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武士道思想 1


武士道思想





土井晩翠(どいばんすい)の『天地有情(うじょう)』の一節には、次のようにある。これは秋の五丈原(ごじょうげん)に思いを馳せたものである。五丈原は、中国陝西省岐山県の南、秦嶺山脈の北麓にある地である。この地に、西暦234年、蜀の宰相・諸葛孔明は、魏の将・司馬懿(しばい)と対陣中に病没した。




●精神性の貧困・乞食根性について

 乞食根性と言うものは誰にでもある。むしろそれが自然と言うものであろう。乞食根性で、現代人に明確にあらわれるのは、得をすることである。人は誰も、一円でも安いもの、少しでも得するものに向けて、旺盛なる損得勘定が起る。

 しかし、こうしたトクへの奔走として、一つだけ困る事がある。それは人間と言う生き物は、人から貰う立場を確立した場合、その域から中々抜け出せない事である。
 得をする為に、奔走する原動力は、労せずして、食べる事や泡銭への期待である。貰う事ばかり、得をする事ばかりを企てて、それでいて満足も出来ず、幸せにもなれないのである。もっともっと、更に満足感をえようと、あるいは幸福感をえようと、貰いことに、得をすることに奔走する。

 例えば500円の商品が498円と値引きしてあると、わずか2円だが、500円で買うより、感覚的に得したように感じる。この思考の型にはめられると、例えば1000円でも、これは998となっていれば、数字のマジックによって得をしたような感覚を受ける。そして、ついにはこうしたものばかりに乗せられ、踊らされる実情に麻痺して、自分が乞食根性で物事を判断する価値観が出来上がってしまった事に気付かなくなる。

 また、贈り物でも同じ現象が起る。贈り物を送られた場合、その物品が多少自分の趣味に異なったとしていても、それが使うものであれば充分に使い切る気持ちが、贈った人への感謝の気持ちであり、贈られた側はその行為を無にしてはならない。
 御中元や御歳暮で沢山の物が贈られてくると言うのは、おそらく社会的に地位のある人であろうが、これに対し、余りにも多い贈り物を、下取り屋に引き取らせて換金するのは、それ自体が感謝のない気持ちであり、これこそが乞食根性である。如何なる階級に限らず、乞食根性を持つ人は多く分布する。

 それは生まれて以来の性癖であろう。つまり、得をする事ばかりを企てて、その輪の中から出られないのである。得をする事ばかりに夢中になり、得をする事に目を輝かせるようになったら、それは現代社会における新しい乞食層である。

 得をしようと企てるのは、まさしく精神の貧困から起るもので、得をするとは労せずして得をえようとする乞食の発想である。そして乞食の発想を心に抱えている限り、そこから永遠に解放されないであろう。更に、自分がこの世に人間として生まれ、自力更生・自前主義で生きる事に、何ら意味を見出せないのである。

 かつて日本人の階層には、サムライという武門の階級があった。この階級は、自分の生命を投げ出し、最初から損する事が分かっていて、自分が他人の為に身替わりに死ぬと言う使命を抱いて武技に打ち込み、奉仕者として全人格を前面に打ち立てた人達であった。

 自分の存在を他人が喜んでくれ、しかも自分の存在が他人の為に役立っていると感じた時、彼等はこの上もない名誉に満足した人達である。自分が他人の為に役に立っている。自分が他人へ、損を覚悟で与えているという気持
ちが常にあった。この損をする、他人に与えるという行為こそが、人間としてもっとも栄誉なる気持ちであり、ここに人間としての涼やかな充足感があった。それは一種の清々しさに置き換えることができるだろう。

 この充足感や涼やかな清々しさは、得を企てて生きる人間より、精神的には格段の差があり、いわゆる精神的貴族の境地を確立した事になる。したがって、こうした涼やかな清々しさを味わず、挫折感に満ちて人生を閉じる人間より崇高な精神である事は明白だろう。

 溺れかけた人を、わが身の危険も顧みずそれを必死で助ける人は、即ち、その高貴さは、まさに貴族のものである。他人を助ける事により、自分の命を身替わりにして、これに代わり、他人の「生」にかける、その動機は末代までに語られるものである。
 人生は他人より得をして、商魂
(しょうこん)(たくま)しく生きる事ばかりが、人生の目的ではない。他人の為に損をして、それでいて、涼やかで清々しい気持ちで生きる人生もあるのだ。

 崇徳上皇像(菊池容斎/筆)
 崇徳天皇は平安後期の天皇で、鳥羽天皇の第一皇子だった。名は顕仁(あきひと)といい。初め讃岐院といわれた。父上皇より譲位させられ、新院と呼ばれた。しかし「保元の乱」に敗れ、讃岐国に配流され、同地で没した。
 「保元の乱」は、保元元年七月に起った内乱である。
 皇室内部では崇徳上皇と後白河天皇と、摂関家では藤原頼長と忠通との対立が激化し、崇徳・頼長側は源為義、後白河・忠通側は平清盛・源義朝の軍を主力として戦ったが、崇徳側は敗れ、上皇は讃岐に流された。この乱は、武士の政界進出の大きな契機となったといわれる。
 保元物語には、「風雨時ニシタガヒ、寒暑ヲリヲアヤマタズ。御歳廿一ニシテ、保安四年正月廿八日、御位ヲノガレテ、第一ノ親王ニ譲奉ラセ給ヒケリ。第一ノ親王ト申スハ、配流ノ後、讃岐院是也」とあり、成立は平家物語以前といわれる。和漢混淆
(こんこう)文で綴られ、源為朝を中心に、保元の乱の顛末(てんまつ)が描かれている。

 蝋燭(ろうそく)は我が身を燃やして、辺りを明るくする。我が身を燃やす事で、他に光を提供するのである。かつてのサムライは、ただ“武勇”に秀でているだけでなく、損を覚悟で、あるいは損得を度外視して、自分の命を投げ出し、他人に我が“命”と“清々しさ”を提供する、こういう人達だったのである。それは同時に、我が身のすり減らして、周囲に灯(あか)りを提供する“蝋燭の灯り”に酷似する。

 そしてこうした人達は、人の生死を、「死によって生きる」あるいは「生きる為に死を選ぶ」ということを、迷わず選択できる人であり、ここには同時に人の生死を通じて、“決裁”と“再生”を同時に実行し得た人なのである。
 「生」とは同時に“死”という名詞的なものであり、また「死」とは“生きる”という動詞的なものであり、ここには人間の人生に、二つの意味としての“状況”と“存在”があることに、はじめて気付かされるのである。

 かつてソクラテスは、真の知恵とは、逆説的ではあるが、無知の自覚のことであると指摘し、生涯を倫理の原理の探究にささげた。しかし残念ながら、この努力は報いられないまま、アテナイ市民には受け容れられず、告発されて、死刑に処せられた。それでも哲人として毒杯を選んだ。

 また一方、海難事故として、世界最大の事故を引き起こした、沈没寸前のニュー・ファンドランド島南方沖のタイタニック号の甲板には、弱者である婦女子を救う為に、救命ボートを見送った男達が大勢いた。それはボートを見送った男達が、自身を死によって生きる“誇り”を選択した為であろう。

 ところが今日の現代社会はどうか。
 そのような人間の内なる“誇り”や“尊厳”が、物質優先の利害や打算に変わり、功利主義に侵犯されて、後退してしまったと言うべきであろう。確実に現代人の「魂」は退化しているのだ。

 それが他者の痛みに対する人間的な想像力を欠落させ、かつ、招来せしめて、弱者をいたぶる、弱い者苛めをし、彼等の生命を弄
(もてあそ)ぶ事件が、現代と言う世の中にはゴマンと存在し、今日もなお、血なまぐさい事件が続発している。それは人間の“誇り”や“尊厳”が喪失したからに他ならない。



●仁とは

 「仁(じん)」は、愛の形を指す。
 また愛は、仁の形を変えた表現法で、仁とは、「思いやり」を顕わす形として、「礼」がある。

 一般に愛と言えば、男女の溺愛を指すようであるが、こうした欲望のドロドロしたものではなく、万物に対する慈悲の心であり、広くは、「慈
(いつく)しみ」や「思い遣(や)り」を指すのである。
 慈しみや思い遣
(や)る心は、人類における最高の道徳観念であり、礼に基づく自己制御であると共に、他人への配慮が「礼」として現われる。

「いつくしみ」や「思いやり」を仁と言う。
 特に、孔子が提唱した道徳観念である。礼にもとづく自己抑制と他者への思いやりのことであり、忠と恕の両面をもつ。爾来
(じらい)、儒家の道徳思想の中心に据えられた。また武門では、これを武士の行動原理とした。

 しかし、日本人には「愛」の概念がない。その事物の本質を捉える思考がない。その為に、「愛」と言う思索を、快楽的人生観から索引しようとする。つまり、男女関係に於ての耽美主義と捉え、唯美主義、つまりエステイチズム(aestheticism)として愛を解釈している。この考え方は、道徳的功利性を廃して、耽溺美の享受や形成に捉われ、最高の価値を唯美主義に置く立場である。

 十九世紀後半、フランスやイギリスを中心に唯美主義が起った。この「新浪漫主義」という考え方は、当時の文芸思潮であり、ボードレール・ゴーチエ・ワイルドらがその代表格であった。生活を芸術化して、官能と享楽を求めたのである。芸術至上主義といえば聞こえがいいが、反自然主義的傾向にあり、その背景には耽美思潮が漂っていた。

 日本で謂
(い)えば、明治40年代末以降に擡頭(たいとう)した、耽美思潮であり、特に北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、永井荷風、谷崎潤一郎らの新浪漫主義は、日本人に「謙虚に慈しみの心を抱くチャンス」を失なわしめた。そして、日本人が感得する「愛」は畸形に捻れた。

 この時点から、徳川時代、武士階級が持ち続けた「道徳」や「倫理」は破壊され、人間の一生のうち、どれだけ功利的な立場に立って、官能的かつ享楽的な幸福を貪かに変わっていった。

 つまり、唯美主義者達が唱えた主張は「死後、千年の名、生前の一杯の美酒に若
(し)かず」だった。死して吾が名を残すより、現実的な耽美に溺れる美酒こそ、最優先であると考えたのである。したがって、一生は肉体への享楽だとしたのである。彼等の言を借りれば、死後どんなに褒(ほ)められようが、自分が称賛されようが何もならない。現実の世の、現世を満喫するのが一番大事であると観(かん)じたのである。

 その為に、社会は自己の利用すべき場所であると考えるようになる。また、道徳と言っても、それは、それを守る事の方が、自己の営利活動に有利である為、ポーズとして、批准
(ひじゅん)するとしたのである。そして、彼等が夢見る社会の全体像は、功利的な考え方が全体を貫いているのである。他人に協力すると言う考え方も、許(もと)を辿れば、ここに回帰する。

 これは、常に自己の利益や幸福を増す場合に於てのみ、そのものに価値を認める存在理由になるのである。
 まさに人生を、快楽的人生観で捉え、一方に於いて、世紀末的な頽廃的かつ享楽的な思考である。つまり、今がよければそれでよいと考える分けである。
 「恋と歌と酔いが若い魂の三部曲」と持て囃した耽美主義は、しかし、人間が死ぬべき存在であると言う真理に直面した時、この主義は脆
(もろ)くも崩れ去る。

 それは享楽の実体が、「負えば負う程」失うべき存在であるからだ。享楽的幸福を思う者は、ついには本当の幸福から遠ざかるのである。そして耽美と享楽の行き着く先は、醜と死だけであった。

 かつて孔子が提唱した礼は、仁を天道の発言と看做
(みな)し、道徳思想の中心課題に据えられ、万人平等の実践するべき倫理となった。そして人は、仁を実践する事によって人間相互間の秩序が保たれるとした。仁の表現型である慈しみや思いやりが無くして礼は存在しない。

 世間には、仁義・仁術・仁侠などの言葉が軽々しく用いられているが、仁における根本理念は他者に対する慈しみであり、思いやりである。
 一方、この仁の精神的支柱の背景には、民を治めると言う必要条件が内在し、この必要条件こそ、全人格を代表して人の上に立ち、人を指導する条件であった。「民を治める」崇高な条件は、その中に内在する「愛」「寛容」「弱い者への哀れみと同情」「人情に機微」「至高な徳」などが求められ、人間が貫いて生きて行かねばならない精神的な支柱が此処におさめられていた。そして、これこそが高貴な精神の性質でもあったのである。

 歴史を振り返ると、孔子や孟子が教えた精神の中で、民を治める必要条件は「仁」であると説き継がれて来た。そして仁は、慈悲に回帰する。

武士道の最高に光り輝く精神的支柱は「仁」と「義」である

 孔子は言う。
 「君子はまず徳を慎む。徳あれば此処に人あり、人あれば此処に土あり、土あれば此処に財あり、財あれば此処に用あり。徳とは本
(ほん)なり、財とは末なり」と。
 また言う。
 「未だ上仁を好みて、下儀を好まざる者はあるざりなり」と。そして「天下心服せずして王たる者はこれあらざるなり」と述べている。
 更に、孟子は孔子についで、「不仁にして国を得る者は、之
(これ)有り、不仁にして天下を得る者は、未だ之有らざるなり」と云っている。
 つまり両者は、天下を治める者の不可欠な条件は、「仁」であり、この仁は「人
(じん)」と定義したのである。
 人は仁に通じる以上、人の道の基本は「礼」である。「礼」をもって人に回帰するのである。

 武術における「礼」も、原点はここから出発している。
 したがって古来より、「武は礼に始まり礼に終わる」と言われる。同時に、世人は武に期待するものを、時代と共に変化させつつ、それに期待を寄せてきた。そしてこの期待は、日本人の文化資産にまで隆盛し、教育的効果が注目された事は紛れもない事実だった。
 ところが今日に至って、その効果も揺らぎ始め、時代の流れの中に埋没する恐れが出てきている。

 これまでの武の中心課題は、勝つ為に修行するのではなく、「負けない境地」を得る為に修行するものであった。自らは争わず、有事に際してのみに百年兵を練り、これに備えると言うものであった。

 しかし時代が明治維新以降、西洋化の波が押し寄せる頃になると、「負けない境地」と言う考え方は、古いものとされ、勝てばよい、叩けばよい、投げればよい、倒せばよいと言う考え方が生まれ、その勝者は、英雄として持て囃
(はや)される現実が出現した。今日もその延長上にある事は明白であろう。

 かくして、勝つ為の修練は、弱肉強食の欧米的な植民地主義に加担し、帝国主義に加担して、欧米の「強さは正義」という考え方に汚染されてしまった。
 しかしこうした原因の根元を知らない一般世人は、今日でも、「武道」と名の付くものに、「礼儀あり」を期待し、武道界もまた、某かの自信を持って普及に奔走している。
 そしてこうした現状を広く武道界を見渡した時、理想とは似ても似つかわない、武の礼が、儚い幻想であった事に気付かされる。

 現在一部の、少数の本格派あるいは例外的な一部の良識派を除いて、「礼儀あり」と現実は廃れてしまっている。更には、この現実を持して、世の良識派を納得させる説得力は、今日の武道界にはない。

 礼儀正しいと自負している各種目武道でも、それはその集団の中でしか通用しないものであり、恣意的な習慣に過ぎない場合も少なくない。特殊な仏教思想を掲げ、横行に合掌などをする種目武道も、これを礼と喩
(たと)えるが、これはむしろ礼と言うより、その実態は規律であり、規則であり、単に人の行動を制約する道具に過ぎない用に思われる。

 武門の礼は、行動を制限し、制約するものでない。自然な流れを旨とするのである。
 しかし武道と名の付くもの外と度スポーツ化していくと、武の礼法は廃
(すた)れる傾向に傾く。本来、武の礼法は、求道精進(ぐどうしょうじん)の道であったはずだ。
 また、その価値観をもって、礼としての作法があり、作法には当然、自他の境界意識としての認識を促す、けじめの意識が備わっていた。その意識こそ、自発的な行動律であり、礼を知る者は、その背後に教養と見識が要求され、また鋭敏と柔軟が要求されたのである。これこそが直覚を支える意識であり、知性と感性の結集として、仁義があり、仁侠があった。

 ところがこうした意識は、違うものに宛てがえられ、万人の平等を実現する相互的な倫理は時代の移り変わりの変化と共に、無用の長物視される現実を招いた。
 また仁義の根底のあるものは「人の温情」であり、温情味のない仁や義は、決して一流とは看做されないのである。

 仁義や仁侠を語る多くの人間は、冷厳な態度を崇拝するようであるが、こうした態度は単に温情のない、人情に機微を知らない愚行を実践しているに過ぎない。
 恥を語り、菖蒲の大事を熱っぽく論い、志や、仁や、義を力説する輩は、ただ冷厳な人柄が多く、逆から見れば、他人に厳しく自分に甘い人である。冷厳な態度を取る人は、他人の行為に冷厳であって自分の行為には実に寛大である。

 特に仁侠道
(にんきょうどう)と称して、その中に身を置いて生活をしている人にはこのタイプの人間が多く、自分の身の保身を考えて、他人に傾けねばならないはずの人情の機微が、実は自分の方ばかりに向けられていて、酷薄な性格の持ち主が少なくない。そして彼等の行為の多くは、教義で仁義を捉え、君徳に欠ける酷薄さだけが鼻につくのである。

 しかし仁や義の実態は、一種の温情味と呼ぶに相応しい「潤い」が保たれている事が、そのまま志の高さを顕わし、ここにこそ仁義の境地が存在していなければならない。
 武士道実践者の「武家目利き」の基準の一つには、この温情味を所有し、人間理解の目配りがあったという事である。そしてこの目配りが、見識となって現われ、仁や義の変型が「徳」と言うものであった。
 徳の無い人間に、人は価値観を認めず、潤いの無い人間に目利きは出来ないからである。




●義とは

 仁と同じく無用の長物視されるものに「義」がある。
 本来、義は道理や条理を指し、物事の理にかなった事あるいは人間の行うべき筋道を言った。ここに「仁・義・礼・智・信」からなる「正義」があり、「義務」があった。

 正義や義務は、利害を捨て、道理や条理に従って、人道もしくは公共の為の奉仕であった。武士道の原点はこの奉仕の一語に尽きるのである。こうした事に骨を折った者に対し、世人はその行動を義挙と讃え、その行動人を義士と讃えたのである。

 論語為政に、「人の道として当然行うべき事と知りながら、これを実行しないのは、勇気がないというものである」と、勇の無い事を指摘する言葉がある。
 勇は義の変型であり、心が強く物事に恐れない事を指す。「義勇」や「武勇」はこうした義に原点を置いて、「勇断」や「勇退」の潔さを顕わした。しがたって義は仁に結び易く、一方で広義の「仁義」という語が礼に適
(かな)うとされたのである。

 また力量と言うのは、勇によって派生し、義に結びつく事で「仁・義・礼・智・信」の人の筋道が出来、武士道はこの五つの実践に於いて、成就されるべきものである。またこの成就を武門の嗜みとした。

 喜怒哀楽の感情のままに揺れ動く事を戒め、人間の行動様式は本来、奉仕に向かわねばならないとする自他同根思想である。
 ところが徳川中期以降の武士道は、儒教的教養主義の毒を受け、自己抑制こそ、美徳とする狭義的な解釈で武士道が狭い思想で徘徊した。また官学に組み入れられ、儒家の朱子学的要素を濃厚にした。

 だが官学的朱子学は時の権力者や特権階級の保身に利用され、狭窄的なものに成り下がって行く。しかしこうした朱子学的要素の儒学を武士道と称するのではない。
 朱子学的要素では、時代を変化させ、新しい波を乗り越える事が出来なかった事は、歴史を見れば明白である。
 喩えば、戦国時代や徳川幕末から明治維新にかけて、果たして朱子学的思考で新しい時代の波は乗り越える事ができただろうか。現に時代の封建体制は、室町期も同様に、徳川幕藩体制も、時代と共に跡形なく崩壊しているではないか。

 日本民族が本卦帰り
ほんけがえり/八卦で、二回算木(さんぎ)を置いて占う時の初めの卦の事。本卦の二になる事で、即ち数え年で六十一歳になること。還暦とも)を果たしたような時期に武士道にピントを合わせて観察すれば、当時の行動律は非日常における「実践」を信条とし、「本心の動くまま」の知行合一のアクションを起こし、これに集約されている事が非常によく窺われる。

 つまり時代に節目には、日常と違って、非日常の原則から、心にも無い事を口にしたり、不本意な事をするのは、武士道全う者の恥辱としたのである。
 ここにこそ、陽明学の説く知行合一があった。

 知行合一
ちこうごういつ/の王陽明の学説。朱熹の先知後行説が「致知」の「知」を経験的知識とし、広く知を致して事物の理を究めてこそ、これを実践しうるとしたのに対して、王陽明(おうようめい)は「致知」の「知」を「良知」であるとし、知は行のもとであり、行は知の発現であるとし、知と行とを同時一源のものととらえた)によれば、嬉しい時に嬉しくないような顔をし、また悲しい事を悲しくないように装おう事こそ、陽明学の精神思想に反するものだと考えたのである。これは明治維新を縦横に駆け抜けて活躍した志士達の歴史を見れば明らかであろう。

 旧態依然の幕藩体制を支持する、本心を偽って仮面を被った武士が居る一方、御身大事の保身主義を否定して、行動こそ、知行合一の要であると理解した武士道実践者も少なくなかった。
 そしてその知行合一の、実践の第一人者が吉田松陰ではなかったか。
 知っている事と、行う事が同時であると言うのは、決して武士道の行動律に矛盾しないのである。


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