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松下村塾と吉田松陰 1
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松下村塾と吉田松陰 1


松下村塾と吉田松陰






松下村塾看板
松陰神社

松下村塾内の吉田松陰肖像


●松下村塾と吉田松陰

 古人は「死に方」を重んじた。立派な死に方をしたいと念願した。それは何故か。
 それは小事に対して末
(すえ)を乱す人は、大事に終りを全(まっと)うしないからである。その為に、悲惨な死に方をするのだと言う。“死に態(ざま)”が悪いと言う。その為に「死に方」が重んじられる。

 立派な死に方は、正しく生きた人でなければ出来る事ではない。況
(ま)して、生きて居る間は、楽を得ることはなかったが、せめて死んだ後に楽を得ようと言うような、死して後の極楽浄土を祈念する輩(やから)や、自殺願望者の死は、決して美しい死に態(ざま)ではないと断言できよう。
 安らかな死に方、安住を得る死に方は、決して死に急ぎをし、安易に死ぬことではないと言うのだ。

 美しい死に方の出来る人、見事な死に方の出来る人は、「今、この一瞬」という、「今」という瞬間に真剣勝負を挑み、そして見事に一生を大切にして、生き抜いた人である。戦い尽くした人である。此処
(ここ)にこそ、人生の目的がある。

 武士道とは、一般に思われているように「死をイメージ」する類
(たぐい)に扱われているが、実は「見事に一生を貫く秘法」を、求道者(ぐどう‐しゃ)となって求道することであり、此処に何年生きたか、何十年生きたかの年齢の差は問題ではない。

 大自然には四季が存在する。そして人間の一生にも四季
(四期)が存在する。大自然の四季である春・夏・秋・冬に準えて、人間にも生・老・病・死の四期がある。
 吉田松陰はこの四期に題して、こう答えている。

 「今日死を決するの安心は四時(四季)の順環(循環)に於て得る所有り」と。 

 つまり松陰は、穀物の狩獲に喩(たと)えて人間の一生を説明し、死生観を説いている。
 農事を見るにつけ、春に種まきをし、夏に苗を植え、秋に刈り入れをして収穫し、冬にその穀物を貯蔵するという循環である。秋冬に至れば、農民がこれまで汗を流し、穀物の成長を育み、その働いた成果として収穫という歓喜が訪れ、米から酒を作り、あるいは甘酒を作って、農村は歓喜に充ち溢れる。これが「実りの秋」である。これこそが松陰の人生観だった。

吉田松陰
松下村塾跡

 松陰は死を目前にして、三十年の人生を顧みる。そして残された時間に『留魂録(ざんこん‐ろく)』を著わす。これによると、次のように記されている。

 「私は今年で三十歳になった。そしてまだ一事の成功を見ることもなく死んで行こうとしている。これを穀物の四季に喩
(たと)えるならば、穀物は花を付けず、また実ることも知らないで死んで行くのと同じだ。これに於ては非常に残念ではあるが、しかし私自身の身の上について言うならば、『今』が花を付け、結実の秋(とき)なのだ。
 したがって何を悲しむ必要があろう。何故ならば、人の寿命というものは天命によって定まっているからである。穀物のように毎年繰り返し、四季を巡る必要はないのである。

 喩
(たと)えば、天命によって定められた人間の四期は、もしその人が、十歳で死ぬならば十歳の四季が存在し、二十歳で死ぬ運命にある者は二十歳の四季がある。三十歳、四十歳、五十歳に至っても同様である。また百歳は百歳の四季が存在する。十歳で死ぬのが短すぎるというのは時空に囚(とら)われてのことであり、また百歳で長いと見るのも、やはり時空に囚(とら)われてのことである。

 しかし、百歳の寿命を天から授
(さず)かりながら、八十歳で死ぬのは『早死』であり、この人は花を付け、結実の秋を迎えずに死んだことになる。こうした死は寔(まこと)に恐ろしく、苦悩に満ちたものに違いない。
 ところが私は今年三十歳を迎え、四季は一巡して、すっかり整っている。花も付け、結実も果たした。だが、その結んだ実が、単なる籾殻
(もみがら)なのか、粟(あわ)なのか、あるいは麦なのかは、私の知るところでない」

 松陰の死は、まさに「一粒の麦」であり、三十年の人生で結んだ実は、決して籾殻などではなく、『ヨハネ伝』
(第十二章24〜25)に出てくる、見事な「一粒の麦」であり、このことは歴史が証明している。



●一粒の麦

 松陰の目指した武士道とは則(すなわ)ち、「一粒の麦」であり、奉仕の限りを尽くして人に歓喜を与え、己の人生を完全燃焼させて、受難者像を確立することで、生前の力強く生き抜いた証(あかし)が、後世の人々に強い説得力を与えるものなのである。

 明治維新の基本構造は、外部
(欧米列強)からの外圧があった側面が存在するが、その支柱は吉田松陰を殉教者にしたことによって、一挙に倒幕運動が盛り上がり、幕府は自ら墓穴を掘る結末を迎えた。これは古今東西に見る、封建的専制政治の倒壊の末路現象と酷似している。

 十八世紀末、世界で最も早く産業革命を実現したのはイギリスだった。そしてその後、これにより、近代行業を暫
(しばら)くの間独占していた。
 しかし十九世紀前半になると、これにフランスが追い付き、ドイツやオーストリア、北イタリアやアメリカが追い付いた。その結果から、近代行業を展開させる為の原料の供給と、製品に仕立てた後の販売市場を求めて欧米列強の間で、苛烈な競争が始まった。そして、これにより世界は植民地の再分割競争が始まったのである。

 世界的な植民地の獲得競争は、十六世紀から十七世紀に掛けてであった。これは金銀財宝を世界各地から書き集め、略奪する行為であった。更にかっての重商主義
mercantilism/15世紀半ばから18世紀半ばにヨーロッパ諸国家が採った経済政策の体系で、国家の強力な保護や干渉によって有利な貿易差額を取得し、国富を増大させようとする考え方)を徹底し、それに加えて宗教的な布教の情熱【註】日本に渡来した最初のイエズス会士フランシスコ・ザビエル(1506〜1552)などはこの典型と言える)に燃えて、前近代的な試みが展開された。

 しかし十九世紀後半に始まった植民地獲得競争は、近代行業の発展とともに始まった。それに附随して軍事力や鉄道権益の利権が絡んだ。そしてここで、熾烈な植民地獲得競争が始まったのである。

 この当時の植民地獲得競争は、各国の政治理念や宗教的事情を無視して、外交に軍事力を行使し、産業貿易政策に、欧米列強はマキアヴェリズム(Machiavellism)的な、目的の為には手段を選ばない、権力ならびに軍事力の行使を行ったのである。これが帝国主義であり、植民地主義であった。

 こうした手段が、中国に於ては阿片戦争【註】1840〜42年、清朝の阿片禁輸措置からイギリスと清国との間に起った戦争)を引き起こし、日本に於ては明治維新【註】慶応3年(1867)の大政奉還、王政復古の大号令、翌年の鳥羽伏見の戦い、五ヵ条の誓文などがその画期をなす)を引き起こし、やがて日清戦争【註】1894〜95年(明治27〜28)日本と清国との間に行われた戦争)や日露戦争(1904〜05年(明治37〜38)日本と帝政ロシアとが満州・朝鮮の制覇を争った戦争)、更には第一次世界大戦【註】三国同盟(独・墺・伊)と三国協商(英・仏・露)との対立を背景として起った世界的規模の大戦争。サラエヴォ事件を導火線として1914年7月オーストリアはセルビアに宣戦、セルビアを後援するロシアに対抗してドイツが露・仏・英と相次いで開戦、同盟側(トルコ・ブルガリアが参加)と協商側(同盟を脱退したイタリアのほかベルギー・日本・アメリカ・中国などが参加)との国際戦争に拡大した戦争)、までもを引き起こした。

大老・井伊直弼画像

 こうした流れを観て行くと、当時欧米列強は植民地獲得に飢えていたと云う事になる。そして日本も、列強の餌食(えじき)になり、植民地のなって国土を割譲(かつじょう)される危機に瀕(ひん)していたのである。
 幕末の混乱期、日本はフランスとイギリスによって割譲される運命にあった。この危機を危惧
(きぐ)したのが吉田松陰だった。しかし松陰は、安政の大獄【註】安政五年から翌年にかけて、大老・井伊直弼(いい‐なおすけ)が尊攘運動派らに下した弾圧事件)に座し、ここで斃(たお)れることになる。



●知行合一と、今この一瞬

 さて凡夫(ぼんぷ)は、死生観をその場限りの可視的現象として捉えるが、武士道で言う行動原理は、松陰のような「知行合一(ちこう‐ごういつ)」に回帰される。したがって、その場限りの評価は問題ではないのだ。「行い」が、その人間の評価となる。そして、「知る」ということは、「行う」ことなのである。

 知行合一は明の王陽明の学説である。朱熹
しゅき/南宋の大儒で、19歳で進士に合格した。官途のかたわら究学、周敦頤(しゆうとんい)や程頤(ていい)らの学説を総合、いわゆる性理学を集大成した。著に『朱子文集』『朱子語類』『四書集注』『資治通鑑綱目』『近思録』などがある。後世、朱子と敬称、その学を朱子学といい、江戸時代の儒学に多大の影響を与えた。1130〜1200)の先知後行説が「致知」の「知」を経験的知識とし、広く知を致して事物の理を究めてこそ、これを実践しうるとしたのに対して、王陽明は「致知」の「知」を「良知」であるとし、知は行のもとであり、行は知の発現であるとし、知と行とを同時一源のものと捉えらのである。

 したがって武士道的行動は、往々にして無理解が付き纏
(まと)い、非難の渦(うず)に巻き込まれ易い。これはいつの時代も同じであり、人よりも一歩先を歩く者に課せられる、“火”と“水”の試煉(しれん)である。しかしこうした試煉を恐れず、突き進むところに「武士道の寔(誠)」が存在する。
 苦しみを恐れず、困難を嫌わず、これを正面からまともに受け、もうひと踏ん張りすれば、その向こうには安らかで広々とした幸福の門燈
(もんとう)が輝いているのである。

 人の生涯は「今日」の連続であり、「今、この一瞬」が無限に連鎖しているのである。そうした現実を見ずして、昨日を悔
(く)い、あるいは嘆き、また、明日を憂える人が居る。こうした人は「今日果たせなかったこと」あるいは「今日なし得なかったこと」を明日に先送りして、今日の影法師にびくついて居る人である。

 「今、この一瞬」が唯一の事実であり、今日しなければならぬ事は今日でしか出来ない。その日が再び、何時
(いつ)巡ってくるというのであろうか。

 今日の「今、この一瞬」を取り逃がす人は、一生を取り逃がす人である。

 また、占師の言う「日の吉凶」などはある筈
(はず)がない。こうした真当(ほんとう)の「軍立(いくさ‐だて)【註】八門遁甲で言う攻之術。この術は一般には奇門遁甲の名で呼ばれ、占いの類に挙げられているが、決して占いなどではなく、中国の列記とした古典物理学である)を知らない人が、吉凶を占う九星気学や西洋占星術の、素人占いにかぶれて、自ら迷信を招き寄せる様は、何とも気の毒である。

 宝の転がった唯一の「今日」という日を、“日取りが悪いから”と云って、これを見捨てるとは、何という愚行であろうか。
 今日は吉か凶かと運勢暦をめくって、日が悪いから次の日に繰り延べるとは、何たる愚行であろうか。
 むしろ、こうした時機
(とき)に災いは降り掛かるものである。

 今日とは一生涯に二日とない日であり、二日とない日であるからこそ、この日は吉日なのである。また、隙を作れば、どんな危険が襲ってくるとも限らない、極めて危ない厄日なのでもある。
 これに白黒を付け、吉日にするか厄日にするか、それは自分自身であり、吉凶を占う九星気学や西洋占星術の早見表にあるのではない。

 そして今日という一日は、「今、この一瞬」の集積であり、「今、この一瞬」を失う人は、今日一日を失う人であり、ひいては“一生を棒に振る人”である。
 「時は金なり」という。しかし金は働けば、また取り戻す事が出来る。だが、時は取り戻す事が出来ない。だから「今、この一瞬」に価値があるのだ。
 しかし一方で、宝の山に入りながら、手ぶらで戻ってくる人が、何と多いことであろうか。それは“時”を取り逃がすからだ。

 気後れする事は、何も、今日という日の吉凶を占うことばかりではない。事上磨練
(じじょう‐まれん)という事にもこれが言え、苦難を恐れる者があまりにも多い。
 ところが古
(いにし)の勇者は、山中鹿之助やまなか‐しかのすけ/戦国時代の武将で、尼子義久に仕える。1566年(永禄九年)義久が毛利氏に降ったので、尼子勝久を擁して戦ったが、のち播磨上月(はりま‐こうづき)城で毛利方に攻められ、捕えられて斬首さる。「七難吾に」で有名)に見るように、「我に七難八苦を与え賜え」と三日月に祈った武将が居たことも、また事実である。
 更には『孟子』に出てくる「天の将
(まさ)に大任を是(こ)の人に降(くだ)さんとするや、必ず、まずその人の心志(しんし)を苦しめ、その筋骨を労す」とあり、老子の『天命の章』にもこれが出てくる。

 しかし多くの人が恐れ、嫌っているのは「苦難」である。この中でも、病気、災難、貧苦というような、困窮と苦悩が付き纏
(まと)う苦難である。また、この世に少しの苦しみもない家は、まことに少ないものである。大なり小なりがこうした苦しみを抱え、貧乏人も金持も、必ず一つや二つの問題を抱え込んでいる。

 またしかし、苦難の到来は、生活の不自然さから起こるもので、心が歪
(ひず)み、魂が餓えた状態になるから起こるものである。これが危険に対する警鐘である。しかしこの警鐘を聞いて、やがて人は幸福に至る門に入る事が出来る。苦難に遭遇し、苦難に耐えることは、人間をひと回りも、ふた廻りも大きくする。

 『マタイ伝』(第七章13〜14)にはこうある。
 「狭き門より入れ。滅びに至る門は大きく、その路は広く、之
(これ)より入る者は多し。生命(いのち)に至る門は狭く、その路は細く、之を見い出す者は少なし」と。

松下村塾にて.1
松下村塾にて.2

 生命(いのち)を燃やし、生命を貫いて、生涯信念を以て押し通る門は、実のところ狭く、入りにくく、また苦しく、痛みを伴い、その上に醜い。それが酷(ひど)ければ酷いほど、実は歓喜に至る幸福の門なのだ。気後れせずに践(ふ)み進めば、その苦難は幸福に変わるのである。
 こうした事は、現代人が多く見逃している事柄の一つである。

 凡夫
(ぼんぷ)の中には、人の一生は運命という掟(おきて)があり、これはどうする事も出来ない力で覆われているということを、心の底から信じ込んでいる人が少なくないようだ。

 したがって“九星気学”や“西洋占星術”を安易に信じ、決まった路
(みち)を、決まった道筋で引きずられて行くという妄想を信じることになる。そして生まれた年月日や、時間が分かればその人の一生は、それによってすっかり変わってしまう等と断言して憚(はばか)らない人も居る。
 こうした事が、「果報は寝て待て」とか、「運は天にあり」とか、酷い場合は「棚からボタ餅」等の考えが生まれた。実に短絡的である。

 しかし現世において、この場は「修行の場」であり、苟
(いやし)くも人間が関係する事業や仕事で、手をこまねき、捨て置いて、ただ脇から見ているだけで成就する事業や仕事がどこにあろうか。
 またグズグズしていて、その時に幾らチャンスがあっても手をこまねいていては、折角の機会も取り逃がすことになる。思い立ったが、吉日なのだ。「今、この一瞬」こそが、幸福の門に入る「汐時
(しおどき)」であり、そのタイミングを計ることが肝心である。
 そして終始一貫して、「之
(これ)をやり抜く」のである。之(これ)が出来た人こそが「成功者」と呼ばれるのである。

松陰神社

 こうした時機(とき)に、天命は働くものである。
 格言には「天は自ら助くる者を助く」とある。
 失敗に弱音を吐き、再度の挑戦に気後れをする敗残者に、天命は働かないのである。
 吉田松陰は、困難を恐れず、秋
(とき)を得た人とではなかったか。



●教師としての松陰の宿命

 松陰の足跡を辿ると、その概ねは紛れもなく教師の足跡であった。幼少の頃から、松陰は教師の宿命を背負わされていたと言える。
 松陰の過去を遡ると、軍学師範を代々勤めた吉田家の養子となった松陰は、吉田家当主大助が病死すると、養母が実家に帰った為、その後、杉家に引き取られることになったとある。松陰が六歳の時である。
 また松陰は吉田家の当主として、山鹿流軍学の師範になるべき運命が決定付けられていた。

 吉田家の家伝によると、一条天皇
(平安中期の天皇で、円融天皇の第一皇子。 980〜1011)に仕えた藤原行成ふじわら‐の‐ゆきなり/平安中期の書家で権大納言。972〜1027)から出たとある。十六世紀に至っては、信長に仕え、織田家の家臣となったとある。
 信長が「本能寺の変」で横死した時、明智光秀を討とうとして失敗し、京都で自刃
(じじん)した松野平介の曾孫・友之允(とものすけ)重矩(しげのり)が吉田家の始祖であると言う。友之允は、後に萩藩に招かれた。それは杉家の初代が毛利家に仕えたのと同じ頃であった。

 吉田友之允重矩は、和漢の兵法に通じ、その後、山鹿素行
(やまがそこう)の嫡男・藤介高基(ふじのすけ‐たかもと)に学び、山鹿流の「三重極秘之伝」を受け継いだと言う。これにより吉田家は山鹿流軍学を家学として、代々受け継いで行くことになる。同時にそれは、萩藩の軍学師範を勤める家柄ともなって行くのである。

 山鹿流の奥儀
(おうぎ)は、“三人に限って伝授する”と言う独特の伝承形式を持ち、これが山鹿素行以来の伝承規則であり、これを「三重伝」といった。
 吉田大助は初代の友之允重矩から数えて七代目に当たり、それを松陰が継いだことになる。

 萩藩の軍学師範と言えば、系図的な家柄としては権威としての格付けは大したものであったが、家録自体を考えると、僅かに五十石に過ぎなかった。杉家の二十六石に比べれば確かに上位の家柄であったが、吉田大助の死亡により、松陰は吉田家の系図だけを受け継いで、再び杉家の人にならなければならなかった。

 吉田大助は生前、山鹿流の三重伝を、実弟の文之進
(ふみのしん)ならびに高弟の林真人(はやし‐まひと)に伝え、更には松陰に伝えたのであるが、大助が松陰の幼年期に死亡しているので、松陰は文之進や林真人から、その奥儀を受け継ぐことになる。
 藩の軍学師範は、藩校・明倫館教授として、藩士の子弟にそれを教える任務を背負っていた。大助の死後、文之進や林真人の他、二三の高弟が明倫館で講義をしていたが、行く末は吉田家の当主である松陰がその役を背負うことになる。

明倫館跡
萩藩々校・明倫館

 松陰を山鹿流軍学師範として一本立ちさせる為には、徹底した英才教育を施す以外なかった。高弟達は松陰に徹底した教育を施し、奥儀を叩き込んで行ったのである。六歳から松陰は師範としての教育を施され、松陰の運命は幼少時代から学問の道に没頭しなければならない運命が定められていた。後の松陰の人生を振り返れば、松陰は生まれながらにして「教師」の運命が決定されていた。

 したがって松陰は幼少時代も、また成人してからも、教師としての宿命が定められ、如何なる状況下においても、松陰は教師としての宿命から逃れられず、彼自身も教師たらんとして奮闘した。松陰はもともと教えることが好きな性格であり、人に教えることは松陰にとって自然な成り行きであったと言えた。

 松陰が教師たりえんとしたことは、獄中に居た時も変わりなかった。松陰の「教師観」は、自らの権威を以て威張り腐ることではなかった。権威者にありがちな、自らの権威を振り回すことではなかった。決して夜郎自大
(やろう‐じだい)に陥らず、尊大な素振りは少しも見せず、人間として、他の囚人と同じように、同等に、同格に振る舞ったのである。
 松陰が囚われの身になった時、同囚の中には松陰と同じような、国事に関与した政治犯や思想犯ばかりではなかった。極悪な犯罪を犯し、狂暴な性格粗暴者も居た。こうした凶悪犯に対しても、松陰は同等に、同格に、まるで親しい友人に接するように振る舞ったのである。これが松陰の信じる、陽明学で言う「まごころ」であり、「誠」であった。陽明学では「誠」を、人の「まごころ」と解す。この「まごころ」をもって「良知」を致すのである。

 松陰の教師としての「まごころ」に触れた兇悪な囚人達も、いつしか松陰の人柄に惹
(ひ)かれはじめる。彼等も、松陰の話に耳を傾け始め、やがて松陰に“尊敬の念”を抱くことになる。此処に松陰の教師たらんとする宿命のようなものがあった。松陰は生涯、教師たらんとしたのである。

 また松陰は人に教えるばかりでなく、自らも教わろうとした。自分にないものを持っている相手に対しては謙虚な態度で教えを乞うた。
 特に有識なる者に対しては真摯
(しんし)に耳を傾けた。必要があれば、入門して相手の知恵を授かろうとした。吸収することにも自ら進んで務め、教え、かつ教えられるという関係の中で、確実に松陰は人間の尊厳を学んで行くことになる。つまり人間は、平等などではなく、人間同士はお互いに同等であり、同格であると言うことを真摯に悟って行くのである。またこれが人間同士の信頼感を深め、人間は如何なる人であれ、信ずるにたる尊厳を知るのであった。

 萩藩々校・明倫館は、代々が古めかしい訓詁
(くんこ)を重んじた毛利家以来の藩校であった。これが、かつてからの伝統であり、封建的な校風に縛られた藩校であった。したがって、幕末の激動期になると、藩校内では生徒が時局や政治について論ずることは禁止された。
 松陰の明倫館教授時代には、これといった教育活動の足跡は見られない。封建的な校風や形式に、松陰はかねてより厭気
(いやけ)がさしていたのである。また明倫館に何ら魅力を覚えなかったらしく、魅力の欠乏は、松陰が改革案を申し出ても、受け入れられなかったことである。これに松陰は、大いに失望した。この失望により、松陰は明倫館から遠ざかっている。

松下村塾
塾内部

 そして松陰が教師として、自らの力を発揮したのは、いうまでもなく『松下村塾』であった。伝統や形式に捉われず、また封建的で古風な為来(しきたり)がない私塾でなければ、本当の教育は出来ないと松陰は考えていた。
 松陰の独特の教育活動は、松下村塾にあって、真の力を発揮し得るのである。また松陰の教育の狙いは、封建社会の中で眠っていた下級層の中から有能な人材を発掘する事であった。

 後に松陰は歴史学者達によって、様々な定義がなされ、その位置を理論付けられるが、その多くは学者、革命家、思想家、教育者らであったが、一言で云うならば、やはり松陰は「教師」であったといえるだろう。
 松下村塾と云われる私塾にあって、「教え、教えられる」という教育現場で、松陰は幼少の頃から背負わされた宿命を、此処で見事に開花させたと云うべきであろう。



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