運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
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吾が修行時代を振り帰る 1

回顧録・吾が修行時代を振り帰る







尚道館神前全貌。ここでは武術の稽古だけでなく、陽明学の講義も行われる。

昭和46年、北九州市教育委員会の認定を得て、わが北九州合気武術連盟は「社会教育認定団体」となり、爾来、今日まで活動して来た功績が認められて、北九州市長より表彰状が贈られた。


●まえがき

 『吾(わ)が修行時代を振り帰(かえ)る』は、ノン・フィクションである。過去を振り返っての回顧録である。しかし、武勇伝や侠客伝などの実録物の類(たぐい)ではない。虚構をまじえず、事実だけを伝えようとする実話記録である。そして運命の陰陽の支配により、理不尽にも、どつき廻される物語でもある。生き態(ざま)の側面には屈辱の物語に満ちている。運命に翻弄された物語である。

 私の一番辛かった時代を、そのまま包み隠さず、殆
(ほとん)ど大袈裟(おおげさ)な形容や脚色する事なく、事実をそのまま語ることにした。
 また、この物語の一部は、既に『合気口伝書』第十巻から第十一巻にかけて連載した「吾が修行時代を振り帰る」という箇所を、一部の読者から、是非これを紹介して欲しいという要望に応え、一部分を手直し程度に書き直して、これを実録小説風に綴
(つづ)るすることにした。

 なお、タイトルの『振り帰る』は、本来は「振り返る」の自動詞が用いられるべきであるが、私は敢
(あ)えて、「振り・帰る」とし、自分の歩いた足跡を、単に、遠い過去の想い出として回顧するのでなく、その歴史を刻んだ過去に、事物や事柄の今日の原点があり、私は少なからず「初心を忘れず」の気持ちで、『吾が修行時代を振り帰る』とした次第である。

 つまり、この物語は心の故郷へ、私自身が、「いざ帰りなん」の掛け声と倶
(とも)に、それはあたかも、かの陶淵明とう‐えんめい/六朝時代の東晋の詩人で、下級貴族の家に生れ、不遇な官途に見切りをつけ、41歳のとき彭沢県令を最後に、『帰去来辞』を賦して故郷の田園に隠棲した)が職を辞して故郷に帰る『帰去来辞(ききょらい‐の‐じ)』の心境に肖(あやか)ったものである。また、そうした意味で、何かしら陶淵明の『帰去来辞』を賦(ふ)した、同じ年齢と私が修行時代を回想する時期が、奇(く)しくも重なるのである。

 私が幼少の頃から縁あって、西郷派大東流の修行に明け暮れたが、世に通じる実学を極めた分けではない。地道に道の修行を続けて来たが、ここで学んだ事は総
(すべ)て業(わざ)に関する事で、人を集めたり、組織を運営したり、道場を経営するという事を学んだのではなかったからだ。修行と実学は無関係であった。
 稽古事とは、本来、「教える」という商行為を商品の対価として、それと引き換えに代金を得るという考え方で成立していない。商行為を度外視し、報酬
(ほうしゅう)と云う対価を度外視して師は弟子を取り、弟子は師の膝許(ひざもと)にいて業(わざ)を教わると言う純粋な行為に於てのみ、師弟関係が存在するのである。そしてこれは、絶対に商行為ではないと断言できる。

 師も人間であり、霞
(かすみ)を食って生きていく事は出来ない。また、実際に自社ビルを持ち、そこで弟子の指導や養成を行っていこうとすれば、当然、建物自体にも、メンテナンスが必要になり、固定資産税やその他の費用が懸(かか)る。道場と云う容(い)れ物は、年月と倶(とも)に物質である以上、風化し、古くなっていくので、至る処に修理や修繕の手直しが必要になる。この点は、顧客を相手にする「客商売」と同じである。

 しかし道場の場合、その他の客商売と異なり、修理費を五年間の減価償却で経費としてゼロにし、それで採算がとれると言うものではない。ここに客商売とは異なる、経済的に困窮する要因がある。世には奇特な人がいて、多額の寄付と云う行為の恩恵に預かる事が出来るが、道場はそう言う人の集まりではない。
 道場を継続する事は、ビジネスと云う側面もあるにしろ、奉仕者としてのそれなりの覚悟がいるのである。

 毎年恒例となっている「夏季合宿セミナー」が8月中旬にかけて行われる。この時、参加者全員で道場の内外を掃除するのであるが、誰か一人、便所掃除の役に回った者が居た。その者は、便所を掃除する時、水洗の水を流しながら掃除を行っていた。此処までは、別に何も問題はなかった。しかし、時計をはめて掃除をしていて、便器洗いの最中に、うっかり自分の時計を便所の中に落し、流してしまったのである。問題は此処から派生したのである。

 これについては敢
(あ)えて「派生」という言葉を遣わせて頂く。この元凶は根源が枝別れして、次々に新たなる問題を派生させたからである、一回限りで、問題は解決しなかったのである。

 合宿が終り、全員が引揚げて何日か経った時から、便所の水洗が巧く機能せず、詰まり出したのである。水の流れが兇
(わる)くなり、時として汚水が溢れ返る時があった。しかし、これも何とか騙(だま)しながら遣っていたが、一年も経たないうちに、水洗は完全に詰まってしまった。更に道路側にあるトイレは、道路の電柱にまで異常を与え、電柱が傾くと言う事態が起こったのである。電柱の傾きは、明らかにこちらのトイレの異常が作用しているものと思われた。

 そこで水洗便所の工事屋を呼んで検査したところ、工事屋の云うには、トイレの部屋全体のコンクリートの床を削
(はつ)り、基礎工事からやり直さなければならないと云う事だった。私はその金額を聴いて、大いに頭を抱えてしまった。仕方がないから、言う通りにせねばならず、総経費は百万円単位だった。
 一個人が、この工事費を払うにしては余りにも大きな金額だった。人間にはそうした、自分の方が間違っていたということに気付かない「理不尽」が存在しているのかも知れない。
 道場のトイレは、一般民家のトイレと異なり、多勢の人間が使うものであるから、便器1台では済まない。複数がいるのである。したがって、わが道場では男子便器2台、女子便器2台の合計4台の便器が必要であり、いわゆるこの点は「客商売」のそれである。

 トイレのコンクリートの床を削
(はつ)り、鉄筋を横に這(は)わせて、配管からやり直さなければならないのである。しかし、削った後にまた問題が発生した。トイレ床下は大きな便槽のような状態になっていて、まさにその下は巨大な「こえだめ」であった。その為にバキュームカーを呼んで、肥(こえ)全部を汲(く)み出さねばならず、一週間の工事が二週間に伸び、大変な思いをした事があった。それからまた二年後、再び今度は男子便所が詰まったのである。

 今度も工事屋を呼んで、地面の下から修理せねばならなかった。工事屋の云うには、
何かの病気に罹(かか)って居る人がいて、その人の排尿から尿石が出て、その尿石が配管の裡側(うちがわ)に付着し、それが詰まらせているのだろうという。

 床下のコンクリートを掘り返して配管を調べてみると案の定だった。配管が尿石で詰まっていた。排泄された尿から少しずつ付着したものと思われた。

 更に雨漏りが余りにも激しいので、ビルの屋上工事をした。
 その時も数百万円単位の修理費が掛かった。個人のポケット・マネーとしては、大きな金である。

道場の便所横壁の修理。(平成18年11月) 便所の基礎からのタイル張り。(平成18年11月) 男子便所の工事終了。(平成18年11月)

女子便所の工事終了。(平成18年11月) 屋上工事の途中。雨漏りが酷かった。(平成20年9月) 屋上工事終了。(平成20年9月)

 “奉仕”とは、こうした“修理しても、修理しても”それを「個人のポケット・マネー」で、黙って修繕
(しゅうぜん)するところに、本当の“奉仕者の原点”がある。

 一般に「道場師範」あるいは「流派の宗家」などと言うと、“雲の上のような人”であると思われ勝ちである。ところが決してそんな存在ではない。“社長”兼“小使い”もいいところである。
 一人二役
(ダブル・ロール)を演じなければならないのだ。
 その上、私自身の存在をあまり有り難がれない。そして自分で道場を遣
(や)り、流派の長(おさ)として得た利益は殆ど無く、得るものより失うものの方が大きかった。
 損をして、また損をする。私個人の損は我慢できても、家族は大変である。

 道場は商行為で維持できるものではない。その上、月に一万円から数千円くらいの月謝でやるのだから、最初から商売は度外視しての事であり、「儲からない」という条件下で、道場を遣
(や)っている。つまり、「奉仕」の名を借りた、一種の道楽であろう。

 ところが、こうした道場主の苦しい懐
(ふところ)の裡(うち)を分かってくれる人が少ない。
 既に『旅の衣』後編で御存じの方もいると思うが、私は人徳がなかったせいか、自分の地道な蔭
(かげ)の努力を、これまで道場生の一部から「宗家は金に穢(きたな)い」と陰口を叩かれ続けて来た。
 月謝を納め、自分の信じるものを貶
(けな)したり穢(けが)したりするのは、既に自分自身を貶したり穢したりしているのと同じである。自分の師を馬鹿にし、尊敬できないのなら、さっさと道場を去るべきであろう。
 彼等の尊敬する宗家像は、太っ腹であり、細かくない、大胆で、大雑把
(おおざっぱ)な人間の事を云うようである。しかし、私は残念ながら裕福な家庭の出ではない。

 私は自分の修行以外に、こうしたものとも格闘しなければならなかった。そして「宗家は金に穢
(きたな)い」という一部の門人の意識は、今でも消えていない。そうした貧乏籖(くじ)の引き手が、実は「宗家」という役廻りであった。

 事実、十数年前、私文書偽造、公文書偽造を働いて、詐欺
(さぎ)で告訴されそうになった、級位を自分の道場生に無断で発行した兵庫県の私学・三田学園高校の教諭であった上野某は、「宗家は金に穢い」と宣伝して回った一人であり、私を陰で、「金に穢いユダヤ人」という悪評を立ていた。
 「門人が月謝を払う」という行為に、「そんなに道場に金が懸るのなら、道場を売却すればいいものを、習いに来る人間から月々の月謝をとるとは何事か」と激怒した人間である。
 こうした考えの者が、現実にいると云う事は、非常に残念であり、むしろ悲しくなる。


 今までに経験した数々の現実を踏まえ、私が最初に考え付いた事は、道場に事業部を興
(おこ)し、一部の道場生と共に渡し共々、事業部で働く事であった。最初に興(おこ)した事業部が「有限会社・大東美術商会」(後の大東美術刀剣店)であり、此処では日本刀を中心に、刀剣類や小道具類、更には古美術品を扱っていた。
 しかし、1970年代のドル・ショック、オイル・ショックの度重なる不況で、一時は相当に売上を伸ばしていた美術品商売も行き詰まり、遂に会社はここで一億円の負債を重ねて、敢え無く倒産した。そして一億円の借金を返すのに、おおよそ十年の歳月を費
(つい)やした。

 その後、この倒産を良き薬として、更に経営の勉強や金融法や手形法の研究もした。最初は道場生である大学生を使って始めた学習塾が、徐々に図体を大きくしていくのに伴い、大学予備校へと発展して、当時は北九州でも中堅に入る予備校にまで成長した。
 事実上は予備校の理事長であり、指導上の塾長であり、一般の目で見れば、楽な、よき暮らしをしているように映るが、その実は名ばかりで、現場の非常勤講師であり、無能な講師のホローや、予備校内で起る種々の問題の第一線に立たされた。そしてこの予備校も、平成二年4億5千万円で倒産の憂
(う)き目を見た。ちょうど厄年の頃で、これまでの人生では、一番辛かった時期であった。苦難の時であった。

 吾
(わ)が人生を振り返ってみて、山あり谷ありの波乱の人生を送り、それはまさに波乱万丈(はらん‐ばんじょう)だった。
 諺
(ことわざ)に「九死に一生を得る」というのがある。また、一方で、これを体験した人は「運が強い」などとも評される。私は若い頃から、自分自身で「妙(みょう)に運が強い」という自覚を持っていた。

 「妙に」とは、逆境や困難に追い込められた時に限って、不思議に智慧
(ちえ)が湧き、その智慧によって急場を凌(しの)ぐことができたのである。もうダメだ。絶望だ。投げよう。そんな切羽詰まった境地に追い込まれ、苦境に立たされた時、思い掛けない形で打開策を見つけ出して来たのである。これを天佑(てんゆう)と言ってよいのか、不思議と言ってよいのか。

 しかし、悪運が強いにしろ、悪智慧が働くにしろ、人間は志を掲げた以上、何が何でも生き残らなければならない。生き残ることが原則なのだ。
 私は、日頃の不摂生と暴飲暴食という、食の間違いによって、平成13年12月、絶望的な末期病を患った。余命6カ月と告知された。本来ならば、五年生存率から謂
(い)って、とっくに死んでいなければならない。

 ところがその後、偉大な一人の医学者の貴重なアドバイスにより、日々それを実行し、また天命により、生きる因縁により、生かされている。“どっこい”残ったのである。追い詰められた土俵際で。

 「もうダメだ」と諦
(あきら)め懸(かか)り、総(すべ)て天に運命を任せ、「もう、これ以上、どうにもならない。好きなようにしてくれ。あとは他力一乗(たりき‐いちじょう)で天命にお任せする」と一切を投げ出し、無私になった時、何か不思議な導きによって助けられる。

 人の人生には、確かに「運が働いている」ことは事実であろう。
 しかし、私が云う「運」とは、「背水の陣」を見事になし得た者だけが掴
(つか)み取ることのできる「運気」である。
 一人の人間が命を張って「背水の陣」を敷くには勇気がいる。しかし一切を投げ出し、勇気を出し切ったところに、不思議な力が働く。その勇気の裏付けは、自らの潜在意識の働きである。人は、確かに魂を持っている。肉体と心だけではない。確かに魂が存在するのだ。
 この魂こそ、自分の深層心理に存在する「潜在意識」に他ならない。
 プラスの想念が、土壇場
(どたんば)に立たされても勇気を揮(ふる)わせる。私はそんな体験を身を以てしたのである。

 「背水の陣」とは、背に崖
(がけ)っ淵(ぷち)か、大河を配して、此処から一歩も退(ひ)かぬ事を云う。また人間が人生を生きる上で、「賭(か)ける」という行為は大事であろう。人生に順風満帆(じゅんぷう‐まんぱん)などはあり得ない。(いず)れかの時期に、数回は窮地(きゅうち)に陥る事があり、此処から這(は)い出す時には「賭け」が必要である。

 「賭
(か)け」の究極は、そもそも「運命を賭ける」ということであり、換言すれば「我が命を賭ける」という事である。命を賭けて、運命と戦った事にない人に、到底「背水の陣」は理解できないであろう。
 “可もなく不可もなく”の、無力で、無難な善良な市民に甘んずる者に、この「背水の陣」を理解する事は難解だろう。

 人間は不思議な生きものである。追い詰められた時に、不思議な力を発揮するからだ。
 しかし、困窮することから逃げた者は、この力を発揮する事は出来ない。その証拠が「窮鼠
(きゅうそ)猫を咬(か)む」の反撃の事実だ。
 力とは、「潜在する力」である。
 追い込まれ、苦境に立たされ、窮地
(きゅうち)に立たされた時にこの力は発動される。これが潜在意識から発揮される「智慧(ちえ)」である。人は智慧を所有する生き物なのだ。

 世の中を生き抜いていく為には、実力だけでは、どうにもならない。また、腕っぷしや腕力も、人生から見れば、空しい負け犬の遠吠えに過ぎない。腕っぷしだけで、人生を乗り切る事は出来ない。智慧も必要だろう。
 その場、その時の応じた臨機応変の「出たとこ勝負的」な智慧がいる。これが
「他力一乗」である。この智慧が働くからこそ、運に助けられる。

 世の成功者の断言する言葉は「自分は幸運のお陰により、成功を成し遂
(と)げた」と、謙虚な言葉が多い。その一方で、「運がなかったら、今の地位は築けなかった」とも言う。つまり「ツキがあった」というのである。
 つまり、「九死に一生を得る」こうした人達は、「他力一乗
(たりき‐いちじょう)」の持つ、運に気付く感度が優れているのである。それ故に、「運が良い」という自己暗示が常に働き、単に努力したから成功したのではなく、逆に成功する「プラスの想念」が成功に結び付けたと言えよう。

 人間は夢があるから生きられるなどと言うが、その夢は、単なる空想から起こる夢では無いはずだ。自分の人生を現実化させる為に、その夢を自力の努力によって参画させ、それを想定しているからこそ、生きる意欲も湧
(わ)いてくると言うものである。
 しかし、「自力の努力」といっても、それは生きる力であるから、本来は自分のものではない。天からの授
(さず)かり物である。これを間違うと、とんでも無い事になる。
 日本の古い道歌に、


五十年 生かしておくさえ つけあがり

恩は思わず 不足のみいう



 これは昔の道歌であり、「人生五十年」と言うから、今日では「八十年」に匹敵しよう。つまり道歌に帰れば、「八十年、生かしておくさえ、つけあがり……」となるのではないだろうか。
 この歌こそ、神の心を代弁した歌という事が言えよう。不平屋
(ふへい‐や)に対する鉄槌(てっつい)でもある。

 「自分が生きている」とか、「自分が生きる力を持っている」という事は、そもそも自分のものでは無く、これらは授かりものということになる。授かり物であるならば、当然ここには「有り難い」という感謝の気持ちが生まれなければならない。
 このプラスの想念を持ち得た時、人は他力一乗に助けられ、「九死に一生を得る」のである。

 いま一歩の所で、「どっこい残り、うっちゃり、食
(く)わす」ことのできるのも、こうしたプラスの想念が働いたからに他ならない。 私が今から始める話は、こうした話であり、常に「悪運?」に恵まれていたと言える、実話を元にした「他力一乗」の物語ある。

 この物語は昭和50年代の大東流の大同団結以降の歴史調査をされている研究者に対し、特定者に発信しているもので、不特定多数の人に対して、無差別に中傷誹謗を行っていない。真摯に、大同団結以降の近現代史を研究されるされる方に対し、当時の事実を見聞したまま掲載している。
 ただし間違いもあろう。間違いに対しては、いつでも訂正する用意がある。


 わが方は居場所を明確にして逃げも隠れもしないのだから、物申す場合は毅然とした態度で発言してもらいたい。
 物事は感情家の眼で検
(み)るか、冷静家で検るかで結論が違って来る。感情家の眼で検れば判断は短見となり、冷静家の眼で検れば少なくとも一方的な結論に傾くことはない。
 しかし短見に物事を片付けようとする自称“真面目に生きている人間”は至って感情家であり、周囲の煽動に躍る。


 「講釈師見てきたようなウソをいい」という川柳があるが、まさに「見てきたようなウソ」であった。
 見て来たようなことを言うのは、そもそも証言そのものに信憑性と信用性が無いことを、某氏自ら暴露しているようなものである。一方的に、わが方を悪者にするための意図が窺えよう。

 昭和50年代半ばの話を、平成3年7月に、某氏は『合気ニュース』でも捏造している。この言だけで、一方的であり、暴力である。有無も言わせぬ遣り方だったといえよう。
 また、平成4年頃、がわ流の進龍一と神田神保町の愛隆堂を訪れた際、帰りに模造の居合刀を売る武道具店に立ち寄ったが、ここでは合気ニュース刊行の『大東流合気柔術』なる本が売られていた。
 この捏造文が以降一人歩きし、武田先生の「おい、こら」から始まり「青くなって頭を下げた」という作り話が捏造されており、このウソが世間で定着して罷り通り、これに対して進龍一は「こうしたウソの記事は、後日の証拠として、名誉毀損になりますからこの本自体を買っておかなければ駄目ですよ」と注意されたくらいである。

 一方的な正義感で憤っている御仁は、熱烈な大東流支持者であろうと思われるが、それを同物語に対し「直ちに削除せよ」とは、何と言う傲慢であろうか。
 この時代に、見て来たようなことをいい、身に覚えの無い事実に対し、白黒はっきりし難いことを言論で脅すとは驚きである。

 礼儀を尽くす必要がないなどの問答無用の一蹴では、かの5.15事件の犬養首相官邸を襲って、首相が「話せば分る」と言ったが、犯人は「問答無用!」と一蹴し、また2.26事件の際にも、無抵抗のまま討たれる天皇の重臣が毅然として「靴でも脱いで話し合おう」と紳士的に言うのを遮って、「問答無用!」と吼えて、拳銃で射殺した青年将校と遣ることは同じだろう。これではファシストと何ら変わりが無い。

 更に付け加えるが当時、むしろ武田先生は大同団結により、「同じ技で似ています。一緒にやりませんか」
(証人として横に当時、習志野網武館の館長だった進龍一がいた。確かに聴いている)と誘われて実に好意的であり、温厚な人柄もあって、一時期、一年間会員になり、武田先生直々に、わが流とは異なる大東流合気武道の柔術百十八箇条の一部を数回に亘り習ったこともある。その後も小松氏が、わが方を何度か来訪している。
 また当時、大東流合気武道の方面指導部長だった小松氏から手紙や年賀状を頂いたが、そのとき、わが方の名は「尚道館」だが、わが方への宛名は「大東流尚道館」となっていた。氏自身が、宛名に大東流の流名を遣っている。大同団結を誘われたくらいである。つまり、恭順である。

 しかし吸収されてしまう事に対し、わが方は大同団結の参加を辞退した。
 同意していたら、おそらくその渦に吸収されていただろう。昭和30年半ば頃から芽生え始めた独特の「思想」も消えていたであろう。
 戦国期の歴史を振り返っても、恭順しない者がその後、どういう運命を辿るか容易に想像がつくだろう。
 すると西郷派叩きの罵詈雑言や、あることないことの出所も、何処が発信源か容易に想像がつこう。

 その間、真夜中の二時、三時の正義漢ぶった者からの嫌がらせの電話が多数有り。現在も続く。某氏の捏造のウソが誘発したものである。それを妄信していると思われる者達からである。
 最新の電話番号追求システムにより、探り当てるも埒があかずイタチごっこに終わり、この心ない電話の数々で、人一人が精神を患い病死している。
 家内は、例の造反事件に端を発し、以来精神を患い、日本の精神医療はアメリカやカナダなどの医療にくらべて、50年以上遅れていると、知人の脳神経外科医は話してくれたことがあったが、結局精神安定剤の副作用により、現代の奇病と言われる横紋筋融解症になって、病名発覚後、僅か数ヵ月で急死している。
 その詳しい経緯も、間接殺人の事件として、この物語には記されている。
 被害にあった、この私怨は軽ろう筈が無い。
 この事件の発端は、ある大学の体育系クラブの徒党を組んだ、もの幹部部員の造反事件に由来する。死者は、この造反事件を仕組んだ者を酷く憎みながら死んで逝った。背景には、一方的な正義感を振り回す者達への二重苦、三重苦の恨みがあった。これまでよく尽くして来たので、何とも無慙な死に方であった。

 念のために言っておくが、わが流は大東流でない。これは繰り返し、言い続けたことである。
 わが流は「登録商標」である。特許庁の登録商標には「西郷派大東流」
(登録4816175号・平成16年11月12日認可)と「西郷派大東流合気武術」(登録4816176号・平成16年11月12日認可)として登録済みであり、大東流とは思想的にも違うことを明確に謳っている。
 また、文化庁登録団体の知的所有権協会にも「西郷派大東流
(登録217612号・平成16年4月30日認可)」と「西郷派大東流合気武術(登録217613号・平成16年4月30日認可)」の知的所有権登録で、登録済みである。
 西郷派大東流合気武術は、わが流独特のものである。そのために登録認可を受けた。
 わが流派が、流名を窃盗し知的所有権を侵害ているのなら、日本国の特許庁も登録は認めないであろうし、また文化庁登録団体の知的所有権協会も登録を認めなかったであろう。

 わが流は、わが流独自のもので、「大いなる東」の思想を根本信条に置いている。
 この「東」は「ひむがし」と読む。「ひむがし」は古典の極東の名に因む。
 わが流の大東は、甲斐武田家とも無関係だし、大東久之助の大東でもないし、また新羅三郎義光の大東の館の大東でもない。流布された大東流とは無関係である。
 また、これらの歴史を標榜する大東流とは無関係である。
 わが方は、極東を顕す「大いなる東」である。
 また、技も大東流柔術とは似ても似つかない。

 今では武道団体と言うより、危急存亡の時を憂う陽明学の思想団体である。実践行動学の「陽明学」の思想に惹かれて遣って来る者が殆どである。
 今からは、首から下の時代ではない。首から上の時代である。
 幾ら武勇に優れていたとしても、世の文・武の順位は変わらない。これが逆転して、武・文とは決してならない。武は文に遣われる運命にある。そのため「陽明学の塾」の形態をとっている。それを学習する。行動学の奥にある思想を学ぶためである。

 先の大戦を振り返ってみても、現代史や当時の戦史を紐解けば、戦闘や戦術に幾ら長けていても、肝心の「智」の分野の戦略が抜けていては、結局最後は大敗北することになる。白兵突撃や万歳突撃を繰り返しても、将兵を無駄に死なすだけで、英米側からはこうした突撃法を「蛮勇」と蔑まれた。また悪名高い『戦陣訓』の強制である。このために多くの人命が失われた。こういう自体に至ったのは、智が欠けていたからである。智が欠けていては、戦略が立てられないのである。当時の日本軍には戦略が皆無だった。
 現在、わが流では骨董品的な伝承の武技や武道の優劣は問題にしない。無関係だからだ。むしろ智を養う。
 考え方は、時代とともに変化するものである。

 昭和50年半ば頃、武田先生は何度か来訪して「同じ技で似ています。一緒にやりませんか」と言ったが、そうは思わない。違う。
 この違いを特許庁は、日本国の商標登録認可として、平成16年11月に許可を得ている。
 これをもって、何故大東流を名乗るのか?……とか、また図々しく大東流を名乗り続けているのか?……、と詰るのは心外である。
 日本は法治国家である。
 これを無視して、問答無用で葬るのは、まさに恐怖政治、あるいは軍国主義の再来と、世人からは捉えられよう。片手落ちは「法の精神」に反する。

 昭和50年代の大同団結は、笹川良一氏の財団の援助を受けるために、同氏の条件指示に従い動いた形跡があり、その指示により、武田先生は『英名録』を伝手に全国を奔走した。また、その理由も知っているが、それは此処では論じない。
 思い込みの命ずるまま、自分の信じる正義感を振り回すのはいい。
 一方通行の正義を振り翳すのも結構だが、こういう泥仕合的論戦で拗れた場合、ここまでに至る経緯の言い分は双方にもある。事実無根の、一個人が捏造した正義では、万人を納得させる説得力に欠けよう。
 また『合気ニュース』に、かつて掲載された一部の記事には誤りがある。調査無しの片手落ち掲載が行われている。これに抗議したが、問答無用で、未だに放置されたままである。

 さて、大同団結に動いた当時の調査と研究をされている人も少なからず居ると言う。
 況して、『合気ニュース』の掲載記事は、某の発言がそのまま記載され、これは一方的なものである。わが方を調査した形跡は一切ない。これまで事情を訊かれたこともない。
 もし論ずるならば、当時の実情と経緯を双方から聴き、その調査を正当かつ公平に行って、正々堂々と判断を下すのが、法治国家としての日本国民の正しい姿であり、一方的な中傷誹謗で、これまで、わが流は大変な迷惑を被っている。

 個人名などの氏名については苗字のみとし「○○某」とした。あるいは仮名にした。
 また、身内・わが方・元わが方・友人・知人・協力者・証言者はフルネームとした。
 団体名は事実を事実として記述し、証拠を比較のためには根拠と立証が要り、当時の見聞のままそれに準じて記載した。当時の発言者の文言を記憶のままに記述したが間違っていれば訂正する。

 なお、以降の内容に関心をお持ちの方は、正式に入会された上で閲覧を願いたい。
 思慮深くありたいものである。
 関心のある方は、じっくり読んで頂ければ事件の経緯が分り、決して誹謗中傷でないことは分ろう。一度で分らなければ、繰り返し読んで頂きたい。そうすれば、わが方の悲痛なる思いが理解できよう。

 さて、あれから幾歳かの年月が流れた。長い航海だった。
 波瀾万丈に満ちた大航海だった。
 しかし、今は老いて老身となり、既に親の寿命の年齢を遥かに超えた。
 こうなると、抗争とか争奪とかの争いは必要ない。老境に至り、物の哀れも学んだ。もう争う必要はあるまい。
 そして、敢えてわが流の流派名を名乗るなら、かつて大東流などと称してその争奪戦の愚を繰り返し、またその信憑性に対し、言い争うことを愚かなことだった。
 兵法は「平法」でいい。
 滑らかでいい。
 そして和して、鎮まればいい。納まるところに納まればいい。
 そういうインスピレーションの覚醒から、わが流を敢えて「平武和応」の精神をもって、この流名を称するなら「平武和応流」である。何も、強いて好戦的に争う必要はあるまい。

 だが、世界は今から「日本叩き」に奔るだろう。
 近隣諸国はその機会を虎視眈々と窺って来た。事件として、日常茶飯事に起こっている。
 わが国はいま脅威にさらされている。この危機に対し、どれだけの日本人が真剣に危機意識を持っているだろうか。世は物質主義である。精神が蔑ろにされる時代である。体主霊従で、肉体こそ信奉する対象になっている。

 自らの先祖の墓の上を、侵略国軍の戦車や軍靴で踏みにじられようとする近未来に対し、どれだけの日本人が、この危険を察知出来るだろうか。そしてその画策は、既に始まっている。闇の蠢きを見過ごした愚者は、軽薄にも誘導された観が強い。日本人の魂は、何処に行ってしまったのだろうか。

 かつて西郷頼母は「大東思想」を説き、極東に位置するわが国の重要性を説き、また「大東」を説いた。「大いなる東
(ひむがし)」を説いた。
 説論には、時の権力の横暴を抗
(あら)い、抗議し、真の日本の姿を正さんとしたが、その行動と行為は虚しく、無慙に聞き流され、安易に見逃され、日本は明治維新に遭遇しするも、その大半は欧米に習った物質至上主義、科学万能主義であった。斯(か)くして日本精神は失われた。文化も伝統も、否定的な憂き目にあっている。

 その結果、日清・日露の戦争を経て、日本国が諸の戦勝国として横暴・横柄になり、半島や大陸に侵略し、その反作用として次に招いた惨状が、英米側から言う太平洋戦争への誘導戦争の罠に嵌まったのではなかったか。
 そしてこの誘導の罠に、日本はまんまと引っ掛かり、先の大戦で大敗北を帰し、多くの人命を失った上に日本全土は焦土と化したのではなかったか。
 まさに愛国者なら、憂国の情の尽きぬところである。痴話に揺れ動く時ではあるまい。



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