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死とドン底からの復活 1
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死とドン底からの復活 1

死とドン底からの復活






青春は快楽によって輝くのではなく、「青雲の志」である。その志によって輝く。
 快楽に偏
(かたよ)れば、既にそこから廃頽(はいたい)が始まっているのである。享楽によって人間は栄えることはない。享楽によって人間はそれにい溺れ、そして崩れる。却(かえ)って腐蝕(ふしょく)するのだ。一時の慰安に酔ってはなるまい。

 こうした青春の落とした“影”を追い掛ける人は、少なくない。
 人は、「古き良き時代」などといって、過去の出来事を回想し、懐
(なつ)かしむ。過去にあった、青春のありったけの力を投入し、燃え上がった青春を「古き良き時代」などと形容する。

 青春の滾
(たぎ)る血汐を、その理想の中で燃やし、身を投じ、その焔(ほのお)の中で身を灼(や)き尽くす。こうした時代のあったことを、享楽的な人生観に求める人も少なくない。
 しかしそれは、精神が腐蝕する第一歩に足を進めたに過ぎなかった。
 少年老い易く……というが、また「一寸の光陰軽んずべからず」であろう。



 人間はあらゆるこのを喪(うしな)った時、はじめて自分にはそれを持っていたことが分かる。つまり自分の持つ一切のものを放棄することなしに、それを保っていくことは出来ないというものがある。
 喩
(たと)えば、貧乏、苦労、不自由、束縛、家族、未来への不安、心細さ、借金など、そいった一切を背中に背負っていても、どうにもならない気持ちに押し込められて、そうした時に、はじめて分かるものがある。

 あるいは病気、家庭内不和、商売への不振、夫婦何れかの不倫、亭主の女狂い、嫁の仕打ち、姑の邪慳
(じゃけん)、その他のあれこれ一切など、毎日身を削る思いで暮し、日毎に心をすり減らし、命までもを縮めて人生を送っているのである。こういう「ドン底の気持ち」になる時、人間にははじめて分かるものがある。

 それは自分が何も持っていないと自覚する時だ。あるいは何も頼るものがないと自覚する時だ。自分は不幸せだと歎き悲しんでいる時、はじめて自分は何も失っていないという、自分の持つ「本当の持ち物」に気付くのである。悲しみの“ドン底”に沈んだ時、はじめて幸福と言うものが分かって来る。
 “悲哀”あるところには、本当の聖地があり、この聖地こそ、幸せが身に一杯用意されていると気付かされる安住の地なのである。

 さて、ドン底を定義すれば、物事の最悪あるいは最低の状態を指すようだ。そして経済的な「貧乏のドン底」などとも評され、此処に落ちたものは、ゴーリキーの戯曲『どん底』
(1902年初演)に代表されるような、木賃宿を舞台に、殺人・自殺などの事件が起き、日雇い労働者、泥棒、いかさま賭博師、売春婦、巡礼などが、それぞれ“アフォリズム風”な人生哲学を語るこの次元のものでない。
 人生の“ドン底”とは、簡潔鋭利な評言、警句、金言、箴言
(しんげん)などを一々経なくても、そこに落ちる事により、新たな道が開けるのだという。
 落ちて這
(は)い上がる事は、人生経験者からの謹厳を得なくても、自らで感じるものである。
 「皆、死のうではないか。この旗の下
(もと)に……」と、心から叫べるものを得た時、惰夫(だふ)でも勇者となるのだ。


●眼から鱗が落ちるとき

 人は、死を覚悟し、死を致すとき、惰夫(だふ)でも「勇者」になる。臆病者でも、途端に勇猛果敢(ゆうもう‐かかん)な戦士となる。恐怖に脅(おび)えることを、消滅させることが出来る。
 こうして、惰夫が勇者になったとき、懐疑
(かいぎ)も不安も消える。“ただ前進あるのみ”という積極的な気持ちになる。戦って、戦って生き尽すのだと言う勇気が起こる。
 勇気は他人から貰うのでなく、わが裡側から沸々と湧き起こるものなのである。他人の物が伝染したりはしない。既に内蔵されている。勇気とはそうしたものである。他人から貰えるものでない。最初から内蔵されて人間は生まれてきているのである。

 “死のう”と決意したときから、死んだとしても、後悔をしない気持ちが起こる。そして、この気持ちに到達したとき、不思議にも、死ぬどころか、却
(かえ)って自分自身を大幅に生かし、成長させているのである。外の求めず、裡(うち)に求めるべきなのだ。

 最悪の事態を回避する為には、まず「捨身
(すてみ)になる」ことが大事であろう。捨身になることにより、一度死に、そして死んだ後に、再び蘇(よみがえ)る。復活とは、こうした構造の中に存在する。

 この世は、「何によって栄えようか」という甘い考えは、通用しないようになっている。理不尽な上に、極めてシビアである。こうした状況と共存していく為には、捨身になって「死のうではないか」という覚悟が必要である。
 そして“死のう”と決意をしたのであるから、喩
(たと)え死んだとて、悔(く)いはないはずだ。そこに“捨身”が出来る。

 このように捨身になれば、却
(かえ)って死ぬどころか、不思議にも蘇(よみがえ)る。蘇って、自分を最大限に生かしきるのだ。これが「捨身」であり、人を活かしきる偉大な行為なのである。
 この「偉大な行為」の下
(もと)には、惰夫(だふ)でも、途端に勇者になる。臆病者でも、勇猛果敢な戦士になる。逆境でも、踏ん張って留(とど)まる事が出来る。軋轢(あつれき)に持ち堪えることが出来るのである。簡単に敗れないのである。

 「何によって生きようか」とか、「何によって栄えようか」では、極限状態に陥って、焦り、じたばたするばかりである。だから、損得ばかりを考えてしまう。ありもしない幻
(まぼろし)に取り憑(つ)かれて、「恐れるものは皆来る」の現実を作り出してしまう。自ら不幸を招き寄せてしまう。避けるべきだ。
 大事なことは、こうした損得を考えることを捨てることである。捨てることにより、生き返り、更に生かし切る“活路”が開けるのである。真実は捨てる中にある。

 捨身になって、「いま自分は死んだのだ」と思えば、その「死」によって、安住
(あんじゅう)の生命(いのち)を得る。
 人は「依
(よ)って以て、死ぬべきもの」を捕まえたとき、人は、はじめて“心の安住”を得る。長い間の迷いや、心の動揺や、不安や苦悩から抜け出せる。これこそが、眼から鱗(うろこ)が落ちるときである。

 「生きていくには、どうしたらよいか」と、建前論によって模索するから、いつも迷いが起こる。また「こうしたら損をするのではないか」と不安を抱いたり、損得勘定で物事を考えるから、いつも心配事は去らず、利害や打算に左右されて、少しも心が休まることがないのだ。
 株式投機やその他のマネーゲームに奔走する人は、こうした感情に左右され、不安材料を抱えて生きている人である。一喜一憂に、感情を掻
(か)き乱す人である。それでは心は休まらない。焦りばかりが先行する。焦りは、錯覚や幻覚を生む。ついに譫妄(せんもう)に陥る。
 このような状態に陥ると、安定が得られず、安定が得られないから、「力」がないのである。損得を超越したところに、
「真の力」が存在していることを知るべきである。

 肚
(はら)に力を入れ、肚を据(す)えて懸(か)かるには、まず「捨身」になることだ。「依(よ)って以て死ぬべきもの」を捕まえることだ。
 安住と安らぎを得るには、「何と一緒に死のうか」あるいは、「これと一緒に死ぬのだ」という、「一つの死ぬべきもの」を見つけさえすればよいのである。



●人間の命は地球よりも重いというウソ

 この世のウソに、「人間の命は地球よりも重い」というのがある。そして誰もが、このヒューマニズムに飛びつき、そのように思い込み、またそれを支持したりする。これは何を根拠にするものだろうか。
 だが、このウソほど甚
(はなは)だしいものはない。誰もが気付かない、無意識の中に存在するウソだ。大半の人は、安易にこのスローガンを信じている。

 確かに人命は尊重すべきものであろう。
 しかし人命を尊重する事と、こうした絵空事として形容するスローガンは、決して同じものではない。
 人間は非存在なる生き物である。生と死が一生に同居している。同居しているから、非存在なる生き物で、いま生きていると言うことは、「いずれ死ぬ」と言うことを顕わしている。
 生きているのが本当なのか、死んでいるのが実体なのか、それを明確にさせれば、“この世”と“あの世”との関係にもなろう。そして“この世”にいるのが本当なのか、“あの世”にいるのが本当なのか、その真相は此処まで追求しなければならなくなる。

 つまり、本当は死んでいて、仮に、奇蹟で「生」を全うさせてもらっている、と考えるのが真実なのだ。生かされているのだ。自分が勝手に生きているのではなく、生かされているのである。
 人間が生きていると言うことは、毎日が奇蹟の連続である。生きているのが当たり前でなく、生きているのは、天命により、
“生かさせてもらっている”と考えるべきであろう。
 だから毎日生きていると言うことは、その「生」の中に奇蹟があり、それが幸運にもある期間だけ、「生きている」という奇蹟が起っているのである。このようにして、非存在なる人間は、ある時間の限定に限り、「生」を全う出来るのである。

 時間限定で、例えば長くとも高々百年で人生を終え、その後は死へ向かうことになる。明日死んでも致し方ない……という日が、必ず遣
(や)って来る。そして死を目前に控え、死後、物質ではない魂と言うものが、生き残る場があるか、そうでないと思うのか、それはその人の持ち合わせている「死生観」によろう。死と生についての考え方は、これまでの生きてきた足跡によろう。

 世の中には、「死ねばそれでおしまいよ」と考える人は、実に多い。
 しかしこうした人が、自分の死後、墓に入る事を望んでいるのは何故だろうか。死ねばおしまいならば、墓は要らないではないか。死後の世界を信じないのであれば、墓などは無用の長物となる。死後の世界や、遺族の願いは、死した後、聞き届けられないのであるから、そうしたものは要らないではないか。
 また、自分の死後、法要などを欠かさず行ってくれるよう、遺族に望んでいるのは何故だろうか。この思考で生きた人は、「死ねばそれでお終いよ」と云った人とではなかったか。
 彼等は無神論者であったはずだ。神仏を信じない、無心論者だった。その上、死後の世界など絶対にあるはずがないと思っているのだから、自分の死後は、全てが消滅するのではなかったか。

 死ねば、それで終りなのであるから、肉体も魂も何も残らないはずである。何も残らないのであるから、自分の死後の事は何も考えないでいいはずである。
 ところが、こうした中途半端な無神論者に限って、墓や法要などを気にする。この発想は何処から起るものだろうか。甚だしい矛盾している事にも気付かないのだ。自身が中途半端な無神論者であるにも拘
(かかわ)らず、一方で“中途半端な神仏離れ”しかできていないのが実体である。

 そしてこうした人は、本来“自分は特別”である、という意志を持ち続けている。
 この「特別意識」が、魂を粗末にしているのである。
 この意識を持つ人は、常に自分は特別と言う意識を持つが故に、事故に遭遇
(そうぐう)したり、その他の災難に遭遇することもないと思い込んでいる人である。禍(わざわい)とは無縁であり、禍に遭遇する人間は、全く自分とは関係のない世界で、不運な人間が遭遇すると思い込んでいる。死も同じ意識で捉(とら)え、自分以外の者だけが死んでいると考えるようだ。
 そして常に、死から逃げ廻っている側面がある。死とは無縁と思いながらも、死ぬのが恐いのだ。そこに死を恐れる因縁が生じる。因縁は必然だから、とことん追い掛けてくる。逃げれば追うがこの世の現象である。

 人は誰一人として、自分は別だ、自分には死も無縁だなどと思い込んでいる人は、多いようだ。
 また、現象人間界の人間を遣
(や)る、一人ひとりは、誰だって死にたくない「生」の願望に固執している。生に固執し続ければ永遠に生きられると考えている。それは妄想に過ぎないのだ。
 自分が死にたくないのであるから、また、自分の側近者は、誰だって死なせたくないと願っている。家族に於ては、その意識が濃厚だろう。

 命は、存分に守りたい。守護したい。自分だけは生き残りたい。人は死んでも、自分だけは生に固執する。
 不幸に陥って、早く死んだ方がいいなどとは、誰も願わない。とにかく生き残りたい。その願望は、現代人為は特に強い。しかし、「人間の命は地球よりも重い」というのはウソだろう。
 人間は死ななければならない時は、幾らでもあるのだ。したがって、問題は、自分だけが動物として生き長らえることではあるまい。動物として生き長らえても、人間の魂が震
(ふる)えるような感動がなければ、生き長らえても、無意味なのである。植物状態にされて、ただ生きているだけなのである。辛うじて生を繋ぎ止めているだけなのである。そんな生など“糞食らえ”である。

 多くの日本人は戦後の平和教育の中で、「生」ばかりを教わって来た。「生き抜くこと」こそ、正しい考え方だと教え込まれた。
 その結果、ひたすら生き長らえることばかりを考え、死から逃げ回って来た現実がある。動物的に生き長らえて行くよりは、むしろ「いい死に方」を学ぶべきではないのか。死すべき時に死ねないのは不幸である。このことを「不幸」というのだ。

 人間が老齢に達すると、死は、より身近なものになる。そうした時に、じたばたしないで、これから訪れる死を直視する必要があろう。また、本来老齢の年齢に達して、死が目前に迫っていると言う気持ちを常に持ち続ければ、そこで生きる時間は、濃厚になろう。時間を濃密なものにするには、自分が“明日死ぬかも知れない”という緊張感を持つもとである。日々を死に充
(あ)てれば、そこで過ごす時間は濃厚になる。充実した日々になる。
 時間そのものが貴重であるばかりでなく、その中で生きている人にとっても、その時間は非常に有意義となる。

 そして根底に、「死を覚悟する気持ち」があれば、仮に窮地
(きゅうち)に追い込まれ、ドン底まで落ちたとしても、一度死んで、新たに生まれ変わると言う「新生」が働くから、窮地を窮地と思わず、打開することも出来ようし、同時に、はじめて人間は、自分が“人間である”ことを感得しよう。
 紛
(まぎ)れもない事実は、そこには確実に濃厚な時間が流れるということだ。
 窮地にある場合、根底には常に苦悶
(くもん)が付き纏(まと)う。その側面には、生き死にの淵が面しているということだ。
 そうなると、ただ必死であるというだけでなく、居直りすら出て、捨身の態勢が自然と生まれてくる。後がないという気持ちになる。果たしてそれは“濃厚な時間の中に生きている”という感覚ではあるまいか。

 「魂の雄叫びを上げる」という言葉がある。
 ドン底に落とされ、這
(は)い上がる原動力は、この、命の雄叫びであろう。そして、雄叫びは、同時に自分を見詰め直す、またと無いチャンスにもなるのだ。
 人間はドン底に落ちないと、自分を見詰め直す事ができない。今一度自分というものを見詰め直すには、ドン底に落ちてみるしかない。絶望を味わうからだ。

 しかし多くの現代人は、「生」に固執する人種であるから、目前に死が接近すると、物質的な救いを求めて、逃げ回るようだ。そうした人に、自分を見詰めないまま死んで行く人が多い。だから、いつまでたっても死生観を解決出来ない。死から逃げ回る一生で終わる。
 こうした人生は、あたかも死の淵を輪廻する人生と同じである。堂々巡りの人生である。死生を解決出来ない人生である。迷いっぱなしの人生である。
 迷いっぱなしでは、正と死を解決することが出来ず、これで終焉する人生は、再び六道を輪廻して、また迷いを繰り返すことになる。これこそ、“終わりなき生き方”といえよう。

 日本は他の近隣国より、文化や経済が進んでいると言っても、人間としての“一生の見通し”については、後進国の域から脱していない。日本は精神的後進国だ。
 この部分は退化の途上にある。そして、「見通し」という、一寸先の闇
(やみ)を見る、その眼力は、やはり鈍感で、それに誰も気付いていないと言うのが実情のようだ。
 それは物質的な欲に眩
(くら)んでいるからだ。“科学”と言う名の迷信に晦(くら)まされているからだ。それがまた生に固執する社会構造を作った。

 更に、こうした鈍感な部分は、肉体だけに固執する考えに支配され、肉体と生活が物質的に救われていれば、魂までもが救われると錯覚しているのである。それも「魂を信じていない」癖
(くせ)に、である。最初から「霊魂を馬鹿にしている」癖に、である。
 これこそが日本人の、中途半端な無神論者の、最たる悪しき性癖と言えよう。幾ら唯物論者を気取っても、所詮は中途半端な神離れしか出来ていないのである。だから、苦しいときの神頼みを遣るのである。

この写真の納骨堂は、ある新聞に折り込まれた、納骨堂の折り込み広告である。霊魂の存在を信じない癖に、納骨堂や墓の業者のカモになる日本人の神仏観。“科学的”と云う言葉が好きな癖に、その実は、霊魂商法の手玉に取られる。“カモネギ”こそ、中途半端な無神論者の盲点である。

 中途半端な無神論者達が、納骨堂や墓の業者を肥
(ふと)らせる。人の死と、人の死後を扱う商売こそ、従事する業者を最も肥らせるのである。葬式坊主の「肥大」は、中途半端な無神論者によってつくられる。葬式業者になぶられて、弄(もてあそ)ばれる事こそ、霊魂の冒涜(ぼうとく)ではないか。

 こうした錯覚の元凶は、特に日本の場合、誰もが民主主義を標榜(ひょうぼう)し、この政治システムこそ、世界で最も進化した「民主」主体の政策が行われていると言う、錯覚に合わせ、また日本人のように国民全体が“粒揃い”で、誰もがそれなりの平均的な“大卒”と云う学歴を持ち、そうした人達は小利口(こりこう)であるが故に、この振幅の小ささが、同時に物質的な追求に向けられたものと思われる。
 そして、この背景に平等主義や、「人間は誰もが平等である」というスローガンの呪縛
(じゅばく)に掛かっている国民性が横たわっているとも言える。誰もが安穏(あんのん)なる平和を願って止(や)まないのである。平和ボケの元凶は此処にある。

 当然これでは、偉大さの振幅の幅も小さく、平等意識の中で、小さく、粒揃いになってしまう。まさに“ドングリの背比べ”のである。
 デモクラシーとは、裏を返せばドングリの背比べなのだ。誰一人平等の規制枠から出る者がいないということは、誰一人として、優れた人間がいないということを顕わしている。この現れが、顕界
(げんかい)という「ろくでもないところ」なのである。実に人間界は「ろくでもないところ」なのである。

 この顕界思想は、直視すればボロは隠れて見えないが、裏から見ればボロ丸出しということになる。
 それは「平等」という意識から、平等の目で見た場合、民主主義国家ほど、市民が取るに足らない存在であるということだ。
 民主主義デモクラシーを建前に、民主主義国家は、その国の政府が市民の間に均等な状態を作り上げ、それを幻想させるということだ。この幻想において、その中に閉じ込め、「監視し、管理する社会体系」が出来上がるからである。その監視や管理は、社会主義のそれである。一見人命尊重のように錯覚するが、監視管理体制は、ズバリ言えば人間牧場的な自由のない枠の中の生き方が余儀なくされるのである。

 万一、市民が一人一人の自尊心に芽生え、自由を叫び、これによって奮闘する社会が出来上がった場合、その国の国家は、それは一つの重大な不安材料になるからである。その意味で、「平等意識」は、市民をドングリの背比べの中に閉じ込め、競わせないということで、社会の安定が図られるからである。この社会形態はまさに人間牧場的である。
 要するに、民主主義国家というのは、「誰もが、平等の名において“ひとかどの人物”という国では、裏を返せば“誰一人、重要な人物”でなない」ということなのだ。
 これこそ人間牧場の定義である。

 つまり、「民主」と言う言葉の背後には、「誰もが主役であり、誰もの命が地球よりも重く、そして人は皆平等だ。平等だから、誰もが幸せになる権利がある」という、激しい平等意識の“隠れみ”のが横たわっているのである。そして、誰もがこの言葉に振り回される。生命の尊厳を、「地球よりも重い」と思い込みながらも、現実には個人の生命が微生物視される現実を錯覚して、平等を高らかに謳
(うた)っているのである。

 しかし良く考えれば、「誰もが大事」と言うことは、逆から検
(み)て、「誰もが大事でない」という風にもとれる。こうした国家ほど、高が知れた集合体と言えなくもない。日本に優れた政治家が出ないのかこのためであろう。平等主義はこうして、日本人をひと回りもふた回りも小粒にてしまったのである。

 戦後の日本で叫ばれた平等主義とは、実は人間の平等を説くものでなく、平均化の危惧
(きぐ)を兼ね備えていたのである。真の平等と、平均の意味を取り違えたのである。そして、平均化を好む日本人という人種が出来上がったのである。
 つまり、民主主義の背後に隠された言葉は、「社会的平等」という表向きの謳
(うた)い文句の裏に、誰もが“一廉(ひとかど)の人物”という国では、誰一人として「重要人物は存在しない」という意図が隠されていたのである。。
 だから、「人間の命は地球よりも重い」という、ヒューマニズム的スローガンは“ウソ”ということになるのだ。
 マスコミにうまく操作された、最たる現象といえよう。
 平均的微生物は、一匹や二匹、死のうが生きようが、大勢には影響ないのである。



●断末からの生

 平等意識が働く世界では、自分と違う生活や、自分と違う考えというものがタブー視され、忌み嫌われる。したがって、そこに生きる愛すべき微生物は、極めて平均化される。どうしても、そこに生きる生き物は、小粒で、粒揃いとなる。そして、側面に哲学を携(たずさ)えていても、平凡な哲学しか持ち得なくなる。あるいは哲学がないかも知れない。

 当たり障
(さわ)りのない言葉を選びながら、徹頭徹尾、尻尾を掴まれないような語源で濁(にご)して曖昧にし、総てが平均化してしまう。その代表がサラリーマンである。目立ってもいけないし、目立たなくてもいけない。
 こうなると極端な幸福に恵まれている人も、極端な不幸に見舞われている人も、たいして大勢いる訳ではなく、一部の人が、極端な幸不幸を背負っていることになる。中産階級とはそうした階級である。白でもなく黒もでないという、グレーゾーンの平等意識である。

 周りを見回しても、似たり寄ったりの幸福と、似たり寄ったりの不幸しか存在していないようだ。
 また、世間もそうしないと気がすまないようだ。極端な幸不幸は好まない。皆が薄く幸せであり、また皆は薄く不幸せなのである。その何
(いず)れかに、極端に偏(かたよ)っている人は、極めて稀(まれ)と言う事になる。平等と平均好きの現代日本人は、自身で“個性の座”を持つのは御法度なのである。

 さて、この極めて稀なものを手にする人は、何れも「強かった」ということが言えよう。精神的に強かった人である。
 それなりの幸福を、貧困から築き上げた人は、貧困をバネにして幸福や成功と言うものを手に入れた人であろう。また、今ドン底で這
(は)いずり回っている人は、これから幸福や成功を手に入れる人かも知れない。

 特に苦難は、人間の精神を強くする。但し、苦難にへこたれない場合には、である。
 苦難の中で、不遇の底で、または長い心労の後に、幾度か崩れ掛かろうとする自らの心を励まし、あるいは「強くなければ」と叱咤
(しった)しながら、ドン底から立ち上がる人は、強い人である。
 何事も、ドン底に落ちて、最下位から這
(は)い上がって来る人は、心の身繕(み‐づくろ)いが上手な人である。遂に新しい道を見つけ出し、希望を求めることのできる人は、おおよそこうした人である。

 生きていくと言うことは、何らかの意味で、今の現実に挑みかけて行くことである。外に向かって抗
(あらが)うことである。「生」を全(まっと)うするには、“外の存在”に働きかけて行くことなのである。
 苦難の底にあって、虐遇
(ぎゃくぐう)のド真ん中にあって、ただ自らの持てるありったけの力を尽して生きていくという、これだけで「生」の意義は全うされているのである。苦難から逃げずに、そこで踏ん張ることが、次なる幸運の光に辿(たど)り着くのである。

 生きる力とは、ありったけの力を出し惜
(お)しみせずに、これを出し切るということである。全力を出し切ると言うことは、自らの生を、ありったけ表現したと言うことになる。持っている力を出し切って、隈無く出現させたと言うことだけで、人は自らの「生」の意義を全うしたことになる。これこそが“個性の座”なのである。意志・思考・創造など高次精神機能と連結した個性の座なのである。
 ドン底に落ちて、はじめて智慧が巡らせるのである。

 「生」とは、不断に自らを現実へ表現して行くことであり、存在の中へ、自らの形を顕わして行くことである。その形が、円
(まる)かろうと、四角であろうと、あるいは歪(ひず)んでいようと、それは問うところでない。

 絶え間無く自らを顕わし、現実へ働きかけて行く力こそ、「生」の表現であり、これを失うことは「死」を意味する。永遠の死を意味する。
 したがって、人は人生の格闘の中で、闘い疲れて倒れようとする時、あるいは悲哀に打ちのめされて崩れようとする時、自らの心に向かって「もっと強くならねば」と喚
(さけ)ぶのである。そしてそれは、断末に際して、「生」を取り戻す、心に向けての熱い息吹(いぶき)となる。そして勇気を呼ぶ。裡から沸々と湧き起こる。それが勇気なのである。



●自己の再受け取り

 しかし、ドン底の底を這いずり回っていて、自分に叱咤激励し「強くなければ」と繰り返すことは、何も自分を強くする所以(ゆえん)でない。そう、何度も繰り替えしたところで、決して強くはなり得ない。
 「強くなる」とは、行動が伴
(ともな)って初めて強くなれるのである。
 「強くなる」の呪文の繰り返しでは、単なる“繰
(く)り言(ごと)”であり、老人や姑(しゅうとめ)が口にする愚痴と、何ら変わりない。
 「強くならねば」と意識して躍動したときに、アクションを起こした時、その強さは現実に、育って行くのである。

 だから「強くなる」と意識して、次に意識を躍動に変えて、行動に移す必要がある。
 では、真実に自分を強く躍動させるには、どうしたら良いか。

 それは、ただ悩むによって自らの魂を涙で洗い、苦によって、惨めな苦しみ態
(ざま)をのたうちまわって苦しみ、それは悲しいことだが、疲れと寒さの中で震(ふる)え、それに耐えて、自分の心を育む以外ない。それには、徹底的に打ちのめされる必要がある。甘えの中では育たない。

 悩みの中に於て、その悩みを脱しようと藻掻
(も‐が)き苦しむことにより、心は新しくなり、“本当の喜びが何であるか”また、そうした喜びに、“はた”と出会(で‐くわ)すのである。そして、その意味が理解できてくる。
 悲しみと寒さに打たれ、虐
(さいな)まれている条件下に於て、新たな喜びと新たな力を獲得する糸口を掴むのである。その糸口は、最初は実に小さなものであるが、それに希(のぞ)みを賭(か)けて育んで行くうちに、徐々に膨らみはじめるのである。

 こういう状況に至る為には、人の心は一度死なねばならない。人は厳しい現実下で、一度、自己を否定しなければならない。プライドを捨てねばならない。自尊心を傷付けねばならない。人格も一度剥奪されればならない。こてんぱんにやっつけられて、そこから立ち上がらねばならない。

 智者は……、本当の「生」を知る者は、いつも絶望と断念の中から、“新しい力”と“希望”を探り出す。死と、自己否定の真中に身を置いて、そこより自己を見い出すとき、初めて自己は、最早
(もはや)不安と苦悩を終えた自己である。再生がなった自己である。復活を果たした自己である。

 弁証法的に以上の事を説明すれば、“A”を“非A”を通して、再受け取りすることである。
 したがって、初めからの“A”であっては、それは否定を通さぬ「ただのA」ということになる。
 だから自己も、一度は絶望を通じて自己否定をし、それを「絶望のフィルター」に通さねばならない。悲しみや苦しみが、自己を蘇
(よみがえ)らせることは、自己を弁証法的に「再受け取り」することなのである。



●何によって死ぬか

 悩みと絶望、不安と苦しみとを通さぬ自己は、所詮(しょせん)「ただの自己」である。進化の無い自己である。浅薄(せんぱく)な、これまで通りの自己肯定である。思慮の足りない自己肯定である。
 こうした自己では、いつか不安や苦難や、あるいは絶望が襲ったとき、それに直面して、砕け散る疑懼
(ぎく)を背負った脆(もろ)い自己である。裏には“脆さ”が潜んでいる。

 こうした自己では、例えば朗
(ほが)らかさを感得するにも、悲しみを通した後の朗らかさでないから、悲しみを経験しない、娯楽や慰安の席で感じる、そうした表面上の朗らかさに酷似する。また、それは悲しみや苦悩を克服した快活さではないから、悲しみや苦悩を通過する前の快活さに過ぎない。形状は付け焼き刃に過ぎない。本物でない。

 真実の朗らかさや快活さは、絶望のドン底から生まれでる。悲しみや寂寥
(せきりょう)や、苦悩によって、洗われた後に漸(ようや)く姿を顕わして来る。こうしたものに出くわすと、もう以前のように、不安や悲しみや寂寥と言ったものは何も残っていない。それらは、既に解決され、経由されて「新生」しているからだ。この条件において本物が生まれる。この中で生まれた朗らかさは、まさに歓喜なのだ。

 自己の作用を他に及ぼすことを「能動」というが、能動を繰り返して喋ることが能動的であると言えない。
 反対に、能動の否定を通すことが、“本当の能動”の発生するところである。それが真に、能動を生き返らせる道となる。この働きかけは、消極的な道ゆえに、現実においては能動の真諦
(しんてい)を生かす道となる。究極的な真理は、此処にあるのだ。
 東洋の智慧
(ちえ)は、能動が持つ、この秘密を知っていたのである。
 則
(すなわ)ち、能動である為には、一旦は不安と絶望のドン底に沈み、そこから這(は)い上がって、生き返って来なければならないからである。落ちて死んで、そこから新生したものが本物なのである。

 「本当に生きる道は何か?……」あるいは「真の力は如何にして得られるか?……」を、長い苦労と探索の後に、これが訪れることは明確となったが、まだ、「何によって生きて行こうか?……」と模索している間は駄目である。
 つまり、「何によって死のうか」という、“依
(よ)って以て死ぬべきもの”を捕まえなければ、こうしたものは本物にはなり得ない。つまり、「何によって死ぬか」という真諦だ。死ぬ何かを見つけなければならない。

 人はこれを捕まえたとき、初めて心に安住を得る。長い間の悩むや不安から脱出できる。
 だから「生きていくにはどうしたら良いか」というだけの模索に留まっては駄目である。こうしたタテマエから抜け出し、損得勘定で物事に臨まないことだ。損得勘定で物事を考えると、心はいつも不安に駆られ、ぐらつくものである。損か得かばかりを考えると、“明日はどうなるのだろうか”と言う不安が起って来る。

 不安は心配事の種になる。
 この種に悩まされて、心配事が去らない。これは打算的に物事を考え、損得ばかりに左右されているからである。こうなると心の休まる暇はない。悩みの種がいつまでたっても去らない。こうした心は不安定になり易い。心に安定が得られない。心に安定がないから、結局踏ん張る力もなくなってしまう。そして「生きて行こう」とするから、遂にそうなってしまう。事なかれ主義になってしまう。

 生きて行こうとすれば、するほど焦
(あせ)りが生まれる。生きて行こうとするから、焦心(しょうしん)が増し、却(かえ)って人生を殺してしまうのである。
 生きよう、生きようと藻掻
(も‐が)いて焦りが生ずるから、「生」に行き詰まるのである。行き詰まれば、人生は価値の無いものに見え始めて来る。実は、それは錯覚であるのだが、そのように捉(とら)えてしまう。まさに自殺者の心理は、こうした手順に始まり、この経過を辿って、遂に“犬死”の境地に辿り着く。

 だから「何によって生きるか?……」ではなく、「何によって死ぬか!」を見つけ出すことが大事である。



●戒律と倶に死ぬのだ

 何によって、また、何と一緒に死ぬか?……、これを見付け出しさえすれば、“依(よ)って以て死ぬべきもの”は簡単に探し出せる。「これと一緒に死ぬのだ」というものが見つかったとき、自発的に戒律(かいりつ)を守ろうとする心が生まれる。

 しかし、戒律を取り違えて考えてしまうと、その戒律は生きて来ない。自分は戒律によって、より善
(よ)く生かし、それを整頓して能率を上げる為に、拵(こしら)えたものだと思って戒律を守っている間は、その戒律は本当に自分を生かしていない。戒律によって生きるのではなく、“戒律と倶(とも)に死ぬのだ”という境地に至って、初めて戒律は生きて来る。
 そうならない限り、戒律は却って生身の人間を縛
(しば)り上げてしまう、手枷足枷(てかせ‐あしかせ)となるのだ。遂に人間を萎縮(いしゅく)させてしまう。

 世の中で表現しなければならない意思表示は、「何によって生きて行こう」あるいは「栄えて行こう」というものではない。「生きて行こう」とか「栄えて行こう」では、道に殉
(じゅん)ずることが出来ない。道に死ぬことが出来ない。
 生きること事態が人生修行であるから、この修行は「行
(ぎょう)」と考える必要がある。「行」をするには、命賭けのものでなければならない。甘えは禁物である。命を張った“行”であるからこそ、その“行”で滅びても悔いがないはずだ。

 道に殉ずる“行”であれば、その出発点に「この道と栄えていく」のではなく、この道と一緒に滅びなければならない。道と一緒に死ぬことが大事だ。その覚悟がいる。
 道と倶
(とも)に滅びようとする時、道ははじめて人を生き返らせてくれる。道とは、そうした“行”の厳しさを言う。

 道と倶
(とも)に滅びようと決意したとき、そこに感得出来るものは、“天下は寛(お)おどかだ”あるいは“わが心は朗らかだ”ということを身を以て感じることが出来るのである。苦悩は消滅していて、恐怖心がなくなっている。恐れるものはなくなり、動揺する心の動きは安住を得る。静寂にして落ち着く。

 これまで戦々兢々
(せんせん‐きょうきょう)としていた小心な心は、幅が出来、文字通り重苦しい、凡庸(ぼんよう)なこれまでの半生を捨てて、生まれ変わったような気持ちになる。びくびくがなくなる。
 惰性
(だせい)で動いていたその日暮らしの柵(しがらみ)をすっぱりと切り離し、その後に残された人生の時間は濃厚になることだろう。
 自分に存在する時間が濃厚になれば、そこに力が生まれる。生活に力が生まれる。その力が真実への奮闘へと駆り立ててくれる。その源には、新たな決意が起る。

 「みんな、死のうではないか。この旗の下に!」
 此処に来て勇気を得る。
 これまでの臆病だった惰夫
(だふ)の恐々(きょうきょう)とした小心性は一掃され、勇者に生まれ変わる。懐疑も不安も消えるのである。闘って生き尽くのだという気持ちが、心の底から起って来る。
 もともと死を覚悟しての、道に殉ずる決意をしたのであるから、死んだとしても後悔はないはずである。死の決意は、不思議にも、そこで死ぬどころか、逆に自分自身を大幅に生かしてくれるのである。死んで後悔のない生き方。これこそが本当に楽な生き方であり、有りもしない幻に苦しめられることはないのである。人を生かし得る、偉大な行動はその中にある。

 多くの人の間違いは、「何によって生きようか」あるは「何によって栄えて行こうか」という、生に固執した考え方であった。「生きることばかり」を探し廻ったのである。「損得勘定」ばかりに振り回されて、打算的な計算ばかりをしていたのである。これでは今まで死んで居たことになる。ちっとも生きていなかった。
 本当に生きた日は、一日もなかったはずである。それはひたすら「生きること」を追い回し、「栄えることば」かりを追い回したからだ。
 生と繁栄が、実は自分を殺していたことになる。




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