた時、人は初めて長い間、苦しめられて来た動揺や不安から抜けだせるのである。

 「生きていくには、どういうふうにすればよいか」から、「何によって死のうか」と、一歩進化した生き方になり、つまり、心に死を以
(もっ)て生きる生き方は、「本当に生きる道であった」と気付かされるのである。

 「何によって生きるか」という建前的な考え方は、いつもぐらついているのである。損得勘定に振り回されたり、打算の絡んだ明日を見つめると、当然、そこから見た明日は、絶望的な明日であり、不安が付き纏
(まと)う明日なのである。心の中には、「明日はどうなるのだろうか」という、将来の心配が浮上して来る。明日の事を思い悩む。
 こうした心配に絡み捕られれば、そこから見える明日は、希望のない明日である。絶望の底に沈んだ明日でしかない。こうした明日は未来を失った明日である。

 では、こした愚から解放されるにはどうしたらよいか。
 努めて、意識する必要はない。無理に跳躍する必要はない。強くならねばと力む必要もない。

 ただ、苦悩し、迷い抜いて、絶望のドン底に落ちた時、その悲しみの涙で、自らの魂を洗えばいいのだ。悲しみと、疲れと寒さの中で、己の魂を洗えばいいのである。苦悩の中において、その苦悩から脱出するのだと藻掻けばいいのである。その藻掻きのよって、わが心は、本当の喜びが何であるか、“はた”と出くわすのである。そしてそれを知る。悲しみと寒さに打たれ、虐
(さいな)まされている、その中において、新たな勇気と喜びと望みとが、小さな膨らみとなって、芽吹こうとしていることを。



●死んで生き返る発想の転換

 人の心は、一度死ななければならない。これまでの思い込みと先入観で汚染された心は、一度死ななければならない。これまでの自己を否定しなければならない。
 智者は、いつも絶望と断念と諦めの中にあって、その中から新しい勇気と喜びと望みとを探し出して、見事に蘇って来る。死と、自己否定の真中により、新たな自己を再発見するのである。一度死んで蘇った自己は、もうこれまでの自己ではない。不安や苦悩や心配を終えた、新たな自己である。

 「生きる事」と「死ぬ事」の本当の意味を取り違えた時、そこに見えて来るものは、不安であり、絶望である。限りない恐怖である。そして見えて来るものの、悉々
(ことごと)くが、心に安住を齎(もたら)さない、力の無いものになってしまう。

 しかし、「何によって死のうか」という、「生に執着」するこだわりを捨てた時、心は本当の安住を得る。「何によって生きていこうか」というふうに考えずに、「何によって死のうか」ということを知る時、人は、長らく自分に付き纏ってきた、動揺や不安から抜けだせるのである。

 「何によって生きていこうか」と考えた場合、それは実に頼り無いものである。何によって生きるかという事を命題にした場合、それに伴う思考には合理的かつ適策ということを考え、その結果、生まれて来るものは「発展」というものであると現代人は錯覚し易いが、これは実は発展などと言うものではない。一見、進歩を標榜
(ひょうぼう)する適策が生まれたと考えがちだが、実は「進歩」というものには副作用が付き纏(まと)うものである。

 科学技術による進歩を標榜した場合は、同時に側面に副作用を伴い、これが「公害」として姿を顕わすのである。これらは進歩の土台であると考えられた、資源から来る圧迫である事は言うまでもない。例えば、石油等である。石油は無限に採掘できるものでもないし、永遠に安く供給されるものでもない。使えば使っただけ、二酸化炭素と言うゴミを出す代物である。

 人間の「生」を基準においた文明度合いを観
(み)てくると、人間はこれまで「不可知の知、あるいは「錯誤の集積」をやって物質文明を発達させたと言える。しかし、物質文明の発達は、混迷を深め、精神分裂的な副作用を伴って、この部分には眼をつぶり、表皮的な面ばかりを見て来た。その結果、人類の齎した科学的発展は、発展そのものに混迷を深めると倶(とも)に、分裂的発展から脱出できずに、究極的には、精神的な分裂と崩壊を招かざるを得なかった。

 その精神的な分裂と崩壊は、自己矛盾に回帰されるであろう。この自己矛盾から起こった、エネルギー省費を繰り返す度に、産業活動は膨張を来すと言うことであり、これは特にエネルギー効率の面に端的に顕われた。
 例えば、囲炉裏の火よりも、水車による発電の方が、水力利用の発電よりも、火力発電の方が、更には原子力発電が巨大なエネルギーになると、夢中になり、この中に突入して行った。

 しかし、これは表皮だけを観た現象を捉えていったことであり、その側面にあった副作用を考えると、それに要するエネルギー総量と、生み出されるエネルギー総量の比は、実質上、加速度的に悪くなるのである。これに多くの科学者は眼をつぶり、この副作用の側面を見て見ぬ振りをしながら、内部矛盾を蓄積していったのである。これにより、やがて爆発の危機に曝
(さら)されるわけである。臨界点のメルトダウンmelt down/炉心熔融)までの時間を数えるわけである。

 石油が枯渇すれば、あるいは原子エネルギーが枯渇すれば、太陽光線を利用すればよい。風力を利用すればよい。そうすれば公害もなく、矛盾も起こらないから、その方向へ進むべきだと安易に考える科学者もいるようだが、エネルギー効率の低下という点では、結局同じ愚を冒していることになり、人類の破滅の加速度を増すだけである。

 何故ならば、現代人と言う人種は、科学的真理は絶対的真理でないことに気付いてないことである。その為に、今なお、旧態依然の頭で、過去の仮説のひねくり回し、価値観の大転換を図ろうとしないことである。人間は何を為
(な)さねばならないかを知らないまま、盲目的に猪突している観がある。これは「生」を基準にしている考え方である以上、自分の手で破綻(はたん)を迎えることは必定であろう。



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