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葉隠恋愛論 1

葉隠恋愛論







『弓を引く武士』(曽山幸彦筆)


●醒める情熱の恐ろしさ

 情熱は永遠のものでない。情熱の意味から考えれば、欲望の情熱の一種だろう。その徳望の中に「性欲」と言うものがある。性欲は誰でも抱き続けている。老若男女を問わず、一生涯“性欲”はある。灰になる寸前まで、人間は性欲を持ち続ける。

 性欲は、男女両性間における肉体的な欲望である。人間はこれに囚
(とら)われて、死ぬまで性欲を持ち続ける。その性欲の日常茶飯事の掃き溜めが、ラブホテルだろう。
 ラブホテルには、毎日数十万人単位で、男女の乗った車が吸い込まれていく。男と女の世界が、此処の各部屋で繰り広げられる。

 恋人同士が、売春婦と男が、不倫の妻と男が、会社の上司と“不倫”を働く部下の未婚女性が、男を買う人妻が、ホストクラブのジゴロに入れ上げる、のぼせ上がった女が、「貪欲」と云う名をもって、男と女の享楽の世界が繰り広げられる。
 貪欲に、互いの性器を貪り、肉欲に限りを尽くして、多くの男女が毎日絡み合う。

 しかし、男の射精と女の絶頂で、忽
(たちま)ち色褪(いろ‐あ)せる男と女の業(ごう)
 業とは、そうしたものである。永遠の継続する業の持続性はない。
 つまり、射精で終る男と女の業が肉欲の世界には渦巻いているのである。しかし、多くの男女はこの業によって、儚
(はかな)き肉欲を貪(むさぼ)ろうとする。
 愛とか、恋とか云うものも、この業より起こる。

 肉欲の焔
(ほのお)が消えれば、如何なる執念も情熱も消え失せる。情熱の脆(もろ)さや弱さ、果敢(はか)なさは、その烈(はげ)しい焔(ほのお)を燃やしている時だけである。欲望の焔で、脳を灼(や)いている時だけである。煩悩と云う、灼熱の業火(ごうか)で灼いている時だけである。

 この意味で、愛情と情熱は根本的に異なっていることが分かるであろう。しかし、これを混同している人は少なくない。
 それは烈しい情熱が愛に結びついていると云うことを妄信している人達である。この種の人は、情熱が愛と結びつくと信じている。ところが、これは混同に他ならない。
 情熱と愛の両者の何処が異なるかと言うと、情熱は誰に持っている「一目惚れ現象」であり、これは明かに愛と異なるものである。

 何故ならば情熱は忍耐を伴わない一方的な現象であるが、愛は誰にでももっている状態とは異なり、それは非常な忍耐を努力が伴うものである。そして「創り上げていく」というものであるからだ。

 喩えば、自分が知覚する「好ましい異性」に出会ったとする。人生の途上において、こうした人と遭ったとする。その時、その人のことが忘れられなくなる。その後、その人のことを考えるようになる。
 誰だって、男である限り、女である限り、こうしたことを経験する。この経験できる状態は、別に何の努力も、何の忍耐も必要としない。それは本能的な心の働きによるものであるからだ。自然な感情が動いたまでのことである。これが「情熱」の発生なのである。

 一方、愛はこれとは違うものである。したがって、愛知は誰にでも持てるものではない。何故ならば、それは情熱のように本能的な情動から発するものでないからだ。
 愛は、時には本能を押さえて懸からなければならない。耐え忍ばなければならない。

 ただ本能を押さえるだけでは駄目である。意志や忍耐が必要である。それを実行する為には、相当な努力がいる。その努力によって、自分を愛する人との幸福を毎日毎日、心包強く創り上げ、育て上げなければならない。つまり、愛とは、本能的に燃え上がる情熱とは異なるのである。肉欲に絡む、異性との淫
(みだ)らな行為とは別次元のものである。しかし、昨今はこの淫らな異性関係が愛と信じている若者が少なくない。
 また、相手の異性器に対する性欲が、愛と誤解している馬鹿者もいる。性情報の氾濫
(はんらん)から、こうした錯誤をするものも殖(ふ)え出している。

 だから、「愛情」などを自称して、簡単に寝る男女も少なくない。しかし、彼等がこうした行為を通じて「練る現象」は、どこまでの好みの問題であり、それは一時的に煩悩の火が脳を焦
(こ)がした現象に他ならない。

 このように愛と情熱を分けて考えていくと、情熱にはもう一つの性格があることが分かる。それは情熱とは、苦悩によって燃え上がると言う性質を持っている。引き裂けば、燃える性質である。
 両者が引き裂かれ、これに妨害が入れば入るほど、両者の仲は燃え上がるのである。



●情熱の焔の正体

 フランスの有名な作家プルーストMarcel Proust/第3共和政下のフランスの上流社会とそこに生きる人びとの変容を描き出し、芸術に対する作者の理想を示したもので、20世紀の小説に決定的な影響を及ぼした。1871〜1922)によれば、「安定は情熱を殺し、不安は情熱を掻き立てる」という心情が情熱の正体である。

 二人の恋人が性関係を持って結合し、安心し、安定してしまう時、その恋人同士の仲はやがて倦怠期を迎えることになる。馴れ合った者同士の倦怠感は、こうして起こるのである。

 では何故、安心し、安定した状態になったら倦怠感が起こるのか。これは倦怠期を迎えた夫婦にもよくあることだし、馴れ合い過ぎた恋人同士にもよくあることである。
 二人の情熱は、安心と安定で崩壊するからである。そして、二人の情熱はもはや苦悩や嫉妬、不安や動揺と云った、情熱の焔
(ほのお)に油を注ぐ必要はなくなるからである。

 安定し、安心し切った恋仲は、もう誰も邪魔する者が居ないからである。安定してしまった恋人同士は動揺する要素が消え失せるからである。

 しかし一方で、まだ肉欲を交わすこともなく、結合しない恋人達は、互いに相手の愛情を確かめ合う為に、相手を疑ったり、嫉妬を抱いたり、誰かに奪われるのではないかと不安を感じたり、それによって苦しんだり、傷つけあったりするものである。こうした状態になっている時は、まだ恋の焔は消えてないのである。不安と不安定が、恋の焔に益々火をつけるからである。

 また不安や苦しみや嫉妬が、かえって相手に対する疑心暗鬼から妄想のような執着心を強め、情熱の焔は益々烈しくなっていくのである。つまり、「安定は情熱を殺し、不安は情熱を掻
(か)き立てる」のである。



●忍ぶ恋

 宮本武蔵の『独行道』の中に、「恋慕(れんぼ)の思いなし」という一節がある。
 これは修行者に、愛欲自体が無用であると戒めた言葉ではない。その言葉の裏には、隠された「忍ぶ恋」が説かれている。

人間の欲望の一つに「愛欲」があるが、深みに落ちれば、愛が突然煩悩に絡み取られて、「渇愛」となる。

 渇愛とは、渇して水を欲しがるように凡夫が五欲に愛着することをいい、溺れてはならないことの一つにされている。そして煩悩も、その意識は宇宙に繋がっているのであるが、貪・瞋・痴・慢・疑・見を根本とするこの欲は、ある意味でまた、「煩悩即涅槃」なのである。

 人間の欲望の中で、愛欲程、手に負えないものはない。それなるが故に、一方において、愛欲を罪悪だと思い込ませる異端視的な現実がある。そうしたものが宗教であり、また道徳であろう。しかし、その愛欲を横目で見ながら、これを無理に避(さ)けて通れば、太陽や月や星が大空に輝いているのに、それを見ようとしないのと同じになる。同時に、この存在すら否定することになる。そしてこの事実を否定すれば、人間は「汚らわしい生き物」ということになろう。

 修行者が愛欲を放棄し、只管
(ひたすら)殺伐(さつばつ)とした必勝の世界に明け暮れるようになってしまったら、もはやそれは、人の修行ではなく、狂人の暴力と成り下がる。そのような人間に、細やかな人情の機微(きび)などあろう筈がない。人間としては失格である。そして人間失格者は狂気に趨(はし)り、やがては自滅するのである。

 男女の愛欲の現実を、あるが儘
(まま)に認め、受け入れ、その中の人とならなければならない。これが人生を生きる現世の人間の、吾々(われわれ)に課せられた任務であり、修行ではなかろうか。
 人間を外して、修行はあり得ないのである。人間界から抜け出して、深山幽谷
(しんざん‐ゆうこく)の山野に入り、そこに籠(こも)ってみたところで、それは所詮(しょせん)、独り善(よ)がりの幻(まぼろし)に過ぎない。

 真
(しん)の人間たろうとすれば、俗界にあり、俗事にまみれて、更にその俗事に染まらないと言うのが最高の教えでなければならない。隔離した世界に、人間など存在しないからだ。
 そして俗界の修行場に、情愛と言うものが存在している。これを慎
(つつ)んで捕らえれば、人間としての成長を促すが、憶測(おくそく)を誤り、愚(ぐ)を侵せば、溺愛(できあい)の渦中に巻き込まれる。

 だからこそ、情愛の究極の姿は、「忍ぶ恋」なのである。ここに究極の姿を説いた古人の短歌がある。


恋死なん 後の煙にそれと知れ ついに漏(も)らさぬ中の思いは

 この短歌の中に、格の高い、丈(たけ)の高い、そして気高(けだか)いまでの情愛を感じるのは、決して筆者だけであるまい。

 しかし世の中には、長年連れ添った夫婦が、倦怠感に陥って、互いに罵
(ののし)り合って、愚痴(ぐち)や小言に愛想を尽(つ)かしている現実がある。しかし「忍ぶ恋」を実践すれば、愚痴や小言とは正反対に、いつも新鮮であり、常に瑞々(みずみず)しさを失っていなかった。それは肉の交わりを待たないが故に、情熱の恋が生きているからである。情熱は、新鮮さを齎(もたら)してくれるものである。単的に云えば、心を主体とする「心主肉従(しんしゅ‐にくじゅう)」が、肉欲の絡む愛情である「肉主心従(にくしゅ‐しんじゅう)」より持続性が長いからである。

 「肉主心従」になれば、やがて恋の新鮮さは欠け、その威力は消滅して死んでしまうからである。恋は、生き続けることに大きな意味合いを持っているのである。
 特に日本人には、欧米人にはない、縄文人以来の以心伝心
(いしん‐でんしん)との特異な機能が内蔵されている。そうしたものを駆使すれば、欧米人のように言葉巧みに迫らなくても、また大袈裟なアクションで、ジェスチャーの類いを乱発しなくても、以心伝心を遣えば、容易に思念は伝わる筈であった。

 しかし明治以来、欧米化の波に翻弄
(ほんろう)されて、こうしたものは退化の一途にあり、その機能が錆(さび)ついてしまったのである。今こそ、わが先祖から連綿として受け継がれた、こうした機能を復活させるべきである。



●武蔵の恋愛論「恋をせば」

 宮本武蔵の兵法書に『十智(じっち)』というものがあり、その道歌の中に、次のように出ている。


恋をせば 文ばしやるな 歌をよむな

 一文たりとも銭をたしなめ

 武蔵の道歌で言う「銭をたしなめ」とは、「金を貯(た)めよ」と言うことである。つまり、恋をしたら、熱烈なるラブレターを書くよりは、そんな無駄な時間があるなら、現実に則して「金を貯めよ」と言うのである。これこそが恋愛の持つ「実用主義」の側面であり、これを無視して、空想から起る世迷(よま)い言は許されない。

 一般に恋をすると、好きな相手に何らかの形として、「付け文
(ぶみ)」などの在(あ)り来たりの常套手段により、相手に自分の胸の裡(うち)を伝えようとする。これは古今東西どこでも同じであろう。
 しかし、これは恋が実る為の現実的な環境ではない。本来の恋を実らせる為の現実的環境は「絵空事
(えそらごろ)」では完結しないのである。

 真摯に恋愛を考え、それを「実るため」の結末に持ち込む為には、実用主義に徹し、そこから出発しなければならない。そして武蔵は言う。
 「われ諸国を遍歴し、世味にふれてかんがみるに財
(ざい)(とぼ)しくては業をなす事あたわず。ここを以て、倹約をもっぱらとし財を貯(たくわ)うべきこと肝要なり」と。

 実用主義に徹すれば、実際には金銭に不自由することはない。一方、金に不自由する人間の多くは、恋愛を一種の空想で捉え、その中で相手への思いを入れ揚げ、結局、相手を等身大以上に判断してしまうと言う愚を犯す。こうなれば現実に則した判断が出来なくなり、空想だけが先走りし、相手を世界一の、自分に向けられた「掛け替えのない人間」として判断してしまう。これこそが、そもそもの恋愛と言う判断の誤りである。

 その点、武蔵の実用主義は的を得ていた。その為に武蔵は、一生涯、金に対して不自由する人ではなかった。
 兵法を知り、武技を知ると言うことは、実は経済的にも明るいと言うことであった。
 そもそも「いくさ」とは、軍資金なしでは、戦えるものでない。戦いの優劣は、軍資金の潤沢
(じゅんたく)さで決定される。しかし、昨今はこうした潤沢な資金で戦いをすると言う思想に欠けた者が多くなった。行き当たりばったりで、貧しくとも、稽古を積めば強くなれ、そのうち勝機が廻って来て、勝者になることができると、愚かにも考えている青少年が少なくない。

 ところが、こうした貧弱な資金力では、決して「いくさ」には勝てないし、個人闘技を戦ったところで、稽古量だけではどうしようもない事がある。つまり、ハングリーでは戦いに勝つ勝率が実に低いのである。そしてこのことを知らない者が実に多い。
 恋愛もこれと同じで、恋の夢が儚
(はかな)くついえるのは、実際に現実を知らない為である。また、実用主義に徹していない為である。

 その点、武蔵は違った。
 武蔵は自分の住まいに、銭を入れた幾つもの袋を鴨居
(かもい)に吊るしておいて、遠国へ旅立つ者が遣ってくると、「まず、道中で先立つものはこれであろう」と、鴨居に吊るした一つの袋を竿で下ろし、旅立つ者へ餞別(せんべつ)代わりにそれを与えたと言う。

 一般に知られている武蔵像は、ただ剣一つを携
(たずさ)えて、諸国を遍歴して廻って試合をし、ただ百練百勝をを繰り返した剣豪だと思われているが、実際には「金銭の大事さ」を知る人であり、人生に於て、金銭と言うものが如何に大きな働きをするか、知っていた「人生道の達人」とも言えるのである。
 金銭の働きが如何に大きいか、武蔵は身を持って知っていたのである。

武蔵作『唐草模様鐔』

 世間一般が考える、孤高の剣客ではなかったのである。むしろ人生を知り尽くした達人と言えよう。したがって、武蔵の考える恋愛観も、そこには凄(すさ)まじいものがあり、これこそが人生の達人の生き態(ざま)に託された真理であと言えるだろう。

 武蔵は、生涯、沐浴などの風呂に入らず、妻も持たずということは知られているが、故意に女色を遠ざけたわけではなかった。実際には、郭
(くるわ)の遊女とねんごろになったり、戦い前には遊女と前日を過ごし、そこから出陣したと言う記録も残っている。
 但し、武蔵の言う「恋をせば」の道歌は、遊女を対象に認
(したた)められたものではない。あくまでも純粋な恋愛観からである。

 また武蔵の『兵法三十五箇条』と併せて、十九箇条からなる『独行道』というのがあるが、これは自らを戒める戒律のようなものであった。

 一、神仏を尊び神仏を頼まず
 一、身に楽をたくまず
 一、何の道にも別れを悲しまず
 一、恋慕の思い無し
 一、居宅に望みなし
 一、老後財宝所領に心なし
  

 以上は武蔵自身の、戒律の文であるが、これだけに己に厳しく、如何に人生道を全うするかと言うことを真剣に取り組んだ人物でもあったと言えるであろう。
 この事を推
(お)し量ると、武蔵は単に禁欲生活を実践した人物であるというより、「自制」において、誤ちを犯さなかった人物であると言った方が正しいだろう。したがって、武蔵が禁欲的な人生を歩いたとするのは誤りである。

 むしろ積極的に遊女と語らい、あるいは接して大らかな交渉を持ち、世間味に触れ、人生の機微を知り、あるいは一方で「金の恐ろしさ」を知り、それ故に、「恋をしたら金を貯
(た)めよ」と教えたと考えるのが順当だろう。また、それだけに一層、武蔵の恋愛観は意義深いものになる。そして、その奥深さが、「恋をせば」によく顕われているのである。



●西欧風恋愛術では「忍ぶ恋」は貫かれない

 昨今はアメリカ風の恋愛術が巷(ちまた)に氾濫(はんらん)し、恋を打ち明け告白し、要求して、ラブホテルなどに強引に連れ込んで奪い取るという、三段構造の求愛が展開されている。
 押し一手のエネルギーを、外へ外へと発散させ、それを拡散して行き、一旦獲得したら、馴
(な)れ馴れしくなって、やがて瑞々(みずみず)しさを失う。

 そしてお互いの男女が辟易
(へきえき)し、いたわりが無くなり、墜落する危険性を持っている。更に、倦怠感に陥ってしまうという欠点を持っている。
 その背後には「狎
(な)れ」が隠れているからだ。狎れはやがて「飽き」を伴って、まるで進行ガンのように全肉体を蝕み、総てを亡ぼしてしまうものなのである。
 これが昨今の、恋愛術が畸形
(きけい)した夫婦の離婚現象の実態ではあるまいか。

 アメリカでは現在、急速に離婚率が高くなっているという。日本もその後を追いかけている。そうした現象は求愛と発散によって、拡散されたエネルギーが、本来の中心軸からズレてしまったことを物語ったものであり、中心にあるべきものが、中心にないという事であろう。
 あるべき筈
(はず)ものがいつしか見えなくなって見失い、中心から遠のいた拡散・膨張に、その原因があるのではないかと思っている。最初の出逢いの中心軸が拡散によって膨張し、これが急速に新鮮さを失う原因だと考えている。

 現代人は、まさに拡散と膨張の中に、総
(すべ)てが仕組まれた縮図として組み込まれてしまっているのである。何もかも、膨張し、中心から拡散するのだ。
 何もかも膨らみ、そしてお互いが中心軸から離れようとするのだ。

 『曽根崎心中
(そねざき‐しんじゅう)』に代表される日本式恋愛術は、「忍ぶ恋」の典型である。
 これには『葉隠』の口述者・山本常朝
(つねとも)も絶賛している。これを丈(たけ)の高い恋と力説しているのだ。

 この物語の発端
(ほったん)は、それまで平凡な生活をしていた醤油屋平野屋の手代(てだい)徳兵衛と、北の新地の天満屋の遊女お初の二人が、仮初(かりそめ)の恋に落ちたことが原因だった。そして、その焔(ほのお)は炎上へと向かう。
 二人は恋の焔を灯
(とも)すことによって、その焔は巨大な火柱になって燃え上がり、一挙に悲劇のヒーローとヒロインに躍(おど)り出るのである。

 そこには恋の新鮮さがあり、鮮明さがあって、恋に生き続けた男女の結びつきが、その中心に向かってエネルギーが収縮され、やがて永遠の生命が齎
(もたら)され、それが力強く躍動(やくどう)していったのである。そして忍ぶ恋の特徴は、悲劇のヒーローとヒロインに躍り上がっていく過程の中のストーリーが、何と言っても「切ない」から人の心を打ち、惹(ひ)き付けるのである。日本人の悲恋物語に対する「哀愁」や「切なさ」は、ここに回帰されるのである。

 現在はアメリカ指導型の民主主義に代表される、奔放主義的自由恋愛が巷
(ちまた)に氾濫(はんらん)している。以前に比べれば、性愛から肉欲まで、異性を物質かしてモノにするチャンスは多くなった。
 が、同時にそれは、性愛は肉欲を、その延長上に置いているため、恋愛自体は死同然の溺愛
(できあい)の落とし穴に落ち込んでいる。そして鮮やかな新鮮さは、不透明(ふとうめい)な濁りに汚染されて、色褪(いろあ)せたものになっている。

 恋は打ち明け、「愛してます」と告白し、求愛をしたと同時に、その新鮮さは急速に失なわれ、況してこれに肉が絡めば、致命的な欠陥を抱えることになる。そして恋の生命は、やがて死んでしまうのである。

 恋は、しっとりとした若葉のような潤
(うるお)いを持っていなければ、瑞々(みずみず)しい新鮮さを保つことができない。しかし潤い過ぎると、ふやけて溺愛となり、盲目となって盲(めくら)同然になる。盲目の愚は冒すべきでない。やはり張りのある方がよい。溌溂感(はつらつかん)のある方がよい。新鮮で、活きのいいことだ。

 この世での男女は、相対的な関係にあり、一方の格が低くなれば、もう一方の格も低くなるという表裏一体の関係をなしている。それ故に、打ち明け、告白した恋は格が低く、一生打ち明けない恋は格が高いというのが、その所以
(ゆえん)である。そして、それはいっも新鮮で鮮やかな瑞々しさを失わないのである。

 『葉隠』の「忍ぶ恋」には、裡側
(うちがわ)に秘めた儘(まま)で、「打ち明けない恋」にこそ、新鮮で美しく、生き生きしていると断言しているのだ。
 アメリカ式恋愛術のパターンで求婚し、長年連れ添った夫婦が、いつしか倦怠感に陥り、恋の生命が衰
(おとろ)えて、消滅に向かっている現実を見ると、そこには決して、格の高さなど感じられないのである。

 恋を打ち明け、要求して、獲得するという三段構造は、急速に新鮮さを失うという欠点を持っている。
 彼らの言うLOVEの実体は、精神主義ではなく、寧
(むし)ろ肉欲主義が主体であり、男女が合体して享楽を貪ることが、その実態のようだ。また、それが情愛であると、信じて疑わないのが、昨今の風潮であるようだ。要するに愛の根拠が薄っぺらなのだ。

 少なくても今日の多くの若い男女は、戦後、デモクラシー教育の中でそう教えこまれ、この肉欲主義に陥っている傾向がある。“肉の交わり”イコール“愛”なのだ。即ち、新鮮さが急速に薄れて、新鮮な目で恋愛を捕らえる観察眼が疎
(うと)くなっている。
 そして、こうした観察眼の変わりに、肉欲眼だけが発達していて、互いの欠点だけを論い、裡
(うち)に秘めた格の高い精神面を見落としている。目につくものは表皮的なものばかりで、スタイルがいいとか、あるいはファッション感覚とか、プロポーションやスマートだとかの、人間を単に、物質化した外面的視野の表皮部分で眺(なが)めているようだ。

 また金銭や財産を、その評価に置くべく、人間の肉体そのものもを評価の対象に入れてしまっている。その人のもつ、精神性を否定して、容姿だけを評価の対象にすり替えてしまっている。
 そして昨今の肉欲眼の評価は、精神的な面は、一切相手になれないというのが現実なのではあるまいか。

 昨今は、こうした欠点に、益々拍車がかかっている。
 若者の恋愛は性愛に代わり、性愛の延長上に愛欲ならぬ、不埒
(ふらち)な性器目当ての肉欲が鎮座(ちんざ)している。欧米にかぶれて、進歩派文化人を気取る多くの「性の解放論者」は、性教育と称して人間の躰が、まるで生殖器のみで出来ているかのように力説する。

 現代は、性の生理だけが追求され、「異性の性器」だけを求めている場合が少なくなく、快楽遊戯のみを求めようとしている傾向が強い。
 異性に対し、客体物として接し、欲望の一時的享楽のための道具として扱われる傾向が強く、それはあたかも売春に類似している。
 その最も悪名高き例が、週末の過ごし方などを満載した、男女選び方を記載した「肉欲情報誌」や「エロ・スポーツ紙」である。

 上は結婚対象のブライダル情報から、下は男女斡旋の俗悪な情報まで、溢れるばかりの男女の肉欲情報を載せ、営利本位の記事と広告が、若者の恋愛問題の矛盾を押しつける。そして、自分が今何をしなければならないかも分からない無能な読者に、男女の一時の過ごし方や、疑似
(ぎじ)恋愛術を教えている。
 日本の一億総中流の恋愛不感症は、実に、ここに由来するのである。

 人間生活の構造は、『欲・触・愛・慢』の四つから構成されている。
 その中に、男女の事実をあるが儘
(まま)に認め、それを実現し体現して、その中の人とならなければならない。これが人生修行の現実である。
 それを無視して、例えば一年前、いや半年前でもいい。その結婚した女性が、その一年前もしくは、半年前の娘の魅力を持っているだろうか。

 多くは、そこに見えた、いつもながらの慣
(な)れ合いと、既に定まってしまった、彼の(男性の)人生行路に、少なからずの将来性に懸念(けねん)を抱き、倦怠期の前哨戦(ぜんしょうせん)として、人間の奥底に混迷(こんめい)する擾乱(じょうらん)を演じようとしているのではあるまいか。

 つまり慣れと疲れとで、崩れてしまっているのだ。
 その結果、不倫に走り、逢引
(あいびき)の約束に一時(ひととき)の慰安を覚え、期待と翹望(ぎょうぼう)を侍(じ)して、快楽遊戯(かいらく‐ゆうぎ)の肉感に侵食されている。そこに魂的な愚を冒している世俗的な疑惑が見隠れするのである。
 涜神
(とくしん)の恐ろしい歓びを、一種の官能(かんのう)に摺(す)り変える疑似(ぎじ)への幸福感。そして一時の快楽遊技を目的にした慰安への逃避。
 これが、“自由”の名の下
(もと)に、押し進められてきた色欲の実態ではなかったか。そして人々を惑わす自由主義を、更に公正化した詭弁(きべん)ではなかったか。

 白痴的に汚染を受け続ける、われわれ日本人は、陰
(かげ)の仕掛人からあらゆる洗脳を強いられている。その罪悪や背徳や無智は、まさにアメリカ式恋愛術のパターンの代表的なもの、と言ってもよいのではなかろうか。

 そしてどこまでも、アメリカナイズすることを誰もが善しとしている。
 果たして、この見据えた先に、魂が安住
(あんじゅう)する境地は控えているのだろうか。
 そんな疑いを持ちながら、私は今ひとまず、安住の棲家
(すみか)にいた。悪い言い方をすれば、人知れぬ、隠微(いんび)な喜びに浸り切っていたのである。
 そして私の恋は、自分の中に無いものの、その無いもの強請
(ねだ)りだったのかも知れない。



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